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No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】弐百弐
武臣の三十万の軍勢は、白馬津にて、黄河を渡り、河北の諸県に着くと、地元の豪傑達に叛乱軍に味方する様に、説いて回った。 「秦の政治は乱れ、刑罰は、残虐であるた…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】弐百壱
陳勝及び、呉広は、叛乱を起こした際、民衆の支持を集めるため、陳勝は、扶蘇、呉広は、項燕を名乗った。 前述の通り、扶蘇は、秦の始皇帝の長子にして、悲劇の皇太子…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】弐百
中華の歴史は、伝説の黄帝以来、「王」の座に就くためには、高貴な血統を必要として、前述の通り、秦の始皇帝の死後、専横を振るい、二世皇帝の胡亥を殺害した、趙高で…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九十九
そして、陳勝は、兵卒達を召集して、演説を行った。 「我々は、大雨に降られため、最早、期日には間に合わない。 期日への遅れは、問答無用で、斬首である。 仮に殺…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九十八
趙高は、胡亥の死体から、玉璽を奪うと身に帯びて、秦の帝位に就こうとしたが、側近、百官は、趙高に従わなかった。 秦帝国の臣下達は、暗愚であるが、秦の王族の血脈…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九十七
紀元前207年、趙高は、丞相の地位にあった、李斯を刑死に追い込むと、自身が、後任の丞相となった。 秦の将軍の章邯は、鉅鹿の戦いにおいて、秦軍を大破した、項羽…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九十六
趙高は、閻楽、趙成に対し、「陛下は諫言を聞かず、この事態の急変の責任を我々一族に負わせようとしている。 私は、皇帝を替え、後継に公子である、子嬰を立てたい。…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九十五
紀元前207年、趙高は、丞相の地位にあった、李斯を刑死に追い込むと、自身が、後任の丞相となった。 秦の将軍の章邯は、鉅鹿の戦いにおいて、秦軍を大破した、項羽…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九十四
胡亥は、趙高から、「陛下は、若くして、皇帝に即位されたばかりであるために、陛下に過ちがあれば、群臣達に短所を示すことになります。 天子が『朕』と称するのは、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九十参
紀元前209年、中国史の運命を決定した、中国史上初の農民の大叛乱、陳勝・呉広の乱が、発生した。 以降は、秦軍側と叛乱軍側の二つの立場からの見方があるために、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九十弐
胡亥は、法令の作成の職務を趙高に依頼しており、ある時、「大臣は、私に服しておらず、官吏は、なお力を持っている。 諸々の公子は、必ず、私と争う気でいる。どうす…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九十壱
子嬰は、『史記』において、胡亥の兄の息子とされており、父は、扶蘇との説があるが、定説ではない。 子嬰は、胡亥に対し、「蒙恬を殺害してはいけません。 過去に趙…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九十
左丞相の李斯は、始皇帝の崩御が、天下騒乱の引き金になることを恐れて、秘したまま、巡遊の一行は、咸陽へ向かった。 始皇帝の崩御を知る者は、末子の胡亥、左丞相の…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十九
前述の通り、始皇帝は、紀元前212年、蒙恬に命じて、30万の軍勢により、北方遊牧民の匈奴を討伐させた。 匈奴征伐の一つの要因は、『録図書』の「秦を滅ぼす者は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十八
秦の始皇帝は、泰山にて、封禅の儀を行った後、山東半島を巡った。 始皇帝は、神仙思想に染まりつつあり、そこに取り入ったのが、方士と呼ばれる者達あった。 方士は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十七
始皇帝は、中華統一後に国内にある、斉・韓・魏等の長城を取り壊した。 始皇帝の時代の長城は、版築により、粘土質の土を固めて築いた、建造物であった。 高さは、馬…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十六
木材及び、石材は、遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで、掘削した陵の周囲は、銅で固められた。 その中に宮殿及び、楼観が造られた。更に水銀の流れる川が、100…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十五
