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今回の報告は、池袋にある国指定重要文化財の自由学園明日(みょうじつ)館の訪問記です。 自由学園は1921年(大正10年)に羽仁吉一・羽仁もと子夫妻により設立され、本科(5年制)と専攻科(文学科・家庭科、2年制)からなる女学校として開校しました。1934年に校舎は東久留米...
この界隈は、豊臣秀吉によって築城された伏見城のお膝元で城下町の名残もあり、歴史的建造物が多く景観や町並みが保存されている美観地区だ。少し歩くだけでも、古き良き日本の片鱗を垣間見ることができる希少な場所でもある。
ホーチミン観光:サイゴン川・ホテル マジェスティック・ビテクスコフィナンシャルタワー
サイゴン大聖堂~サイゴン川まで約1km レストラン、カフェ、雑貨屋、エステなど見ながら、休憩しながら、お買い物しながら行けますドンコイ通りを中心として、平行し…
ホーチミン1区 グエンフェ通り ホーチミン人民委員会庁舎を正面に伸びる歩行者天国パブリックビューイングや音楽ライブなどの屋外イベントも不定期で行われるらしい。…
神奈川県藤沢市の観光と言えば圧倒的に江の島周辺ッ。 あとは江ノ電が通るスラムダンクの例の踏切とか? いずれにせよ藤沢市南部の方なので それ以外にも魅力的なスポットがあるんですよー ということを宣伝するため書いていきます。 大都会藤沢駅北口から徒歩40分ほど または善行駅から徒歩30分ほど車で行け どデカい敷地の中にその建物があります。 俣野別邸 https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/matanobettei/about/outline.php 内苑に位置する俣野別邸は、昭和14年に建てられました。昭和初期のモダニズム影響下における、ハーフティンバ…
ホーチミン1区ドンコイ通りの真ん中にあるバロック様式のコロニアル建築のオペラハウス 市民劇場Nha Hat Thanh Pho フランス統治時代、1897年…
休憩中、仲良し同僚と3人でテレビを観ていたら、ランタンフェスティバルのCM。 「2月9日からランタンがありますよ」 「俺、行ったことない」 「俺は何回かありますよ。また行きたいな」 じゃあ、行く?って話になって、 いざ、5人でランタンフェスティバルへ。 ランタンの前に少しだ...
サイゴン大教会の近くにある 『ホーチミン観光:サイゴン大教会』ホーチミン1区サイゴン大教会 と サイゴン中央郵便局 教会とその前の庭園を挟むように走る道路は…
昨日は昨年放送されたNHKBSのドラマ「探偵ロマンス」の制作の舞台裏の話が聞けるというので、横浜情報文化センターまで出向きました。「探偵ロマンスDearDetectivefromRANPOwithLove」は、20世紀初頭(大正時代)のまだ作家になる前の江戸川乱歩が、伝説の探偵と出会い、難事件に巻き込まれながらも成長していく・・・という、坪田文さん脚本のオリジナルドラマ。伝説の探偵は草刈正雄さんが、若き日の江戸川乱歩を濱田岳さんが、謎の男は尾上菊之助さんという配役です。一年ほど前の作品ですが、このドラマにすっかりはまって今だに余韻が残っているので、この公開セミナーに申し込みました。何故はまったかというと、一つはミステリー好きとしては「江戸川乱歩」に興味が湧くし、一話を視聴してその舞台セットに魅了されたから...ドラマの公開セミナーへ#探偵ロマンス
まだ行った事のないミュージアムが幾つかあるので、その1つを目指して出かけました。最寄り駅は、国会議事堂もあるシンタグマです。この日も天気予報では日中最高1...
愛知 博物館明治村レンタルBBおすすめスポット博物館明治村愛知県犬山市内山1番地広大な敷地(約100万平方メートル)に、明治建築を保存展示する野外博物館1丁…
今回は福岡県中央部、嘉麻市にある沖出古墳をめぐります。この古墳は4世紀終盤に築かれた、墳丘長は68メートルの前方後円墳です。その場所は旧稲築町・旧山田市にまたがる丘陵地帯の先端部にあたり、丘陵の一部を切り崩し、それを加工する形で築かれています。▲沖出古墳はこんな形!飯塚と日田を結ぶ国道211号線からわき道にそれ、旧山田市街地の方に進むと、ほどなくして左手に立派な古墳が見えてきます。駐車場に車を止め、さっ...
