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ここでいう「孤雲」というのは、曹洞宗大本山永平寺二世・懐奘禅師(1198~1280)の道号とされている。ただ、以前から、懐奘禅師を受業師とされた瑩山紹瑾禅師に係る文献には、懐奘禅師の道号が載っていないということにが気になっていた。一例を示そう。・第五十二祖、永平弉和尚、元和尚に参ず。一日請益の次で、一毫衆穴を穿つの因縁を聞き、即ち省悟す。晩間に礼拝し、問ふて曰く、一毫は問はず、如何なるか是れ衆穴と。元微笑して曰く、穿了也と。師礼拝す。師、諱は懐弉。俗姓は藤氏。謂ゆる九條大相国四代の孫秀通の孫なり。『伝光録』第五十二祖章・祖翁、永平二世和尚、諱は懐弉、洛陽の人。姓は藤氏、九條大相国の曽孫なり。『洞谷記』「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」……号について何も書いていない。そこで、懐弉禅師の伝記は、大体道元禅師の伝...「孤雲」について
以前書いた【「師僧」と「師匠」について】の続編という感じで記事にしておきたい。その際、現在の宗派の規程などで、「師僧」という用語は使われているが、一方で「師匠」という用語は、「匠」という職人的な用語であって、相応しくないという話があるそうだ。ただし、道元禅師の用例からすれば、「師僧」と「師匠」では、「師匠」の方が多く使われていたことを、先の記事で指摘した。それで、今回は今少し、「匠」の字句に注目して記事にしておきたい。いま、有道の宗匠の会をのぞむに、真実、請参せんとするとき、そのたより、もとも難辨なり。『正法眼蔵』「行持(上)」巻このように、道元禅師は「有道の宗匠」という表現をされていて、これは優れた指導者という意味である。ただまさにしるべし、七仏の妙法は、得道明心の宗匠に、契心証会の学人あひしたがふて正...優れた指導者を「匠」と呼ぶことについて
江戸時代の授戒会で随喜していた女性はどうしていたのか?(2)
【江戸時代の授戒会で随喜していた女性はどうしていたのか?】の続きの記事である。問題意識などは、リンク先を見ていただければ良いのだが、要するに江戸幕府は一つの寺院に男女が一緒にいることを問題視したけれども、授戒会などは四衆といって、男女が一緒に修行するものだったから、そういう場合にはどうしていたのか?という話だったわけである。前回は、或る作法書の一節を紹介したけれども、今回は拙僧自身が持っていた作法書写本に、或る記述を見付けたので紹介しておきたい。黄昏に至て戒弟之婦人と尼僧は下宿に下山致さすべし。此時下宿にても開静迄は加行致すべしと申渡すべし。『直壇寮指南記戒会用心』、カナをかなにするなど読み易くしているこのように、黄昏(夕方)になると、戒弟の内、在家の女性と尼僧さんは、下宿に下ろしたと書かれているのである...江戸時代の授戒会で随喜していた女性はどうしていたのか?(2)
今日9月9日は重陽の節句である。いわゆる五節句の最後になるのだが、重陽とは9の数字が「陰陽の陽」を意味し、それが重なることから、そのように呼称される。また、華に因む場合は「菊の節句」ともいう。そのため、古来よりこの日の朝、菊の華に貯まった水を使って顔を拭くと、美顔になるという信仰や、この水を使って筆を使うと美筆になるという教えもある。禅林では、この日に偈頌を詠んでいた印象が強い。今日はそのような一首を紹介してみたい。重陽に兄弟と与に志を言う去年九月此の中に去、九月今年此自り来る、憶うことを休みね去来の年月日、叢裏に菊華の開くるを看るのを懽しむ。『永平広録』巻10-75偈頌この偈頌であるが、道元禅師が宝治元年(1247)7月~宝治2年3月にかけて行われた鎌倉行化に因む偈頌よりも、前に収められていることから、...重陽の節句(令和6年度)
このような文脈があった。又、悲華経に袈裟に五種の功徳を説せらる。これは世尊の因地の修行の時の誓願にて、それを今日成就せらることを示さる。その五種の第一には、仏法に入て、たとひ禁戒を破せし罪ありても、一度この袈裟を信心して著たらん人は、不退転の授記あるべしと。面山瑞方禅師『釈氏法衣訓』、明治期再版本27丁表、カナをかなにするなど見易く改めるこれを読む限り、御袈裟の功徳はかなりのものである。禁戒を破しても、最終的には授記(成仏するという予言を受けること)されるというのである。なお、面山禅師はその典拠を『悲華経』としているが、同経には修行中の釈尊が、五百大願を建てたことが示されている。そこで、実際にはどういう文脈であるのか?世尊よ、我れ成仏し已るに、若し衆生有りて我が法中に出家し袈裟を著くる者有り。或いは重戒を...御袈裟は破戒の罪を救うのか?
石田瑞麿先生の『女犯』(ちくま学芸文庫)でも繰り返し指摘されているように、江戸時代は僧侶の女性問題について、幕府はそれなりに規制を行い、実際に取り締まられた事例もあったようである。そこで、今回は或る一節から、幕府の規制について現場の僧侶がどう思っていたのかを見ておきたい。第三不貪婬〈中略〉此の戒、在家の菩薩は、正婬を開して邪婬を制す。出家は開なく男女の色共に堅く禁ず。もとも僧に女犯あらば、官制にも許さず。女犯肉食却盗は、僧の三条罪とて、世・出世共に立がたし。凡そ此の戒は、老弱共に甚だ慎むべし。溺れやすきは愛欲の境なり。いはゆる行婬のとき、三学共に不成。戒すでに破るが故に、定慧共にならず。婬を行じて禅定を修し、智慧を明かにせんとするは、沙を蒸して飯となすがごとし。労して功なし。然れば修行人第一の公案なり。容...江戸時代の僧侶は幕府からの規制をどう思っていたのか?
