メインカテゴリーを選択しなおす
(86)天岩戸とアメノウズメの舞 2アマテラスが岩屋に閉じこもり、世界が闇に閉ざされる。神々は天の川の岸辺に集まり対策会議をおこなう。アマテラスを岩屋から引っ張り出すべく知恵者のオモヒカネによる脚本、演出による神々の大芝居を打つことに。始まりは長鳴鳥の鳴き声で夜が明けたことを合図に幕が上がり、祝詞をあげ、アメノウズメの舞とともに宴が始まり、男神も一緒に舞い始めるそんな岩屋前のシーンを描いてみました。(ア...
蘇我韓子は、雄略天皇9年(465年)、雄略天皇の命で、紀小弓、大伴談、小鹿火宿禰と共に大将に任じられ、新羅が、百済地域に進出して、城を奪い、対馬海域を押さえ…
中臣鎌足は、若い頃から、中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記していた。 『六韜』は、中国の代表的な兵法書で、武経七書の一つ。 『三略』と併称、太公望の著書…
本項は、まずは、藤原氏の祖である、藤原鎌足についての解説から、始めることにする。 藤原鎌足は、中臣氏の出身のため、生前は、中臣鎌足を称していた。 鎌足の臨終…
本項の題名、「万世一系を実現した、藤原氏の内紛」は、中華世界と同様、藤原氏による、皇位簒奪の可能性を論じることになる。 「万世一系」は、無論、神武天皇の子孫…
日本の天皇は、126代目の今上(令和)天皇に至るまで、全て、神武天皇の子孫である。 本書執筆時点の2024年は、神武紀元2684年とされるが、100歳を超え…
日本の「天皇」、即ち、支配者の正統性は、天照大神の子孫、即ち、神武天皇の男系男子の血統のみであり、他の正統性は、存在しない。 中華世界の様に、「易姓革命」の…
ハノーヴァー朝は、ヴィクトリア女王の死後、王配(夫)のアルバート公の家名である、サクス=コバーグ=ゴータ朝となった。 そして、第一次世界大戦中に、敵国のドイ…
一般的に関ヶ原の戦いにおいての西軍の敗因は、小早川秀秋の裏切りによるところが大きいと考えられています。確かに決定打となったのは秀秋の裏切りといえるかもしれませんが、他にも多くの敗因が存在しますので、ここにまとめてみました。
関ヶ原の戦いにおいて、小早川秀秋、吉川広家の裏切りは勝敗に大きな影響を与えましたが、その他にも西軍総崩れの引き金となった裏切りがありました。脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らの裏切りです。
田辺城の戦い~教養は大軍より強し!?わずか500の兵で15000の大軍を釘付け!?~
「田辺城の戦い」は畿内(当時、日本の中心地であった山城、大和、河内、和泉、摂津、5ヵ国の呼称)近国の制圧を目指す西軍、小野木重次、前田茂勝、織田信包ら豊後の諸大名を中心とした1万5000の軍勢と細川家との間で行われた籠城戦です。
五大老の一人で、関ヶ原では副大将として17,000人という西軍最大の軍勢を率いて主力として戦った宇喜多秀家でしたが、実はその多くが浪人(牢人)達で編成された寄せ集めの軍勢でした。
小早川隆景は兄の吉川元春と並び「毛利両川」と謳われ毛利家の発展に大きく貢献し、また秀吉からも高く評価され、豊臣政権の最高役職である五大老に任じられました。知略に優れ、天才軍師の黒田官兵衛をして賢人と言わしめた人物です。
【真田昌幸】天文16年(1547年)~慶長16年(1611年)享年64歳武田勢において屈指の知将であった真田幸隆(幸綱)の三男として生まれた昌幸(幼名、源五郎)は、幼少の頃よりその才能を見出され奥近習衆(信玄の側近中の側近)に抜擢され英才教
大谷吉継は越前敦賀を治めた大名で、豊臣秀吉の家臣で石田三成の盟友でもありました。名将として知られ、戦場でも内政でも類稀な才能を発揮して秀吉の懐刀として重宝されました。また戦国を代表する義将としても有名です。
一般的に石田三成といえば戦下手で三成の軍勢は弱いといったイメージがありますが、一概にそうとはいえない部分があり、事実、その配下には勇猛で名を馳せた武将が数多く存在します。
関ヶ原の戦いは、関ヶ原での本戦をはじめとして日本各地で合戦が繰り広げられました。その為、もう一つの関ヶ原と呼ばれる戦いが多数存在しますが、その中でも特に興味深いのが天才軍師と呼ばれた黒田官兵衛(孝高・如水)の九州においての戦いです。
関ヶ原の戦いの勝敗を決定づけたといっても過言でない小早川秀秋と吉川広家の裏切り。この二つの大きな裏切りには共通した陰の仕掛け人がいました。関ヶ原の戦いでの西軍にとって最大の裏切り者、そして東軍にとっての最大の功労者とは!?
