メインカテゴリーを選択しなおす
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村1都市のすがた中国では、首部はもちろん、だいたい県庁の所在地ほどの都市になると、周囲に城壁をめぐらし、町をすっぽりつつんでいた。わが平城京や平安京の全体が、城壁にかこまれていたと考えればよいであろう。そして大きな都市ともなれば、城壁が二重、ときには三重にもなっていた。城壁の規模もまことに大きい。後周の世宗(柴栄=さいえい)が全中国の中心にしたいとの願いをこめてつくった開封(かいほう)の都は、いちばん外側の城壁の周囲は二○キロあまり、唐の長安城のほぼ三倍の規模であった。五代十国王朝のひとつ、呉越国の都の杭州では、城壁がさらにひとまわり大きく、三〇キロちかくもあった。城壁の高さは二五メートルほどで、溥(かわら)を積みあげてつくった。城壁の上には女...6-7-1都市と農村
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十
孫臏は、若い頃、龐涓と共に兵法を学び、龐涓は、魏に仕官し、恵王の元で将軍になった。 しかし、龐涓は、自分が、孫臏に及ばないことを感じていたために、偽って、孫…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争5党争の展開王安石は、江南の出身であった。このころになると、江南出身の文官が、華北の出身者を圧倒するほどに多くなっていた。ところが王安石の新法に反対する者のなかに、華北出身の長老がいた。司馬光や、韓琦などである。新法に反対したので、旧法党とよばれた。新法のひとつに、方田均税法というのがあった。地主層と一般農民との賦税の負担を公平にしようとするねらいで、おもに華北に実施された。こうしたところから、新法党と旧法党の争いには、出身地のちがいによる利害がからみあっていたと見られよう、それでなくとも、官戸はもちろん、大地主や大商人などの富岳層にとって、新法は自分たちの富の集中をおざえるものであった。文官たちも、もとをただせば大地主の出であり、大商人とは...6-5-5党争の展開
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争4新法の実施ある宴に、ふたりの客が招かれた。司馬光(しばこう)と王安石である。ふたりとも酒をたしなまなかった。宴がはじまると、主人はしきりに酒をすすめる。やむをえず司馬光は一杯だけ、さかずぎをとった。しかし王安石は、ついに一滴も口にしなかった。王安石は、そういう男であった。おのれを堅持し妥協をゆるさない性格であった。そこを皇帝(神宗)から認められた。十一世紀の後半になると、宋朝の財政はしだいに苦しいものとなっていた。仁宗のときに、西夏とあらそったときも、財政に大きくひびいた。つぎの英宗のときになると、歳出が歳入を大きく上まわった。おまけに遼や西夏に対しては、銀や絹など多額の物資を、毎年おくらねばならない。財政の赤字は、いよいよ大きくなるばかり...6-5-4新法の実施
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十九
この謎かけの後、田困斉は、即墨の大夫を呼び出し、「毎日の様にそなたを非難する声が、我の所に届いているので、本当か、否か、人を遣わし、視察させたが、田畑はよく…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争2澶淵(せんえん)の盟約十一世紀のはじめ、宋では三代目の真宗が立っていた。契丹は、すでに国号を「遼(りょう)」とあらため、いよいよ勢いはさかんであったが、おりから六代目の聖宗が立っていた。北漢がほろんだのち、宋と遼とは、全面的に国境を接し、その関係はいちだんと緊迫の度をくわえていた。遼の聖宗が、大挙して南下し、宋の領内に攻めこんできたのは、一〇〇四年(景徳元年)のことであった。それまでは、軽騎兵をはなって、偵察をつづけていたのである。ときに聖宗は三十七歳であり、宋の真宗は三十四歳であった。遼の大軍いたる。この報が都の汴(べん)京(開封)につたわると、真宗はあわてふためいた。群臣も同様であった。なかには、都を長江南岸の金陵(きんりょう=今の南京...6-5-2澶淵の盟約
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年4宋朝の創業4科挙と官戸科挙は、三年に一度行われる。ただし、その合格者の数は、きわめてすくなかった。もっとも合格者の多い進士科にしても、太祖のときは、年に平均して九人にすぎない。太宗の代になって、ようやく五十人にふえ、つぎの真宗のとき七十八人となった。科挙の黄金時代といわれる四代目の仁宗のときでさえ百十三人にすぎない。太宗の即位した年(九七六)、解試に合格して都にあつまってきた受験者は、五千三百余人あった。べつの年には一万七干三百人もいたこともあった。このなかから、ひとにぎりの合格者をえらぶのである。競争は激烈であった。なかにはいくども受験して失敗し、七十歳をこしてようやく合格した者さえいた。試験の内容は、詩賦(しふ)をつくる能力や、儒学(じゅがく)の高...6-4-4科挙と官戸
