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拙僧つらつら鑑みるに、「冬安居」について特に、『正法眼蔵』「安居」巻を学んでみると、色々と悩むように思う。そこで、江戸時代に「安居」巻を確実に学んでいた祖師の中での見解を見てみたい。江戸時代を代表する洞門学僧・面山瑞方禅師には、「冬安居辯」という論説文があるので、それを数回に分けて学んでみたい。冬安居辯或いは問う、結冬安居法、本より小乗律の明かす所に非ず。且つ、禅林諸清規の載せる所に非ず。而今、扶桑洞下の叢林、専ら之を講行するは、拠有りや。答えて云く、豈に拠無からんや。吾が祖、昔入宋帰朝し、初めて洛南興聖寺を開き、嘉禎二年丙申に至り、始めて冬安居を行ず。十月十五日開堂祝聖し、乃ち孤雲奘公を請して、首座と為して、除夜に秉払せしむ。是れ、吾が門五百年来、冬安居を行ずるの由来なる所以なり。『面山広録』巻24まず...面山瑞方禅師「冬安居辯」参究①
以前から、【冬安居に関する諸問題】のような記事を度々書いている通り、本来の曹洞宗には、というか、両祖の時代には「冬安居」は無かったと思われる。しかし、実際には以下のような記録がある。同冬安居、簡都寺、可首座、覚日浄頭、夢に曰く……『洞谷記』瑩山禅師に係る文章に「冬安居」とあって、何らかの行持が認識されていたことが分かる(ただし、『瑩山清規』には、「冬安居」という字句は見えない)。そして、以下の一節も見ることが出来る。元和尚に従い、越州に下る。しばらく、吉峰古精舎に止宿す。冬安居、師、典座となって、歓喜奉仕す。寛元元年(1243)癸卯冬、殊に雪深し。八町の曲坂、料桶を担って、二時の粥飯に供す。『永平寺三祖行業記』「三祖介禅師」章こちらは、瑩山禅師も編集に関わっていたと考えられる『三祖行業記』の記述であるが、...「冬安居」に関する雑感
11月も半ばだが、各地から晋山結制の慶祝法要の修行が報じられるようになった。この時期は、いわゆる冬安居(11月15日~2月15日、或いはこれが1ヶ月ずつ前後にずれる場合もある)となる。現在の曹洞宗では、いわゆる夏冬二安居が標準化されているが、これがそんなに単純な問題ではないことは、両祖の時代の文献をよく読まれる方であれば、御存知であると思う。例えば、道元禅師は明確に冬安居を否定されている。梵網経中に、冬安居あれども、その法つたはれず、九夏安居の法のみつたはれり。正伝、まのあたり五十一世なり。『正法眼蔵』「安居」巻以上のように、道元禅師は『梵網経』に「冬安居」の指摘があるが、その方法が伝来しておらず、夏安居のみだとされるのである。この『梵網経』の元の文章だが、以下のようになっている。なんじ仏子、常に二時に頭...冬安居に関する諸問題
私のように会社を定年退職後に僧侶になって、第二の人生を仏道探究と社会貢献に費やしたいと考える人は少なくないかもしれません。 私としては、ぜひお勧めしたいという気持ちと、簡単にはお勧めできない、という気持ちが半々というのが正直なところです。 60歳を過ぎて僧侶になることは可能ですが(ただし、後述するようにそれなりにお金と時間がかかり、厳しい修行に耐える必要があります)、お寺の住職になることは過疎地以外では容易ではありません。 住職になるのが難しいのは、日本のお寺が世襲制で、お寺の跡取り娘と結婚して婿入りする場合を除き、在家出身者に門戸をほとんど開いていないからです。 近年、地方から都市部への人口…
良く、「死んだ後に授戒をして、戒名を付けることはおかしい」とかいう考え方があって、我々が行う葬儀についても、様々な批判を頂戴することがあるわけだが、拙僧自身、色々と勉強していくと、この批判というのは、厳密な意味で合っていないのでは無いか?と思うわけである。そう考えていった時、例えば道元禅師が次のように述べていることを確認してみたい。ほとけみづから諸龍を救済しましますに、余法なし、余術なし、ただ三帰をさづけまします。〈中略〉しるべし、三帰の功徳、それ最尊最上、甚深不可思議なりといふこと。世尊、すでに証明しまします、衆生、まさに信受すべし。『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻これは、道元禅師が『大方等大集経』巻44「日蔵分中三帰済龍品第十二」からの引用した一文について述べられた提唱である。この文章では、世尊が苦しむ...禅宗での異者授戒について
