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『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年14大唐の長安1壮大な都市計画大文字山の上に立てば、千年の歴史を秘めた京都の碁盤割りの市街を一望のもとに見おろすことができる。はじめて平安京が造営されたときのことを考えながら、あの整然とした都市計画を見おろすことができるのは、大きな喜びである。しかし残念なことに、かっての平安京においては、北端の中央に宮城が南面していたものが、いまの御所(ごしょ)はその位置が移動してしまった。ともあれ、平安京および、これにさきだつ平城京のプランが、唐の長安の都を手本にしたことはいうまでもない。唐の長安城は隋の大興城あとをうけついで完成されたものである。こういう首都プランは北魏の洛陽城にはじまる。漢代の長安城は、宮城や市の位置が唐代とはちがっていた。その配置も、計画的なもの...4-14-1大唐の長安
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年14大唐の長安2西からきた文物わが正倉院に「鳥毛立(とりけだち)女屏風(おんなぴようぶ)」(樹下美人図)のあることは有名である。樹の下にいる美人は頬紅(ほおべに)をつけ、色こく化粧した顔は一千年あまりたった今日も、ほとんどむかしのままに保存されている。目は切れ長で、くちびるはあつく、頬にはふくれが見えるほどふとっている。かの楊貴妃も、おそらくこのようなタイプの美人であったろう。またこのように、美人を樹下に配した構図の祖型は、もともと中国のものではない。その源流は遠くイラン、あるいはインドにたどることができる。このほか正倉院には、さらに遠く西方よりラタダの背に乗って唐へはるばる伝来し、さらに正倉院へはいったと考えられるものが、すくなくない。わが国に伝えられ...4-14-2西からきた文物
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参
士鞅は、秦の景公の働きかけによって、程なく、晋に帰還するが、欒氏に対し、深い恨みを抱くようになる。 欒黶の妻は、士匄の娘であったが、紀元前552年、欒黶の没…
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年13開元と天宝6安史の乱安祿山が兵をあげてより一ヵ月、その軍は早くも東都の洛陽をおとしいれた。唐朝は、安西(あんせい)節度使の封常清を、范陽・平盧節度使(禄山が任ぜられていたもの)に任じ、六万の兵をもって対抗させようとしたが、にわか仕立ての軍隊では役にたたなかった。そこで唐朝は第二陣として、高仙芝(こうせんし)に五万の軍をあたえ、祿山の軍が長安へむかって侵入してくるのに備えさせた。高仙芝は高句麗の出身である。さきには西域へつかわされ、イスラムの軍とタラス川でたたかって敗れた。その高仙芝がまもっているところへ、封常清の軍が敗走してきた。両軍ともに潼関(どうかん=長安の東の関所)まで後退し、ここで祿山の軍をくいとめたが、敗戦の責任で二人はともに斬られた。そこ...4-13-6安史の乱
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年13開元と天宝5安祿山さしもの李林甫も、その全盛期をすぎると、それまで手先になっていた者も、ようやく林甫を排撃しようとする動きを見せはじめる。その機に乗じて、国忠は勢力をひろげていった。また李林甫は、節度使をバックにすることはなかったが、国忠はいち早く、蜀の地方におかれた剣南節度使をバックにしており、その点が有利であった。天宝十一載(七五二)に李林甫が死去すると、そのあとをうけて国忠が宰相になった。すると国忠は、ただちに李林甫を誣告し、これを安祿山に証言させた。そのため李林甫は棺をあばかれ、金紫の衣をはがれて小棺にうつされ、すべての官爵と財産を没収された。さて安祿山の父はツグド人、母はトルコ人であった。こういう混血人を、そのころは雑胡(ざつこ)とよんでい...4-13-5安祿山
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年13開元と天宝4楊貴妃(ようきひ)玄宗には即位の前から王氏という妃(きさき)があり、即位とともにそれが王皇后となった。しかし子供がなく、玄宗の愛情は武氏一族の武恵妃(ぶけいひ)にそそがれる。その間に生まれたのが寿王瑁(じゅおうぼう)であった。やがて開元十二年(七二四)、王皇后は子供ほしさから、禁ぜられていたまじないをおこない、それがあらわれて廃された。いまや玄宗の愛は、武恵妃ひとりにそそがれる。その武恵妃も開元二十五年に世を去った。かくて失意の淵(ふち)におちた玄宗の目にとまったのが、寿王瑁の妃の楊氏であった。しかし、いくら皇帝でも、むすこの嫁をそのまま横どりすることはできない。ひとまず彼女を道観に入れて女道士とし、太真(たいしん)となのらせた。そうして...4-13-4楊貴妃
