メインカテゴリーを選択しなおす
今日は敬老の日である。日本の国民の祝日に関する法律では、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨として制定されている。世間としては、それで良い。そこで、仏教には「長老」という立場が存在している。現代の曹洞宗では、一座の法会の首座を指す言葉となっているが、実際には以下のような定義であった。禅門規式に云く、凡そ道眼を具え、尊するべきの徳有る者を、号して長老と曰う。西域の道高くして臘長き、須菩提等を呼ぶの謂いなり。『禅林象器箋』巻6「長老」項こちらの通りで、長老というのは、いわゆる高徳の僧侶であり、更には、「臘長き」という言葉がある通りで、出家してからの年数なども考慮されたものであったらしい。ところが、同じ『禅林象器箋』でも引用されているのだが、以下のような見解も存在していたらしい。...今日は敬老の日(令和6年度)
以前書いた【「師僧」と「師匠」について】の続編という感じで記事にしておきたい。その際、現在の宗派の規程などで、「師僧」という用語は使われているが、一方で「師匠」という用語は、「匠」という職人的な用語であって、相応しくないという話があるそうだ。ただし、道元禅師の用例からすれば、「師僧」と「師匠」では、「師匠」の方が多く使われていたことを、先の記事で指摘した。それで、今回は今少し、「匠」の字句に注目して記事にしておきたい。いま、有道の宗匠の会をのぞむに、真実、請参せんとするとき、そのたより、もとも難辨なり。『正法眼蔵』「行持(上)」巻このように、道元禅師は「有道の宗匠」という表現をされていて、これは優れた指導者という意味である。ただまさにしるべし、七仏の妙法は、得道明心の宗匠に、契心証会の学人あひしたがふて正...優れた指導者を「匠」と呼ぶことについて
今日9月9日は重陽の節句である。いわゆる五節句の最後になるのだが、重陽とは9の数字が「陰陽の陽」を意味し、それが重なることから、そのように呼称される。また、華に因む場合は「菊の節句」ともいう。そのため、古来よりこの日の朝、菊の華に貯まった水を使って顔を拭くと、美顔になるという信仰や、この水を使って筆を使うと美筆になるという教えもある。禅林では、この日に偈頌を詠んでいた印象が強い。今日はそのような一首を紹介してみたい。重陽に兄弟と与に志を言う去年九月此の中に去、九月今年此自り来る、憶うことを休みね去来の年月日、叢裏に菊華の開くるを看るのを懽しむ。『永平広録』巻10-75偈頌この偈頌であるが、道元禅師が宝治元年(1247)7月~宝治2年3月にかけて行われた鎌倉行化に因む偈頌よりも、前に収められていることから、...重陽の節句(令和6年度)
『宝慶記』は、道元禅師が中国で天童如浄禅師から受けた教えをまとめた文献だとされるが、その中に「沙弥」と「比丘」に関する話題が見られる。伝統的には非常に有名な一節なのだが、拙僧自身一度この辺を考えておきたいと思ったので、まとめておきたい。それで、『宝慶記』の問答の数え方は様々だが、とりあえず今回見ておきたいのは「第43問答」である。堂頭和尚慈誨して云く。薬山の高沙弥は、比丘の具足戒を受けざりしも、また、仏祖正伝の仏戒を受けざりしにはあらざるなり。然れども僧伽梨衣を搭け、鉢多羅器を持したり。是れ菩薩沙弥なり。排列の時、菩薩戒の臘に依って、沙弥戒の臘に依らざるなり。これ乃ち正伝の稟受なり。你に求法の志操あること、吾の懽喜する所なり。洞宗の託するところは、你、乃ち是れなり。さて、こちらの内容を素直に読むと、天童如...『宝慶記』に於ける「沙弥」と「比丘」の話題について
今日は9月1日である。大本山永平寺を開かれた高祖道元禅師(1200~53)は、永平寺に入られてから、この日にほぼ毎年説法をされている。今日は、その1つを学びたい。九月初一の上堂。功夫猛烈、生死を敵す。誰か愛せん世間の四五支。縦え少林三拝の古を慕うとも、何ぞ忘れん端坐六年の時。恁麼見得、永平門下、又、作麼生か道わん。良久して云く、今朝、是、九月初一、打板坐禅旧儀に依る。切忌すらくは、睡ること、要すらくは疑いを除かんこと。瞬目及び揚眉せしむることなかれ。『永平広録』巻6-451上堂道元禅師の坐禅は、他に何かを実現するための手段としてではなく、まさに無上菩提として仏教に於ける智慧の完成として存在する。或いは、わずか一時の坐禅であっても三世十方を証契するともされる。すべからく回向返照の退歩であり、身心が自然に脱落...九月一日の説法を読む
明治期の改暦の関係で、現在では9月29日を「両祖忌」としている曹洞宗だが、かつての旧暦の頃の記録を見ると、8月28日に道元禅師が亡くなられたことが知られる。建長五〈癸丑〉年、八月廿八日〈甲戊〉寅之刻に偈を示して、自書して云く・・・(以下、遺偈)古写本『建撕記』ここから、建長5年(1253)8月28日の夜半、道元禅師が亡くなられたとされる。正治2年(1200)のお生まれだったため、54歳の御生涯であった。現在の曹洞宗では、日を改めて9月29日に「両祖忌」とするが、拙ブログでは今日8月28日を道元禅師の忌日として記事を書く日としている。理由は以下の通りである。8月15日⇒旧暦で瑩山禅師御遷化。ただし、「終戦の日」。8月28日⇒旧暦で道元禅師御遷化。9月29日⇒新暦で両祖忌。ここから、9月29日を瑩山禅師御遷化...8月28日道元禅師忌(令和6年度版)
何となくではあるが、まだまだ浸透していない印象もある「山の日」。まぁ、我々的には盂蘭盆会(お盆)の直前ということもあって、気にしている状況でも無いというのが実際のところか。なお、「山の日」は、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」として、2016年から行われるようになった。今年で9回目であるから、確かにまだ親しまれていないのも。拙僧的には、今日という日付に因んで「山」について参究しておきたい。道元禅師の『正法眼蔵』「山水経」巻もあるが、今年は以下の一首から学びを深めてみたい。山深み峯にも谷も声たてて今日もくれぬと日暮ぞなく『道元禅師和歌集』こちらの御歌だが、特に題などは付いていない。季節などが分かるのは、末尾の「日暮(ヒグラシ、蜩)」であろう。俳句であれば7月(秋)の季語とされる。この一首も秋という...今日は山の日(令和6年度)