関ヶ原の戦いで裏切り者と言えば真っ先に小早川秀秋の名が挙がると思います。確かに勝敗を決定的にしたのは秀秋ですが、関ヶ原の戦いでは他にも多くの裏切りがあり、中でも秀秋に匹敵する程、戦いの勝敗に大きな影響を及ぼした、もう一つの裏切りがあります。
「大津城の戦い」は関ヶ原の戦いにおける前哨戦の一つで、突如、東軍に寝返り籠城した大津城城主、京極高次と西軍による戦いです。一般的にはあまり知られていませんが、関ヶ原本戦に大きな影響を与えた戦いの一つです。
第二次上田合戦は、中山道を通って関ヶ原に向かう徳川秀忠の軍勢3万8000と上田城に約3000の兵を以て籠城した真田親子(昌幸、信繁※幸村)との戦いで、関ヶ原の戦い本戦に大きな影響を与えた一戦です。
小山評定(おやまひょうじょう)とは、家康と会津征伐に従軍していた諸大名によって行われた軍議で、関ヶ原の戦いを決定づけた重要な出来事です。
関ヶ原の前哨戦ともいわれる伏見城の戦いは、西軍の主力4万の大軍に対し、わずか2300人の兵力で迎え撃った籠城戦です。そこには三河武士の鑑と称された忠臣と家康との苦渋の別れがありました。
「岐阜城の戦い」は関ヶ原の戦いの前哨戦の一つで、西軍の重要拠点であった岐阜城をめぐって東軍、西軍が激突した戦いです。福島正則、池田輝政ら3万5000の兵力に対して、6000の兵をもって岐阜城を守っていたのは信長の孫の織田秀信です。
小説『暗殺』レビュー イントロダクション 柴田哲孝の小説『暗殺』は、2024年6月に発売された政治サスペンス小説で、実際の事件をモチーフにしていることが特徴です。物語は、日本の元総理大臣が奈良県で演説中に凶弾に倒れるというショッキングな事件
はじめまして。初回なのですが、経緯はプロフィールに書きましたのでご挨拶抜きでいきなり書き出します。 本当に手当たり次第なうえ、まだこのブログに慣れていませんので、色々とご容赦くださいませ。 さて、御存知の方も沢山いらっしゃるでしょうが、福岡県朝倉市に『橘広庭宮跡』というのがあるんだそうです。教科書にも載っている663年の白村江の戦いに向かう時に、いわば大本営として造られた、天皇の御座所ですね。 朝倉橘広庭宮跡 「あさくらのたちばなのひろにわのみや」と読みます。画像は手持ちがなかった(多分、どこかにはあると思われます)ので、福岡観光WEBさんから。 造営時の天皇は斉明天皇。あの方ですね。蘇我入鹿…
昨日は橘広庭宮からあれこれ書きました。今日もその辺のお話です。 斉明天皇が661年の旧暦で5月9日に崩御されたので、実子でもある中大兄皇子は殯(もがり)しないといけなくなりました。 殯っていうのは古代のお葬式で、故人の遺体を火葬したり埋葬したりせずに、棺に入れたまま葬礼用の屋敷に安置して、近親者がその中で遺体が腐敗して白骨化していくのを確認し、確かに亡くなったことを納得する儀式なんだそうです。 本当でしたら天皇家の方なので、殯宮っていう宮をひとつ建ててその中で一年間暮らすのだそうですが、中大兄皇子は、「戦の陣中だから」ってことで、ひと月を1日に替えて12日間の殯としたのだそうです。 で、この殯…
