鷹ヶ峰源光庵のバス停を降り、しばらく進むと、常照寺というお寺があります。寂光山 常照寺当山は、元和2年(1616)本阿弥光悦の土地寄進を受け、寛永4年(1627)その子光瑳の発願により日蓮宗総本山身延山久遠寺第21世寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちけんしょうにん)を招じて開創された山城六壇林(やましろろくだんりん)の一偉観「鷹峰壇林」の旧跡である。 吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永三名妓天...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
鷹ヶ峰源光庵のバス停を降り、しばらく進むと、常照寺というお寺があります。寂光山 常照寺当山は、元和2年(1616)本阿弥光悦の土地寄進を受け、寛永4年(1627)その子光瑳の発願により日蓮宗総本山身延山久遠寺第21世寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちけんしょうにん)を招じて開創された山城六壇林(やましろろくだんりん)の一偉観「鷹峰壇林」の旧跡である。 吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永三名妓天...
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。86番札所 志度寺に隣接して、志度寺の塔頭である自性院常楽寺があります。平賀家が自性院の檀家であるあることから、仁王門前の自性院北正門から入ってすぐ南側に、平賀源内のお墓があります。安永8年(1779年)大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12...
地域タグ:さぬき市
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。別館には、旧邸・銅像・薬草園などがあります。平賀源内旧邸平賀源内先生は江戸へ出る前即ち宝暦四年、平賀家の家督を妹里与の婿養子権太夫(ごんだゆう)に譲り、一生を独身で過ごした。生家は権太夫の孫松三郎によって文久2年(1862)に建て替えられ、現在に到っています。当時は銅像敷地まで本座敷のある構えでしたが、昭和9年(1934)銅像建設のため切...
地域タグ:さぬき市
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。香川県さぬき市志度は、江戸時代の鬼才といわれる平賀源内の生誕地です。歴女の友人が、先日讃岐を訪ねてきたと画像を送ってくれたので、その画像をお借りして記事にしてみました。平賀源内記念館は、平成21年3月、平賀源内遺品館を移転、名称を改め新装開館しました。記念館本館には、映像で紹介する「源内奇才劇場」や、ビックリ意外な交流や出来事を...
地域タグ:さぬき市
平賀源内の墓の後ろに、従僕福助の墓があります。従僕福助の墓源内が亡くなる8ヶ月前に逝去敷地内には、寺門靜軒の碑もあります。静軒先生之碑寺門静軒(てらかど せいけん)江戸後期の儒者,詩人。名は良,字子温,弥五左衛門と称した。水戸藩大吟味方勤寺門弥八郎勝春の次男。母は江戸における勝春の妾。文化4(1807)年,12歳で同居の母を失い,翌年水戸の実父に死なれ,母方の祖父母に育てられた。山本北山の子緑陰に儒学を学び,上野寛...
地域タグ:台東区
十思公園の隣に立つ大安楽寺もかつては一帯が伝馬町牢屋敷でした。牢屋敷は、1875年(明治8年)に廃止されましたが、土地の買い手がなく、跡地は荒廃。この地で処刑された人々を慰めるため、当時が建立されました。高野山金剛峯寺より賜った弘法大師像を本尊とし、処刑された人の霊を弔うため、延命地蔵がおかれました。 新高野山大安楽寺縁起 抑も此の地伝馬町は 江戸時代 徳川幕府の牢獄の所在せし所なり。当山...
地域タグ:中央区
昭和3年(1928年)に建てられた旧中央区立十思小学校が、平成2年(1990年)に廃校となり、その後は中央区の日本橋特別出張所仮庁舎として利用され、平成12年(2000年)に改修工事を行って「十思スクエア」としてオープンしました。小伝馬町の牢屋敷跡建物内には福祉施設として中央区日本橋在宅介護支援センターや十思デイルームなどがあるほか、地域の人々の交流の場として利用されています。十思スクエア(旧十思小学校)に隣接す...
地域タグ:中央区
東京の地下鉄小伝馬町の駅を降りると、十思公園という小さな公園があります。そこは、江戸時代に伝馬町の牢屋があったところで、吉田松陰をはじめ、安政の大獄で投獄された人たちもこの地で処刑されました。今話題の平賀源内は、殺傷事件を起こし、ここに収監されました。安永8年(1779年)11月20日夜、神田の源内宅に門人の久五郎と友人の丈右衛門が止宿、明け方に彼らは「口論」となり源内は抜刀。両人に手傷を負わせ、久五郎は...
地域タグ:中央区
新宿区高田馬場にある諏訪神社は、 弘仁年間(810 - 824年)の創建と伝えられ、小野篁により大国主命・事代主命を祀ったのがはじまりとされています。当初、奥羽街道の一部松原街道に面していたので、松原神社と称されていましたが、江戸時代初期に、尾張の徳川家の祖である徳川義直により諏訪神社と改名されました。その後も源頼義父子や源頼朝、太田道灌等が再造したといいます。寛永年間(1624 - 44年)徳川家光が造営。徳川家...
地域タグ:新宿区
ランチは映画村のお店で済ますことに京うどん 開化亭「京都九条ネギうどん」や「侍うどん」など個性的なメニューがあります。私は頼んだのは「侍うどん」刀に見立てたちくわの天ぷらが入っていました(^0^;)食事を終え、行きに見逃したところを見学していきます。帰る時に気付いたのですが、パディオス1Fに、「相国寺の七重塔」の模型が飾られていました。この後、「べらぼう」関連の史跡めぐりに戻りました!にほんブログ村 歴史...
地域タグ:京都市
徳川家基(とくがわ いえもと)は、10代将軍徳川家治と田沼意次の推薦で側室となったお知保の方(蓮光院)との間に生まれました。幼年期より聡明で文武両道だったため、将来の第11代将軍として期待されていました。しかし、安永8年(1779年)2月21日、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で、休息中に突然体の不調を訴え、江戸城に運ばれましたが、3日後の2月24日に江戸城で死去。享年18(満16歳没)。後継ぎを失った父・家治は...
地域タグ:品川区
港町江戸の港町を再現しています。廻船問屋寺田屋坂本龍馬の京都の定宿でした。寺田屋騒動で有名ですね。港町を見学していたら、池の中から突然恐竜が現れました!効果音とともに頭を出した恐竜は迫力満点!長屋門江戸時代の武家屋敷の門の形のひとつ。現在は、「新選組の屯所」に飾られています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加...
地域タグ:京都市
村内を散策していたら、目の前に突然お侍さんが現れました(^_^;せっかくなので、記念写真を撮らせていただきました。侍姿がキマッていますね😃村内の案内を兼ねているようです。おっと!こんなところに忍者発見!こんな狭い小路にも、ちゃんとお店がありますよ。こちらはお茶の駿河屋さんこちらの民家からは江戸時代の庶民の暮らしぶりが窺えます。小道具も見事に再現されていますね!井戸のところには、「火の用心」のお札が貼られ...
地域タグ:京都市
中村座中村座では、忍者アクションのステージ「激突!忍者ショー忍びの街道」やチャンバラの実演「ちゃんばら辻指南」が行われています。ちょうど上映時間のタイミングが合ったので、覗いて見ることに・・・客席と一体化した楽しいショーでしたよ!今回残念だったのは、一部リニューアル工事中で、このフェンスから向こうのエリアが見られなかったことです。気を取り直して、オープンセットを見学していきます。時代劇で見覚えのあ...
