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あぁ、なんか気になる文章があったので、検討してみたい。堂頭和尚―胡―つこと、胡椒のこと、老人になつて、血気のうすうなつたものは、食してよし、若輩なものは、食ふと熱がでる、そうすると、天然と五臓が不和合になる、前の橄欖・茘枝の下につづき走なもの、下書ゆへに前後がある、面山瑞方禅師『宝慶記聞解』坤巻(明治11年版)11丁表、カナをかなにするなど見易く改めるいきなり???となったのだが、面山禅師は『宝慶記』に「胡椒」に関する説示があるとするのだが、最近用いられる懐奘禅師書写本や宝慶寺本由来の翻刻からすれば、一般的な『宝慶記』のテキストには見当たらないことになる。なお、上記一節については、おそらく以下の一節についての提唱だと思われる。堂頭和尚慈誨して曰く、功夫弁道坐禅の時、胡菰を喫すること莫れ。胡菰、発熱するなり...禅僧、胡椒オッケーです
まずは、以下の一節を学んでみたい。堂頭和尚慈誨して曰く、上古の禅和子、皆、褊衫を著けたり。間に直裰を著くる者有り。近来、都て直裰と著くるは、乃ち澆風なり。你、古風を慕わんと欲はば、須く褊衫を著くべし。今日、内裏に参ずる僧は、必ず褊衫を著くる。伝衣の時、菩薩戒を受くる時にも、亦褊衫を著く。近来、参禅の僧家、褊衫を著くるは是れ律院の兄弟の服なりと謂うは、乃ち非なり。古法を知らざる人なり。『宝慶記』以上の通り、道元禅師は天童如浄禅師の教えとして、古来の禅僧は皆、褊衫を着け、一部が直裰を着けていたという。だが、如浄禅師の時代には、皆直裰ばかりを着けており、それを「澆風」だとしたのである。更には、最近、参禅する禅僧が、褊衫は律宗の服だというのは誤りであり、古法を知らないと如浄禅師が批判されたのであった。以上のことか...褊衫・裙子か直裰か?
現在、当方でも使っている「檀信徒喪儀法」の回向文で、特に「山頭念誦」のそれの一番最後は、以下のようになっている。雲程に奉送し、聖衆を和南す。今回の記事で問題にしたいのは、この「聖衆を和南す」の部分である。「和南」というのは、尊敬する対象に対して、その想いを表す「帰依の礼拝」の意を持つ語である。よって、この場合には「聖なる者達に帰依の礼拝をします」ということになる。ところで、こういう状況で用いられる語の場合、我々はどのような「聖衆」をイメージすれば良いのだろうか?この回向文の制作された状況と、その後の曹洞宗の教義の進展とは、どうやら密接な関係を持つようである。まず、「雲程に奉送し、聖衆を和南す」の意味だが、現在の曹洞宗では以下のように解釈していると思われる。「白雲たなびく天界に(覚霊を)送り奉り、(お迎え下...「聖衆を和南す」の意義について
ネット上での繋がりなのだが、昨年から御袈裟に関する勉強会を行っている。そういう中で、当方としては「伝衣」について興味関心を抱かざるを得ないのだけれども、それに関する記録を見ていたところ、気になる記載があったので記事にしてみようという次第である。まずは、以下の一節をご覧いただきたい。一伝衣一頂先年、当住瑾和尚に附す。一常衣一頂宗円長老に遺附す。「宝蔵菴抄劄随身行李状」、『徹通義介禅師喪記』所収、『続曹洞宗全書』「清規」巻、原漢文こちらは、曹洞宗の大本山永平寺3世・大乘寺御開山の徹通義介禅師(1219~1309)の御葬儀に関する記録である。現在『続曹洞宗全書』「清規」巻に収録されている本書は、義介禅師の法嗣である瑩山紹瑾禅師による記録だとされている。そこで、これが何について書いてあるかというと、義介禅師が遺弟...「伝衣」と「常衣」の話
未だに幾つかのネット上の記述では、道元禅師の実父を「源通親(1202年死去)」であるとしたい場合が多いのか、通親の次男である源通具(1227年死去)については、道元禅師の「兄弟」のように書かれる場合がある。だが、道元禅師の実父は「源通具」であると考えている。それは、まず「通親」説の最大の問題は、道元禅師の古伝に於いて、母の死(道元禅師8歳の時)は触れるのに、「父の死(もし、通親であれば道元禅師3歳の時でなくてはならない)」については触れない。なお、15世紀まで下るが、まだ伝記としては古い方である『建撕記』では、道元禅師が出家を願う場面に於いて、親戚筋の良顕法眼が、「親父・猶父が怒るのではないか?」と諭すが、ここで「親父」と出て来てしまうため、「父親」が健在であった印象を抱く。なお、そういう立場の人は、道元...道元禅師の「育父」の話(令和5年度版「父の日」)
