メインカテゴリーを選択しなおす
先日アップした【「三防心離過貪等為宗」について】の続きとして、簡単な記事を一本書いておきたい。先の記事の末尾で、もともと「五観の偈」は黙然・観法していたのであり、口称していたものではないという指摘をした。それに関してSNS上でご質問を頂いたので、関連した記事をアップしておきたい。そもそも、唱えていなかった、というのは、以下の文脈から理解出来る。合掌して食に揖す。次に五観を作す〈一計功多少量彼来処。二忖己徳行全欠応供。三防心離過貪等為宗。四正事良薬為療形枯。五為成道故応受此食也〉。然る後に出生す(未だ五観を作さざれば己が食分に非ず。出生することを得ざれ)。偈に云く〈汝等鬼神衆。我今施汝供。此食遍十方。一切鬼神共〉。『禅苑清規』巻1(1103年成立)「赴粥飯」良くご覧頂くと、「五観」については「作す」となって...観法としての「五観の偈」について
ペイペイドームで36898人の観衆を前に行われたホークス戦。マリーンズは初回にポランコ選手・山口選手の打撃で3点を取るなど好調な出だし。ところが、先発したメルセデス投手が毎回失点で4回4失点。更に7回裏に岩下投手も3失点。問題は打線で、4回以降チャンスを得たのですが、結局無得点に終わり、3-7で敗れました。#千葉ロッテマリーンズ<NPB2023>マリーンズは中終盤のチャンスを潰して敗戦
旧暦9月の別名を「長月」という。その由来について、以下のような説明が知られている。◎九月和名と長月と云は、夜やうやうながきゆへに夜長月といふ略せるよし、奥義抄にしるせり。「江府年行事」、三田村鳶魚編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、50頁以上である。確かに、かつて夏至は旧暦5月であり、そこから4ヶ月が過ぎつつあるわけで、9月は夜の長さが理解される季節であったため、「夜長月」となり、そこから「長月」が生まれたとされている。ところで、「江府年行事」の作者は、その見解を『奥義抄』という文献から得たとしている。この『奥義抄(または、奥儀抄)』とは、平安時代後期の歌学書で、藤原清輔の著である。全3巻で、天治元年(1124)~天養元年(1144)の間に成立し、崇徳天皇に献上された後も増補されたという(そのため、各...「長月」一考
以前、【「暫到」考】という記事を書いたのだが、その際、「暫到」という用語について、どうも近現代で用いられた意味とずれている印象を得た。その後、近現代の用法の典拠となったと思われる文脈を見出したので、確認しておきたい。掛搭願ふ雲水、結夏は三月末、結冬は九月末に来錫す、先づ旦過寮に包を卸し、威儀を具し、知客寮の行者に通覆し、知客に拝し、次に住持に拝謁は、侍者に通じ、允を得て、知客引て、方丈に詣で拝す、茶話了て、旦過に休す、これは乍入の拝なり、次に掛搭を願ふは、再び知客に啓す、知客より知事等に通じ、生処来歴を詢問して、住持に白し、許を得て、安下の所に休息せしむ、この間を暫到と云、大掛搭の日定りて、久参僧を一人参頭とす、参頭、夏前の掛搭僧をみな領し、先づ知客寮に到て、門の右に列して、参頭白して云く、暫到相看と、知...「暫到」考其二
江戸時代に面山瑞方禅師が当時の永平寺40世・大虚喝玄禅師に招かれて拝登した際の記録が『傘松日記』である。面山禅師が当代随一の学僧であったことは間違いないが、大虚禅師もまた、特に宗門の戒学について第一人者であった。そのため、お二人の議論などは、後代の我々にとっても非常に益となる。今日は、その一つとして、以下の一節を見ておきたい。二十四日、方丈に上って喫粥し、退く。〈中略〉粥後、方丈従り命有り、「威儀を具えて、来られたし」と。余、即ち盥薫して衣を整えて、上る。即ち命じて侍者を室外に出だし、戸を闔づ。預め拝席一枚を展べ、炉を装う。即ち黒漆の筐を開き、法衣を出だし、「是れ乃ち吾が祖、昔著ける所の大衣なり。袱子、福井城主の祖母・長松院瑞嶺玄祥大姉の施す所の其の様、古風にして、今の世に無き所なり」と。法衣、象鼻の九条...面山瑞方禅師『傘松日記』に見られる道元禅師の御袈裟について
これは、禅宗系の食事作法で用いる「五観の偈」の第三句が、タイトルに用いた「三防心離過貪等為宗」である。この読み方については、近代以降、何度か疑義を呈されていたようである。確かに、現行、読まれている通りの訓読法をすると、かなりややこしいこととなる。三つには、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗と(為)す。・・・意味不明。これを、直訳すると、「三つ目には、心を防ぎ、過ちを離れることとは、むさぼり等を宗(拠り所)としている(と観ずるべきである)」となるだろう。「むさぼり等をよりどころ」?ここがツッコミどころである。だけれども、「宗」という言葉を訳すと、どうしてもこのように理解してしまいたくなる。よって、疑義を呈さざるを得ないのである。一方で、臨済宗などでは、次のように読んでいるという。三つには、心を防ぎ過貪等を離る...「三防心離過貪等為宗」について