地域タグ:京都市
今年1月、太秦映画村に行って来ました。京都には何度も足を運んでいますが、映画村はかなり久しぶりです。正面ゲイトをくぐると、パディオス(複合施設)があり、一階には、時代劇の扮装体験の出来る「時代劇扮装の館」があります。こちらでは、殿様、武士、町人、舞妓、芸者、お姫様、花魁などプロのメイクさんがメイクと着付けをしてくれます。私も若い頃、母と一緒にここで扮装体験をしたことがあります。母は芸者、私は舞妓に...
地域タグ:京都市
大澤寺は、元々、高天神城の南東にあり本楽寺と称していました。天正2年(1574年)の高天神城の戦いにて、徳川方の陣として使用されたことにより、兵火で焼失。その後、徳川家康の支援により、相良大沢に再建、本尊阿弥陀如来、今川義元伝来の明朝の皿を寄進し、「本楽院大澤寺」と改称しました。大澤寺の本堂は、田沼意次失脚ののちに破却された相良城の木材を再利用して、寛政3年(1791)に建てられたものといわれています。床下に...
地域タグ:牧之原市
浄心寺は、寛永元(1624)年、京都伏見の元住人で、相良湊で廻船業を営んでいた西尾源兵衛が、先祖の菩提を弔うために出家し、浄心日清と称して開創しました。江戸後期には、田沼家の祈願所として雨乞祈祷などで厚く崇敬されました。山門に施されている見事な龍の彫刻は、地元の画家・寺田洞仙によって寛政元(1789)年に作られたもので、市の文化財に指定されています。また、平賀源内は誤って人を殺してしまい投獄され、獄中死し...
地域タグ:牧之原市
平田寺は、弘安6年(1283)年に開創した遠州地方で最も古い禅寺の一つで、今川氏、武田氏、徳川氏など数々の武将から尊崇されました。開山の龍峯宏雲禅師は、足利尊氏の叔父といわれています。宝暦8年(1758)、田沼意次が相良藩主になると、田沼家の御位牌を祀る香華寺として厚い庇護を受けました。現在の本堂は、天明6年(1786)に再建されたもので、左側に田沼家専用の玄関があります。国宝「聖武天皇勅書」や県指定文化財「平田寺宝...
地域タグ:牧之原市
萩間川の左岸にある大江八幡宮は、弘安7年(1284)相良庄守護・上杉憲藤が東中の邸内に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりとされています。嘉暦2年(1327)、東中の屋敷から小牧山に移し、小牧山八幡宮とも呼ばれました。江戸時代には相良藩主の尊崇もあり、享保3年(1718)相良藩主であった本多忠通が社殿寄進、宝暦年間(1751年〜1764年)には田沼意次が神輿と馬具を寄進しています。大江八幡宮に伝わる御船(おふね)神事は、毎年9...
般若寺の本堂には、相良城の御殿大書院にあった8枚の「相良城の襖戸」があります。「相良城の杉戸」は、相良城の本丸御殿を彩っていた襖戸の一部と考えられ、竹林に虎や牡丹に鳳凰などの画題が見事に描かれています。絵師は、10代将軍徳川家治の御用絵師・狩野典信といわれています。「牡丹と鳳凰」「竹林と虎」小さい二本の戸は、徳川家康の相良御殿のものと伝えられていますが、絵師は不明なのだそう。「背負ったか(しょったか)...
地域タグ:牧之原市
般若寺は、田沼意次ゆかりの宝物「陣太鼓」と「相良城の杉戸」を所蔵する曹洞宗の寺院です。本堂鐘楼堂では、本堂の中に入ってみましょう。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:牧之原市
相良城本丸跡を見学後、近くにある壽亭(ことぶきてい)へ。こちらで、田沼意次ゆかりの「田沼蕎麦」をいただきました。やはりここに来たら、人気ナンバー1の田沼蕎麦をいただきたいですね!天ざるに高級感を出したかった壽亭の先代は、当地相良が田沼意次の城下だったことから、黒地の輪島塗で器を作り、蓋に田沼家の家紋・七燿紋を金字で入れて、田沼蕎麦としたそうです。サクサクの天ぷらに、コシのあるお蕎麦!大変美味しくい...
地域タグ:牧之原市
牧之原市の文化財に指定されて仙台河岸は、相良城の外堀に位置し、城内と海を結ぶ船着場だったと考えられています。相良城築城の際、仙台藩主・伊達重村が石垣用材を寄進してつくられたことから、「仙台河岸」といわれています。相良城は、相良を流れる萩間川河口の右岸にあった近世城郭で、東西500メートル、南北450メートルの広さがありました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします...
地域タグ:牧之原市
大和神社(おおわじんじゃ)の前に田沼街道の起点の碑があります。田沼街道は、東海道の藤枝宿と相良城を結ぶ約7里(約28 km)の街道のことで、別名「相良街道」と呼ばれています。相良城主となった田沼意次は、、相良城から東海道藤枝宿まで、既存の下街道や浜街道をもとに拡幅改修して整備しました。道は古い時代から存在していましたが、地域の流通を活性化させた意次を慕う街道沿いの人々が、この道は意次がつくった道だと思い込...
地域タグ:牧之原市
相良城の遺構を訪ねて行きました。現在、相良城二の丸跡には、相良小学校が建っています。相良城二の丸の松は、相良城二の丸跡の土塁に生育しているクロマツで、相良小学校の南端とグランドに10本あり、市の天然記念物に指定されています。牧之原市のHPによると、田沼意次が失脚すると、天明8(1788)年に幕府の命令で相良城が取り壊されました。マツの生えている土塁は、この頃のものと推定されています。にほんブログ村 歴史ブ...
地域タグ:牧之原市
昨年の秋、田沼意次ゆかりの静岡県牧之原市をまわってきました。牧之原資料館を目指す道中、田沼意次がデザインされたマンホールを見つけました。田沼意次のマンホール2019年の田沼意次生誕300年を記念して、旧城下町相良の本通り「新町通り」に設置されました。意次を中心に、大江八幡宮の御船神事、般若寺の陣太鼓、茶畑、あじさいがデザインされています。田沼意次候の城下町「時計台」田沼意次が遠州相良藩主を務めている時代...
地域タグ:牧之原市
86番札所 志度寺に隣接して、志度寺の塔頭である自性院常楽寺があります。平賀家が自性院の檀家であるあることから、仁王門前の自性院北正門から入ってすぐ南側に、平賀源内のお墓があります。安永8年(1779年)大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。享年52。(Wikipediaより)(画像:めりい)微雲窟...
地域タグ:さぬき市
別館には、旧邸・銅像・薬草園などがあります。平賀源内旧邸平賀源内先生は江戸へ出る前即ち宝暦四年、平賀家の家督を妹里与の婿養子権太夫(ごんだゆう)に譲り、一生を独身で過ごした。生家は権太夫の孫松三郎によって文久2年(1862)に建て替えられ、現在に到っています。当時は銅像敷地まで本座敷のある構えでしたが、昭和9年(1934)銅像建設のため切り取られ、昭和42年(1967)旧邸内部に遺品陳列館を開設、平成12年(2000)に...