「因脈会」の作法については、既に【(4)】で書いた通り、戒師による説戒の時に併修された「因脈授与」が原型となっているため、いわゆる「道場」とは扱われないことを指摘した。ただし、その記事では、授戒として何が授けられているのかを明かさなかった。それについて指摘された文献があるので、今日はそれを見ておきたい。下午説戒之節因縁血脈ノ願アラバ室侍寮江相届用意之上、説戒時戒師三帰戒アリ、尤毎日用意同断也、『増福山授戒直壇指南』、『曹洞宗全書』「清規」巻・789頁下段~790頁上段実はこれでしかなく、全体の流れは分かりにくい。上記から分かるのは、因縁血脈の依頼があった場合には、室侍寮が準備するということと、説戒の時に戒師が三帰戒を授けること、そして毎日行う可能性があるということである。それで、三帰戒と因縁血脈という取り...「因脈会作法」考(5)
以前にアップした【(3)】の記事を書いた時に漠然と思っていたのだが、そういえば因脈会に関しては、授戒・授脈の場面のことを「道場」とは称していない。・因脈授与「因脈会行持日鑑」、『昭和修訂曹洞宗行持軌範』316頁つまり、道場ではないのである。この辺、授戒会・法脈会では、以下の通りである。・正授道場「授戒会行持日鑑」、前掲同著・308頁・正授道場「法脈会行持日鑑」、前掲同著・315頁この通りであり、両作法とも「正授道場」となっているのである。ただし、「因脈授与」となっている先ほどの作法について、実態は以下の通りである。直僚(因脈係)は、受者を整列させて加行位に就かしめる。戒師は三鼓、大擂上殿。まず説戒、終わって懺悔文を唱えしめる。室侍長(あるいは随行長)、洒水を行う。次いで戒師は三帰、三聚、十重禁戒を授け血脈...「因脈会作法」考(4)
前回の記事については、【(2)】をご覧いただければ良いと思うのだが、少しく気付いたことがあったので、記事にしておきたい。雑考に近いかもしれない・・・それで、まず、「因脈会」の「因脈」は、「因縁血脈」の略だとはされるが、その典拠はどこにあるのだろうか?気になったので調べてみたが、曹洞宗宗務庁刊『授戒会の研究』に付録されている各種戒会加行表を見てみると、畔上楳仙禅師や石川素童禅師が示されたという戒会指南書には、当たり前のように用いられているので、明治期には一般的であったといえよう。そうなると、「因縁血脈」の使用はその前になるとは思っていたのだが、以下のような一節を見出した。又血脈ヲ受ルニ四通リノ次第アリマス、一ニハ長老以上ハ傳戒ト云、二ニハ自身ニ受ヲ正戒ト云、三ニハ授戒ニ付テモ此ノ道場ニ得入來ナク、代人ニテ受...「因脈会作法」考(3)
既に、【「因脈会作法」考】で見たように、現行の『行持軌範』に於ける「因脈会作法」は、授戒会⇒法脈会⇒因脈会と、本来の授戒会から次第に略されたものであるけれども、その略され方を通して、現行の因脈会がどのような戒学に裏打ちされているかを考察する。まず、「因脈会作法」とはどのような流れになっているか、簡単に確認しておきたい。そもそも、宗門が公式に「因脈会作法」を定めたのは、『昭和改訂曹洞宗行持軌範』(昭和27年)であるが、以下のような説明となっている。概ね授戒会と同じ。唯、日時を短縮する。長さは四五日、短きは二三日或は一日とすることもある。又、月授戒と称して毎月一回(最後二日行ふ)修行することがある。因脈会には登壇並びに上堂は行はない。又、飯台を略して弁当持参とする。迎聖、歎仏、説教、施餓鬼、供養回向、説戒、読...「因脈会作法」考(2)
以前から、「因脈会作法」について、一言記事にしておきたかった。そもそも、宗門で「授戒会作法」を正式に軌範に組み込んだのは、昭和27年の『昭和改訂曹洞宗行持軌範』からとなる。ところで、現行の『昭和修訂曹洞宗行持軌範』では、「授戒会作法」に関連して、以下の3つが立項されている。・授戒会作法(5~7日)・法脈会作法(3~4日)・因脈会作法(1日)それで、これが『昭和改訂』だと「授戒会作法」と「因脈会作法」しか、目次には載っていない。よって、「法脈会」というのは後で出来たのだと思っていたのだが、ちょっとした違和感を憶えていた。それは、『昭和修訂』に於ける説明文である。・おおむね、授戒会と同じであるが、期間は三日ないし四日とする。ただし法脈会においては、戒師の完戒上堂及び戒弟の登壇は行わない(完戒上堂になぞらえて小...「因脈会作法」考
冨鳳山 養周院(→神奈川県川崎市高津区久地3丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1604(慶長9)年に死去した僧の吉山が開山したと記される曹洞宗寺院です。2011(平成23)年11月28日には川崎市立久地小学校(→神奈川県川崎市高津区久地4丁目)の6年生児童110人による座禅体験が行われ、僧侶の過ごし方や修行の内容を体験する歴史授業が行われました。上形泰俊住職が地域の児童に様々な文化を体験してもらおうと、例年この時期に座禅修...
