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巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑳(令和6年度臘八摂心短期連載記事20)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。況復拈指竿針鎚之転機此は皆祖々臨機応変の働きも此非思量の道力より出ることを示さる、先づ四件は指竿は倶胝の一指よ、竿は釣竿を下して人の為にするなり、南泉は百尺竿頭如何が進歩せんと示された、阿難は門前の刹竿を倒却着せよとなり、針は龍樹針水投合の因縁などよ、鎚は世尊陞座文殊白鎚等の如し、皆夫々に機転する妙用も此の三昧の力より出るじや10丁表~裏こちらは、ほとんど面山禅師『聞解』の略述となっている。よっ...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑳(令和6年度臘八摂心短期連載記事20)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑲(令和6年度臘八摂心短期連載記事19)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。当知正法自現前昏散先撲落昏散は昏沈散乱の義なり、是の正法とは不思量底の正法じや、前に本来面目と有るがやはり同体異名じや、撲落は払ひ落すなりと註に有て今は払ひ尽すの心なり、故に枕子撲落地とも有るじや10丁表巨海禅師の見解と、面山禅師『聞解』が絶妙に混じり合っている。その上で、「是の正法とは不思量底の正法じや」は巨海禅師の見解だと見て良い。また、「故に枕子撲落地とも有るじや」も同様だが、「枕子撲落地...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑲(令和6年度臘八摂心短期連載記事19)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑱(令和6年度臘八摂心短期連載記事18)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。公案現成羅篭未到若得此意如龍得水似虎靠山公案は天下の定法とやらるゝ御高札なり、支那に是を公案と云、中峰山坊夜話に公案は乃ち聖賢牘一其轍天下同其途之至理也云々、隠れなくそこにあるわと云義、宗門の公案は三世の諸仏の号令じや、分別の羅籠にとり込らるゝはづはないぞ、此の思量分別のあみかごさへなければ自由自在じや、龍の――如く虎の――似りじや9丁裏これはほとんど、面山禅師『聞解』なのだが、略し方が余り適切...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑱(令和6年度臘八摂心短期連載記事18)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑰(令和6年度臘八摂心短期連載記事17)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。所謂坐禅非習禅也坐禅と云は広くかゝる故諸流の習禅とは別なるを示さる如何んとなれば下の句に唯――と有る通り四威儀共に皆な此の三昧の坐禅なれば妄想も不除不求真なれば下の文ゑ移る9丁表習禅ではないという意義が余り出てないのと、四威儀共に皆、三昧の坐禅だという話がちょっと気にはなるが、「妄想も不除不求真」についてもどうなのか?とはいえ、道元禅師は「妄想」自体を中心に扱うことは少ないので、この辺は掘り下げ...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑰(令和6年度臘八摂心短期連載記事17)
今日は冬至である。よって、冬至は禅宗の説法が多く残されているので、その1つを学んでみたい。冬至の上堂。年年、一を加う三陽の一。旧に非ず新に非ず、功、転た深し。佳節佳辰、千万化。噇眠喫飯、今より起こる。『永平広録』巻1-115上堂道元禅師は仁治3年(1242)に興聖寺で行われた冬至の上堂(11月22日だったと思われる)で次のように示された。毎年毎年、この日には一陽来復する三陽の一である。よって、今日は古くもなく新しくもないが、その働きは極めて深いのである。良い時節、良い時間であって、千変万化していくのだ。睡りを貪り、食事を摂るという日常底も、今から起きるのである、と示された。さて、冬至とは、一年の内でもっとも昼の長さが短い冬の極点の日とされており、中国古来の陰陽五行思想などでは、陰が極まり陽の始まる日である...道元禅師と冬至について
