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8月11日、今日は「山の日」である。この日は、2014年に制定されており、祝日としては新しいものである。そして、祝日について定めた祝日法を見ていくと、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」という趣旨であると分かる。とはいえ、由来などは書いていないため、何となく「お盆休み」の日付を増やす方便だったのでは?という感じもしてしまうが、仏教的にはありがたいというべきなのかもしれない。そこで、今日は「山」に因んだ祖師方の教えを学んでみたい。山は、超古超今より大聖の所居なり。賢人・聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人・聖人によりて、山は現成せるなり。おほよそ、山は、いくそばくの大聖・大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、山は、いりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり、ただ山の活計の現成するの...8月11日今日は「山の日」(令和5年度版)
今日は8月10日。世間では「ハットの日」とか「ハット同盟」が話題になっているようだが、拙僧的には「8(はっ)10(とお)」から、勝手に「法堂」に掛けて「法堂の日」とし、その解説を行いたい。「法堂」とは、禅寺では極めて重要な建物(伽藍)である。それは、仏像(本尊)を祀る「仏殿」よりも重要であるとの評価もある。それは、次の文脈から知られる。仏殿を立てずに唯だ法堂のみを樹てるは、仏祖の親しく嘱し、当代に授けて尊と為すを表するなり。『禅門規式』『禅門規式』という文献は、唐代の百丈懐海禅師がどのような規範を確立したかを伝える文献だとされるが、以上の通り「仏殿」は否定的だけれども、「法堂」を構えていることが分かる。それは、道場の主たる当代の祖師こそが、「尊」だからであり、形ばかりの仏像に把われる必要が無いためである。...今日は「法堂の日」(令和5年度版)
弘前のジーナキッコから次は此方へ。 禅林街 栄螺堂もしくは六角堂。 実際には八角形で此方は蘭庭院が管理しています。 長勝寺からみた禅林街。三十三の寺院…
もう、何も言うことは無いと思うが、今日8月7日は語呂合わせの関係で「鼻の日」である。よって、今日はそれに因んだ話を見ておきたい。以下の一節などはどうか?撫州石鞏慧蔵禅師、西堂智蔵禅師に問う、汝、還た虚空を捉得することを解すや。西堂曰わく、捉得することを解す。師曰わく、你、作麼生か捉う。西堂、手を以て虚空に撮す。師曰わく、你、虚空を捉うることを解さず。西堂曰わく、師兄、作麼生か捉う。師、西堂の鼻孔を捉えて拽く。西堂、忍痛の声を作して曰わく、太殺人、人の鼻孔を拽いて、直に脱去することを得るや。師曰く、直に須らく恁地に把捉して始めて得てん。『正法眼蔵』「虚空」巻ともに、馬祖道一禅師の法嗣とされる慧蔵禅師と、西堂智蔵禅師による問答である。さて、意味するところは、石鞏禅師が西堂禅師に、「そなたは、虚空を捉えることを...今日は「鼻の日」(令和5年度版)
8月6日、広島県広島市では、被爆から78年となる「原爆の日」を迎えている。広島市中区の平和記念公園では午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、原爆が投下された8時15分に合わせて黙祷が捧げられる。今年は、コロナ前の状況にほとんど戻るようで、一般席も約7000人が参列されるという。また、ロシアは呼ばれないそうだが、それも1つの選択で、良いことだと思う。ロシアは、一刻も早くウクライナへの侵攻を停止するべきである。なお、全国の被爆者はおよそ11万8935人となり、始めて12万人を下回ったという。そして、平均年齢は84歳を超えているため、以前より語られていることだが、被爆の体験、戦争の悲惨さを、如何にして後世に伝えるかが問題となっている。また、今日の式典では、この1年で死亡を確認した...8月6日広島原爆の日に思う「不殺生」(令和5年度版)
お施餓鬼の今日、こんなイイお天気かと思えば、ドバっと降ったりの変わりやすいお天気でしたね。墓掃除は昨日済んでるんで、塔婆をもらって線香上げただけ。コロナ禍では盆正月に坊さんが棚経上げに来なかったんだけど、今年は復活して盆の入りにお布施の集金に来るんですよ。ウチなんか、お布施はそんな気張んなかったけど、檀家全部廻れば結構な収入だし、コロナ禍では坊さんも大変だったんじゃ?明日は母親を病院はしごさせなくちゃいけないし、また店は休みだな。今日、施餓鬼法要には参加しなかったんだけど、坊さんが六、七人来てたから、般若波羅蜜多心経も聴きごたえがあったんじゃ?来年は出てみようかなぁ・・・大雨時行
今日は8月4日、語呂合わせで「箸の日」となっている。そこで、「箸」に因んだ記事をアップしてみようと思う。三十七、凡そ受くる所の食、匙筯を把りて浄人の手中に於いて自ら抄撥して取ることを得ざれ。三十八、匙筯を過して浄人に与えて、僧の食器の中に於いて食を取らしむることを得ざれ。四十九、匙筯を用いて鉢椀を刮げて声を作すことを得ざれ、当に湯水を用いて滌蕩して取るべし、即ち鉢の光を損なわざれ、若し鉢の光を損なえば、鉢、即ち膩を受けて洗い難し。「二時食法第八〈六十條〉」、南山道宣律師『教誡新学比丘行護律儀』、訓読は貞享3年版に基づいて拙僧これは、中国の南山律宗の道宣律師(596~667)による「二時食法(いわゆる朝食[粥]と昼食[飯])」の指示を行った内容だが、同時にインドの律蔵で構築された比丘の食事法を、中国版にアレ...今日は「箸の日」(令和5年度版)
