蘆菴(ろあん)二階建ての茶室で、階下は七畳、西側に床を構え、二方に縁がついています。階上は主室四畳半に、台目三畳の次の間があります。主室北側を板敷きとし、中央に赤松の曲木を立てて、左を床とし、右脇には二重棚があります。二方肘掛け窓からは、眺望を楽しむことができる煎茶席です。「盧庵」は、江戸時代の文書では、「露庵」と書かれており、中国・唐代末(9〜10世紀)の禅僧・雲門文堰(うんもんぶんえん)の言行録...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
蘆菴(ろあん)二階建ての茶室で、階下は七畳、西側に床を構え、二方に縁がついています。階上は主室四畳半に、台目三畳の次の間があります。主室北側を板敷きとし、中央に赤松の曲木を立てて、左を床とし、右脇には二重棚があります。二方肘掛け窓からは、眺望を楽しむことができる煎茶席です。「盧庵」は、江戸時代の文書では、「露庵」と書かれており、中国・唐代末(9〜10世紀)の禅僧・雲門文堰(うんもんぶんえん)の言行録...
京都市下京区の渉成園は、「お東さん」と京都市民に親しまれている東本願寺の庭園で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸とも呼ばれています。1641年、徳川家光によって現在の土地が寄進され、、1653年、本願寺第13代宣如上人の願いによって石川丈山が作庭。江戸時代の二度にわたる大火により建物はすべて類焼しましたが、明治初期に復興されました。四季折々の風情を楽しむことができ、国の名勝にも指定されてい...
藤原氏の氏寺である奈良の興福寺は、天智天皇8年(669)藤原鎌足の夫人鏡女王(かがみのおおきみ)が、山城国山階(京都市山科区)に山階寺(やましなでら)を創建したのに始まり。天武天皇元年(672)大和国高市郡厩坂(うまやさか)(奈良県橿原市)の地に移して厩坂寺と呼ばれました。和銅3年(710)、平城遷都の際、藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。その後は、天皇家や藤原氏の手によって次...
地域タグ:奈良市
大沢池の池の周りを歩いて行きます。紀友則詠碑「ひともとと おもひし菊をおほさわの 池のそこにもたれかうえけん」大沢池と菊島名古曽橋心経宝塔昭和42年(1967)、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立されました。基壇内部に「如意宝珠」を納めた真珠の小塔を安置、宝塔内部には秘鍵(弘法)大師尊像を祀っています。名古曽の滝跡名古曽の滝は離宮嵯峨院にあった滝殿庭園内に設けられたもので、『今昔物語』では百済川成が作庭し...
地域タグ:京都市
大覚寺の東に位置する大沢池は、唐の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したもので、庭湖とも呼ばれます。池のほとりには、茶室望雲亭、心経宝塔、石仏、名古曽の滝跡があり、平安時代前期の名残をとどめる周囲約1kmの日本最古の人工の庭池とされています。「名古曽滝跡」とともに国の名勝に指定されており、毎年、中秋の名月の頃、「観月の夕べ」が催され、大沢池に竜頭船や鷁首船での遊覧が楽しめます。春は桜の名所でもあり、池の周...
地域タグ:京都市
多宝塔からさらに上に上がっていくと、見晴らしの良い所に出ます。「近江八景 石山の秋月」で描かれており、瀬田川の光景を眼下に望むことができます。月見亭保元年間、後白河上皇の行幸のために建てられたといわれています。光堂平成20年(2008年)石山を発祥の地とする東レ(株)によって寄進されました。本堂と同様懸造りになっています。光堂の周りでは、早咲きの桜に出会えました。紫式部の像源氏苑の一角にあります。紫式部は、...
地域タグ:大津市
三十八所権現社本堂のすぐ東側にある鎮守社で、現存する文献などから慶長7年(1602年)に淀殿により再建されたものと考えられています。祭神は、神武天皇から天智天皇までの38代の歴代天皇。経蔵石山寺一切経や校倉聖教などの文化財を収容してきた校倉造の建物。屋根は瓦葺で、校倉造では珍しい切妻造となっています。紫式部供養塔石山寺で『源氏物語』を起筆した紫式部の供養塔。鎌倉時代に作られた石造の宝篋印塔で、その傘が三...
地域タグ:大津市
石山寺の本堂へと続く階段を上っていきます。本堂正堂と礼堂が幅一間の相の間で繋がれていて、礼堂は急な斜面に造られているため、懸崖造になっています。懸崖造で有名なのは、京都の清水寺の本堂ですね。正堂は、承暦2年(1078年)に半焼した後、永長元年(1096年)に再建され、礼堂は、慶長7年(1602年)淀殿の寄進によって建てられました。本堂にある「源氏の間」は、紫式部が『源氏物語』の構想を練り、書き始めた場所と伝えられてい...
地域タグ:大津市
平安時代の人々は、霊験あらたかな石山寺の観音様に会いに行くのが大きな楽しみでした。藤原道綱母もその一人で、『蜻蛉日記』には朝早く都を出て、逢坂(おうさか)の関を越えて近江に入り、打出浜から舟で琵琶湖から瀬田川へ進み、夕方頃に石山寺に入ったと記されています。まさに一日がかりの石山詣だったようです。逢坂の関打出浜大河ドラマ館を出て、境内を散策していきます。明王院の前には、比良明神影向石があります。ここ...
地域タグ:大津市
石山寺では、「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」と「源氏物語 恋するもののあはれ展」の2つの展示を見学できます。明王院では、「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」を開催中。ドラマに登場する衣装や小道具、撮影の裏側を知ることができるパネルなどを展示。まひろとききょうのフォトスポット「光る君へ」の台本 まひろが書き写した後撰和歌集キャスト・スタッフのインタビューなどの映像を4Kシアターで上映。世尊院では、...
地域タグ:大津市
京阪石山寺駅から瀬田川沿いを歩くこと10分。石山寺の東大門に着く直前に「朗澄大徳ゆかりの庭園」があります。朗澄律師大徳は「石山寺中興の祖」と言われた名僧で、自分の死後は鬼となって石山寺の経典と聖教を守ると誓い、弟子の前に金色の鬼となって現れました。石に刻まれた鬼は、石山寺縁起絵巻に描かれた死後の朗澄律師の姿なのだそう。この庭園を過ぎるとすぐに石山寺東大門があります。東大門仁王門、山門、総門とよばれる...
地域タグ:大津市
京阪石山駅から石山寺駅に向かう際、京阪電車の「光る君へ」ラッピング列車に乗車出来ました!側面に紫式部(まひろ)役の吉高由里子さんの姿が見られます。現在のまひろとは衣装もメイクも変わり、よりお美しいですね。つり革も紫電車内も「光る君へ」仕様となっていました。石山寺駅に着くと、駅自体も紫式部ワールドになっています。駅前には、源氏物語のレリーフがあります。ここから石山寺に向かって歩いて行きます。郵便局のポ...
地域タグ:大津市
楼門寛永5年(1628年)の建立。玉橋楼門と玉橋片岡橋片山御子神社は、上賀茂神社の境内にある24社ある摂末社の中で第1摂社に定められる神社(通称「片岡社」)で、賀茂別雷大神の母である「玉依比売命(たまよりひめのみこと)」をお祀りしている神社です。 縁結びの社として女性に人気があります。屋根には二葉葵のご心紋が見えます。紫式部も参拝したと伝わり、片岡社について「ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに ...
地域タグ:京都市
藤原道綱母の書いた『蜻蛉日記』には、夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についてのの記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦...
地域タグ:宇治市
京都市東山区にある大将軍神社は、素盞嗚尊を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀る神社です。この辺りに、藤原兼家の東三条殿はこの周辺にあったといわれています。藤原兼家平安中期の公卿。右大臣師輔の三男。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。968年(安和1)兄兼通を越えて従三位に昇り,翌年蔵人頭を兼ねたまま中納言に進んだ。左大臣源高明が失脚した安和の変が起きたのはその1ヵ月後で,兼家もこれに重要な役割を果たしたものと思...