今日は8月10日である。世間の一部の企業なら、「ハットの日」かもしれないが、拙僧などは語呂合わせから、勝手に「法堂の日」としているので、色々と学んでみたい。仏殿を立てず、唯だ法堂を搆うるのみなるは、仏祖の親受を表して、当代の尊と為すなり。入門して仏殿無し。陞座して虚堂有り。即ち此れ心印を伝え、当に知るべし是れ法王なり。『禅苑清規』巻10「百丈規縄頌」これは、『百丈清規』の理念を表現したとされる『禅門規式』と、禅宗の修行理念に対して、頌を付したのが『百丈規縄頌』である。その中に、法堂の意義について以上のように表現している。意味としては、百丈懐海禅師が目指した禅宗叢林は、仏殿を立てずに、ただ法堂のみを建てたという。それは、禅宗叢林の住持とは、大法を親受した仏祖であり、まさしく仏陀と同じくらいにある当代の尊師で...今日8月10日は「法堂の日」(令和6年度版)
8月4日、語呂合わせで今日は「箸の日」である。まぁ、「橋の日」でもあるようだが、膨らましようがないので、「箸」にしておく。それで、我々禅宗の食事作法について考えてみると、「箸」を使うのであるが、冷静に考えてみると、インドでは本来、素手で食べていたはずだ。その辺の事情について、道元禅師は以下のように示されている。遐に西天竺の仏儀を尋ぬるに、如来及び如来の弟子、右手で飯を摶めて而も食す。未だ匙筯を用いず。仏子、須らく知るべし。諸天子及び転輪聖王、諸国王等、亦た手を用いて飯を摶めて而も食す。当に知るべし、是れ尊貴の法なり。西天竺の病比丘、匙を用いるも、其の余、皆な手を用いる。筯、未だ名を聞かず、未だ形を見ざるなり。筯は、偏えに震旦以来の諸国に用いるを見るのみ。今、之を用いるは土風・方俗に順う。既に仏祖の児孫為り...8月4日今日は箸の日(令和6年度版)
或る記事を頼まれて書いていた時、或る一文を読んだ感想を記事にしておきたい。宝治元年八月三日、鎌倉御下向之事。西明寺殿、法名道宗(崇)、依被請申、御下向、やがて受菩薩戒給う、其外之道俗男女、受戒の衆、不知数と云々。『建撕記』これは、古写本系統の『建撕記』の1本を引用したものである。それで、何が書いてあるかというと、道元禅師が宝治元年(1247)8月3日に鎌倉に行化されたのだが、その依頼者である北条時頼(最明寺[西明寺]殿)と会談し、やがて(すぐに)菩薩戒を授けられたとし、他にも、僧侶や在家者の男女が、道元禅師から授戒されたというのである。まぁ、優れた僧侶が近くにおられれば、授戒を希望されるというのは当時よくある話なので、この記述自体には何の違和感も無い。それまで、授戒されるのは貴族が中心だったような気もする...道元禅師が北条時頼に授けた戒
「加護」という言葉がある。これは元々、「加」が、神仏からの働き掛けを意味し、「護」は「衛護」などの意味であるから、諸仏が我々を守ってくれることを「加護」という。良く、道元禅師は密教的な「加持祈祷」は行わなかったとかいわれるが、用語的に「加持」を用いていないからといって、諸仏からの働き掛けまでも否定したわけでは無い。その意味では、「加持祈祷」は行わなかった、というのは早計である。仏言、剃頭著袈裟、諸仏所加護。一人出家者、天人所供養。あきらかにしりぬ、剃頭著袈裟よりこのかた、一切諸仏に加護せられたてまつるなり。この諸仏の加護によりて、無上菩提の功徳円満すべし。この人をば、天衆・人衆ともに供養するなり。『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻この「仏言」は、『大方等大集経』「月蔵分」からの引用であるけれども、意味としては、頭...道元禅師が説く諸仏の加護について
なんでも、最近読んだ、或る在家信者の方の文章によると、説法に於いては、確固たる“信念”を述べてくれるような禅僧がありがたいそうだ。確かに、そういう評価も必要かもしれない。なお、拙僧は、その方に何ら含むところはないので、以下の記事はあくまでも拙僧自身の問題意識に於いて考えていくのだが、正直、信念を述べることについては不可解な思いがしている。もちろん、全く歯も立たないような禅語録や、『正法眼蔵』といった著作を読むために、師から読み方を習うことがあるのは良いだろう。しかしながら、師が確定的に述べてくれることというのは、そんなにありがたいことなのか???また、拙僧は以前から、確定的言説を特定の師に求める態度に、「教条主義」を感じている。今回は、その想いというか、疑問を元に記事を書こうと思う。何だって人は、こういう...決定法はそれほどに大切か?
道元禅師の言葉は、様々な出典があるが、これなどは珍しい方に入るのかもしれない。たとへばこれ、敗軍之将さらに武勇をかたる。『正法眼蔵』「王索仙陀婆」巻なお、原典は良く知られていて、以下の一文がそれに当たる。敗軍の将は以て勇を言う可からず。『史記』淮陰侯列伝これは、漢の韓信に敗れた趙の李左車が、韓信から燕と斉を破る方法を尋ねられた際、恥じ入って述べた言葉とされる。要するに、戦で負けた者は、戦争について教えられることが無いという意味になろう。しかし、道元禅師の言い方は、「さらに武勇をかたる」となっていて、元々の意味とは正反対になっている。その意味で、何故このように改めたかが気になるわけである。この一文は、香厳智閑禅師が「王索仙陀婆」について尋ねられた際の問答が元になっている(なお、【昨日の記事】をご参照願いたい...敗軍之将さらにどうする?