旧抜子社は台湾東部、花蓮県瑞穂郷の北側にある神社跡地です。台鉄富源駅から歩いて行くことができ、比較的交通の便の良い場所にあります。境内入口では水車が回っています。案内看板にも神社跡である旨が記載されていますが、名称は抜子祠ではなく「白川神社」となっています。▲境内入口から参道を眺めて水路をわたり、境内に入ります。旧抜子社を代表する遺構といえば、なんといっても入口付近に建つ石灯篭でしょう。完全な形で...
台北市中心部、南京東路・新生北路・林森北路・新生北路二段28巷に囲まれた場所にあるのが、市民憩いの場「林森公園」です。かつて「三橋町(みはしちょう)墓地」として日本人が葬られていましたが、戦後になり日本による台湾統治が終わったのち、国共内戦に敗れた国民党政府が本拠地を台湾へ移すと、中国本土から大量の中国人が台湾へと流入し、彼ら在台中国人によって大量のバラック小屋が建てられるようになりました。李登輝政権後半...
九州鉄道眼鏡橋跡(宗像市赤間)―JR教育大前駅に残るレンガ橋の残骸
宗像市東部にあるJR教育大前駅までやってきました。こちらは福岡教育大学と唐津街道赤間宿の最寄り駅です。改札口前の陸橋「舞鶴橋」は元々煉瓦アーチ橋でしたが、1961年の鹿児島本線電化に伴い、コンクリート橋に掛け替えられています。現在でもコンクリート積みの一部が残っており、道端から見ることができるほか、説明碑も設置されており、橋の歴史を知ることができるようになっています。▲九州鉄道眼鏡橋跡九州鉄道眼鏡橋は、...
九州鉄道海老津赤レンガアーチ橋(岡垣町海老津)―城山峠旧線の貴重な生き証人
今回は岡垣町海老津にある、「九州鉄道赤レンガアーチ橋」をめぐります。下のYouTube動画と併せてご覧ください。このアーチ橋は九州鉄道の鉄道橋として、明治23(1890)年にドイツ人技師によってイギリス積み工法で建設されました。当時はまだ海老津駅(教育大前駅は民営化後に開業)が開業しておらず、遠賀川~赤間間は現在とは異なるルートを通っていました。宗像郡と遠賀郡の境目に聳える城山峠にはまだトンネルがなく、当時の赤...
雨降る港町・基隆市中心部をぶらり(旧神社~義重町~日新橋~基隆駅)
基隆(きいるん)市は台湾北東部にある港町であり、日本統治時代以前より、台湾防衛上重要な位置を占めてきました。日本統治時代には、台湾と当時の内地を結ぶ連絡船が発着する港町として、そして軍港としても発展を遂げてきました。今回は旧基隆神社から基隆駅までと短い距離ですが、市内を歩いてみることにします。旧基隆神社は信二路沿いに立地しており、この通りを西へ進むと基隆港に、東へ進むと基隆女子高(中文:基隆女中)に...
瀬高と佐賀を結んだ国鉄佐賀線(1987年廃止)を語るうえで、筑後川昇開橋の存在は欠かせません。廃止から30年を経た今もなお、昇開橋は筑後川下流部のシンボルとして、鉄道ファンのみならず多くの人に愛されています。鉄道橋としての役目を終えたのち、昇開橋は歩行者橋に生まれ変わりました。今回はそんな昇開橋を、福岡県側から歩いてみたいと思います。▲筑後川昇開橋入口福岡県大川市にある昇開橋入口にやってきました。橋のた...
九州唯一の石庭をたずねて 光明禅寺の仏光石庭(福岡県太宰府市)
西鉄太宰府線を往復するついでに、太宰府の街中を散策しました。その途中、光明禅寺の門が見えてきたので、紅葉がどうなっているのか気になり、入ってみることに。これから境内にある仏光石庭(前庭)を散策したいと思います。本寺院は臨済宗東福寺派に属し、鎌倉時代に鉄牛圓心(菅原氏一族)により創建されました。九州唯一の石庭なんだそうで、七・五・三の十五石で光の字に配石されているのが特徴です。あいにく土塀の補修作業...