地域タグ:京都市
皇室との関係が深いことから御寺と呼ばれる泉涌寺。創建については、伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創したという説、空海が天長年間(824年-834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものという説などがあり、伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後...
地域タグ:京都市
新京極にある誓願寺は、清少納言、和泉式部、松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として名高いお寺です。飛鳥時代、天智天皇 6年(667)、天皇の勅願により奈良に創建されました。鎌倉時代に奈良から一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、天正19年(1591)、秀吉の命により現在の地に移転し、慶長2年(1597)、秀吉の側室・松の丸殿(京極竜子)の援助によって伽藍の再興が完了しました。清少納言も和泉...
地域タグ:京都市
今年も京都の桜を見に出かけて来ました。早咲きの枝垂れ桜を求めて、京都御苑を訪ねました。京都御苑の北西、旧近衛邸の跡地にある近衛邸跡の枝垂桜が見頃を迎えていました。近衛邸跡の枝垂桜は糸桜と呼ばれています。近衛家は、藤原北家嫡流であり、公家の五摂家筆頭で、華族の公爵家のひとつ。藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖基実の殿第に由来するが,また近衛大路に面する宮門号にちなんで陽明ともいう。平安時代初...
地域タグ:京都市
奈良市春日野町に鎮座する春日大社の起源は、平城京に遷都された和銅3年(710年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説、768年(神護景雲2)左大臣藤原永手が、氏社として春日山の主峰御蓋(みかさ)山の山麓に創建したのが始まりとする説があるようです。藤原氏と共に当社も隆盛し、平安時代初期には官祭が行われるようになりました。...
地域タグ:奈良市
烏丸松原上る東入因幡堂町にある平等寺は、因幡薬師の名で親しまれています。観音堂(本尊・十一面観音)は洛陽三十三所観音霊場第27番札所。《因幡堂縁起絵巻》によると,因幡の国司橘行平が海中から薬師像を感得し,帰洛後の1003年(長保5)邸内に安置したことに始まると伝わっています。重要文化財の本尊薬師如来は善光寺の阿弥陀如来、清涼寺の釈迦如来とともに三国伝来の日本三如来とされています。狂言《因幡堂》の舞台でも...
地域タグ:京都市
嵐山の山腹に位置する法輪寺の本尊の虚空蔵菩薩は「嵯峨の虚空蔵さん(さがのこくうぞうさん)」として親しまれ、陸奥国会津柳津の円蔵寺、伊勢国の朝熊山(あさまやま)の金剛證寺とともに「日本三大虚空蔵」と称されています。『今昔物語集』・『枕草子』・『平家物語』などに登場し、知恵、芸事の上達、丑年・寅年生まれの守り本尊として信仰を集めています。また「十三まいり」や「針供養」で有名なお寺です。京都で、陰暦三月...
地域タグ:京都市
光る君へ 宇治大河ドラマ館 ~都のたつみ 道長が築いたまち~(2)
4Kシアターでは、キャスト・スタッフのインタビューや宇治市内の史跡紹介のVTRが上映されています。宇治歴史展示では、道長が別荘を構えた平安時代中期の宇治の様子が解説されています。道長が暮らした屋敷十二単の重さの体験コーナーこちらで、十二単の重さを体験できます。実際羽織ってみましたが、かなり重かったです。あれでは肩が凝るでしょうね~お香の歴史歯黒め「歯黒め」は虫歯の予防にもなり、眉を全部抜いて眉墨を引く...
光る君へ 宇治大河ドラマ館 ~都のたつみ 道長が築いたまち~(1)
宇治のお茶と宇治のまち交流館「茶づな」にオープンした「光る君へ 宇治大河ドラマ館 」に行って来ました。アクセスは、京阪電車宇治線「宇治駅」より徒歩4分、JR奈良線「宇治駅」より徒歩12分京阪からならすぐですが、JRからだとちょっとした散歩になります。こちらがエントランスです。入場券は、入口を入って右側にある券売機で購入します。前売り券でなくても、JAF会員証の提示で100円引きになり、400円で入場できました。吉高...
地域タグ:宇治市
京都御苑内の南西に位置する宗像神社は、延暦14年(795)藤原冬嗣が桓武天皇の勅命を受け、皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請したのが起源といわれています。藤原北家の流れを汲む花山院家の邸内に祀られ、皇居守護の神様として信仰されました。 本社は、宗像三女神、即ち多紀理姫命、市岐嶋姫命、多岐津姫命を主祭神として祀る。宗像三女神は別名『道主貴』といい、これは全ての道を司る神の尊称である。道の神、また海の神として...
地域タグ:京都市
2022年、清浄華院に、法成寺の痕跡と思われる巨大な礎石が納められたと聞いて、訪ねてみました。摂関政治の最盛期を築き、権力の絶頂にあった藤原道長は、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」の有名な望月の歌を詠んだ翌年の寛仁3年(1019年)3月、病となり剃髪して出家。自邸「土御門殿」のすぐ東に、法成寺の造営を始めました。法成寺推定地出土「礎石」平安時代、天皇を凌ぐほどの権勢を誇った貴...
地域タグ:京都市
ここで、一旦京都御苑を出て、寺町通を南に進み、荒神口通に入ると、鴨折高校グランド前に「法成寺跡」の碑があります。法成寺(ほうじょうじ)は、平安時代中期に藤原道長によって創建された寺院です。京極御堂とも称され、道長の異称「御堂殿」「御堂関白」やその子孫御堂流の由来ともなりました。 法成寺跡 寛仁3(1019)年、出家した藤原道長は自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願...
地域タグ:京都市
現在の京都御苑の仙洞・大宮御所の北側には、藤原道長の邸宅・土御門第がありました。平安時代のこの辺りは、公家の屋敷や寺院が建つ土地で、東側には紫式部の邸宅跡・廬山寺、その南の鴨沂高校の辺りには、道長が創建した法成寺もありました。寛仁2(1018)年10月16日、道長の「御堂関白記」に和歌を詠んだ記載があり、その歌は藤原実資の日記「小右記」の同じ日に記されており、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもな...
地域タグ:京都市
京都御苑の枇杷殿(びわどの)は、藤原仲平の屋敷跡です。左京一条にある枇杷第を伝領し、邸内に枇杷が植えられていたことから、枇杷殿、枇杷左大臣などと呼ばれていました。枇杷殿跡(びわどのあと)このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経から三男仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。1002(長保4)年以降、藤原道長と二女姸子(けんし)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折...
地域タグ:京都市
京都御苑の北東、迎賓館の東側に「染殿井」があります。この付近は、藤原良房の邸があった場所といわれています。藤原 良房(ふじわら の よしふさ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の次男。官位は従一位・摂政太政大臣、贈正一位。染殿、白河殿と称される。諡は忠仁公 、国封は美濃公。皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫た...
地域タグ:京都市
平安京史跡を追って歩いていたら、黒田如水邸址の前を通りかかったので、今日は黒田官兵衛についての記事です。黒田 孝高(くろだ よしたか)は、播磨国の姫路生まれで戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・軍師。キリシタン大名でもありました(洗礼名はドン・シメオン)。通称は官兵衛。剃髪後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)としても広く知られています。一族は、播磨守護赤松氏や小寺氏に仕え、初め小寺姓を名乗...
地域タグ:京都市
一条戻り橋から東へ90m。南北に伸びる道を小町通といいます。一条通堀川東入二筋目西北角に「小野小町双紙洗水遺跡」の石碑があります。かなり背の低い石碑な上、植木に隠れていたので、場所がわからず、何度も通り過ぎてしまいまました(..;)正面には「小町通」、側面に「小野小町双紙洗水遺跡」の文字が刻まれています。かつてこの地で、小野小町と大伴黒主との歌合せが行われました。狩野探幽『三十六歌仙額』対戦相手の大友黒主...