今日の寺院は 修善寺【曹洞宗】を紹介します。 場所は名古屋市北区辻町にて、現在の矢田川とそこに架かる三階橋の袂に近い場所にあります。 この寺院の創建は文安元年(1444)また本尊でもある薬師
以下の一節については、【「安居」のシステム論的考察】という記事で、別の文脈の中にて用いたこともあったのだが、とりあえず、今回は「住持三宝」という観点から改めて考えてみたい。もし不安居は、仏及菩薩にあらず。仏祖の児孫なるもの、安居せざるはなし、安居せんは、仏祖の児孫としるべし。安居するは、仏祖の身心なり、仏祖の眼睛なり、仏祖の命根なり。安居せざらんは、仏祖の児孫にあらず、仏祖にあらざるなり。いま泥木・素金・七宝の仏菩薩、みなともに安居三月の夏坐おこなはるべし。これすなはち、住持仏法僧宝の故実なり、仏訓なり。おほよそ仏祖の屋裏人、さだめて坐夏安居三月つとむべし。『正法眼蔵』「安居」巻これまで、「住持三宝」というと、『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻や、『仏祖正伝菩薩戒作法教授戒文』などを用いて考察される場合がほと...「住持三宝」の真意とは?
かつて駒澤大学の学長を務めておられた忽滑谷快天先生の『正信問答』(光融館・大正15年)に、次のような一節が見える。問ふ禅宗には授戒といふ有難い法要が行はれて、その御血脈を戴きますと、死んでから善い処へ往かれると承つて居りますが、如何なものですか。答ふ御血脈は極楽行の汽車へ乗る切符ではない。従て御血脈を買うても死んでから役にたたないです。前掲同著「五十六授戒」項、159~160頁これはおそらく想定問答である。だが、実際にこういう意見はあったのかもしれない。『血脈』について、かなり素朴な信仰があり、それがあれば自らの望む場所、つまり極楽などに往生できるということである。それで、拙僧が様々な文献を見た限りによるけれども、これはこの通りである。それで、忽滑谷先生の指摘は、『血脈』は来世のことまでは守ってくれないと...忽滑谷快天先生『正信問答』に於ける『血脈』論
我々は、大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)について、道元禅師の僧団の中で、どのような位置付けにあったのかを正しく理解出来ているのだろうか。無論、後継者としての立場であったりとか、『正法眼蔵随聞記』の記録や、『正法眼蔵』の書写・編集等はよく知られたことであると思う。その上で、拙僧は敢えて以下の記述に注目しておきたいと思う。僧海・詮慧等深草諸衆、尽く師を以て教授闍梨となす。一会の上足なり。『三大尊行状記』「懐奘禅師章」このように、懐奘禅師に関する最古の記録の1つである『三大尊行状記』では、僧海首座や詮慧禅師などの、深草・興聖寺時代から道元禅師僧団に入った者にとって、懐奘禅師を「教授闍梨」として仰いでいたことを意味している。「教授闍梨」については、詳しくは「教授阿闍梨」と表現されるべきものであり、...教授阿闍梨としての懐奘禅師
まだ、試論的・雑考的な記事でしかない。今後、先行研究を含めて何らかの形で経緯が分かれば、それを明らかにしておきたい。ここでいう「授戒会」というのは、在家の仏教信者を相手に複数人から大多数に対して、同時に戒を授けるような法会を想定している。そう考えると、単純に在家信者を相手に「授戒」したというような記事だけではよく分からないことを意味している。それで、中国の様々な故事を見てみると、各宗派の僧侶が王宮に呼ばれて、皇帝(王)や皇后、或いは大臣などに授戒する場合はあったようだが、庶民も含めて広く授戒した場面というのは、中々見られなかった。宋景造暦、求めて短を捨つ。大儒、徐遵明・李宝頂等、一対して言前に信べて、菩薩戒法を以て授く。五衆、これに帰すること市の如し。『続高僧伝』巻8「釈僧範」項「五衆」というのが、具体的...「授戒会」はいつ頃始まったのか?