『宝慶記』は、道元禅師が中国で天童如浄禅師から受けた教えをまとめた文献だとされるが、その中に「沙弥」と「比丘」に関する話題が見られる。伝統的には非常に有名な一節なのだが、拙僧自身一度この辺を考えておきたいと思ったので、まとめておきたい。それで、『宝慶記』の問答の数え方は様々だが、とりあえず今回見ておきたいのは「第43問答」である。堂頭和尚慈誨して云く。薬山の高沙弥は、比丘の具足戒を受けざりしも、また、仏祖正伝の仏戒を受けざりしにはあらざるなり。然れども僧伽梨衣を搭け、鉢多羅器を持したり。是れ菩薩沙弥なり。排列の時、菩薩戒の臘に依って、沙弥戒の臘に依らざるなり。これ乃ち正伝の稟受なり。你に求法の志操あること、吾の懽喜する所なり。洞宗の託するところは、你、乃ち是れなり。さて、こちらの内容を素直に読むと、天童如...『宝慶記』に於ける「沙弥」と「比丘」の話題について
以下の一節をご覧いただきたい。戒を受ける主体が仏であることは、菩薩戒の特徴の一つである。というのも、一般に、声聞乗における通常の受戒儀礼の場合は、戒は比丘から授けられるのが原則であり、このように他の修行者を介して戒を受ける方法は従他受戒と通称される。この受戒法は、いわゆる師資相承の系譜を遡ると、釈迦牟尼仏にまで連綿と繋がる点が重要である。間接的にではあるが、釈迦牟尼仏の制定した戒律を代々受け継ぐという性格がある。一方、菩薩戒においては、瞑想や夢の中に釈迦牟尼仏や他の仏や菩薩が現れ、かかる仏や菩薩から直接に戒を授かるという場合がある。この受戒は、仏や菩薩に菩薩の誓願を自ら表明することによって実現するため、しばしば自誓受戒と呼ばれる。船山徹先生『六朝隋唐仏教展開史』法蔵館・2019年、251頁確かに菩薩戒は人...「菩薩戒」とは誰から受けるのか?
今日は9月1日である。大本山永平寺を開かれた高祖道元禅師(1200~53)は、永平寺に入られてから、この日にほぼ毎年説法をされている。今日は、その1つを学びたい。九月初一の上堂。功夫猛烈、生死を敵す。誰か愛せん世間の四五支。縦え少林三拝の古を慕うとも、何ぞ忘れん端坐六年の時。恁麼見得、永平門下、又、作麼生か道わん。良久して云く、今朝、是、九月初一、打板坐禅旧儀に依る。切忌すらくは、睡ること、要すらくは疑いを除かんこと。瞬目及び揚眉せしむることなかれ。『永平広録』巻6-451上堂道元禅師の坐禅は、他に何かを実現するための手段としてではなく、まさに無上菩提として仏教に於ける智慧の完成として存在する。或いは、わずか一時の坐禅であっても三世十方を証契するともされる。すべからく回向返照の退歩であり、身心が自然に脱落...九月一日の説法を読む
今日は近隣にある 月心寺【曹洞宗】を紹介します。 場所は名古屋市名東区にて、隣接する場所には以前に紹介した神明社(※猪子石)があります。 創建においては正確なものは不明ですが、建久年間(1
明治期の改暦の関係で、現在では9月29日を「両祖忌」としている曹洞宗だが、かつての旧暦の頃の記録を見ると、8月28日に道元禅師が亡くなられたことが知られる。建長五〈癸丑〉年、八月廿八日〈甲戊〉寅之刻に偈を示して、自書して云く・・・(以下、遺偈)古写本『建撕記』ここから、建長5年(1253)8月28日の夜半、道元禅師が亡くなられたとされる。正治2年(1200)のお生まれだったため、54歳の御生涯であった。現在の曹洞宗では、日を改めて9月29日に「両祖忌」とするが、拙ブログでは今日8月28日を道元禅師の忌日として記事を書く日としている。理由は以下の通りである。8月15日⇒旧暦で瑩山禅師御遷化。ただし、「終戦の日」。8月28日⇒旧暦で道元禅師御遷化。9月29日⇒新暦で両祖忌。ここから、9月29日を瑩山禅師御遷化...8月28日道元禅師忌(令和6年度版)
今日8月24日は、永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)の忌日である。現代は、明治期の改暦の関係で、9月の高祖忌の前段階で行われるものであるが、旧暦では8月24日であった。・永平弉和尚、弘安三年〈庚辰〉八月廿四日に逝く、今、元亨三年に至りて、四十四年なり。古写本『洞谷記』・八月廿四日永平二代忌なり。塔頭にて諷経し、茶湯・小供物を供す。『瑩山清規』「年中行事」以上の通り、懐奘禅師は弘安3年(1280)の8月24日に御遷化された。そこで、今日の記事に因み、拙僧が学んでみたいのは、次の一節である。時に師聞て承諾し、忽に衣を更て再び山に登らず。浄土の教門を学し、小坂の奥義を聞き、後に多武の峰の仏地上人、遠く仏照禅師の祖風を受て見性の義を談ず。師、往て訪らふ。精窮群に超ゆ。有時、首楞厳経の談あり。頻伽瓶喩の処に...今日は永平寺二祖・懐奘禅師忌(令和6年度)
そういえば、拙Wikiでも書いた通り、曹洞宗の盂蘭盆会は「盂蘭盆施食会」として行われる。その際、『甘露門』を読誦して施食供養を行うのだが、以前から不思議だったのが、例えば「五如来」である。・多宝如来・妙色身如来・甘露王如来・広博身如来・離怖畏如来以上である。ところが、『瑜伽集要救阿難陀羅尼焔口軌儀経』などでは、「七如来」となっており、しかも、その名称も禅宗系とは相違している。というか、禅宗系が相違しているという(詳細は【七如来―つらつら日暮らしWiki】参照)。・宝勝如来・多宝如来・妙色身如来・広博身如来・離怖畏如来・甘露王如来・阿弥陀如来それで、拙僧的に検討したいのは、「多宝如来」の是非である。密教系の『焔羅王供行法次第』では「宝勝如来」であり、「多宝如来」ではない。だが、曹洞宗では『瑩山清規』などを見...『甘露門』の「五如来」への雑感
