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臘八摂心6日目。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。所謂、坐禅は習禅に非ず。唯、是、安楽の法門なり。究尽菩提の修証なり。公按現成し、羅篭未だ到らず。若し此の意を得ば、竜の水を得るが如し、虎の山に靠するに似たり。当に知るべし、正法自ら現前し、昏散先より撲落す。ここでは、坐禅と悟り、いわゆる修証観について論じられている。まず、「坐禅は習禅に非ず」の文脈であるが、これは特に、流布本系統の前後でいわれることであり、「坐禅儀」巻では、「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」ともいわれる。いわば、習禅とは、安楽の法門ではないし、不染汚の修証でもないと定義できる。また、ここについては更に、「行持(下)」巻に於ける達磨尊者への提唱を見ていく必要がある。・しばらく嵩山に掛錫すること九...流布本『普勧坐禅儀』参究6(令和5年度臘八摂心6)
臘八摂心4日目。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。夫、参禅は、静室宜し。飲食節あり。諸縁を放捨し、万事を休息すべし。善悪を思わず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量を止むべし。作仏を図ること莫れ、豈、坐臥に拘らんや。今回から、徐々に「坐禅の儀則」の部分に入っていく。「参禅」については、「坐禅儀」巻に見えるように、「参禅は坐禅なり」という理解で良い。師家に公案を問うことを「参禅」といったりするが、曹洞宗ではこの語を坐禅の意味で取る。そして、続いて環境と、その坐禅に入る際の心構えになる。環境としては、ここでは簡単に、「静かなところが良い」「飲食には節度があるべきだ」と理解されるところだが、指月慧印禅師の『不能語』を拝読すると、前者については「万境の閒なり」とし、後者に...流布本『普勧坐禅儀』参究4(令和5年度臘八摂心4)
臘八摂心3日目である。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。所以に須らく尋言遂語の解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落し、本来の面目現前せん。恁麼の事を得んと欲わば、急ぎ恁麼の事を務べし。これまで2回の記事に於いて「不染汚(無分別)の修証」について採り上げてきた。それが、『普勧坐禅儀』を読み解いていくための、基本線である。その上で、では、そのような「不染汚」とはどのようにして会得されるべきなのか?それを示したのが、この冒頭の2行であるといえる。前者については、仏道を習うときに、言語を逐って知解でもって把握するようなことを止めるべきだということであり、正しく不染汚を会得するならば、「回光返照の退歩」を学ぶべきだという。まず、前者について見ていくが、このような指摘が...流布本『普勧坐禅儀』参究3(令和5年度臘八摂心3)
臘八摂心2日目である。本日も流布本『普勧坐禅儀』の本文を学んでいきたいと思う。直饒、会に誇り悟に豊かに、瞥地の智通を獲、得道明心して、衝天の志気を挙げ、入頭の辺量に逍遙すと雖も、幾くか出身の活路を虧闕せる。矧んや、彼の祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見るべし、少林の心印を伝えし、面壁九歳の声明、尚聞こゆ。古聖既に然り。今人、盍ぞ弁ぜざらん。今日は以上の一節を学んでみたい。この部分について要約すれば、「大悟という魔境」からの脱却を考えていることになる。前項に於いては、道本円通を誤解しないように明記されているが、そこから「行」へと展開されていくのが、この箇所である。これは、現在の曹洞宗でも同様で、非常に憂慮しているのだが、道元禅師は「大悟体験(或いは己事究明などという人もいるし、見性という人もいる)」に重きを置...流布本『普勧坐禅儀』参究2(令和5年度臘八摂心2)
この坐より摂心。今日から8日まで曹洞宗寺院では臘八摂心を修行する。この行持については、【摂心―つらつら日暮らしWiki】を参照いただくと良いだろう。さて、毎年の臘八摂心では、何かの典籍を一週間(プラス数日)かけて読み込むことにしているのだが、今年はいよいよ道元禅師著、宗門坐禅の根本聖典『普勧坐禅儀』(流布本系統)にしてみたい。また、予め申し上げておけば、今回は敢えて祖山本『永平広録』の訓読に従って読み込み、それによって宗旨を把握してみたい。また、江戸時代以前の註釈書に依りつつ、道元禅師の他の著作を読みながら全体を把握することにしたい。よって、これにより従来いわれてきたことと異なる内容になるかもしれないことも合わせてお断りする次第である。なお、従来の区分の方法では、流布本系統が持つ四六駢儷体の構造から、全1...流布本『普勧坐禅儀』参究1(令和5年度臘八摂心1)
「胡散臭い」という言葉が周囲で話題になった。ということで、勝手に調べて記事にしてみる次第である。まず、「胡散臭い」の意味としては、「何となく怪しい、疑わしい」などであり、他にも「油断できない」という意味でもあるようだ。「胡散」だが、「烏散」とも表記するようだが、元々の「胡散」について、「胡」も「散」も「とりとめも無い」「でたらめ」などの意味があるから、「胡散」は同じ意味を持つ漢字を重ねた熟語になる。それで、拙僧などは仏典を普段から読むので、漢訳仏典で調べてみたが、どうも「胡散」「烏散」は主要なものには用例が無いらしい。そうなると、比較的新しい言葉、或いは、日本で作られた熟語なのだろうか?その点でも調べると、日本で出来た単語であり、しかも近世以降だという指摘も見られた。ただ、仏典にあそこまで見られないと、納...「胡散臭い」という言葉に関する胡散臭い記事