今日は近隣にある 成福寺【曹洞宗】の紹介です。 場所は名古屋市北区瑠璃光町という名古屋城から見て鬼門(※北東)の方角にあります。 昔の権力者達はその方角を忌み嫌いそれから守るために寺社を配置
現行の授戒会では、「登壇」という語について、「正授道場」に於いて正授戒が終わった後に、戒師が坐す蓮華台に、戒師と入れ替わりで戒弟が登り、その周囲を三師が巡って「衆生受仏戒」偈を唱える儀式とされている。たいがい、蓮華台は寺院須弥壇とされる場合が多いから、要は戒弟が須弥壇に登ることを「登壇」と呼んでいることになる。ところで、以下のような指摘がある。次に正授戒〈和尚三問、受者三答〉、受け訖りて受者、礼三拝して具上に立つ。次に和尚、起ちて卓前に到り、北に向かいて問訊焼香す。此の時、教授、受者の処に到り、示して曰く、「須く趺坐すべし」と。此の時、受者南面して具上に趺坐し、合掌黙然す。次に和尚、唱えて云く、「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。位、大覚に同じうし已る、真に是れ諸仏の子なり」と。曲身問訊して受者を遶...登らない「登壇」について
大本山永平寺御朱印 参拝日:令和6年(2024年)9月25日 永平寺参道 唐 門 手水舎 通用門 傘松閣 仏 殿 法 堂 承陽殿 廊下・階段 山 門 参拝時間・参拝料金 アクセス 永平寺は駐車場が有料です。 永平寺参道 通用門の前まで来ました。 唐 門 永平寺と言えばこの唐門が有名です。 手水舎 それではお寺の中に入りましょう。 通用門 通用門で入場料700円を支払います。真っすぐ行き吉祥閣に入り右手の社務所で御朱印を頂きました。朱印料は300円でした。(2024年9月現在) 御所印帳を預け拝観します。 傘松閣 傘松閣の天井が素晴らしい。順路に沿って拝観します。 仏 殿 法 堂 承陽殿 廊下・…
これまで、関連する幾つかの記事を書いてきた。例えば、以下の通りである。①六頭首の一考察②「知庫」って何だ?③「副寺」の一考察それで、今回の記事で、とりあえず禅宗叢林に於ける会計担当についての記事がまとまるので、最後までしっかりと書いておきたい。それで、拙僧自身の問題意識だが、①のように、そもそも禅宗に於ける知事や頭首と呼ばれる人達の人数はどれくらいなのか?というところから始まった。そうすると、知事及び頭首がそれぞれ4~6人という数字が出てくる一方で、どうも、そういうのが決められていない場合もあったようだと分かった。おそらくは、地方の小院などでは当然、そんなに多くの役寮は要らないから人数など決まっていない場合もあったという考えになる。また、そういう中で②のように、「知庫」という役職について興味を懐いた。名称...「庫司」「庫頭」について
以前にアップした【「六頭首」の一考察】の中で、「六頭首」を考えているウチに、そういえば「知庫」という、知客・知蔵・知浴・知殿に並んでいかにも「頭首」みたいな名称の役職なのに、実際には「六頭首」に入っていないことが改めて気になった。それで、この記事では「知庫」という配役について調べてみるものである。それで、まずは漢訳律典を調べてみると、以下の記述を見出した。客比丘、遂に庫を開き、偸みて鉢を将ち去れば、知庫比丘、応に鉢を償うべし。『善見律毘婆沙』巻9、『大正蔵』巻24・738cこの『善見律毘婆沙』であるが、5世紀に学僧ブッダゴーサが現在のスリランカで撰述した律蔵註釈書の抄訳だとされる。つまりは、上座部系の律蔵に対する註釈である。他の律典に「知庫」が見られないのは、「律」本文には無くて、註釈書にあるからであろう...「知庫」って何だ?