いや、余り面白くない記事で本当に申し訳ないm(__)m香厳襲燈大師、因みに僧問う、如何なるか是れ、王索仙陀婆。厳云く、遮辺を過ぎ来たれ。僧、過ぎ去く。厳云く、鈍置殺人。しばらくとふ、香厳道底の、過遮辺来、これ索仙陀婆なりや、奉仙陀婆なりや、試請道看。ちなみに、僧過遮辺去せる、香厳の索底なりや、香厳の奉底なりや、香厳の本期なりや。もし本期にあらずば、鈍置殺人といふべからず。もし本期ならば、鈍置殺人なるべからず。香厳一期の尽力道底なりといへども、いまだ喪身失命をまぬかれず。たとへばこれ、敗軍之将さらに武勇をかたる。『正法眼蔵』「王索仙陀婆」巻・・・((((((((;゚Д゚))))))))ガクガクブルブルガタガタブルブルとりあえず、香厳襲燈大師とは、香厳撃竹の話で有名な香厳智閑(?~898)のこ...「鈍置殺人」事件発生
既に連載は終了しているが、かのグルメマンガ『美味しんぼ』106巻に、道元禅師の言葉が引用されているらしい。「広く学ぶことはとてもできることではない、むしろすっぱりと思い切って、ただひとつのことにもっぱら励むことだ」by山岡士郎これが、道元禅師の言葉って事らしいが、出典は何処だろうか?『美味しんぼ』は料理に関するマンガだから、それを思う時、主として、『赴粥飯法』とか『典座教訓』辺りを考えてしまいたくなるが、ここで引かれたものを見ると、『正法眼蔵随聞記』っぽいかな。よって、探してみた。示曰、広学博覧はかなふべからざる事なり。一向に思ひ切て、留るべし。『正法眼蔵随聞記』巻2手元でちくま学芸文庫を開いたら、たまたま最初のページにこれが出て来て、一瞬で発見した・・・まず間違い無くここを指していることだろう。現代語訳...『美味しんぼ』に引かれた道元禅師の言葉
今日7月18日は、道元禅師が吉峰寺から大仏寺に移動した日として知られている。『永平広録』巻2冒頭には次のように記載されている。師、寛元二年甲辰七月十八日に当山に徙る。明年乙巳、四方の学侶、座下に雲集す。寛元2年は「1244年」であり、前年の7月に京都を出られた道元禅師は約1年の寓居生活(吉峰寺、禅師峰)を経て、この日大仏寺に移られた。ただしこれは、上記文章を見れば分かるように、直ちに修行を開始したという意味では無く、翌年から「四方の学侶」が集まってきたことを示すように、とりあえず、京都から連れてきた弟子達とともに大仏寺に移動した、という意味で捉えるべきである。逆にいえば、大仏寺は何人かの収容・生活が可能なくらいに伽藍の整備が進んだと理解すべきなのだろう。その上で、後代の記録ではあるが、次のようなことが行わ...7月18日道元禅師が大仏寺に移動
今日は、旧暦の7月17日を命日とする天童如浄禅師(1162~1227)のことを採り上げてみたい。ところで、道元禅師伝に詳しい方々については、如浄禅師の説明は、もはや不要であろうと思います。一応、【如浄―つらつら日暮らしWiki】なんていう項目もあるので、興味のある方はご覧いただきたい。さて、今日見ていくのは道元禅師が、本師である天童如浄禅師のために行った追悼の上堂である。永平寺に入られてからはほぼ毎年行われている追悼の上堂であり、年回法要とは関係なく、いわゆる「毎歳忌」扱いになる。今年のは、整合的ではない順番で入っている上堂なので、具体的な年号は分からない(一応、推定されてはいる)。寛元4年(1246)巻2-184上堂宝治元年(1247)巻3-249上堂宝治2年(1248)巻4-274上堂不詳巻4-276...7月17日天童如浄禅師忌
色々と読んでいる時に、以下の一節があることに気付いた。洞下は、永平祖師の家訓にて、剃髪の時、大乗戒の血脈を授かって、皆な菩薩僧なれば、剃髪戒臘が、祖意に叶うなり。面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻5「僧堂新到須知」実は、この一節を見て、拙僧は困ってしまった。その理由として、上記一節で、面山禅師は出家時に「大乗戒の血脈」を授かるとしている。ところが、面山禅師が編集して敷衍したという『得度略作法』には、血脈授与の項目が見えないのである。以前も見たことであるが、面山禅師の『得度略作法』は以下のような差定となっている。・準備物・奉請三宝・十仏名・嘆徳文・出家の偈・発心の偈・剃髪・安名・授坐具衣鉢法(坐具・五条衣・七条衣・九条衣・応量器)・授菩薩戒法(懺悔・三帰戒・沙弥十戒・三聚浄戒・十重禁戒)・回向・略三宝・処...出家時の『血脈』の有無について
今日は海の日である。もう何年か前から「ハッピーマンデー」になっていたので、今日となる。ところで、大乗仏教で「海」といえば「海印三昧」がある。この三昧は、本来無礙なる仏の智慧の海に、一切の真実相が「印」されて映るような禅定三昧を意味し、『華厳経』という仏典は、この「海印三昧」を説いたものであるとされる。道元禅師は、この「海印三昧」を承けて、中国禅宗の祖師方が説いた教えをもって解釈し『正法眼蔵』「海印三昧」巻を、仁治3年(1242)4月20日に興聖寺で著されたが、他にも道元禅師の著作には「海」が多く登場する。寮中の清浄大海衆、いまし凡いまし聖、誰か測度するん者ならんや。〈中略〉但、四河海に入って復た本名無く、四姓出家しても同じく釈氏と称せよとの仏語を念え。『永平寺衆寮箴規』そもそも、修行僧は「清浄大海衆」とさ...道元禅師と「海の日」(令和6年度版)