供養する僧侶が不在の時は?(高田道見先生『盆の由来』参究10)
【盂蘭盆会は少ない供養でも大丈夫か?(高田道見先生『盆の由来』参究9)】の続きである。とりあえず今回の短期連載の最後の記事ということで、『盆の由来』から問答を見ておきたいと思う。その前に、今日扱うテーマだが、既に前回までの記事で申し上げてきた通り、盂蘭盆会の基本は食供養(施食)であり、しかも自恣をした僧侶たち(大衆)を供養するというものであった。そうなると、一つ疑問が出てくる。もし、僧侶が身近にいない場合はどうするのか?あるいは、明治時代以降には菩提寺を持たない人も増えたわけで、当然に知り合いの僧侶がいないケースも一気に増加したものと思われる。それを考えるときに、今日の問題が出てくるのである。◎問ふ、僧すらなき所、如何ぞ仏法を請すべきや○答ふ、今ま謂ふ所の仏とは肉身の仏にあらず、僧と云ふも亦肉身の僧にあら...供養する僧侶が不在の時は?(高田道見先生『盆の由来』参究10)
今日8月19日は、語呂合わせで「俳句(ハイク:819)の日」である。よって、少しく仏教と俳句について学んでみたい。ところで、個人的な感想ではあるが、松尾芭蕉には意外と仏教に関する俳句は少なく、小林一茶には多い印象である。理由などについては、考察したことがないので良く分からないが、本人の宗教観なども見ていく必要があるのだろう。さて、今日という日に因んで見ていくのは、以下の記事である。第九十六話仏経中の俳句先年一二の雑誌に見えたる話なるが、福地源一郎氏の父は頼山陽の門人なり、一日論語中に三十一文字の和歌あることを発見し、先生に語りて曰く、日本にて和歌の始は神代の八雲たつ出雲八重垣の歌なるが、支那にて和歌の始は何人の時代なるや承りたしと、先生曰く、支那に和歌のあるべき筈なしと、曰く有り、孔子の時代に始れりと、乃...今日は俳句の日(令和6年度)
盂蘭盆会は少ない供養でも大丈夫か?(高田道見先生『盆の由来』参究9)
【盂蘭盆会供養の費用は?(高田道見先生『盆の由来』参究8)】の続きである。早速に高田道見先生の『盆の由来』から問答を見ておきたいと思う。◎問ふ、一搏の飯一掬の水位ひにては、とても十方の衆僧を供養するに堪へざるべし、供養するに堪へざれば、亦随て利益も薄かるべし、窮民無福の者争で七世の父母までも救済し得べきや○答ふ、長者の万灯より、貧婆の一灯が勝れりとや云ふことあれば、強ちに多勢に供養するにも及ばず、設ひ一僧でも二僧でもよし、真実を以て供養すれば、其力広大なるべし、僧も亦真実を以て受け、真実に咒願回向するが故に、其功徳は弥よ無辺なり、施す所の飯食は少なしと雖も、飽満する所の範囲は限りなかるべし『盆の由来』第十七問答・23~24頁ということで、昨日の続きの記事である。それで、経済的な困窮者が行える供養程度では、...盂蘭盆会は少ない供養でも大丈夫か?(高田道見先生『盆の由来』参究9)
【「盂蘭盆会」という言葉について(高田道見先生『盆の由来』参究7)】の続きである。早速に高田道見先生の『盆の由来』から問答を見ておきたいと思う。そもそも、仏教における供養や布施については、色々と誤解もされているし、難しい点もある。例えば、道元禅師には以下の一節が知られている。我物にあらざれども、布施をさへざる道理あり。そのもののかろきをきらはず、その功の実なるべきなり。『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻布施というと、自分の財産から、と思ってしまうが、道元禅師は自分の物ではないものでも布施をしてはダメだという話にはならないとしており、しかも、布施の内容の軽さなどは嫌われず、その効果(功徳)は真実だと述べたのである。ちょっとこの辺を前提に、今日の話を見て貰いたい。◎問ふ、〈中略〉貧窮にして此の如き大供養を営みた...盂蘭盆会供養の費用は?(高田道見先生『盆の由来』参究8)
「盂蘭盆会」という言葉について(高田道見先生『盆の由来』参究7)
【安居と仏歓喜の意味(高田道見先生『盆の由来』参究6)】の続きである。早速に高田道見先生の『盆の由来』から問答を見ておきたいと思う。◎問ふ、以上は覚えず枝葉に走りての問ひなりしが、今最も必要として問はむとする所のものは、盂蘭盆と云へるの字義なり〈中略〉委しく其意義を弁明せよ○答ふ、盂蘭と云ふは梵語とて天竺の音なり、又は烏藍婆拏とも云ふ、烏藍と盂蘭とは只梵音の訛りなり、烏藍と云ふは倒懸と云ふ事に成り、婆孥とは盆と云ふ事に成る、故に烏藍婆孥を盂蘭盆と名けて、之を救倒懸と翻訳し来れり、その倒懸と云ふは喩にて、盆は法なり、元照師の註に魂ひ暗道に沈み、命ち倒懸に似たりと云へり、その暗道とは餓鬼道の事にて、倒懸とは飢渇の苦みなり〈中略〉次に盆とは器なり、乃ち食物を盛るの浄器なり、一切の椀鉢も通じて盆と名く、盆の字が救...「盂蘭盆会」という言葉について(高田道見先生『盆の由来』参究7)
やっぽ~(^O^)/きょうな☆です 今日もさっさとお出かけネタの続きを! 次は雲林寺へやってきました。曹洞宗の寺院です。 供養碑がありました。このお寺は天…
【盂蘭盆と裏盆(高田道見先生『盆の由来』参究5)】の続きである。早速に高田道見先生の『盆の由来』から問答を見ておきたいと思う。なお、今回は短めの問答を2つ採り上げてみたい。◎問ふ、抑も安居と云へる辞は世間に言はざる事なるが、仏家にては如何なる義を意味するものにや○答ふ、安とは身心摂静なるの謂ひにして居とは要期在住の義なり乃ち雑縁を離るるが故に身心摂静なり、奔走せざるが故に一処に居住す、円覚経などには、大円覚を以て我が伽藍と為し、身心安居平等性智なむと云へる高尚なることも見えたり『盆の由来』第十二問答、16頁まず、「安居」の言葉について説明されている。我々の場合は、自身の修行の過程で「安居」の何たるかを行法的には理解出来る。ただし、やはり在家の方には難しいといえよう。そこで、高田先生は「安居」という文字を丁...安居と仏歓喜の意味(高田道見先生『盆の由来』参究6)