宮地嶽神社は全国にありますが、福岡県福津市にある神社が有名ですね。年2回見える海まで続く光の道は、所謂映え写真のスポットです。ここの神社が、全国各地にある宮地嶽神社の総本社なんだそうです。 ただ、今回はここの宮地嶽神社ではなく、朝倉市宮野の宮地嶽神社です。というか、宮地嶽神社がこんなにいっぱいあるの、初めて知ったんですけど!朝倉市だけで3か所くらいある!ざっくり地図もらってなかったら、どの宮地嶽神社かわからないところでした。 この宮地嶽神社は、先日から書いている橘広庭宮跡から直線距離で1kmちょっと北西ににあります。山の上なので、実際はもうちょっとあるでしょうね。 ちっちゃい神社で、鳥居と拝殿…
斉明天皇と中大兄皇子の朝鮮出兵に関する記事が続きましたので、ちょっとこの辺の歴史をおさらいしたいと思います。 高校の日本史の教科書を読んでみましたけど…………うん。わからん。 なので、私が納得できるようにあれこれ調べて書いていきます。 西暦300年代ごろからの朝鮮半島は、小勢力が乱立するいわば群雄割拠状態だったようです。その中で倭国こと日本も朝鮮半島で影響力を持つべく、半島の南端で日本列島からほど近い任那と言う勢力を応援します。勿論無償ではなかったようで、任那からはいろいろ貰っていたようです。いつ頃からかというと、日本書記などに神功皇后が出てくるころには、任那は既にあるものとして書かれているの…
字だらけの記事が続きますが、先にこれをやっといた方が後が書きやすいので、福岡の古代史語りに欠かせない、神功皇后のおさらいをしておこうと思います。 神功皇后は、実在の人物ではないとか、何人かのエピソードを纏めて一人の人物として語られたものだとか言われていたりもます。まあ、そうかもしれませんし、そうでなかったとしても誇張や神格化はされているでしょう。 なので、どこまでを史実とするかは置いておいて、今回は神功皇后がどんなことをしたと言われているかをざっくりおさらいします。そしてこの先しばらく各エピソードを細かく見ていくことになると思います。 では、スタート。 神功皇后というのは諡号なので、本来のお名…
熊襲、熊鷲、土蜘蛛。これらは、九州にあった大和朝廷とは別個の勢力のことです。熊襲と羽白熊鷲は、おのおの独立した特定の勢力を指すようですが、土蜘蛛は九州に色々いる土着勢力の総称の事のようです。昔は東国と呼ばれていた、関東以北の勢力を蝦夷と呼んでいたのと同じですね。 神功皇后はほぼ関係ないのですが、先ず、熊襲について書いて行こうと思います。 おそらくは大和朝廷がまだ完全に九州を掌握出来ていない頃、景行天皇は即位12年に熊襲征伐のため、九州巡行を行います。景行天皇は第12代天皇なので、神功皇后の御主人である仲哀天皇の2代前の天皇です。 8月に出立し、途中、周防の国や豊後の国で賊や土蜘蛛を倒しながら1…
7月になりましたね。全国のあちこちで大雨が降っていますが、皆様の所は大丈夫でしょうか?皆様が恙なくお過ごしになりますよう祈っております。 予告通り、羽白熊鷲(はしろくまわし)について書いて行こうと思います。 日本書記では、荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲あり、と書かれています。手元の資料によれば、羽白熊鷲は儺県(福岡市)の南方、脊振山系から朝倉郡にかけて勢力を持っていた土酋の一人、だそうです。「土酋」とは、先住民の統率者のことだそうなので、羽白熊鷲という人が率いる集団がいたんですね。「羽白熊鷲」ってう集団がいたのかと思っていました。 日本書紀では羽白熊鷲について「その人となりは強健で、翼が…