地域タグ:さぬき市
香川県さぬき市志度は、江戸時代の鬼才といわれる平賀源内の生誕地です。歴女の友人が、先日讃岐を訪ねてきたと画像を送ってくれたので、その画像をお借りして記事にしてみました。平賀源内記念館は、平成21年3月、平賀源内遺品館を移転、名称を改め新装開館しました。記念館本館には、映像で紹介する「源内奇才劇場」や、ビックリ意外な交流や出来事を展示する「源内玉手箱」、「体験コーナー」などがあります。(画像:めりい)にほ...
地域タグ:さぬき市
平賀源内は、1761(宝暦11)年から深川清住町の自宅で、長崎で手に入れたオランダ製のエレキテル(静電気発生機)を修理して復元し、度々実験を行いました。江東区清澄の読売江東ビルの敷地に「平賀源内電気実験の地」の石碑が立っています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:江東区
以下、ライトアップされた夜の浅草寺です。仲見世通りのお店は、閉店後もシャッターの絵を楽しめます。仁王像も迫力を増しますね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:台東区
東京浅草の浅草寺の総門である雷門、最初の門は平公雅(たいらのきんまさ)によって42年(天慶5)に建てられました。雷門(風雷神門)表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後は仮設の門が時折建てられていたが、1960年(昭和35年)に常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・...
地域タグ:台東区
いよいよ日光東照宮の核心地といえる奥社へと進みます。坂下門から207段の階段を登らなければなりません。それくらい・・・と思っていたのですが、ここへ来るまでに既に結構歩いていたので、足がへとへと(汗)それでも小学生を追い越しながら駆け上がりました!やっと到着!ここが徳川家康の神柩である奥宮御宝塔です。江戸時代の元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去した。遺命によって遺骸は...
地域タグ:日光市
江戸幕府の将軍あるいは大御所・大納言(将軍嫡子)が、東照大権現(徳川家康)を祀る日光東照宮へ参拝する日光社参は、江戸時代を通じて合計19回実施されました。特に徳川家光は、その数10回と歴代将軍の中で最多でした。将軍の日光社参には大名や旗本をはじめ、莫大な数の人馬が供奉し、安永5年(1776年)の10代徳川家治の社参では、行列の先頭が日光にあるとき、最後尾はまだ江戸にあったとも言われているほどの規模で、莫大な...
地域タグ:日光市
浅草の伝法院通りには、浅草らしいお店や看板がいっぱい!白波五人男や鼠男など、町のあちこちに潜んでいます。屋根の上にもこの通り!また、「べらぼう」のPRの幟も発見!マスコットキャラクターのつたいやん蔦屋と台東区と「伝える」を合わせた名前で、蔦屋重三郎をイメージさせる空飛ぶ黄表紙に乗り、桜のピンクと隅田川の水色と黄表紙の黄色で構成しているとのこと。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応...
地域タグ:台東区
長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡のモニュメンが、都営新宿線菊川駅からほど近い丸山歯科医院の前に建っています。この場所が、邸の東端にあたるそうです。長谷川平蔵は明和元年(1764)父の屋敷替えによって築地からこの地に移り住みました。当時の敷地面積は1,238坪(4,085)におよんだと言われています。平蔵は、寛政7年(1795)にこの地で亡くなり、後に屋敷替えとなって代わりに入ってきたのが、遠山金四郎でした。また、菊川駅の...
地域タグ:墨田区
東京の台東区今戸の今戸神社は、康平六年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれています。また1081年(永保元年)にも清原武衡・家衡討伐の際、戦勝祈願をしたといわれています。幾度か戦乱や火災に見舞われましたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものです。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八...
地域タグ:台東区
歌舞練場跡記念碑から島原住吉神社へと向かうと、大銀杏が見えてきます。島原住吉神社の旧境内地北端に植わっていたこの大銀杏は、明治維新後の廃仏毀釈により、社格株のない住吉神社が廃社になるも、神木として遺された。その後明治36年(1903)に神社は再興されたが、境内がこの大銀杏のところまで拡大されるには至らなかった。 昭和5年(1930)にこの樹の根元に弁財天が祀られることにより、さらに神木として崇められ、今で...
地域タグ:京都市
輪違屋から歩いてすぐのところに、島原歌舞練場跡の碑があります。島原歌舞練場は、1873年(明治6年)の開設当初は島原女紅場といい、青柳踊や温習会が上演されていました。1927年(昭和2年)に新築移転、島原の衰退により1996年(平成8年)に解体されました。歌舞練場跡碑島原歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その...
地域タグ:京都市
島原で、現在も唯一営業を続ける「輪違屋」は、元禄年間(1688~1704)に創業。島原太夫を抱える置屋兼お茶屋として、置屋として創業当時の名は「養花楼」でした。お茶屋兼業は明治5年(1872年)より始まり、現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたもので、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となったそうです。かつては芸妓等も抱えていましたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれてい...
地域タグ:京都市
角屋(すみや)は、かつて京都・島原花街で営業していた揚屋(料亭)で、坂本龍馬、西郷隆盛、桂小五郎、久坂玄瑞、新選組も遊んだと伝わります。角屋の前には、「新撰組刀傷の角屋」や「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」の石碑が建てられています。 芹沢鴨が殺害される直前にここで酒宴を開いており、文久3年(1863年)6月ここで暴挙をはたらいた際に出来た刀傷が今でも残っています。久坂玄瑞は、京での活動中、他の勤王の志士たち...
地域タグ:京都市
島原大門は、京都の花街である島原の東入口にあたる大門で、京都市の登録有形文化財として登録されています。島原は寛永17年(1640年)または寛永18年(1641年)六条三筋町から移転した日本初の幕府公認の遊女街。当初は東側の大門のみであったが、享保17年(1732年)に西門が設置された。大門は明和3年(1767年)に現在地に付け替えられ、慶応3年(1867年)に現在の門が建てられた。周囲を塀と堀で囲み、大門を一か所に設ける当初...
地域タグ:京都市
現在、人形町の魚久本店~日本橋小学校のあるこのあたりは、江戸時代末期、姫路の殿様、酒井氏の屋敷がありました。そして、明治の初期、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、人形町から小網町、蛎殻町辺りに、西郷がおよそ二年間、書生15人、下男7人と住んでいました。魚久本店と日本橋小学校の前に説明板があります。魚久本店日本橋小学校西郷隆盛屋敷跡 明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827~1877)の屋敷が...
地域タグ:台東区
人形町通り沿いにある玄冶店跡の碑玄冶店(げんやだな)の地名は、江戸時代、ここの医者岡本玄冶が住んだことに由来し、日本橋界隈の古くからの地名もしくは通りの名です。歌舞伎『与話情浮名横櫛』の源氏店のモデルとなりました。江戸時代の新和泉町、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目のあたりである。天保のころ、歌川国芳が玄冶店に住んでいた。岡本玄冶徳川家の御典医であった岡本玄冶の拝領屋敷跡一帯を指した。玄冶は3代...
地域タグ:台東区
法堂跡法堂は、北条高時の時代、北条貞時の13回忌に当たる1323年(元亨3年)に建立されましたが、応安の大火で焼失してしまいました。方丈方丈の前には柏槇ビャクシンが植えられ、裏には、心字池のある美しい庭園が広がっています。百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称と...
