メインカテゴリーを選択しなおす
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十六
陳無宇の死後、息子の田開が、田氏の宗主を継承した。 この頃には、既に、陳氏ではなく、明確に田氏を称している。 紀元前516年、斉は、魯の昭公を母国に送り込も…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役5唐朝の落日朱温は幼くして父に死にわかれ、母や二人の兄といっしょに、ある地主の家に住みこみで働いていた。やがて二十歳をこしたころ、すぐ上の兄とその家をとびだし、黄巣の軍に加わる。兄は広州攻撃のとき戦死したが、朱温はしだいに頭角をあらわし、いつのまにか指導者の一人にのしあがった。朱温は貧民の意識というより、うだつのあがらない生活からぬけだすため、反乱に加わったのである。いわば出世を反乱にかけていたといってよい。この朱温が、中和二年(八八二)、唐朝にくだった。僖宗は大いによろこんで、これに全忠という名をたまわった。よって、これから朱全忠ととなえる。いまや朱全忠は、反乱を打倒するための一方の大将とされ、翌年には汴(べん)州(開封)の節度使に任ぜ...6-1-5唐朝の落日
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役4黄巣の栄光反乱はおこったが、彼らは一ヵ所にとどまって拠点をつくることはしなかった。ゆくてに立ちはだかる節度使(せつどし)の軍をうちやぶり、あるいはその間隙(かんげき)をぬって、おどろくほど広い範囲をかけめぐった。北は黄河から、南は広州にまでおよぶ地域で、四川(しせん)を除いて、ほとんど中国の全域にわたっていた。とくに黄河と長江(揚子江)にはさまれた地域では、はげしく流動し、主な地域を一度通過したばかりではない。おなじ都市をいくどか通ったこともあって、その足跡を地図にたどると、まるで蜘蛛(くも)の巣のようになる。この地域は、そのころ経済的にもっとも発達して、農民の階層分化がいちじるしかった。しかも飢饉がつづいたので、それだけ群盗がたくさん...6-1-4黄巣の栄光
中国の歴史 唐による東アジア世界の確立 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
隋が369年ぶりに中国統一をするが、2代で滅亡し、版図を広げて東アジアに君臨した唐王朝。 その唐について、「王
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役2塩の闇商人黄巣(こうそう)はわかいころから、塩を各地に売りあるいて財産をつくりあげた。その人となりは、任侠(にんきょう=弱きをたすけ強きをくじく)をよろこび、武術にもはげみ、また学問も身につけていて、当時としては知識人に属していた。財産があり、知識を身につけた庶民が、世に出るため第一に目ざしたのは、やはり役人になることであった。それには、登竜門として設けられた科挙(かきょ)の試験に合格しなければならない。高級役人は、旧中国ではエリート中のエリートと考えられ、またそれにふさわしい待遇をうけて、権力をもつ存在であった。しかし唐朝では、科挙、とくにそのなかで出世街道をあゆむ進士科(しんしか)の合格者として採用するのは、年にせいぜい二~三十人に...6-1-2塩の闇商人
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十五
公子完は、禦寇の与党と見做されたため、公子完は身の危険を察知し、陳国を脱出して、斉に亡命する。 以後、母国の名を氏として、陳完と呼ばれる。 当時の斉公の桓公…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役1街頭の講談挿絵は黄巣、唐の滅亡に繋がる反乱を起こす「三七(さんひち)二十一、由の字の頭が出ず、脚は八方の地をふみしめる。果の頭には三つの屈折。」高座の上で、尹常売(いんじょうばい)という講談師が語りはじめると、聴衆はどよめいた。ときは宋代、ところは都の開封(かいほう)の盛り場のなかである。盛り場では、いつも民衆のよろこびそうな娯楽がもよおされ、たいへんなにぎわいを見せていた。そうした催しものの一つに講談があった。尹常売(いじょうばい)は、その講談のなかで歴史ものを語った。歴史といっても、古い時代の話ではない。宋代のすぐ前、五つの王朝が興亡した時代、つまり五代の話である。さて「三七、二十一、由の宇の頭が出ず、脚は八方の地を……」というのは...6-1-1唐の大乱の主役
中国の歴史 英雄たちが躍動した三国志 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
劉邦が築いた漢王朝は2世紀に入ると衰退し、三国時代・三国志へ突入する。 その三国志について、「後漢の衰退」、「
中国の歴史 中国の基礎となった漢 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
中国を統一した劉邦(高祖)が築いた漢王朝。 その漢について、「中国王朝の基礎」、「武帝による前漢の最盛期」、「
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十四
