徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
慶全寺は、天正年間、武田家の家臣・三枝虎吉が長篠の戦いで戦死した息子の三枝守友、守義、守光の菩提を弔うために創建したといいます。元々は田中城に隣接していましたが、慶長6年(1601年)、田中城の城主となった酒井忠利が田中城の拡張工事のため現在地に移しました。万治年間の火災で、多くの建物や寺宝を焼失しましたが、江戸時代の宝永年間に再建されました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よ...
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長楽寺には、大蛇の伝説が伝わっています。伝承によると、仁安年中(1166年~69年)藤枝の有力者・粉川長楽斎は、心優しく人望が篤い人でした。彼には力姫(賀姫)と娘がいましたが、美少年に化けた青池の大蛇に魅せられ、池に引き込まれて亡くなったことから、娘の菩提を弔うために、屋敷を寺として薬師如来と阿弥陀如来を本尊としました。その後、北条時頼に招かれて鎌倉建長寺を開いた蘭渓道隆が関東下向の際、青龍山長楽寺...
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続いて蓮生寺へ。蓮華寺公園の近くにあります。歩道に表示がありました。→もありわかりやすくて良いですね。蓮生寺(れんしょうじ)は、1195年(建久6年)蓮正(熊谷直実)が開山となって創建されたと伝えられています。また、1730年(享保15年)駿河国田中藩主となった本多氏の菩提寺となっています。山門は、文化8年(1811)、田中城主・本多正意によって寄進されたもの。蓮生寺は、藤枝市指定天然記念物となっているイブキでも...
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藤枝の洞雲寺は、神亀5(728)年の開基と伝わる古刹で、荒廃していたところを、永正7(1510)年に祖龍和尚(そりゅうおしょう)が再興し、30を超える末寺を持つ大寺となりました。徳川家康が関ヶ原の戦いに向かう途中に、当寺に立ち寄った際、洞雲寺の檀家であった農民の橋本藤八が立派な美濃柿を献上したところ、家康は「美濃国は手に入った」と大いに喜びました。その後、関ヶ原の戦いで家康側が勝利し、江戸への帰路の途中で再び...
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続いて、1837年(天保8年)、相良城の御殿を移築した客殿です。歴代の住職・檀信徒が少しづつ改修を重ねていますが、主な柱や梁は当時のままなのだそう。太い柱や桁、欄間の彫刻に豪華な城郭御殿建築を見ることができます。洗心園樹齢300年の老松を中心にした心の字の池にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いし...
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大慶寺は、天和3年(1683年)と宝永5年(1708年)火災の類焼により焼失。天明6年(1786年)、相良藩の藩主で江戸幕府の老中だった田沼意次が失脚に伴い、相良城が廃城になり、天明8年(1788年)に相良城の御殿を購入・移築し庫裡としました。文久年間(1861年~1864年)、江戸幕府第14代将軍の徳川家茂が上洛に際に訪れ、脚気の病気平癒の祈願を行いました。本堂(祖師堂)本堂旧大鬼瓦三光堂日天子、日天子、明星天を祀るご祈祷の道...
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勝草橋から大慶寺へ。大慶寺は藤枝宿の本陣に近く、宿場町の中央にあります。田中城の祈願寺として信仰を集めました。建長5年(1253年)春、是聖房蓮長(後の日蓮)が比叡山延暦寺への遊学に際して藤枝の地を訪れた際、茶屋を営んでいた道円・妙円夫妻が蓮長の説法に教化され、後に自宅裏に持仏堂として建立した法華堂が起源とされています。境内にそびえる「久遠の松」は蓮長がこの際に植えた松であるといいます。高さ約26メート...
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瀬戸川の地蔵を通り過ぎ、勝草橋へ向かいます。橋を渡る手前に旧東海道 志太一里塚を発見!横には火伏の秋葉社もあります。では勝草橋を渡っていきましょう。 瀬戸川の徒渡り 江戸時代に勝草橋周辺は東海道の渡河地点だったが、瀬戸川には橋が架けられず川越しが行われた。瀬戸川の川越し制度が創始されたのは江戸時代貞享二年(1685)に川原町に初めて川庄屋が任命されたときといわれる。瀬戸川の川越しは瀬戸川の徒渡りといわ...