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。同、本師心地戒、初祖一心戒、六祖無相戒、咸く戒に非ざるを戒と名づく、畢竟如何端的の処、偈に云く、三帰三聚浄、箇々自家完うす、一体真心地、頭頭に許般没す。仏洲仙英禅師『円成始祖老人語録』巻中「授戒会法語」仏洲仙英禅師は、江戸時代末期に瑩山紹瑾禅師『伝光録』を開版したことで知られ、同書が明治期以降に参究されるようになったきっかけを作った洞門の学僧であり、また、あの井伊直弼の参禅の師としても知られている。一方で語録を見ると、授戒会法語がかなりの数収録されていることから分かるように、自坊は勿論、各地の授戒会などに戒師として招かれたものと思われる。今回紹介したのは、その1つである。何故採り上げたかといえば、この言葉の通りだからである。つまり、仏洲禅師は歴代の仏祖がことごとく...或る禅僧の授戒会法語について
『正法眼蔵随聞記』には、道元禅師が実際に栄西禅師に参じていたからこそ言及出来たであろう文脈が複数存在している。当方はそれを理由に、おそらく道元禅師は栄西禅師と相見し、参学していたと考えている。無論、従来の先行研究では、これらの文脈は全て、明全和尚などの栄西禅師門人から聞いたもの、という風に判断している場合もある。だが、当方は先行研究の根拠が、その当該著者の主観的雑感でしかないことに不満を抱いている。つまり、この辺、証明は出来ないのだ。さておき、今回の記事では以下の一節を見ておきたい。示云、故僧正建仁寺に御せし時、独の貧人来て道て云、「我家貧にして絶煙及数日、夫婦子息両三人餓死しなんとす。慈悲をもて是を救ひ給へ」と云ふ。其時、房中に都て衣食財物等無りき。思慮をめぐらすに計略尽ぬ。時に薬師の仏像を造らんとて、...栄西禅師が犯した罪は何だったのか?
今日から8月である。日本全体は先日来「酷暑」となっているが、旧暦の8月といえば、今の9月初頭に当たり、秋めいている状況であった。そのような時の上堂語を見てみたい。八月一日、天中節。赤口白舌、節に随って滅す。雲、峰頭に集まり秋水清し。樹功の草料、暁風悦ぶ。『永平広録』巻1-104上堂陰暦の8月1日は、陰陽思想などで「天中節」だと考えられた。特に、「火災・盗難・疾病・口舌」の災いを払うために「全ての悪口が、節に随って滅する」というお札を、日の出前に貼るべきだとされていた。道元禅師もこのような上堂をされた以上は、「天中節」の行いをされたのではないかと拝察するが、だからこそ、「雲は峰の頂上に集まって、秋の水は清い」といったような風情や、その元にある「樹にも草にも功徳が及び、暁の風を悦ぶ」といったような自然への眼差...八月一日の説法
芳林山 向嶽禅院 戒翁寺(→神奈川県川崎市麻生区早野)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1591年)に夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の3代住職玄頓和尚(げんとんおしょう)によって開山されたと伝わる曹洞宗寺院です。1590(天正18)年に小田原北条氏が滅亡すると北条家臣の庇護を失い衰退しましたが、江戸時代初期の寛永年間(→1624年~1645年)に北条遺臣から幕府旗本に取り立てられた富永重吉(とみながしげよし)が早...
以前、【道元禅師の直弟子達が語る三学論】という記事をアップしたのだが、他にも見ておくべき文脈があるため、今日はそれを確認しておきたい。雖無諸法生滅而有戒定慧と云は、是修証はなきにあらず、染汚することゑじと云義にあたるべし、生滅とこそ云ねども、戒ぞ定ぞ慧ぞ云へば、是こそ生滅の法と聞ゆれどもしかにはあらず、一戒光明金剛法戒と云程にこそ戒をも心得れ、只戒と云へば制止と許心得、断悪修善とのみは不可心得、又、戒はふね・いかだ也と云時は生滅法に似たれども、雖無生滅の道理は今の般若と談ずる所、戒定慧等なり、敬礼これなり、施設可得と云は是もほどこしまうけてうべくば生滅の法に似たり、然而今施設は可得とつかふ、戒定慧にて可心得、戒定慧已下至度有情類、施設可得なるなり、『正法眼蔵抄』「摩訶般若波羅蜜」篇、カナをかなにするなど見...道元禅師の直弟子達が語る三学論(2)
拙僧などは、機会があれば必ず道元禅師『学道用心集』を学ぶのだが、その中で、以前から学びをするべきだと考えている表現がある。今日は、それを学んでみたい。夫れ学道は、道に礙えらるなり、道に礙えるる者は悟跡を亡ず。仏道を修行する者は、先ず須く仏道を信ずべし。仏道を信ずる者は、須く自己本道中に在って、迷惑せず、妄想せず、顛倒せず、増減無く、悞謬無きなり。是の如くの信を生じ、是の如くの道を明らめ、依りて之を行ず。乃ち学道の本基なり。『学道用心集』「道に向かって修行すべき事」、原漢文前10章に分かれている『学道用心集』の第9章の一部が上記引用文である。そこで、今回見ていきたいのは、「学道の本基」である。なお、「本基」という用語、用例は決して多くは無いが、上記の一節と、『正法眼蔵』「面授」巻に見られる。かの三十七品菩提...「学道の本基」とは何か?