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑯(令和6年度臘八摂心短期連載記事16)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。思量箇不思量底不思量底如何思量非思量此乃坐禅之要術也思量するは有心故要術にそむく、高く眼を着よ、此の非思量の境を正伝の恵命のやれ仏祖の三昧ぞと口斗り言ては要術とは不言令也、此の一段は全く薬山に僧問の公案を用らる参熟して究明すべし広録挙此語有頌曰非思量の処絶思量切忌将玄喚作黄剥地識情倶裂断すれば钁湯炉炭也、清涼と只此非思量の境は識情裂断故に識情にて造作する三界六道は一時に消殞す8丁裏~9丁表ここは...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑯(令和6年度臘八摂心短期連載記事16)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑮(令和6年度臘八摂心短期連載記事15)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。鼻息微通身相既調欠気一息左右揺振兀兀坐定此の一段三蔵法数十八に委く出、此の鼻息微に自然に通とき三昧の現成なり、故に仏々祖々も此の鼻孔裡に向て妙脈貫通せり、欠気とはためいきを吹出なり、揺振とは身を左右にふり動して麁より細に至り止む、是を坐定と云仏説の如し、兀々とは不動の㒵之安住不動如須弥山の姿なり、かなの坐禅儀(※「箴」の誤記)に兀々地は仏量に非ず法量に非ず悟量に非ず会量に非るなりと已上、此祖意を...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑮(令和6年度臘八摂心短期連載記事15)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑭(令和6年度臘八摂心短期連載記事14)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。乃正身端坐不得左側右傾前躬後仰要令耳与肩対鼻与臍対舌掛上腭脣歯相著目須常開正身端坐は王三昧の巻に尽界を超越し仏祖裡に大尊貴生なることは結跏趺坐なり仏祖の極之極を越るは只だ此の一法なりと已上仏言見画趺坐魔王驚怖すとあり、況や此の真箇の趺坐をや、又目須常開とは無用にして開を云なり、物を見て眼に用有ときは瞼上下するものなり、常に開とは生たまゝに開を云なり8丁表~裏ここは、坐禅を行う際の上半身の作法を示...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑭(令和6年度臘八摂心短期連載記事14)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑬(令和6年度臘八摂心短期連載記事13)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。或結跏趺坐或半跏趺坐謂結跏趺坐先以右足安左䏶上左足安右䏶上半跏趺坐但以左足圧右䏶矣寛繋衣帯可令斉整次右手安左足上左掌安右掌上両大拇指面相拄矣跏趺は跏は量ると注して元と足片なし、后に足片を添ることは麻の下に鬼を加へ渉の下に衣を加る如くなり、念誦法曰、礼諸仏已て全跏にして坐と云、又蓮花部念誦法門には四種の坐法あり、又護摩儀軌には五種の坐法あれども、不当用故不説降魔坐吉祥坐の――は先輩も誤り多故に略説...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑬(令和6年度臘八摂心短期連載記事13)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑫(令和6年度臘八摂心短期連載記事12)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。莫図作仏かなの坐禅儀に善也不思量也悪也不思量也、作仏を図ること勿れ、坐臥を脱落すべしとなり、高く着眼伝灯南岳の章に曰、有沙門道一と云もの住伝法院常日坐禅す、師曰坐して図什麼、曰図作仏、師取塼磨石上、一曰く磨して作麼、師曰作鏡、一曰、豈得、師云、若し不成鏡、坐禅して豈に得作仏耶、一曰く如何が即ち是ならん、師曰、車不行、打手打車、一無対出拠也7丁表~裏「作仏を図ること莫れ」について論じられた箇所で、...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑫(令和6年度臘八摂心短期連載記事12)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑪(令和6年度臘八摂心短期連載記事11)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。放捨諸縁休息万事不思善悪莫管是非停心意識之運転止念想観之測量外に有を諸縁と云、六塵の妄想なり、内に造るが万事と云、六塵の境に対して起る六根の妄想也、外を放捨し内心を休息すれば安楽の境現前するなり、伝灯達磨の章に曰く、九年為二祖説て曰く、外息諸縁心如牆壁可以入道云々是即ち吾家の仏法相続の大切なり、勿錯会不思――とは六祖の章曰、汝若要知心要但一切善悪都莫思量得入清浄心体なり、又保寿僧問云万境未侵の時...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑪(令和6年度臘八摂心短期連載記事11)