呉起は、楚において、法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、その結果、浮いた、国費で、兵を養った。 領主の権利を三代で、王に返上する法を定めて、民衆、特に…
中国の歴史 項羽と劉邦 ライバルの戦い 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
秦が滅びると、中国は再び混乱の時代へ。そんなとき、楚の名門 項羽と漢の農民 劉邦が統一を目指した。 その項羽と
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十参
文侯が、呉起を任用するか、否かを家臣の李克に下問した。 李克は、「呉起は、貪欲で、好色ですが、軍事にかけては、名将の司馬穰苴も敵いません」と答えたため、文侯…
中国の歴史 波乱に満ちた始皇帝の生涯 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
キングダムでも有名な中国を統一した秦王・政は始皇帝と呼ばれた。 その始皇帝について、「始皇帝の由来」、「始皇帝
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十弐
西門豹は、鄴を治め、その仕事ぶりは、有能で、結果を出し、僅かでも、私利を貪る事は無かった。 しかし、文侯の取り巻きから、賄賂を要求されても、厳しく断っていた…
中国の歴史 春秋戦国時代と始皇帝 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
キングダムの時代として有名な春秋戦国時代と秦の始皇帝。群雄割拠の時代から始皇帝が中国を統一するという物語が少年
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十壱
西門豹は、その後、「三老も帰ってこない。更に次いでとなると、多額の金銭を集めた、役人であろうか」と役人たちを沈めようとした。 役人達は、「その任は何卒お許し…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十
「戦国時代の幕開け」に、覇権を握ったのは、魏の文侯である。 趙無恤及び、韓虎と共に、智瑶を滅ぼした、魏駒の息子である。 魏駒は、紀元前446年に死去している…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九
紀元前403年、周の威烈王によって、趙氏・魏氏・韓氏は、正式に諸侯となった。 そして、紀元前349年に、晋公室の僅かな領土は、趙・韓の連合軍が、分割し、静公…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八
韓氏の当主、韓不信は、中行寅と不仲であった。 魏氏の当主、魏侈は、士吉射と不仲で、智躒は、韓不信、魏侈と共に定公を奉じて、中行寅と士吉射を攻めた。 中行寅と…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七
羊舌肸は、卿ではなかったが、平公の側近として、卿の相談役として、晋の政治に対して、絶大な影響を与えた。 羊舌氏は、姫姓であるため、晋の公族であるが、どの晋公…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六
晋の悼公が、太子彪(後の平公)の元服後、台上に昇り、国都の絳城内・城下を見下ろし、「楽しいものだな」と言った。 側に控えていた、汝斉は、「下の眺めが、素晴ら…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五
しかし、智罃は、魯の仲孫蔑の進言を受けると鄭に近い、晋の虎牢に城を築き、威圧した。 その結果、直接、戦闘することなく、鄭を晋の傘下に収めるのに成功し、智罃は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四
しかし、士鞅と激しく、対立していた、魏侈が、智躒及び、韓不信と共に趙鞅に協力する、姿勢を取り、晋の定公を抱き込んだため、士鞅は、孤立した。 そして、士鞅は、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参
士鞅は、秦の景公の働きかけによって、程なく、晋に帰還するが、欒氏に対し、深い恨みを抱くようになる。 欒黶の妻は、士匄の娘であったが、紀元前552年、欒黶の没…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百弐
紀元前576年、鄭は、楚に領土を割譲して、和睦し、楚の盟下に置かれることになった。 晋の厲公は、元々、自分に従っていた、鄭の背信を正すために、衛・斉・魯など…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百壱
范氏は、士氏の分家で、士会が、晋の景公により、范及び、随の地に封じられたために、范氏と呼ばれるようになった。 士会は、晋の文公の祖父の武公、父の献公に仕えた…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百
紀元前476年、周の敬王が、死去すると、息子の姫仁が、王位を継承した。元王である。 紀元前473年、越王勾践が、呉を滅ぼし、北方の瑯琊に遷都した。 勾践は、…