前回の記事で、日本書記に「荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲あり」とあると書きましたが、その荷持田村について書くのを忘れていました。 羽白熊鷲の勢力範囲が脊振山系から朝倉郡にかけてだということなので、荷持田村は羽白熊鷲個人の居住地でしょうか?日本書記の書き方はあっさりしすぎていてよくわかりませんが、そんな書き方ですよね?資料には、現在の朝倉市秋月野鳥、平成の大合併前は甘木市大字野鳥だったところ辺りではないかと書かれています。 朝倉市秋月の秋月城や武家屋敷なんかがある観光地の所から、小石原川の支流である野鳥川を遡るように秋月街道を古処山方面に上っていった所に、昔は野鳥村というのがあったそうです…
あ、暑いですね… パソコン部屋にエアコンがないので作業が厳しくなってきました あれこれ調べながらブログ書いていてると、私よりパソコンが先に音を上げるんですよね💧今はまだ、内蔵データ飛ばされたくないので、労らないと。もっと要領よくやれればいいんですけどね。 まだまだ暑い日が続きますが、皆様も熱中症等ご注意ください。 今日は、大乙貴(おおなむち)神社についてです。 朝倉郡筑前町弥永にある大乙貴神社の御祭神は、天照大御神、大国主命、春日大明神です。日本書記に、次のような一文があります。 『一書に曰く、大国主神は、またの名を大物主神、また国造りの大乙貴神と号し、また八千戈神といい、また大国玉神といい、…
神功皇后についていろいろと書いてきましたが、当然、資料にあってもここに書けていないことも沢山あります。一番ブログの参考にすることが多かった河村哲夫先生の『西日本古代紀行』などは、神功皇后が香椎宮から松峡宮に移動された時の道行き、それから、羽白熊鷲を討ってからの行程などを事細かに解説してあるんですよ。 それを読んで思ったのが、 神社が多い! ということ。 事あるごとに神社造る。何か困ったら神社造る。上手くいったら神社造る。作らないまでも既にある神社に何か奉納するし、社に何か祀ったりする。なので、神功皇后にまつわる謂れのある神社がめちゃめちゃ多いんです。勿論、神社以外もあります。 朝倉郡筑前町にあ…
今回からしばらく、田代将門著『舊志に據れる筑前秋月家の研究』という本を読んでいきます。書きながら、この本のタイトルがブログでちゃんと表示されるのか危ぶんでいるんですが、旧漢字なんですよ。書いたはいいけど私自身、ちゃんと読めなくて調べました。 舊志:旧志(キュウシ)。昔、記録されたもの 據る:因る・由る・拠る・依る・縁る(ヨる)。手段とする。根拠とする。のっとる。 それぞれほかの意味もありますが、特に『據る』は活用範囲が広いので割愛します。今回の用法では、こういう意味のようです。 旧字が使われていることで古い書物だということはお分かりだと思いますが、初版が昭和6年4月3日。戦前なんです。印刷者の…
ええと、まだ平安時代終わっていませんでした。それから今後の進め方としては、前回分も含めて秋月氏の歴史をさっくり辿った後で、背景となる事件をひとつずつおさらいすることにします。それでは前回の続きから。 書籍によって家系図が微妙に違うのですが、秋月家譜を元にしますと、安徳天皇に仕えたという大蔵種成の長男が原田種直(はらだたねなお)となります。この頃の人々は、文献に寄って姓を「大蔵」としたり「原田」としたりされますが、このサイトでは種直から「原田」としましょう。特に理由はありませんけど。 というわけで、1158年(保元3年)平清盛が大宰大弐に就任した時、原田種直は大宰大監でした。この頃、大蔵氏一族は…