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巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑩(令和6年度臘八摂心短期連載記事10)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。夫参禅者静室宜焉飲食節矣坐禅なりと有る、是が永平の実意じや、故に静室宜しと有るなり、〈是よりよめば理が下る〉参禅は趨承と註て諸方へ走り回り示を承る事、此れはかなの坐禅儀に云、参禅は坐禅なりと有る是が永祖の実意じや、故に静室宜しと有るなり(※おそらくは繰り返しとなる誤記なので、「是よりよめば理が下る」の字句が註記に見える)、又化城喩品に曰、静室入禅定一心一処坐と有る是也、食をほどよくせよとは、仏の...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑩(令和6年度臘八摂心短期連載記事10)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑨(令和6年度臘八摂心短期連載記事9)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。身心自然脱落本来面目現前註下して落草せん鳫に遺蹤の思無く水ニ沈影の意無し、脱はもぬけると云心、落は洒落と云てさつはりとしたこと看よゝゝ、身心の二つともに見たり聞たりの処、自然天然にさつはりと脱洒して鏡に物の移る如く妍醜分明に分れども、少も跡を不留、さつはり影の打払が如くじや、二六時中漢去り胡来る、是を本来面目現前と云、然ども柳は緑花は紅で現成其侭あらはすに無処と云て置れまいぞ、三十棒じや、自然ゝ...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑨(令和6年度臘八摂心短期連載記事9)
まずは、この一節をご覧いただきたい。遺範要略一退蔵峯は老僧の在世隠棲・滅後葬身の地なり。有志の道者三五箇安居を結会して専要に元古仏の坐禅箴・儀両篇に依りて只管に弁道するなり。一老僧、化を戢むるの日は他に告報すべからず。且つ年回の時、牌前の荘厳、一切致すべからざるなり。一老僧を供養せんと欲する者は、欽んで『正法眼蔵弁註』を拝閲すべし。是を第一の孝順心と為すべきなり。云々享保二十年乙卯十二月十日老螺蛤天桂花押『永平正法眼蔵蒐書大成』巻15・709頁上段、訓読は拙僧以前、天桂伝尊禅師(1648~1735)は坐禅に熱心だったはずだと聞いたことがあったが、その典拠がこの一文だった(はず・汗)。その意味で特に見て欲しいのが第一条なのだが、この退蔵峯陽松庵にて有志の道者が3人でも5人でも安居して、道元禅師の『正法眼蔵』...或る眼蔵家の遺言
釈尊の菩提樹下での坐禅を慕って行う臘八摂心も終わり、いよいよ釈尊成道会を迎えた。道元禅師は、以下のように自分が「成道会」を伝えたとされ(なお、道元禅師の前にも実施された記録はあるが、広く行われなかった)、永く児孫によって修行されるべきことを求めている。日本国先代、曾て仏生会・仏涅槃会を伝う。然而ども、未だ曾て仏成道会を伝え行わず。永平、始めて伝えて既に二十年。自今以後、尽未来際、伝えて行うべし。『永平広録』巻5-406上堂いうまでもないが、何故我々が釈尊の「成道」を祝うのかといえば、我々禅僧にこそ「釈尊成道の真意」が会得されているからである。宋代の中国禅宗に至って、初めて以下の説話が禅僧によって主体的に自覚されている。釈迦牟尼仏言く、明星出現の時、我と大地有情と同時成道。『永平広録』巻1-37上堂道元禅師...本日は釈尊成道会(令和6年度版)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑦(令和6年度臘八摂心短期連載記事7)
いわゆる臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。矧彼祇薗之為生知兮矧やは況と同じ、祇園は須達長者が祇陀太子の園を買て建る故に、今喚居称人なり、生知は生れながら備有を知る心で彼の如来は生れ玉ふ、直に天上天下唯我独尊と云れしほどの自然知と普勧せられ...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑦(令和6年度臘八摂心短期連載記事7)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑥(令和6年度臘八摂心短期連載記事6)
いわゆる臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。雖逍遥於入頭之辺量、幾虧闕於出身之活路入頭とは入口と云心学者此田地に初て一足踏込だ斗りでは大量の自在はならぬ、入口のとも辺りに逍遥と自らをちつききつては居れともまたゝゝ転身自在の働を欠て居る、其の...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑥(令和6年度臘八摂心短期連載記事6)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑤(令和6年度臘八摂心短期連載記事5)
いわゆる臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。毫釐有差天地懸隔、違順纔起紛然失心此語は信心銘に出たり、毫――とは譬は弓射者の、手本で一分ちがへば的で一丈ちがう如く口で斗り道本円通なぞと云ても、自心の圿に兔の毛ほどでもちごうたら、此仏祖単伝の妙...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑤(令和6年度臘八摂心短期連載記事5)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究④(令和6年度臘八摂心短期連載記事4)
