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#中国史
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チンギスハン モンゴル帝国の創始者
チンギスハン 人物列伝 ステータス モンゴル高原統一まで モンゴル遊牧民の一部族であるキヤト族の父イェスゲイと、母ホエルンの長男として1162年(諸説あり)に生まれた。名を「テムジン」とつけられる。少年期においてすでにた […]
2024/03/29 08:00
中国史
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No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十壱
紀元前231年、韓王安は、秦に南陽の地を割譲した。 紀元前230年、秦王政は、内史騰を大将とし、10万の軍勢により、韓を攻めた。 韓王安は、捕虜となり、韓は…
2024/03/25 01:50
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十
秦王政は、新政の開始時、李斯や及び、尉繚等の協力の許、「諸侯を滅ぼして、帝となり、天下を統一する」との策略を立てた。 具体的な措施として、遠国の燕及び、斉は…
2024/03/24 06:06
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十九
『韓非子』の作者、韓非の出自は、韓の公子であり、後に秦の宰相となった、李斯と共に荀子に学んだとされるが、別説がある。 韓非は、生まれつき、重度の吃音であり、…
2024/03/23 00:03
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十八
紀元前238年、公子顛は、人質であったが、秦王政に仕え、前述の通り、嫪毐が背くと、甥の昌平君と共に叛乱を鎮圧した。 その功績によって、秦王政から、昌文君に封…
2024/03/18 01:22
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十七
私は、血脈を鋭い鍼で刺し、劇薬を投じ、皮膚を裂きました。 そのため、しばらくして、諸侯に名声が聞こえ出たのでございます』。 文侯は、『そうか。病が大きく、露…
2024/03/17 06:30
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十六
小国の殷、周、呉の勝利こそ、孫子の『戦わずして勝つは、善の善なる者なり』であり、また、道家思想に言う、『陰経の法・夜行の道・天武の類』です。 現在、百万の屍…
2024/03/16 00:04
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十五
秦と五カ国の合従軍との函谷関の戦いの際、趙軍を率いていたのは、老将の龐煖であった。 龐煖は、若い頃、楚の深い山奥で、道家の隠者、鶡冠子(かつかんし)、即ち、…
2024/03/11 01:52
当サイトにおけるコンセプト
中国史の魅力について解説 中華地域の文明が芽生えて7000年といわれてる。周辺地域がまだ狩猟採集を行っていたとされるころから栄えた中華文明は、少なからず周りの国々をまきこみながらダイナミックな歴史を歩んできた。王朝や文化が栄えては消え、消え
2024/03/10 08:22
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十四
秦王政の親政開始頃、趙には、戦国四大名将の一人、李牧がいた。 李牧は、元々は、趙の北方の代郡・雁門郡に駐屯する、国境軍の長官であった。 李牧は、国境防衛のた…
2024/03/10 06:15
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十参
呂不韋は、「仲父」と呼ばれる程の権威を得ると、多くの食客を養い、紀元前239年には、『呂氏春秋』の編纂を完了した。 『呂氏春秋』は、十二紀・八覧・六論から構…
2024/03/09 00:02
李勣(りせき)大唐帝国の七英雄 名将
簡単人物列伝 ステータス 反乱軍から統一戦 突厥軍との戦元の名を徐世勣といい、裕福な家に生まれたが隋末の反乱軍に入った。すぐに非凡な才能を発揮し反乱軍を先導、近くに落ち延びてきた李密軍団と合流し、李密を軍団の首領にすえた。しかし洛陽の王世充
2024/03/08 07:31
李靖(りせい)大唐帝国の七英雄 筆頭
簡単人物列伝 ステータス 出生から隋末の動乱期 父や祖父は隋の州刺史で、李靖は571年にうまれ立派な体躯と思慮深い知識を兼ね備えたという。【母方の叔父に隋の天下統一に功績ある名将、韓擒虎(かんきんこ)がおり若き日の李靖はよくこの叔父と兵法論
2024/03/08 07:30
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十弐
紀元前247年、荘襄王が、死去すると、荘襄王と趙姫の息子で、十三歳の政が、秦の王位を継承した。 曽祖父の昭襄王の死は、紀元前251年であるため、秦王政は、曽…
2024/03/04 01:30
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十壱