円山水神社(台北市士林区)―神秘的光景に台湾の水道史を垣間見る
台北メトロ剣潭駅にやってきました。ここは九フンと並んで、台湾観光でお馴染みの観光地となっている「士林夜市」の最寄り駅です。夜市は駅から歩いてすぐの場所にあるため、個人旅行で訪れる方も多いのではないでしょうか?今回の目的地は士林夜市ではありません。剣潭駅のすぐ傍には、台北自来水道事業処陽明分処があり、その敷地内には日本統治時代の史跡「円山水神社」「円山貯水池」が残されています。陽明分処への入口は、剣潭路と...
芝山巌学堂と神社跡(台北市士林区)―明治期台湾の殉職者「六士先生」眠る
日没まであと二時間ほどあったので、その僅かな時間を利用して、「芝山巌」という丘陵地帯に足を運びました。ここは、日本領台初期に日本語教育を行う学校「芝山巌学堂」が置かれた場所であり、文部省の伊沢修二氏と七人の教師が台湾人に日本語を教えていました。抗日ゲリラ征伐を行う近衛師団を率いた北白川宮能久親王殿下が、マラリアのため台南で薨去したのち、伊沢氏と教師一名は親王の遺体とともに内地へ戻りましたが、その直...
JR筑後船小屋駅に残るレンガアーチ橋・レンガ橋台 (筑後市津島)
100年以上もの歴史を誇るJR鹿児島本線には、随所に古いレンガ建築が残っています。現役で使用されているものがある一方で、使われなくなって「遺構」になったものもあります。今回は福岡県筑後市にあるJR筑後船小屋駅の周辺をめぐり、鹿児島本線上に残るレンガ建築を観察していきます。JR鹿児島本線の下り列車は筑後船小屋駅を出ると、すぐに矢部川の大きな橋を渡るため、高い築堤の上を走ります。矢部川の堤防と一体化した親水公...
舟つなぎ石(福津市勝浦)―ついでに名古屋港マスコット「ポータン」の話も
今回は福岡県福津市の勝浦地区にある、舟つなぎ石を見ていきます。舟つなぎ石とは?勝浦地区の平野部は、明治末まで約23haにおよぶ塩田になっていました。江戸時代の1666(寛文6)年に塩田が造成されるまでは、桂潟からあらじ(在自)潟まで続く深い入海で、勝浦浜から梅津の森山に伸びる砂丘によって外海と仕切られていました。この舟つなぎ石は、かつて入海を出入りしていた船を結び付けていた石です。今では当時の港の所在を示す唯...
古墳の石室というのは、たいてい覆土されているか、開口していても年に数回しか見られないのが基本です。しかし、ごく少数ながら年中石室を見学できる場所もあります。今回はその一つ、福津市小竹地区にある「小竹石穴古墳」をめぐっていきます。鞍手郡にも同じ
今回、オーシャンビューを満喫できるという東郷神社にやってきました。こちらの神社は福津市北西部の渡半島に鎮座し、日本海海戦で指揮を執った東郷平八郎元帥を祭神としています。ロシアのバルチック艦隊と交戦したこの海戦が、宗像市の沖ノ島沖であったことから、この地に鎮座しているのです。さすがは日本史に不可欠な偉人を祭神としているだけはあります。境内には清掃が行き届いているようで、しかも広い境内を有しています。...
台湾南東部最大の都市・花蓮にやってきました。この街は日本統治時代になってから本格的な整備が始まったので、非常に日本色が強く、至る所に日本家屋があります。今回は花蓮駅を起点に、市内の史跡・名所などを巡ってみました。花蓮駅から市街地中心部へは距離があるので、移動する際はバスかレンタサイクルのどちらかが良いでしょう。今回、筆者はレンタサイクルを利用して巡りました。花蓮客運バスターミナルのすぐ横にある「ジ...