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田沼意次ゆかりの史跡を追ってみました。牧之原では、田沼街道の起点を見てじました。大和神社(おおわじんじゃ)の前に田沼街道の起点の碑があります。田沼街道は、東海道の藤枝宿と相良城を結ぶ約7里(約28 km)の街道のことで、別名「相良街道」と呼ばれています。湊橋相良城主となった田沼意次は、、相良城から東海道藤枝宿まで、既存の下街道や浜街道をもとに拡幅改修して整備しました。道は古い時代から存在していましたが、地...
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牧之原市史料館と浄心寺の見学を終え、お土産を求めて銀座通り商店街の一角にある扇子家さんへ。相良のフルーツや食材を使った創業100年の老舗菓子店でなのだそう。こちらに田沼意次ゆかりのお菓子があると知ったので覗いてみると・・・ありました!陣太鼓最中初代より作り続けているとのこと。陣太鼓最中の由来となった田沼意次ゆかりの陣太鼓は、牧之原の般若寺に保存されています。「背負ったか(しょったか)相良の陣太鼓」と言...
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牧之原市には、平賀源内が住んでいたという場所がいくつか伝わっています。ステラnetによると、市内の茶畑に囲まれた須々木原に、源内が最初に住んでいたとされる草庵がありました。その後、3kmほど離れた相良城に近い前浜の屋敷に移ったといわれ、いまも地元の人々は屋敷があった通りを「源内通り」と呼んでいます。史料館のスタッフの方に、その「源内通り」の入口を教えていただきました。途中、蜘蛛の巣が張ってたり、一人で歩...
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続いてキャストのインタビューの紹介です。平賀源内田沼意次田沼意知「田沼意次像と田沼邸セットの秘密」こちらはフォトスポット📷「田沼意次の座布団に座って写真を撮ろう!」私は座布団を撮るだけで座りませんでしたが(^0^;)狩野典信作の「田沼意次候領内遠望図」を模した1981(昭和56年)史料館の開館時に制作された緞帳なのだそう。この他、「べらぼう」ゆかりの史跡の紹介パネルはお土産コーナーがあります。にほんブログ村 歴史...
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続いて、ドラマで使用された衣装及び小道具の展示です。田沼意次役の渡辺謙さんの衣装平賀源内役の安田顕さんの衣装平賀源内の煙管蔦重の煙管幕府に献上された袋入りの青楼美人合姿鏡蔦重が瀬川に渡した契情買虎之巻蔦重が執筆した原稿源内が意次に渡した砂銀番組台本にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしま...
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牧之原市史料館の一階では、「田沼意次の新時代展」として、田沼家ゆかりの工芸品や古文書、田沼意次や相良藩に関する新発見の資料、田沼時代に活躍した文化人に関する資料などが展示されています。(展示品撮影不可)そして、二階では『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』展・静岡まきのはらとして、番組紹介パネル、出演者直筆サイン、キャストビジュアルバナー、ドラマ使用衣装及び小道具などが展示されています。(一部を除いて撮影可)...
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相良城本丸跡に建つ牧之原市史料館は、昨年訪ねた時と比べ、べらぼう関連の展示が増え、賑やかな様子に様変わりしていました。牧之原市史料館のロビーには、相良凧が飾られています。相良凧(さがらたこ)は、田沼意次が江戸で老中を務めた江戸時代中期の頃から、初の男子誕生を祝って端午の節句にあげる風習が残されています。相良凧は、「尾がなく、糸目が上下2本だけの角凧を、ビードロを練り込んだ凧糸を使用して揚げる自由自...