今日は「勤労感謝の日」である。制定の経緯などは、既に【「勤労感謝の日」と仏教】でアップしているので、ご一読いただければと思う。そこで、今年は、禅宗の修行道場に於ける「勤労」観を見ていきたい。特に、道元禅師が叢林修行に於ける「勤労」について示された『永平寺知事清規』の一節を学ぶこととしたい。『知事清規』とは、叢林で「知事」という役職に就いた僧の軌範を示したもので、特に道元禅師は中国やインドの事例を挙げながら、「知事とはかくあるべき」という見解を示され、基本精神は「知事は貴にして尊たり、須く有道の耆徳を撰ぶべし」とされる。今日は、中でも道元禅師が「最難極苦なり」とされた「園頭」という仕事を見ていきたい。「園頭」は、文字からでも或る程度予想が付くかもしれないが、修行道場が持っている菜園の管理者であり、農業に従事...今日は勤労感謝の日(令和5年度版)
道元禅師は、こんな言葉を遺しておられる。しかあればすなはち、いま道著する画餅といふは、一切の糊餅・菜餅・乳餅・焼餅・糍餅等、みなこれ画図より現成するなり。しるべし、画等、餅等、法等なり。『正法眼蔵』「画餅」巻或いは以下の御垂示もある。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼・耳・鼻・舌・身・意、色・声・香・味・触・法、および眼・耳・鼻・舌・身・意識等なり。また四枚の般若あり、苦・集・滅・道なり。また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若なり。また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去・現在・末来なり。また般若六枚あり、地・水・火・風・空・識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行・住・坐・臥なり。『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜...なんか「餅」「枚」の意味が分かった気がする・・・
ウチの宗派の場合、師となる僧侶の呼び方について、例えば規則(『曹洞宗宗制』)では「師僧」と表現されている。更に、世間では「先生」や「師匠」などともいうが、特に「師匠」は世間的な芸能や学問の先生という意味であり、出世間たる仏教上の表現には相応しくないという見解もあるという。ただ、そこまでいわれて、拙僧的に思うところがある。それは、例えば曹洞宗の歴代祖師が遺された文献を見てみると、この辺の使い分けはされていない印象があるので、調べてみた。又女人および姉姑等の、伝法の師僧を拝不肯ならんと擬するもありぬべし。『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻そこで、拙い調べではあるが、道元禅師の場合は、引用文を除いてご自身の言葉として使われた「師僧」は、おそらく2カ所である(他に、「四禅比丘」巻)。一方で、「師匠」は以下の通りである。在...「師僧」と「師匠」について
以前から、拙僧が関心を持っていることがある。例えば、「戒名料」問題。そして、今回は「離檀料」である。拙僧つらつら鑑みるに、明治時代以降、仏教の寺院経営は大変だった(廃仏毀釈や、農地解放など)。歴史的に、後代から見れば、仏教弾圧の時代であったといわれる状況であろう。そういう中で、わずかでも寺院を生残させようとする営みが模索されており、今回の「離檀料」も、その1つではなかろうか。先日、或るテレビ番組で「離檀料」を問題視した内容が放映されたという。しかし、いつも思うが、「戒名料」にしても、「離檀料」にしても、それを実施する寺院や、当該寺院の住職などが法律・法令の違反をしているわけではない。また、例えば、一部で問題になった、「霊感商法」などと同一視もできない。以下は、「想定」の話だが、例えば、寺院には護持会という...「離檀料」私考
「廻向」という言葉がある。開くと「廻らし向ける」という意味である。良く、我々自身が行う修行の過程でこの語を用いる場合には、我々が読経などの善行を行い、積んだ功徳を、仏・菩薩などに「廻らし向ける」時「廻向」という。或いは、自らの行いとして、行為の方向を変えていくこと、「振り向ける」事を「廻向」といったりする。以下のような用例はどうか。釈迦牟尼仏、すでに十二年中頂戴して、さしおきましまさざるなり。その遠孫として、これを学すべし。いたづらに名利のために天を拝し、神を拝し、王を拝し、臣を拝する頂門を、いま仏衣頂戴に迴向せん、よろこぶべき大慶なり。『正法眼蔵』「伝衣」巻これは、「伝衣」巻にある一節であることからもお分かりいただけるように、「御袈裟」について述べている。つまり、釈迦牟尼仏は、出家してからというもの、十...頭を下げる先を廻向してみる
今日、11月8日は語呂合わせから「いい歯の日」とされる。さて、今回のタイトル「「いい歯の日」と『弁道法』」だが、おそらく日本の僧侶で、「歯磨き」について、詳細な説示を行ったのは、曹洞宗の高祖であり大本山永平寺を開いた道元禅師(1200~53)が最初であろうと思われる。主著とされる『正法眼蔵』には、「洗面」巻があり、「洗面」と歯磨きについて書かれたものである。同巻では歯磨き法について、以下のような記述が見られる。よくかみて、はのうへ、はのうら、みがくがごとくとぎあらふべし。たびたびとぎみがき、あらひすすぐべし。はのもとのししのうへ、よくみがきあらふべし。はのあひだ、よくかきそろえ、きよくあらふべし。漱口たびたびすれば、すすぎきよめらる。しかうしてのち、したをこそぐべし。『正法眼蔵』「洗面」巻当時の誰に対して...「いい歯の日」と『弁道法』