現在、我々が一般的に「入寺式」と呼ぶ作法は、『行持軌範』では「請首座法」という。しかし、その制定には紆余曲折があったことが知られる。入寺式の事は、固より諸清規に無き者なり、宗内に中古以来一会結制等に於て首座の為に安下処を設けて入寺すること、恰も住持の晋山に類似するもの、其の何の理由たるを知らず、弊の甚きなり。按ずるに現今結制の首座は、諸清規に称する処の首座と其名同ふして其実を異にす。今の首座は三出世の初級にして一種特別の任職と成れり。故に請首座亦特別ならざる可らず。勅修に立僧首座を請する法名徳首座を請する法あれども、今時の用に適せず。禅苑に諸知事・請頭首法あり、勅修に両序進退法あり。僧規・小規は其の全文を採り、又は之を演べ書にせし等皆な今時請首座の法に適せざるのみならず、行礼煩に過ぎ、前後錯雑して穏当なら...「請知事法」と「入寺式」について
曹洞宗の得度作法は、第二次世界大戦後の『昭和改訂曹洞宗行持軌範』以降に、全宗派で統一された。無論、江戸時代には面山瑞方禅師が『永平祖師得度略作法』を刊行しているし、類似の刊行物は複数存在していたようである。明治時代になると、当時の曹洞宗務局からは『明治校訂洞上行持軌範』が公的な作法書として刊行されるに至り、また、民間の出版社からも、「回向集」の体裁で作法書が複数刊行された。しかし、それらには得度作法が入ることはなかった。やはり、授戒を含む同作法は、室内で伝授される扱いだったのであろう。ところで、明治時代に宗政や宗学振興に尽力された来馬琢道老師の『禅門宝鑑』(鴻盟社・明治44年)には、得度作法が記されている。そうなると、理想論としては室内で伝授されるべき作法だが、それが契わない宗侶にとっては、『禅門宝鑑』の...来馬琢道老師『禅門宝鑑』に見る得度作法について
5月30日 青森県の旅は出足好調。今日も楽しみに出発!! 士号 🚙 今日は、弘前市内からスタート ♪♪最初に訪れたのは、『弾林街(ぜんりんがい)』です。『長勝…
・環境の日(環境省)6月5日は環境の日とされる。これは、1972年6月5日からストックホルムで開催された「国連人間環境会議」を記念して定められたとし、国連でも6月5日を「世界環境デー」と定めたという。ということで、今日は「仏教に於ける環境論」を扱ってみたい。特に、道元禅師が大仏寺(後の永平寺)に入った際に、或る感想を、大檀越・波多野義重公に述べという一節が残されているため、見ていきたい。説法の後、師、雲州に謂く、「這の一片の地、主山北に高く、案山南に横たう、東岳白山の神廟に連なる、西流滄海龍宮に曳き、峰巒重疊、人烟遠く隔たる。予、在宋の時、天童、坐禅の法要を三十余箇條を示し玉う。其の第一に、『大海の流れを見る事(莫れ)、青山渓水を見るべし』。此の地、此の記に応ず。林泉の風景、望む所、亦た、珍味必ず良器に盛...道元禅師が語った永平寺の環境論
先日アップした【『仏祖正伝菩薩戒作法』の特徴について】の関係で、拙僧自身、授戒作法中に於ける「衆生受仏戒」偈の問題について、興味を抱いた。この偈について、出典はよく皆さまご存じであるとは思うが、確認しておくと中国以東に於いて菩薩戒の根本聖典の扱いを受けるようになった『梵網経』である。それで、拙僧どもはこの偈について、授戒には付きものだと思っているのだが、もしかするとその観念自体、そう古いものではない、と思うようになった。そこで、宗門授戒作法の中で、この偈がどのように採用されいているのか、確認しておきたい。先に挙げた記事でも申し上げたが、道元禅師に係る授戒作法3本では、以下の通りとなっている。・『出家略作法』不採用・『仏祖正伝菩薩戒作法』採用・『正法眼蔵』「受戒」巻不採用上記の通り、採用しているのは『菩薩戒...曹洞宗の授戒作法に於ける「衆生受仏戒」偈の採用について
八幡山 宝袋寺(→神奈川県横浜市緑区十日市場町)は廃寺となった慈性寺の跡地にあり、江戸幕府開府前後の慶長年間(→1596年~1615年)に慈雲寺 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)の住職顕堂長察によって創建されたと伝わる曹洞宗寺院です。寺号は、この地で古い巾着袋が堀り出されたことに由来すると記されます。真偽の程は定かでありませんが、本尊の聖観音坐像は運慶(→東大寺南大門の金剛力士像などを彫った鎌倉時代を代表する...