1923年9月1日11時58分に関東地方南部を震源として発生した地震によって、発生した地震災害の総称を「関東大震災」と呼ぶ。後に、伊勢湾台風などもあって、9月1日が「防災の日」となったが、今年は関東大震災から100年となる。よって、少しく震災について記事を書いておきたい。これは、従来の拙ブログでは一度も採り上げたことは無かったように思うのだが、明治時代に曹洞宗で活躍された学僧・来馬琢道老師(1877~1964)という方がおられ、以下の書籍が知られている。・『一仏教徒の体験せる関東大震火災』鴻盟社・大正14年なお、現在は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能であるため、リンクを貼っておいた。興味のある方は、ご参照願いたい。まず、本書は「大震災のその時」とあって、震災の瞬間から記述が始まる。大正十二年九...9月1日防災の日(関東大震災から100年・令和5年度版)
明治時代以降は、新暦への変換などがあって、9月29日に曹洞宗では両祖忌を執行しているが、当ブログでは諸事情もあって、かつての日付のまま、高祖道元禅師忌の記事を書くようにしている。曹洞宗の両祖の忌日は、旧暦の表記では次の通りである。永平道元禅師御遷化:建長5年(1253)8月28日瑩山紹瑾禅師御遷化:正中2年(1325)8月15日そこで、拙ブログでは、8月15日は「終戦の日」の記事を書くため、瑩山禅師忌を9月29日に書き、道元禅師忌を8月28日に書くようにしている。よって、本日の記事となっていることをご理解いただきたい。さて、改めて、道元禅師の最初期の伝記から御遷化された時の状況を学んでみたい。建長四年壬子秋、病を示す。建長五年癸丑八月二十八日夜半、偈を示し、自書して云く、五十四年、第一天を照らす、箇の𨁝跳...旧暦の日付で高祖道元禅師の忌日(令和5年度版)
拙僧の手元にある『總持両祖行術録』に収録されている「開山和尚退院上堂」について、学んでみたい。開山和尚退院上堂瑩山老和尚、退席に臨んで、紹碩、衆と同じく請うに、上堂す、機前に卓立して、独り物表に超え、峨峨たる青山、蒸蒸たる山雲、父子長年相離せず、君臣道合して内外無し、〈叙・謝、録さず〉記得す、世尊拈華瞬目し、迦葉破顔微笑す、世尊曰く、「吾に正法眼蔵有り、摩訶迦葉に付属す」と、這裏に到て吾に有る底の事、如何、良久して曰く、頂門凸出す一円相、徧界蔵せず新總持、遂に衣を首座紹碩に付して曰く、梧桐葉落ち秋風興る、竹林自ら知る百卉の長きことを、渠が金衣著実の処を見て、大陽目に盈て自ら堂に当たる、卓、拄杖して、下座。〈此の袈裟藕糸、梧竹の紋、鴿色なり、世世に相承して今に到る〉『總持両祖行術録』13丁表、訓読は拙僧この...瑩山紹瑾禅師「開山和尚退院上堂」について
備忘録的に記事にしておきたい。現在、道元禅師の『正法眼蔵』「嗣書」巻には「草案本」「修訂本」の2系統があると知られている。ほとんどの内容は一緒だが、例えば個人的にその違いに注目している一節がある。・いまわが洞山門下に嗣書をかけるは、臨済等にかけるにはことなり。「修訂本」・いまわが洞山宗門にかける、臨済等にかけるにことなり。「草案本」前者であれば、法系としての洞山門下を強調しているように見えるが、後者は「洞山宗門」とあって、どこか「洞山宗」というべき宗派意識の表出のように感じてしまうのである。もちろん、「仏道」巻などで、曹洞宗を含めた全ての宗派名の名のりを批判することはよく知られているから、違うという意見もあると思うが、道元禅師は『正法眼蔵』各巻で第一とする発想が異なるので、宗門と名乗っても問題無いように思...懐奘禅師による『正法眼蔵』「嗣書」巻の書写について
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。知るべし、諸法はわが諸法なり。われはすなはち諸法のわれなり、われと諸法と唯是れ水波のわかるなり。水波のわれは即ち三宝の正体なり。三宝はすなはち我らが全体なるを知らば、応ぜざる三宝あらず。そのよく三宝の正体をしるを帰依の道理とす。帰依に別路あらず、たゞわが正体にかへるときを正帰依とす。我を知らず只だ帰依の名のみ思ふは、正帰依にあらず。正帰依なるとき、われこれわれにあらず。我にあらざれば彼れにあらず。かれとわれと二もまたなし。このなしといふを、われとしかりとして三宝たつ帰依たつ。たてばいまの三宝あり。帰依ありてひとしく無上甚深微妙法なり。帰依の第一義は、別の容儀にあらず、五体投地して一心頂礼するなり。一心礼恭は、能礼所礼性空寂なり。性の空寂なる、必ず自心他心体無二なり...三宝帰依の一様相