地域タグ:鎌倉市
北鎌倉の円覚寺『べらぼう』のロケ地となっています。第一回の放送で、田沼意次の屋敷からの帰る蔦重が唐丸が歩く場面は、円覚寺の山門の下から撮影していたようです。円覚寺は、北条義時以来、北条得宗家領となった山内荘に、弘安5年(1282年)に鎌倉幕府8代執権・北条時宗が、元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した禅宗寺院です。。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されました。JR北...
地域タグ:鎌倉市
続いて江戸城ゾーンです。松平武元 まつだいら-たけちか享保(きょうほう)元年12月28日生まれ。常陸(ひたち)(茨城県)府中藩主松平頼明(よりあきら)の次男。松平武雅(たけまさ)の養子となり,享保13年上野(こうずけ)(群馬県)館林(たてばやし)藩主松平(越智(おち))家3代。家督をつぐと同時に陸奥(むつ)棚倉(福島県)に移封(いほう)。奏者番,寺社奉行をへて,延享3年西丸老中にすすみ,館林にもどる。4年老中となり,明和元年老中首座。6年6...
地域タグ:台東区
続いて仲ノ町ゾーンを紹介します。かつては、吉原大門を潜った通りが「仲之町通り」という吉原遊郭の妓楼が立ち並ぶメインストリートでした。吉原の町を背景に、花魁の衣装が展示されています。花魁 おいらん江戸・吉原における上級遊女の別称。語源としては、遊女に従属する新造(しんぞう)や禿(かむろ)が姉女郎を「おいらがの(私の)」とよんだのがなまったとする説などがあるが、明らかではない。いずれにしても口語体から発生...
地域タグ:台東区
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(4)蔦屋の再現セット~蔦重ゆかりの人達
また、五十間道ゾーンでは、蔦屋の再現セットで記念写真を撮影出来るようになっています。貸本もありますよ~~この日は、混み合っていたので、記念写真は撮らず、次へ移動しました(^0^;)こちらは蔦重を取り巻く人達の紹介です。蔦重は、遊女達を花に見立てることを思いつき、『一目千本』の制作に取りかかります。突然店から姿を消してしまったか唐丸ですが、いつか立派な絵師となって、蔦重のもとへ戻ってくるのでしょうね。平蔵...
地域タグ:台東区
瀧泉寺・目黒不動尊の仁王門の前に、平井権八と小紫の悲話伝える比翼塚があります。平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本の武士でシリアルキラーである。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる。因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(...
地域タグ:目黒区
では、目黒不動尊の本堂に向かいます。階段の脇には徳川家光ゆかりの「鷹居の松跡」があります。鷹居の松跡 鷹居の松跡 江戸幕府 3代将軍徳川家光 が寛永(1624~1644)の頃、目黒不動尊の近くで狩猟中に愛鷹 が行方不明になりました。家光が目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまち境内の大きな松の枝に飛び戻ってきました。このことに家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と命名したといわれています。 こ...
地域タグ:目黒区
※「べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館」の記事の途中ですが、今晩の紀行に合わせて、「瀧泉寺・目黒不動尊」の記事を挟みます。東京都目黒区下目黒の瀧泉寺は、目黒不動尊として知られる天台宗のお寺です。黄表紙の作品のひとつ恋川春町の作・画の「金々先生栄花夢」の中に、目黒不動が登場します。金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)黄表紙。2巻2冊。恋川春町(こいかわはるまち)作・画。1775年(安永4)刊。「金々先生...
地域タグ:目黒区
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(3)五十間道ゾーン その壱
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館「五十間ゾーン」では、蔦重ゆかりの小道具やパネルが展示されています。平賀源内の衣装※展示されている小道具には、撮影使用品と同等品があります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:台東区
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(2)エントランス~べらぼう入門編
9Fでエレベーターを降りると、そこには江戸の街が広がっています。ドラマ館のエントランスには、『べらぼう』の大判メインビジュアルと横浜流星のメッセージ映像がお出迎え!『べらぼう』入門編では、蔦屋重三郎の衣装が展示されています。蔦屋重三郎の衣装出演者の紹介パネル語り/九郎助稲荷 綾瀬はるか蔦屋重三郎/横浜流星花の井/瀬川 小芝風花田沼意次/渡辺謙にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よ...
地域タグ:台東区
今月2月1日に蔦屋重三郎ゆかりの地・台東区にオープンした「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」のべらぼう江戸たいとう大河ドラマ館に出かけて来ました。場所は、東京メトロ銀座線浅草駅7番出口から徒歩5分の台東区民会館9階ホールにあります。エレベーターホールから、江戸情緒&べらぼうの世界観に浸れます。エレベーターもこの通り!会場の9Fへと上がって行きます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろし...
地域タグ:台東区
『べらぼう』のロケでは、能舞台と白書院にて撮影が行われ、第2回(1月12日)の放送で、一橋治済の嫡男の誕生を祝う宴が開かれた場面に登場しました。能舞台能舞台(重要文化財)1880年(明治13年)に建てられたもので、1937年(昭和12年)に現在地に移築した。鏡板に描かれている松は幸野楳嶺によるもの。(Wikipediaより)白書院白書院(重要文化財)1911年(明治44年)に親鸞聖人六百五十回御遠忌に際して再建。来賓の接待などに使...
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「べらぼう」のロケ地めぐり(8) 東本願寺 阿弥陀堂~御影堂
『べらぼう』のロケ地として、東本願寺も使われており、一橋家や大奥のシーンに登場しています。東本願寺は、下京区烏丸七条にある浄土真宗「真宗大谷派」の本山で、正式名称は「真宗本廟」。愛称は「お東」「お東さん」。親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって、聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられたのが始まりです。文禄1(1592)年、11世・顕如が没し,いったんは長男・教如が跡を継ぎましたが,顕如の夫...
地域タグ:京都市
それでは、随心院の中を見学していきます。中にも小野小町ゆかりの物が随所に飾られています。小野小町像小野小町うた屏風これは、はねず踊りの人形ですね。随心院では、3月にはねず踊りが行われています。はねず(薄紅色の古名)の梅が咲き誇る中、はねず色の衣装と菅笠の小町と深草少将に扮した少女達の童唄と踊りが披露されるそうです。これも一度見てみたい京の行事です。茶釜能の間には、華やかな障壁画とカラフルな和傘が飾...
地域タグ:京都市
今日の紀行で紹介されたので、再掲します😊台東区東浅草1丁目の山谷堀公園に「猪牙舟」が展示してあります。猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷舟とも呼ばれていた。当時の江戸の人にとって舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源...
地域タグ:台東区
京都市山科区の随心院も「べらぼう」のロケ地として使われています。随心院(ずいしんいん)は、京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山の寺院。こちらの薬医門が田沼家の邸門として第一話に登場しました。薬医門寛永年間(1624年 - 1631年)の建立。開山は小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)僧正。随心院は、そもそもは仁海僧正が創建した牛皮山曼荼羅寺(ごひざんまんだらじ)の塔頭でした。仁海は神泉苑...