兵士の一人、李同が、平原君に「貴方にとって、趙の窮状は、他人事ですか」と聞いた。 平原君は「そんなことは無い。趙が滅びれば、私も滅ぶ」と言ったが、李同は、「…
2024/03/03 06:18
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十
斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君を「戦国の四君」と呼ぶ。 前述の通り、孟嘗君は、斉の公族の田文、平原君は、趙の公子の趙勝、信陵君は、魏の王子の…
2024/03/02 00:06
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十九
当初、信陵君は、5城を受け取ろうとしたが、食客に諭され、以後、固辞した。 信陵君は、趙に滞在中、博徒の間に隠れていた、毛公と味噌屋に身を隠していた、薛公に対…
2024/02/26 01:36
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十七
宴席の客達は、侯嬴の言葉の意味が、全く訳が解らなかったため、信陵君をどうでもいい用事で待たせる、失礼な爺だと、侯嬴を蔑す、一方で、嫌な顔をせず、待っていた、…
2024/02/25 06:20
紀元前250年、孝文王の死後に、太子の子楚が、荘襄王として即位した。 遂に、呂不韋の「奇貨居くべし」が、実を結ぶと、呂不韋は、秦の丞相となった。 荘襄王の義…
2024/02/24 00:04
8-13-5 王宮の襲撃
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年13清朝の権力と富の行方5王宮の襲撃白蓮の動乱は、十年にしてようやく鎮定をみた。しかし嘉慶帝の親政による弊政の克服は、もはや至難の業(わざ)であった。克服とはいえ、官僚国家の体制が持続されるかぎり、抜本的ではありえたかった。「和珅が弾劾されて、嘉慶は満腹する」との巷間の言は、これを裏書きする。中間地帯から西辺にかけての教乱とはいえ、治政の間隙におこった白蓮の動乱は、中国本土における動乱である。その鎮定に十手を要したことは、社会に不安と動揺をたかめた。くわえて弊政の克服も、短い年月では不可能に近い。動乱の気運は各地におこり、また爆発した。五省にわたった白蓮教軍の動乱は、平定された。しかし、それはあくまでも起乱に参加した者の武力反抗が、ひとまず終結しただけの...8-13-5王宮の襲撃
2024/02/23 09:49
璧
2024/02/19 08:29
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十六
しかし、范雎は、重病と称したため、昭襄王は、やむを得ず、范雎を宰相から、免じた。 紀元前251年、昭襄王は、七十五歳で、死去した。 昭襄王の在位期間は、五十…
2024/02/19 01:49
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十五
原泰久氏の漫画、『キングダム』では、昭襄王の時代、白起を含め、秦の「六大将軍」が、存在したとする。 「六大将軍」は、白起、楊摎、王齕、胡昜、司馬錯、王騎の六…
2024/02/18 06:44
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十四
紀元前257年、昭襄王は、趙の邯鄲に援軍を送ったが、勝てないため、王陵を更迭して、王齕に代わらせた。 しかし、邯鄲は、陥落せず、趙の援軍として現れた、魏の信…
2024/02/17 00:03
【歴史の本】ランキングBest500<371位~380位>
◆第371位 『ローマの起源~神話と伝承、そして考古学』評価:065点/著者:アレクサンドル・グランダッジ/巻数:全1巻/ジャンル:西洋史/2006年 ◆第3…
2024/02/15 01:06
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十参
趙軍は、秦軍に完全に包囲された、長平城において、46日間も兵糧が届かずに、飢えた、兵士達は、互いに殺し合って、その肉を食らい、飢えを凌ぐ、有様であった。 趙…
2024/02/12 02:00
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十弐
孝成王は、韓の上党の割譲に対し、悩んだ末、平原君の案を採用して、上党に兵を送ると、上党を接収した。 秦の昭襄王は、激怒し、紀元前260年、王齕を将軍とした、…
2024/02/11 05:50
【呉漢】
評価:80点/作者:宮城谷昌光/ジャンル:歴史小説/出版:2017年 『呉漢』は、2017年に出版された、宮城谷昌光氏の中国史小説である。 本書の主人公、…
2024/02/10 00:04
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十壱
范雎は、「黄歇は、人臣として、一身を投げ出して主君に殉じました。 仮に、太子完が、楚の王位に即けば、必ず、黄歇を重用します。 今は、黄歇を罰しないで、帰国さ…
2024/02/05 01:36
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十
魏冄は、宰相として、内政のみならず、自身、将軍として戦地に赴き、軍事に優れていた。 しかし、魏冄自身の封地、華陽君羋戎、高陵君・涇陽君等を富ませるための戦役…
2024/02/04 05:43