【盂蘭盆会は何故7月15日なのか?(高田道見先生『盆の由来』参究4)】の続きである。昨日とは正反対の記事の内容になるが、実際に、盂蘭盆会は7月15日だけではない。その辺の説明の1つとして、早速に高田道見先生の『盆の由来』から問答を見ておきたいと思う。◎問ふ、然らば盆と云ふは、必ず七月十五日のみに限るが如し、然るに今時は十四日十五日十六日の三日を以て盂蘭盆斎と為すが如きは如何、何にか理由のある事にや、又は自然の習慣より斯くなりしものなりや○答ふ、そは理由なきにあらず律文には僧は十四日に自恣し、尼は十五日に自恣せよとあり、或は三日自恣せしむる事あれども、多くは十四十五日の両日を以て重なりとす、而して十六日は送行とて四方八方に分散して、或は頭陀行を為すものあり、或は講法度生乃ち布教伝道を為すものあり、其他思ひゝ...盂蘭盆と裏盆(高田道見先生『盆の由来』参究5)
何となくではあるが、まだまだ浸透していない印象もある「山の日」。まぁ、我々的には盂蘭盆会(お盆)の直前ということもあって、気にしている状況でも無いというのが実際のところか。なお、「山の日」は、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」として、2016年から行われるようになった。今年で9回目であるから、確かにまだ親しまれていないのも。拙僧的には、今日という日付に因んで「山」について参究しておきたい。道元禅師の『正法眼蔵』「山水経」巻もあるが、今年は以下の一首から学びを深めてみたい。山深み峯にも谷も声たてて今日もくれぬと日暮ぞなく『道元禅師和歌集』こちらの御歌だが、特に題などは付いていない。季節などが分かるのは、末尾の「日暮(ヒグラシ、蜩)」であろう。俳句であれば7月(秋)の季語とされる。この一首も秋という...今日は山の日(令和6年度)
盂蘭盆会は何故7月15日なのか?(高田道見先生『盆の由来』参究4)
【七世の父母か?無量世の父母か?(高田道見先生『盆の由来』参究3)】の続きである。早速に高田道見先生の『盆の由来』から問答を見ておきたいと思う。◎問ふ、然らば此法は何時にても、随意に之を行ふて然るべき筈なるに、毎年七月十五日と定めたるは如何なる訳なるぞ、又此法は如何なる縁起によりて始まりたるものなりや、委しくその由来を示せ○答ふ、これは目連尊者がその亡母をたすけ玉ひしより始まりしものなり、今ま盂蘭盆経によりて、その来縁を按ずるに、〈中略〉其母は哀れ餓鬼道に生じて苦みを受くること無量なり〈中略〉ソコデ又仏目連尊者に告げ玉はく、七月十五日は十方より集まり居れる衆僧が、自恣とて随意に休暇(ドンタク)を催ふして、既往三箇月中の善し悪しを述べ、甲乙互に懺悔滅罪を為す喜ばしき日柄なれば、其時を幸ひとして当に盂蘭盆会を...盂蘭盆会は何故7月15日なのか?(高田道見先生『盆の由来』参究4)
今日は8月10日である。世間の一部の企業なら、「ハットの日」かもしれないが、拙僧などは語呂合わせから、勝手に「法堂の日」としているので、色々と学んでみたい。仏殿を立てず、唯だ法堂を搆うるのみなるは、仏祖の親受を表して、当代の尊と為すなり。入門して仏殿無し。陞座して虚堂有り。即ち此れ心印を伝え、当に知るべし是れ法王なり。『禅苑清規』巻10「百丈規縄頌」これは、『百丈清規』の理念を表現したとされる『禅門規式』と、禅宗の修行理念に対して、頌を付したのが『百丈規縄頌』である。その中に、法堂の意義について以上のように表現している。意味としては、百丈懐海禅師が目指した禅宗叢林は、仏殿を立てずに、ただ法堂のみを建てたという。それは、禅宗叢林の住持とは、大法を親受した仏祖であり、まさしく仏陀と同じくらいにある当代の尊師で...今日8月10日は「法堂の日」(令和6年度版)
七世の父母か?無量世の父母か?(高田道見先生『盆の由来』参究3)
【盂蘭盆会で生きている父母への孝順は必要?(高田道見先生『盆の由来』参究2)】の続きである。早速に高田道見先生の『盆の由来』から問答を見ておきたいと思う。◎問ふ、既に永劫無限に相続して断滅せざるものならば、無量世の父母六親に追孝すべき筈なるに、只七世と限りたるは何ぞや。○答ふ、そは且く世俗に随て七世と言ふのみ、又七世より以来愛習未だ去らざるが故に、教化すべきに堪ゆるを以てなり、実を言ふときは無量世なり、其生生我を養育するものは皆父母なるが故に、必ず孝を生生の父母に致すは仏家の習ひなり、故に現在の父母に孝養するは勿論、過去は無始世の父母に及ぼし、未来も無終世の父母を救はむとするは、仏家甚深の孝道なり『盆の由来』第五問答・6~7頁まず、この前の問答で、高田先生は仏教の道理は断常二見に落ちずに、とにかく無始無終...七世の父母か?無量世の父母か?(高田道見先生『盆の由来』参究3)
盂蘭盆会で生きている父母への孝順は必要?(高田道見先生『盆の由来』参究2)