或る文献を読んでいたら、『地獄経』という経典からの引用があった。ちょっと良く分からない経典だったので、採り上げてみたいと思った。参考までに、その引用文とは、以下の通りである。地獄経に云わく、衆生有り、蹇吃瘖瘂にして、口、言うこと能わず。若し説く所有りて、目を閉じ、手を挙げても乃ち言い了らず。何の罪ありて致す所なりや。仏言わく、前世の時に三宝を誹謗し、聖道を軽毀し、他の好悪を論じ、人の短長を求め、強いて良善を誣ひ、聖人を憎嫉するに坐せらるを以てなり。『仏祖正伝禅戒鈔』「第十不謗三宝戒」・・・良い文章では無いな。前世の問題を元に、現状の問題を論じる方法は、「悪しき業論」と呼ばれ、明らかに人権問題を含み、場合によっては霊感商法などを助長する可能性がある。よって、上記内容を元に、更なる人権問題の発生などが無いよう...じ、『地獄経』?!(令和5年度「裏盆」の学び2)
以前に二度ほどアップした記事だが、再改訂する必要が出て来たので、今日はそういう内容である。そこで、最大の問題は、拙僧自身、「施食会」と「盂蘭盆会」との違いが良く分かっていなかったということがいえる。また、「施食会」やその作法に関する参究も進めて、原典や歴史的経緯なども明らかになってきた。現在では、「盂蘭盆会」の季節になると、曹洞宗では「施食会」という儀式が一緒に行われる。「施食会」とは、古来から「施餓鬼会」「水陸会」「冥陽会」などと呼ばれた儀式で、餓鬼道にあって苦しむ一切の衆生に食べ物を施して供養し、そして現当二世の福徳を祈るという内容である。そもそも餓鬼道とは「生前に嫉妬深かったり、物惜しみやむさぼる行為が甚だしかった者が赴く場所である」とされるか、ヒンドゥー教では死後1年経つと祖霊の仲間入りをするが、...施食会と盂蘭盆会(再改訂版・令和5年度「裏盆」の学び1)
『釈氏要覧』巻下「盂蘭盆」項参究3(令和5年度「盂蘭盆会」の学び3)
本当は、8月を盆月として、盂蘭盆会の記事を書こうと思っていたが、他の記念日の記事で埋め尽くしてしまったので、ようやく一昨日・昨日と記事を書いた。なお、これまで、注目はしていたが、記事を書いたことが無かったので、『釈氏要覧』巻下「盂蘭盆」項を学んでみたい。○経に又た云く、七月十五日、僧の自恣日なり。当に七世の父母及び現在の父母の厄難中の者の為〈此の文、又た通ず。現在の父母を保安す〉に、飲の百味五果、汲灌の盆器・香油・挺燭・床敷・臥具、尽く世の甘美たるを具え、以て盆中〈盆会の中〉に著けて、十方の大徳・衆僧を供養す。又た云く、初めて食を受くるの時、先づ仏塔中を安洒し、衆僧呪願し竟れば、便ち自ら食を受く〈若しくは仏の食を供養し、回して僧に供する者、即ち此の日に得て、他日には通ぜず。今、却って寺中に於いて、亡人への...『釈氏要覧』巻下「盂蘭盆」項参究3(令和5年度「盂蘭盆会」の学び3)
8月11日、今日は「山の日」である。この日は、2014年に制定されており、祝日としては新しいものである。そして、祝日について定めた祝日法を見ていくと、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」という趣旨であると分かる。とはいえ、由来などは書いていないため、何となく「お盆休み」の日付を増やす方便だったのでは?という感じもしてしまうが、仏教的にはありがたいというべきなのかもしれない。そこで、今日は「山」に因んだ祖師方の教えを学んでみたい。山は、超古超今より大聖の所居なり。賢人・聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人・聖人によりて、山は現成せるなり。おほよそ、山は、いくそばくの大聖・大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、山は、いりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり、ただ山の活計の現成するの...8月11日今日は「山の日」(令和5年度版)
今日は8月10日。世間では「ハットの日」とか「ハット同盟」が話題になっているようだが、拙僧的には「8(はっ)10(とお)」から、勝手に「法堂」に掛けて「法堂の日」とし、その解説を行いたい。「法堂」とは、禅寺では極めて重要な建物(伽藍)である。それは、仏像(本尊)を祀る「仏殿」よりも重要であるとの評価もある。それは、次の文脈から知られる。仏殿を立てずに唯だ法堂のみを樹てるは、仏祖の親しく嘱し、当代に授けて尊と為すを表するなり。『禅門規式』『禅門規式』という文献は、唐代の百丈懐海禅師がどのような規範を確立したかを伝える文献だとされるが、以上の通り「仏殿」は否定的だけれども、「法堂」を構えていることが分かる。それは、道場の主たる当代の祖師こそが、「尊」だからであり、形ばかりの仏像に把われる必要が無いためである。...今日は「法堂の日」(令和5年度版)
弘前のジーナキッコから次は此方へ。 禅林街 栄螺堂もしくは六角堂。 実際には八角形で此方は蘭庭院が管理しています。 長勝寺からみた禅林街。三十三の寺院…