【劉邦】
評価:90点/作者:宮城谷昌光/ジャンル:歴史小説/出版:2015年 『劉邦』は、2015年に出版された、宮城谷昌光氏の中国史小説である。 本書の主人公、…
2024/02/03 00:42
8-10-5 大清帝国の完成
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年10大清帝国の完成5五族の中国秘密主義ときびしい弾圧をもって、皇帝独裁の体制を確立することにっとめた雍正帝は、在位十三年にして、にわかに世を去った。円明園の離宮で、急死した。恐怖の親政体制を樹立した雍正帝の急死は、巷間(こうかん)に帝の暗殺説がみだれとぶ一幕をもくわえたほどである。秘密の恐怖が生んだ謎の死は、帝の最期にふさわしいといえよう。密建の法により帝位についたのは、帝の第四子、そのとき二十五歳の高宗乾隆帝であった。康熈・雍正と二代にわたる基礎がためのあとをうけた、青年皇帝の本領は外征にあった。乾隆帝の在位は、六十年にわたった。帝は、祖父康煕帝の在位をこえてはと、みすがら帝位を嘉慶帝にゆずったのである。しかし上皇として、なお四年にわたり、実権を行使し...8-10-5大清帝国の完成
2024/02/01 15:39
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十九
昭襄王は、それを聞き、范雎を迎え入れて、まず、詫びると、「私は、早くから、先生の教えを乞おうと思っていた。 謹んで、主客対等の礼をもって、お話を賜りたい」と…
2024/01/29 01:48
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十八
楚の春申君は、昭襄王の楚の討伐に対し、上書した。春申君は、現在の天下においては、秦と楚より、強い国はない。 昭襄王は、楚を討とうとしているが、秦と楚の戦いは…
2024/01/28 06:07
8-10-1 北京の激動
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年10大清帝国の完成1北京の激動北京の春は、黄塵とともにおとずれる。遠くモンゴルの砂浜で天空たかく舞いあがった黄塵は、風にのって長城をこえ、黄雲となって北京城の空をおおいつくす。城内はたちまち夕闇と化し、ともすあかりもさだかではない。舞いおりる黄土は道ゆく人びとの衣服をそめ、茶褐色の足あとを地上にのこす。それは砂というより黄粉というにふさわしい。それが春を告げる足音と知りながらも、黄雲におおわれた一瞬、人びとの心のなかには、一沫の不安がよこぎる。北京の春からは、世界一とうたわれる澄みきった秋空は、夢想だにできない。崇禎十七年(一六四四)三月十八日、北京城は、一瞬にして暗い不安につつまれてしまった。春を告げる黄雲が、西北の空から北京をおおったためではない。不...8-10-1北京の激動
2024/01/28 03:37
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十七
楚軍は、秦軍の猛攻に反撃できず、撤退した。 秦軍は、長距離を直行し、迅速に漢水流域の要地鄧城を攻め取った。 白起は、秦軍を率い、楚の別都である、鄢城へ向かっ…
2024/01/22 01:38
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十六
「藺相如殿、この愚か者は、貴方の大きな心を知らずに無礼をしてしまった。 この鞭で、気の済むまで、この身を打って下さい。 しかし、貴方に対し、今まで与えた屈辱…
2024/01/21 06:23
8-9-1 後金から大清ヘ
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年9後金から大清ヘ1女直族(ジョチョク族=北方民族の一派)の怒り第一の恨み、理由もなく、わが父や祖父を殺害したこと。第二の恨み、たがいに国境を越えないと誓いあった約束をやぶったこと。第三の恨み、誓いをやぶった越境者を処刑した報復に、わが使者を殺し、威嚇(いかく)したこと。第四の恨み、われとイェヘ部族の娘との結婚をさまたげ、その娘をモンゴルに与えたこと。第五の恨み、国境ちかくでわが女直の民がつくった穀物をとらせず、追いはらったこと。第六の恨み、悪らつなイェヘ部族を信用して、われらを侮辱したこと。第七の恨み、天の公平な裁きにそむき、悪を善、善を悪とする不公平をおかしたこと。一六一八年の四月十三日、アイシンギーロ(愛新覚羅)・ヌルハチは、この「七大恨」を大書し、...8-9-1後金から大清ヘ
2024/01/21 05:07
8-8-5 和議の決裂と再征
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年8日本の朝鮮侵攻5和議の決裂と再征わが慶長元年(一五九六)九月一日、明の暦では万暦二十四年九月二日、秀吉は大坂城において、明朝の勅使を引見した。秀吉をはじめ、いならぶ諸将は、いずれも明の皇帝から贈られた衣冠をつけて、得意の面もちである。秀吉にしてみれば、待ちのぞんでいた明朝の勅使であった。それも、わが要求をみとめてわざわざ派遣されてきたもの、と考えたに違いなかった。勅書の奉呈はぶじに終わった。秀吉はいよいよ満足であった。ただ明使の「楊・沈が関白に見ゆるや、卑屈の状は言うに堪えざるものがあった。これは随行の者が帰ってから、ひそかに人に語ったところである。ゆえに、小人は重用すべからずということを、まさしく知った。」明国の記録(両朝平攘録)は、このように伝えて...8-8-5和議の決裂と再征