地域タグ:京都市
京都市中京区の頂法寺は、本堂の形が六角形であることから六角堂と呼ばれています。聖徳太子の創建と伝わりますが、その名が現れるのは平安中期以降で、藤原道長の日記『御堂関白記』に「六角小路」の表記があり、藤原実資の『小右記』にも六角堂への参詣が何度か登場します。六角堂京都市中京区にある天台宗の寺。本堂が六角形なので六角堂と通称されるが,正称は紫雲山頂法(ちようほう)寺。西国三十三所観音霊場の第18番札所。...
地域タグ:京都市
平野神社の桜花祭の起源は、花山天皇が後胤繁栄(こういんはんえい)を祈るため、平野神社へ行幸、臨時の勅祭を行われたことが起源と言われています。毎年4月10日に行われ、午前10時より桜花祭、午前11時に花山天皇陵に参拝し、午前12時に神幸列発輿祭が斎行され、午後1時に約200名の時代行列が氏子地域を巡行します。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日...
平野神社に珍種が多いのは、臣籍降下した氏族の氏神でもあったことから、蘇り、生産繁栄を願い各公家伝来の家の標となる桜を奉納したからと伝えられています。現在では、約60種400本の桜の木があり、約一カ月にわたって桜を順々に観賞することが出来ます。おけさ一葉衣笠寒羽根桜胡蝶大内山白雲白妙八重紅枝垂平野妹背(ひらのいもせ)有明緑桜鬱金にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします...
地域タグ:京都市
毎年、春になると、桜で有名な京都の平野神社を訪ねます。桜は生命力を高める象徴として、平野神社では平安時代より植樹されました。花山天皇が寛和元年(985年)に手植えして以来の桜の名所とされています。江戸時代には「平野の夜桜」として知られました。魁(さきがけ)桜平野神社発祥の桜で早咲きの品種であることから、この桜が咲き出すと都のお花見が始まると言われています。平野神社は794年(延暦13年)、平安遷都の際桓武...
地域タグ:京都市
京都市山科区北花山河原町にある元慶寺は、貞観10年(868年)に貞明親王(陽成天皇)を産んだ藤原高子の発願により、定額寺として建立されました。開山は六歌仙の一人である僧正遍昭。山門元慶元年(877年)に陽成天皇の勅願寺となり、元慶寺と改めたとされています。本堂寛和2年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位につくという寛和の変が起こ...
地域タグ:京都市
晴明神社の本殿安倍晴明が祀られています。現在の本殿は、明治38年に建てられたもので、晴明桔梗が随所にあしらわれています。境内社 齋(いつき)稲荷社、天満社、地主社晴明は、お稲荷さまの生まれ変わりとする説があり、各地で稲荷信仰と習合されます。齋(いつき)は、このお稲荷さまが、齋院(さいいん)にあったことに由来します。厄除桃古来、中国また陰陽道では、桃は魔除け・厄除けの果物といわれ、『古事記』や『日本書紀...
地域タグ:京都市
晴明神社の二の鳥居四神門(しじんもん)は、晴明神社の塀重門です。晴明が住んでいた当時、朝廷の使いなどが訪れると、この門がひとりでに開き、門から出るとまたひとりでに閉まったそうです。現在でも、それにちなみ、電動で開閉します。石柱の上には、四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)が掲げられています。千利休の聚楽屋敷趾江戸時代の茶書によると、当社の境内に当たる「葭屋町通元誓願寺下ル町」に、千利休の...
地域タグ:京都市
京都市上京区晴明町にある晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明をお祀する神社です。一条戻橋のたもとにあった晴明の屋敷跡に鎮座しています。寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなると、一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、晴明の屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、か...
地域タグ:京都市
梨木神社の境内は、平安時代は藤原良房の娘染殿后の里御所・染殿第でしたが、明治18年(1885)久邇宮朝彦親王の発議により、三条家の邸宅跡に三条実万を祀るため社殿が造営されました。1885年(明治18年)10月10日、社号は地名から梨木神社とされ、さらに別格官幣社の列格を受けて創建され、その後1915年(大正4年)、大正天皇即位を記念して、子の三条実美を合祀しました。三条実美(さんじょうさねとみ)幕末~明治前期の尊攘派公...
鳥辺野(とりべの)は、京都市東山区の阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)を中心に西方に広がる山麓一帯を指します。北辺は清水寺南、西大谷を含む辺りから、南辺の今熊野観音寺北、一条天皇皇后定子陵のある鳥戸野陵に至る地域を総称し、鳥部野、鳥戸野とも。平安時代以来、葬送の地として『源氏物語』や『徒然草』に登場し、藤原道長をはじめ、藤原一族も同地で荼毘に付されたといいます。藤原道長『紫式部日記絵巻』より「東の鳥辺野」、「西...
地域タグ:京都市
東寺の西側に残る羅城門跡です。現在は、小さな公園となっており、その中に石碑が立っています。 794年(延暦13)に建設した平安京の正門に当たります。 当時は、東西4.5キロ、南北5.3キロの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していたそうです。門は正面33メートル、奥行8メートル。以前、ここを訪れた時は、 「この地は平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通にあたる)と九条通の交差点にあた...
地域タグ:京都市
二条駅から徒歩5分ほどのところに、平安宮の朱雀門跡の碑と案内板があります。平安宮 朱雀門跡朱雀門(すざくもん)は、平安宮(大内裏)の南面大垣中央に設けられた宮城門である。柱間は7間(梁間2間)、中央5間に扉が付く二階門で、宮城12門の中でも最も規模が大きい。朱雀大路に面する平安宮の正門であり、南は平安京の朱雀大路南端にあった羅城門、北は宮城内の応天門や大極殿と一直線上に並んでいる。平安時代の終わりころ頃に描...
地域タグ:京都市
木之本の大澤寺から観音寺へ。通称「黒田観音寺」と呼ばれ、本尊は平安時代初期に行基によって作られたと伝わる木像千手観世音菩薩です。(最澄の作という伝承もあります。)そのお姿には、准胝観音の特徴が見られます。一時期は荒廃しましたが、この観音様を見た高僧がお堂の修復に力を貸し、この地の豪族・黒田家の祖先が多額の浄財を寄進し、観音寺は復興されました。境内にある二基の石塔は、黒田家の祖先・宗清の墓であると言...
地域タグ:長浜市
木ノ本の樹徳寺には、黒田氏歴代の墓石と、黒田官兵衛の肖像画の掛け軸が収められています。樹徳寺は、もともとは木之本町黒田地区にあり、官兵衛の祖先といわれている黒田氏が黒田に居住していた頃の菩提寺でした。明治11年に黒田から田居集落に移り、昭和33年に本堂が建てられていました。黒田氏歴代の墓石官兵衛の衣冠束帯姿の肖像画としては日本に唯一のものだそうです。(木之本地蔵院の書院に展示されていたパネルを撮影した...
地域タグ:長浜市
木之本駅から歩いて約5分の浄信寺は、通称「木之本地蔵院」と呼ばれています。本尊は地蔵菩薩(秘仏)。境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされ、眼の地蔵菩薩として信仰を集めています。地蔵菩薩大銅像身代わり蛙片目をつぶった蛙がずらり・・・天武天皇の時代、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりで...
地域タグ:長浜市
美福通リの朱雀高校の塀に平安宮式部省跡の案内板があります。式部省は平安宮(大内裏)の正門である朱雀門を入ったすぐ東側にあって、西側の対象位置には、武官の人事を担当する兵部省がある。国家の重要な省庁である八省(中務・式部・治部・大蔵・刑部・宮内・兵部・民部の各省)の1つで、政務や事務を担当する文官の人事を担当する重要な役所であった。文官の養成、勤務評価、賞罰のほか、朝廷内での儀式を監督することから、長官...