福岡県福津市には数多くの古墳が残されていますが、中でも以前から知られているのが、今回お届けする手光波切不動古墳です。同古墳は円墳とされており、九州では珍しい構造の石室を有しています。調査の結果、築造年代は7世紀初頭(飛鳥時代初期)と推定されています。▲手光波切不動古墳全景古墳は住宅地のど真ん中にポツンと盛り上がっています。周囲に高い木々はなく、古墳のある場所にだけ鬱蒼とした森が残っています。古墳への入...
東台湾の要所・台東市郊外をぶらり散策(台東駅~遊歩道~旧駅跡)
現在の台東駅が台東市街地から遠く離れていることに関しては、以前にも述べた通りですが、今回はどのくらい離れているか実感すべく、(無謀にも)台東駅から旧駅まで歩いて移動しました。駅から市街地へはバス(鼎東客運)が出ているので、移動される際はぜひご利用ください。駅入口から向かって右側にバス乗り場があります。結論から先に述べておきますが、約1時間かかりました。駅前通りを抜けて東46郷道(興安路)に入り、さらに省道...
台東駅の裏側にある南王地区には、台湾原住民のひとつ・プユマ族が居住しています。たまたま台東駅を利用する機会があったので、なにか原住民ネタはないかと駅裏手に回ってみました。すると、細長い石柱が屹立しているではありませんか。周囲を柵で囲んでいる点からして、ただの石でないことは一目でわかりました。石柱の前に説明板があるので、ちょっと読んでみたいと思います。▲台湾先史時代の貴重な遺物「月形石柱」この石柱は「...
ハラワン祠跡(花蓮県玉里鎮)―変形鳥居がたつ原住民集落の神社跡
台湾東部 花蓮県玉里鎮楽合地区には、原住民アミ族が居住するハラワン(楽合)集落があり、日本統治時代に建立された神社の跡が一部残されています。ハラワン集落は省道台9線沿い、言い換えると玉里市街地から数キロ離れた場所にあります。日本統治時代当時、ハラワン集落は大字落合に属していましたが、戦後、落合は中国語で同音の楽合に改称されました。▲ハラワン集落周辺の地図▲ハラワン集落入口に立つ「楽合勇士」の像ここから集落...
台湾東部 花蓮県玉里鎮には日本統治時代の史跡が数多く残されています。その中でも一番有名なものが、旧「玉里社」ではないでしょうか。戦後、中国国民党によって施設が破壊された後も、鳥居や石灯篭などが草木に埋もれながらも残されてきました。近年の保存活動により史跡公園として整備され、現在では境内に入りやすくなりました。神社入口に立つのは一の鳥居。周囲には民家が建っており、鳥居柱が一部、民家にめり込んでいます。...
駅舎は変わっても語り継がれる「歴史」 JR水城駅の木造跨線橋
福岡県大野城市と太宰府市の境界付近にある、JR水城駅にやってきました。その名の通り、駅のすぐ横には史跡「水城」が連なっています。また、同駅から直線距離にして北へ500メートル進んだ場所には、西鉄下大利駅もあります。一帯は福岡市のベッドタウンにあたり、閑静な住宅街が広がっています。さて、そんな水城駅から電車に乗ろうと改札を抜けると、やけに古めかしい木造の跨線橋が目の前にそびえていました。福岡近辺でこんな...
石岡農会精米穀倉(台中市石岡区)―日本統治期台湾の農業事情を垣間見る
今回は台中市北東部、石岡区へと来ています。こちらには日本統治時代に建造されたという、精米用の倉庫が現存しています。石岡自体は小さな町で、市街地をめぐろうと思えばそう時間はかかりません。今回の精米穀倉も、あっという間に見つかりました。市中心部から少し外れると、低層の民家ばかりとなり、典型的な台湾の片田舎が広がっています。比較的古い民家も残っており、台湾の伝統家屋が日本統治の影響を受け、変化していく過...
保存進む台湾の官舎建築...中壢の日本家屋を調査した(桃園市中壢区)
台湾の主要都市に行くとよく遭遇するのが、昔ながらの茶色い日本家屋です。これら日本家屋はたいてい、学校や役所(市政府・鎮郷公所)の附近にあることが多く、日本統治時代に教員・公務員のための宿舎として使用されていたものにあたります。戦後は中国から植民した外省人(在台中国人)が入居し、増改築を受けつつその多くが21世紀まで残ってきました。現在では台湾人アイデンティティの拠り所として、芸術家育成の場として、郷土資...