いわゆる臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。況乎ましてや、況は益也、乎は助語也、宏智曰、虚空説法し頑石聴く、何ぞ労仏祖費工夫、是出処なり、又杜詩にも虚空不離禅と有るじや、全体逈出塵埃兮孰信払拭之手段全身五体凡て仏じや、其侭の清浄法身じや、故...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究④(令和6年度臘八摂心短期連載記事4)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究③(令和6年度臘八摂心短期連載記事3)
一昨日から臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。原厡の略字なり、源と同意なり、厂は屵なり、岩の下たより水出る㒵なり、川下の人原はいづこぞと尋子窮てこゝぞと知る其儀を移して、字書に原は推原也と註す、今仏法の根元を説き示して仏々祖々の腹ら底を尋、...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究③(令和6年度臘八摂心短期連載記事3)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究②(令和6年度臘八摂心短期連載記事2)
さて、昨日から臘八摂心である。普段は余り坐禅しないような方でも、この8日間は坐禅を行っていただきたいものである。臘八摂心の成立経緯などについては、【摂心―つらつら日暮らしWiki】をご参照願いたい。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、以前の臘八摂心で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。普勧坐禅儀観音導利院興聖護国禅寺沙門道元撰述扨先つ普勧と云二字は大般若五百二十五に仏告善現如是法門は諸の菩薩若は利根鈍根皆な悟入して無障無碍とある、因之故に文中にも不論上知下愚と有なれば冷暖...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究②(令和6年度臘八摂心短期連載記事2)
今日11月29日は、語呂合わせで「1129=いい服」の日らしい(世間的には、「いい肉の日」の方が有名だと思うが)。・いい服の日(トンボ)それで、敢えて「「いい服の日」と仏教」というタイトルにしたからには、今日は以下の一節を通して色々と考えてみたい。この十勝利、ひろく仏道のもろもろの功徳を具足せり。長行・偈頌にあらゆる功徳、あきらかに参学すべし。披閲して速にさしおくことなかれ、句句にむかひて久参すべし。この勝利は、ただ袈裟の功徳なり、行者の猛利恒修のちからにあらず。仏言、袈裟神力不思議。いたづらに凡夫・賢聖のはかりしるところにあらず。おほよそ速証法王身のとき、かならず袈裟を著せり。袈裟を著せざるものの、法王身を証せること、むかしよりいまだあらざるところなり。道元禅師『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻上記引用文は道元...11月29日「いい服の日」と仏教
今日11月19日は「世界トイレの日」とのこと。詳細は、以下のサイトをご覧いただくと良いと思う。・11月19日は「世界トイレの日」(ユニセフ)さて、トイレといえば、我々曹洞宗の高祖道元禅師(1200~1253)の教えを学んでみたい。『正法眼蔵』の中に「洗浄」巻があり、衛生的なトイレの使い方について示されているのである。寺舎に居してよりこのかたは、その屋を起立せり、これを東司と称す。あるときは圊といひ、廁といふときもありき。僧家の所住に、かならずあるべき屋舎なり。「洗浄」巻こちらは、仏教が開かれた最初の頃はトイレが無かったが、寺院で過ごすようになってから、「東司」などと呼ばれたトイレが作られるようになったというのである。摩訶僧祇律第三十四云、廁屋不得在東在北、応在南在西。小行亦如是。この方宜によるべし。これ西...11月19日世界トイレの日
以前から、【冬安居に関する諸問題】のような記事を度々書いている通り、本来の曹洞宗には、というか、両祖の時代には「冬安居」は無かったと思われる。しかし、実際には以下のような記録がある。同冬安居、簡都寺、可首座、覚日浄頭、夢に曰く……『洞谷記』瑩山禅師に係る文章に「冬安居」とあって、何らかの行持が認識されていたことが分かる(ただし、『瑩山清規』には、「冬安居」という字句は見えない)。そして、以下の一節も見ることが出来る。元和尚に従い、越州に下る。しばらく、吉峰古精舎に止宿す。冬安居、師、典座となって、歓喜奉仕す。寛元元年(1243)癸卯冬、殊に雪深し。八町の曲坂、料桶を担って、二時の粥飯に供す。『永平寺三祖行業記』「三祖介禅師」章こちらは、瑩山禅師も編集に関わっていたと考えられる『三祖行業記』の記述であるが、...「冬安居」に関する雑感