以前から、気にしている文脈があるので、それを見ておきたい。元和に改元す。東照源君、兵を統べて伏見に駐す。諸宗徒徴して城に入りて顧問す。師も亦与う。諸師、各おの祖脈の源、委しく述べ、寺院の本支に及ぶ。源君、将に永平を以て洞門の本寺に為さんとす。師、殿階を上書して曰く、總持禅寺は後醍醐天皇勅賜の梵刹、開山瑩山に命じて宗を匡す。御製の詰命、其の略に曰く、曹洞出世の道場に補任す。宜しく南禅と相並びて、紫衣を服し、国家の延長を祈り奉るべし。次いで、歴朝の天子の宸翰、皆な斯の如し。仰いで望むに閣下に請うらくは、先蹤に随わんことを、と。源君見て乃ち之に従う。遂に永平・總持を陞らせ、両本寺と為す。為に鈞帖降りて大護持と作る。總持を本寺と為すは、師の力なり。『日本洞上聯灯録』巻10「加州宝円泰山雲堯禅師」項、『曹洞宗全書』...いわゆる両大本山制度の成立に関する一議論
加賀大乘寺山内の行持作法を定めた『椙樹林清規』について、以前から気になる一節があったので、探っておきたい。具体的には、毎月3回行われる、「宣読箴規」についてである。そもそも、『椙樹林清規』は、大乘寺25世・月舟宗胡禅師、26世・卍山道白禅師による『瑩山清規』研究などが前提となって編まれているものだが、そのためか、「宣読箴規」についても、以下の通り定められている。飯後坐禅板鳴て、知客、衆寮本尊前に就て、亀鏡文を読む、其の式は、止静の魚声を聞て、衆寮前の版、打すること三通、時に禅堂外堂、同列に衆寮に赴く、大衆普同三拝して、具上に坐す、知客、本尊前に進て、炷香、文を香に薫じて、具上にして之を読む、大衆諦聴す、読了て普同三拝、結制の中は、必行茶あり、副寮等之を弁ず、行茶了て大衆帰堂、各おの被位に倚て坐禅す、清規に...『椙樹林清規』に見る『正法眼蔵』講義について
寒松山 大林寺(だいりんじ→長野県長野市松代町)は、江戸時代初期の1622(元和8)年に上田藩主真田信之(9万5000石)が松代藩(13万石)に加増の形で移封された際に、信之・信繁兄弟の生母山手殿(寒松院)の菩提寺として創建した曹洞宗寺院です。1613(慶長18)年6月に上田で死去した山手殿は上田の大輪寺(だいりんじ→長野県上田市中央北1丁目)に埋葬されましたが、松代移封にともない信之は改めて大林寺を菩提寺として墓所を作り直しました...