もう、何も言うことは無いと思うが、今日8月7日は語呂合わせの関係で「鼻の日」である。よって、今日はそれに因んだ話を見ておきたい。以下の一節などはどうか?撫州石鞏慧蔵禅師、西堂智蔵禅師に問う、汝、還た虚空を捉得することを解すや。西堂曰わく、捉得することを解す。師曰わく、你、作麼生か捉う。西堂、手を以て虚空に撮す。師曰わく、你、虚空を捉うることを解さず。西堂曰わく、師兄、作麼生か捉う。師、西堂の鼻孔を捉えて拽く。西堂、忍痛の声を作して曰わく、太殺人、人の鼻孔を拽いて、直に脱去することを得るや。師曰く、直に須らく恁地に把捉して始めて得てん。『正法眼蔵』「虚空」巻ともに、馬祖道一禅師の法嗣とされる慧蔵禅師と、西堂智蔵禅師による問答である。さて、意味するところは、石鞏禅師が西堂禅師に、「そなたは、虚空を捉えることを...今日は「鼻の日」(令和5年度版)
8月6日、広島県広島市では、被爆から78年となる「原爆の日」を迎えている。広島市中区の平和記念公園では午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、原爆が投下された8時15分に合わせて黙祷が捧げられる。今年は、コロナ前の状況にほとんど戻るようで、一般席も約7000人が参列されるという。また、ロシアは呼ばれないそうだが、それも1つの選択で、良いことだと思う。ロシアは、一刻も早くウクライナへの侵攻を停止するべきである。なお、全国の被爆者はおよそ11万8935人となり、始めて12万人を下回ったという。そして、平均年齢は84歳を超えているため、以前より語られていることだが、被爆の体験、戦争の悲惨さを、如何にして後世に伝えるかが問題となっている。また、今日の式典では、この1年で死亡を確認した...8月6日広島原爆の日に思う「不殺生」(令和5年度版)
お施餓鬼の今日、こんなイイお天気かと思えば、ドバっと降ったりの変わりやすいお天気でしたね。墓掃除は昨日済んでるんで、塔婆をもらって線香上げただけ。コロナ禍では盆正月に坊さんが棚経上げに来なかったんだけど、今年は復活して盆の入りにお布施の集金に来るんですよ。ウチなんか、お布施はそんな気張んなかったけど、檀家全部廻れば結構な収入だし、コロナ禍では坊さんも大変だったんじゃ?明日は母親を病院はしごさせなくちゃいけないし、また店は休みだな。今日、施餓鬼法要には参加しなかったんだけど、坊さんが六、七人来てたから、般若波羅蜜多心経も聴きごたえがあったんじゃ?来年は出てみようかなぁ・・・大雨時行
今日は8月4日、語呂合わせで「箸の日」となっている。そこで、「箸」に因んだ記事をアップしてみようと思う。三十七、凡そ受くる所の食、匙筯を把りて浄人の手中に於いて自ら抄撥して取ることを得ざれ。三十八、匙筯を過して浄人に与えて、僧の食器の中に於いて食を取らしむることを得ざれ。四十九、匙筯を用いて鉢椀を刮げて声を作すことを得ざれ、当に湯水を用いて滌蕩して取るべし、即ち鉢の光を損なわざれ、若し鉢の光を損なえば、鉢、即ち膩を受けて洗い難し。「二時食法第八〈六十條〉」、南山道宣律師『教誡新学比丘行護律儀』、訓読は貞享3年版に基づいて拙僧これは、中国の南山律宗の道宣律師(596~667)による「二時食法(いわゆる朝食[粥]と昼食[飯])」の指示を行った内容だが、同時にインドの律蔵で構築された比丘の食事法を、中国版にアレ...今日は「箸の日」(令和5年度版)
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。同、本師心地戒、初祖一心戒、六祖無相戒、咸く戒に非ざるを戒と名づく、畢竟如何端的の処、偈に云く、三帰三聚浄、箇々自家完うす、一体真心地、頭頭に許般没す。仏洲仙英禅師『円成始祖老人語録』巻中「授戒会法語」仏洲仙英禅師は、江戸時代末期に瑩山紹瑾禅師『伝光録』を開版したことで知られ、同書が明治期以降に参究されるようになったきっかけを作った洞門の学僧であり、また、あの井伊直弼の参禅の師としても知られている。一方で語録を見ると、授戒会法語がかなりの数収録されていることから分かるように、自坊は勿論、各地の授戒会などに戒師として招かれたものと思われる。今回紹介したのは、その1つである。何故採り上げたかといえば、この言葉の通りだからである。つまり、仏洲禅師は歴代の仏祖がことごとく...或る禅僧の授戒会法語について
『正法眼蔵随聞記』には、道元禅師が実際に栄西禅師に参じていたからこそ言及出来たであろう文脈が複数存在している。当方はそれを理由に、おそらく道元禅師は栄西禅師と相見し、参学していたと考えている。無論、従来の先行研究では、これらの文脈は全て、明全和尚などの栄西禅師門人から聞いたもの、という風に判断している場合もある。だが、当方は先行研究の根拠が、その当該著者の主観的雑感でしかないことに不満を抱いている。つまり、この辺、証明は出来ないのだ。さておき、今回の記事では以下の一節を見ておきたい。示云、故僧正建仁寺に御せし時、独の貧人来て道て云、「我家貧にして絶煙及数日、夫婦子息両三人餓死しなんとす。慈悲をもて是を救ひ給へ」と云ふ。其時、房中に都て衣食財物等無りき。思慮をめぐらすに計略尽ぬ。時に薬師の仏像を造らんとて、...栄西禅師が犯した罪は何だったのか?