古蹟から現役民家まで...東台湾「台東市」の日本家屋を調査した
台湾各地の都市には規模の大小にかかわらず、多くの日本家屋が現存しています。これは言うまでもなく、日本統治時代の名残りです。なかでも、花蓮県・台東県を中心とする東海岸には日本人によって計画・建設された都市・街が多く、ゆえに現存する日本家屋の数は島内屈指といえます。今回は台東県の中心地・台東市に残る日本家屋を調査していきます。雨天のため、調査範囲は旧台東駅前と台東観光夜市周辺に限定しましたが、それでも...
旧蘇澳金刀比羅社(宜蘭県蘇澳鎮)―台湾屈指の漁師町を見下ろす神社跡
今回お届けする旧蘇澳金刀比羅社は台湾北東部、蘇澳の小高い山の上にあります。かつて「臨海道路」と呼ばれた蘇花公路から参道が分かれ、砲台山の頂上まで続いていました。終戦から70年以上を経た現在でも、金刀比羅社の名残りが随所に残っています。今回はそんな砲台山を巡ってみようというのです。蘇澳金刀比羅社の参道は先述のように、蘇花公路から分岐していました。ところが戦後道路拡幅のために、参道の入口付近が大幅に削り...
日本統治時代の史跡活用また一つ...再生した新富市場(台北市万華区)
台湾では近年、日本統治時代に建造された建築物を修復・改修して活用するケースが増えています。台湾の首都・台北市も例外ではなく、市内に点在する木造宿舎や洋館の修復が行われている話をよく耳にします。今回は修復が完了したばかりという、万華区にある新富市場を訪れました。荒廃していた市場建築と和風建築の事務所が修復され、資料館・カフェとして再利用されているというのです。新富市場のある万華に来てみると、残念なが...
中華路139巷の宿舎群(花蓮県玉里鎮)―東台湾の田舎町に残る日本家屋
台湾東部にある交通の要所・玉里にやってきました。同地を訪れたのは、玉里鎮公所の近くに残っているという木造宿舎(日本家屋)を記録に残すためです。ところが、今回の玉里滞在時間は行程の都合上わずか15分しかありません。はたして、予定通りに取材をこなすことはできるのでしょうか。旅行記スタイルでお届けします。▲リニューアルで生まれ変わった玉里駅今回は列車で玉里入りしただけに、玉里駅を起点に目的地を目指します。約2...
台湾の首都にして最大都市・台北市の中心部にやってきました。今回は台湾政府の主要機関が集中する地域、日本語地名でいうならば幸町~樺山町にかけての地域をめぐっていきます。▲亭仔脚の中から旧台北州庁を眺めて台北駅のすぐ東側が今回めぐる地域にあたります。駅から数百メートルほど東には、旧台北州庁をそのまま転用した監察院があります(写真上)。先ほど二つの地名を挙げましたが、幸町・樺山町ともに台北駅のすぐ東側にあ...
旧台東神社(台東県台東市)―拝殿残存説あり...東台湾・鯉魚山の神社跡
今回お届けする台東神社は台湾南東部、台東市の中心部鯉魚山にありました。神社跡地は現在台東県忠烈祠として整備されており、境内には神社時代の構造物がいくつか現存しています。▲旧台東神社入口神社入口は旧台東駅(現在の台東バスステーション)の裏側にありました。当時の参道は忠烈祠の参道に転用されています。▲旧台東神社・鯉魚山施設配置図日治時期台東神社遺址、鯉魚山配置圖かつての神社参道には鯉魚山の由来に関する説明...
旧里壠社の石灯籠台座(台東県関山鎮)―台湾屈指の日本家屋密集地だが...
今回お届けする旧「里壠社」は台湾東部・関山鎮にあった日本統治時代の神社跡です。神社名の「里壠」は関山の旧名にあたる地名で、昭和12年の地名改称により「関山(かんざん)」へと改められました。関山における神社建立は比較的遅く、昭和になってからの1928年です。つまり里壠社は20年も存在しなかったことになります。同神社はやはり戦後取り壊され、境内跡地はごく一般的な農道になってしまいました。以下、跡地周辺での調査記...