道元禅師が、日本に帰ってきて最初に行った正式な説法(=上堂)について、卍山本『永平広録』、或いは『永平略録』の冒頭に出る上堂が最初であると考えられた時代もあってか、「眼横鼻直」と並んで「空手還郷」は、道元禅師の「あるがままの禅境」を示す好語であるとして理解されてきた。ところが、既に祖山本『永平広録』の研究から、道元禅師の「最初の上堂」とは、興聖寺開堂のものであり、いわゆる「眼横鼻直」については、いつの頃に付加されたものか不明であるという事態に至った(詳細は【眼横鼻直-つらつら日暮らしWiki】参照のこと)。しかし、「空手還郷」は祖山本にも残っていて、今日はその語について考えてみたい。この語が出ているのは以下の箇所である。上堂に、云く。山僧、是、叢林を歴ること多からず。只、是、等閑に先師天童に見えしのみなり...「空手還郷」について
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)は以前【『永平広録』敷衍の様子】という記事でも書いた通りで、道元禅師の語録である『永平広録』の参究を行い、更に周囲の僧達に提唱までしていた様子が明らかにしたが、面山禅師が編まれた『永平祖師家訓綱要(以下『永平家訓』と略記)』(上下巻)という文献がある。これは、『永平広録』を以下の八章に分けて本文を抽出したものである。各章のタイトルと、簡単な解説を付しておきたい。・第一発心出家訓『永平広録』の中で、特に、「発心」そして「出家」に関わる小参・上堂語を集めたものである。発菩提心の難得なる様子や、無上菩提を学ぶということの方法、或いは道心について説かれている。・第二仏祖正宗訓仏法について示された上堂語を中心に集められ、さらにそれが、祖師方によってどのように伝えられ...面山瑞方禅師『永平祖師家訓綱要』と体系的宗乗
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)には、多くの著作が残されたが、生前に刊行されなかった文献や、上堂語・法語・詩偈などを集めて死後に刊行されたのが、『永福面山和尚広録』(全26巻)である。そして、第26巻には面山禅師の年譜が収録されているが、今日はそこから、面山禅師によって、当時の宗侶に対し、如何にして『永平広録』が説かれていたかを見ておきたい。理由は、現代に於いても『永平広録』の敷衍は十全とはいえず、在家の方に対しては、市場に幾つかの書籍が見られるくらいで、宗侶向けの専門書もまだ揃わない状況である。よって、今から250年近く前に、どのように学ばれていたのか、その一端を見て行きたい。なお、面山禅師には『永平広録』の上堂語や小参などを適宜抽出して、更に分類を行った『永平家訓綱要』(上下巻)とい...『永平広録』敷衍の様子
この記事では、道元禅師と、他宗派の方々との繋がりを確認することで、いわゆる初期曹洞宗僧団の「多様性」を見ておきたいと思う。●達磨宗(ただの禅宗と区別するために「日本達磨宗」ともいう)の関係永平懐奘禅師(1198~1280)永平寺2世※元々は日本達磨宗で、仏地覚晏の弟子であった。弟子入りの経緯は『伝光録』第52章に詳しい。『正法眼蔵随聞記』の筆録者、『正法眼蔵』『永平広録』の編者。・懐鑑上人(?~1251?)※達磨宗で、能忍―覚晏と続いた系統を受け嗣いだ。なお、道元禅師に対し、先師・覚晏上人への追悼の上堂を請うた(『永平広録』巻3-185上堂)。後に、弟子である義準は、懐鑑上人に対しての上堂を道元禅師に請うた(『永平広録』巻7-507上堂)。その他達磨宗から来た者。徹通義介禅師(永平寺3世)・義演禅師(永平...道元禅師の僧団に見える雑居性
まずは、以下の一節をご覧いただきたい。禅宗では、安名について決して超越的な「われ関せず」の態度をとっていない。寺といわず、僧といわず、俗といわず、その名前を安ずることについては、慎重に考慮し、等閑にしないということについて、永平道元禅師の安名の史実を探ってみることにする。〈中略〉北条時頼の仏教名の道崇は、道元禅師が授けられたものであるともいわれており、〈中略〉これが史実に合致するかどうか知らないが、〈中略〉北条時頼が天下の政道に携わりつつ道を道崇する、その宗教精神を重んじて、道崇とつけられたものであろう。道は、道元の道の字を授けられたものともいわれている。永久岳水先生『曹洞宗法名・戒名の選び方』国書刊行会・平成15年、14~15頁永久先生は、『正法眼蔵』の書誌学的研究や、室内学研究で知られているが、その一...道元禅師の安名観について
今日は10月15日であるが、我々曹洞宗の僧侶からすると、高祖道元禅師(1200~1253)が、宇治・興聖寺で開堂されたことを忘れてはならない。寛喜3年(1231)『弁道話』執筆天福元年(1233)深草の極楽寺旧址(観音導利院)に落ち着く(『伝光録』第51祖章)文暦元年(1234)懐奘禅師、観音導利院で道元禅師に弟子入り(『伝光録』第52祖章)嘉禎2年(1236)10月15日、興聖寺を開堂して集衆説法(『永平広録』巻1冒頭)『弁道話』について、江戸時代の面山瑞方禅師は安養院での執筆を主張しておられるが、現在の『弁道話』流布本では、執筆場所を示さない。陸奥正法寺に伝わる草案本では、興聖寺だとするが、それは間違いである。それから、1233年に極楽寺旧址に入ったことは、瑩山紹瑾禅師『伝光録』など、古伝が等しく認め...10月15日興聖寺開堂の日
実世界での論文も書いているので、その中でのメモ程度ではあるのだが、とりあえず記事にしておきたい。それで、現在の曹洞宗の「教義」には、「禅戒一如」という語句が入っている。ところが、この用語については、それほど古くないのである。なお、成立経緯などは既に、【禅戒一如―つらつら日暮らしWiki】を書いているので、そちらを見ていただければと思うのだが、概念の成立については書き切れていない。そこで、この記事で補おうと思うのである。まずは、現状の「教義」について見ておきたい。第5条本宗は、修証義の四大綱領に則り、禅戒一如、修証不二の妙諦を実践することを教義の大網とする。『曹洞宗宗憲』以上の通り、「禅戒一如」という言葉が見える。それで、教義にこの語が入った経緯については、特に人権の問題から論じられた報告が存在しているもの...「禅戒一如」の成立について