始皇帝は、儒者に激怒して、咸陽中の学者を尋問し、盧生の様に人を惑わすような人間を挙げるように命令した。 そして、咸陽の460人の学者を見せしめに穴埋めにした…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十四
商鞅は、咸陽を中心に秦に41県を配置した。 郡は、秦においては、他国を併合した際にその領域を称することが多く、県を置くのは、その後であった。 そのため、秦の…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十参
他の一つは、殷の遺民を封じた、宋の様に、旧来の族集団を基本的に維持したままにして、諸侯に封じて、建国させる類型である。 周王権は、その支配領域を再編し、政治…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十弐
中華世界では、龍山文化期から、殷代にかけての社会統合の制度は、「貢献」と呼ばれる、貢納制であったとされる。 殷末から、西周期にかけて、貢納制は、更に進化し、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十壱
「従士団」とは、主君に統率された、一団の自由人男子に形成された、戦士共同体である。 古代ゲルマン人における、支配・服従の関係は、被支配者の自由人男子の隷属化…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十
「封建制」においては、諸侯達は、領有統治権の代わりに君主に対し、貢納、軍事奉仕等の臣従が、義務づけられ、領有統治権及び、臣従義務は、一般に世襲される。 「封…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十九
「中華」または、「華夏」の用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間では、「中国」と同様の自称として用いられた。 「中心の国に住む優れた文化の担い手…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十八
筆者は、「中華世界」との言葉を使用し続けたが、一般に用いられる、「中国」とは、本来、特定の国家や及び、民族を指す言葉ではない。 西周時代には、中原、または、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十七
秦王政によって、中華世界は、初めて強大な一人の権力者の支配に入った。 夏・殷・周の三代王朝は、中華世界の唯一の支配者であったが、周の建国当初の中華世界は、黄…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十六
そのため、楚の旧都の郢陳の民が動揺し、楚の公子である、昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた。 そして、前述の通り、紀元前225年、李信と蒙…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十五
紀元前226年の秦による、燕への総攻撃は、秦の将軍、王翦、王賁、李信が、指揮した。 燕王喜は、趙の亡命政権である、代国の代王嘉と同盟を結び、秦軍と戦ったが、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十四
秦舞陽は、13歳で人を殺しており、壮士として、有名であったが、荊軻は、秦舞陽のことを頼りにならないと見抜き、遠くに住む、旧友を同行者に加えようと待機していた…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十参
前述の通り、秦が、趙を滅ぼすと、燕は、秦の隣国になったため、秦は、燕に攻め寄せ、燕は、武力では、対抗できなかった。 太子丹は、軍事力ではなく、非常手段である…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十弐
趙の国都、邯鄲の陥落後、幽繆王は、顔聚と共に東陽へ逃げたが、王翦・羌瘣にその地を平定され、捕らえられた。 その後、幽繆王は、房陵に流され、趙は、遂に滅亡した…
「小学生でもわかる世界史」朝日新聞出版YouTubeで非常に有名な「ぴよぴーよ速報」がとうとう本になりました。世界史を異様に軽妙な語り口かつ、ナメたような調子…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十壱
紀元前231年、韓王安は、秦に南陽の地を割譲した。 紀元前230年、秦王政は、内史騰を大将とし、10万の軍勢により、韓を攻めた。 韓王安は、捕虜となり、韓は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十
秦王政は、新政の開始時、李斯や及び、尉繚等の協力の許、「諸侯を滅ぼして、帝となり、天下を統一する」との策略を立てた。 具体的な措施として、遠国の燕及び、斉は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十九
『韓非子』の作者、韓非の出自は、韓の公子であり、後に秦の宰相となった、李斯と共に荀子に学んだとされるが、別説がある。 韓非は、生まれつき、重度の吃音であり、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十八