明日は7月15日、仏教的には色々と重なっている。ただ、明日は「海の日」らしく、そのための記事も書いているので、今日は「色々と言いたい日」ということで記事を書いていきたい。まず、明日は解夏の日である。解夏の日は、旧暦で4月15日に始まる夏安居が90日間過ぎて終わる日となる。それはさておき、当然に夏安居が始まれば、終わる時も来るわけで、終わる時について道元禅師は以下の様に示されている。解夏。七月十三日、衆寮煎点諷経、またその月の寮主、これをつとむ。十四日晩の念誦、来日の陞堂・人事・巡寮・煎点、並んで結夏に同じ。『正法眼蔵』「安居」巻諷経と念誦くらい?始める時ほど、大変では無い印象。そこで、瑩山紹瑾禅師の時代になると夏中楞厳会を行うようになり(道元禅師の時代に行っていたかどうかは不明。「していない」という断定が...7月14日仏教的には色々と言いたい日
今日は五節句の一、七夕の節句である。日本では、いわゆる織り姫と彦星の話で、中々見えない天の川に思いを馳せまするが、この節句に於いて、禅宗寺院では、毎回行事が行われてた。ただし、5月5日や9月9日などには、その活動を行っていた形跡がある道元禅師なのですが、何故か7月7日には何もやっていない。そもそも、「五節句」は江戸時代に整備されたともいう。ところで、禅宗寺院と「七夕」の関係について、以下の一節をご覧いただきたい。衆僧の斎粥は、常に勝心を運らし、四来を管待して、軽易すべからず。冬斎・年斎・解夏斎・結夏斎・炙茄会・端午・七夕・重九・開炉・閉炉・臘八・二月半のごとき、この如上の斎会に、もし監院力あらば自ら営弁すべし。もし力およばざる所は、即ち人を請して勾当す。『永平寺知事清規』これは、当時の中国の禅宗道場で用い...今日は七夕の節句(令和6年度版)
現在、【『正法眼蔵』勉強会】にて、『正法眼蔵』「海印三昧」巻を読んでいる。実際、拙僧にしてみれば、久方ぶりの同巻であった。無論、常日頃『正法眼蔵』を読みつつ目を通してはいるが、受講者にしっかり学んでもらえるくらいまで読むとなると、12年ぶりらしい。そこで、この記事では、勉強会で申し上げることをまとめているときに改めて、以前から気になっていた、「海印三昧」巻冒頭の一節について、私見を開陳してみたい。大学院生だった頃にまとめた、ゼミ用の予習ノートを見返していたところ、「海印三昧」巻冒頭について、「本則の場所が不明瞭」「これ、別の本則があったのではないか?」という書き込みがされていた。最初は、記憶の彼方にあったことなので、何のことか本人が分からなかったのだが、色々と考えている内に思い出した。それは、本文をご覧い...『正法眼蔵』「海印三昧」巻冒頭の話
最近夙に、近代の仏教研究者の業績に対し、懐疑的な視線を投げかけるようにしている拙僧、とりあえず鈴木大拙居士についても、その例外ではない。そこで、或る文章から、大拙居士の見解について検証しておきたいので、今日は記事にする次第である。大拙居士の盟友、西田幾多郎博士の文章から、道元禅師に関する記述を抜き出していたら、面白い記述を見付けた。無心と云ふことは、単に無分別とか如赤子とか云ふことではない。道元禅師が支那から帰つた時、何を学んで来たかといふ人の問に答へて、何も取立てて云ふことはないが、唯「柔軟心」を得て来たと云つたと云ふ。『日本文化の問題』、岩波書店『新編西田幾多郎全集』第9巻、55頁正直、不思議な記載である。不思議というのは、拙僧自身、このエピソードを知らないためである。江戸時代くらいまでの、道元禅師伝...鈴木大拙居士と道元禅師
7月2日は、道元禅師が本師・天童如浄禅師から学んだことを記録した『宝慶記』と学ぶ日としている。理由は、以下の通りである。宝慶元年七月初二日、方丈に参ず。『宝慶記』つまり、道元禅師が初めて如浄禅師に参じたのがこの日だったといえるため(本当は、暦が新旧で違うので、変換が必要)その一節に、「菩薩戒序」の話が出ているので、今日はそれを見ておきたい。身心悩乱する時は、直に須く菩薩戒の序を黯誦すべし。問うて云く、菩薩戒とは何ぞや。和尚示して曰く、今、隆禅の誦する所の戒の序なり。『宝慶記』第5問答ここで如浄禅師が仰っているのは、坐禅などの時に身心が悩乱した時に、「菩薩戒序」を読むと良いという話をしているのである。そこで、この場合の「菩薩戒」とは何か?という道元禅師の質問に対し、隆禅和尚が誦する「菩薩戒序」のことだと教示...『宝慶記』に見える「菩薩戒序」の話
拙僧が昨年度から講師を担当している【『正法眼蔵』勉強会】は2つあるが、その1つで「画餅」巻を読み終えた(次回からは「海印三昧」巻となる)。そこで、末尾に結構難しい一節があるので、それを学んでみたい。しかあればすなはち、画餅にあらざれば充飢の薬なし、画飢にあらざれば人に相逢せず、画充にあらざれば力量あらざるなり。おほよそ、飢に充し、不飢に充し、飢を充せず、不飢を充せざること、画飢にあらざれば不得なり、不道なるなり。しばらく這箇は画餅なることを参学すべし。この宗旨を参学するとき、いささか転物物転の功徳を、身心に究尽するなり。この功徳、いまだ現前せざるがごときは、学道の力量、いまだ現成せざるなり。この功徳を現成せしむる、証画現成なり。『正法眼蔵』「画餅」巻さて、注意しなければならないのは、「飢」「不飢」「充」「...『正法眼蔵』「画餅」巻の一節の参究
鈴木大拙居士(1870~1966)の随筆で、曹洞宗の禅を以下のようにまとめていた。一方日本の曹洞禅があつて禅戒一如の思想や、一寸坐れば一寸の仏と云ふやうな見方、「正法眼蔵」の研究、道元中心の禅などと云ふものが出来たが……大拙居士「公案禅と念仏禅」、『禅:随筆』大雄閣・昭和2年、350頁ここで気になったのは、「一寸坐れば一寸の仏と云ふやうな見方」であり、これは曹洞宗の教えといえるのだろうか?確かに、この一句を御垂示等に用いられた事例も少なくないように思うが、ただ、少し議論を要すると思うのだ。例えば、江戸時代の学僧・天桂伝尊禅師が次のような批判を行ったことで知られる。老僧常道、汝等坐禅修行すといへども、但修習行儀無実究道理、只管打坐、仏祖眼睛、在規矩中、一寸の坐禅、一寸の仏などヽ云、瞎禿子の妄談を信じて、著眼...一寸坐れば、一寸の仏?