今日は目の愛護デーらしい。一〇月一〇日、この「一〇」を縦にすると、眉毛と目に見えるので、「目の愛護デー」になったとのこと。一一〇〇こんな感じ。以前なら、この日に「体育の日」もあったが、「ハッピーマンデー」になり、更には「スポーツの日」になり、ということで、大分変わってしまった。そのため、今日に残った「目の愛護デー」を記事にしようと思う。早速、以下の一節をご覧いただきたい。五葉華開けて六葉を重ぬ、青天白日明無きに似たり、若し人我れに問わん何色を看ると、此れは是れ瞿曇の老眼睛。道元禅師『永平広録』巻10-偈頌88、雪頌六首の一つ五葉の華というのは、五つの葉っぱがある華、という意味ではなくて、五つの花弁を持つ花の意味であり、梅華などに譬えられる。そして、仏法の悟りにも譬えられる。達磨大師の伝法偈に「一華開五葉」...10月10日「目の愛護デー」
今日、10月5日は中国に禅宗を伝えた菩提達磨大和尚が御遷化された日だとされる。曹洞宗も世間的な分類では「禅宗」に入るため、達磨大師のことを重んじているが、色々と調べると高祖道元禅師(1200~1253)は「達磨忌」に応じて、上堂や法要をした記録は無いようである。一方で、道元禅師より数えて4代目の祖師となる太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の時代には、叢林での修行の軌範となる清規の整備も進み、「達磨忌」が法要として行われたことが記録されている。十月五日、達磨忌。公界は力に随って供を弁ず。伝供、焼香、礼拜し、主人跪炉す。維那、宣疏して云く・・・『瑩山清規』「年中行事」達磨忌の執行に先立ち、修行僧達は力の及ぶ限りで供物を揃え、そして主人(導師)を中心に伝供して、焼香礼拝するなどして、お供えする。更に、導師...今日は達磨忌(令和5年度版)
道元禅師に、次のような教えがある。曩祖道、我説法汝尚不聞、何況無情説法也。これは、高祖、たちまちに証上になほ証契を証しもてゆく現成を、曩祖、ちなみに開襟して、父祖の骨髄を印証するなり。なんぢなほ我説に不聞なり。これ凡流の然にあらず、無情説法たとひ万端なりとも、為慮あるべからず、と証明するなり。このときの嗣続、まことに秘要なり。凡聖の境界、たやすくおよびうかがふべきにあらず。『正法眼蔵』「無情説法」巻この「曩祖」というのは、中国曹洞宗の先駆的立場としてある雲巖曇晟禅師のことである。その雲巖禅師が、洞山良价禅師と「無情説法」について問答をした際の言葉について、道元禅師が提唱されたのが上記一節である。それで、この一節とは無情説法そのものよりも、それをどのようにして「得聞」するかが問われている。そもそも無情説法と...十月二日『正法眼蔵』「無情説法」巻参究(令和5年度版)
今日は敬老の日である。拙僧が生まれた頃は、9月15日に固定されていたが、2003年から9月第3月曜日に移動となった。それで、今年は今日である。敬老について、これは禅宗でいうところと、一般世間でいうところの意味は異なっている。例えば、禅宗には「長老」という言葉がある。無論、原始仏教からあったようだが、我々の定義は「凡そ道眼を具え、尊するべきの徳有るは、号して長老と曰う。西域の道高く臘長きを須菩提等と呼ぶ等の謂いが如くなり」(『禅門規式』)というものであるが、要するに年齢よりも、仏道修行者としての境涯などを問われているのである。よって、禅門に於いて「敬老」というのは、仏道修行の貴き様を敬うことになる。その前提を元に、以下の一節を参究していきたい。雪峰いはく、老僧罪過。いはゆるは、あしくいひにける、といふにも、...今日は敬老の日(令和5年度版)
今日は「宇宙の日」らしい。・「宇宙の日」とはどういう日ですか?(ファン!ファン!JAXA!)よし、ということで、「宇宙」と仏教に因む記事を書いてみよう。雲門衆に示して云く、乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す。灯籠を拈じて仏殿裏に向かい、三門を将て灯籠上に来たる。師云く、雲門、他家の旧物を将て人情を為すなり。灯籠・仏殿、相ひ唱和して云く、不知不知、何を以てか、昨日は是、今日は非、吾れ閑暇無し、と。「雲門秘在形山」則、指月慧印禅師『拈評三百則不能語』巻下、38丁裏こちらは、道元禅師が編集された『真字正法眼蔵』を元に、江戸時代の学僧・指月慧印禅師(1689~1764)が本則として拈じ、評唱したものである。なお、道元禅師は『真字正法眼蔵』で集めた各本則は、『正法眼蔵』『永平広録』などで引用したりはされ...今日は「宇宙の日」らしい(令和5年度版)
今日は9月10日、語呂合わせで「弓(9)道(10)の日」らしい。弓道って、全国組織があったのか?と思って調べたら、大阪にある有限会社猪飼弓具店という会社の代表取締役の方が定めたらしい。・弓道の日(有限会社猪飼弓具店)それで、弓道と聞くと思い出すことがある。ゆえいかんとなれば、菩提心をおこし、仏道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども百行に一当なし。しかあれども、或従知識・或従経巻して、やうやくあたることをうるなり。いまの一当は、むかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり。聞教・修道・得証、みなかくのごとし。きのふの説心説性は百不当なりといへども、きのふの説心説性の百不当、たちまちに今日の一当なり。行仏道の初心のとき、未練にして通達せざればとて、仏道をすてて余道をへて仏...今日は「弓道の日」(令和5年度版)