今日から8月である。日本全体は先日来「酷暑」となっているが、旧暦の8月といえば、今の9月初頭に当たり、秋めいている状況であった。そのような時の上堂語を見てみたい。八月一日、天中節。赤口白舌、節に随って滅す。雲、峰頭に集まり秋水清し。樹功の草料、暁風悦ぶ。『永平広録』巻1-104上堂陰暦の8月1日は、陰陽思想などで「天中節」だと考えられた。特に、「火災・盗難・疾病・口舌」の災いを払うために「全ての悪口が、節に随って滅する」というお札を、日の出前に貼るべきだとされていた。道元禅師もこのような上堂をされた以上は、「天中節」の行いをされたのではないかと拝察するが、だからこそ、「雲は峰の頂上に集まって、秋の水は清い」といったような風情や、その元にある「樹にも草にも功徳が及び、暁の風を悦ぶ」といったような自然への眼差...八月一日の説法
芳林山 向嶽禅院 戒翁寺(→神奈川県川崎市麻生区早野)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1591年)に夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の3代住職玄頓和尚(げんとんおしょう)によって開山されたと伝わる曹洞宗寺院です。1590(天正18)年に小田原北条氏が滅亡すると北条家臣の庇護を失い衰退しましたが、江戸時代初期の寛永年間(→1624年~1645年)に北条遺臣から幕府旗本に取り立てられた富永重吉(とみながしげよし)が早...
以前、【道元禅師の直弟子達が語る三学論】という記事をアップしたのだが、他にも見ておくべき文脈があるため、今日はそれを確認しておきたい。雖無諸法生滅而有戒定慧と云は、是修証はなきにあらず、染汚することゑじと云義にあたるべし、生滅とこそ云ねども、戒ぞ定ぞ慧ぞ云へば、是こそ生滅の法と聞ゆれどもしかにはあらず、一戒光明金剛法戒と云程にこそ戒をも心得れ、只戒と云へば制止と許心得、断悪修善とのみは不可心得、又、戒はふね・いかだ也と云時は生滅法に似たれども、雖無生滅の道理は今の般若と談ずる所、戒定慧等なり、敬礼これなり、施設可得と云は是もほどこしまうけてうべくば生滅の法に似たり、然而今施設は可得とつかふ、戒定慧にて可心得、戒定慧已下至度有情類、施設可得なるなり、『正法眼蔵抄』「摩訶般若波羅蜜」篇、カナをかなにするなど見...道元禅師の直弟子達が語る三学論(2)
拙僧などは、機会があれば必ず道元禅師『学道用心集』を学ぶのだが、その中で、以前から学びをするべきだと考えている表現がある。今日は、それを学んでみたい。夫れ学道は、道に礙えらるなり、道に礙えるる者は悟跡を亡ず。仏道を修行する者は、先ず須く仏道を信ずべし。仏道を信ずる者は、須く自己本道中に在って、迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減無く、悞謬無きなり。是の如くの信を生じ、是の如くの道を明らめ、依りて之を行ず。乃ち学道の本基なり。『学道用心集』「道に向かって修行すべき事」、原漢文前10章に分かれている『学道用心集』の第9章の一部が上記引用文である。そこで、今回見ていきたいのは、「学道の本基」である。なお、「本基」という用語、用例は決して多くは無いが、上記の一節と、『正法眼蔵』「面授」巻に見られる。かの三十七品菩提...「学道の本基」とは何か?
以前から、気にしている文脈があるので、それを見ておきたい。元和に改元す。東照源君、兵を統べて伏見に駐す。諸宗徒徴して城に入りて顧問す。師も亦与う。諸師、各おの祖脈の源、委しく述べ、寺院の本支に及ぶ。源君、将に永平を以て洞門の本寺に為さんとす。師、殿階を上書して曰く、總持禅寺は後醍醐天皇勅賜の梵刹、開山瑩山に命じて宗を匡す。御製の詰命、其の略に曰く、曹洞出世の道場に補任す。宜しく南禅と相並びて、紫衣を服し、国家の延長を祈り奉るべし。次いで、歴朝の天子の宸翰、皆な斯の如し。仰いで望むに閣下に請うらくは、先蹤に随わんことを、と。源君見て乃ち之に従う。遂に永平・總持を陞らせ、両本寺と為す。為に鈞帖降りて大護持と作る。總持を本寺と為すは、師の力なり。『日本洞上聯灯録』巻10「加州宝円泰山雲堯禅師」項、『曹洞宗全書』...いわゆる両大本山制度の成立に関する一議論
加賀大乘寺山内の行持作法を定めた『椙樹林清規』について、以前から気になる一節があったので、探っておきたい。具体的には、毎月3回行われる、「宣読箴規」についてである。そもそも、『椙樹林清規』は、大乘寺25世・月舟宗胡禅師、26世・卍山道白禅師による『瑩山清規』研究などが前提となって編まれているものだが、そのためか、「宣読箴規」についても、以下の通り定められている。飯後坐禅板鳴て、知客、衆寮本尊前に就て、亀鏡文を読む、其の式は、止静の魚声を聞て、衆寮前の版、打すること三通、時に禅堂外堂、同列に衆寮に赴く、大衆普同三拝して、具上に坐す、知客、本尊前に進て、炷香、文を香に薫じて、具上にして之を読む、大衆諦聴す、読了て普同三拝、結制の中は、必行茶あり、副寮等之を弁ず、行茶了て大衆帰堂、各おの被位に倚て坐禅す、清規に...『椙樹林清規』に見る『正法眼蔵』講義について
寒松山 大林寺(だいりんじ→長野県長野市松代町)は、江戸時代初期の1622(元和8)年に上田藩主真田信之(9万5000石)が松代藩(13万石)に加増の形で移封された際に、信之・信繁兄弟の生母山手殿(寒松院)の菩提寺として創建した曹洞宗寺院です。1613(慶長18)年6月に上田で死去した山手殿は上田の大輪寺(だいりんじ→長野県上田市中央北1丁目)に埋葬されましたが、松代移封にともない信之は改めて大林寺を菩提寺として墓所を作り直しました...