拙僧の好きなことの1つに、ただ『東方年表』を眺めるという変なのがあるのだが、それを見ていると、或る元号について気になることがある。それは、曹洞宗の大本山永平寺の名前の由来になったとされる「永平」という元号についてである。現在、福井県永平寺町に所在する永平寺は、元々吉祥山大仏寺(『永平広録』巻2冒頭参照)と呼称され、その後改名された。大仏寺を改めて永平寺と称する上堂〈寛元四年丙午六月十五日〉。〈中略〉良久して云く、天上天下当処永平。『永平広録』巻2-177上堂このように、寛元4年(1246)6月15日に改名されたことが分かる。ただし、道元禅師が何に由来して「永平寺」と名付けられたのか、ご自身の御著作・御提唱などからは判明していない。しかし、永平寺5世・義雲禅師がご見解を示されている。夫れ、永平とは仏法東漸の...「永平」という元号(6月15日の記事)
現在の曹洞宗は、「出家得度式」の作法に於いて、「沙弥戒」を授与していないため、この辺は余り議論されないものではある。しかし、今後の曹洞宗の戒体系を考える上では、「沙弥戒」の位置付けは避けては通れない。よって、この記事では道元禅師に於いて「沙弥戒」がどの位置付けであったのかを探るものである。まず、「沙弥戒」は、道元禅師撰とされる『出家略作法』に於いて以下のように位置付けられている。次に戒の作法を授く。次に懺悔・三帰・五戒、尽形受。次に沙弥十戒、尽形受。次に菩薩三聚浄戒〈今身従り仏身に至るまで〉。次に根本十重禁戒〈今身従り仏身に至るまで〉。各三拝して之を受く。後、仏を礼して去る。『出家略作法』ここである通り、「在家五戒」を授け、菩薩の三聚浄戒・十重禁戒を授ける間に「沙弥十戒」を授けている。しかし、ここで「沙弥...道元禅師に於ける「沙弥戒」授与の意義
今日6月9日は「ロックの日」らしい。だが、禅宗にロック好きは多く、或る意味全員ロックな禅僧だという話があるくらいなので、誰でも良いのだが、敢えてこの一則である。鄂州巌頭清厳大師〈徳山に嗣ぐ、諱は全豁〉因みに僧問う、「三界の競起する時、如何」。師曰く、「坐却せよ」。僧云く、「未審し、師意、如何」。師曰、「廬山を移取し来れ、即ち汝に向かいて道ん」。『真字正法眼蔵』上75則この問答だが、徳山宣鑑禅師の弟子である巌頭全豁禅師(828~887)に、或る僧が聞いている。何を聞いたかといえば、「三界」というのは、この我々の世界を含めた全宇宙くらいの意味で考えて貰えば良いと思うが、それが「競起する」としている。昔、この意味を或る先生に聞いたら、向こうから盛んにドンドンくるようなイメージだと仰っていたように覚えている。よっ...今日は6月9日「ロックの日」らしい
現在、拙僧が承っている『正法眼蔵』勉強会では「渓声山色」巻を読み終えたのだが、同巻巻末に見られる或る一節について学んでみたい。その前に、曹洞宗の読誦教典として100年以上にわたって用いられている『修証義』の「第二章懺悔滅罪」の一節を見ていこうと思う。其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我を愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。下線は拙僧特に下線部をご覧頂きたいが、この...龍牙居遁禅師の言葉と懺悔
我々は、道元禅師が用いた言葉であっても、それが現代と同じ意味として使われているとは限らないことを知るべきなのだろう。例えば、次の御垂示はどう理解すべきだろうか?しかうしてのち、衆僧、おのおのこころにしたがひて人事す。人事とは、あひ礼拝するなり。たとへば、おなじ郷間のともがら、あるいは照堂、あるいは廊下の便宜のところにして、幾十人もあひ拝して、同安居の理致を賀す。しかあれども、致語は、堂中の法になずらふ、人にしたがひて今案のことばも存す。『正法眼蔵』「安居」巻これは、「安居(特に、道元禅師の時代は「夏安居」に限定)」が始まるときに、修行僧達がお互いに挨拶する行持(人事)について指摘されたものである。それで、今でもそうだが、当時、修行僧達は住持に対して挨拶をした後で、お互いに挨拶したのであった。「人事(読み方...「同安居」という言葉
今日、6月1日は半夏節である。半夏節とは、夏安居の半分という意味で、旧暦の時代は4月15日結夏、7月15日解夏であったため、6月1日が半夏であった。六月一日、半夏節と称す。若しくは上堂の次で、坐禅を放下する由を報ず。即ち随意坐禅なり、打鈑せざるのみ。『瑩山清規』「年中行事」以上の通りである。そこで、「半夏」で調べてみると、以下の事績が確認されたので、学んでおきたい。・師、又、末世の規矩を遺す為に、越前中浜に在りて、半夏頭院(陀?)行化す。『三祖行業記』「懐奘禅師章」・師、又、末世の規矩の為に、越前中浜に在りて、半夏頭陀化を行ず。『三大尊行状記』「懐奘禅師章」上記は、大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)の最古の伝記に位置付けられる『三祖行業記』『三大尊行状記』を引用したものだが、それらの伝記の末...6月1日旧暦なら半夏節