今日9月9日は五節句の一、重陽の節句(重九の拙句、菊の節句)である。9という数字は、陽の数字とされるが、それが重なるから、重陽と呼称する。陰陽説に従い、中国では丘に登る行楽行事が行われたりしたが、日本では、奈良時代の頃から菊を観賞したことで知られる。そして、8日の晩に菊の花に綿をかぶせ、9日の朝に菊の水を吸った綿で顔をふいて浄め、美顔を目指したともされる。今日は、この「重陽」に因んだ、禅僧の説法を見ていきたいと思う。重陽の上堂。重陽黄菊、金綻びて新たなり。一掬秋香冷神に入る。雲天雁の陣南山の頂。誰ぞ在らん東籬感興の人。感興は且らく置く。臨済の三玄三要、還た会得すや、也、無しや。若し会得すれば今晨、旧に依って是れ重陽。其れ或いは未だ然らざれば、汾陽の句偈を挙して注脚しもて去くなり。三玄三要の事分かち難し〈鉄...今日は重陽の節句(令和5年度版)
先日アップした【「三防心離過貪等為宗」について】の続きとして、簡単な記事を一本書いておきたい。先の記事の末尾で、もともと「五観の偈」は黙然・観法していたのであり、口称していたものではないという指摘をした。それに関してSNS上でご質問を頂いたので、関連した記事をアップしておきたい。そもそも、唱えていなかった、というのは、以下の文脈から理解出来る。合掌して食に揖す。次に五観を作す〈一計功多少量彼来処。二忖己徳行全欠応供。三防心離過貪等為宗。四正事良薬為療形枯。五為成道故応受此食也〉。然る後に出生す(未だ五観を作さざれば己が食分に非ず。出生することを得ざれ)。偈に云く〈汝等鬼神衆。我今施汝供。此食遍十方。一切鬼神共〉。『禅苑清規』巻1(1103年成立)「赴粥飯」良くご覧頂くと、「五観」については「作す」となって...観法としての「五観の偈」について
旧暦9月の別名を「長月」という。その由来について、以下のような説明が知られている。◎九月和名と長月と云は、夜やうやうながきゆへに夜長月といふ略せるよし、奥義抄にしるせり。「江府年行事」、三田村鳶魚編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、50頁以上である。確かに、かつて夏至は旧暦5月であり、そこから4ヶ月が過ぎつつあるわけで、9月は夜の長さが理解される季節であったため、「夜長月」となり、そこから「長月」が生まれたとされている。ところで、「江府年行事」の作者は、その見解を『奥義抄』という文献から得たとしている。この『奥義抄(または、奥儀抄)』とは、平安時代後期の歌学書で、藤原清輔の著である。全3巻で、天治元年(1124)~天養元年(1144)の間に成立し、崇徳天皇に献上された後も増補されたという(そのため、各...「長月」一考
江戸時代に面山瑞方禅師が当時の永平寺40世・大虚喝玄禅師に招かれて拝登した際の記録が『傘松日記』である。面山禅師が当代随一の学僧であったことは間違いないが、大虚禅師もまた、特に宗門の戒学について第一人者であった。そのため、お二人の議論などは、後代の我々にとっても非常に益となる。今日は、その一つとして、以下の一節を見ておきたい。二十四日、方丈に上って喫粥し、退く。〈中略〉粥後、方丈従り命有り、「威儀を具えて、来られたし」と。余、即ち盥薫して衣を整えて、上る。即ち命じて侍者を室外に出だし、戸を闔づ。預め拝席一枚を展べ、炉を装う。即ち黒漆の筐を開き、法衣を出だし、「是れ乃ち吾が祖、昔著ける所の大衣なり。袱子、福井城主の祖母・長松院瑞嶺玄祥大姉の施す所の其の様、古風にして、今の世に無き所なり」と。法衣、象鼻の九条...面山瑞方禅師『傘松日記』に見られる道元禅師の御袈裟について
明治時代以降は、新暦への変換などがあって、9月29日に曹洞宗では両祖忌を執行しているが、当ブログでは諸事情もあって、かつての日付のまま、高祖道元禅師忌の記事を書くようにしている。曹洞宗の両祖の忌日は、旧暦の表記では次の通りである。永平道元禅師御遷化:建長5年(1253)8月28日瑩山紹瑾禅師御遷化:正中2年(1325)8月15日そこで、拙ブログでは、8月15日は「終戦の日」の記事を書くため、瑩山禅師忌を9月29日に書き、道元禅師忌を8月28日に書くようにしている。よって、本日の記事となっていることをご理解いただきたい。さて、改めて、道元禅師の最初期の伝記から御遷化された時の状況を学んでみたい。建長四年壬子秋、病を示す。建長五年癸丑八月二十八日夜半、偈を示し、自書して云く、五十四年、第一天を照らす、箇の𨁝跳...旧暦の日付で高祖道元禅師の忌日(令和5年度版)
備忘録的に記事にしておきたい。現在、道元禅師の『正法眼蔵』「嗣書」巻には「草案本」「修訂本」の2系統があると知られている。ほとんどの内容は一緒だが、例えば個人的にその違いに注目している一節がある。・いまわが洞山門下に嗣書をかけるは、臨済等にかけるにはことなり。「修訂本」・いまわが洞山宗門にかける、臨済等にかけるにことなり。「草案本」前者であれば、法系としての洞山門下を強調しているように見えるが、後者は「洞山宗門」とあって、どこか「洞山宗」というべき宗派意識の表出のように感じてしまうのである。もちろん、「仏道」巻などで、曹洞宗を含めた全ての宗派名の名のりを批判することはよく知られているから、違うという意見もあると思うが、道元禅師は『正法眼蔵』各巻で第一とする発想が異なるので、宗門と名乗っても問題無いように思...懐奘禅師による『正法眼蔵』「嗣書」巻の書写について
8月11日、今日は「山の日」である。この日は、2014年に制定されており、祝日としては新しいものである。そして、祝日について定めた祝日法を見ていくと、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」という趣旨であると分かる。とはいえ、由来などは書いていないため、何となく「お盆休み」の日付を増やす方便だったのでは?という感じもしてしまうが、仏教的にはありがたいというべきなのかもしれない。そこで、今日は「山」に因んだ祖師方の教えを学んでみたい。山は、超古超今より大聖の所居なり。賢人・聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人・聖人によりて、山は現成せるなり。おほよそ、山は、いくそばくの大聖・大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、山は、いりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり、ただ山の活計の現成するの...8月11日今日は「山の日」(令和5年度版)