今月は、可能な限り高田道見先生『盆の由来』を見ていきたいと思うのだが、詳細は【「盂蘭盆会」への学び(高田道見先生『盆の由来』参究1)】をご覧いただきたいが、今日は以下の設問を見ておきたい。◎問ふ、去れば死したる父母の精霊に対して、追考を営むの法なれば、未だ両親の存命中は、此法を修するに及ばざるや。○答ふ、然らず。此法を修するときは、現在の父母は福寿増長し、且つ死して後といへども、悪趣を転じて善処に生じ、生生世世の間だ限りもなき福楽自在の果報を得るのみならず、六親眷属に至るまで、現世は安穏後生と善処の二世安楽を得るの法なり、又過去七世の父母及び九族に至るまで、その悪趣にあるものは、此法の功力によりて、或は天堂に生れ替り、或は浄土に往生すべきなり『盆の由来』第二問答・5頁まず、この問いは面白い。それは、『盂蘭...盂蘭盆会で生きている父母への孝順は必要?(高田道見先生『盆の由来』参究2)
今日は檀那寺の施餓鬼法要で上納金納めながら、卒塔婆を貰いに行ってきました。それにしてもこのテント!50年以上前(保土ケ谷区さちが丘)の保っつぁんからの寄贈だよ!!そしたら花屋が出てるってんで、仏花持って来なかったんだけど、、、あら!!!完売みたいで、店仕舞いしとりました・・・まぁお盆にまた来るしイイとしましょヽヽヽ明日は鶴岡八幡宮の「ぼんぼり祭」に行く気満々だったんだけど、ナンかお天気悪そうなんだよなぁ。どうしましょかねぇ・・・お迎え
8月は盂蘭盆会(お盆)の季節である。そもそも、何故この時期に「盂蘭盆会」を行うのかは、拙Wikiに【施食会】という項目を書いておいたので、ご覧いただきたい。そこで、マニアックな話ではあるが、曹洞宗で「盂蘭盆会」について最初に記述された瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の『瑩山清規』では「年中行事」の「七月一日」項に於いて、「七月一日より、施餓鬼」と示している(昨今の曹洞宗では、「餓鬼」表記が差別的であるとして、「施食」と表現する。行う行事の内容は同じ。あくまでも歴史的事象の説明を行うため、当記事では「施餓鬼」と用いる。差別の拡大などをしないように御注意願いたい)。しかし、【曹洞宗で最初の「盂蘭盆施食会」について】でも示した通り、「牓」といって、行事の意趣を示した掲示板では、「目連、食を盆器に設け、悲母の苦...「盂蘭盆会」への学び(高田道見先生『盆の由来』参究1)
厚木・常昌院 石造りの水掛け釈迦地蔵こちらのお寺の起源は、遡ること400年以上前。神奈川県厚木市にある曹洞宗のお寺です。ネットで調べて「厚木に知らないお寺がまだあった。」と行ってみたのですが、参道を歩きながら、「ここ、前にも来たことある!」ブログ生活も長くなると、忘れていることも出てくるものですね・・・(笑)あれれ! ...
8月4日、語呂合わせで今日は「箸の日」である。まぁ、「橋の日」でもあるようだが、膨らましようがないので、「箸」にしておく。それで、我々禅宗の食事作法について考えてみると、「箸」を使うのであるが、冷静に考えてみると、インドでは本来、素手で食べていたはずだ。その辺の事情について、道元禅師は以下のように示されている。遐に西天竺の仏儀を尋ぬるに、如来及び如来の弟子、右手で飯を摶めて而も食す。未だ匙筯を用いず。仏子、須らく知るべし。諸天子及び転輪聖王、諸国王等、亦た手を用いて飯を摶めて而も食す。当に知るべし、是れ尊貴の法なり。西天竺の病比丘、匙を用いるも、其の余、皆な手を用いる。筯、未だ名を聞かず、未だ形を見ざるなり。筯は、偏えに震旦以来の諸国に用いるを見るのみ。今、之を用いるは土風・方俗に順う。既に仏祖の児孫為り...8月4日今日は箸の日(令和6年度版)
或る記事を頼まれて書いていた時、或る一文を読んだ感想を記事にしておきたい。宝治元年八月三日、鎌倉御下向之事。西明寺殿、法名道宗(崇)、依被請申、御下向、やがて受菩薩戒給う、其外之道俗男女、受戒の衆、不知数と云々。『建撕記』これは、古写本系統の『建撕記』の1本を引用したものである。それで、何が書いてあるかというと、道元禅師が宝治元年(1247)8月3日に鎌倉に行化されたのだが、その依頼者である北条時頼(最明寺[西明寺]殿)と会談し、やがて(すぐに)菩薩戒を授けられたとし、他にも、僧侶や在家者の男女が、道元禅師から授戒されたというのである。まぁ、優れた僧侶が近くにおられれば、授戒を希望されるというのは当時よくある話なので、この記述自体には何の違和感も無い。それまで、授戒されるのは貴族が中心だったような気もする...道元禅師が北条時頼に授けた戒
「加護」という言葉がある。これは元々、「加」が、神仏からの働き掛けを意味し、「護」は「衛護」などの意味であるから、諸仏が我々を守ってくれることを「加護」という。良く、道元禅師は密教的な「加持祈祷」は行わなかったとかいわれるが、用語的に「加持」を用いていないからといって、諸仏からの働き掛けまでも否定したわけでは無い。その意味では、「加持祈祷」は行わなかった、というのは早計である。仏言、剃頭著袈裟、諸仏所加護。一人出家者、天人所供養。あきらかにしりぬ、剃頭著袈裟よりこのかた、一切諸仏に加護せられたてまつるなり。この諸仏の加護によりて、無上菩提の功徳円満すべし。この人をば、天衆・人衆ともに供養するなり。『正法眼蔵』「袈裟功徳」巻この「仏言」は、『大方等大集経』「月蔵分」からの引用であるけれども、意味としては、頭...道元禅師が説く諸仏の加護について