三学とは、戒定慧学のことである。曹洞宗では一般的に、三学一等などともいわれ、その典拠として道元禅師『弁道話』、瑩山紹瑾禅師『坐禅用心記』などが参照されるけれども、もちろん、それだけが三学への態度ではない。例えば、以下の一節などはどうか。凡仏道に戒定慧三学あり、戒は業道を滅すれども凡悩を不断也、但仏戒と云時こそ無残所道理なれ、ゆへに菩薩戒仏戒尤可心得也、定は凡悩を断ず、又定多慧小あるべし、慧多定小あるべし、定はさき慧は後といふことあり、今の定慧等学明見仏性といはれは、これらにひとしからざる也、『正法眼蔵聞書』「仏性」篇、カナをかなにするなど見易く改めるこちらは、道元禅師の直弟子の1人である永興詮慧禅師によって書かれたとされる『正法眼蔵聞書』の一節である。いわゆる、75巻本『正法眼蔵』最初の註釈である。そして...道元禅師の直弟子達が語る三学論
今年度に入ってから、とある勉強会で、江戸時代末期の黙室良要禅師(1775~1883)による法衣(袈裟)の研究書『法服格正』を読む機会を得ている。そこで、読んでいる中で、ちょっとした疑問点が出て来たので、それを調べた結果をまとめようと思ったのである。具体的には、勉強会では明治期の西有穆山禅師編集『洞上法服格正』(鴻盟社・明治29年)を用いていたのだが、同時に『続曹洞宗全書』収録本や、川口高風先生『法服格正の研究』(第一書房・1976年)の訳注本を参照していると、明らかに全く異なる本文が入っていることに気付いた。よって、そのことを記事にしてみたいと思う。まず、今回採り上げたいのは、全10章ある本文の「袈裟功徳分第一」の一節である。かゝれば不思量現の方袍は親証の好人に属し、無作相得の法服は、妙応の霊神を感ず、曽...『法服格正』を読んでみての雑考
「還吾安居来」は、当方が用いてしまった個人的表現だが、典拠としたのは次の御垂示である。・万里無寸草なり、還吾九十日飯銭来なり。・もし児孫と称するともがら、坐夏九旬を、無言説なり、といはば、還吾九旬坐夏来、といふべし。ともに『正法眼蔵』「安居」巻このように、道元禅師が「還吾」云々という表現が以前から気になっていたのだが、色々と調べていたところ、どうも典拠らしき表現を見出したので、紹介しつつ検討したい。還吾平生粥飯来(還た吾れ平生に粥飯し来たる)『霊竺浄慈自得禅師録』巻4「示衆」漢語仏典を見ていくと、もちろん、「還吾」という表現は頻出するのだが、道元禅師のように用いている事例としては、以上の一節を見ていくべきだといえる。この語録とは、中国曹洞宗の自得慧暉禅師(宏智正覚禅師の資、1090~1159)のものである...「還吾安居来」の話
とりあえず、以下の一節を見ていきたい。菩薩五戒威儀経に云く、「比丘、四重を犯せば、更に受路無し。菩薩犯すと雖も、脱すれば更に受くべし」。卍山道白禅師『禅戒訣』、『卍山広録』巻47所収ここに、『菩薩五戒威儀経』と出ているのが気になった。勉強不足の当方は、これがどの経典を指すのか、今一つ理解していなかった。なお、少し調べてみると、中国明代の『梵網経略疏』という文献に同名の経典が挙げられているので、どうも存在していたらしい。それで、引用文の内容から見てみると、求那跋摩訳『優婆塞五戒威儀経』に、同文が出ていることを確認したし、更に明代成立の『在家律要広集』では、『菩薩優婆塞五戒威儀経』という名前で転載されていることも確認した。よって、卍山禅師はこの経典を引用していることは明らかだと言えよう。ところで、『優婆塞五戒...『菩薩五戒威儀経』について
中国曹洞宗の天童如浄禅師は、道元禅師の御本師であり、如浄禅師から嗣法したからこそ、日本に曹洞宗の法脈が伝来したのである。如浄禅師の没年だが、かねてより諸説があったものの、近年では宝慶3年(1227)7月17日に遷化されたという。道元禅師は、如浄禅師に係る御教示を数多く残されているが、この御遷化された日付について、明示したものはないと思われる。だが、7月17日に行っておられたであろうことは、以下のことから知られる。・(133上堂)解夏上堂云……・(134上堂)天童和尚忌上堂云……ともに『永平広録』巻2他にもあるのだが、とりあえず1箇所あれば良いので引用してみたのだが、道元禅師は越前に移転されてから、ほぼ毎年のように先師・如浄禅師の忌日に合わせて上堂されている(京都・興聖寺では行われた記録は無い。ただし、行っ...7月17日天童如浄禅師忌(令和5年度版)