『禅ごよみ365日: 毎日に感謝したくなる』より印象に残った禅語についてです。読み:しかんたざ解説:ただ、ひたすら座る。座ることに徹する。曹洞宗の座禅の究極の…
先日、とあるところで「両班」という表現について、これを用いることは大丈夫か?というような質問を頂戴した。それで、気になったので調べてみた。そもそも「両班」とは何かというと、禅宗叢林の運営にかかわる役目の僧をいい、特に、現在であれば法堂などで整列するときに東側に知事(六知事)、西側に頭首(六頭首)が列をなす。これを各々を班として、「両班」とするのである。なお、江戸時代の学僧・無著道忠は『禅林象器箋』「第七類職位門」の中で、「忠曰く、朝廷の制、文武両班有り。禅林、これを擬す。故に東西の両班有るなり」とした。ここでいう、「朝廷の制」とは何かというと、朝鮮半島の王朝で「貴紳を以て両班と為す。両班とは、文班・武班なり」という見解を見たことがあるのだが、上記の通り仕官した者を、その役目に応じて文武の2つに分けたという...両班と両序
10月20日は、大本山總持寺二祖・峨山韶碩禅師(1276~1366)の忌日となっている。貞治四年小春の初、師、病に臥す、同二十日夜半、沐浴し畢て徒衆に垂範し、筆を索て遺偈を書て曰く、皮肉合成九十一年、夜半舊に依て身を黄泉に横う、筆を投て泊然として示寂す。『諸嶽二代峩山和尚行実』、『總持両祖行術録』15丁表~裏本書は「貞治四年」説を採るのだが、『總持二代御喪記』を見ると、「貞治五年」となっており、現在は後者が主となっている。しかし、この日付は残されている。なお、『御喪記』では、この10月20日に因む日付で御葬儀が執行されているので、やはり「貞治五年十月二十日」なのである。以下、拙ブログでは伝記を学びつつ、顕彰してみたい。洞谷第四祖大雄菴開基總持二世峩山和尚伝峩山和尚、諱は紹碩。能州瓜生田邑の人、岡部氏六弥太...大本山總持寺二祖・峨山韶碩禅師忌(令和6年度版)
こういう文章がある。知事、古規には只だ監院・維那・典座・直歳・庫頭の五員を列する而已。『勅修百丈清規』巻4「両序進退」項これを見ると、知事については、古規には5つの役職が列せられていたとある。それで気になるのが、ここでいう「古規」についてである。それで、『勅規』には直接関係ないが、道元禅師は『永平清規』の中で、知事の数について言及され、例えば、「いわゆる知事とは、都寺・監寺・副司・維那・典座・直歳の有るなり」(『典座教訓』)とされる一方で、「古時は監寺のみ。近日、都寺と称するは即ち監寺なり。副寺と称するも亦た監寺なり。近代、寺院繁務なり、仍って両三の監寺を請するなり」(『知事清規』)とされたのである。よって、道元禅師の場合、「四知事」が古く、そこに寺院の運営が忙しいので2人加わって、「六知事」という数にな...禅林の知事の人数は?
曹洞宗で太祖と仰ぐ瑩山紹瑾禅師(1264~1325)には、実質的な自叙伝などを含む『洞谷記』という文献が伝わるが、その流布本系統には「講戒略式」という一節が含まれている。この講戒とは、実質的な布薩になるのかな?そして、その中に懺悔・三帰・三聚浄戒と続き、最後に・・・何で「十善戒」になるのか分からないんだが、そのようになっている。なお、懺悔は「懺悔文」を読誦するだけなので、三帰以下を見ておきたい。須く仏法僧宝に帰依すべし、自覚朗然として、本より垢塵を離る。他覚本浄にして、念念別無し。自他和合し、能所隔てず。汝、我を喚びて答う、我、喚べば汝答う、谷神の応じて響くが如し、雲の行くは風に随うが如し。生仏一如にして、身心無二なり。是れ一体三宝なり。此の理を証得し、此の理を宣説し、此の理を修行す、是れ現前三宝なり。此...瑩山紹瑾禅師『洞谷記』「講戒略式」に見る「三宝」論
今日は近隣の寺院 長全寺【曹洞宗】 の紹介です。 場所は名古屋市北区上飯田の現在は住宅地の中にポツンとあります。 創建は戦国時代のようで、場所も当時この地方を治めていた織田氏の清州にあったよう