地域タグ:京都市
JR二条駅から徒歩5分、中京区西ノ京北聖町にある大学寮跡。大学寮(だいがくりょう)は、式部省に所属した官僚育成のために設けられた高等教育機関です。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行いました。日本古代の令制官司の一つ。天智朝にその起源があり,大宝令によって確立した。大学とは律令制の最高の学校であり,また官人の養成機関であった。式部省の管轄下にあり,その事務官...
名和児童公園の前に一条院跡の碑があります。一条院跡は、もと藤原伊尹(これただ)の邸宅で、その異母弟為光から藤原詮子に伝えられ、のち一条天皇・後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の里内裏となりました。紫式部が仕えた中宮彰子が住んだとされる一条天皇の里内裏であり、紫式部が「紫式部日記」に書いている内裏は、この一条院内裏を指しているそうです。一条院は、平安宮の北東に隣接した邸宅で、一条天皇の里内裏として有...
一条通沿いの民家の前に、平安京一条大路跡の案内板があります。一条通(いちじょうどおり)は京都市の主要な東西の通りの一つ。平安京の一条大路(いちじょうおおじ)にあたる。東端は烏丸通。西は右京区花園付近までだが、さらに西に延長して嵯峨野の清凉寺(嵯峨釈迦堂)までを一条通と呼ぶこともある。また宇多野で分岐して周山街道にも通じている。(Wikipediaより) 平安京北端の一条大路は、北極大路の名もあり、道幅は10丈...
地域タグ:京都市
上京区大黒町の猪熊通に平安創始待賢門跡の碑があります。待賢門(たいけんもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。左衛門府が警固を担当した。平城宮跡 建部門大内裏の東面、郁芳門の北、陽明門の南。大宮大路に面し、中御門大路に向かう。大きさは5間、戸3間だった。延暦13年(794年)、宮城経営のとき播磨国が造営し、建部氏がこれを監したことがその名称の由来(たけるべ → たいけん)。当初は「建部門」といった...
地域タグ:京都市
平安京の内裏跡(20)平安宮内裏凝華舎(梅壺)跡・飛香舎(藤壺)跡
土屋町通に平安宮内裏凝華舎(ぎょうかしゃ)(梅壺)跡・飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)跡の案内板があります。内裏の後宮七殿五舎の一つ。南庭(壺)に紅白の梅を植えていたので梅壺と呼ばれた。東宮(皇太子)の居所に使われたこともある。 母屋は東西五間、南北二間で四方に庇、東西は孫庇を持ち、周囲は簀子(すのこ)がめぐっていた。 梅壺女御としては円融天皇妃で一条天皇生母の藤原詮子(東三条院、藤原道長の姉)が有名。『源氏...
地域タグ:京都市
京都市中京区押小路通釜座西北角に「東三条院址」の碑があります。 東三条院とも。藤原良房の邸宅に始まり、忠平を経て藤原兼家へ伝えられました。入内した娘たちの里邸となり、親王の養育も行われ、里内裏としても用いられました。 兼家のあと藤原詮子(東三条院詮子)を経て藤原道長が所有し、道長から頼通へ伝えられました。 その後、焼失・再建を繰り返しながら藤原氏代々の氏長者に伝わり、立后・大饗などの儀式もここで行わ...
地域タグ:京都市
周防国衙跡は、周防国の行政を司る役所(国府)が置かれたところです。佐波神社を参拝した後、偶然、周防国衙跡西北隅の前を通り掛かったので撮影しました。周防国衙跡(すおうこくがあと)は、山口県防府市国衙1 - 3・5丁目、警固町2丁目、勝間3丁目ほかに所在する、律令制下の地方行政関連施設跡である。1937年(昭和12年)6月1日に国の史跡に指定される。発掘調査は1961年(昭和36年) - 1964年(昭和39年)を第1次調査として、...
地域タグ:防府市
春風楼文政5年(1822)10代藩主・毛利斎煕は、五重塔の建立を発願し、地鎮供養の祈祷、釿始めの儀も済ませたのですが、天保2年(1831)不慮の支障に遭い、一時工事を中止します。天保10年(1839)工事を再開しますが、幕末の混乱で、五重塔は未建のままに幻の塔となり、明治の廃藩に至りました。明治6年(1873)に天満宮は塔の設計を断念し、文政着工の当時に造作した塔の一層部分軒下の組物をそのまま床下に組み入れた楼閣様式重層のお籠...
地域タグ:防府市
現存する防府天満宮の社殿は昭和27年(1952)に火災で焼失した後に再建されたもので、本殿・幣殿・拝殿は、昭和30年から33年にかけての建築です。木造、銅板葺。LOVE神社の石碑大病に冒された市内在住のご夫妻が、元気に回復した感謝の気持ちを込めて、平成十九年に奉納。宝物館では、企画展「楫取素彦と天満宮」が開催されていました。菅公廟の碑野村望東尼の像と歌碑 野村望東尼の像野村望東尼献歌碑 にほんブログ村 歴史ブログ...
地域タグ:防府市
清少納言の父親は、三十六歌仙の一人、清原元輔(きよはらのもとすけ)です。清原元輔(狩野安信『三十六歌仙額』)清少納言という名前は、宮中での女房名で、「清」は父親の清原姓に由来するとされています。天延2年(974年)元輔は周防守に任ぜられ、平安京から現在の山口県防府(ほうふ)市に移ってきました。清少納言も父とともにやって来て、少女時代を防府で過ごしたといわれています。防府天満宮は、学問の神様、菅原道真公...
地域タグ:防府市
ここから鞍馬寺の奥の院の参道に入っていきます。義経息次ぎの水は、牛若丸が天狗に兵法を習うために深夜、独りで奥の院道を急ぎ、途中で息つぎのために湧水を飲んだ場所とされています。義経息次ぎの水牛若丸が、毎夜奥の院僧正が谷へ剣術の修行に通ったとき、この清水を汲んで喉を潤したといわれる。800余年後の今も湧き続けている。義経背比べ石平家が父の仇であることを知った牛若は奥州平泉の藤原秀衡を頼って鞍馬寺を出奔。...
地域タグ:京都市
鞍馬寺は、『源氏物語』の第五帖「若紫」で、光源氏が若紫(後の妻・紫の上)と出会った北山の“なにがし寺”とされています。若紫(わかむらさき)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第5帖。巻名は、一般的には「この巻で幼い日の紫の上を描いていることからこの巻を若紫と呼ぶ」とされるが、「若紫」という言葉そのものは含んでいないものの、光源氏の歌「手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野辺の若草」によるとさ...
地域タグ:京都市
紅葉がデザインされたラッピング電車に乗って、紅葉で賑わう洛北の地鞍馬へ。鞍馬駅待合室内には、京都三大奇祭のひとつ「鞍馬の火祭」で使用されている中松明(ちゅうたいまつ)が展示されています。長さ3.5m、重さ60キロとはかなり長くて重いのですね( ゚Д゚)鞍馬といえば、天狗2019年10月18日、叡山電鉄鞍馬駅前に2代目となる大天狗の像が叡山電鉄の開通90周年を機に登場しました。顔の大きさは縦1.8メートル、横1.6メートル。鼻...
地域タグ:京都市
桜宮神社の鳥居の横に平安宮采女町跡(うねめまちあと)の案内板があります。 平安宮采女町跡 天皇の居所である内裏の西北にあった采女町は、主に天皇の食膳の給仕を職掌とした女官が伺候する所で、西隣には天皇の食膳を調理をする内膳司がった。采女の制度は、古墳時代後期頃、地方豪族が朝廷への服属の証として自らの子女を出仕させたことに始まり、7世紀の律令制の確立によって采女の身分や法的な整備がなされた。 平安時代に...