どうにも区切りが悪いのですが、前回筑後川の戦いまで書いてたので、その後をちょろっと書いておきます。 筑後川の戦い以来、九州で菊池氏をはじめとする一勢力を保持していた懐良親王は、1351年に大宰府を攻略。以後、大宰府を征西府とします。観応の擾乱・武蔵野合戦・八幡の戦いで機内と関東以北は一応大人しくなり、南朝の最大勢力は九州にいる彼等たちとなっていました。 京都で北山文化が花開くまでもう少しという1372年。当時14歳の征夷大将軍足利義満は、九州探題として今川貞世、大内義弘を派遣します。(実際は管領として将軍を補佐していた細川頼之の指示らしいですけどね。)早速、九州探題は早速南朝討伐に乗り出し、就…
あっついですねえ。 さっき、家族と話してたんですが、一日中エアコンの効いた部屋の中にいると体が動かなくなる気がします。だけど、この猛暑の中エアコンのない所にいても何もできませんよね。屋外やエアコンなしの屋内でお仕事なさっている方には、社会の一員として感謝申し上げます。そしていずれの皆様もくれぐれもご自愛なさって、この夏を乗り切りましょう。 前回の最後の方と前後しますが、1568年(永禄11年)、立花鑑載(たちばなあきとし)と高橋鑑種(たかはしあきたね)たちが大友宗麟に立てついたのは、どうも策略家の毛利元就に乗せられたようです。立花鑑載が大友に謀反するのはこれが二度目なので、なんかつけいる隙はあ…
モダン・タイムス・イン・パリ1925 in ポーラ美術館 レポート
ポーラ美術館は、展覧会「モダン・タイムス・イン・パリ1925ー機会時代のアートとデザイン」を開催いたします。世界は戦間期における繁栄と閉塞を経験し、機械や合理性をめぐる人々の価値観が変化していきました。コンピューターやインターネットが高度に
(85)長鳴鶏(ながなきとり)とアメノウズメの舞古事記よりアマテラスがお隠れになった天岩戸の前で 長鳴鶏(ながなきとり)の声を合図に舞うアメノウズメをモチーフに現代的ダンスにて表現してみました。...
今年の私の手帳は戦国手帳です。7月のページに掲げられていたのは山中鹿之介氏でした。私は、山中鹿之介と呼んでいたのですが、山中鹿介が正しいのかな??とりあえずここでは手帳に従って、山中鹿介と呼ぶことにします。さて、彼の異名は「山陰の麒麟児」。まるで夜空に輝く星のように、彼はキラキラと光り、周囲からも大いに期待されていた人物だったのでしょう。ところが、歴史小説を読んでいて、極々稀に彼が登場したと思った...
前回まではこちら⬇️目次我に任せろ!私は源為朝(みなもとのためとも)の孫、里子(さとこ)です。保元元年(1156年)7月11日、白河北殿の崇徳上皇(すとくじょ…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「光る君へ」見てますかぁ〜なんだか…悲しい回だったねってことで第28話の感想ぉ!まひろは母になりましたね。まひろちゃんと…道長さんとの子…
奈良時代の天皇:各天皇の事績とその時代の出来事や中心人物を解説します
奈良時代の天皇を一覧にしました。奈良時代は710年~794年までの間(元明天皇による平城京遷都から桓武天皇による平安京遷都)で、7名の天皇がいました。奈良時代は律令制が崩壊しはじめ、道鏡に代表されるように僧の政治介入もあった時代です。各天皇の事績を振り返りながら奈良時代の流れを説明しました。