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前述の通り、橘諸兄の父、敏達天皇の曽孫、または、別説では、五世孫の美努王とされる。 諸兄の母は、県犬養三千代、即ち、橘美千代である。橘美千代は、美努王との間…
730年(天平二年)9月に大納言の多治比池守、天平3年(731年)7月に大伴旅人が、死去して、高齢の中納言の阿倍広庭を除くと、知太政官事の舎人親王の下にて、…
藤原宇合は、式部卿を務めると共に、726年(神亀三年)、知造難波宮事に任ぜられると、後期難波宮造営の責任者を兼ねる。 729年(神亀六年)長屋王の変に際して…
翌年正月に、藤原武智麻呂及び、房前の兄弟は、同時に従三位に昇進したために、二人の位階の差がなくなるが、房前は、従四位上から、三階の昇進によるものであった。 …
同年、聖武天皇は、元号を「神亀」から、「天平」に変えている。 729年(天明元年)は、天候の不順が続いて、天変地異が、頻繁に発生したため、聖武天皇は、自身の…
729年(神亀六年)2月、左京の人で、従七位下の漆部造君足及び、中臣宮処連東人が、長屋王の謀反を密告した。 朝廷は、その夜の内、使者を派遣して、不破関・鈴鹿…
藤原武智麻呂は、太政官の席次で、弟の房前の上位となり、藤原氏の中心的存在となる。 一方、前述の通り、同年10月、元明上皇は、死の床にて、右大臣・長屋王と共に…
元正天皇以降、女性天皇は、聖武天皇の皇女、孝謙天皇、そして、江戸時代の名正天皇、後桜町天皇の三人がいるが、全員、生涯、独身であった。 そのため、天皇、または…
713年(和銅六年)、元明天皇は、首皇子の異母兄である、広世王及び、広世王の兄弟を臣籍降下させ、首皇子が、文武天皇の唯一の皇子となる。 元明天皇は、翌年の6…
日本の全ての土地・人民を、天皇(公)の所有・支配とする、「公地公民制」は、財産の私的所有を禁止し、「国家」による、挙動所有とする、現代の「共産主義」であると…
鸕野讚良皇女は、父の天智天皇と同様、称制を続けたが、幼少の軽皇子の成長を待つため、690年、自身が、持統天皇として、即位した。 持統天皇には、草壁皇子以外に…
天武天皇は、外交方針は、親新羅に転換したが、天智天皇の律令国家建国を引き継いだ。 日本は、「大王」を中心とする、豪族の連合政権から、「天皇」を中心とする、中…
前述の通り、井沢元彦氏は、『逆説の日本史』にて、天智天皇は、暗殺されたとしている。 そして、筆者は、井沢氏の見解を完全に否定する。 その理由の第一は、暗殺犯…
桂浜(浦戸城・天守の山祇神社)・高知(2024夏の四国旅・その4)
桂浜・龍王岬からの眺め(海津見神社) 浦土城・天守跡天守は今は木々に覆われていますが、森を出ると海の絶景です。 地元高知市の大観光スポットである桂浜を歴史目線で訪ねたら面白すぎてうなった。2024お盆は帰省ついでにゆっくりと四国旅しました。 高知と言えば坂本龍馬。桂浜には銅像が立ち、記念館もあり、坂本龍馬の聖地になっている。海の向こうを、未来を、見据えていた龍馬のイメージにもぴったり。 そしてあまり有名じゃない?もう知る人は知っている。そう桂浜は、長宗我部元親の城「浦戸城」があったところだ。 桂浜・龍馬記念館が天守直下の詰ノ段に建っていますオレンジの建物がそれ 土佐は江戸時代以降は、関ヶ原の勝…
671年10月に、天智天皇は、病に倒れると、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人皇子は、皇太弟を辞退して、剃髪して、僧侶となり、吉野へ去った。 その…
百済王の太子、余豊璋は、その後、唐の長安に連行され、嶺南地方に流刑にされている。 なお、歴史作家の関裕二氏は、余豊璋と中臣鎌足が、同一の人物であるとの説を唱…
孝徳天皇は、失意の中、翌年の654年に崩御した。 そのため、中大兄皇子の母、孝徳天皇の姉である、宝皇女(皇極天皇)が、再度、飛鳥板葺宮にて、斉明天皇として、…
天空の鳥居・高屋神社(観音寺市・香川) 天空の鳥居~高屋神社。華やかなお社。四国の古代史目線で見つけたのではなく、インスタがお勧めしてくれました。この素敵な場所を訪れたい、見たい、この景色!と思って訪れました。 ご祭神はニニギノミコト(アマテラスの孫)、コノハナサクヤヒメ(オオヤマツミの娘で、ニニギの妻)、ウケモチノカミ(トヨウケさんのことかな)。「古事記の神様に会いに四国旅・その3」はスター揃いです。式内社。讃岐国稲積大社正一位高屋神社。「正一位」。 社殿は燧灘を臨む素晴らしい場所にあり、瀬戸内の島々がほんとうに美しかった。半端なく暑かったのですが、登った先は大絶景。 瀬戸内。古代の人もこの…