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以前、【「招宝七郎大権修理菩薩」異聞】という記事でも、末尾で臨済宗・無著道忠禅師の御見解を引用したのだが、以下のように示されている。忠曰く、右手、額に加え、遠望の勢と為すの像、是れなり。大唐阿育王山の護法神なり。修利、或いは謬りて修理と作すは非なり。『禅林象器箋』巻19「大権修利菩薩」項以上のように、無著禅師は「大権修利菩薩」が正しいとしていて、「修理」を否定している。それでは、曹洞宗ではどのように記載されることが一般的なのだろうか?そこで、少しく資料などを渉猟してみた。すると、以下の結果となった。まず、毎朝曹洞宗の朝課、特に「仏殿諷経」での回向文は、以下のようになっている。上来、妙法蓮華経観世音菩薩普門品・大悲心陀羅尼・消災妙吉祥陀羅尼を諷誦す、集むる所の功徳は、大恩教主本師釈迦牟尼仏(現座道場本尊云々...「招宝七郎」は「大権修利菩薩」か?「大権修理菩薩」か?