地域タグ:京都市
講堂の襖絵使者の間の襖絵「布袋唐子嬉戯の図」月樵(げっしょう)道人の大正元年(1912)の作布袋さんと戯れるこども達が描かれています。思わずほっこりしてしまう作品です😊にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:京都市
拝観受付の出入り口のところに、「べらぼう」のポスターが貼ってありましたよ!大書院は、名勝庭園をじっくり鑑賞できる建物となっています。また、宝物館に実物が収められている国宝「楓図」「桜図」「松に立葵図」のレプリカが飾られています。(撮影可)長谷川等伯・久蔵父子の作大書院にある複製障壁画 「桜楓図」のうちの「桜図」が等伯の子で26歳で没した久蔵の遺作とされています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参...
地域タグ:京都市
智積院の講堂と名勝庭園を見学してきました。講堂玄宥僧正が現在の京都東山の地に智積院を再興した際、徳川家康より寄贈された祥雲寺の客殿(方丈)が基になっています。この祥雲寺ゆかりの建物自体は、天和2年(1682)7月に焼失。その後幕府から与えられた東福門院の旧殿・対屋を基に、貞亨元年(1684)に再建されましたが、その建物も昭和22年に焼失。現在の講堂は、平成7年(1995)10月に完成したもので、灌頂道場や各種研修の道場と...
地域タグ:京都市
「べらぼう」のロケ地めぐり(2)智積院 明王殿~玄宥僧正の像
明王殿(不動堂)昭和22年(1947)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、明治15年に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物。その後、平成4年(1992)に、講堂再建にともなって現在の場所に移築されました。ご本尊は不動明王様で、「麦つき不動」と呼ばれています。(Wikipedia、智積院HPより)開山の玄宥僧正の像玄宥(げんゆう)享禄2年...
京都市東山七条にある智積院(ちしゃくいん)が、「べらぼう」のロケ地となっています。田沼意次の邸の庭園として、智積院の名勝庭園が使用され、1月5日の初回放送にて放映されました。蔦重が和泉屋の荷物持ちとして、強引に田沼邸に入り込んだあの場面です。智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院。山号は五百佛山(いおぶさん)。寺号は根来寺(ねごろじ)。本尊は金剛界大日如来。開山は玄...
地域タグ:京都市
春慶院(しゅんけいいん)は、台東区にある浄土宗の寺院で、江戸時代前期、伊勢屋太兵衛が娘を供養するために創建したと伝わります。境内には、二代目高尾太夫の墓があります。高尾太夫とは吉原遊廓の太夫の名跡ともいえる源氏名で、過去に11人いるとされています。二代目高尾太夫は、仙台藩藩主の伊達綱宗とのロマンスで知られ、綱宗に身請けされたとも、また綱宗に斬殺されたとも。墓石に記された没年は「万治2年(1659年)」で...
地域タグ:台東区
台東区東浅草1丁目の山谷堀公園に「猪牙舟」が展示してあります。猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷舟とも呼ばれていた。当時の江戸の人にとって舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源は、舟の形が猪の牙に似ているからという...
地域タグ:台東区
ちょうど今受験シーズンということで、学問の神様として知られる菅原道真公ゆかりの神社を紹介します。京都御苑の西側の道真公の生誕の地(諸説あり)のひとつとされている菅原院の地に、菅原院天満宮神社が建っています。菅原氏の邸宅があったところで、道真公の父・是善卿ら祖父以来三代が居住していたそうです。道真公没後、その菩提を弔うために菅原院の地に歓喜光寺が建立され、境内には道真と父祖の小祠が祀られました。歓喜...
地域タグ:京都市
心造寺に隣接しているのが、五社神社・諏訪神社です。家康は、子供たちのお宮参りや、自身の厄除けの祈祷を五社神社で行ったといわれています。また諏訪神社は、3代将軍・徳川家光によって、現在地に遷され、昭和35年(1960)、隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社を合祀し、五社神社・諏訪神社となりました。両社ともに、秀忠のとして徳川家の崇敬を受け、子守り、子育ての神としての信仰されています。五社神社五社神社は、...
地域タグ:浜松市
鴨江寺の中門から観音堂へと進んでいきます。中門鐘撞堂12月31日の大晦日には除夜の鐘を撞く人々で賑わいます。拝殿聖徳太子が祀られる観音堂鴨江寺の観音堂は豊臣秀吉の時代に火災で焼失しましたが、そのときのお堂の規模は七間四方であったと記録に残っています。江戸時代に入り、元和二年、徳川家康によって観音堂が再建されました。その堂内に安置されていた宮殿が弁天堂の宮殿として現在も残っています。その後、空襲で焼失し...
地域タグ:浜松市
今年の初詣は、地元浜松のお寺を選びました。浜松駅から西へ約1.2kmほどのところに、遠州高野山 鴨江寺があります。地元では、鴨江観音という愛称で親しまれ、お彼岸には多くの参拝客で賑わいます。鴨江寺は、奈良時代に遠州地方の民話で知られる芋堀長者が観音堂を建てたいと行基菩薩に依頼し創建されたといわれ、今でも鴨江町一帯は、地元の人たちから長者平(ちょうじゃびら)と呼ばれています。そして、鴨江寺の大伽藍を利用し...
地域タグ:浜松市
江戸城の平川門から一ツ橋まで散策した時のこと。平川門にかかる平川橋の近くに、太田道灌の追慕の碑があります。太田道灌の没後450年にあたる1936年(昭和11年)に建立されました。この石碑には江戸城の石が使われているそうです。江戸城築城 550年に当たって 左にある「追慕の碑」は、太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(1457年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度550...
地域タグ:千代田区
⑤平安の遊び ~偏つぎ~平安時代の遊び「偏つぎ」をしている様子が再現されています。偏つぎとは、主として女性や幼い子が漢字の知識を競い合った文字遊戯の一つ。漢字の旁(つくり)を示して、これに種々の偏をつけた文字を次々と考えさせ、行き詰まると負けになるもの。『源氏物語』では、「葵」の巻で、源氏が紫の君と偏つぎに興じる場面が出てきます。⑥四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識かさね色目平安時代には、四季の彩...
地域タグ:京都市
日本最古の物語『竹取物語』『竹取物語』は通称で、晴れの場では、『竹取と翁の物語』と呼ばれ、『かぐや姫の物語』とも呼ばれることがあったそうです。『竹取物語』(たけとりものがたり、英語: The Tale of the Bamboo Cutter)は、平安時代前期に成立した日本の物語。「現存する日本最古の物語」とされて、現在では
地域タグ:京都市
④女房の日常・局 ~王朝女性の身嗜み・黒髪~平安時代の美人として重視されていたのは、美しい長い髪でした。『源氏物語』に登場する末摘花も、容姿こそ優れていなかったものの、髪だけは長く豊かでした。女房の身嗜み豊かな髪に見せるため、髢(かもじ)をつけた。髢(かもじ)とは、髪を結ったり垂らしたりする場合に地毛の足りない部分を補うための添え髪・義髪のこと。平安時代では女性が髪を垂らすためにかもじを補ったとされる...