こんな記事を見つけた。・ユニセフ・世界手洗いの日詳しいことはこのサイトをご覧いただければ良いのだが、昨日10月15日は「世界手洗いの日」だったらしい。全く知らなかった。で、せっかくなので、こんな一文を見てみたい。つぎに、洗手すべし。右手に灰匙をとりて、まづすくひて、瓦石のおもてにおきて、右手をもて滴水を点じて触手をあらふ、瓦石にあててとぎあらふなり。たとへば、さびあるかたなを、とにあててとぐがごとし。かくのごとく、灰にて三度あらふベし。つぎに、土をおきて、水を点じてあらふこと三度すべし。つぎに、右手に皀莢をとりて、小桶の水にさしひたして、両手あはせてもみあらふ。腕にいたらんとするまでも、よくよくあらふなり。誠心に住して、慇懃にあらふベし。灰三、土三、皀莢一なり、あはせて一七度を度とせり。つぎに、大桶にてあ...昨日10月15日は「手洗いの日」だったらしい・・・
今日10月15日は、道元禅師による興聖寺で集衆説法を行われた。今日はここに到る経緯を略年表形式で考えてみたい。1227年(嘉禄3年)8~9月頃道元禅師帰国(『建撕記』)、建仁寺に寓居(『典座教訓』他)同年中『普勧坐禅儀』(嘉禄本)執筆(『弁道話』)1229年(安貞3年)道元禅師と懐奘禅師の相見(『伝光録』第52章)1231年(寛喜3年)7月安養院にて了然尼に法語を授与(可睡斎所蔵『示了然尼法語』奥書)同年8月15日『弁道話』執筆(同書奥書)1233年(天福元年)観音導利院入寺(『伝光録』第51章)同年夏安居日『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻示衆(同書奥書)同年7月15日『普勧坐禅儀』(天福本)浄書(同書奥書)同年8月『正法眼蔵』「現成公案」巻を俗弟子楊光秀に与う1234年(文暦元年)3月『学道用心集』執筆...十月十五日宇治観音導利興聖宝林寺開単
今日は「スポーツの日」である。元々1964年の東京オリンピックの開会式を「体育の日」としていたが、その後、ハッピーマンデーとなって、東京五輪の開会式(予定)に合わせて2020年は7月24日を「スポーツの日」としたが、その後はまた月曜日(10月第2月曜日)になった。ということで、体育とスポーツについて、以下の一節を見ておきたい。吾人は競技を以て動物の競ひまでに引き下げたくない。人間の争ひである。あくまで人間の競技であつてよい。そこに修行、鍛錬、精進、教育の仕事があるのである。競技であれ、凡てのスポーツ、あらゆる体育運動が、修練のために、鍛錬のために、人間たらしめん為に、大地を踏みはづしてならぬ生きる道を求めんために、即ち教育のために存在する所以を知らなければ、すべての運動は分化に分化を重ね、人間本然の究極理...今日は「スポーツの日」(令和6年度版)
今回、或る先生から、個人的に書いた原稿の校正を依頼されたため、作業中。拙著なども引用していただき、感謝に堪えない。ところで、校正中にある事に気付いた。いや、初めて気付いたということではなくて、以前に気付いていたことを「思い出した」というのが正しい。それは、道元禅師の語録『永平広録』巻10に収録されている「玄和尚偈頌」の中には、京都にいる頃に詠まれたと思われる「閑居偶作」という偈頌が入っているのだが、これが謎に満ちているのである。謎というのは、その題名に付された偈頌の数についてである。まず、現在、永平寺に収蔵されている、通称「祖山本」について見ていくと、こうなっている。・閑居偶作七首ところが、収録されている偈頌を数えていくと、全125首中の第65~70番目に該当するので、実は6首しか入っていないのである・・...『永平広録』所収の「閑居偶作」は何首?
人(生物)は機械などと同じで、必ず経年劣化していくという運命がある。本人の意向等は関係なく、年老いていけばどんなにメンテナンスをしっかりとしていても細胞は崩れていくというのが道理。まぁ、諸行無常であるということだ。すべては移り変わっていく。この度、レアな経験ではあるが、「骨髄移植」のドナーとなる機会があった。別にドナー登録をしていたわけではないが、身内が骨髄の移植を必要とする状況に陥ったこと...