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百弐
紀元前576年、鄭は、楚に領土を割譲して、和睦し、楚の盟下に置かれることになった。 晋の厲公は、元々、自分に従っていた、鄭の背信を正すために、衛・斉・魯など…
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年13開元と天宝3李林甫李林甫の家は唐の帝室の遠い親族にあたるが、祖父も父も、ともにたいした官歴はしめていない。それが宇文融とおなじように、源乾曜のひきたてによって、官界の正流にはいった。やがて宇文融と同列の官につき、張説の弾劾にも加担した。その後は要職を歴任しつつ、開元二十二年(七三四)に宰相となる。これより天宝十一載(七五二、天宝は何年といわず何載という)に死去するまで二十年間にわたって宰相をつとめ、唐の政治をきりまわした。李林甫は、教養すくなく、面柔にして狡計(こうけい)があり、玄宗の後宮の后妃たちとむすんで、反対派を奸計でおとしいれ、姦臣の典型のようにいわれてきた。しかし史料のしめすところによると、かならずしもそうは言いきれない。それというのも、政...4-13-3李林甫
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年13開元と天宝1開元の治唐の玄宗(げんそう)といえば、まず楊貴妃(ようきひ)との情事が思いだされるであろう。しかし楊貴妃を後宮にいれたのは、即位してから三十三年目のことである。玄宗の初世は「開元の治」と称せられ、太宗の貞観の治とならんで、政治のひきしまった太平な時代であった。玄宗そのひとは章后や安楽公主、さらに太平公主の党を平定して登場した。そして即位の翌年には年号を開元とさだめた(七一三)。わが国では奈良時代の初めにあたる。そのころの名だかい宰相として、姚崇(すうそう)と宋璟(そうけい)があり、姚・宋とならび称せられている。宋璟は科挙の進士科の出身であり、武后によって抜擢されたが、武后の寵臣たちにもおもねらない硬骨漢であった。復位した睿宗によって宰相に...4-13-1開元の治
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年12唐朝の女禍5武氏の後継者中宗は十五年にわたる地方の幽閉からよびもどされて、ふたたび帝位についたが、則天皇帝が没したのちは、ふたたび女性の専権に悩まされることとなった。それはまず中宗の皇后の韋氏の勢力が大きくなったことである。韋后(いこう)は則天皇帝のまねをしはじめた。また、かつて武后を廃する詔勅の起草をして殺された上官儀の孫娘に、婉児(えんじ)という者がいた。祖父が殺されたのち、宮中で官婢(かんぴ)となっていた。聡明で詩文にすぐれ、則天皇帝から愛されるようになる。中宗からも信任され、その寵愛もうけるようになった。この上官婉児が韋后に対し、則天皇帝にならうことをすすめたのである。また上官婉児は、武氏一族の武三思と通じ、こんなところから武氏の勢力もふたた...4-12-5武氏の後継者
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百壱
范氏は、士氏の分家で、士会が、晋の景公により、范及び、随の地に封じられたために、范氏と呼ばれるようになった。 士会は、晋の文公の祖父の武公、父の献公に仕えた…
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年12唐朝の女禍2皇后の座へ宮中にはいった武照は、昭儀という女官の位についたが、たちまちにして高宗の愛情を独占した。もはや王皇后も蕭淑妃(しょうしゅくひ)も、ともに高宗から顧みられない。それでも武昭儀は、高宗だけではなく、王皇后にもうまく仕え、まわりの女官たちの心もつかんでしまった。しかし高宗とて、王皇后を廃して、かわりに武昭儀を皇后にたてようとは考えなかった。そのころ武昭儀は女の子をうんだが、子のない王皇后はこれをかわいがって、あやしにくる。ある日のこと、王皇后が女の子の室をでたとき、武昭儀はじぶんの手でその子を殺し、ふとんをかけておいた。ちょうどそこへ高宗がはいってきた。武昭儀はわざとニコニコ顔をして、ふとんをめくった。女の子は冷たくなっていた。武昭儀...4-12-2皇后の座へ