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年4宋朝の創業3皇帝の官僚宋の太祖と太宗は、文官をおもく用いて、武人の権力をちぢめ、集権の体制をつくりあげていった。節度使にして、病死したり、老齢になったりして、欠員ができた場合には、できるかぎり文官を後任にあてた。また知州(ちしゅう=州の長官)にしても、同じであった。こうして藩鎮が解体するころ(九七七)には、じつは節度使などの座に文官が大幅に進出していたのである。いまや文官は、まさしく国家権力の担い手になった。しかも太祖は晩年におよんで、科挙(かきょ)の制度に改革をくわえている。科挙こそは、隋代にはじめられて以来、文官となる資格をうるためには、まず突破すべきものであった。これまで科挙といえば、ふたつの関門があった。地方の州で行われる解試と、首都で行われる...6-4-3皇帝の官僚
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十八
田恒は、斉国中の女子で、身長七尺以上ある者を自身らの後宮に入れ、その宮女は、百を数えた。 しかし、賓客及び、舎人達が、後宮に出入りすることを禁止しなかった。…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年3乱世の皇帝5統一への夢中国の仏教史の上で「三武一宗の法難」とよばれる弾圧がある。武の字のつく三人の皇帝と、それから後周の世宗がおこなった弾圧を、さしたものである。世宗の改革は、仏教界にものびていった。世宗のねらいの一つは、憎尼たちを還俗(げんぞく)させて、一般の俗人なみにすることであった。そもそも僧尼は国家で公認された証(あかし)として、「度牒(どちょう)」というものを持っていなければならない。僧尼になると、納税や労役などの負担をまぬがれることができるからである。ところが特権のあることに目をつけて国の公認もうけずに出家する、もぐりの僧尼もたくさんいた。なかには犯罪人などもいて、寺院は一種の治外法権の場でさえもあった。もう一つのねらいは、銅をもとめようと...6-3-5統一への夢
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十七
その結果、田穰苴は、全軍に信頼されて、病人までが、出陣したいと願い出た。 田穰苴の一連の出来事を聞いた、晋・燕の軍は、撤退しはじめ、田穰苴はこれを追撃し、失…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年3乱世の皇帝1契丹の華北支配契丹(きったん)の太宗は、中国の北辺一帯の地、いわゆる燕雲(えんうん)十六州を手にいれたとき、大いによろこんで、その母后にかたったという。「わたしは近ごろ、石郎(せきろう)がかならず使いをよこすことを夢みました。いま、まさにそのとおりになりました。」石郎というのは、後晋(こうしん)の高祖たる石敬塘(せきけいとう)のことである。石敬塘は、みずから皇帝になろうとして、契丹のたすけをもとめ、燕雲十六州をさざげたのであった。おまけに石敬将は、まことに卑屈な態度をとって、契丹の皇帝には「臣」と袮し、父の礼をもって仕えるにいたった。契丹は石敬塘のことを「児皇帝(じこうてい)」とよんでいるが、「石郎」という表現にも、おなじような意味がこめら...6-3-1乱世の皇帝
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年2武人の天下1分裂の時代朱合忠が唐の天下をうばって「後梁」を建国したころ、各地にいた節度使のうちで強大なものは、それぞれ自立の道をあゆんでいた。節度使の数はたくさんあったが、強いものは弱いものをほろぼしたり、あるいは服従させたりして、その支配する領域をひろげていたのである。だから節度使のなかには、主君となったものもいれば、その家臣となったものもいた。朱全忠にしてもそうしたものの一つにすぎなかった。さて朱全忠が皇帝を称すると、各地の強大な節度使は、これに臣従しようとはしない。各々独立の政権をつくりあげた。汴(べん)州(開封)に都をおいた朱全忠の支配も、せいぜい黄河の中流から下流域までにしか及ばない。領域をひろげようとして、隣接する独立の政権とたたかっては敗...6-2-1五代十国