11月も半ばだが、各地から晋山結制の慶祝法要の修行が報じられるようになった。この時期は、いわゆる冬安居(11月15日~2月15日、或いはこれが1ヶ月ずつ前後にずれる場合もある)となる。現在の曹洞宗では、いわゆる夏冬二安居が標準化されているが、これがそんなに単純な問題ではないことは、両祖の時代の文献をよく読まれる方であれば、御存知であると思う。例えば、道元禅師は明確に冬安居を否定されている。梵網経中に、冬安居あれども、その法つたはれず、九夏安居の法のみつたはれり。正伝、まのあたり五十一世なり。『正法眼蔵』「安居」巻以上のように、道元禅師は『梵網経』に「冬安居」の指摘があるが、その方法が伝来しておらず、夏安居のみだとされるのである。この『梵網経』の元の文章だが、以下のようになっている。なんじ仏子、常に二時に頭...冬安居に関する諸問題
良く、「死んだ後に授戒をして、戒名を付けることはおかしい」とかいう考え方があって、我々が行う葬儀についても、様々な批判を頂戴することがあるわけだが、拙僧自身、色々と勉強していくと、この批判というのは、厳密な意味で合っていないのでは無いか?と思うわけである。そう考えていった時、例えば道元禅師が次のように述べていることを確認してみたい。ほとけみづから諸龍を救済しましますに、余法なし、余術なし、ただ三帰をさづけまします。〈中略〉しるべし、三帰の功徳、それ最尊最上、甚深不可思議なりといふこと。世尊、すでに証明しまします、衆生、まさに信受すべし。『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻これは、道元禅師が『大方等大集経』巻44「日蔵分中三帰済龍品第十二」からの引用した一文について述べられた提唱である。この文章では、世尊が苦しむ...禅宗での異者授戒について
以下の一節については、【「安居」のシステム論的考察】という記事で、別の文脈の中にて用いたこともあったのだが、とりあえず、今回は「住持三宝」という観点から改めて考えてみたい。もし不安居は、仏及菩薩にあらず。仏祖の児孫なるもの、安居せざるはなし、安居せんは、仏祖の児孫としるべし。安居するは、仏祖の身心なり、仏祖の眼睛なり、仏祖の命根なり。安居せざらんは、仏祖の児孫にあらず、仏祖にあらざるなり。いま泥木・素金・七宝の仏菩薩、みなともに安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち、住持仏法僧宝の故実なり、仏訓なり。おほよそ仏祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月つとむべし。『正法眼蔵』「安居」巻これまで、「住持三宝」というと、『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻や、『仏祖正伝菩薩戒作法教授戒文』などを用いて考察される場合がほと...「住持三宝」の真意とは?
我々は、大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)について、道元禅師の僧団の中で、どのような位置付けにあったのかを正しく理解出来ているのだろうか。無論、後継者としての立場であったりとか、『正法眼蔵随聞記』の記録や、『正法眼蔵』の書写・編集等はよく知られたことであると思う。その上で、拙僧は敢えて以下の記述に注目しておきたいと思う。僧海・詮慧等深草諸衆、尽く師を以て教授闍梨となす。一会の上足なり。『三大尊行状記』「懐奘禅師章」このように、懐奘禅師に関する最古の記録の1つである『三大尊行状記』では、僧海首座や詮慧禅師などの、深草・興聖寺時代から道元禅師僧団に入った者にとって、懐奘禅師を「教授闍梨」として仰いでいたことを意味している。「教授闍梨」については、詳しくは「教授阿闍梨」と表現されるべきものであり、...教授阿闍梨としての懐奘禅師
これまで、関連する幾つかの記事を書いてきた。例えば、以下の通りである。①六頭首の一考察②「知庫」って何だ?③「副寺」の一考察それで、今回の記事で、とりあえず禅宗叢林に於ける会計担当についての記事がまとまるので、最後までしっかりと書いておきたい。それで、拙僧自身の問題意識だが、①のように、そもそも禅宗に於ける知事や頭首と呼ばれる人達の人数はどれくらいなのか?というところから始まった。そうすると、知事及び頭首がそれぞれ4~6人という数字が出てくる一方で、どうも、そういうのが決められていない場合もあったようだと分かった。おそらくは、地方の小院などでは当然、そんなに多くの役寮は要らないから人数など決まっていない場合もあったという考えになる。また、そういう中で②のように、「知庫」という役職について興味を懐いた。名称...「庫司」「庫頭」について
以前にアップした【「六頭首」の一考察】の中で、「六頭首」を考えているウチに、そういえば「知庫」という、知客・知蔵・知浴・知殿に並んでいかにも「頭首」みたいな名称の役職なのに、実際には「六頭首」に入っていないことが改めて気になった。それで、この記事では「知庫」という配役について調べてみるものである。それで、まずは漢訳律典を調べてみると、以下の記述を見出した。客比丘、遂に庫を開き、偸みて鉢を将ち去れば、知庫比丘、応に鉢を償うべし。『善見律毘婆沙』巻9、『大正蔵』巻24・738cこの『善見律毘婆沙』であるが、5世紀に学僧ブッダゴーサが現在のスリランカで撰述した律蔵註釈書の抄訳だとされる。つまりは、上座部系の律蔵に対する註釈である。他の律典に「知庫」が見られないのは、「律」本文には無くて、註釈書にあるからであろう...「知庫」って何だ?