もう、何も言うことは無いと思うが、今日8月7日は語呂合わせの関係で「鼻の日」である。よって、今日はそれに因んだ話を見ておきたい。以下の一節などはどうか?撫州石鞏慧蔵禅師、西堂智蔵禅師に問う、汝、還た虚空を捉得することを解すや。西堂曰わく、捉得することを解す。師曰わく、你、作麼生か捉う。西堂、手を以て虚空に撮す。師曰わく、你、虚空を捉うることを解さず。西堂曰わく、師兄、作麼生か捉う。師、西堂の鼻孔を捉えて拽く。西堂、忍痛の声を作して曰わく、太殺人、人の鼻孔を拽いて、直に脱去することを得るや。師曰く、直に須らく恁地に把捉して始めて得てん。『正法眼蔵』「虚空」巻ともに、馬祖道一禅師の法嗣とされる慧蔵禅師と、西堂智蔵禅師による問答である。さて、意味するところは、石鞏禅師が西堂禅師に、「そなたは、虚空を捉えることを...今日は「鼻の日」(令和5年度版)
今日は8月4日、語呂合わせで「箸の日」となっている。そこで、「箸」に因んだ記事をアップしてみようと思う。三十七、凡そ受くる所の食、匙筯を把りて浄人の手中に於いて自ら抄撥して取ることを得ざれ。三十八、匙筯を過して浄人に与えて、僧の食器の中に於いて食を取らしむることを得ざれ。四十九、匙筯を用いて鉢椀を刮げて声を作すことを得ざれ、当に湯水を用いて滌蕩して取るべし、即ち鉢の光を損なわざれ、若し鉢の光を損なえば、鉢、即ち膩を受けて洗い難し。「二時食法第八〈六十條〉」、南山道宣律師『教誡新学比丘行護律儀』、訓読は貞享3年版に基づいて拙僧これは、中国の南山律宗の道宣律師(596~667)による「二時食法(いわゆる朝食[粥]と昼食[飯])」の指示を行った内容だが、同時にインドの律蔵で構築された比丘の食事法を、中国版にアレ...今日は「箸の日」(令和5年度版)
『正法眼蔵随聞記』には、道元禅師が実際に栄西禅師に参じていたからこそ言及出来たであろう文脈が複数存在している。当方はそれを理由に、おそらく道元禅師は栄西禅師と相見し、参学していたと考えている。無論、従来の先行研究では、これらの文脈は全て、明全和尚などの栄西禅師門人から聞いたもの、という風に判断している場合もある。だが、当方は先行研究の根拠が、その当該著者の主観的雑感でしかないことに不満を抱いている。つまり、この辺、証明は出来ないのだ。さておき、今回の記事では以下の一節を見ておきたい。示云、故僧正建仁寺に御せし時、独の貧人来て道て云、「我家貧にして絶煙及数日、夫婦子息両三人餓死しなんとす。慈悲をもて是を救ひ給へ」と云ふ。其時、房中に都て衣食財物等無りき。思慮をめぐらすに計略尽ぬ。時に薬師の仏像を造らんとて、...栄西禅師が犯した罪は何だったのか?
今日から8月である。日本全体は先日来「酷暑」となっているが、旧暦の8月といえば、今の9月初頭に当たり、秋めいている状況であった。そのような時の上堂語を見てみたい。八月一日、天中節。赤口白舌、節に随って滅す。雲、峰頭に集まり秋水清し。樹功の草料、暁風悦ぶ。『永平広録』巻1-104上堂陰暦の8月1日は、陰陽思想などで「天中節」だと考えられた。特に、「火災・盗難・疾病・口舌」の災いを払うために「全ての悪口が、節に随って滅する」というお札を、日の出前に貼るべきだとされていた。道元禅師もこのような上堂をされた以上は、「天中節」の行いをされたのではないかと拝察するが、だからこそ、「雲は峰の頂上に集まって、秋の水は清い」といったような風情や、その元にある「樹にも草にも功徳が及び、暁の風を悦ぶ」といったような自然への眼差...八月一日の説法
以前、【道元禅師の直弟子達が語る三学論】という記事をアップしたのだが、他にも見ておくべき文脈があるため、今日はそれを確認しておきたい。雖無諸法生滅而有戒定慧と云は、是修証はなきにあらず、染汚することゑじと云義にあたるべし、生滅とこそ云ねども、戒ぞ定ぞ慧ぞ云へば、是こそ生滅の法と聞ゆれどもしかにはあらず、一戒光明金剛法戒と云程にこそ戒をも心得れ、只戒と云へば制止と許心得、断悪修善とのみは不可心得、又、戒はふね・いかだ也と云時は生滅法に似たれども、雖無生滅の道理は今の般若と談ずる所、戒定慧等なり、敬礼これなり、施設可得と云は是もほどこしまうけてうべくば生滅の法に似たり、然而今施設は可得とつかふ、戒定慧にて可心得、戒定慧已下至度有情類、施設可得なるなり、『正法眼蔵抄』「摩訶般若波羅蜜」篇、カナをかなにするなど見...道元禅師の直弟子達が語る三学論(2)
拙僧などは、機会があれば必ず道元禅師『学道用心集』を学ぶのだが、その中で、以前から学びをするべきだと考えている表現がある。今日は、それを学んでみたい。夫れ学道は、道に礙えらるなり、道に礙えるる者は悟跡を亡ず。仏道を修行する者は、先ず須く仏道を信ずべし。仏道を信ずる者は、須く自己本道中に在って、迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減無く、悞謬無きなり。是の如くの信を生じ、是の如くの道を明らめ、依りて之を行ず。乃ち学道の本基なり。『学道用心集』「道に向かって修行すべき事」、原漢文前10章に分かれている『学道用心集』の第9章の一部が上記引用文である。そこで、今回見ていきたいのは、「学道の本基」である。なお、「本基」という用語、用例は決して多くは無いが、上記の一節と、『正法眼蔵』「面授」巻に見られる。かの三十七品菩提...「学道の本基」とは何か?