三学とは、戒定慧学のことである。曹洞宗では一般的に、三学一等などともいわれ、その典拠として道元禅師『弁道話』、瑩山紹瑾禅師『坐禅用心記』などが参照されるけれども、もちろん、それだけが三学への態度ではない。例えば、以下の一節などはどうか。凡仏道に戒定慧三学あり、戒は業道を滅すれども凡悩を不断也、但仏戒と云時こそ無残所道理なれ、ゆへに菩薩戒仏戒尤可心得也、定は凡悩を断ず、又定多慧小あるべし、慧多定小あるべし、定はさき慧は後といふことあり、今の定慧等学明見仏性といはれは、これらにひとしからざる也、『正法眼蔵聞書』「仏性」篇、カナをかなにするなど見易く改めるこちらは、道元禅師の直弟子の1人である永興詮慧禅師によって書かれたとされる『正法眼蔵聞書』の一節である。いわゆる、75巻本『正法眼蔵』最初の註釈である。そして...道元禅師の直弟子達が語る三学論
今年度に入ってから、とある勉強会で、江戸時代末期の黙室良要禅師(1775~1883)による法衣(袈裟)の研究書『法服格正』を読む機会を得ている。そこで、読んでいる中で、ちょっとした疑問点が出て来たので、それを調べた結果をまとめようと思ったのである。具体的には、勉強会では明治期の西有穆山禅師編集『洞上法服格正』(鴻盟社・明治29年)を用いていたのだが、同時に『続曹洞宗全書』収録本や、川口高風先生『法服格正の研究』(第一書房・1976年)の訳注本を参照していると、明らかに全く異なる本文が入っていることに気付いた。よって、そのことを記事にしてみたいと思う。まず、今回採り上げたいのは、全10章ある本文の「袈裟功徳分第一」の一節である。かゝれば不思量現の方袍は親証の好人に属し、無作相得の法服は、妙応の霊神を感ず、曽...『法服格正』を読んでみての雑考
「還吾安居来」は、当方が用いてしまった個人的表現だが、典拠としたのは次の御垂示である。・万里無寸草なり、還吾九十日飯銭来なり。・もし児孫と称するともがら、坐夏九旬を、無言説なり、といはば、還吾九旬坐夏来、といふべし。ともに『正法眼蔵』「安居」巻このように、道元禅師が「還吾」云々という表現が以前から気になっていたのだが、色々と調べていたところ、どうも典拠らしき表現を見出したので、紹介しつつ検討したい。還吾平生粥飯来(還た吾れ平生に粥飯し来たる)『霊竺浄慈自得禅師録』巻4「示衆」漢語仏典を見ていくと、もちろん、「還吾」という表現は頻出するのだが、道元禅師のように用いている事例としては、以上の一節を見ていくべきだといえる。この語録とは、中国曹洞宗の自得慧暉禅師(宏智正覚禅師の資、1090~1159)のものである...「還吾安居来」の話
とりあえず、以下の一節を見ていきたい。菩薩五戒威儀経に云く、「比丘、四重を犯せば、更に受路無し。菩薩犯すと雖も、脱すれば更に受くべし」。卍山道白禅師『禅戒訣』、『卍山広録』巻47所収ここに、『菩薩五戒威儀経』と出ているのが気になった。勉強不足の当方は、これがどの経典を指すのか、今一つ理解していなかった。なお、少し調べてみると、中国明代の『梵網経略疏』という文献に同名の経典が挙げられているので、どうも存在していたらしい。それで、引用文の内容から見てみると、求那跋摩訳『優婆塞五戒威儀経』に、同文が出ていることを確認したし、更に明代成立の『在家律要広集』では、『菩薩優婆塞五戒威儀経』という名前で転載されていることも確認した。よって、卍山禅師はこの経典を引用していることは明らかだと言えよう。ところで、『優婆塞五戒...『菩薩五戒威儀経』について
中国曹洞宗の天童如浄禅師は、道元禅師の御本師であり、如浄禅師から嗣法したからこそ、日本に曹洞宗の法脈が伝来したのである。如浄禅師の没年だが、かねてより諸説があったものの、近年では宝慶3年(1227)7月17日に遷化されたという。道元禅師は、如浄禅師に係る御教示を数多く残されているが、この御遷化された日付について、明示したものはないと思われる。だが、7月17日に行っておられたであろうことは、以下のことから知られる。・(133上堂)解夏上堂云……・(134上堂)天童和尚忌上堂云……ともに『永平広録』巻2他にもあるのだが、とりあえず1箇所あれば良いので引用してみたのだが、道元禅師は越前に移転されてから、ほぼ毎年のように先師・如浄禅師の忌日に合わせて上堂されている(京都・興聖寺では行われた記録は無い。ただし、行っ...7月17日天童如浄禅師忌(令和5年度版)
今日7月15日は解夏である。いわゆる、夏安居の解制である。そこで、この意義について、道元禅師の教えを学んでみたい。夏安居の一橛、これ新にあらず、旧にあらず、来にあらず、去にあらず。その量は、拳頭量なり、その様は、巴鼻様なり。しかあれども、結夏のゆえにきたる、虚空塞破せり、あまれる十方あらず。解夏のゆえにさる、帀地を裂破す、のこれる寸土あらず。このゆえに、結夏の公案現成する、きたるに相似なり。解夏の籮籠打破する、さるに相似なり。かくのごとくなれども、新曾の面面、ともに結・解を罣礙するのみなり。万里無寸草なり、還吾九十日飯銭来なり。『正法眼蔵』「安居」巻夏安居を「一橛」と表現されている。この「橛」とは、「くい」の意味だが、真言宗では結界の四方を示すというから、この場合も安居を1つの「結界」と見ていることを指す...今日は解夏の日(令和5年度版)
旧暦の日付であれば、という話ではあるのだが、7月14日というと、永平寺の二祖・懐奘禅師(1198~1280)が住持職に就位した日付となっている。今日はその経緯などを学んでみたい。まず、懐奘禅師の永平寺住持職就位について伝えるのは、最古の伝記の一である『三祖行業記』『三大尊行状記』ともに共通している。建長五年癸丑七月十四日、即ち住持位に著く。夜間に小参し、早朝に上堂す。元和尚、病床たりと雖も、輿に乗りて来たりて、聴聞し証明す。然りと雖も、師に事ふて礼を捨てず。『三大尊行状記』「永平二代懐奘和尚行状記」、訓読は拙僧で以下同じ以上の通りなのだが、建長五年とは1253年である。道元禅師最晩年であり、この日から約1ヶ月半後の8月28日に、御遷化された。永平寺住持職承継に関連して、以下の記述もある。△建長五年七月十四...7月14日懐奘禅師永平寺住持職に就位