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年2武人の天下3節度使の力皇帝や王を袮した者にしても、一般の節度使にしても、何よりも求めなければならなかったものは、兵力であった。募兵だけでは、まにあわない場合も出てくる。唐代の中期に、民衆の抵抗によって廃止されたはずの徴兵が、ふたたび実施されたりもした。いまの北京にあたる幽(ゆう)州を中心に、勢力をふるったのが、劉仁恭である。そこでは領内の十五歳から七十歳までの男子すべてを徴兵し、そのため村には男子の姿はみられなくなった、と記録ざれている。そのうえ徴兵した二十万人の兵士に強制して、「定覇都(ていはと)」という三字を顔に入墨(いれずみ)した。定覇都とは、羂権を決定づける部隊ということである。入墨したのは、逃亡をふせぎ、たとえ逃亡してもすぐ見つけだせるためで...6-2-3節度使の力
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十六
陳無宇の死後、息子の田開が、田氏の宗主を継承した。 この頃には、既に、陳氏ではなく、明確に田氏を称している。 紀元前516年、斉は、魯の昭公を母国に送り込も…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役5唐朝の落日朱温は幼くして父に死にわかれ、母や二人の兄といっしょに、ある地主の家に住みこみで働いていた。やがて二十歳をこしたころ、すぐ上の兄とその家をとびだし、黄巣の軍に加わる。兄は広州攻撃のとき戦死したが、朱温はしだいに頭角をあらわし、いつのまにか指導者の一人にのしあがった。朱温は貧民の意識というより、うだつのあがらない生活からぬけだすため、反乱に加わったのである。いわば出世を反乱にかけていたといってよい。この朱温が、中和二年(八八二)、唐朝にくだった。僖宗は大いによろこんで、これに全忠という名をたまわった。よって、これから朱全忠ととなえる。いまや朱全忠は、反乱を打倒するための一方の大将とされ、翌年には汴(べん)州(開封)の節度使に任ぜ...6-1-5唐朝の落日
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役4黄巣の栄光反乱はおこったが、彼らは一ヵ所にとどまって拠点をつくることはしなかった。ゆくてに立ちはだかる節度使(せつどし)の軍をうちやぶり、あるいはその間隙(かんげき)をぬって、おどろくほど広い範囲をかけめぐった。北は黄河から、南は広州にまでおよぶ地域で、四川(しせん)を除いて、ほとんど中国の全域にわたっていた。とくに黄河と長江(揚子江)にはさまれた地域では、はげしく流動し、主な地域を一度通過したばかりではない。おなじ都市をいくどか通ったこともあって、その足跡を地図にたどると、まるで蜘蛛(くも)の巣のようになる。この地域は、そのころ経済的にもっとも発達して、農民の階層分化がいちじるしかった。しかも飢饉がつづいたので、それだけ群盗がたくさん...6-1-4黄巣の栄光
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役3大乱おこる黄河は英語の「r」の筆記体の形「」で、三度ほどするどくまがり、西から東へと流れている。その最後にまがるところの南には、潼関(どうかん)や函谷関(かんこくせき)があった。これは唐の都の長安のまもりとされていたところである。そこから東の地方は「関東」とよばれた。黄巣や王仙芝の生まれ故郷も、闇塩を売りさばいたところも、この関東の地であった。これまで山谷を流れてきた黄河は、この地点をすぎて、しばらくすると華北の大平野にはいって、急に流れがゆるやかになる。そのため二年に一度といわれるほど、昔から決壊(けっかい)と氾濫(はんらん)をくりかえしてきた。唐朝十八代目の皇帝たる僖宗(きそう)が、わずか十二歳で即位した(八七三)ころも、そうであっ...6-1-3大乱おこる
紅巾の乱とは?背景から経過までを簡単に<1351-1366年>【中国史】
13世紀のユーラシア大陸はモンゴル帝国がその存在感を放っていた時代でしたが、14世紀に入ると天災が続き、各地で政治的に大
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役2塩の闇商人黄巣(こうそう)はわかいころから、塩を各地に売りあるいて財産をつくりあげた。その人となりは、任侠(にんきょう=弱きをたすけ強きをくじく)をよろこび、武術にもはげみ、また学問も身につけていて、当時としては知識人に属していた。財産があり、知識を身につけた庶民が、世に出るため第一に目ざしたのは、やはり役人になることであった。それには、登竜門として設けられた科挙(かきょ)の試験に合格しなければならない。高級役人は、旧中国ではエリート中のエリートと考えられ、またそれにふさわしい待遇をうけて、権力をもつ存在であった。しかし唐朝では、科挙、とくにそのなかで出世街道をあゆむ進士科(しんしか)の合格者として採用するのは、年にせいぜい二~三十人に...6-1-2塩の闇商人