地域タグ:京都市
平安京の内裏跡(18)平安宮内裏蘭林坊跡・聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡
平安京大内裏の蘭林坊(らんりんぼう)があったところ(上京区土屋町通出水上る東側)は、豊臣秀吉の聚楽第があった時代には、豊臣秀勝の邸宅があったと推定されています。蘭林坊とは、平安京内裏の北西部、朔平門と式乾門との間にある建物です。宮中の御物、御書などを納める所で、内に御書所・絵所が置かれていました。聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地このあたり一帯は、古代において、平安京大内裏(平安宮)のうち、天皇の住まいだ...
地域タグ:京都市
出水通の「体験工房 雄彩」の前に、平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡の案内板があります。淑景舎(しげいしゃ・しげいさ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。庭に桐が植えてあることから桐壺(きりつぼ)の別名がある。内裏の北東に位置し、南北二棟がある。(北は淑景北舎) 宣耀殿の東、昭陽舎の北。天皇の住まう清涼殿から最も遠い位置にあり、また、清涼殿に向かう際もほかの殿舎の前を通る渡り廊下を通らねばならないなど...
地域タグ:京都市
雅楽は、5世紀から9世紀にかけ、大陸からもたらされた楽器演奏と舞に日本古来の歌や舞が融合して、平安時代に完成したといいます。管楽器、打楽器、弦楽器で編成され、貴族たちの優雅な遊びとして、合奏する様子が源氏物語にも描かれています。(「光る君へ」紀行より)京都においては、市比賣神社の宮司故飛騨邦冨(ひだくにとみ)氏が雅楽を教え始め、文化的遺産として雅楽を研究し、継承を始めました。「いちひめ雅楽会」は、雅...
地域タグ:浜松市
京都市下京区河原町五条に鎮座する市比賣(いちひめ)神社は、当社のご創建は、桓武天皇の御代延暦14年(795)に、京都の左右両市場の守護神として、当時の左大臣・藤原冬嗣が両市社領内の堀川の西、七条の北(現在の西本願寺)に坊弐町をかこい、勅を奉じて勧請された社と伝わります。天正19年(1591)豊臣秀吉の時代、現在の地に移転鎮座されました。 祭神として、市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)・多紀理比賣(たぎりひ...
地域タグ:京都市
京都の一条戻橋から東へ50mほど行ったところに、聚楽城 加藤清正邸の案内板があります。当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたり、「蜻蛉日記」の著者・藤原道綱母が住まいした平安時代の一条邸跡とされています。藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)平安中期の歌人。父は正四位下藤原倫寧(ともやす)、母は『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』などに刑部大輔(ぎょうぶのだいぶ)源認(みとむ)の女(むすめ)とするが、通説は主殿頭(との...
地域タグ:京都市
清涼殿跡の向かい側に、平安宮内裏弘徽殿跡の碑があります。弘徽殿(こきでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つであり、弘徽殿を賜った后妃の称としても使われます。清涼殿北側に位置する七間四面の建物で後宮で最も格の高い殿舎であった。皇后・中宮・女御などが居住した。天徳4年(960年)の火災で焼失し、河内国司によって再建された。しかし正暦5年(994年)と長保元年(999年)にも焼失している[1]。再建後、弘徽...
地域タグ:京都市
承香殿跡から30mほど西に行くと、平安宮内裏清涼殿跡の案内板があります。平安京の内裏のうち,天皇の日常の居所。南東に紫宸殿,南に校書 (きょうしょ) 殿,東に仁寿殿 (じじゅうでん) がある。東面して建てられ,天皇の日中の御座所である昼御座 (ひのおまし) や寝所の夜御殿 (よるのおとど) ,朝餉 (あさがれい) の間などがある。天皇は清涼殿で,四方拝,小朝拝,叙位,除目 (じもく) などの公事を行なった。(コトバンクより)...
地域タグ:京都市
上京区田中町の新出水通沿いに平安宮内裏承香殿跡があります。承香殿(じょうきょうでん/しょうきょうでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。七殿の中では弘徽殿についで格式の高い殿舎とされ、女御などが居住し、また醍醐天皇の時代に古今集が編纂された。内裏の南辺に位置し、仁寿殿の北、清涼殿の北東。中央を馬道が通り、身舎を東西に二分していた。承香殿を賜っていたのが知られるのは、以下の后妃である。村上...
地域タグ:京都市
平安宮内裏承明門跡をさらに東に進むと、山中油店の敷地内に平安宮一本御書所跡の碑と平安宮内裏跡の案内板があります。一本御書所とは、 平安時代、世上に流布している書籍を、別に一本を書写して所蔵しておく役所のことで、禁中侍従所の南にありました。※以前撮影した時より、駒札がかなり劣化して読みにくくなっていますので、過去の画像を掲載します。平安宮一本御書所跡平安時代、この附近は天皇の住まいである内裏の東側に当...
地域タグ:京都市
藤原の郷の中心部には、「陰陽師」のセットで登場した政庁があります。政庁(せいちょう)正殿を中心に左右対称の建物を配置。政治や重要な儀式が執り行われていました。その脇には「義経」の京の町で登場する通りがあります。政庁を出て、少し山の方に上ると義経持仏堂や安宅関があります。義経持仏堂藤原氏初代の藤原清衡の居住館を再現した経清館(つねきよのやかた)にも経清のろう人形があります。経清館山を降りて伽羅御所(...
地域タグ:奥州市
えさし藤原の郷は岩手県奥州市江刺にある平安時代を題材とするテーマパークで、1993年(平成5年)7月4日、開園、同年に放送されたNHK大河ドラマ第32作・『炎立つ(ほむらたつ)』の撮影の為に作られた大規模オープンセットで、撮影終了後も存続できるような歴史公園として整備されました。NHK大河ドラマのロケ地として知られ、奥州藤原氏の歴史を顕彰しながら、古代から中世にかけての東北の歴史文化を体感できます。私は大河ドラ...
地域タグ:奥州市
智恵光院下立売を北に行った東側のデイサービスセンターの敷地内に「平安宮内酒殿跡」の案内板があります。平安宮は平安時代に政治や儀式などが行われた所で、東西378丈(約1128m)、南北460丈(約1373m)の広大な地域に宮殿や役所が建ち並び、中央部には大極殿(現千本丸太町付近)が、北東部には天皇の居住した内裏がありました。現在地点は内裏の東側にあたります。1996年5月、この場所で平安宮跡初の井戸...
地域タグ:京都市
平安京の内裏跡(11)平安宮内裏東限と建春門跡~聚楽第南外濠跡
新出水通の松林寺の山門の前に平安宮内裏東限と建春門跡の案内板と聚楽第南外濠跡の碑があります。松林寺開基清印が重病の母の回復を祈願すると薬師如来が現われ、婦人病や安産に効験あらたかな秘薬の処方を伝授されたという話に由来する。戦前、寺で薬が売られた。寺は聚楽第の外堀跡と推定される。(京都観光Naviより)松林寺境内の西域は、『源氏物語』の舞台ともなった内裏の東限に当たり、内裏にある四つの門のうち東側の外郭築...
地域タグ:京都市
綾綺殿跡から北に浄福寺通を進んで新出水通に向かい、右折すると、平安宮内裏昭陽舎跡があります。昭陽舎(しょうようしゃ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。女御などが居住した。また、円融天皇が東宮時代に居住したとの記録が残り(『日本紀略』)、その後東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)の頃東宮御所として定着した。庭に梨が植えられていたところから、梨壺(なしつぼ)ともいう。内裏の北東に位置し、南北二棟...
地域タグ:京都市
宜陽殿跡からさらに北上すると、平安宮内裏綾綺殿跡の碑があります。綾綺殿は、南北9間、東西2間からなり、内宴や妓女の舞などが行われました。平安宮内裏(だいり)の殿舎の名。仁寿(じじゅう)殿の東、温明(うんめい)殿の西にある。檜皮葺(ひわだぶ)きで、南北九間、東西二間の母屋(もや)の四面に庇(ひさし)がある西向きの建物。天皇・院の一時的な居所となることがあった。正月の内宴(ないえん)のときには仁寿殿との間の西庭に舞台...