2024/01/18 04:11
8-8-2 日本軍の進撃
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年8日本の朝鮮侵攻2日本軍の進撃日本軍が海をわたって攻めよせることは、もはや明らかであった。朝鮮は南方の防備をかためて、進攻にそなえた。また李舜臣(りしゅんしん)を登用して、水軍をひきいさせた。しかし朝鮮の官界は、このところ党争にあけくれ、軍備をおろそかにしている。すぐれた将軍がいない。兵員が足りない。しかも将兵をやしなうに足るだけの糧食のそなえがない。よって各地から、あらたに人員や物資の徴発をおこなった。にわかの徴発であったから、人心は動揺した。形だけの軍隊はととのえたものの、訓練もじゅうぶんでなく、役に立つかどうか、あやぶまれた。あけて宣祖の二十五年(一五九二)は、明の万暦二十年、日本の文禄元年にあたる。その四月十三日(明の暦による、日本暦は十二日)、...8-8-2日本軍の進撃
2024/01/16 15:29
8-8-3 日明の和平交渉
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年8日本の朝鮮侵攻3日明の和平交渉朝鮮の敗報は、しきりに明朝に達している。さらに援軍の要請もとどいた。しかし、はじめ明朝では、日本軍の進撃があまりに迅速なので、朝鮮が案内をしているのか、と疑ったほどであった。いかにすべきか。明朝でも議論が百出した。ある者はいう。江南より海軍を発して、日本の虚をつくべし。また、ある者はいう。琉球や暹羅(せんら=シャム)などの国から兵をつのって、日本を征せよ。これらは積極論である。ところが、朝鮮を見すてよ、と主張する者もあった。遼東に兵をだして、かたく国境をまもれ、というわけである。さらには日本と和をむすんで、戦争をさけようという者さえあった。じつは、このとき明朝は、西北辺においてモンゴル人の反乱になやまされていたのである。黄...8-8-3日明の和平交渉
2024/01/16 15:27
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十五
藺相如は、終始、上述の様にして、機転を利かせ、常にやり返したので、最後まで、秦は、趙を格下扱いに出来なかった。 藺相如は、趙へ戻る際も、警戒を怠らなかったの…
2024/01/15 00:45
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十四
藺相如は、胆力と知恵だけを武器にして、強国の秦に対し、一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子を保った、まさしく、「完璧」な対処と言える。 なお、中国語では、「…
2024/01/14 06:20
黄幢
2024/01/10 20:38
8-6-5 人民の怒り
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年6銀をめぐる波紋5人民の怒り成化二年(一四六五)三月、いまの湖北省にあたる荊襄(けいじょう)地域で、流民が蜂起した。万貴妃の横暴はなはだしかったころのことである。流民を指揮したのは、河南生まれの劉千斤という人物であった。本名を通というが、その昔、重さ千斤の石を片手で持ち上げたことから千斤と号したという。よほどの力自慢であったにちがいない。日日の生活に苦しむ流民たちは、この劉千斤を首領として蜂起した。ときに、おなじく衆を集めていた石龍も、これに呼応した。四万あまりの流民が、これにしたがったという。劉千斤は、漢王を名のり、徳勝と年号をつけた。政府は、流民が蜂起したとの報に、京師ならびに諸道の軍を動員してこれを攻め、劉千斤らの本拠にせまった。このため劉は、陝西...8-6-5人民の怒り
2024/01/08 07:59
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十参
繆賢は、藺相如の言が、正しいと考えため、自身の去就に狼狽した。 藺相如は、更に繆賢に対して、自ら、処刑台に乗って、進んで、恵文王に罰を請えば、許されるかもし…
2024/01/08 01:09
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十弐
紀元前285年、昭襄王は、蒙武を登用し、斉に侵攻した。 また、蜀侯の綰に謀反に疑惑が、持ち上がったため、綰を誅殺した。 以降、蜀には、侯を置かず、蜀郡郡守を…
2024/01/07 06:07
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十壱
白起は、伊闕の戦勝の功によって、国尉となった。 同年,白起は、韓・魏の伊闕の戦いの惨敗を利用し、兵を率いて、黄河を渡ると、安邑の東側の乾河等の広大な領土を占…
2024/01/01 01:26
景初2年・3年問題
2024/01/01 01:04
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十
その後、前述の通り、孟嘗君は、讒言によって、昭襄王に謀殺されそうになったために、紀元前297年、食客の力を借りて、斉に逃亡した。 その時の逸話が、「鶏鳴狗盗…
2023/12/31 06:00
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