拙僧の手元に、江戸時代末期に書写された、室内作法書がある。その中で、『在家血脈授与式』と題された一節があるのだが、同作法は【逆水洞流禅師『在家血脈授与式』について】で既に紹介したことがある。そこで、拙僧の手元の作法書写本から、戒本について考えてみたい。在家血脈授与式堂頭、先づ本尊前に焼香三拝して、登坐す。侍者等、手磬に随て、受者と同く三拝して著坐。堂頭、先づ洒水して、道場を浄む。垂誡して、受者をして心開意解せしむ。次に焼香合掌して、黙請して云く、南無仏陀耶、南無達磨耶、南無僧伽耶、南無祖師菩薩〈三返〉次に尺を鳴すこと二下、善男子・善女人、夫れ帰戒を求んと欲せば、先づ当に懺悔すべし、二儀両懺有りと雖も、先仏の成就したまふ所の懺悔の文有り、罪障尽く消滅す、我が語に随て之を唱ふべし、我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋...『在家血脈授与式』の戒本について
今日、10月10日は目の愛護デーである。何故、今日なのかは以下の通りである。一一〇〇このように、漢数字で並べてみると、目と眉毛になるためである。この目の愛護デーに関する歴史は古く、1931年(昭和6)に失明予防の運動として、10月10日を「視力保存デー」と定め、中央盲人福祉協会主催、内務省、文部省後援で毎年活動をはじめたのがきっかけとのことである。栄養状態が悪かったり、衛生状態が悪かったり、或いは生活環境が悪かったりすると、やはり視力が悪くなる。拙僧などは基本的に朝早く起きて勉強するタイプだったので、このブログを始めた20年前ではまだまだ視力も良かったが、そろそろ50歳という数字が目の前にまで来ると、流石に視力も落ちてくるし、目に関する問題点も複数見受けられる。今後はよくよく治療なども含めて行う必要がある...今日は目の愛護デー(令和6年度版)
【今日は達磨忌(令和6年度版)】の記事の通り、昨日は達磨忌だったのだが、道元禅師御自身は実は、達磨忌を実施しておられない。しかし、達磨尊者への尊崇の念を持っていないことはない。そこで、達磨忌を実施していなかった理由として、作法として一般化していなかった可能性を指摘しておきたい。確かに、道元禅師と時代的に近い虚堂智愚禅師(1185~1269)の『虚堂和尚語録』には、「施主捨田建達磨忌」と「達磨初忌拈香」とがある。ただし、道元禅師の時代に編まれていた『禅苑清規』と『入衆日用』には達磨忌を載せていない。だが、1263年に編まれた『入衆須知』には「祖忌」項が入り、「達磨忌十月初五、伝灯に出づ」とある。・・・あれ?達磨尊者の忌日について、『伝灯(景徳伝灯録)』にあるとしている。化縁を以て已に畢り、伝法して人を得る。...道元禅師と達磨忌
今日は震旦初祖円覚大師菩提達磨大和尚の忌日である。本日は、達磨尊者への法語を学んで、忌日のご供養としたい。梁武殿中敗闕を容る、少林山上懡攞を得る、看んと要す我が祖慚顔の色、欄外の残秋紅葉多し。風外本高禅師「少林忌」、『風外和尚語録(仮題)』写本、翻刻・訓読は拙僧こちらは、拙僧の手元にある風外本高禅師(1779~1847)の語録写本から引用したが、従来の研究との関係についてはまだ抑えていない。機会を得て、学んでみたいのだが、とりあえず上記内容を簡単に読み解いてみたい。梁武とは梁の武帝のことで、その王宮殿中でいわゆる「廓然無聖話」などの問答を行ったことを指す。しかも、その問答は敗闕を容れるとあるので、敢えて負けてみせたと評したか。そして、その後は北魏の嵩山少林寺に行ったが、懡攞(恥じ入ること)を得るばかりであ...今日は達磨忌(令和6年度版)
以前、【焼香師について】という記事を書いたのだが、その際、「焼香師」の原型として「焼香比丘」がある気がしていた。実際、「焼香師」という語句は、比較的近年にしか登場しないため、それに相当する別の語句があるはずだと思っていたのだが、宗門の一部法要で用いる「疏」では、法要導師のことを「焼香比丘」としており、その関連を考察しようと思ったのである。宗門の古い用例だが、江戸時代末期の永平寺50世・玄透即中禅師『永平寺小清規』中に2箇所ほど、法要を告知する「牓」への記載として「焼香比丘」が見られたが、多くは見られないことが分かった。そこで、ちょっと気になったので、現行の『行持軌範』を調べてみて、そこから各種「疏」の「○○比丘(実際には「比丘尼」との併記だが、ここでは略記)」の表記について、検討しようと思う。・遺教比丘(...「焼香比丘」の話