江戸時代の学僧・指月慧印禅師は、十六条戒を組織的に理解しようとしていた。戒次一切平等の法、能く次第を作す。蓋し厥の初め、信解立ちて三帰出づ。三帰出でて三聚見る。三聚見るが故に十戒乃ち成る。乃ち十戒大成するに迨び、諸戒の相総て見ゆ。此の中の次第、明鏡面の如し。思惟を用いず、信を立て、帰を象り、聚を備え、十に止まる。而して十の模、三聚に在り。聚の体、三帰に会す。是の如く、向下通利、向上会帰なり。次の不次、不次の次、先ず仏、是の如く伝え、仏の如く祖も亦然り。祖の如く今亦順ず。夫れ唯だ順ずべし、以て伝脈と為す。『禅戒篇』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・239頁上段、訓読は拙僧この一節の前提となっているのは、最初の1行である。つまり、一切平等の法であるけれども、よく次第をなすということである。平等でありながら、次第が自...十六条戒の組織的理解について(1)
次の御垂示を拝する機会を得た。十六条戒の内、三帰戒は正信門で、この三聚戒は誓願門で、次の十重禁戒は修行門と見ることが出来ます。而して十六条戒はもともと一心の三門なれば、別々に離して述べられる訳のものではないが、解り易くする為に、暫く分けて御話して見ませう。秦慧昭禅師『仏戒大意』大本山永平寺不老閣・昭和55年、42頁なお、拙僧の手元にあるのは昭和55年の改訂版であるが、初版は昭和10年であった。内容としては、大本山永平寺68世・秦慧昭禅師が説かれた説戒の記録である。仏祖正伝の受戒・授戒会について、その大意を示されたものであった。さて、今回参究しておきたいのは、十六条戒の構造的理解についてである。ただし、拙僧自身の不勉強があって、このような構造的理解について、他の典拠を見出していない。三帰・三聚浄戒・十重禁戒...十六条戒の構造的理解について
なんでも、最近読んだ、或る在家信者の方の文章によると、説法に於いては、確固たる“信念”を述べてくれるような禅僧がありがたいそうだ。確かに、そういう評価も必要かもしれない。なお、拙僧は、その方に何ら含むところはないので、以下の記事はあくまでも拙僧自身の問題意識に於いて考えていくのだが、正直、信念を述べることについては不可解な思いがしている。もちろん、全く歯も立たないような禅語録や、『正法眼蔵』といった著作を読むために、師から読み方を習うことがあるのは良いだろう。しかしながら、師が確定的に述べてくれることというのは、そんなにありがたいことなのか???また、拙僧は以前から、確定的言説を特定の師に求める態度に、「教条主義」を感じている。今回は、その想いというか、疑問を元に記事を書こうと思う。何だって人は、こういう...決定法はそれほどに大切か?
現在の長野県のお話し。とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。(※元禄)同八年乙亥師十四歳の冬、坂木(※原文ママ)大英寺戒梵孝和尚の結制、師、受業師の命を受て、往て会にあづかる、彼師は始行脚の時に宇治俵(※原文ママ、一般的には「田原」)禅定寺に往て月舟和尚に参随す、帰て住職の後も平日行業純一にして、諸人のために帰仰せらる、此故に遠近多く菩薩戒の弟子あり、ほとんど信州菩薩戒の中興とも謂べきなり、『宝寿大梅老和尚年譜』、『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻こちらの年譜は、大梅法撰禅師(1682~1757)のもので、この方の法系としては了庵派となり、その語録や年譜が残っていることで知られる。また、各種仮名法語集に収録される『大梅和尚法語』はこの人のものだとされている。それで、『宝寿大梅老和尚年譜』自体、非常に多くの...信州菩薩戒中興の祖について
宗門喪儀法における『大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼』の導入について
以前から気になっていたことについて、記事にしてみたい。現在の曹洞宗の喪儀法では、『大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼』が読誦されることがある。例えば、以下の差定の通りである。喪場を特に寺又は他に設ける場合は、行列が喪場に到着のころ、維那は、「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」を挙し、霊棺、式場を右遶三帀して所定の位置に安置する。『行持軌範』「檀信徒喪儀法」項以上の通りだが、実は現行の宗門で設定している三種の喪儀法の内、行列に因んで「大宝楼閣」を唱えるのはこの「檀信徒喪儀法」のみとなっている。「大宝楼閣」はいうまでも無く、宗門で読誦する経文の中では、『甘露門』に入っているけれども、そこからこちらにまで出て来たわけである。だが、何故、「檀信徒喪儀法」でのみ、「大宝楼閣」を読誦するのだろうか?今日はその辺を探ってみたい・・・...宗門喪儀法における『大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼』の導入について
道元禅師の言葉は、様々な出典があるが、これなどは珍しい方に入るのかもしれない。たとへばこれ、敗軍之将さらに武勇をかたる。『正法眼蔵』「王索仙陀婆」巻なお、原典は良く知られていて、以下の一文がそれに当たる。敗軍の将は以て勇を言う可からず。『史記』淮陰侯列伝これは、漢の韓信に敗れた趙の李左車が、韓信から燕と斉を破る方法を尋ねられた際、恥じ入って述べた言葉とされる。要するに、戦で負けた者は、戦争について教えられることが無いという意味になろう。しかし、道元禅師の言い方は、「さらに武勇をかたる」となっていて、元々の意味とは正反対になっている。その意味で、何故このように改めたかが気になるわけである。この一文は、香厳智閑禅師が「王索仙陀婆」について尋ねられた際の問答が元になっている(なお、【昨日の記事】をご参照願いたい...敗軍之将さらにどうする?
