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【五戒と五常の関係について】の続きの記事になるのかな?でも、あんまり関係無いかもしれない。以前の記事で、仏教で説く五戒と、儒教で説く五常との関係が仏教者によって説かれた文献を見てみたが、今回もその続きのようになってしまった。実は、儒者側の文献を見たかったのだが、拙僧の拙い調査能力では探せていないためである。ということで、以下の一節などはどうか。儒教に五常とて五つのこころもちあり、仁義礼智信これなり、一に仁といふは、慈悲ありて人をあはれむ心なり、二に義といふは、柔軟にしてひがことなき心なり、三に礼と云は、正直にしてふたごころなき心なり、四に智といふは、憲法にしてあやまりなき心也、五に信と云は、真実にして姧りなき心也、五常ただしき時、しゆくぜんの余慶家にあり、これをそむく時、しゆくあくの余殃身にかかる、此五常...五戒と五常の関係について(2)
【前回の記事】でも引いた通りなのだが、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)は、釈尊が掟(戒律)を定めた経緯を、弟子達が増えてきたのに対応するように定めたと考えているが、おそらくは、以下の一節などを受けたためであろう。故に戒の体は、もと悪の、事に逆なるに出づ。悪なければ、則ち戒なし。故に、大論に云く、「もし、仏にして好世に出でなば、則ちこの戒律なし。釈迦文のごとき、悪世にありといへども、十二年中、またこの戒なし」と。これなり。僧祇律は則ち云く、「五年以後、広く戒律を制す」と。四分律は大論に同じ。また異部の言、しかり。富永仲基『出定後語』巻下「戒第十四」、訓読は拙僧つまり、釈尊の戒律制定は、「随犯随制」などともいわれるが、弟子達の間で問題が起きてから定めたものだとしているのである。年数には、上...「五戒」の話(拝啓平田篤胤先生33)
この続きです。 番外編です。 パーリ語仏教経典の語るように、かなりな善行為を行うとその功徳の力で今生に生まれ変わるときに吉祥相を持って生まれてくるという話ですが、 前世がある、生まれ変わりがあるという前提での話でこんな動画を見つけました。 いわゆる現代で言う、「福耳」ふく‐...
ゴータマ・ブッダが一般人に薦める五つの戒め[次第説法26 戒の話①]
↑この続きです。 一方に坐ったポッカラサーティ・バラモンに、世尊は、順々の話[次第説法]をされた。 すなわち、布施の話、戒の話、天の話、もろもろの欲望における危難、卑劣・汚れを、離欲における功徳を説明された。~ もろもろの仏が自ら称賛する法の教えをすなわち、 苦・集・滅・道...
以前、【五戒と五常の関係について】という記事を書いたことがあったのだが、その斜め上的な続編記事である。問て曰く、何を以て之を知る。仏法いまだ漢土に渡らざる已前の五常は、仏教の中の五戒たること如何。答て曰く、金光明経に云く、一切世間の所有善論は皆此の経に因る。法華経に云く、若し俗間の経書・治世の語言・資生等を説かんも〈資生の業等を説かんも〉、皆正法に順ぜん。普賢経に云く、正法をもって国を治め人民を邪枉せざる、是れを第三の懺悔を修すと名く。涅槃経に云く、一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして外道の説に非ず。止観に云く、若し深く世法を識れば、即ち是れ仏法なり。弘決に云く、礼楽前きに駆せて真道後に啓く。広釈に云く、仏三人を遣はして、且く真旦を化す。五常を以て五戒之方を開く。昔、大宰、孔子に問て云く三皇五帝は是れ...日蓮聖人が示す「五戒」と「五常」の関係について