地域タグ:京都市
承明門跡から浄福寺通を少し上ると、右手に平安宮内裏宜陽殿跡の碑があります。宜陽殿(ぎようでん)は、納殿(おさめどの)とも言われ、累代の重宝を納めたところです。 宜陽殿(ぎようでん)とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。内裏の南東にあり、紫宸殿の東南、綾綺殿の南、日華門を挟んで春興殿の北に位置する。南庭西側の校書殿とは東西に相対する。母屋は天皇累代の御物・宝物を保管しておく納殿として用いられた。西庇に...
地域タグ:京都市
上京区田中町下立売通浄福寺西に平安宮内裏紫宸殿跡の案内板があります。 内裏の正殿で公的な行事の場、中央の御帳台に天皇が出御して国家の重要な儀式が執り行われた。 御帳台の背面、北庇との間仕切りには賢聖障子(中国古代の名臣32名の肖像画)があった。 母屋は東西9間、南北3間で四方に庇があって周囲を簀子(すのこ)がめぐり、正面中央部の階段の左右には桜と橘が植えてあった。北の仁寿殿を北殿・後殿と呼ぶのに対して、...
地域タグ:京都市
平安宮内裏承明門跡から下立売通をさら西へ進むと、銭湯の向かい側に平安宮内裏内郭回廊跡の石碑があります。平安宮 内裏内郭回廊跡桓武天皇延暦13年(794)に遷都された平安京の中心をなす宮殿の一画は現在の千本丸太町一帯の地に置かれていた。そのうち天皇の住居であった内裏は、大極殿のあった千本丸太町東北方のこの地域に東西57丈(約173m)、南北72丈(約218m)の広さで造られていた。この内裏は厳重な築地回廊で囲まれて...
地域タグ:京都市
京都市上京区下立売通浄福寺に、平安宮内裏承明門跡の石碑があります。承明門は、平安宮内裏の内郭の南の正門に当たります。平安宮内裏の内郭の南の正門。《三代実録》《貞観儀式》などでは閤門(こうもん)としている。5間3戸の門とされ,平安宮のなかでももっとも重要な門の一つで近衛府が守ることになっていた。門籍がおかれ,門籍に登録されたものだけが門内に入ることを得た。また門には石階があり,門の内側には溝が東西に流...
地域タグ:京都市
千本丸太町交差点の南西には、平安宮跡の案内板があり、朝堂院、豊楽院の説明が書かれています。ここから千本通を東に向かい、浄福寺通に入ると、二条城北小学校前に、 平安宮内裏南限と建礼門跡の碑があります。 内裏外郭に設けられた正門で、規模は正面五間あって、内裏外郭門としては最大である。衛門府が警護し、門を入ると内裏内郭の正門である承明門があり、これを入ると南庭を隔てて紫宸殿に至る。 門前で白馬節会を行った...
地域タグ:京都市
豊楽院(ぶらくいん)は、平安京大内裏(平安宮)の院の1つで、朝廷の饗宴に用いられた施設で中京区聚楽廻西町には「史跡平安宮豊楽殿跡」の碑が建てられています。豊楽(ぶらく)とは和訓「とよのあかり」であり宴会を意味する。豊楽院はその名の通り、饗宴施設として平安京遷都直後、大内裏の正庁である朝堂院の西側に隣接して造営された。四方を築地で囲まれ、南に正門である豊楽門を構えていた。新嘗祭、大嘗祭の宴のほか、正...
地域タグ:京都市
平安宮造酒司(みきのつかさ)は、朝廷が使用する酒や酢を醸造していた役所で、大内裏の中にありました。京都市指定史跡 平安宮造酒司跡 平安時代、国家政治の中枢である平安宮にあった造酒司は、ミキノツカサ・ゾウシュシあるいはサケノツカサとも呼ばれる宮内省所属の官司で、天皇や中宮などに出す供御及び朝廷の諸節会・神事に用いられる酒・醴<あまざけ>・酢などを醸造していました。 造酒司のあった場所は、『宮城図』(...
地域タグ:京都市
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蘆菴(ろあん)二階建ての茶室で、階下は七畳、西側に床を構え、二方に縁がついています。階上は主室四畳半に、台目三畳の次の間があります。主室北側を板敷きとし、中央に赤松の曲木を立てて、左を床とし、右脇には二重棚があります。二方肘掛け窓からは、眺望を楽しむことができる煎茶席です。「盧庵」は、江戸時代の文書では、「露庵」と書かれており、中国・唐代末(9〜10世紀)の禅僧・雲門文堰(うんもんぶんえん)の言行録...
京都市下京区の渉成園は、「お東さん」と京都市民に親しまれている東本願寺の庭園で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸とも呼ばれています。1641年、徳川家光によって現在の土地が寄進され、、1653年、本願寺第13代宣如上人の願いによって石川丈山が作庭。江戸時代の二度にわたる大火により建物はすべて類焼しましたが、明治初期に復興されました。四季折々の風情を楽しむことができ、国の名勝にも指定されてい...
悲田院は、奈良・平安時代に,身寄りのない貧窮の病人や孤児などを収容した公設の救護施設で、「悲田」とは慈悲の心で哀れむべき貧窮病者などに施せば福を生み出す田となるの意。聖徳太子が四天王寺に建てたと伝わっていますが、723年(養老7)奈良の興福寺に施薬院(せやくいん)とともに設けられたのが初見。光明皇后もまた施薬・悲田の二院を設けています。これを継承して平安時代には、平安京の東西二カ所に施薬院別院として東...
藤原氏の氏寺である奈良の興福寺は、天智天皇8年(669)藤原鎌足の夫人鏡女王(かがみのおおきみ)が、山城国山階(京都市山科区)に山階寺(やましなでら)を創建したのに始まり。天武天皇元年(672)大和国高市郡厩坂(うまやさか)(奈良県橿原市)の地に移して厩坂寺と呼ばれました。和銅3年(710)、平城遷都の際、藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。その後は、天皇家や藤原氏の手によって次...
大沢池の池の周りを歩いて行きます。紀友則詠碑「ひともとと おもひし菊をおほさわの 池のそこにもたれかうえけん」大沢池と菊島名古曽橋心経宝塔昭和42年(1967)、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立されました。基壇内部に「如意宝珠」を納めた真珠の小塔を安置、宝塔内部には秘鍵(弘法)大師尊像を祀っています。名古曽の滝跡名古曽の滝は離宮嵯峨院にあった滝殿庭園内に設けられたもので、『今昔物語』では百済川成が作庭し...
大覚寺の東に位置する大沢池は、唐の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したもので、庭湖とも呼ばれます。池のほとりには、茶室望雲亭、心経宝塔、石仏、名古曽の滝跡があり、平安時代前期の名残をとどめる周囲約1kmの日本最古の人工の庭池とされています。「名古曽滝跡」とともに国の名勝に指定されており、毎年、中秋の名月の頃、「観月の夕べ」が催され、大沢池に竜頭船や鷁首船での遊覧が楽しめます。春は桜の名所でもあり、池の周...
滋賀県野洲市喜合のさざなみ街道沿いにに紫式部の歌碑があるとのことで、守山市在住の友人が画像を送ってくれました。「おいつ島 しまもる神や いさむらん 浪もさわがぬ わらわべの浦」 沖の島は、古くから人の心をとらえていた島で、歌に詠まれたり、文学の中にその名をとどめている。 この歌は、紫式部が、沖の島の対岸であるあやめ新田童子が浦のこの地から、遠く沖の島を望んで詠んだものと言われている。 平成五年三月...