令和6年のNHK大河ドラマは、吉高由里子さん主演の「光る君へ」であり、『源氏物語』の作者として伝わる紫式部を採り上げている。ところで、この『源氏物語』について、愛知県内の曹洞宗寺院に道元禅師のものとされる写本が伝わっているのである。具体的には、関連する資料をご覧いただければと思うのだが、ここではその事実を伝え、また、拙僧自身が想うことを申し上げたい。同寺に伝わっているのは『源氏物語』全五十四帖の内、第九帖に当たる「葵」巻の一部(断簡)である。同巻は、光源氏の正妻である葵の上が、男児・夕霧を出産し、その後亡くなってしまう場面などを記している。現存している道元禅師の直筆写本とされるのは、人によってはこの帖を15段に分けるようだが、その内、第4段に該当する箇所である。それで、道元禅師がこの書写を行った時期だが、...『源氏物語』と道元禅師
こういう日付が入った文章がある。真丹初祖の西来東土は、般若多羅尊者の教勅なり。航海三載の霜華、その風雪いたましきのみならんや、雲煙いくかさなりの嶮浪なりとかせん。不知のくににいらんとす、身命ををしまん凡類、おもひよるべからず。これひとへに伝法救迷情の大慈よりなれる行持なるべし。伝法の自己なるがゆえにしかあり、伝法の遍界なるがゆえにしかあり、尽十方界は真実道なるがゆえにしかあり、尽十方界自己なるがゆえにしかあり、尽十方界尽十方界なるがゆえにしかあり。いづれの生縁か王宮にあらざらん、いづれの王宮か道場をさへん。このゆえに、かくのごとく西来せり。救迷情の自己なるがゆえに、驚疑なく、怖畏せず。救迷情の遍界なるゆえに、驚疑せず、怖畏なし。ながく父王の国土を辞して、大舟をよそほふて、南海をへて広州にとづく。使船の人お...十月一日達磨尊者呼び出される
大本山永平寺の貫首を務められた森田悟由禅師の「彼岸会垂示」から、彼岸・彼岸会の意義について考えてみたいと思っている。なお、今日が最終日である。真実、彼の岸に達せんには、必ず菩薩の大行に依らねばならぬ。菩薩の大行といへば、中々容易ならぬ事なれど、約めて見れば六波羅蜜に帰する。波羅蜜は彼岸到と訳する。彼の岸に到達する所の行であるから、斯く名けたるものぢや。実際に生死の海、煩悩の海を渡る所の行であるから、六度とも称する。乃ち六通りの行持ぢや。六通りとは、知ての通り、布施と持戒と忍辱と精進と禅定と智慧との六つぢや。『永平悟由禅師法話集』鴻盟社・明治43年森田禅師の御垂示はこの後、「六波羅蜜」の具体的内容をお示しになるけれども、それは省略する。実際に、かなり長く、それはそれで、別途「六波羅蜜」を参究する際に検討した...彼岸会の意義について(3)
大本山永平寺の貫首を務められた森田悟由禅師の「彼岸会垂示」から、彼岸・彼岸会の意義を考えてみたい。仏法の上から云へば、迷ふて居る凡夫の位置は此方の岸で、仏の境界は彼の岸ぢや。釈尊御一代の説法も、高祖大師・太祖国師の御教化も、唯々我等をして凡夫地を超えて仏地に進み、迷いを転じて悟を開かしめんが為めの御導びきぢや。此処を能う合点さへすれば、仏法の一大事は彼岸の二字に帰するといふても宜い。此一大事を忘れる様なことでは、終日仏の御傍に侍し、終夜御経の声を聞たとて、所謂心外に正覚を求むる者で、トンと仏法には契はぬぢや。『永平悟由禅師法話集』鴻盟社・明治43年以上の御垂示を参究していくと、やはり、凡夫の側から見た様子として、此岸・彼岸の分別があり、それこそ、仏も分別されている。だけれども、その彼岸の境涯から説かれてい...彼岸会の意義について(2)
大本山永平寺の貫首を務められた森田悟由禅師の「彼岸会垂示」から、彼岸・彼岸会の意義を考えてみたい。彼岸とは、「彼の岸」といふて、譬喩の詞ぢや。銘々お互の現在の位置を此方の岸に譬へ、後々は是非斯くせねばならぬ、斯くありたいものぢやと思ふ、一大事の目的、今日の話なら理想とでもいふ処であらう。その理想も浅墓な凡夫量見から出たのでは何にもならぬ。万古不抜の道理から生出した金剛堅固の理想、それを彼の岸に喩へたものぢや。『森田悟由禅師法話集』鴻盟社・明治43年まずはこんなところから。「譬喩」というのは、先般から繰り返し拙ブログで述べているようなことにも適用される。要するに、「彼岸」「此岸」というのは、それぞれ、理想的な境涯・凡夫の迷いを喩えた言葉なのである。ただ、譬えであってもそれがあって、我々自身のイメージが良くな...彼岸会の意義について(1)