まだ、大学院生だった頃、或る人に「道元禅師と親鸞聖人が会ったことがあると聞いたことがあるのですが、本当ですか?」と質問されたことがあった。結論からいえば、道元禅師御自身の著作はもちろん、伝記でも古伝の部類には、そのことを示唆する言葉すら存在しない。よって、会ったというのは伝承のレベルであって、およそ事実とはいえないと思う。ただし、一方で以前から、『正法眼蔵』の一部の巻について「親鸞聖人のために書かれた」という説があることは知っていた。その出所までは知らなかったのだが、関連した文脈を以下の典籍に見出した。・丸山小洋『古今名僧手紙禅』須原啓興社・大正5年本書は、題名の通りで、古今の禅僧(日本が中心だが、巻末には中国の祖師のも編入)が様々な機会に送った手紙から、その祖師方の人柄に触れようという話のようである。多...道元禅師と親鸞聖人の関係についての一私論
磐田市西島にある曹洞宗のお寺 全海寺さんへ。こちらのお寺は徳川家康の父 松平広忠が建てられた由緒正しいお寺で昔はこの辺り一帯は海だったそうです。この辺り一帯が海だったという事で遠江と呼ばれているそうで。当時からら当店をご贔屓にして下さり昔にお選びいただいたお雛様や五月人形等を毎年本堂にてお飾りされています。2020年に伺った時のお雛様の記事は磐田市の全海寺と秀月のお雛様をご覧ください。本当にありがたい...
放光山 宗泉寺(→神奈川県横浜市緑区北八朔町)は、江戸時代前期の元和年間(→1615年~1624年)に慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)の住職顕堂長察によって開山されたと伝わる曹洞宗寺院です。江戸時代には本山・末寺の制により大林寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。八朔(はっさく)の地は、平安時代の承平年間(→931年~938年)に編纂された『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)の郷名にある「針折」が、戦国...
以前から、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師『施餓鬼作法』の、『続曹洞宗全書』「清規」巻に収録された本の詳しい名称が、『改正施餓鬼作法甘露門在家葬式法』であることが気になっていた。特に、「在家葬式法」と出ていることについては、具体的な式の内容に興味があったのだが、『続曹洞宗全書』所収本には、その部分が見えないのである。しかし、明治期以降に刊行された同書(原大泉編、森江佐七出版、明治24年)に、その部分が見えるようなので、簡単に内容を検討しておきたい。○在家葬式○入棺諷経大悲咒一辺〈回向文は略す〉○龕前念誦〈念誦文は略す〉終わって十仏名○回向〈回向文は略す〉○挙棺念誦〈念誦文は略す〉終わって十仏名・大悲咒・出棺○山頭念誦霊棺三匝中は『大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼』、終わって秉炬・度钁法語〈念誦文は略す〉終わって十仏...江戸時代の在家葬儀法の一例を学ぶ
備忘録的な記事である。以前から「大戒」という言葉の意味について色々と考えていたのだが、高祖道元禅師御自身の御見解を学んでおきたいと思い、記事にする次第である。拝して後、一両歩進み合掌問訊〈問訊は深かるべし〉して云く、「生死事大、無常迅速、伏して望むらくは和尚、大慈大悲、哀愍して仏祖の大戒を稟受することを聴許したまえ」。『仏祖正伝菩薩戒作法』「戒師請拝」まず、上記一節が最も最初に示された「大戒」表記だといえよう。『仏祖正伝菩薩戒作法』が、中国天童山で、如浄禅師から教わったものという伝承上での話だが、ここで、「仏祖の大戒」という表現が見える。この場合の「大戒」の定義は分からないが、どちらにしても、「偉大なる戒」や「大乗戒」という意味が想定されよう。・夫れ諸仏の大戒は、諸仏の護持したもう所なり。仏仏の相授有り、...道元禅師が用いられる「大戒」表記について
貝取山 大福寺(→東京都多摩市貝取1丁目)は、江戸時代前期に僧の起厳伝秀によって開山されたと伝わる曹洞宗寺院です。起厳伝秀は1640(寛永17)年7月6日に死去しているので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により吉祥山 寿徳寺(→東京都多摩市桜ヶ丘4丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。境内の地蔵堂に対して幕府より堂領5石5斗の朱印地を拝領しています。地蔵堂には行基(→東大寺の廬舎那...