今日7月15日は解夏である。いわゆる、夏安居の解制である。そこで、この意義について、道元禅師の教えを学んでみたい。夏安居の一橛、これ新にあらず、旧にあらず、来にあらず、去にあらず。その量は、拳頭量なり、その様は、巴鼻様なり。しかあれども、結夏のゆえにきたる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。解夏のゆえにさる、帀地を裂破す、のこれる寸土あらず。このゆえに、結夏の公案現成する、きたるに相似なり。解夏の籮籠打破する、さるに相似なり。かくのごとくなれども、新曾の面面、ともに結・解を罣礙するのみなり。万里無寸草なり、還吾九十日飯銭来なり。『正法眼蔵』「安居」巻夏安居を「一橛」と表現されている。この「橛」とは、「くい」の意味だが、真言宗では結界の四方を示すというから、この場合も安居を1つの「結界」と見ていることを指す...今日は解夏の日(令和5年度版)
旧暦の日付であれば、という話ではあるのだが、7月14日というと、永平寺の二祖・懐奘禅師(1198~1280)が住持職に就位した日付となっている。今日はその経緯などを学んでみたい。まず、懐奘禅師の永平寺住持職就位について伝えるのは、最古の伝記の一である『三祖行業記』『三大尊行状記』ともに共通している。建長五年癸丑七月十四日、即ち住持位に著く。夜間に小参し、早朝に上堂す。元和尚、病床たりと雖も、輿に乗りて来たりて、聴聞し証明す。然りと雖も、師に事ふて礼を捨てず。『三大尊行状記』「永平二代懐奘和尚行状記」、訓読は拙僧で以下同じ以上の通りなのだが、建長五年とは1253年である。道元禅師最晩年であり、この日から約1ヶ月半後の8月28日に、御遷化された。永平寺住持職承継に関連して、以下の記述もある。△建長五年七月十四...7月14日懐奘禅師永平寺住持職に就位
この記事は、【「三帰戒」という呼称について】の続編である。それで、拙僧が集めた資料の中に、「三帰戒」という項目があることを確認したので、それを学んでみたい。三帰戒汝等、帰戒を求めんと欲せば、先づ当に懺悔すべし。〈壱反〉我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。〈三反〉更に応に仏法僧の三宝に帰依すべし。〈一反〉南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、帰依仏無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊、帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。〈三反〉三帰戒を受くこと是の如し、今身より仏身に至る迄、此の事能く護持せよ。『日用行事書』写本、原典の訓点に従って訓読、漢字も現在通用のものに改めるこちらの『日用行事書』であるが、現在の愛知県内寺院で用いていたものだと判明している。なお、内容に甘雨為霖禅師(1786~187...「三帰戒」という呼称について(2)
生き死にの問題について、一家言がある、かの鈴木正三道人(1579~1655)が、「殉死」について語っていたので、採り上げてみたい。七十一去人来曰、此比、或長老、追腹切者に向て曰、後世義可心安、某能弔んと有ければ、彼者曰、我を吊ひたり。師聞て曰、我ならば云べし、そのつれのばかを云か、道理であほうばらを切る也、一処に往けばよしと思ふや、今生にても、主と一処にある者、賢にして主の用に立者あり、亦愚にして主人の怨と成者あり、其上死しては、自由に一処に往くと思ふや、主は主、下人は下人、親は親、子は子、己己が業次第に、善処ゑも悪趣ゑも往く也、故に吊に仍て、業を転ずるぞと也。『驢鞍橋』巻中、カナをかなに改める「殉死」への批判というべき文章であるが、文脈はかなり捉えづらい。とはいえ、正三が語る内容だけは良く分かる。まず、...鈴木正三に見る「殉死」批判について
なんとも凄い話だが、インド人は二桁×二桁の暗算を容易にこなすそうである。やはり、数字について、暗算で扱えるレベルが違っているのだろう。それとも、訓練の成果だろうか?そこで、道元禅師の説法に見える「かけ算」について見ていきたいと思う。冬至小参に云く。古徳道く「九九八十一、人の能く算の解する無し。両箇五百文、元来是れ壱貫」と。『永平広録』巻8-小参4このように、引用文ではあるが、9×9=81という計算を明らかに説法に利用されている(多くの禅語録には、五五二十五、六六三十六、七七四十九、他がある)。これは、“掛け合わされる”ということが、縁起の様子で「思った以上に数字が増えても、実はその内容は同じ」様子を明らかにしている。かけ算はあくまでも法の様子であり、この世の諸現象は、様々な変異があるけれども、それは諸法実...道元禅師の説法に見える「かけ算」