明庵栄西禅師(1141~1215)は、中国に二度留学して、二度目の留学時には臨済宗黄竜派の虚庵懐敞禅師から法を嗣いで帰国されている。なお、帰国後、栄西禅師は、中国天童山の伽藍修築のため、日本から木材を送るなどしたという。そこで、栄西禅師が遷化された後、日本から弟子の明全和尚と、道元禅師など一行が中国に渡った時、栄西禅師の年忌を修行したという。その経緯について、『日本国千光法師祠堂記』(『続群書類従』9上)に書いているので、見て行きたいと思う。臨終を予め期して、両手に印を結び、安坐して化す。寿は七十五、臘は六十二。後十年、其の徒明全、復山中に来たりて、捐楮券千緡を諸庫に寄せて、転息して七月五日の忌、冥飯を設ける為とす。衆の本孝なり。このようにある。そこで、ここで考えてみたいのはこの供養自体がいつ行われたかと...天童山に於ける栄西禅師供養について
今日5月25日、道元禅師が弟子の慧運直歳の行いを讃える機縁となった日でもある。早速、当該の文章を学んでみたいと思う。慧運直歳の充職は、乃ち延応庚子の歳なり。去冬除夜に請を承けて、今、供衆す。五月二十五日、梅雨霖霖として、草屋漏滴す。因みに、山僧入堂坐禅するに、照堂と雲堂と、両屋の簷頭、平地に波瀾を起こす。清浄海衆、進歩退歩、中間に兀立す。時に直歳に告ぐるに、匠人と等しく裰を脱ぎ笠つけず、屋上に上りて管す。雨脚、頂に潅げども辞労の色無し。予、潜かに発意を感ず、一句、他に与えん、と。乃ち、本祖の時、他を鑑憐するのみなり。爾して自り以来、月六箇を経、日、二百に将んとす。未だ工夫有らずも、其の意、忘れ難し。暑中に未だ筆をとらず、寒に至って墨を使う。是、則ち先仏の骨髄なり。一身の卜度に滞ること勿れ。吾子充職より已来...5月25日その日京都は雨だった
昨日の【『正法眼蔵』勉強会】では、「画餅」巻を読んでいった。さて、禅語(禅の言葉)には、本来の仏教学からすれば独特なものがある。それは、いわゆる経典や論書(註釈書)で使われる仏教語を脱して、世俗で使われている日常語を大胆に導入した結果、生み出されたものが多い。その中に、極めて禅語的な響きを持つ言葉に「画餅」がある。古来は「わひん」だったそうだが、現在の曹洞宗では「がびょう」と読む言葉で、通常の日本語でも「がへい」と読んで、「画餅に帰す」といった用法がある。意味としては、「無駄」ということであり、様々な行いが、無駄になってしまったときに嘆息混じりでいわれる言葉ということになるだろう。又香厳智閑禅師、かつて大潙大円禅師の会に学道せしとき、大潙いはく、なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあ...画にかいた餅は飢を充たさず
今日、5月9日は語呂合わせで「呼吸の日」らしい。以前は、機動戦士ガンダムに出てくるジオン軍のゴッグの日だと思っていたが、今日は「呼吸の日」に因んで、坐禅の呼吸について学んでみたい・・・と思ったが、決して難しくはない。鼻息微かに通じ、身相既に調えて、欠気一息し、左右揺振すべし。流布本『普勧坐禅儀』呼吸の基本は、「鼻息微かに通じ」なので、実際には口を閉じて鼻から呼吸する。以下の御垂示もある。鼻息は通ずるに任せ、喘がず声せず、長からず短からず、緩ならず急ならず。『弁道法』通ずるに任せというのは、ごく自然に呼吸することをいう。腹式呼吸などを強調すべきだという見解もあるが、実はそこまででも無いし、むしろ、そういった呼吸の強調が否定されている部分もある。上堂。衲子の坐禅、直に須らく端身正坐を先と為すべし。然る後に調息...5月9日「呼吸の日」に学ぶ坐禅の呼吸
ちょうど、【『正法眼蔵』勉強会】で「画餅」巻を読み始めたので、備忘録的に書いておきたい。この一言をあきらめざらん、たれか余仏の道取を参究せりと聴許せむ。『正法眼蔵』「画餅」巻この一節は、香厳智閑禅師はそれまで経論を学んだ秀才の僧侶だったのだが、潙山霊祐禅師の下で学んでいた時に父母未生以前の言葉を持ってくるようにいわれ、それが出来なかった時に発した言葉「画餅不充飢」を指したものである(詳細は「渓声山色」巻を学ばれると良い)。その言葉は、経論の学びをただ無駄なものだと、如何にも禅宗らしく理解されていたのだが、道元禅師はそういった理解は正しくないとし、真実の「画餅」理解を示すために本巻を著された。よって、先の一節は、「この一言を明らかにしないのなら、誰が他の仏であっても、この言葉を参究していたと許すことがあろう...「余仏の道取を参究せり」について
5月6日は、「5月(may)6日(ろ)」の語呂合わせで、「迷路の日」らしい。なお、いわゆる「迷路」の語句は、英語の「maze」の訳語として「曲折、混雑、迷惑、迷路、曲路」(明治6年『英和字彙』参照)の1つとして見える。なお、本来の漢語としては「路に迷う」という動詞で使われる。その意味で、以下の一節を学んでみたい。梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それ、なにのためぞ。至愚のはなはだしきなり。悪業のひくによりて、他国に跉跰するなり。歩歩に謗法の邪路におもむく、歩歩に親父の家郷を逃逝す。なんだち、西天にいたりてなんの所得かある、ただ山水に辛苦するのみなり。西天の東来する宗旨を学せず、仏法の東漸をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。『正法眼蔵』「行持(下)」巻「西天に迷路するなり」と示され...今日は「迷路の日」