いや、余り面白くない記事で本当に申し訳ないm(__)m香厳襲燈大師、因みに僧問う、如何なるか是れ、王索仙陀婆。厳云く、遮辺を過ぎ来たれ。僧、過ぎ去く。厳云く、鈍置殺人。しばらくとふ、香厳道底の、過遮辺来、これ索仙陀婆なりや、奉仙陀婆なりや、試請道看。ちなみに、僧過遮辺去せる、香厳の索底なりや、香厳の奉底なりや、香厳の本期なりや。もし本期にあらずば、鈍置殺人といふべからず。もし本期ならば、鈍置殺人なるべからず。香厳一期の尽力道底なりといへども、いまだ喪身失命をまぬかれず。たとへばこれ、敗軍之将さらに武勇をかたる。『正法眼蔵』「王索仙陀婆」巻・・・((((((((;゚Д゚))))))))ガクガクブルブルガタガタブルブルとりあえず、香厳襲燈大師とは、香厳撃竹の話で有名な香厳智閑(?~898)のこ...「鈍置殺人」事件発生
「電話貸してくれ」ナイフ持った男が民家に押し入る宮城・美里子機を持って逃走県警遠田署が強盗事件として捜査(河北新報)「電話貸してほしい」と夜に寺を訪ねた男、住人に刃物向け子機奪い逃走…宮城県警は強盗事件で捜査(YomiuriOnline)7月18日21時40分頃だそうですが、宮城県遠田郡美里町福ケ袋にある寺院を尋ねてきた男が、「電話を貸して欲しい」と述べたそうで、寺では電話の子機を貸したそうですが、すると、寺の人に向けて刃物を向けたとのこと。しかし、寺の人(御住職なのでしょうけれども)から、制せられると、子機だけ持って逃げたそうです。まさか子機を盗むための強盗とは思えないのですが、悪質は悪質です。寺の関係者にはけが人などがなかったのが良かったですが、大変でした。お見舞い申し上げます。美里町ということで、涌...宮城県内の寺院で電話の子機を盗む強盗事件発生
江戸時代の洞門学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)が、このような批判を行っている。是れに臆病なる僧が、職務し住持すれば、常に衆に謗ぜられじと用心して、典座・菜頭も衆の機に合うを専らとし、常住を費やして、後の事管せず。後まで畜儲物も、我が職の内にみな払底して護惜せず。住持も、無道心の大衆が我が侭云うに随わざりしを制すれば、悪作を以って会下を悩乱するゆえに、恐れて衆の機嫌とるにかかりて、一会の結制に、住持は一言も出さず。解制しては、太息をつく。悲しき末世の弊風なり。『洞上僧堂清規行法鈔』第5巻「僧堂新到須知」これは、当時の修行道場の様子を示したものである。当時の修行道場は、一定数の修行者(安居僧)を集めなければならず、そのために涙ぐましい努力がされた。それはつまり、修行僧に批判されないように臆病になってし...弟子に気に入られやすいダメな指導者
既に連載は終了しているが、かのグルメマンガ『美味しんぼ』106巻に、道元禅師の言葉が引用されているらしい。「広く学ぶことはとてもできることではない、むしろすっぱりと思い切って、ただひとつのことにもっぱら励むことだ」by山岡士郎これが、道元禅師の言葉って事らしいが、出典は何処だろうか?『美味しんぼ』は料理に関するマンガだから、それを思う時、主として、『赴粥飯法』とか『典座教訓』辺りを考えてしまいたくなるが、ここで引かれたものを見ると、『正法眼蔵随聞記』っぽいかな。よって、探してみた。示曰、広学博覧はかなふべからざる事なり。一向に思ひ切て、留るべし。『正法眼蔵随聞記』巻2手元でちくま学芸文庫を開いたら、たまたま最初のページにこれが出て来て、一瞬で発見した・・・まず間違い無くここを指していることだろう。現代語訳...『美味しんぼ』に引かれた道元禅師の言葉
今日7月18日は、道元禅師が吉峰寺から大仏寺に移動した日として知られている。『永平広録』巻2冒頭には次のように記載されている。師、寛元二年甲辰七月十八日に当山に徙る。明年乙巳、四方の学侶、座下に雲集す。寛元2年は「1244年」であり、前年の7月に京都を出られた道元禅師は約1年の寓居生活(吉峰寺、禅師峰)を経て、この日大仏寺に移られた。ただしこれは、上記文章を見れば分かるように、直ちに修行を開始したという意味では無く、翌年から「四方の学侶」が集まってきたことを示すように、とりあえず、京都から連れてきた弟子達とともに大仏寺に移動した、という意味で捉えるべきである。逆にいえば、大仏寺は何人かの収容・生活が可能なくらいに伽藍の整備が進んだと理解すべきなのだろう。その上で、後代の記録ではあるが、次のようなことが行わ...7月18日道元禅師が大仏寺に移動
今日は、旧暦の7月17日を命日とする天童如浄禅師(1162~1227)のことを採り上げてみたい。ところで、道元禅師伝に詳しい方々については、如浄禅師の説明は、もはや不要であろうと思います。一応、【如浄―つらつら日暮らしWiki】なんていう項目もあるので、興味のある方はご覧いただきたい。さて、今日見ていくのは道元禅師が、本師である天童如浄禅師のために行った追悼の上堂である。永平寺に入られてからはほぼ毎年行われている追悼の上堂であり、年回法要とは関係なく、いわゆる「毎歳忌」扱いになる。今年のは、整合的ではない順番で入っている上堂なので、具体的な年号は分からない(一応、推定されてはいる)。寛元4年(1246)巻2-184上堂宝治元年(1247)巻3-249上堂宝治2年(1248)巻4-274上堂不詳巻4-276...7月17日天童如浄禅師忌