加賀大乘寺山内の行持作法を定めた『椙樹林清規』について、以前から気になる一節があったので、探っておきたい。具体的には、毎月3回行われる、「宣読箴規」についてである。そもそも、『椙樹林清規』は、大乘寺25世・月舟宗胡禅師、26世・卍山道白禅師による『瑩山清規』研究などが前提となって編まれているものだが、そのためか、「宣読箴規」についても、以下の通り定められている。飯後坐禅板鳴て、知客、衆寮本尊前に就て、亀鏡文を読む、其の式は、止静の魚声を聞て、衆寮前の版、打すること三通、時に禅堂外堂、同列に衆寮に赴く、大衆普同三拝して、具上に坐す、知客、本尊前に進て、炷香、文を香に薫じて、具上にして之を読む、大衆諦聴す、読了て普同三拝、結制の中は、必行茶あり、副寮等之を弁ず、行茶了て大衆帰堂、各おの被位に倚て坐禅す、清規に...『椙樹林清規』に見る『正法眼蔵』講義について
三学とは、戒定慧学のことである。曹洞宗では一般的に、三学一等などともいわれ、その典拠として道元禅師『弁道話』、瑩山紹瑾禅師『坐禅用心記』などが参照されるけれども、もちろん、それだけが三学への態度ではない。例えば、以下の一節などはどうか。凡仏道に戒定慧三学あり、戒は業道を滅すれども凡悩を不断也、但仏戒と云時こそ無残所道理なれ、ゆへに菩薩戒仏戒尤可心得也、定は凡悩を断ず、又定多慧小あるべし、慧多定小あるべし、定はさき慧は後といふことあり、今の定慧等学明見仏性といはれは、これらにひとしからざる也、『正法眼蔵聞書』「仏性」篇、カナをかなにするなど見易く改めるこちらは、道元禅師の直弟子の1人である永興詮慧禅師によって書かれたとされる『正法眼蔵聞書』の一節である。いわゆる、75巻本『正法眼蔵』最初の註釈である。そして...道元禅師の直弟子達が語る三学論
「還吾安居来」は、当方が用いてしまった個人的表現だが、典拠としたのは次の御垂示である。・万里無寸草なり、還吾九十日飯銭来なり。・もし児孫と称するともがら、坐夏九旬を、無言説なり、といはば、還吾九旬坐夏来、といふべし。ともに『正法眼蔵』「安居」巻このように、道元禅師が「還吾」云々という表現が以前から気になっていたのだが、色々と調べていたところ、どうも典拠らしき表現を見出したので、紹介しつつ検討したい。還吾平生粥飯来(還た吾れ平生に粥飯し来たる)『霊竺浄慈自得禅師録』巻4「示衆」漢語仏典を見ていくと、もちろん、「還吾」という表現は頻出するのだが、道元禅師のように用いている事例としては、以上の一節を見ていくべきだといえる。この語録とは、中国曹洞宗の自得慧暉禅師(宏智正覚禅師の資、1090~1159)のものである...「還吾安居来」の話
中国曹洞宗の天童如浄禅師は、道元禅師の御本師であり、如浄禅師から嗣法したからこそ、日本に曹洞宗の法脈が伝来したのである。如浄禅師の没年だが、かねてより諸説があったものの、近年では宝慶3年(1227)7月17日に遷化されたという。道元禅師は、如浄禅師に係る御教示を数多く残されているが、この御遷化された日付について、明示したものはないと思われる。だが、7月17日に行っておられたであろうことは、以下のことから知られる。・(133上堂)解夏上堂云……・(134上堂)天童和尚忌上堂云……ともに『永平広録』巻2他にもあるのだが、とりあえず1箇所あれば良いので引用してみたのだが、道元禅師は越前に移転されてから、ほぼ毎年のように先師・如浄禅師の忌日に合わせて上堂されている(京都・興聖寺では行われた記録は無い。ただし、行っ...7月17日天童如浄禅師忌(令和5年度版)
先日、【7月14日懐奘禅師永平寺住持職に就位】の記事でも書いたが、道元禅師は夏安居中には夏安居を徹底して御修行されるが、解制となれば、何かの行動を起こされる場合がある。そこで、今回採り上げるのは、寛元元年(1243)7月16日のことである。この日、道元禅師は京都深草の興聖寺から、越前への移転を開始されたといわれている。なお、最古の伝記では、日付までは記さない。後に波多野雲州大吏義重、固請するに依りて、移りて越州に下る。寛元二年甲辰七月、吉祥山永平寺を草創す。『永平寺三祖行業記』「初祖道元禅師」章、訓読は拙僧以上の通りの記述で、永平寺(この時、正しくは「吉祥山大仏寺」であった)を草創したのが、寛元2年(1244)7月であったことを記すが、その前の越前への移転開始の日付は書かれていないのである。おそらく、最初...7月16日道元禅師が越前への移転を開始
今日7月15日は解夏である。いわゆる、夏安居の解制である。そこで、この意義について、道元禅師の教えを学んでみたい。夏安居の一橛、これ新にあらず、旧にあらず、来にあらず、去にあらず。その量は、拳頭量なり、その様は、巴鼻様なり。しかあれども、結夏のゆえにきたる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。解夏のゆえにさる、帀地を裂破す、のこれる寸土あらず。このゆえに、結夏の公案現成する、きたるに相似なり。解夏の籮籠打破する、さるに相似なり。かくのごとくなれども、新曾の面面、ともに結・解を罣礙するのみなり。万里無寸草なり、還吾九十日飯銭来なり。『正法眼蔵』「安居」巻夏安居を「一橛」と表現されている。この「橛」とは、「くい」の意味だが、真言宗では結界の四方を示すというから、この場合も安居を1つの「結界」と見ていることを指す...今日は解夏の日(令和5年度版)
