メインカテゴリーを選択しなおす
盂蘭盆会で生きている父母への孝順は必要?(高田道見先生『盆の由来』参究2)
今月は、可能な限り高田道見先生『盆の由来』を見ていきたいと思うのだが、詳細は【「盂蘭盆会」への学び(高田道見先生『盆の由来』参究1)】をご覧いただきたいが、今日は以下の設問を見ておきたい。◎問ふ、去れば死したる父母の精霊に対して、追考を営むの法なれば、未だ両親の存命中は、此法を修するに及ばざるや。○答ふ、然らず。此法を修するときは、現在の父母は福寿増長し、且つ死して後といへども、悪趣を転じて善処に生じ、生生世世の間だ限りもなき福楽自在の果報を得るのみならず、六親眷属に至るまで、現世は安穏後生と善処の二世安楽を得るの法なり、又過去七世の父母及び九族に至るまで、その悪趣にあるものは、此法の功力によりて、或は天堂に生れ替り、或は浄土に往生すべきなり『盆の由来』第二問答・5頁まず、この問いは面白い。それは、『盂蘭...盂蘭盆会で生きている父母への孝順は必要?(高田道見先生『盆の由来』参究2)
8月は盂蘭盆会(お盆)の季節である。そもそも、何故この時期に「盂蘭盆会」を行うのかは、拙Wikiに【施食会】という項目を書いておいたので、ご覧いただきたい。そこで、マニアックな話ではあるが、曹洞宗で「盂蘭盆会」について最初に記述された瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の『瑩山清規』では「年中行事」の「七月一日」項に於いて、「七月一日より、施餓鬼」と示している(昨今の曹洞宗では、「餓鬼」表記が差別的であるとして、「施食」と表現する。行う行事の内容は同じ。あくまでも歴史的事象の説明を行うため、当記事では「施餓鬼」と用いる。差別の拡大などをしないように御注意願いたい)。しかし、【曹洞宗で最初の「盂蘭盆施食会」について】でも示した通り、「牓」といって、行事の意趣を示した掲示板では、「目連、食を盆器に設け、悲母の苦...「盂蘭盆会」への学び(高田道見先生『盆の由来』参究1)