幸せな時に宗教や政治のことをあまり考えません。宗教に近づくというのは、何かしらの悩みがある方が多いのではないでしょうか?仏教でいえば、お釈迦様が、生老病死のことを悩んだのが始まりです。凡人だけじゃなくてお釈迦様ほどの人も悩んでいたんですね~日本の高名なお坊さんも何らかの悩みを抱えていたため修行に入った方が多い?道元禅師、法然上人、親鸞上人にしても幼少期に親を亡くしています。政治に関心がある方は?い...
先日、とあるところで「両班」という表現について、これを用いることは大丈夫か?というような質問を頂戴した。それで、気になったので調べてみた。そもそも「両班」とは何かというと、禅宗叢林の運営にかかわる役目の僧をいい、特に、現在であれば法堂などで整列するときに東側に知事(六知事)、西側に頭首(六頭首)が列をなす。これを各々を班として、「両班」とするのである。なお、江戸時代の学僧・無著道忠は『禅林象器箋』「第七類職位門」の中で、「忠曰く、朝廷の制、文武両班有り。禅林、これを擬す。故に東西の両班有るなり」とした。ここでいう、「朝廷の制」とは何かというと、朝鮮半島の王朝で「貴紳を以て両班と為す。両班とは、文班・武班なり」という見解を見たことがあるのだが、上記の通り仕官した者を、その役目に応じて文武の2つに分けたという...両班と両序
こういう文章がある。知事、古規には只だ監院・維那・典座・直歳・庫頭の五員を列する而已。『勅修百丈清規』巻4「両序進退」項これを見ると、知事については、古規には5つの役職が列せられていたとある。それで気になるのが、ここでいう「古規」についてである。それで、『勅規』には直接関係ないが、道元禅師は『永平清規』の中で、知事の数について言及され、例えば、「いわゆる知事とは、都寺・監寺・副司・維那・典座・直歳の有るなり」(『典座教訓』)とされる一方で、「古時は監寺のみ。近日、都寺と称するは即ち監寺なり。副寺と称するも亦た監寺なり。近代、寺院繁務なり、仍って両三の監寺を請するなり」(『知事清規』)とされたのである。よって、道元禅師の場合、「四知事」が古く、そこに寺院の運営が忙しいので2人加わって、「六知事」という数にな...禅林の知事の人数は?