紀元前238年、公子顛は、人質であったが、秦王政に仕え、前述の通り、嫪毐が背くと、甥の昌平君と共に叛乱を鎮圧した。 その功績によって、秦王政から、昌文君に封…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十七
私は、血脈を鋭い鍼で刺し、劇薬を投じ、皮膚を裂きました。 そのため、しばらくして、諸侯に名声が聞こえ出たのでございます』。 文侯は、『そうか。病が大きく、露…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十六
小国の殷、周、呉の勝利こそ、孫子の『戦わずして勝つは、善の善なる者なり』であり、また、道家思想に言う、『陰経の法・夜行の道・天武の類』です。 現在、百万の屍…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十五
秦と五カ国の合従軍との函谷関の戦いの際、趙軍を率いていたのは、老将の龐煖であった。 龐煖は、若い頃、楚の深い山奥で、道家の隠者、鶡冠子(かつかんし)、即ち、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十四
秦王政の親政開始頃、趙には、戦国四大名将の一人、李牧がいた。 李牧は、元々は、趙の北方の代郡・雁門郡に駐屯する、国境軍の長官であった。 李牧は、国境防衛のた…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十参
呂不韋は、「仲父」と呼ばれる程の権威を得ると、多くの食客を養い、紀元前239年には、『呂氏春秋』の編纂を完了した。 『呂氏春秋』は、十二紀・八覧・六論から構…
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年15イスラムとインド5ムガルの栄光一五二六年、カーブルの小国の王であったバーブルは、パーニーパットの戦いで、デリーのローディー朝の軍を破り、ムガル帝国の基礎をきずいた。この帝国の三百数十年にわたる支配の期間に、十七人の皇帝が王座にすわった。最後の皇帝バハーズル・シャーは、十九世紀なかばの「セポイの反乱」の結果、ビルマのラングーンに流され、異国に獄死した。この悲劇の大物のほか、一般の人たちにもよく知られている人物といえば、はじめの六人の皇帝だけにすぎない。ムガルの初期から中期にかけての六人の皇帝は、それぞれインド史上では、名のとおった人物となっている。この六人の帝王の、およそ百八十年にわたる治世の間に、ムガルの勢力は、帝国の体制を完成し、その支配も北インド...8ー15ー5ムガルの栄光
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十弐
紀元前247年、荘襄王が、死去すると、荘襄王と趙姫の息子で、十三歳の政が、秦の王位を継承した。 曽祖父の昭襄王の死は、紀元前251年であるため、秦王政は、曽…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十壱
兵士の一人、李同が、平原君に「貴方にとって、趙の窮状は、他人事ですか」と聞いた。 平原君は「そんなことは無い。趙が滅びれば、私も滅ぶ」と言ったが、李同は、「…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十
斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君を「戦国の四君」と呼ぶ。 前述の通り、孟嘗君は、斉の公族の田文、平原君は、趙の公子の趙勝、信陵君は、魏の王子の…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十九
当初、信陵君は、5城を受け取ろうとしたが、食客に諭され、以後、固辞した。 信陵君は、趙に滞在中、博徒の間に隠れていた、毛公と味噌屋に身を隠していた、薛公に対…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十七
宴席の客達は、侯嬴の言葉の意味が、全く訳が解らなかったため、信陵君をどうでもいい用事で待たせる、失礼な爺だと、侯嬴を蔑す、一方で、嫌な顔をせず、待っていた、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十七
紀元前250年、孝文王の死後に、太子の子楚が、荘襄王として即位した。 遂に、呂不韋の「奇貨居くべし」が、実を結ぶと、呂不韋は、秦の丞相となった。 荘襄王の義…
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年13清朝の権力と富の行方5王宮の襲撃白蓮の動乱は、十年にしてようやく鎮定をみた。しかし嘉慶帝の親政による弊政の克服は、もはや至難の業(わざ)であった。克服とはいえ、官僚国家の体制が持続されるかぎり、抜本的ではありえたかった。「和珅が弾劾されて、嘉慶は満腹する」との巷間の言は、これを裏書きする。中間地帯から西辺にかけての教乱とはいえ、治政の間隙におこった白蓮の動乱は、中国本土における動乱である。その鎮定に十手を要したことは、社会に不安と動揺をたかめた。くわえて弊政の克服も、短い年月では不可能に近い。動乱の気運は各地におこり、また爆発した。五省にわたった白蓮教軍の動乱は、平定された。しかし、それはあくまでも起乱に参加した者の武力反抗が、ひとまず終結しただけの...8-13-5王宮の襲撃
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十六
しかし、范雎は、重病と称したため、昭襄王は、やむを得ず、范雎を宰相から、免じた。 紀元前251年、昭襄王は、七十五歳で、死去した。 昭襄王の在位期間は、五十…