曹洞宗の授戒会は、生前に戒名を頂戴出来る修行として知られている。無論、この場合の「戒名」というのは、仏道修行者としての名前であって、一般的な観念として戒名を「死者の名前」などと扱う人もいるようだが、それは大分省略された物言いだといえる。それで、我々は「●●○○居士」の全体を戒名だと通称しているが、本当のことをいえば、「○○」の二字を「戒名」というのであって、「●●」の部分は道号(禅宗などで用いるようになった、仏道修行者としての通称)であり、「居士」の部分は「位階」である。熱心な方は、宗門の授戒会に繰り返し参加されるという。これは、現代的な事象かと思いきや、昔からそうだった、という話を今日はしておきたい。在家戒弟の列は、著帳の前後によるといへども、或は貴賤によりて列を定るも可なり。もし前度受戒したるか、或は...授戒会を繰り返し修行した際の戒名の扱いについて
今回紹介する口訣は、江戸時代末期に編まれた著者不明『開戒口訣』に見えるものであるため、実際に存在した内容であるかどうかは分からない。ただし、江戸時代末期当時の洞門僧が、『仏祖正伝菩薩戒作法』について、どう捉えていたかが分かるものであるため、参究してみたい。永平開祖、二祖・三祖に嘱して云、菩薩戒作法の如きは、懇に秘在して、旻せしむること勿れと。是故に今に至て、古叢林室中、多く秘在するものなり。『続曹洞宗全書』「禅戒」巻・354頁上段、カナをかなにするなど見易く改めているまず、道元禅師が二祖(懐弉禅師)・三祖(義介禅師)に言葉を托して言われるには、『菩薩戒作法』は秘在して、「旻」させてはならないという。「旻」とは「そら」などの意味であり、このままでは意味は分からない。おそらくは誤字か、翻刻ミスだとは思うのだが...『仏祖正伝菩薩戒作法』伝承に関する口訣について
今日は「立夏」とのこと。暦の上では「夏」到来である。ところで、今、何の気なしに「暦の上では」などと申し上げたが、その点で気になる文脈があったので、読んでおきたい。〔啓蟄〕二月節也。暦正通書大全一巻云。立春正月節、雨水節正月中、啓蟄二月節、春分二月中、清明三月節、穀雨三月中、立夏四月節、小雨四月中、芒種五月節、夏至五月中、小暑六月節、大暑六月中、立秋七月節、処暑七月中、白露八月節、秋分八月中、寒露九月節、霜降九月中、立冬十月節、小雪十月中、大雪十一月節、冬至十一月中、小寒十二月節、大寒十二月中、梅峰竺信禅師『永平録雋原』巻下、『曹洞宗全書』「注解四」巻所収本書は、道元禅師『永平略録』(全1巻)への、江戸時代の学僧・梅峰竺信禅師による註釈である。ここで、註釈されている用語は「啓蟄」とのことだが、道元禅師が宝治...今日は「立夏」とのこと(令和5年度版)
龍門山 等持院 高安寺(→東京都府中市片町2丁目)は、平将門の乱(→939年~940年)を鎮圧した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の館跡に建てられた市川山見性寺を前身とする曹洞宗寺院です。寺伝によると源義経・武蔵坊弁慶主従が何度も参詣したといい、義経主従が奉納したと伝わる大般若経や、弁慶硯の井戸が残されています。鎌倉時代末期の戦乱で荒廃したようですが、南北朝時代前期の1340(暦応3)年頃、室町幕府の初代将軍足利尊氏が鎌倉...