こんな記事を見つけた。・ユニセフ・世界手洗いの日詳しいことはこのサイトをご覧いただければ良いのだが、昨日10月15日は「世界手洗いの日」だったらしい。全く知らなかった。で、せっかくなので、こんな一文を見てみたい。つぎに、洗手すべし。右手に灰匙をとりて、まづすくひて、瓦石のおもてにおきて、右手をもて滴水を点じて触手をあらふ、瓦石にあててとぎあらふなり。たとへば、さびあるかたなを、とにあててとぐがごとし。かくのごとく、灰にて三度あらふベし。つぎに、土をおきて、水を点じてあらふこと三度すべし。つぎに、右手に皀莢をとりて、小桶の水にさしひたして、両手あはせてもみあらふ。腕にいたらんとするまでも、よくよくあらふなり。誠心に住して、慇懃にあらふベし。灰三、土三、皀莢一なり、あはせて一七度を度とせり。つぎに、大桶にてあ...昨日10月15日は「手洗いの日」だったらしい・・・
今日10月15日は、道元禅師による興聖寺で集衆説法を行われた。今日はここに到る経緯を略年表形式で考えてみたい。1227年(嘉禄3年)8~9月頃道元禅師帰国(『建撕記』)、建仁寺に寓居(『典座教訓』他)同年中『普勧坐禅儀』(嘉禄本)執筆(『弁道話』)1229年(安貞3年)道元禅師と懐奘禅師の相見(『伝光録』第52章)1231年(寛喜3年)7月安養院にて了然尼に法語を授与(可睡斎所蔵『示了然尼法語』奥書)同年8月15日『弁道話』執筆(同書奥書)1233年(天福元年)観音導利院入寺(『伝光録』第51章)同年夏安居日『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻示衆(同書奥書)同年7月15日『普勧坐禅儀』(天福本)浄書(同書奥書)同年8月『正法眼蔵』「現成公案」巻を俗弟子楊光秀に与う1234年(文暦元年)3月『学道用心集』執筆...十月十五日宇治観音導利興聖宝林寺開単
今日は「スポーツの日」である。元々1964年の東京オリンピックの開会式を「体育の日」としていたが、その後、ハッピーマンデーとなって、東京五輪の開会式(予定)に合わせて2020年は7月24日を「スポーツの日」としたが、その後はまた月曜日(10月第2月曜日)になった。ということで、体育とスポーツについて、以下の一節を見ておきたい。吾人は競技を以て動物の競ひまでに引き下げたくない。人間の争ひである。あくまで人間の競技であつてよい。そこに修行、鍛錬、精進、教育の仕事があるのである。競技であれ、凡てのスポーツ、あらゆる体育運動が、修練のために、鍛錬のために、人間たらしめん為に、大地を踏みはづしてならぬ生きる道を求めんために、即ち教育のために存在する所以を知らなければ、すべての運動は分化に分化を重ね、人間本然の究極理...今日は「スポーツの日」(令和6年度版)
今回、或る先生から、個人的に書いた原稿の校正を依頼されたため、作業中。拙著なども引用していただき、感謝に堪えない。ところで、校正中にある事に気付いた。いや、初めて気付いたということではなくて、以前に気付いていたことを「思い出した」というのが正しい。それは、道元禅師の語録『永平広録』巻10に収録されている「玄和尚偈頌」の中には、京都にいる頃に詠まれたと思われる「閑居偶作」という偈頌が入っているのだが、これが謎に満ちているのである。謎というのは、その題名に付された偈頌の数についてである。まず、現在、永平寺に収蔵されている、通称「祖山本」について見ていくと、こうなっている。・閑居偶作七首ところが、収録されている偈頌を数えていくと、全125首中の第65~70番目に該当するので、実は6首しか入っていないのである・・...『永平広録』所収の「閑居偶作」は何首?
今日、10月10日は目の愛護デーである。何故、今日なのかは以下の通りである。一一〇〇このように、漢数字で並べてみると、目と眉毛になるためである。この目の愛護デーに関する歴史は古く、1931年(昭和6)に失明予防の運動として、10月10日を「視力保存デー」と定め、中央盲人福祉協会主催、内務省、文部省後援で毎年活動をはじめたのがきっかけとのことである。栄養状態が悪かったり、衛生状態が悪かったり、或いは生活環境が悪かったりすると、やはり視力が悪くなる。拙僧などは基本的に朝早く起きて勉強するタイプだったので、このブログを始めた20年前ではまだまだ視力も良かったが、そろそろ50歳という数字が目の前にまで来ると、流石に視力も落ちてくるし、目に関する問題点も複数見受けられる。今後はよくよく治療なども含めて行う必要がある...今日は目の愛護デー(令和6年度版)