この記事は、【「三帰戒」という呼称について】の続編である。それで、拙僧が集めた資料の中に、「三帰戒」という項目があることを確認したので、それを学んでみたい。三帰戒汝等、帰戒を求めんと欲せば、先づ当に懺悔すべし。〈壱反〉我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。〈三反〉更に応に仏法僧の三宝に帰依すべし。〈一反〉南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、帰依仏無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊、帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。〈三反〉三帰戒を受くこと是の如し、今身より仏身に至る迄、此の事能く護持せよ。『日用行事書』写本、原典の訓点に従って訓読、漢字も現在通用のものに改めるこちらの『日用行事書』であるが、現在の愛知県内寺院で用いていたものだと判明している。なお、内容に甘雨為霖禅師(1786~187...「三帰戒」という呼称について(2)
生き死にの問題について、一家言がある、かの鈴木正三道人(1579~1655)が、「殉死」について語っていたので、採り上げてみたい。七十一去人来曰、此比、或長老、追腹切者に向て曰、後世義可心安、某能弔んと有ければ、彼者曰、我を吊ひたり。師聞て曰、我ならば云べし、そのつれのばかを云か、道理であほうばらを切る也、一処に往けばよしと思ふや、今生にても、主と一処にある者、賢にして主の用に立者あり、亦愚にして主人の怨と成者あり、其上死しては、自由に一処に往くと思ふや、主は主、下人は下人、親は親、子は子、己己が業次第に、善処ゑも悪趣ゑも往く也、故に吊に仍て、業を転ずるぞと也。『驢鞍橋』巻中、カナをかなに改める「殉死」への批判というべき文章であるが、文脈はかなり捉えづらい。とはいえ、正三が語る内容だけは良く分かる。まず、...鈴木正三に見る「殉死」批判について
なんとも凄い話だが、インド人は二桁×二桁の暗算を容易にこなすそうである。やはり、数字について、暗算で扱えるレベルが違っているのだろう。それとも、訓練の成果だろうか?そこで、道元禅師の説法に見える「かけ算」について見ていきたいと思う。冬至小参に云く。古徳道く「九九八十一、人の能く算の解する無し。両箇五百文、元来是れ壱貫」と。『永平広録』巻8-小参4このように、引用文ではあるが、9×9=81という計算を明らかに説法に利用されている(多くの禅語録には、五五二十五、六六三十六、七七四十九、他がある)。これは、“掛け合わされる”ということが、縁起の様子で「思った以上に数字が増えても、実はその内容は同じ」様子を明らかにしている。かけ算はあくまでも法の様子であり、この世の諸現象は、様々な変異があるけれども、それは諸法実...道元禅師の説法に見える「かけ算」
今日7月10日は、語呂合わせで「納豆の日」である。その日に因んで、以下の偈頌1首を見ておきたい。納豆を贈るの韻に和す糲飯藜羹に芥薑無し、貧家寂寞として陰を送ること長し、故人の恩露一筐賜る、飢腹膨脝して風味香しし。『円通松堂禅師語録』巻2「偈頌」、『曹洞宗全書』「語録一」437頁上段まず、この語録は現在の静岡県掛川市内に所在する円通院の松堂高盛禅師(1431~1505)の語録である。よって、内容は、中世室町期の曹洞宗に関する教えであると理解して良い。更には、どなたかが松堂禅師宛に「納豆」を贈ってくれて、しかも漢詩も添えられていたようなので、それに和して、お返しの偈としたものだろう。上記の一偈から、中世の曹洞宗で「納豆」という語句が用いられていたことは明らかなのだが、これが、発酵食品としての「納豆」なのかどう...今日は納豆の日(令和5年度版)
今日は7月8日である。ところで、発見されたのが比較的新しい時代(江戸時代中期)なので、信憑性などで疑問無しとはしないのだが、通称『御遺言記録(または『永平室中聞書』)』と呼ばれる文献がある。本書は、永平寺3世・義介禅師が聞いたという体裁で、御開山である道元禅師、二祖・懐奘禅師の遺言が記録されたものとされる。その中で、「建長五年(1253)七月八日」という日付の教えが見られるので、今日はそれを学んでいきたい。同七月八日、御病重ねて増発す。義介驚きて参拝す。堂頭和尚示して云く、汝近前し来たれ。介右辺に近前す。示して云く、今生の寿命は、此の病にて必ず限りを覚ゆ。凡人の寿命は必ず限り有り。然而ども病に任す可きには非ず。日比見られるの様、我れ随分力人を合し、彼此に医療を加う。然りと雖も全く平愈せず。此れ又た驚く可か...七月八日道元禅師の「正信」の教え
以前から思うことの1つに、「暫到」って、本当はどういう意味なのか?ということがある。現在の宗門では、僧堂修行に赴くと、まずは「暫到和尚さん」と呼ばれる。で、「暫到」の「暫」というのは、「しばらく」という意味であるから、これを素直に受け取ると、しばらくの間到れる者、という意味になると思われる。要は、長期間いることを前提にされていない者、という意味のはずなのだ。そう思っていたら、江戸時代の臨済宗の学僧・無著道忠禅師が、以下のような記載をしていた。忠曰く、暫くの時、某寺に到る。当に久しからずして、而も去るべし。故に暫到僧と曰う。『禅林象器箋』巻6「第六類稱呼門」「暫到」項ここに、「久からずして、去る」とある通り、「暫到」というのは、その叢林に長居することを前提にされていない者のはずなのだ。いや、実はこの用語、宗...「暫到」考
臥龍山 雲松院(→神奈川県横浜市港北区小机町)は、戦国時代の1525(大永5)年頃に小机城主(→のち城代)を務めた笠原信為が、亡父信隆と伊勢宗瑞(→いわゆる北条早雲)の菩提を弔うために開基、僧の季雲永岳が開山したと伝わる曹洞宗寺院です。寺号を深大寺とする説もありますが、雲松院のホームページで否定していますのでそれに従います。境内は城塞様式となっており、小机城の詰城、もしくは出城としての役割を担っていたことが分かり...