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十五
公子完は、禦寇の与党と見做されたため、公子完は身の危険を察知し、陳国を脱出して、斉に亡命する。 以後、母国の名を氏として、陳完と呼ばれる。 当時の斉公の桓公…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役1街頭の講談挿絵は黄巣、唐の滅亡に繋がる反乱を起こす「三七(さんひち)二十一、由の字の頭が出ず、脚は八方の地をふみしめる。果の頭には三つの屈折。」高座の上で、尹常売(いんじょうばい)という講談師が語りはじめると、聴衆はどよめいた。ときは宋代、ところは都の開封(かいほう)の盛り場のなかである。盛り場では、いつも民衆のよろこびそうな娯楽がもよおされ、たいへんなにぎわいを見せていた。そうした催しものの一つに講談があった。尹常売(いじょうばい)は、その講談のなかで歴史ものを語った。歴史といっても、古い時代の話ではない。宋代のすぐ前、五つの王朝が興亡した時代、つまり五代の話である。さて「三七、二十一、由の宇の頭が出ず、脚は八方の地を……」というのは...6-1-1唐の大乱の主役
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十四
呉起は、楚において、法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、その結果、浮いた、国費で、兵を養った。 領主の権利を三代で、王に返上する法を定めて、民衆、特に…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十参
文侯が、呉起を任用するか、否かを家臣の李克に下問した。 李克は、「呉起は、貪欲で、好色ですが、軍事にかけては、名将の司馬穰苴も敵いません」と答えたため、文侯…
【中国と東部ユーラシアの歴史】通信指導を提出しました。刀の持ち方に文化の違いを感じる
中国と東部ユーラシアの歴史の通信指導を提出しました1問間違いましたあとは中国語Ⅰの提出が残っています。近々提出したいけど、まだ6回目までしか終わってないので、…
通信指導提出が明日から始まるので、2ヶ月ぶりに中国と東部ユーラシアの歴史の復習を……まあ、がっつりと忘れていましたテキストを流し読みしながら問題を解きました今…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十弐
西門豹は、鄴を治め、その仕事ぶりは、有能で、結果を出し、僅かでも、私利を貪る事は無かった。 しかし、文侯の取り巻きから、賄賂を要求されても、厳しく断っていた…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十壱
西門豹は、その後、「三老も帰ってこない。更に次いでとなると、多額の金銭を集めた、役人であろうか」と役人たちを沈めようとした。 役人達は、「その任は何卒お許し…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十
「戦国時代の幕開け」に、覇権を握ったのは、魏の文侯である。 趙無恤及び、韓虎と共に、智瑶を滅ぼした、魏駒の息子である。 魏駒は、紀元前446年に死去している…
今日は4月18日。前回のキングダム67巻発売から3か月。 tenkinzumadabe.hatenablog.com 首をながーくながーくして待っておりました。 じゃんっ!!! キングダム68巻ー♪♪♪ やったー!!!(^^)♪ 仕事終わりに歩いてコンビニへ。そして、掃除機をかけて・・・ 先に夜ご飯支度をして・・・ 夜ご飯を食べて・・・ やっとこさ読破!!! またまたいいところで終わるんだから・・・(> 単行本派にとってはしんどい状況ですな(笑) 次はまた3か月後かな。でもあと3か月とちょっとしたら、新しい映画が公開されますね☆ うーん楽しみです。 キングダム熱が冷めないな(笑) キングダム …
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百九
紀元前403年、周の威烈王によって、趙氏・魏氏・韓氏は、正式に諸侯となった。 そして、紀元前349年に、晋公室の僅かな領土は、趙・韓の連合軍が、分割し、静公…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八