今日7月10日は、語呂合わせで「納豆の日」である。その日に因んで、以下の偈頌1首を見ておきたい。納豆を贈るの韻に和す糲飯藜羹に芥薑無し、貧家寂寞として陰を送ること長し、故人の恩露一筐賜る、飢腹膨脝して風味香しし。『円通松堂禅師語録』巻2「偈頌」、『曹洞宗全書』「語録一」437頁上段まず、この語録は現在の静岡県掛川市内に所在する円通院の松堂高盛禅師(1431~1505)の語録である。よって、内容は、中世室町期の曹洞宗に関する教えであると理解して良い。更には、どなたかが松堂禅師宛に「納豆」を贈ってくれて、しかも漢詩も添えられていたようなので、それに和して、お返しの偈としたものだろう。上記の一偈から、中世の曹洞宗で「納豆」という語句が用いられていたことは明らかなのだが、これが、発酵食品としての「納豆」なのかどう...今日は納豆の日(令和5年度版)
今日は7月8日である。ところで、発見されたのが比較的新しい時代(江戸時代中期)なので、信憑性などで疑問無しとはしないのだが、通称『御遺言記録(または『永平室中聞書』)』と呼ばれる文献がある。本書は、永平寺3世・義介禅師が聞いたという体裁で、御開山である道元禅師、二祖・懐奘禅師の遺言が記録されたものとされる。その中で、「建長五年(1253)七月八日」という日付の教えが見られるので、今日はそれを学んでいきたい。同七月八日、御病重ねて増発す。義介驚きて参拝す。堂頭和尚示して云く、汝近前し来たれ。介右辺に近前す。示して云く、今生の寿命は、此の病にて必ず限りを覚ゆ。凡人の寿命は必ず限り有り。然而ども病に任す可きには非ず。日比見られるの様、我れ随分力人を合し、彼此に医療を加う。然りと雖も全く平愈せず。此れ又た驚く可か...七月八日道元禅師の「正信」の教え
以前から思うことの1つに、「暫到」って、本当はどういう意味なのか?ということがある。現在の宗門では、僧堂修行に赴くと、まずは「暫到和尚さん」と呼ばれる。で、「暫到」の「暫」というのは、「しばらく」という意味であるから、これを素直に受け取ると、しばらくの間到れる者、という意味になると思われる。要は、長期間いることを前提にされていない者、という意味のはずなのだ。そう思っていたら、江戸時代の臨済宗の学僧・無著道忠禅師が、以下のような記載をしていた。忠曰く、暫くの時、某寺に到る。当に久しからずして、而も去るべし。故に暫到僧と曰う。『禅林象器箋』巻6「第六類稱呼門」「暫到」項ここに、「久からずして、去る」とある通り、「暫到」というのは、その叢林に長居することを前提にされていない者のはずなのだ。いや、実はこの用語、宗...「暫到」考
臥龍山 雲松院(→神奈川県横浜市港北区小机町)は、戦国時代の1525(大永5)年頃に小机城主(→のち城代)を務めた笠原信為が、亡父信隆と伊勢宗瑞(→いわゆる北条早雲)の菩提を弔うために開基、僧の季雲永岳が開山したと伝わる曹洞宗寺院です。寺号を深大寺とする説もありますが、雲松院のホームページで否定していますのでそれに従います。境内は城塞様式となっており、小机城の詰城、もしくは出城としての役割を担っていたことが分かり...
医王山 金剛寺(→神奈川県横浜市港北区小机町)は、江戸時代中期の1748(寛延元)年に長谷川道全という人物が開基し、約40年後の1786(天明6)年に大継良智(→本山の雲松院19代住職)が曹洞宗寺院として開山したと伝わります。創建の時期は天明の飢饉により多くの死者が出ていた頃と重なります。この地にはもともと北条氏綱(→小田原北条氏2代目)統治下の1540(天文9)年に明翁永寿という僧が創建した草庵があったようです。真偽の程は定かで...
今日採り上げるのは、道元禅師が本師・如浄禅師から受けた慈誨を集められた『宝慶記』である。同書の冒頭は、道元禅師が如浄禅師に対して質問などをして良いかどうかを確かめるものであり、その後、「宝慶元年七月初二日方丈に参ず」とあって、宝慶元年(1225)7月2日から、如浄禅師に個人的に参学できる立場になったことを意味している。この件について、道元禅師は後に、以下のようにも表現されている。われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭をゆるさるるのみにあらず、ほしきままに堂奥に出入して、尊儀を礼拝し、法道をきく。愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。『正法眼蔵』「梅華」巻現地で見聞された様子を伝えて、中国で生まれ、仏道を学んでいる者の中にも、如浄禅師の室内に入って教えを聞くことが出来な...宝慶元年七月初二日方丈に参ず
読者のみなさま、おこんばんわ m(_ _ )m本日もご訪問ありがとうございます。 幸運エネルギーをONにして人生を書換える一生開運アチューメント2900名以上…
読者のみなさま、おこんばんわ m(_ _ )m本日もご訪問ありがとうございます。 幸運エネルギーをONにして人生を書換える一生開運アチューメント2900名以上…
読者のみなさま、おこんばんわ m(_ _ )m本日もご訪問ありがとうございます。 幸運エネルギーをONにして人生を書換える一生開運アチューメント2900名以上…