吉祥山 寿徳寺(→東京都多摩市桜ケ丘4丁目)は、南北朝時代の1390(明徳元)年に真言宗の僧・念阿によって創建されたと伝わります。1441(嘉吉元)年に念阿が死去したのち廃寺となったようですが、戦国時代に武蔵守護・扇谷上杉氏の被官(もしくは国人領主)といわれる佐伯一助道永が菩提寺として再建し、日舜宗栄を中興開基として曹洞宗に改めたといいます。なお、関戸郷は「松田盛秀判物」から、1555(天文24)年1月までには小田原北条氏の...
東由利から横手へ向かう途中に1か所寄りました 吉祥山 西法寺 横手市平鹿町上吉田字吉田51 曹洞宗宗教法人西法寺 – 西法寺へ行こうwww.saihou…
安禅寺の御朱印情報|四境戦争・芸州口の戦いゆかりの寺(山口県玖珂郡)
所在地山口県玖珂郡和木町和木1丁目6−18宗 派曹洞宗由 緒1331〜1333年、和木村山ノ下に創建したのが始まり。創建当初は天台宗寺院で黙養寺と称していたそうです。その後、1398年に現在地へ移転し、臨済宗に改宗。そして法昌寺と改称したそ
拙僧つらつら鑑みるに、道元禅師に於ける「律儀」の再構成について、一度考えておくべきであると感じていた。ただ単純に道元禅師が『永平清規』を制定されたということだけでは、それが実際に学人にどう受け止められ、実践されていたかが分からない。また、道元禅師の場合は、まったく禅宗(道元禅師はご自身を禅宗とは名乗られない)への学びがない者達に対して、改めて教育していかねばならないという立場であられたし、しかも、叢林の修行は継続的に行われなくてはならなかった。それを思う時、以下の一節などはいわゆる「律儀」の再構成として考えることが出来るように思う。寮中の儀、応当に仏祖の戒律を敬遵して、兼ねて大小乗の威儀に依随して、百丈の清規に一如すべし。清規に曰く、「事に大小無く、並びに箴規に合すべし」と。然らば則ち須らく梵網経・瓔珞経...『衆寮箴規』に見える「律儀の再構成」について
仏事・葬儀など面倒と言われる昨今 コロナ禍、久しぶりのお施餓鬼供養が行われました。 お施餓鬼供養が行われた舒林寺の山門ですが、向こうに見える駐車場は満杯。、「…
渓月院の御朱印|中国四十九薬師霊場 第23番札所(山口県光市)
所在地山口県光市小周防新宮2175宗 派曹洞宗札 所中国四十九薬師霊場 第23番由 緒1444~1448年に創建。曹洞宗金剛派四道場の1つで、防州五刹に数えられる名刹です。室町時代〜戦国時代、大内氏と毛利氏の庇護を受けて繁栄し、最盛期には1
拙僧つらつら鑑みるに、得度作法・授戒作法を一通り見た上で得た結論としては、個人的には以前より「檀信徒喪儀法」に於ける「授戒」について、何故、安名授与が無いのか?という疑問に対し、それは総授戒運動もあった宗門としては、生前に戒名を受けていることを前提にしているのでは?という仮説をお話ししてきたのだが、どうも違う印象を得た。それは、「安名授与」を含む得度作法というのは、明朝禅による影響の可能性があるということを、【『寿昌清規』に見る「沙弥得度」について】で指摘した。その上で、現在の得度作法は、おそらくはその明朝禅の影響を受けた逆水洞流禅師の得度作法を下敷きにしている可能性があり、古儀とは言い切れない可能性があると指摘したのである。それで、現状の「檀信徒喪儀法」に於ける「授戒」について、その典拠を一々考えること...「檀信徒喪儀法」「授戒」項渉典集