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百
紀元前476年、周の敬王が、死去すると、息子の姫仁が、王位を継承した。元王である。 紀元前473年、越王勾践が、呉を滅ぼし、北方の瑯琊に遷都した。 勾践は、…
キングダムでおなじみの秦王朝についてその1『史記』の本紀の秦についてです。本紀にあるということは、中国で一時代を築いた王朝であるということになります。分裂し…
秦国成立から群雄割拠の時代へ秦本紀その2は、周王朝下での秦がようやく諸侯となり、そして周王朝が衰えて、各国が州の権威を認めつつも争う春秋時代の秦についてです…
第23回 史記から見る中国の歴史 秦本紀その3 戦国時代から中華統一へ
戦国時代から中華統一へ『史記』本紀の秦本紀の3回目、秦本紀はこれで終わりです。 秦の東側にあった強国のもう一つの晋が、趙・韓・魏の3国に分裂し、中国は春秋戦…
中華を統一した始皇帝(秦王政)戦国時代を終わらせ、中華を統一するも、わずか3代で終わってしまった秦王朝についてになります。3代ですが、やはり始皇帝の存在があ…
史記本紀については、キングダムでおなじみの秦王政の始皇帝本紀まで進んだので、ここからは史記世家になります。史記は本紀、世家、列伝という構成です。この構成につい…
呉越同舟・臥薪嘗胆ついに呉を亡ぼす呉は、「史記世家第1」になりますが、越は「史記世家第11」という順番ですが、呉と越は切り離すべきではないと判断して、世家そ…
キングダムでおなじみの東の大国"斉”前史キングダムに登場する斉は、田斉(田氏の斉)で、もともとは呂氏の斉でした。その呂氏の斉についてです。田斉は、もともと呂…
第34回 史記世家4:キングダム登場前の斉の歴史 ~史記から見る中国の歴史
主家を乗っ取るまでの斉の家臣の田氏の歴史キングダムに登場する斉は、田斉(田氏の斉)で、主家の呂氏の斉に仕え、乗っ取るまでの歴史です。いわゆる下剋上を成し遂げ…
第35回 史記世家5:キングダムの斉”田斉”の歴史 ~史記から見る中国の歴史
キングダムでおなじみの東方の大国「斉」キングダムでおなじみの東方の大国「斉」の歴史です。主家を乗っ取って諸侯となります。史記では、史記世家の「田敬仲完世家第…
第36回 史記世家6:『論語』の孔子の魯国その1 周代の魯 ~史記から見る中国の歴史
『論語』の孔子が生まれ、のちに政治を担当した国”魯”その1 周代の魯国 日本でも愛読者の多い『論語』、2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公の渋沢栄…
第38回 史記世家7:孔子の魯国その2 春秋戦国時代の魯 ~史記から見る中国の歴史
『論語』の孔子が生まれ、のちに政治を担当した国”魯”その2 春秋戦国の魯国こちらが春秋時代の中国の地図になります。キングダムと比べると、各地に様々な国が存在…
第44回 「先ず隗より始めよ」の”燕” 史記世家8~史記から見る中国の歴史
現在の中国の首都”北京”を治める北方の周建国の元勲の国 現在の中華人民共和国の首都北京は、この当時の中華地図で見ると北東に位置して、この当時のいわゆる中原…
#46 キングダムの趙・魏・韓の分裂前の国、”晋” その1 史記世家9~史記から見る中国の歴史
キングダムの趙・魏・韓の3国の元の国”晋”その1キングダムで中華統一が争われた戦国時代のその前の時代が春秋時代にあたります。その春秋時代の強国がこの”晋”…
#47 キングダムの趙・魏・韓の元の国 ”晋” その2 史記世家9~史記から見る中
キングダムの趙・魏・韓の3国の元の国”晋”その2”春秋の五覇(春秋時代の5人の覇者)”の一人、文公重耳が晋の統治者になりますが、最終的には、臣下の下剋上によ…
周王朝の権威を認めつつも群雄割拠し、”覇者”を目指す時代「キングダム」は、古代中国の春秋戦国時代~秦による中華統一(紀元前770年~紀元前221年の約550…
春秋時代の五人の覇者前回の春秋戦国時代のうちの”春秋時代”のつづきで、春秋時代には”春秋の五覇”という存在がいます。今回はその”春秋の五覇”についてです。 …
我こそ”王”なり下剋上で幕を開ける周王室の権威など関係ない各国が相争う時代 「キングダム」は、古代中国の春秋戦国時代~秦による中華統一(紀元前770年~…
キングダムで激しく戦い合う戦国時代の七つの大きな国 「キングダム」でお馴染みに国々についてになります。 戦国の七雄赤い点線丸印の七国が、”戦国の七雄”…
#61 キングダムの李牧でおなじみの趙その1 史記世家12~史記から見る中国