地域タグ:京都市
③仏名会・師走(十二月)の年中行事(『源氏物語』「幻」より)「幻」(まぼろし)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第41帖。出家を前にした光源氏の心情を四季のうつろいを通して描く。十二月、六条院で行われた御仏名の席で、源氏は久しぶりに公に姿を現した。その姿は「光る君」と愛でられた頃よりも一層美しく光り輝いており、昔を知る僧並びに出席した貴族たちは涙を流した。晦日、追儺にはしゃぎまわる三の宮を見る...
地域タグ:京都市
続いて、平安時代の衣装の展示です。十二単平安時代後期になって成立した晴の女房装束。構成は唐衣,裳,表衣 (うわぎ) ,打衣 (うちぎぬ) ,袿 (うちき) ,単衣 (ひとえぎぬ) ,袴などから成っている。唐衣はその最上衣で,もと中国の唐に発した奈良時代の背子 (はいし) の変化したもの。上半身丈で広袖がつき,地質,色目,文様などによって階級を異にした。裳は表衣の上から腰のうしろ半身だけをおおうもの。奈良時代は裙 (くん...
地域タグ:京都市
②王朝文化の粋を競う婚礼仕度・冊子作り~『源氏物語』に記された明石の姫君の婚礼仕度~(『源氏物語』「梅枝」より)源氏物語第32巻「梅枝」光源氏39歳。明石の姫君の裳着と入内の準備などを描いています。入内が決まると、持参品の草子などが集められます。草子「さくし(冊子)」の変化した語。「ぞうし」とも )(紙をとじ合わせて本の体裁にしたもの。書や歌や文章を書いてあってもなくても、冊子の形態をなしたものをいう。①...
地域タグ:京都市
市バス「西本願寺前」下車、西本願寺の斜め向かいのビルにある風俗博物館に出かけて来ました。エレベーターが5階に到着しドアが開くと、いきなり平安時代の世界が広がっています。風俗博物館では、『源氏物語』の六条院の館「春の御殿」を4分の1のサイズの模型で作り、人形・調度品・寝殿などで、源氏物語の世界を表現しています。①六條院移徙(『源氏物語』「少女」より)②王朝文化の粋を競う婚礼仕度・冊子作り~『源氏物語』に...
地域タグ:京都市
宇治の「お茶と宇治のまち交流館 茶づな」のすぐ側に「菟道稚郎子尊宇治墓」(うじのわきいらつこのみこと うじのはか)があります。菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、...
地域タグ:宇治市
車折神社の境内社を紹介します。水神社 祭神は龍神芸能神社祭神は天宇受売命。芸能・芸術の分野で活動する人々より崇敬を受けています。芸能人や関係者によって奉納された約4,000枚もの朱塗りの玉垣が社殿を囲んでいます。清少納言社 祭神は清少納言「光る君へ」で、ききょう(清少納言)を演じたファーストサマーウイカさんも参拝されたとか。今年は多くの参拝者で賑わったことでしょう。地主神社北側の鳥居から出ると、車折神社駅...
地域タグ:京都市
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鷹ヶ峰源光庵のバス停を降り、しばらく進むと、常照寺というお寺があります。寂光山 常照寺当山は、元和2年(1616)本阿弥光悦の土地寄進を受け、寛永4年(1627)その子光瑳の発願により日蓮宗総本山身延山久遠寺第21世寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちけんしょうにん)を招じて開創された山城六壇林(やましろろくだんりん)の一偉観「鷹峰壇林」の旧跡である。 吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永三名妓天...
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。86番札所 志度寺に隣接して、志度寺の塔頭である自性院常楽寺があります。平賀家が自性院の檀家であるあることから、仁王門前の自性院北正門から入ってすぐ南側に、平賀源内のお墓があります。安永8年(1779年)大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12...
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。別館には、旧邸・銅像・薬草園などがあります。平賀源内旧邸平賀源内先生は江戸へ出る前即ち宝暦四年、平賀家の家督を妹里与の婿養子権太夫(ごんだゆう)に譲り、一生を独身で過ごした。生家は権太夫の孫松三郎によって文久2年(1862)に建て替えられ、現在に到っています。当時は銅像敷地まで本座敷のある構えでしたが、昭和9年(1934)銅像建設のため切...
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。香川県さぬき市志度は、江戸時代の鬼才といわれる平賀源内の生誕地です。歴女の友人が、先日讃岐を訪ねてきたと画像を送ってくれたので、その画像をお借りして記事にしてみました。平賀源内記念館は、平成21年3月、平賀源内遺品館を移転、名称を改め新装開館しました。記念館本館には、映像で紹介する「源内奇才劇場」や、ビックリ意外な交流や出来事を...
平賀源内の墓の後ろに、従僕福助の墓があります。従僕福助の墓源内が亡くなる8ヶ月前に逝去敷地内には、寺門靜軒の碑もあります。静軒先生之碑寺門静軒(てらかど せいけん)江戸後期の儒者,詩人。名は良,字子温,弥五左衛門と称した。水戸藩大吟味方勤寺門弥八郎勝春の次男。母は江戸における勝春の妾。文化4(1807)年,12歳で同居の母を失い,翌年水戸の実父に死なれ,母方の祖父母に育てられた。山本北山の子緑陰に儒学を学び,上野寛...
台東区橋場二丁目の住宅街に平賀源内の墓があります。平賀源内は、安永8年11月激昂して人を殺傷。一ヶ月後の12月18日、伝馬町の獄で亡くなりました。平賀源内は享保十三年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延二年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかった...
十思公園の隣に立つ大安楽寺もかつては一帯が伝馬町牢屋敷でした。牢屋敷は、1875年(明治8年)に廃止されましたが、土地の買い手がなく、跡地は荒廃。この地で処刑された人々を慰めるため、当時が建立されました。高野山金剛峯寺より賜った弘法大師像を本尊とし、処刑された人の霊を弔うため、延命地蔵がおかれました。 新高野山大安楽寺縁起 抑も此の地伝馬町は 江戸時代 徳川幕府の牢獄の所在せし所なり。当山...
昭和3年(1928年)に建てられた旧中央区立十思小学校が、平成2年(1990年)に廃校となり、その後は中央区の日本橋特別出張所仮庁舎として利用され、平成12年(2000年)に改修工事を行って「十思スクエア」としてオープンしました。小伝馬町の牢屋敷跡建物内には福祉施設として中央区日本橋在宅介護支援センターや十思デイルームなどがあるほか、地域の人々の交流の場として利用されています。十思スクエア(旧十思小学校)に隣接す...
東京の地下鉄小伝馬町の駅を降りると、十思公園という小さな公園があります。そこは、江戸時代に伝馬町の牢屋があったところで、吉田松陰をはじめ、安政の大獄で投獄された人たちもこの地で処刑されました。今話題の平賀源内は、殺傷事件を起こし、ここに収監されました。安永8年(1779年)11月20日夜、神田の源内宅に門人の久五郎と友人の丈右衛門が止宿、明け方に彼らは「口論」となり源内は抜刀。両人に手傷を負わせ、久五郎は...
新宿区高田馬場にある諏訪神社は、 弘仁年間(810 - 824年)の創建と伝えられ、小野篁により大国主命・事代主命を祀ったのがはじまりとされています。当初、奥羽街道の一部松原街道に面していたので、松原神社と称されていましたが、江戸時代初期に、尾張の徳川家の祖である徳川義直により諏訪神社と改名されました。その後も源頼義父子や源頼朝、太田道灌等が再造したといいます。寛永年間(1624 - 44年)徳川家光が造営。徳川家...