授戒会とは、曹洞宗最大の教化行持であり、多くの人々に対して曹洞宗の僧侶が保持している仏祖正伝菩薩戒を授ける儀式である。それで、三師というのは、戒師・教授師・引請師のことである。この三師が、儀式の中でどういう位置付けになるのかは、勿論授戒会に随喜された宗侶の方であればよくご存じのことだと思うが、最近読んでいる水野道秀老師『授戒の心得』(其中堂書店・明治28年)に解説されるところであったので、確認してみたい。本宗授戒の戒師は、現前師と称して、本宗の僧侶伝法相続以上の人にして、仏祖正伝の大戒を面授面稟せるものは、戒師として其の戒法を転伝弘通して衆生済度の任あるものなり。而して戒師は昔時霊山会上にありて、斯の大戒を授けられたる釈迦仏の位置にして、則はち今の戒師に釈迦牟尼仏として、其の相伝したる仏戒を授け玉ふものな...宗門授戒会の三師について
先日から、「安名」について色々と記事を書いたが、もう一つ『血脈』についても書いておきたかったので、これを記事にしておきたい。十四年己酉師、六十七歳の春三月。真俗、師を瑞光に請待す。夏四月、知了、母の冥福のために僧堂を造立す。落成の日、師を請うて小参せしむ。六月に至りて、師、病衰すと雖も、日日に学道を激励す。真俗二万余人の為に、帰戒・血脈を授く。乃ち是れ末期の転法輪なり。『瑞光隠之和尚年譜』享保14年(1729)項、『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻、450頁上段これは、江戸時代の曹洞宗侶・隠之道顕禅師の最晩年の様子を記したものである。隠之禅師は、かの月舟宗胡禅師や徳翁良高禅師に参じ、最終的には卍山道白禅師の法を嗣いだ。そして、その最期が近付いてくると、病衰しながらも僧侶・俗人問わず、二万人以上のために、三帰戒...或る『因脈』授与の現場
『続曹洞宗全書』「禅戒」巻に収録されている逆水洞流禅師『在家血脈授与式』について検討してみたい。これは、『続曹全』では『剃度儀軌』の中に合冊されており、宝暦2年(1752)に校訂されたという奥書がある。それで、簡単に差定と内容を検討しておきたい。差定は以下の通りである(差定の各項目名は、拙僧が適宜付した)。・堂頭登座・受者三拝・浄道場・堂頭垂誡・奉請三宝・懺悔・洒水灌頂・三帰戒・四弘誓願・諸仏大戒授与・血脈授与・普回向(ただし、回向文は道元禅師『出家略作法』に準ず)・三拝・退堂この中で気になるのは、「四弘誓願」「諸仏大戒授与」「血脈授与」であろうと思う。それ以外は、普通の授戒(喪儀法に於ける授戒含む)などとそう変わらないからだ。そこで、「四弘誓願」であるが、これは、曹洞宗で一般的な得度作法や授戒作法には見...逆水洞流禅師『在家血脈授与式』について
中国禅宗の六祖慧能(638~713)については、以下のような伝記的記述が残されている。二月八日、法性寺智光律師に就いて満分戒を受く。其の戒壇、即ち宋朝・求那跋陀三蔵の置くところなり。『景徳伝灯録』巻5「慧能禅師章」それで、問題はこの「満分戒」と呼ばれるものが、いわゆる声聞戒(比丘戒)なのか?菩薩戒なのか?ということである。この点について、以下のような議論があった。六祖大師受くる所の具足戒、是れ菩薩大乗戒なり。〈中略〉則ち智光の授くる所、決して菩薩大乗戒なり、疑うべからず。石雲融仙『叢林薬樹』上巻、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・22頁上段なお、この根拠については、よく分からない。様々な経論は引用しているけれども、石雲の見解を直接確定してくれる文脈は無いのである(ただし、具足戒を菩薩戒と見る文脈は存在している)。...中国禅宗六祖慧能の受戒をめぐる曹洞宗内での議論について
引地山 養命寺(→神奈川県藤沢市城南4丁目)は、戦国時代の1570(元亀元)年に、本山である蟠龍山 宗賢院(→神奈川県藤沢市大庭)の3代住職・暁堂が開山したと伝わる曹洞宗寺院です。本尊の木造薬師如来坐像(→国指定重要文化財)は、源頼朝に仕えた御家人大庭景義(おおばかげよし)の守護仏と伝わり、鎌倉時代前期の1197(建久8)年の銘があり、前身となる寺院の存在を示唆します。養命寺は、その後衰退したようですが、江戸時代中期の延享年...