多宝塔からさらに上に上がっていくと、見晴らしの良い所に出ます。「近江八景 石山の秋月」で描かれており、瀬田川の光景を眼下に望むことができます。月見亭保元年間、後白河上皇の行幸のために建てられたといわれています。光堂平成20年(2008年)石山を発祥の地とする東レ(株)によって寄進されました。本堂と同様懸造りになっています。光堂の周りでは、早咲きの桜に出会えました。紫式部の像源氏苑の一角にあります。紫式部は、...
三十八所権現社本堂のすぐ東側にある鎮守社で、現存する文献などから慶長7年(1602年)に淀殿により再建されたものと考えられています。祭神は、神武天皇から天智天皇までの38代の歴代天皇。経蔵石山寺一切経や校倉聖教などの文化財を収容してきた校倉造の建物。屋根は瓦葺で、校倉造では珍しい切妻造となっています。紫式部供養塔石山寺で『源氏物語』を起筆した紫式部の供養塔。鎌倉時代に作られた石造の宝篋印塔で、その傘が三...
石山寺の本堂へと続く階段を上っていきます。本堂正堂と礼堂が幅一間の相の間で繋がれていて、礼堂は急な斜面に造られているため、懸崖造になっています。懸崖造で有名なのは、京都の清水寺の本堂ですね。正堂は、承暦2年(1078年)に半焼した後、永長元年(1096年)に再建され、礼堂は、慶長7年(1602年)淀殿の寄進によって建てられました。本堂にある「源氏の間」は、紫式部が『源氏物語』の構想を練り、書き始めた場所と伝えられてい...
平安時代の人々は、霊験あらたかな石山寺の観音様に会いに行くのが大きな楽しみでした。藤原道綱母もその一人で、『蜻蛉日記』には朝早く都を出て、逢坂(おうさか)の関を越えて近江に入り、打出浜から舟で琵琶湖から瀬田川へ進み、夕方頃に石山寺に入ったと記されています。まさに一日がかりの石山詣だったようです。逢坂の関打出浜大河ドラマ館を出て、境内を散策していきます。明王院の前には、比良明神影向石があります。ここ...
石山寺では、「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」と「源氏物語 恋するもののあはれ展」の2つの展示を見学できます。明王院では、「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」を開催中。ドラマに登場する衣装や小道具、撮影の裏側を知ることができるパネルなどを展示。まひろとききょうのフォトスポット「光る君へ」の台本 まひろが書き写した後撰和歌集キャスト・スタッフのインタビューなどの映像を4Kシアターで上映。世尊院では、...
京阪石山寺駅から瀬田川沿いを歩くこと10分。石山寺の東大門に着く直前に「朗澄大徳ゆかりの庭園」があります。朗澄律師大徳は「石山寺中興の祖」と言われた名僧で、自分の死後は鬼となって石山寺の経典と聖教を守ると誓い、弟子の前に金色の鬼となって現れました。石に刻まれた鬼は、石山寺縁起絵巻に描かれた死後の朗澄律師の姿なのだそう。この庭園を過ぎるとすぐに石山寺東大門があります。東大門仁王門、山門、総門とよばれる...
京阪石山駅から石山寺駅に向かう際、京阪電車の「光る君へ」ラッピング列車に乗車出来ました!側面に紫式部(まひろ)役の吉高由里子さんの姿が見られます。現在のまひろとは衣装もメイクも変わり、よりお美しいですね。つり革も紫電車内も「光る君へ」仕様となっていました。石山寺駅に着くと、駅自体も紫式部ワールドになっています。駅前には、源氏物語のレリーフがあります。ここから石山寺に向かって歩いて行きます。郵便局のポ...
楼門寛永5年(1628年)の建立。玉橋楼門と玉橋片岡橋片山御子神社は、上賀茂神社の境内にある24社ある摂末社の中で第1摂社に定められる神社(通称「片岡社」)で、賀茂別雷大神の母である「玉依比売命(たまよりひめのみこと)」をお祀りしている神社です。 縁結びの社として女性に人気があります。屋根には二葉葵のご心紋が見えます。紫式部も参拝したと伝わり、片岡社について「ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに ...
上賀茂神社の二ノ鳥居を潜ります。二ノ鳥居 上賀茂神社と謡曲「賀茂」 秦氏の妻女の玉依日売が、当地の御手洗川で水を汲んでいると、白羽の矢が流れてきた。持ち帰り、軒に挿しておいたところ、解任して男子を産んだ。その子が三歳の時、父は雷と知り、天に昇って別雷の神となる。この神を祀ったのが当神社で、正式名を賀茂別雷神社という。 神社は京都でも最も古い神社の一つ。雷神を祀ることから、厄除けのほか、五穀豊穣の...
京都市北区上賀茂本山にある上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷神社」といいます。今年も桜の季節にお参りしてきました。創建については諸説あり、社伝では、神武天皇の御代に神山(こうやま)の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝えています。弘仁元年以降、斎院が400年にわたって置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕しました。『源氏物語』第9帖「葵」では、女三の宮が新たな斎院となり、第20帖「朝顔」では、朝顔の姫が父...
藤原道綱母の書いた『蜻蛉日記』には、夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についてのの記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦...
京都市東山区にある大将軍神社は、素盞嗚尊を主神とし、相殿に関白藤原兼家を祀る神社です。この辺りに、藤原兼家の東三条殿はこの周辺にあったといわれています。藤原兼家平安中期の公卿。右大臣師輔の三男。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。968年(安和1)兄兼通を越えて従三位に昇り,翌年蔵人頭を兼ねたまま中納言に進んだ。左大臣源高明が失脚した安和の変が起きたのはその1ヵ月後で,兼家もこれに重要な役割を果たしたものと思...
皇室との関係が深いことから御寺と呼ばれる泉涌寺。創建については、伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創したという説、空海が天長年間(824年-834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものという説などがあり、伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後...
永禄12年(1569)、徳川家康は、遠江国の国府・国分寺が置かれた政治文化の中心都市であった見付(磐田市)に築城を開始しました。遠江国分寺跡しかし、東方の武田信玄に対し、背後に天竜川を控えており、川が増水したら、織田信長からの援軍が間に合わない、水の便が悪い、信玄のとの関係が悪化したなど、いくつかの理由により築城を断念し、引間(浜松)に城を移すことにしたと言われています。見付の築城には、信長からの強い反対が...
浜松市中区に鎮座する分器稲荷神社は、田町の氏神社とされ、徳川家康が三河から浜松に入った永禄11年(1568年)2月に創建されたと伝えられています。稲荷神社の場所は中世引間宿の南限にあたり、家康が浜松に来た頃には、経済の中心としてたいへん賑わっていました。家康の在城17年のうちに引間城(浜松城)を拡大し、堀尾吉晴や江戸初期の譜代大名が城下を大改造すると、引間宿は解体されて跡地は武家屋敷になりました。「分器」...
浜松城の前身は、引馬(曳馬)城といい、16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていました。この頃の曳馬城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された部分であり、現在の元城町東照宮付近にあたります。1560年、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、徳川家康が引馬城を攻め落としました。元亀元年(1570)、家康は武田信玄の侵攻に備えるため、本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移すことに。岡崎城を息子の...
さらに田んぼに囲まれた道を走り、陣田へ。陣田は、姉川の合戦の際、浅井長政の本陣があった場所と伝えられています。 浅井長政と陣田当地は姉川合戦の際、浅井軍8000人(陸軍参謀本部編纂『日本戦史』による兵数)を率いる長政本陣があった場所と伝えられます。合戦当日の元亀元年(1570)6月28日の前日まで、浅井長政は北方に見える大依山に布陣して、姉川対岸の織田・徳川29,000人(同前書による)に及ぶ軍勢の動向をうかがっ...
続いて、三田村氏館跡へ。高い土塁が確認できます。京極・浅井氏の家臣の三田村左衛門の館跡である三田村氏館跡は、現在の伝正寺周辺が館跡で、寺の周囲三方に土塁が残っており、下坂氏館跡(長浜市下坂中町)とともに国史跡の北近江城館跡群に指定されています。国指定史跡 三田村氏館跡(三田町)京極・浅井氏の家臣で、姉川北岸で大きな勢力をほこった三田村氏の屋敷跡です。ほぼ60メートル四方の土塁に囲まれた平地城館で、土塁の高...