医王山 金剛寺(→神奈川県横浜市港北区小机町)は、江戸時代中期の1748(寛延元)年に長谷川道全という人物が開基し、約40年後の1786(天明6)年に大継良智(→本山の雲松院19代住職)が曹洞宗寺院として開山したと伝わります。創建の時期は天明の飢饉により多くの死者が出ていた頃と重なります。この地にはもともと北条氏綱(→小田原北条氏2代目)統治下の1540(天文9)年に明翁永寿という僧が創建した草庵があったようです。真偽の程は定かで...
今日採り上げるのは、道元禅師が本師・如浄禅師から受けた慈誨を集められた『宝慶記』である。同書の冒頭は、道元禅師が如浄禅師に対して質問などをして良いかどうかを確かめるものであり、その後、「宝慶元年七月初二日方丈に参ず」とあって、宝慶元年(1225)7月2日から、如浄禅師に個人的に参学できる立場になったことを意味している。この件について、道元禅師は後に、以下のようにも表現されている。われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭をゆるさるるのみにあらず、ほしきままに堂奥に出入して、尊儀を礼拝し、法道をきく。愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。『正法眼蔵』「梅華」巻現地で見聞された様子を伝えて、中国で生まれ、仏道を学んでいる者の中にも、如浄禅師の室内に入って教えを聞くことが出来な...宝慶元年七月初二日方丈に参ず
読者のみなさま、おこんばんわ m(_ _ )m本日もご訪問ありがとうございます。 幸運エネルギーをONにして人生を書換える一生開運アチューメント2900名以上…
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あぁ、なんか気になる文章があったので、検討してみたい。堂頭和尚―胡―つこと、胡椒のこと、老人になつて、血気のうすうなつたものは、食してよし、若輩なものは、食ふと熱がでる、そうすると、天然と五臓が不和合になる、前の橄欖・茘枝の下につづき走なもの、下書ゆへに前後がある、面山瑞方禅師『宝慶記聞解』坤巻(明治11年版)11丁表、カナをかなにするなど見易く改めるいきなり???となったのだが、面山禅師は『宝慶記』に「胡椒」に関する説示があるとするのだが、最近用いられる懐奘禅師書写本や宝慶寺本由来の翻刻からすれば、一般的な『宝慶記』のテキストには見当たらないことになる。なお、上記一節については、おそらく以下の一節についての提唱だと思われる。堂頭和尚慈誨して曰く、功夫弁道坐禅の時、胡菰を喫すること莫れ。胡菰、発熱するなり...禅僧、胡椒オッケーです
まずは、以下の一節を学んでみたい。堂頭和尚慈誨して曰く、上古の禅和子、皆、褊衫を著けたり。間に直裰を著くる者有り。近来、都て直裰と著くるは、乃ち澆風なり。你、古風を慕わんと欲はば、須く褊衫を著くべし。今日、内裏に参ずる僧は、必ず褊衫を著くる。伝衣の時、菩薩戒を受くる時にも、亦褊衫を著く。近来、参禅の僧家、褊衫を著くるは是れ律院の兄弟の服なりと謂うは、乃ち非なり。古法を知らざる人なり。『宝慶記』以上の通り、道元禅師は天童如浄禅師の教えとして、古来の禅僧は皆、褊衫を着け、一部が直裰を着けていたという。だが、如浄禅師の時代には、皆直裰ばかりを着けており、それを「澆風」だとしたのである。更には、最近、参禅する禅僧が、褊衫は律宗の服だというのは誤りであり、古法を知らないと如浄禅師が批判されたのであった。以上のことか...褊衫・裙子か直裰か?
