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実は、拙僧自身、とても不思議だったことがある。それは、三仏忌などを勤めるための法要、通称(九拝差定)に於いて、導師による拈香法語を唱えた後、やはり導師が書いた(という形になっている)「疏」を、維那が唱えるが、正直、機能的な面からいっても、内容的な面からいっても、両者は被っているのである。こういう無駄なことはしないというのが禅宗ではないか?と信じていたので、とても強い違和感を覚えていた。そうすると、先日或る資料を読んでいて、心から納得した。やはり、2つ唱える理由があったのだ。又た進前上香し、菓子・嚫金・上茶、逓伝を待ちて、備え了って三拝。坐具を収め、〈二祖はこの時、特為茶あり。三仏には無し〉衣角を整えて立つ時、侍者、大香を進む。住持、拈香法語。〈三仏会に、粥後、上堂祝香あれば、ここの法語無し〉進みて従香を焼...何故、九拝差定で法語と疏を唱えるのか?