今日は近隣にある 法輪寺【曹洞宗】の紹介です。 場所は名古屋市守山区の更に北東端に位置しております。 その起源は平安時代末頃かの源義経の家来であった佐藤兄弟(※継信・忠信)が平家追討のおりに戦
今日から一週間、秋の彼岸会となる。皆様におかれましては、お寺参り・お墓参り、とにかく善行を積んでいただき、仏縁を深くしていただくことを願う。その彼岸会に際して、次の一節を学んでみたい。一年の内、春秋二期昼夜等分といふ好時節に、一七日を期して古来より彼岸と称して居る。これは今より千有余年以前奈良朝の頃から始つて、国内一般に行はれ来つたものなそうぢや。其本は提謂経や浄土三昧経等に依つたものでもあらうが、ツマリ寒からず熱からざる節でもあり、又農家抔も幾分か閑な時であるから、特に彼岸会と名け、一般人民をして見仏聞法の勝縁を結ばしめられたものと見える。森田悟由禅師「彼岸会垂示」(『永平悟由禅師法話集』鴻盟社、明治43年)明治期の曹洞宗で指導的立場にあられた森田悟由禅師の教えである。上掲の一節は御垂示の導入の部分で、...今日から秋の彼岸会(令和6年度版)
ちょっとした一文である。なお、実世界の論文でも、関連する先行研究は多いので、当記事はあくまでも拙僧個人の見解を示すのみである。仏祖正伝菩薩戒作法右大宋宝慶元年九月十八日、前住天童景徳寺堂頭和尚、道元に授くるの式是の如し。祖日侍者〈時に焼香侍者〉・宗端知客・広平侍者等、周旋して此の戒儀を行ず。大宋宝慶中、之を伝う。『仏祖正伝菩薩戒作法』道元禅師が、中国で本師・天童如浄禅師から「仏祖正伝菩薩戒」を授けられたときの儀式について、その内容を記した文献の奥書に、上記一文がある。そして、これらの一節について、先行研究などを踏まえると疑問点は以下の通りである。(1)如浄禅師について「前住」という一句がある⇒もし、この式が行われたのが「大宋宝慶元年九月十八日」であったとすれば、まだ如浄禅師は堂頭(住職)であったはずである...『仏祖正伝菩薩戒作法』奥書について
今日9月17日は、旧暦8月15日、つまり「中秋の名月(十五夜)」である。道元禅師は、ほぼ毎年、中秋には上堂を行って「満月」そのものを題材にしながら、弟子達に仏法の真髄を説いておられた。今日はその1つを見ていきたい。中秋の上堂。月中の桂樹を折り尽して来る。這回は旧を恋わずに這回。胡来胡現、漢来現。限り無き清光十五枚、と。『永平広録』巻1-77上堂これは、仁治2年(1241)8月15日に行われたと考えられるため、京都の興聖寺に居られた時の「中秋の上堂」になる。道元禅師が「中秋の名月」に因み、満月の欠けたること無き姿から、法の円満なる様子を示された。まず、「月中の桂樹」は月の中に五百丈(約1.5㎞)の高さがある桂があるとされ、伐ってもすぐに戻るとされる。しかし、中秋の名月の場合には、余りに素晴らしい明るさをして...今日は中秋の名月(十五夜)(令和6年度版)
今日は近隣にある 常雲寺【曹洞宗】の紹介です。 この寺は僕の住む同区内にあり自宅から3キロほどで、更にいうと国道19号とJR中央線の間に位置する名古屋市守山区幸心にあります。 この町名の幸心はこの寺
今日は敬老の日である。日本の国民の祝日に関する法律では、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨として制定されている。世間としては、それで良い。そこで、仏教には「長老」という立場が存在している。現代の曹洞宗では、一座の法会の首座を指す言葉となっているが、実際には以下のような定義であった。禅門規式に云く、凡そ道眼を具え、尊するべきの徳有る者を、号して長老と曰う。西域の道高くして臘長き、須菩提等を呼ぶの謂いなり。『禅林象器箋』巻6「長老」項こちらの通りで、長老というのは、いわゆる高徳の僧侶であり、更には、「臘長き」という言葉がある通りで、出家してからの年数なども考慮されたものであったらしい。ところが、同じ『禅林象器箋』でも引用されているのだが、以下のような見解も存在していたらしい。...今日は敬老の日(令和6年度)