現在、当方でも使っている「檀信徒喪儀法」の回向文で、特に「山頭念誦」のそれの一番最後は、以下のようになっている。雲程に奉送し、聖衆を和南す。今回の記事で問題にしたいのは、この「聖衆を和南す」の部分である。「和南」というのは、尊敬する対象に対して、その想いを表す「帰依の礼拝」の意を持つ語である。よって、この場合には「聖なる者達に帰依の礼拝をします」ということになる。ところで、こういう状況で用いられる語の場合、我々はどのような「聖衆」をイメージすれば良いのだろうか?この回向文の制作された状況と、その後の曹洞宗の教義の進展とは、どうやら密接な関係を持つようである。まず、「雲程に奉送し、聖衆を和南す」の意味だが、現在の曹洞宗では以下のように解釈していると思われる。「白雲たなびく天界に(覚霊を)送り奉り、(お迎え下...「聖衆を和南す」の意義について
ネット上での繋がりなのだが、昨年から御袈裟に関する勉強会を行っている。そういう中で、当方としては「伝衣」について興味関心を抱かざるを得ないのだけれども、それに関する記録を見ていたところ、気になる記載があったので記事にしてみようという次第である。まずは、以下の一節をご覧いただきたい。一伝衣一頂先年、当住瑾和尚に附す。一常衣一頂宗円長老に遺附す。「宝蔵菴抄劄随身行李状」、『徹通義介禅師喪記』所収、『続曹洞宗全書』「清規」巻、原漢文こちらは、曹洞宗の大本山永平寺3世・大乘寺御開山の徹通義介禅師(1219~1309)の御葬儀に関する記録である。現在『続曹洞宗全書』「清規」巻に収録されている本書は、義介禅師の法嗣である瑩山紹瑾禅師による記録だとされている。そこで、これが何について書いてあるかというと、義介禅師が遺弟...「伝衣」と「常衣」の話
未だに幾つかのネット上の記述では、道元禅師の実父を「源通親(1202年死去)」であるとしたい場合が多いのか、通親の次男である源通具(1227年死去)については、道元禅師の「兄弟」のように書かれる場合がある。だが、道元禅師の実父は「源通具」であると考えている。それは、まず「通親」説の最大の問題は、道元禅師の古伝に於いて、母の死(道元禅師8歳の時)は触れるのに、「父の死(もし、通親であれば道元禅師3歳の時でなくてはならない)」については触れない。なお、15世紀まで下るが、まだ伝記としては古い方である『建撕記』では、道元禅師が出家を願う場面に於いて、親戚筋の良顕法眼が、「親父・猶父が怒るのではないか?」と諭すが、ここで「親父」と出て来てしまうため、「父親」が健在であった印象を抱く。なお、そういう立場の人は、道元...道元禅師の「育父」の話(令和5年度版「父の日」)
「因脈会」の作法については、既に【(4)】で書いた通り、戒師による説戒の時に併修された「因脈授与」が原型となっているため、いわゆる「道場」とは扱われないことを指摘した。ただし、その記事では、授戒として何が授けられているのかを明かさなかった。それについて指摘された文献があるので、今日はそれを見ておきたい。下午説戒之節因縁血脈ノ願アラバ室侍寮江相届用意之上、説戒時戒師三帰戒アリ、尤毎日用意同断也、『増福山授戒直壇指南』、『曹洞宗全書』「清規」巻・789頁下段~790頁上段実はこれでしかなく、全体の流れは分かりにくい。上記から分かるのは、因縁血脈の依頼があった場合には、室侍寮が準備するということと、説戒の時に戒師が三帰戒を授けること、そして毎日行う可能性があるということである。それで、三帰戒と因縁血脈という取り...「因脈会作法」考(5)
以前にアップした【(3)】の記事を書いた時に漠然と思っていたのだが、そういえば因脈会に関しては、授戒・授脈の場面のことを「道場」とは称していない。・因脈授与「因脈会行持日鑑」、『昭和修訂曹洞宗行持軌範』316頁つまり、道場ではないのである。この辺、授戒会・法脈会では、以下の通りである。・正授道場「授戒会行持日鑑」、前掲同著・308頁・正授道場「法脈会行持日鑑」、前掲同著・315頁この通りであり、両作法とも「正授道場」となっているのである。ただし、「因脈授与」となっている先ほどの作法について、実態は以下の通りである。直僚(因脈係)は、受者を整列させて加行位に就かしめる。戒師は三鼓、大擂上殿。まず説戒、終わって懺悔文を唱えしめる。室侍長(あるいは随行長)、洒水を行う。次いで戒師は三帰、三聚、十重禁戒を授け血脈...「因脈会作法」考(4)