韓氏の当主、韓不信は、中行寅と不仲であった。 魏氏の当主、魏侈は、士吉射と不仲で、智躒は、韓不信、魏侈と共に定公を奉じて、中行寅と士吉射を攻めた。 中行寅と…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七
羊舌肸は、卿ではなかったが、平公の側近として、卿の相談役として、晋の政治に対して、絶大な影響を与えた。 羊舌氏は、姫姓であるため、晋の公族であるが、どの晋公…
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年18藩鎮と宦官2両税法の施行安史の乱は唐朝に大きな打撃をあたえ、律令制を施行することも困難になった。戸籍や計帳がみだれて、均田制を実行することができなくなったのである。それにともなって荘園(私有地)が発達していった。荘園では、佃戸(でんこ)とか佃客(でんかく)とかよばれる小作人が農耕にしたがう。生活の苦しくなった農民は、つぎつぎに荘園へながれこんだ。このような形勢では、もはや租庸調のような税役も課すことはできない。租庸調の制度は、土地の所有の額をとわず、一率に丁男(成年男子)から同額を徴収するものであった。しかし逃戸がふえて、政府がはっきり丁男をつかむことができなくなると、租庸調もおこなわれなくなる。いまや抜本的な改革が必要となった。かねてから唐朝では、...4-18-2両税法の施行
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年18藩鎮と宦官3牛李(ぎゅうり)の党争こうしたときに政府のなかでは、深刻な争いがつづいていた。牛李の党争とよばれ、憲宗の世(九世紀のはじめ)から、およそ四十年にわたって争われたのである。牛とは牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)をさし、李とは李徳裕(りとくゆう)のことをさす、といわれてきた。牛僧孺は隋の高官であった牛弘の子孫で、そののちは、祖父も父も大官になっていない。僧孺は進士に及第したうえ、賢良方正科という特別の科挙にも合格し、穆(ぼく)宗の長慶三年(八二三)、宰相に列せられた。李徳裕の父は憲宗のときの宰相であった。徳裕は小さいときから学問にはげみ、古典に精通したが、科挙をうけず、仕官しようともしなかった。それでも父が宰相であったために、穆宗(ぼくそう)が即位す...4-18-3牛李の党争
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六
晋の悼公が、太子彪(後の平公)の元服後、台上に昇り、国都の絳城内・城下を見下ろし、「楽しいものだな」と言った。 側に控えていた、汝斉は、「下の眺めが、素晴ら…
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年18藩鎮(はんちん)と宦官(かんがん)1はびこる藩鎮安史の乱ののち、節度使は内地にも多く列置され、軍政だけでなく、民政や財政もつかさどった。いまや強力な節度使が管轄する地方では、中央政府の威令もおこなわれなくなった。こうした節度使を、ふつう藩鎮とよんでいるが、その数は四十から五十にものぼった。これらの藩鎖のうち、もっとも横暴をきわめたのは、いまの河北省にあった盧竜(ろりょう)・魏博(ぎはく)・成徳(せいとく)の三節度使である。「河北三鎮」とよばれた。安史の乱の末期にあたって、この反乱を唐朝はなかなか討滅できない。ようやく河北三鎮の力によって、どうにか乱を鎮定したのであった。これより三鎮の力は、いよいよ強大となっていった。藩鎮は、強大なる武力を背景にした軍...4-18-1藩鎮と宦官
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年17トルコ帝国3西域をめぐって突厥にかわってモンゴル高原の主となったのは、おなじトルコ人のウイグル族であった。中国人はウイグルのことを「回訖(かいきつ)」あるいは「回鶻(かいこく)」と記した。たまたま唐では、玄宗の天宝年間にあたっている。かの楊貴妃が、玄宗の寵愛をえた時期であった。このころ唐の帝国は、西方において大きな遠征を、いくたびもおこなっている。その主役をつとめたのが、高句麗人の将軍たる高仙芝(こうせんし)であった。チベットにあった吐蕃(とばん)国が、西域の地をねらっていた。吐蕃はパミール高原に進出し、北インドの国(小勃律王国)とむすんで、唐とパミール以西との交通を遮断した。玄宗は、たびたび遠征の軍をつかねしたが、成功しない。そこで起用されたのが、...4-17-3西域をめぐって