数年前の春、浜離宮恩賜公園を散策してきました。浜離宮恩賜公園は、徳川家の庭園として、鷹狩りの場を整備した庭園です。庭園には、1700年代に造られた鴨場が二か所あります。庚申堂鴨場では、小窓の付いた観察小屋から渡り鳥の姿を見ることができます。庭園の西側にある新銭座鴨場は、鷹狩や鴨猟という武家文化を伝える特別史跡で、のぞき窓から池の様子を観察できます。引き堀では、水路に鴨をおびき寄せ、鷹に狙わせていたそう...
ランチは映画村のお店で済ますことに京うどん 開化亭「京都九条ネギうどん」や「侍うどん」など個性的なメニューがあります。私は頼んだのは「侍うどん」刀に見立てたちくわの天ぷらが入っていました(^0^;)食事を終え、行きに見逃したところを見学していきます。帰る時に気付いたのですが、パディオス1Fに、「相国寺の七重塔」の模型が飾られていました。この後、「べらぼう」関連の史跡めぐりに戻りました!にほんブログ村 歴史...
徳川家基(とくがわ いえもと)は、10代将軍徳川家治と田沼意次の推薦で側室となったお知保の方(蓮光院)との間に生まれました。幼年期より聡明で文武両道だったため、将来の第11代将軍として期待されていました。しかし、安永8年(1779年)2月21日、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で、休息中に突然体の不調を訴え、江戸城に運ばれましたが、3日後の2月24日に江戸城で死去。享年18(満16歳没)。後継ぎを失った父・家治は...
港町江戸の港町を再現しています。廻船問屋寺田屋坂本龍馬の京都の定宿でした。寺田屋騒動で有名ですね。港町を見学していたら、池の中から突然恐竜が現れました!効果音とともに頭を出した恐竜は迫力満点!長屋門江戸時代の武家屋敷の門の形のひとつ。現在は、「新選組の屯所」に飾られています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加...
こちらは、からくり忍者屋敷忍者屋敷には
村内を散策していたら、目の前に突然お侍さんが現れました(^_^;せっかくなので、記念写真を撮らせていただきました。侍姿がキマッていますね😃村内の案内を兼ねているようです。おっと!こんなところに忍者発見!こんな狭い小路にも、ちゃんとお店がありますよ。こちらはお茶の駿河屋さんこちらの民家からは江戸時代の庶民の暮らしぶりが窺えます。小道具も見事に再現されていますね!井戸のところには、「火の用心」のお札が貼られ...
中村座中村座では、忍者アクションのステージ「激突!忍者ショー忍びの街道」やチャンバラの実演「ちゃんばら辻指南」が行われています。ちょうど上映時間のタイミングが合ったので、覗いて見ることに・・・客席と一体化した楽しいショーでしたよ!今回残念だったのは、一部リニューアル工事中で、このフェンスから向こうのエリアが見られなかったことです。気を取り直して、オープンセットを見学していきます。時代劇で見覚えのあ...
今年1月、太秦映画村に行って来ました。京都には何度も足を運んでいますが、映画村はかなり久しぶりです。正面ゲイトをくぐると、パディオス(複合施設)があり、一階には、時代劇の扮装体験の出来る「時代劇扮装の館」があります。こちらでは、殿様、武士、町人、舞妓、芸者、お姫様、花魁などプロのメイクさんがメイクと着付けをしてくれます。私も若い頃、母と一緒にここで扮装体験をしたことがあります。母は芸者、私は舞妓に...
大澤寺は、元々、高天神城の南東にあり本楽寺と称していました。天正2年(1574年)の高天神城の戦いにて、徳川方の陣として使用されたことにより、兵火で焼失。その後、徳川家康の支援により、相良大沢に再建、本尊阿弥陀如来、今川義元伝来の明朝の皿を寄進し、「本楽院大澤寺」と改称しました。大澤寺の本堂は、田沼意次失脚ののちに破却された相良城の木材を再利用して、寛政3年(1791)に建てられたものといわれています。床下に...
浄心寺は、寛永元(1624)年、京都伏見の元住人で、相良湊で廻船業を営んでいた西尾源兵衛が、先祖の菩提を弔うために出家し、浄心日清と称して開創しました。江戸後期には、田沼家の祈願所として雨乞祈祷などで厚く崇敬されました。山門に施されている見事な龍の彫刻は、地元の画家・寺田洞仙によって寛政元(1789)年に作られたもので、市の文化財に指定されています。また、平賀源内は誤って人を殺してしまい投獄され、獄中死し...
五条大橋の南東(下京区木屋町通五条下ル)に源融河原院跡の石碑があります。紫式部の『源氏物語』の光源氏のモデルとなった源融の邸宅・河原院があった地とされています。この辺りは河原院の庭の中の島「籬の島」が鴨川の氾濫によって埋没したものと伝えられた「籬の森」の跡で、石碑の隣にある榎は、森にあった木の最後の1本とされています。源融河原院跡この付近には、嵯峨天皇皇子で『源氏物語』の主人公 光源氏のモデルの一人と...
縮遠亭印月池に浮かぶ北大島に建てられた茶室。西側入口の土間から入ると、茶室(抹茶席)あり、四畳間が付く構成をとっています。その南端から斜めに続く板間を経て、三畳敷の上段の間が連結されており、上段は床を高く支えた舞台造りになっています。上段の間から東山三十六峰の一つ、阿弥陀ヶ峰の遠景が縮図のように見晴らせたとのことですが、江戸後期には、すでに樹木が繁っていて、見えなくなっていたそうです。源融が奥州塩...
蘆菴(ろあん)二階建ての茶室で、階下は七畳、西側に床を構え、二方に縁がついています。階上は主室四畳半に、台目三畳の次の間があります。主室北側を板敷きとし、中央に赤松の曲木を立てて、左を床とし、右脇には二重棚があります。二方肘掛け窓からは、眺望を楽しむことができる煎茶席です。「盧庵」は、江戸時代の文書では、「露庵」と書かれており、中国・唐代末(9〜10世紀)の禅僧・雲門文堰(うんもんぶんえん)の言行録...
京都市下京区の渉成園は、「お東さん」と京都市民に親しまれている東本願寺の庭園で、周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから枳殻邸とも呼ばれています。1641年、徳川家光によって現在の土地が寄進され、、1653年、本願寺第13代宣如上人の願いによって石川丈山が作庭。江戸時代の二度にわたる大火により建物はすべて類焼しましたが、明治初期に復興されました。四季折々の風情を楽しむことができ、国の名勝にも指定されてい...
悲田院は、奈良・平安時代に,身寄りのない貧窮の病人や孤児などを収容した公設の救護施設で、「悲田」とは慈悲の心で哀れむべき貧窮病者などに施せば福を生み出す田となるの意。聖徳太子が四天王寺に建てたと伝わっていますが、723年(養老7)奈良の興福寺に施薬院(せやくいん)とともに設けられたのが初見。光明皇后もまた施薬・悲田の二院を設けています。これを継承して平安時代には、平安京の東西二カ所に施薬院別院として東...