前回の記事については、【(2)】をご覧いただければ良いと思うのだが、少しく気付いたことがあったので、記事にしておきたい。雑考に近いかもしれない・・・それで、まず、「因脈会」の「因脈」は、「因縁血脈」の略だとはされるが、その典拠はどこにあるのだろうか?気になったので調べてみたが、曹洞宗宗務庁刊『授戒会の研究』に付録されている各種戒会加行表を見てみると、畔上楳仙禅師や石川素童禅師が示されたという戒会指南書には、当たり前のように用いられているので、明治期には一般的であったといえよう。そうなると、「因縁血脈」の使用はその前になるとは思っていたのだが、以下のような一節を見出した。又血脈ヲ受ルニ四通リノ次第アリマス、一ニハ長老以上ハ傳戒ト云、二ニハ自身ニ受ヲ正戒ト云、三ニハ授戒ニ付テモ此ノ道場ニ得入來ナク、代人ニテ受...「因脈会作法」考(3)
既に、【「因脈会作法」考】で見たように、現行の『行持軌範』に於ける「因脈会作法」は、授戒会⇒法脈会⇒因脈会と、本来の授戒会から次第に略されたものであるけれども、その略され方を通して、現行の因脈会がどのような戒学に裏打ちされているかを考察する。まず、「因脈会作法」とはどのような流れになっているか、簡単に確認しておきたい。そもそも、宗門が公式に「因脈会作法」を定めたのは、『昭和改訂曹洞宗行持軌範』(昭和27年)であるが、以下のような説明となっている。概ね授戒会と同じ。唯、日時を短縮する。長さは四五日、短きは二三日或は一日とすることもある。又、月授戒と称して毎月一回(最後二日行ふ)修行することがある。因脈会には登壇並びに上堂は行はない。又、飯台を略して弁当持参とする。迎聖、歎仏、説教、施餓鬼、供養回向、説戒、読...「因脈会作法」考(2)
以前から、「因脈会作法」について、一言記事にしておきたかった。そもそも、宗門で「授戒会作法」を正式に軌範に組み込んだのは、昭和27年の『昭和改訂曹洞宗行持軌範』からとなる。ところで、現行の『昭和修訂曹洞宗行持軌範』では、「授戒会作法」に関連して、以下の3つが立項されている。・授戒会作法(5~7日)・法脈会作法(3~4日)・因脈会作法(1日)それで、これが『昭和改訂』だと「授戒会作法」と「因脈会作法」しか、目次には載っていない。よって、「法脈会」というのは後で出来たのだと思っていたのだが、ちょっとした違和感を憶えていた。それは、『昭和修訂』に於ける説明文である。・おおむね、授戒会と同じであるが、期間は三日ないし四日とする。ただし法脈会においては、戒師の完戒上堂及び戒弟の登壇は行わない(完戒上堂になぞらえて小...「因脈会作法」考
冨鳳山 養周院(→神奈川県川崎市高津区久地3丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1604(慶長9)年に死去した僧の吉山が開山したと記される曹洞宗寺院です。2011(平成23)年11月28日には川崎市立久地小学校(→神奈川県川崎市高津区久地4丁目)の6年生児童110人による座禅体験が行われ、僧侶の過ごし方や修行の内容を体験する歴史授業が行われました。上形泰俊住職が地域の児童に様々な文化を体験してもらおうと、例年この時期に座禅修...
現在、我々が一般的に「入寺式」と呼ぶ作法は、『行持軌範』では「請首座法」という。しかし、その制定には紆余曲折があったことが知られる。入寺式の事は、固より諸清規に無き者なり、宗内に中古以来一会結制等に於て首座の為に安下処を設けて入寺すること、恰も住持の晋山に類似するもの、其の何の理由たるを知らず、弊の甚きなり。按ずるに現今結制の首座は、諸清規に称する処の首座と其名同ふして其実を異にす。今の首座は三出世の初級にして一種特別の任職と成れり。故に請首座亦特別ならざる可らず。勅修に立僧首座を請する法名徳首座を請する法あれども、今時の用に適せず。禅苑に諸知事・請頭首法あり、勅修に両序進退法あり。僧規・小規は其の全文を採り、又は之を演べ書にせし等皆な今時請首座の法に適せざるのみならず、行礼煩に過ぎ、前後錯雑して穏当なら...「請知事法」と「入寺式」について
曹洞宗の得度作法は、第二次世界大戦後の『昭和改訂曹洞宗行持軌範』以降に、全宗派で統一された。無論、江戸時代には面山瑞方禅師が『永平祖師得度略作法』を刊行しているし、類似の刊行物は複数存在していたようである。明治時代になると、当時の曹洞宗務局からは『明治校訂洞上行持軌範』が公的な作法書として刊行されるに至り、また、民間の出版社からも、「回向集」の体裁で作法書が複数刊行された。しかし、それらには得度作法が入ることはなかった。やはり、授戒を含む同作法は、室内で伝授される扱いだったのであろう。ところで、明治時代に宗政や宗学振興に尽力された来馬琢道老師の『禅門宝鑑』(鴻盟社・明治44年)には、得度作法が記されている。そうなると、理想論としては室内で伝授されるべき作法だが、それが契わない宗侶にとっては、『禅門宝鑑』の...来馬琢道老師『禅門宝鑑』に見る得度作法について
5月30日 青森県の旅は出足好調。今日も楽しみに出発!! 士号 🚙 今日は、弘前市内からスタート ♪♪最初に訪れたのは、『弾林街(ぜんりんがい)』です。『長勝…