色々と読んでいる時に、以下の一節があることに気付いた。洞下は、永平祖師の家訓にて、剃髪の時、大乗戒の血脈を授かって、皆な菩薩僧なれば、剃髪戒臘が、祖意に叶うなり。面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻5「僧堂新到須知」実は、この一節を見て、拙僧は困ってしまった。その理由として、上記一節で、面山禅師は出家時に「大乗戒の血脈」を授かるとしている。ところが、面山禅師が編集して敷衍したという『得度略作法』には、血脈授与の項目が見えないのである。以前も見たことであるが、面山禅師の『得度略作法』は以下のような差定となっている。・準備物・奉請三宝・十仏名・嘆徳文・出家の偈・発心の偈・剃髪・安名・授坐具衣鉢法(坐具・五条衣・七条衣・九条衣・応量器)・授菩薩戒法(懺悔・三帰戒・沙弥十戒・三聚浄戒・十重禁戒)・回向・略三宝・処...出家時の『血脈』の有無について
今日は海の日である。もう何年か前から「ハッピーマンデー」になっていたので、今日となる。ところで、大乗仏教で「海」といえば「海印三昧」がある。この三昧は、本来無礙なる仏の智慧の海に、一切の真実相が「印」されて映るような禅定三昧を意味し、『華厳経』という仏典は、この「海印三昧」を説いたものであるとされる。道元禅師は、この「海印三昧」を承けて、中国禅宗の祖師方が説いた教えをもって解釈し『正法眼蔵』「海印三昧」巻を、仁治3年(1242)4月20日に興聖寺で著されたが、他にも道元禅師の著作には「海」が多く登場する。寮中の清浄大海衆、いまし凡いまし聖、誰か測度するん者ならんや。〈中略〉但、四河海に入って復た本名無く、四姓出家しても同じく釈氏と称せよとの仏語を念え。『永平寺衆寮箴規』そもそも、修行僧は「清浄大海衆」とさ...道元禅師と「海の日」(令和6年度版)
明日は7月15日、仏教的には色々と重なっている。ただ、明日は「海の日」らしく、そのための記事も書いているので、今日は「色々と言いたい日」ということで記事を書いていきたい。まず、明日は解夏の日である。解夏の日は、旧暦で4月15日に始まる夏安居が90日間過ぎて終わる日となる。それはさておき、当然に夏安居が始まれば、終わる時も来るわけで、終わる時について道元禅師は以下の様に示されている。解夏。七月十三日、衆寮煎点諷経、またその月の寮主、これをつとむ。十四日晩の念誦、来日の陞堂・人事・巡寮・煎点、並んで結夏に同じ。『正法眼蔵』「安居」巻諷経と念誦くらい?始める時ほど、大変では無い印象。そこで、瑩山紹瑾禅師の時代になると夏中楞厳会を行うようになり(道元禅師の時代に行っていたかどうかは不明。「していない」という断定が...7月14日仏教的には色々と言いたい日
拙僧は、故・澤木興道老師について、色々と申し上げたいことがある。もちろん、拙僧の先師が駒澤大学で学生をしていた頃、坐禅の担当の先生で、ずいぶんと厳しくご指導を受けたご恩があったとしてもだ。その理由は、次のような一節を仰るからだ。・坐禅ということはいったい何ものか、これはわかったようでもいっこうわかっていない。大きな声ではいえないが、禅宗の坊主でもわからずに死んでしまう者が大方である。(154頁)・戦争がすんで一年ほどして勲章をもらったが、私は嬉しかった。年金やら恩給やらで勉強ができると思って嬉しかった。だが私は極端な坊主気質で押しとおしてきたから、その後一度もぶらさげたことはない。(156~157頁)それぞれ「坐禅による自己の完成」、『曹洞宗布教選書』巻11この文章だが、2点問題がある。「禅宗の坊主」のこ...先祖の菩提は自分の菩提
7月は東京や神奈川の一部で「盂蘭盆会」の季節となっているが、以前に【施食会と盂蘭盆会の関係について】で示した通り、曹洞宗では「施食会」という儀式で盂蘭盆会を行う。施食会は古来から「施餓鬼会」「水陸会」「冥陽会」などと呼ばれた儀式で、餓鬼道にあって苦しむ一切の衆生に食べ物を施して供養するという内容である。そもそも餓鬼道とは「生前に嫉妬深かったり、物惜しみやむさぼる行為が甚だしかった者が赴く場所である」とされた。もしくは、ヒンドゥー教では死後1年経つと祖霊の仲間入りをするが、その1年間に供物がきちんと与えられないと亡霊となってしまい、これが餓鬼であるともされるようだ(人権問題的には、色々と注意しなくてはならないと思う)。そこで、中国ではこういった餓鬼道へ堕ちないように、餓鬼を供養することが流行した。その原典は...盂蘭盆会と釈尊の弟子について
施食会と盂蘭盆会、非常に良く似ていることもあって混同されていることがあるという想いを持っているのだが、この発想自体が実は「宗旨と行持」との関わりがあると知った。よって、その文面を紹介しながら、考察を加えていきたいと思う。まず、そもそものきっかけは、明治期に編まれた最初の『洞上行持軌範』の影響である。本書は、江戸時代末期に混乱した宗門行持を斉整ならしめるために編まれた文献で、その際に何故斯様に定めるに至ったかを説明したところに特徴がある。そこで、この施食会(当時は「施餓鬼会」と呼ばれているが、拙僧の文では「施食会」とし、引用は資料としてそのまま用いる。なお、「施餓鬼」は現在は用いられない呼称である)については、以下の記載がある。以上諸規の示す処に拠るに、解制自恣の日、即ち盂蘭盆会施餓鬼を修するは禅林の通規な...施食会と盂蘭盆会の関係について