さて、端午と言えば、古来から禅宗でも重要な日であり、道元禅師も端午に因む行持を行われた。この日に行持を行う理由は、中国の風習に由来する。そして、五月の端(はじめ)の五日、つまり五月夏至の端(はじまり)の意味を持ち、端午の称は午月午日午時の三午が端正に揃うことに因む。このように五月五日を端午と明らかに称するようになるのは唐代以後のこととされ、宋代以後には「天中節」とも呼称された。これは、五月五日の五時が天の中央にあたることと、この日の月日時の全てが数字の“一三五七九”の天数(奇数)の中央である“五”にあたることから、天中節と称する。端午には廳香・沈香・丁子などを錦の袋に入れ、蓬・菖蒲などを結び、五色の糸を垂らさせた「薬縷(薬玉)」を作り、柱にかけたり身に付けたりして、邪気を払い長命息災を祈った。また、薬狩と...今日は「端午の節句」(令和6年度版)
今日5月4日は、「みどりの日」である。なお、2007年からそうであった。昭和時代は、昭和天皇の誕生日だった4月29日が、平成に至って「みどりの日」と呼称されたが、更に5月4日へ移動されたのである。今は、「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」という意義付けがされる。今日は「みどりの日」に因み、「みどり(緑・碧・翠)」に関わる記事でもアップしようと思うが、1つ思い付いたのが、『碧巌録』である。中国臨済宗の圜悟克勤禅師が、雪竇重顕禅師の頌古100則に自ら評唱などを付した文献なのですが、この名前に「碧」が入っている。「碧巖」で「みどりの岩山」っていうことなのでしょうが、調べてみると、「碧巖に住し……」とかいう表現が見えたので、その名前の付いた山か、寺院にでも住していたのかと思いきや、夾山の...今日は「みどりの日」(令和6年度版)
まずは、以下の一節を見ておきたい。大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元、はじめて先師天童古仏を妙高台に焼香礼拝す。先師古仏、はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにいはく、仏仏祖祖面授の法門、現成せり。これすなはち霊山の拈華なり、嵩山の得髄なり、黄梅の伝衣なり、洞山の面授なり。これは仏祖の眼蔵面授なり。吾屋裏のみあり、余人は夢也未見聞在なり。『正法眼蔵』「面授」巻この一節を拝して、拙僧自身が思うことは、素直に、初相見されたのであろう、ということである。実際、道元禅師が中国に渡られて、最初に入られたのが天童山だったことは間違いない(その前に、別の律院に行ったりはしているが、安居ではない)が、その時の住持は臨済宗大慧派の無際了派禅師であり、無際禅師とは相見し、礼拝したことが知られている(『正法眼蔵』「嗣書...宝慶元年五月一日道元禅師が天童如浄禅師から面授
今日4月29日は「昭和の日」で祝日となっている。何故、この日が「昭和の日」かといえば、拙僧どものような昭和生まれにはよく分かっていて、元々が昭和天皇の誕生日として祝日だったからである。昭和天皇が崩御されてからは、「みどりの日」という名称で残されたが、結果として同日は「5月4日」へ移動となり、4月29日は「昭和の日」となった。平成生まれには意味が分からない祝日だとは思うのだが、拙僧どもには、或る種の哀愁を感じさせる祝日である。よって、毎年この日には、昭和とは一体何だったのか?といったようなことを考えるようにしている。とはいえ、政治や社会についてのみ考えると堅苦しくなるから、緩いネタではある。今年は、『昭和人事総覧』(聯合人事調査通信社、昭和4年)という当時の「年鑑」のような書籍から、昭和初期の仏教、就中曹洞...「昭和の日」に『昭和人事総覧』へ一言
【五戒と五常の関係について】の続きの記事になるのかな?でも、あんまり関係無いかもしれない。以前の記事で、仏教で説く五戒と、儒教で説く五常との関係が仏教者によって説かれた文献を見てみたが、今回もその続きのようになってしまった。実は、儒者側の文献を見たかったのだが、拙僧の拙い調査能力では探せていないためである。ということで、以下の一節などはどうか。儒教に五常とて五つのこころもちあり、仁義礼智信これなり、一に仁といふは、慈悲ありて人をあはれむ心なり、二に義といふは、柔軟にしてひがことなき心なり、三に礼と云は、正直にしてふたごころなき心なり、四に智といふは、憲法にしてあやまりなき心也、五に信と云は、真実にして姧りなき心也、五常ただしき時、しゆくぜんの余慶家にあり、これをそむく時、しゆくあくの余殃身にかかる、此五常...五戒と五常の関係について(2)
「密」という語を聞くとき、我々自身、どのように考えるべきだろうか?たとえば、「秘密」、要するに「密教」の「密」として採るべきであろうか?或いは、「親密」として、道元禅師の仰る「密語」の「密」として受け取ることも可能である。しかし、親しすぎる対象を、見ることは困難である。正しくは、見ることが出来ても、その「全貌」をありのままに見ることが出来ないというべきであろうか?畢竟、我々にとって、「密」とは、その全貌を対象として明確に受け取ること、知り得ることは不可能だといいたいのである。ただ、これは、安易な「不可知論」とは違う。その辺は、以下の問答からまず見ておきたい。上堂。記得す。雲門、曹山に問うて云く、「密密の処、甚麼と為てか有ることを知らざる」と。山云く、「祗だ密密なるが為に、所以に不知有なり」と。若し是、永平...親密過ぎる仏法