【今日は達磨忌(令和6年度版)】の記事の通り、昨日は達磨忌だったのだが、道元禅師御自身は実は、達磨忌を実施しておられない。しかし、達磨尊者への尊崇の念を持っていないことはない。そこで、達磨忌を実施していなかった理由として、作法として一般化していなかった可能性を指摘しておきたい。確かに、道元禅師と時代的に近い虚堂智愚禅師(1185~1269)の『虚堂和尚語録』には、「施主捨田建達磨忌」と「達磨初忌拈香」とがある。ただし、道元禅師の時代に編まれていた『禅苑清規』と『入衆日用』には達磨忌を載せていない。だが、1263年に編まれた『入衆須知』には「祖忌」項が入り、「達磨忌十月初五、伝灯に出づ」とある。・・・あれ?達磨尊者の忌日について、『伝灯(景徳伝灯録)』にあるとしている。化縁を以て已に畢り、伝法して人を得る。...道元禅師と達磨忌
令和6年のNHK大河ドラマは、吉高由里子さん主演の「光る君へ」であり、『源氏物語』の作者として伝わる紫式部を採り上げている。ところで、この『源氏物語』について、愛知県内の曹洞宗寺院に道元禅師のものとされる写本が伝わっているのである。具体的には、関連する資料をご覧いただければと思うのだが、ここではその事実を伝え、また、拙僧自身が想うことを申し上げたい。同寺に伝わっているのは『源氏物語』全五十四帖の内、第九帖に当たる「葵」巻の一部(断簡)である。同巻は、光源氏の正妻である葵の上が、男児・夕霧を出産し、その後亡くなってしまう場面などを記している。現存している道元禅師の直筆写本とされるのは、人によってはこの帖を15段に分けるようだが、その内、第4段に該当する箇所である。それで、道元禅師がこの書写を行った時期だが、...『源氏物語』と道元禅師
こういう日付が入った文章がある。真丹初祖の西来東土は、般若多羅尊者の教勅なり。航海三載の霜華、その風雪いたましきのみならんや、雲煙いくかさなりの嶮浪なりとかせん。不知のくににいらんとす、身命ををしまん凡類、おもひよるべからず。これひとへに伝法救迷情の大慈よりなれる行持なるべし。伝法の自己なるがゆえにしかあり、伝法の遍界なるがゆえにしかあり、尽十方界は真実道なるがゆえにしかあり、尽十方界自己なるがゆえにしかあり、尽十方界尽十方界なるがゆえにしかあり。いづれの生縁か王宮にあらざらん、いづれの王宮か道場をさへん。このゆえに、かくのごとく西来せり。救迷情の自己なるがゆえに、驚疑なく、怖畏せず。救迷情の遍界なるゆえに、驚疑せず、怖畏なし。ながく父王の国土を辞して、大舟をよそほふて、南海をへて広州にとづく。使船の人お...十月一日達磨尊者呼び出される
皆様、ブログにコメント、いいねを頂き有難う御座います。 今回は、福井県吉田郡永平寺町志比5-15にある永平寺(えいへいじ)です。 傘松閣(さんしょうかく)の…
ちょっとした一文である。なお、実世界の論文でも、関連する先行研究は多いので、当記事はあくまでも拙僧個人の見解を示すのみである。仏祖正伝菩薩戒作法右大宋宝慶元年九月十八日、前住天童景徳寺堂頭和尚、道元に授くるの式是の如し。祖日侍者〈時に焼香侍者〉・宗端知客・広平侍者等、周旋して此の戒儀を行ず。大宋宝慶中、之を伝う。『仏祖正伝菩薩戒作法』道元禅師が、中国で本師・天童如浄禅師から「仏祖正伝菩薩戒」を授けられたときの儀式について、その内容を記した文献の奥書に、上記一文がある。そして、これらの一節について、先行研究などを踏まえると疑問点は以下の通りである。(1)如浄禅師について「前住」という一句がある⇒もし、この式が行われたのが「大宋宝慶元年九月十八日」であったとすれば、まだ如浄禅師は堂頭(住職)であったはずである...『仏祖正伝菩薩戒作法』奥書について
今日9月17日は、旧暦8月15日、つまり「中秋の名月(十五夜)」である。道元禅師は、ほぼ毎年、中秋には上堂を行って「満月」そのものを題材にしながら、弟子達に仏法の真髄を説いておられた。今日はその1つを見ていきたい。中秋の上堂。月中の桂樹を折り尽して来る。這回は旧を恋わずに這回。胡来胡現、漢来現。限り無き清光十五枚、と。『永平広録』巻1-77上堂これは、仁治2年(1241)8月15日に行われたと考えられるため、京都の興聖寺に居られた時の「中秋の上堂」になる。道元禅師が「中秋の名月」に因み、満月の欠けたること無き姿から、法の円満なる様子を示された。まず、「月中の桂樹」は月の中に五百丈(約1.5㎞)の高さがある桂があるとされ、伐ってもすぐに戻るとされる。しかし、中秋の名月の場合には、余りに素晴らしい明るさをして...今日は中秋の名月(十五夜)(令和6年度版)