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年17トルコ帝国4トルキスタンの成立ウイグル帝国は八世紀の後半から、九世紀のはじめにかけて、大いに栄えた。とくに八世紀の後半においては、たまたま唐は大乱にみまわれている。いわゆる安史の乱である。唐の朝廷はウイグルに援兵をもとめた。ウイグルの兵は、たびたび唐の国内に出動する。長安にも、洛陽にもおもむいた。モンゴルの草原にそだった遊牧の民も、こうして中国の文化を、ぞんぶんに味わったのであった。つづいてウイグルは、西方にむかっても、その勢力をひろげた。それは軍事上の発展だけではない。注目すべきものは、東西をむすぶ貿易の発展であった。ソグドの商人が大いに活躍する。ウイグル帝国のなかにあって、ソグド人たちは貿易に従事し、また西方の文化や技術を、この国につたえた。こう...4-17-4トルキスタンの成立
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年17トルコ帝国2突厥(トルコ)帝国の興亡トルコ人が、いまのモンゴル高原に統一帝国を建てたのは、六世紀のなかばであった。この帝国が中国人から「突厥」とよばれたのである。おりから中国は、南北朝時代の末期にあたっている。トルコの族長たる土門(トメン)は、北朝の諸国と通交し、みずからイリ・ハガン(伊利・可汗)と号した。国をたもつ王、という意味である。一代において立った木扞可汗(もくかん・ハガン)は、その勢力を四方にひろげる。いまや突厥は中央アジア(西域)の諸国を制圧し、ソグド人の商人を保護して、その市場を独占した。さらに東ヨーロッパのビザンチン帝国にもよしみを通じて、東西をむすぶ貿易に巨利をえたのであった。しかし大きな発展は、かえって分裂をまねいた。六世紀の末に...4-17-2突厥(トルコ)帝国の興亡
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年17トルコ帝国1オルホン碑文モンゴルの北方(イエニセイ川の上流)に、ふしぎな文字でしるされた碑文があることは、すでに十八世紀の前半、ヨーロッパ人に知られていた。碑文の写生図も、発表されていた。しかし、この碑文がいつごろ建てられたものか、どういうことが書かれているのか、ということについては、なにしろ字が読めないのであるから、いっこうにわがらなかった。そうして十九世紀の末をむかえた。ロシアの考古学者(ヤドリンツェフ)は、オルホン川の流域において、また別の碑文を発見した(一八八九)。そのうちの二つには、ふしぎな文字のほか、漢文もきざまれている。モンゴルの碑文は、にわかに学界の関心をよんだ。あくる年にはフィンランドの探検隊が、そのまた翌年にはロシアの探検隊が、オ...4-17-1トルコ帝国
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年16新羅と渤海4渤海の建国わが聖武天皇の神亀四年(七二七)、渤海(ぼっかい)郡王の使者なるものが入朝した。その申すところによれば渤海とは、高麗(こうらい=高句麗のこと)の後身であるという。かの高句麗がほろぼされてから、すでに六十年をへている。それが突如として、あたらしい国名のもとに、わが国へあらわれた。しかも朝貢(ちょうこう)の使者としてあらわれた。そもそも渤海とは、どのようにして建国したものなのか。高句麗の遺民たちが、東北地方の一角によって反乱をおこしたのは、唐では則天武后(そくてんぶこう)の時代である。その首領たる大祚栄(だいそえい)は、武后がつかねした遠征軍を破り、国を建てて「震(しん)国」と号し、みずから震国公と称した(六九八)。震とは、易(えき...4-16-4渤海の建国
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五
しかし、智罃は、魯の仲孫蔑の進言を受けると鄭に近い、晋の虎牢に城を築き、威圧した。 その結果、直接、戦闘することなく、鄭を晋の傘下に収めるのに成功し、智罃は…
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年16新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)3新羅の統一唐に対しては、新羅や百済(くだら)はもちろん、高句麗(こうくり)も朝貢の礼をとった。しかし半島の三国は、むかしから仲がわるい。そこで唐に和好を通ずるいっぼう、他の国が侵略してきて困る、と訴えるのである。このあたりの立ちまわりでは、新羅がもっとも巧妙であった。ついに唐も、高句麗の遠征にふみきった。しかし太宗と高宗の二代にかけて、五回にわたる遠征も、ことごとく失敗におわる。ここで、またも新羅の外交が功を奏した。唐の高宗は、新羅とむすんで、百済をうつことに、方針をかえた。唐の大軍は百済にわたり、新羅軍の協力をえて、その国都をおとしいれた。国王や王子は、いったんのがれたが、とらえられて長安におくられた。こうして百済...4-16-3新羅の統一