続いて、姉川の合戦の戦死者を葬った七十士の墓へ。姉川合戦での戦死者を葬った場所に建てられたと伝える石塔群です。もとは、この西北の「西三昧(にしざんまい)」と呼ばれる場所にあった地蔵堂付近の墓石を、昭和55年に完成した三田町の圃場整備に際して当地にまとめたものです。「西三昧」は三田村氏館跡に移転した伝正寺の旧地とされ、その移転の時期は、正徳5年(1715)頃と考えられています。石塔は五輪塔と宝篋印塔からな...
続いて血原塚へ 姉川古戦場 お市の方との結婚で結ばれた浅井長政と織田信長の仲は、越前の朝倉氏の反乱によって破れた。朝倉氏との盟約を重んじ同氏についた長政に湖西で挟撃された信長は岐阜へ戻るや戦備を整え、元亀元年(1570年)6月3万の兵を率いて竜ヶ鼻に陣し横山城を包囲した。徳川家康は、この時、5千騎を率いてこれを援軍している。 一方、浅井、朝倉合わせて一万八千は姉川北岸に陣し、戦機は熟していった。 ついに2...
兵士の血で真っ赤に染まった血川も姉川沿いに流れていましたが、平成以降の造成改修工事で無くなりました。最も激戦地であったという姉川にかかる旧「野村橋」が老朽化し、車両の通行が禁止されています。(歩行者や自転車、バイクは通行可)年月が過ぎるにつれ、合戦場の様子も徐々に様変わりしていますが、合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせています。この場所は、元亀元年(1570)6月28日に起き...
さらに自転車を走らせると、「姉川の合戦場」の碑が見えてきました。姉川の野村橋付近一帯は、壮絶な戦い浅井・織田軍の激戦が繰り広げられた所です。 姉川古戦場 元亀元年(1570)6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が、長浜市を流れる姉川の両岸に布陣し合戦を展開しました。 旧陸軍参謀本部編纂(へんさん)の「日本戦史」によれば、浅井軍八千人・朝倉軍一万人で、対する織田軍二万三千...
続いて向かったのが、姉川の合戦の時に徳川家康が陣を敷いた岡山(勝山)です。上坂神社の前に案内板があります。 徳川家康と岡山(勝山、東上坂町) この背後の山は、元来「岡山」といいましたが、姉川合戦の時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山」と呼ばれるようになったとされます。徳川家康軍は激戦の末に朝倉軍を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと伝えられています。 江戸時代...
次に向かったのは、龍ヶ鼻砦から移した織田信長の本陣跡の陣杭の柳(じんごのやなぎ)です。 織田信長と陣杭の柳(東上坂町) 姉川合戦における織田信長の本陣跡と言われる場所です。合戦当日の朝、信長はこの東方の龍ヶ鼻砦にいましたが、姉川北岸への浅井・朝倉軍の展開を知って、この場所に本陣を構えたとされます。ここに立つ柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、「陣杭」本来「陣鼓」と書かれたとも言...
龍ヶ鼻陣所からほど近い田んぼの真ん中に、遠藤直経の墓があります。ここは、姉川の合戦の際、浅井長政の重臣である遠藤直経が討ち死にした場所と伝えられています。自軍の敗色が濃くなると、直経は味方の武将三田村左衛門の首級を携え敵軍に偽装、織田信長の陣中に忍び込み、暗殺を謀りましたが、本陣の信長まで手前数十メートルのところで竹中半兵衛(重治)の弟・竹中久作(重矩)に見破られ、捕らえられて斬首されたといいます。永...
先月、滋賀県在住の友人の案内で、姉川の合戦の史跡を自転車でまわってきました。長浜駅前でレンタサイクルを借り、県道37号線を7.6kmをひたすら走り、東上坂町にある茶臼山古墳(龍ヶ鼻砦)を目指しました。姉川合戦前の横山城攻めの際、織田信長・徳川家康が陣としてこの古墳を利用し、龍ヶ鼻砦とも呼ばれます。合戦が始まると陣を取り払い、それぞれ別のところへ陣を構えました。この古墳のある丘には柵があって中には入れません...
越前の朝倉義景討伐の軍を率いた織田信長が、敦賀に入って朝倉氏一族が守る金ケ崎城を落とし、越前に攻め入ろうとした時、近江の浅井長政が離反して、織田軍の背後を襲い、一転、挟撃を受ける危機に見舞われました。そこで信長は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、朽木(くつき)を経由して京に退却(金ヶ崎の退き口)6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙京都に帰還し...
永禄11年(1568年)9月、織田信長は、足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立しましたが、信長は自らの天下統一を目指し、義昭は上杉謙信や毛利元就らにも上洛を促して幕府の再興を目指すという、両者の目指す方向にはずれがあり、次第に両者の関係は冷めていきました。永禄12年(1569年)1月14日、信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟9か条、のちに追加7ヶ条をを義昭に突きつけ、承認させました。一...
菅生神社は、岡崎最古の神社で、日本武尊命により(西暦110年)創建されました。御祭神は、天照皇大神・豊受姫命・須佐之男命・徳川家康・菅原道真。松平家・徳川家康ゆかりの神社で、家康が25歳の時、厄除開運祈願をされ、社殿・寄進田など厚く崇敬されていました。その後、江戸幕末まで、岡崎城主代々の祈願所として城主より社殿・鳥居など寄進を受け、岡崎城内鎮守の守護神とされていました。菅生東照宮 開運稲荷大明神岡崎市...
岡崎の松應寺は、徳川家康が父・松平広忠の菩提を弔うため創建したお寺です。松應寺の境内は、昭和の時代まで花街として栄えていましたが、近年はほとんどが空き家となっていました。そんな中、かつての賑わいを取り戻そうと松應寺横丁街づくり協議会が発足し活性化を開始し、いろんなお店ができてきたそうです。松應寺横丁を通って松應寺の境内へと進んでいきます。天文18年(1549)3月、岡崎城主・松平広忠は、城中で家臣の岩松...
岡崎の善立寺は、1467年(応仁元年)に日護が安城に創建したのが始まりとされています。安祥城主であった松平親忠が深く信仰を寄せており、1497年(明応6年)、安祥城主松平親忠より田地3反が寄進されました。その後、親忠の曾孫である松平清康が岡崎城に入ると、1532年(天文元年)に本寺も岡崎へ移転しました。1543年(天文12年)に松平広忠より寺内と田2反を安城の替地として寄進されています。1590年(天正18年)、徳川家康が...
岡崎の籠田公園と桜城橋を結ぶ全長約320mの”みちひろば”中央緑道に設置された徳川四天王の像より、続いては、榊原康政と井伊直政の銅像です。榊原康政像榊原康正といえば、小牧・長久手の戦でのエピソードが知られていますね。小牧・長久手の戦で、徳川軍へ攻め入ろうとする秀吉対し、康政は秀吉非難の檄文を秀吉陣営の諸将に送りつけました。怒った秀吉は「康政の首を取った者に望みのまま褒賞を与えよう」と触れを出したといわ...
岡崎の籠田公園と桜城橋を結ぶ全長約320mの”みちひろば”中央緑道に、徳川四天王の像が設置されています。酒井忠次像徳川家康の覇業に功績のあった重臣。本多(ほんだ)、井伊(いい)、榊原(さかきばら)とともに徳川四天王の一人。徳川氏と同祖だという名門左衛門尉(さえもんのじょう)酒井氏の嫡流に生まれる。家康より15歳年長の忠次は早くから家康に仕え、家康の駿府(すんぷ)人質時代にも供奉(ぐぶ)して奏者役(そうじゃやく)などを...