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【前回の記事】でも引いた通りなのだが、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)は、釈尊が掟(戒律)を定めた経緯を、弟子達が増えてきたのに対応するように定めたと考えているが、おそらくは、以下の一節などを受けたためであろう。故に戒の体は、もと悪の、事に逆なるに出づ。悪なければ、則ち戒なし。故に、大論に云く、「もし、仏にして好世に出でなば、則ちこの戒律なし。釈迦文のごとき、悪世にありといへども、十二年中、またこの戒なし」と。これなり。僧祇律は則ち云く、「五年以後、広く戒律を制す」と。四分律は大論に同じ。また異部の言、しかり。富永仲基『出定後語』巻下「戒第十四」、訓読は拙僧つまり、釈尊の戒律制定は、「随犯随制」などともいわれるが、弟子達の間で問題が起きてから定めたものだとしているのである。年数には、上...「五戒」の話(拝啓平田篤胤先生33)