昨日は親父の三回忌で、旦那寺で法事だったんですよ。散り始めだったけど、結構桜も持ってくれました。次は七回忌だけど、やっても十三回忌くらいまでかなぁ。それにその内。順番通りだと今度は母親のも重なってくるだろうし・・・メモリアル
上原美術館に立ち寄るならご一緒に! 達磨大師ゆかりのお寺「日照山向陽寺」の魅力
上原美術館へ訪問の際に、立ち寄りました達磨大師さんの備忘です。 ↓ 近代絵画と仏像と日本美術!上原美術館行ってきましたの備忘 ↓ cotomo.hatenadiary.jp 正式名称は日照山向陽寺。曹洞宗のお寺で開山は約400年前だそうです。ご本尊は釈迦如来。 お寺の前にはたくさんの菩薩様。 寄贈元には大物政治家さんの名前ががくさん刻まれています。 こちらは「洗い観音」様。 高貴な笑、ふくふくとした手指の健康美。体の悪い所に水をかけながらなむなむするとあら不思議、難病も立ちどころに快方に向かうとの事でございます。お薬いらずですね、大正製薬さま。。。 というのも、この観音様も後述の大師堂も、スポ…
功徳山 早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん→神奈川県藤沢市渡内1丁目)は、真言宗の古寺「不動院」から始まる曹洞宗寺院で、1180(治承4)年に源頼朝が鎌倉入りする途中で立ち寄り、不動明王に大願成就の祈願をしたという伝承が残ります。戦国時代初期の1495(明応4)年、小田原城を奪取して相模平定を目指す伊勢宗瑞(いせそうずい→いわゆる北条早雲)によって伽藍の一寺が創建され、僧の虎堂玄白を迎えて曹洞宗の禅寺として開山したといいま...
無量山 慈眼寺(→神奈川県藤沢市渡内)は、小田原北条氏の2代北条氏綱(ほうじょううじつな)の信頼を受けて一門に迎えられた北条綱成(ほうじょうつなしげ→玉縄城主)が、僧の韓嶺を開山に迎え、天文年間(→1532年~1555年)に開基したと伝わる曹洞宗寺院です。この場所は、平将門の乱(→939年~941年)の平定にも参加した村岡五郎こと平良文(たいらのよしふみ→下総千葉氏の祖)の邸宅跡にあるといいます。江戸時代には本山・末寺の制により...
信松院 武相四十八観音霊場第四十三番札所 八王子七福神 布袋尊
東京都八王子市台町3-18-28八王子七福神布袋尊の信松院です。JR中央線西八王子駅から12分ほどです。周囲は閑静な住宅街といった感じで交通量少な目の大通...
東京都八王子市千人町2-14-8八王子七福神寿老尊の宗格院です。JR中央線西八王子駅から徒歩5~6分のところにあります。毎年1/1~1/10に行われている...
長沢山 秋月院(→神奈川県川崎市宮前区菅生2丁目)は、戦国時代に小田原北条氏の家臣・大木頼母之助(おおきたのものすけ)の子・主馬之助(しゅめのすけ)が、地震で圧死した両親を高野山(→和歌山県伊都郡高野町)に埋葬した後、出家してこの地に庵を創建したところから始まります。1590(天正18)年に小田原北条氏が滅亡すると、北条氏旧臣の片山図書(→法名秋月月心)が夫婦で平村に隠居し、彼らが死去すると遺骸は大木主馬之助が創建した...
宗印寺 武相四十八観音霊場 第四十四番札所 日野七福神 布袋尊
東京都日野市平山6-15-11武相四十八観音霊場 第四十四番札所の宗印寺です。京王線平山城址公園駅から徒歩5分程ですがずっと上り坂なので結構疲れますw毎年...
泰平山 東泉寺(→神奈川県川崎市宮前区平1丁目)は、戦国時代に僧の最初安慶が開山、この地を治めた小田原北条氏の家臣・葛山氏夫妻(→戒名は一翁全閑居士・清室体寒大姉)が菩提寺として開基した曹洞宗寺院です。最初安慶は1584(天正12)年9月27日に死去しているので、創建はそれ以前であることが分かります。北条氏の諸役賦課台帳である「小田原衆所領役帳」によると戦国時代の稲毛領平村は、「葛山殿」が11貫350文で知行していたと記...
慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)は、安土桃山時代末期に東福山 清源院(→神奈川県厚木市三田)の5代住職麟哲が開山、徳川家臣の岡野房恒(ふさつね)が開基した曹洞宗寺院です。詳しい創建年月日は不明ですが、麟哲は1608(慶長13)年に死去しており、寛政年間(江戸時代中期→1789年~1801年)に開山二百年と鐘楼に彫られたと記されているため、創建は1591(天正19)年~1601(慶長6)年であることが分かります。大林寺を開基し...