鹿野村社(台東県鹿野郷)―日本統治時代の風格甦った東台湾移民村の神社
2015年の春、台湾南東部にある鹿野郷で神社が再建されました。再建された「鹿野村社」は当初、日本統治時代の内地人移民村「鹿野村」の鎮守として建立され、戦後は社殿の基礎のみ残存していました。しかし近年、基礎の修復にあわせて社殿も再建されることが決まり、2014年ごろから再建工事が行われてきました。そして2015年、もとの位置に鳥居・石灯籠・社殿が再建され、「鹿野村社」はおよそ70年ぶりに鹿野の台地に蘇りました。鹿...
東台湾・林田移民村 南岡集落の現在をたずねて(花蓮県鳳林鎮)―多数残る日本家屋
東台湾・花蓮県鳳林鎮にあった日本人移民村「林田村」のうち、今回は一番南に位置する南岡集落をめぐります。同集落には戦後、日本人がいなくなった場所に客家系を中心とする台湾人が移り住み、一村と呼ばれるようになって現在に至ります。また、戦前から戦後にかけて煙草の栽培がおこなわれてきたため、集落内部には収穫した煙草の葉を乾燥させるための小屋「ベーハ小屋」が残っています。今回は旧南岡集落をめぐり、ベーハ小屋や...
台湾北部のローカル線「平渓線」に乗り、終点の菁桐駅にやってきました。平渓線は一応ローカル線ではあります、台北から近いうえに沿線には観光地が多く、週末になると多くの観光客でにぎわう路線です。今回も満員すし詰めの列車で苦しみ悶えながらの道中でした。さて、今回菁桐にやってきたのには理由があります。日本統治時代に炭鉱開発が行われたという同地には、80年以上前に建造された木造建築が複数保存されているというので...
東台湾・林田移民村 中野集落の現在をたずねて(花蓮県鳳林鎮)―僅かに残る日本家屋
東台湾・花蓮県鳳林鎮にあった日本人移民村「林田村」のうち、今回は中央部に位置する中野(なかの)集落をめぐります。南側にあった南岡集落と同じように戦後、日本人がいなくなった場所に客家系を中心とする台湾人が移り住み、二村と呼ばれるようになって現在に至ります。中野集落は林田村の中心地だったようで、集落内には駐在所と尋常高等小学校(→国民学校≒小学校)が置かれていました。なお学校は現在でも学校として機能しており...
日本統治時代、東台湾には多数の内地人移民村が置かれていました。中でも現在の鳳林鎮にあった「林田村」は、官設移民村として大正初期から開発され、おもにタバコ栽培が行われました。また、住民には福岡・熊本県出身者が多かったとも記録されています。そんな林田村の鎮守として建立されたのが、今回登場する林田神社です。大国魂命・大己貴命・少彦名命・北白川宮能久親王を祭神とし、毎年10月6日に大祭が執り行われました(花...
台湾北部、台北市郊外にある観光地・北投温泉には多くの日本家屋が現存しています。この温泉地は日本統治時代に整備されて以来、台湾を代表する観光地として君臨してきました。今や温泉だけでなく、古い日本家屋も立派な観光資源となっています。今回ご紹介する「普済寺」も北投温泉を代表する観光資源の一つで、もとは日本仏教の寺院として建立されたものです。それでは早速中に入り、どのような寺院なのか見てみましょう。普済寺...
現存量多し!東台湾「関山」の日本家屋を調査した(台東県関山鎮)
台湾南東部、台東県第二の町関山には多くの日本家屋が残っています。そもそも台湾の主要都市には、公務員宿舎をはじめとする日本家屋様式の建築物が多く残っていますが、高層建築の林立によって町並みが変化しているため、戦前の雰囲気を残している場所は多くありません。ところが関山という場所は人口密度の低い台湾東海岸にあって、しかも都市化の影響をほとんど受けていません。おかげで碁盤の目に区画された関山市街地には、70...