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年16新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)1朝賀の序列天宝十二載(七五三)正月元日、長安の宮殿においては、おごそかな朝賀の儀式がおこなわれようとしていた。これには唐朝の百官はもとより、おりから長安の都にきている諸外国の使臣たちも参列する。日本からも、第十次の遣唐使がおもむいており、大使の藤原清河(きよかわ)、副使の大伴古麻呂らが、式につらなった。ところが式のはじまるにさきだって、ひと騒ぎがおこった。日本の大伴古麻呂がすすみ出て、序列がけしからぬ、と抗議したのであった。外国の使臣たちは、皇帝をまえにして、東西の二列にならぶ。このとき、東の列の第一席は、新羅であった。第二席は大食(サラセン)である。西の列の第一席は吐蕃(とばん=チベット)であり、そうして日本は、そ...4-16-1朝賀の序列
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年16新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)2朝鮮半島の三国新羅(しらぎ)が、半島の東南部に建国したのは、四世紀の前半であった。同じ頃、西南部には百済(くだら)が建国した。それまで半島南部の地には、たくさんの小国が分立し、東と西と南で、それぞれグループをつくり、辰韓・馬韓および弁韓(または弁辰)と呼ばれていた。新羅や百済はこれらの諸小国を統一して、国をつくったものである。北方の平壌には、漢の時代から楽浪軍がおかれて、半島の支配にあたった。つぎの魏(ぎ)の時代(三世紀)も、同様である。楽浪郡の南部、いまのソウルの近くには、あらたに帯方郡が設けられた。その支配と統制は、半島の南端にまでおよんだ。しかるに四世紀になると、魏のあとをついだ晋は、内乱にくわえて外圧になやま...4-16-2朝鮮半島の三国
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年15敦煌の秘宝5敦煌(とんこう)の戸籍現存する中国の戸籍としては、敦煌から出た西涼の建初十二年(四一六)のものがスタイン文書にあり、もっとも古い。しかし敦煌から出た戸籍で、いちばん多いのは、やはり唐代のものである。それは敦煌の寺院が仏典をうつすために、保存の期限のきれた戸籍を、官庁から払い下げをうけて使用したため、写経の裏として、偶然に残ったものであった。短いものはあちこちにあるが、やや長いものには、ペリオ文書の開元九年(七二一)籍、天宝六載(さい、七四七)籍、およびスタイン文書の大暦四年(七六九)手実(しゅじつ)がある。手実というのは戸主の戸籍に関する申告書であるが、内容は戸籍とかわらない。これらの戸籍は、敦煌の人たちの姿を具体的にしめしている点におい...4-15-5敦煌の戸籍
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年15敦煌の秘宝3敦煌の壁画敦煌における石窟の開創は、三六六年のこととされている。それは、ここから出た碑文によるものである。しかし現存する石窟をしらべたところでは、北魏の後半期(五二〇年代)のものがもっとも古い。つまり雲岡石窟より新しいわけである。そうして北魏から隋唐をへて、宋・元の時代までつぎつぎにひらかれていったのであった。どの石窟にも、仏像がおさめられ、天井から壁まで、びっしり濃彩の密画や文様がえがかれている。北魏の石窟の代表となるのは、第二四五窟である。ここでは奥に大きな方柱があって天井に達し、方柱には仏像をおさめる龕(がん)が掘られている。左右の壁にもいくつかの仏龕がある。こうした形式のほか、小さな窟では中心の方柱がなく、正面の奥と左右の両壁に、...4-15-3敦煌の壁画
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年15敦煌の秘宝4敦煌学の発展さて石窟のなかには、めずらしい古文書の類がおさめられてあった。これらの文書のうち、もっともあたらしいものは、十世紀の末(九九六)のものであった。おりから宋代の初期であり、敦煌には西夏(せいか=タングート族)が侵入したころにあたっている。そこで西夏が攻めてくると聞いて、文書類を封じこめたもの、と推定することができよう。その内容は、ほとんど九割以上が仏教の経典であった。これは敦惶の諸寺院が蔵していた経典、と考えられる。しかし仏典のほかに、寺院経営の記録や祈願文(きがんもん)、さらに一般の書物や、公私の文書類もふくまれていた。これまでは唐代の歴史を研究するにあたって、唐代のなまの資料がなかったから、ほとんど後世になって編纂(へんさん...4-15-4敦煌学の発展