旧暦の日付であれば、という話ではあるのだが、7月14日というと、永平寺の二祖・懐奘禅師(1198~1280)が住持職に就位した日付となっている。今日はその経緯などを学んでみたい。まず、懐奘禅師の永平寺住持職就位について伝えるのは、最古の伝記の一である『三祖行業記』『三大尊行状記』ともに共通している。建長五年癸丑七月十四日、即ち住持位に著く。夜間に小参し、早朝に上堂す。元和尚、病床たりと雖も、輿に乗りて来たりて、聴聞し証明す。然りと雖も、師に事ふて礼を捨てず。『三大尊行状記』「永平二代懐奘和尚行状記」、訓読は拙僧で以下同じ以上の通りなのだが、建長五年とは1253年である。道元禅師最晩年であり、この日から約1ヶ月半後の8月28日に、御遷化された。永平寺住持職承継に関連して、以下の記述もある。△建長五年七月十四...7月14日懐奘禅師永平寺住持職に就位
この記事は、【「三帰戒」という呼称について】の続編である。それで、拙僧が集めた資料の中に、「三帰戒」という項目があることを確認したので、それを学んでみたい。三帰戒汝等、帰戒を求めんと欲せば、先づ当に懺悔すべし。〈壱反〉我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。〈三反〉更に応に仏法僧の三宝に帰依すべし。〈一反〉南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、帰依仏無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊、帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。〈三反〉三帰戒を受くこと是の如し、今身より仏身に至る迄、此の事能く護持せよ。『日用行事書』写本、原典の訓点に従って訓読、漢字も現在通用のものに改めるこちらの『日用行事書』であるが、現在の愛知県内寺院で用いていたものだと判明している。なお、内容に甘雨為霖禅師(1786~187...「三帰戒」という呼称について(2)
なんとも凄い話だが、インド人は二桁×二桁の暗算を容易にこなすそうである。やはり、数字について、暗算で扱えるレベルが違っているのだろう。それとも、訓練の成果だろうか?そこで、道元禅師の説法に見える「かけ算」について見ていきたいと思う。冬至小参に云く。古徳道く「九九八十一、人の能く算の解する無し。両箇五百文、元来是れ壱貫」と。『永平広録』巻8-小参4このように、引用文ではあるが、9×9=81という計算を明らかに説法に利用されている(多くの禅語録には、五五二十五、六六三十六、七七四十九、他がある)。これは、“掛け合わされる”ということが、縁起の様子で「思った以上に数字が増えても、実はその内容は同じ」様子を明らかにしている。かけ算はあくまでも法の様子であり、この世の諸現象は、様々な変異があるけれども、それは諸法実...道元禅師の説法に見える「かけ算」
今日は7月8日である。ところで、発見されたのが比較的新しい時代(江戸時代中期)なので、信憑性などで疑問無しとはしないのだが、通称『御遺言記録(または『永平室中聞書』)』と呼ばれる文献がある。本書は、永平寺3世・義介禅師が聞いたという体裁で、御開山である道元禅師、二祖・懐奘禅師の遺言が記録されたものとされる。その中で、「建長五年(1253)七月八日」という日付の教えが見られるので、今日はそれを学んでいきたい。同七月八日、御病重ねて増発す。義介驚きて参拝す。堂頭和尚示して云く、汝近前し来たれ。介右辺に近前す。示して云く、今生の寿命は、此の病にて必ず限りを覚ゆ。凡人の寿命は必ず限り有り。然而ども病に任す可きには非ず。日比見られるの様、我れ随分力人を合し、彼此に医療を加う。然りと雖も全く平愈せず。此れ又た驚く可か...七月八日道元禅師の「正信」の教え
今日採り上げるのは、道元禅師が本師・如浄禅師から受けた慈誨を集められた『宝慶記』である。同書の冒頭は、道元禅師が如浄禅師に対して質問などをして良いかどうかを確かめるものであり、その後、「宝慶元年七月初二日方丈に参ず」とあって、宝慶元年(1225)7月2日から、如浄禅師に個人的に参学できる立場になったことを意味している。この件について、道元禅師は後に、以下のようにも表現されている。われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭をゆるさるるのみにあらず、ほしきままに堂奥に出入して、尊儀を礼拝し、法道をきく。愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。『正法眼蔵』「梅華」巻現地で見聞された様子を伝えて、中国で生まれ、仏道を学んでいる者の中にも、如浄禅師の室内に入って教えを聞くことが出来な...宝慶元年七月初二日方丈に参ず
あぁ、なんか気になる文章があったので、検討してみたい。堂頭和尚―胡―つこと、胡椒のこと、老人になつて、血気のうすうなつたものは、食してよし、若輩なものは、食ふと熱がでる、そうすると、天然と五臓が不和合になる、前の橄欖・茘枝の下につづき走なもの、下書ゆへに前後がある、面山瑞方禅師『宝慶記聞解』坤巻(明治11年版)11丁表、カナをかなにするなど見易く改めるいきなり???となったのだが、面山禅師は『宝慶記』に「胡椒」に関する説示があるとするのだが、最近用いられる懐奘禅師書写本や宝慶寺本由来の翻刻からすれば、一般的な『宝慶記』のテキストには見当たらないことになる。なお、上記一節については、おそらく以下の一節についての提唱だと思われる。堂頭和尚慈誨して曰く、功夫弁道坐禅の時、胡菰を喫すること莫れ。胡菰、発熱するなり...禅僧、胡椒オッケーです