キングダムの李牧のいる”趙” キングダムで、秦軍と激闘を繰り広げる李牧が使えている国”趙”についてです。史記では、趙世家第十二にあたります。今回は、趙その…
#62 諸侯に認められた趙その2 史記世家12~史記から見る中国
諸侯として認められた趙強国にのし上がっていくキングダムで、秦軍と激闘を繰り広げる李牧が使えている国”趙”についてです。史記では、趙世家第十二にあたります。…
秦の圧力を受け、臣下李牧などの活躍あるも キングダムで、秦軍と激闘を繰り広げる李牧が使えている国”趙”についてです。史記では、趙世家第十二にあたります。 …
#72 キングダムの魏火龍でおなじみの魏その1 史記世家12~史記から見る中国
魏火龍でおなじみの魏晋を分割して、王になるまでキングダムで、魏火龍でおなじみの魏の国についてその1です。史記では、趙世家第十四にあたります。今回は、晋の臣…
#75 キングダムの呉鳳明でおなじみの魏その2 史記世家12~史記から見る中国
魏火龍でおなじみの魏戦国時代の魏 滅亡までキングダムで、魏火龍でおなじみの魏の国についてその1です。史記では、趙世家第十四にあたります。今回は、魏が、晋の…
#78 キングダムの成恢でおなじみの韓その1 史記世家12~史記から見る中国
韓の王になるまでの歴史キングダムで、合唱軍の韓軍総大将で毒兵器のスペシャリストの成恢でおなじみの”韓”に歴史についてですまずは、その祖先から、晋の諸侯、そ…
#79 キングダムの成恢でおなじみの韓その2 史記世家12~史記から見る中国
韓の王となり、滅亡するまでキングダムで、合唱軍の韓軍総大将で毒兵器のスペシャリストの成恢でおなじみの”韓”が、滅亡するまでの歴史です。 宣恵王 5年…
#82 キングダムの春信君でおなじみの南方の大国”楚” 史記世家12~史記から見る中国
春秋時代の時点で早くから王を名乗っていた楚キングダムで、春信君や媧燐でおなじみの南方の大国”楚”の歴史その1です。 楚の特徴は、春秋時代の時点ですでに王…
#84 キングダムの媧燐でおなじみの南方の大国”楚”その2 史記世家12~史記から見る中国
南方の大国”楚”キングダムで、春信君や媧燐でおなじみの南方の大国”楚”の歴史その2です。戦国時代から秦に滅ぼされるまでの歴史です。 簡王中 元年 北…
よく名前は聞くと思うけれども詳しくは知らないという人が多い歴史上の人物がいます。この方もそうだと思うのですよ。結構でっかいこともやっているけど、彼亡きあとは悲惨よ…
現代の地球において、現存する巨大な “古代国家” ~ いつまで経っても進歩しない、どうしようもない “支那人”
本日のキーワード : バイデン政権、シュトラウス派、レオ・シュトラウス、ウクライナ、ユダヤ人、ユダヤ教、キリスト教、神権政治、社会主義、中国史A new war is being prepared for after the defeat in the face of Russiaロシアに敗北したあとのために用意されている新たな戦争 ⑤The war in Ukraine is a trompe l’oeil. Behind the appearances of the unity of NATO and its consolidation by new members, several big p...
袁家三兄弟の末っ子袁尚が後継者問題を起こした理由は幼児だったから?
さて三国志(さんごくし)でも人気の三兄弟、袁家(えんけ)三兄弟の三男、お父さんと名前の読み方が一…
~小学校時代に横行していた体罰~ 僕は小学生のときの6年間、5人の学級担任と出会うことができました。みんなそれぞれ個性のある熱心な先生方だったと思います。 ただ、この中で体罰の記憶がないのはお一人だけ。あとの4人は、みんな体罰をしていたのをよく覚えています。今から思えば信じられないような教育環境ですね。 たぶん、僕が在学していた学校だけでなく、全国的にこの傾向があったのだと思います。生徒にゲンコツ...
袁術が幼児の陸績にミカンをパクられた!それが親孝行話になるまでを解説
+ 提供する掲載情報について 『はじめての三国志』は、複数の企業と提携し情報を提供しており、当メディアを経由して商品への申込みがあった場合には、各企業から支払いを受け取ることがあります。ただし当メディ
かつての中国には「東周」という王朝がありました。その王朝にいた【1組の夫婦】の物語。妻に惚れた旦那には1つの悩みがあった・・・その悩みが国を大きく動かす"きっかけ"となってしまう。その悩みとは・・・そして、その大きなきっかけは一体どういうものなのか・・・