藤原氏の氏寺である奈良の興福寺は、天智天皇8年(669)藤原鎌足の夫人鏡女王(かがみのおおきみ)が、山城国山階(京都市山科区)に山階寺(やましなでら)を創建したのに始まり。天武天皇元年(672)大和国高市郡厩坂(うまやさか)(奈良県橿原市)の地に移して厩坂寺と呼ばれました。和銅3年(710)、平城遷都の際、藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられました。その後は、天皇家や藤原氏の手によって次...
大沢池の池の周りを歩いて行きます。紀友則詠碑「ひともとと おもひし菊をおほさわの 池のそこにもたれかうえけん」大沢池と菊島名古曽橋心経宝塔昭和42年(1967)、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立されました。基壇内部に「如意宝珠」を納めた真珠の小塔を安置、宝塔内部には秘鍵(弘法)大師尊像を祀っています。名古曽の滝跡名古曽の滝は離宮嵯峨院にあった滝殿庭園内に設けられたもので、『今昔物語』では百済川成が作庭し...
大覚寺の東に位置する大沢池は、唐の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したもので、庭湖とも呼ばれます。池のほとりには、茶室望雲亭、心経宝塔、石仏、名古曽の滝跡があり、平安時代前期の名残をとどめる周囲約1kmの日本最古の人工の庭池とされています。「名古曽滝跡」とともに国の名勝に指定されており、毎年、中秋の名月の頃、「観月の夕べ」が催され、大沢池に竜頭船や鷁首船での遊覧が楽しめます。春は桜の名所でもあり、池の周...
滋賀県野洲市喜合のさざなみ街道沿いにに紫式部の歌碑があるとのことで、守山市在住の友人が画像を送ってくれました。「おいつ島 しまもる神や いさむらん 浪もさわがぬ わらわべの浦」 沖の島は、古くから人の心をとらえていた島で、歌に詠まれたり、文学の中にその名をとどめている。 この歌は、紫式部が、沖の島の対岸であるあやめ新田童子が浦のこの地から、遠く沖の島を望んで詠んだものと言われている。 平成五年三月...
多宝塔からさらに上に上がっていくと、見晴らしの良い所に出ます。「近江八景 石山の秋月」で描かれており、瀬田川の光景を眼下に望むことができます。月見亭保元年間、後白河上皇の行幸のために建てられたといわれています。光堂平成20年(2008年)石山を発祥の地とする東レ(株)によって寄進されました。本堂と同様懸造りになっています。光堂の周りでは、早咲きの桜に出会えました。紫式部の像源氏苑の一角にあります。紫式部は、...
三十八所権現社本堂のすぐ東側にある鎮守社で、現存する文献などから慶長7年(1602年)に淀殿により再建されたものと考えられています。祭神は、神武天皇から天智天皇までの38代の歴代天皇。経蔵石山寺一切経や校倉聖教などの文化財を収容してきた校倉造の建物。屋根は瓦葺で、校倉造では珍しい切妻造となっています。紫式部供養塔石山寺で『源氏物語』を起筆した紫式部の供養塔。鎌倉時代に作られた石造の宝篋印塔で、その傘が三...
石山寺の本堂へと続く階段を上っていきます。本堂正堂と礼堂が幅一間の相の間で繋がれていて、礼堂は急な斜面に造られているため、懸崖造になっています。懸崖造で有名なのは、京都の清水寺の本堂ですね。正堂は、承暦2年(1078年)に半焼した後、永長元年(1096年)に再建され、礼堂は、慶長7年(1602年)淀殿の寄進によって建てられました。本堂にある「源氏の間」は、紫式部が『源氏物語』の構想を練り、書き始めた場所と伝えられてい...
平安時代の人々は、霊験あらたかな石山寺の観音様に会いに行くのが大きな楽しみでした。藤原道綱母もその一人で、『蜻蛉日記』には朝早く都を出て、逢坂(おうさか)の関を越えて近江に入り、打出浜から舟で琵琶湖から瀬田川へ進み、夕方頃に石山寺に入ったと記されています。まさに一日がかりの石山詣だったようです。逢坂の関打出浜大河ドラマ館を出て、境内を散策していきます。明王院の前には、比良明神影向石があります。ここ...
石山寺では、「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」と「源氏物語 恋するもののあはれ展」の2つの展示を見学できます。明王院では、「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」を開催中。ドラマに登場する衣装や小道具、撮影の裏側を知ることができるパネルなどを展示。まひろとききょうのフォトスポット「光る君へ」の台本 まひろが書き写した後撰和歌集キャスト・スタッフのインタビューなどの映像を4Kシアターで上映。世尊院では、...
京阪石山寺駅から瀬田川沿いを歩くこと10分。石山寺の東大門に着く直前に「朗澄大徳ゆかりの庭園」があります。朗澄律師大徳は「石山寺中興の祖」と言われた名僧で、自分の死後は鬼となって石山寺の経典と聖教を守ると誓い、弟子の前に金色の鬼となって現れました。石に刻まれた鬼は、石山寺縁起絵巻に描かれた死後の朗澄律師の姿なのだそう。この庭園を過ぎるとすぐに石山寺東大門があります。東大門仁王門、山門、総門とよばれる...
京阪石山駅から石山寺駅に向かう際、京阪電車の「光る君へ」ラッピング列車に乗車出来ました!側面に紫式部(まひろ)役の吉高由里子さんの姿が見られます。現在のまひろとは衣装もメイクも変わり、よりお美しいですね。つり革も紫電車内も「光る君へ」仕様となっていました。石山寺駅に着くと、駅自体も紫式部ワールドになっています。駅前には、源氏物語のレリーフがあります。ここから石山寺に向かって歩いて行きます。郵便局のポ...
楼門寛永5年(1628年)の建立。玉橋楼門と玉橋片岡橋片山御子神社は、上賀茂神社の境内にある24社ある摂末社の中で第1摂社に定められる神社(通称「片岡社」)で、賀茂別雷大神の母である「玉依比売命(たまよりひめのみこと)」をお祀りしている神社です。 縁結びの社として女性に人気があります。屋根には二葉葵のご心紋が見えます。紫式部も参拝したと伝わり、片岡社について「ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに ...
上賀茂神社の二ノ鳥居を潜ります。二ノ鳥居 上賀茂神社と謡曲「賀茂」 秦氏の妻女の玉依日売が、当地の御手洗川で水を汲んでいると、白羽の矢が流れてきた。持ち帰り、軒に挿しておいたところ、解任して男子を産んだ。その子が三歳の時、父は雷と知り、天に昇って別雷の神となる。この神を祀ったのが当神社で、正式名を賀茂別雷神社という。 神社は京都でも最も古い神社の一つ。雷神を祀ることから、厄除けのほか、五穀豊穣の...
京都市北区上賀茂本山にある上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷神社」といいます。今年も桜の季節にお参りしてきました。創建については諸説あり、社伝では、神武天皇の御代に神山(こうやま)の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝えています。弘仁元年以降、斎院が400年にわたって置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕しました。『源氏物語』第9帖「葵」では、女三の宮が新たな斎院となり、第20帖「朝顔」では、朝顔の姫が父...
藤原道綱母の書いた『蜻蛉日記』には、夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についてのの記事がある。藤原道綱母の没年より約20年前、39歳の大晦...