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「武者の世の始まり」とされる、保元の乱は、日本の権力闘争の構造を根本的に変えた。 藤原忠実、頼長と藤原忠通の政治的暗闘は、27年間続いたが、保元の乱の武力衝…
上皇と天皇、摂関家、源氏、平氏の各家の骨肉の争いは、崇徳上皇派が、藤原頼長及び、源為義、伊勢平氏の平忠正であった。 後白河天皇派は、藤原忠通、源為義の長男、…
藤原忠通は、既に、36歳になっていたが、男子が、生まれない事を危惧した、忠実は、忠通に、23歳年下で、13歳の異母弟、頼長を養子にするように勧め、1125年…
1108年(嘉承三年)の正月の除目において、武家の平正盛が、「最下品」でありながら、「第一国」の但馬国の受領となる等、白河法皇の近臣が、多く受領に任じられた…
藤原師通の長男、藤原忠実は、1078年(承暦二年)に生まれ、母は、藤原全子である。 前述の通り、藤原師通は、全子と離縁し、藤原信子と再婚したため、忠実は、母…
藤原師実の長男、藤原師通は、1062年(康平六年)に産まれ、1076年(承保三年)に、権大納言、藤原俊家の娘、全子を正室に迎える。 藤原俊家は、藤原道長の次…
当時の太政大臣は、既に摂政・関白にその権限を吸収されていただけでなく、左大臣以下の大臣の様に、実務に関わることは、完全になくなった、名誉職だった。 表向きは…
藤原頼通には、六人の息子、通房、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱、師実がいたが、頼通は、正室の隆姫女王を憚り、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱を養子に出した。 長男の藤原通…
後朱雀天皇の即位後、1039年(長暦三年)8月に、藤原頼通の養女、後朱雀天皇の中宮の藤原嫄子が死去し、後宮は、皇后の禎子内親王(三条天皇皇女)、唯一の状況と…
1061年(康平四年)、70歳の藤原頼通は、太政大臣に任ぜられ、位人臣を極めた。 翌年の1062年(康平五年)、頼通は、父の道長の例に倣い、太政大臣をわずか…
しかし、藤原頼通は、「一家三后」を実現した、父の藤原道長と異なり、子女は、長女の藤原實子のみであった。 なお、頼通には、六人の息子がおり、娘が、一人のみは、…