今日は「お香の日」だそうだ。そこで、今日は道元禅師の教えから、「お香」について論じられた箇所を学んでみたい。・受者、先ず教授師の寮に到り、先ず教授に問訊し罷りて、右手にて香を上り、香炉に挿む〈沈香・箋香等の小片を焼くなり〉。『仏祖正伝菩薩戒作法』・威儀を具すといふは、袈裟を著し、坐具をもち、鞋襪を整理して、一片の沈・箋香等を帯して参ずるなり。『正法眼蔵』「陀羅尼」巻前者は、宗門室内行持の1つだが、「仏祖正伝菩薩戒」を師資相伝する際の作法の中に出て来る一文である。その中に、教授師という授戒には欠かせない師の1人に対して礼拝する場面や、後者は善知識に対する礼拝を行う時の威儀だが、ともに道元禅師は丁寧な作法と、その時に焚くべき「お香の種類」を提示されている。名前として挙がっているのは、「沈香・箋香等」である。沈...道元禅師とお香について
御開山である道元禅師の時代からは、少し後の記録だが、以下のような一節がある。△中興和尚、永平寺に御住中、虚空に鐘声鳴る。此嘉暦二年四月十六日也。開山和尚御現住の時も堂に鐘声鳴しが、今吾住山の中にも亦鐘声ありとて、中興和尚御悦不尋常。此鐘声により、軈て勧進に思食し立ち、今の大鐘を鑄立て給。此義、則ち鐘の銘に書付給也。『建撕記』嘉暦2年とは西暦では1327年であり、当時の永平寺は五世・義雲禅師(1253~1333)が住持を勤めておられた時代である。それで、その年の夏安居が始まった4月16日に、空から鐘の音が鳴ったとされている。この現象は、道元禅師の御在世時にも発生したとされる。建長三年、当山の奧に常に鐘声の聞ゆる事、自檀越相尋について御返事也。御尋について申候。此七八年之間は、度々に候也。今年正月五日子の時、...永平寺の鐘が響いた日
今日4月15日は、暦や季節感などを無視してしまえば、古来より「夏安居」の開始日として定められていた「結夏」の日に当たる。なお、現在では5月15日を一般的な「結夏」としているので、古来より行われていた結夏に関する説法などを見ると、若干のズレがある。であれば、5月15日に「結夏」の記事を書けば良いのかもしれないが、とりあえず今日にしておきたい。結夏の上堂に、云く、百草、如今、将に夏を結ばんとす。拈来の尽地、万千茎。一華五葉、天沢に開く。結果自然、必ず当生なり。『永平広録』巻1-44上堂道元禅師がまだ京都宇治の興聖寺に居られた頃、仁治2年(1241)に行われた結夏上堂である。道元禅師は、後には結夏の開始を、上堂ではなくて、小参で行うようになり、また後には中国曹洞宗の宏智正覚禅師や、中国臨済宗の黄竜慧南禅師の説法...4月の結夏5月の結夏
明日4月15日から、夏安居(とはいえ、新暦の現在では5月15日)の結制となる。ところで、曹洞宗は道元禅師による伝来当初より、「安居」を導入していたと思われるが、15日の結夏を前に行われる行持を確認してみたい。四月十四日の斎後に、念誦牌を僧堂前にかく。諸堂、おなじく念誦牌をかく。至晩に、知事、あらかじめ土地堂に香華をまうく、額のまへにまうくるなり。集衆念誦す。念誦の法は、大衆集定ののち、住持人、まづ焼香す、つぎに、知事・頭首、焼香す。浴仏のときの、焼香の法のごとし。つぎに、維那、くらいより正面にいでて、まづ住持人を問訊して、つぎに土地堂にむかうて問訊して、おもてをきたにして、土地堂にむかうて念誦す。詞云、竊以薫風扇野、炎帝司方、当法王禁足之辰、是釈子護生之日。躬裒大衆、粛詣霊祠、誦持万徳洪名、廻向合堂真宰。...4月14日「夏安居」を前に
現代の用語としては、「祖父」とは「父または母の父」、つまりはお祖父さんを意味する言葉である。以下の一節も同様であるといえる。唐憲宗皇帝は、穆宗・宣宗両皇帝の帝父なり。敬宗・文宗・武宗三皇帝の祖父なり。道元禅師『正法眼蔵』「光明」巻これは、血縁関係上の「祖父」をいっていることが分かる。憲宗(778~820)は、唐王朝第14代の皇帝であり、皇太子の長男が若くして亡くなったことで仏教に深く帰依をした。晩年は精神的に疾病を発症し、そのために暗殺されてしまった人である。しかし、その実子である穆宗(憲宗の三男、第15代皇帝)・宣宗(憲宗の十三男、第19代皇帝)が皇帝となり、穆宗の実子である敬宗・文宗・武宗も皇帝となった。なお、中国仏教史上最悪の仏教弾圧である「会昌の破仏」は、この武宗によって引き起こされた。さて、その...『正法眼蔵』に見える「祖父」という言葉
本日4月8日は三仏忌の一、釈尊降誕会(灌仏会・浴仏会・仏生会・花まつり)である。お釈迦様のお誕生日である。なお、江戸時代の様子については既に【4月の和名「卯月」に関する雑考】でも示したが、更に以下の一節も紹介しておきたい。〔八日〕釈迦誕生灌仏会賑ふ、寺院しるしつくしがたし、△諸人、門戸へ卯の花を挿す、薺草を行灯に掛て虫除とし、又蛇よけの歌を厠へ貼る、歌は諸人のしる所也、三田村鳶魚先生『江戸年中行事』中公文庫、380頁やはり、「卯の花」を門戸に挿すことは、江戸時代の流行だったことが分かる。その上で、虫除けや蛇除けをしたそうだが、後者の蛇除けが「厠(トイレ)」であることが、当時の現実を示しているように思う。釈尊の降誕会に、虫除けや蛇除けが行われた経緯が知りたいが、今のところは良く分からない。その上で、今年は簡...今日は釈尊降誕会(令和6年度版)