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牧之原市史料館に向かう道中、歩道に埋め込まれた相良凧のプレートに気がつきました。こちらは相良町のマスコット「茶々丸くん」他にもありそうでしたが、そうこうしているうちに相良城本丸跡に到着。この「べらぼう」の看板も昨年はまだなかったな~田沼意次が遠州相良藩主を務めている時代、牧之原に相良城がありました。相良城は、天正4(1576)年、武田勝頼が高天神城の支城として築いたのが始まりとされています。その後、天...
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ここから新しい記事です😊先日、再び牧之原に行って来ました。昨年この浄心寺を訪ねた時は、まだ情報が少なく、平賀源内の墓があることを知りませんでした。浄心寺は、寛永元(1624)年、京都伏見の元住人で、相良湊で廻船業を営んでいた西尾源兵衛が、先祖の菩提を弔うために出家し、浄心日清と称して開創しました。江戸後期には、田沼家の祈願所として雨乞祈祷などで厚く崇敬されました。山門に施されている見事な龍の彫刻は、地...
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5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。大澤寺は、元々、高天神城の南東にあり本楽寺と称していました。天正2年(1574年)の高天神城の戦いにて、徳川方の陣として使用されたことにより、兵火で焼失。その後、徳川家康の支援により、相良大沢に再建、本尊阿弥陀如来、今...
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5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。平田寺は、弘安6年(1283)年に開創した遠州地方で最も古い禅寺の一つで、今川氏、武田氏、徳川氏など数々の武将から尊崇されました。開山の龍峯宏雲禅師は、足利尊氏の叔父といわれています。宝暦8年(1758)、田沼意次が相良藩主に...
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5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。萩間川の左岸にある大江八幡宮は、弘安7年(1284)相良庄守護・上杉憲藤が東中の邸内に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりとされています。嘉暦2年(1327)、東中の屋敷から小牧山に移し、小牧山八幡宮とも呼ばれました。江戸時代に...
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5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。般若寺の本堂には、相良城の御殿大書院にあった8枚の「相良城の襖戸」があります。「相良城の杉戸」は、相良城の本丸御殿を彩っていた襖戸の一部と考えられ、竹林に虎や牡丹に鳳凰などの画題が見事に描かれています。絵師は、10代...
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般若寺は、田沼意次ゆかりの宝物「陣太鼓」と「相良城の杉戸」を所蔵する曹洞宗の寺院です。本堂鐘楼堂では、本堂の中に入ってみましょう。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
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5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。相良城本丸跡を見学後、近くにある壽亭(ことぶきてい)へ。こちらで、田沼意次ゆかりの「田沼蕎麦」をいただきました。やはりここに来たら、人気ナンバー1の田沼蕎麦をいただきたいですね!天ざるに高級感を出したかった壽亭の先...
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5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、「相良城ゆかりの史跡」の記事を再アップします。牧之原市の文化財に指定されて仙台河岸は、相良城の外堀に位置し、城内と海を結ぶ船着場だったと考えられています。相良城築城の際、仙台藩主・伊達重村が石垣用材を寄進してつくられたことから、「仙台河岸」とい...
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5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、「田沼街道」の記事を再アップします。大和神社(おおわじんじゃ)の前に田沼街道の起点の碑があります。田沼街道は、東海道の藤枝宿と相良城を結ぶ約7里(約28 km)の街道のことで、別名「相良街道」と呼ばれています。相良城主となった田沼意次は、、相良城から東...
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昨日の「べらぼう」で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、相良城の記事を再アップします。相良城の遺構を訪ねて行きました。現在、相良城二の丸跡には、相良小学校が建っています。相良城二の丸の松は、相良城二の丸跡の土塁に生育しているクロマツで、相良小学校の南端とグランドに10本あり、市の天然記念物に指定されています。牧之...
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本日の「べらぼう」で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、相良城の記事を再アップします。昨年の秋、田沼意次ゆかりの静岡県牧之原市をまわってきました。牧之原資料館を目指す道中、田沼意次がデザインされたマンホールを見つけました。田沼意次のマンホール2019年の田沼意次生誕300年を記念して、旧城下町相良の本通り「新町通り」...
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遠州忩劇(えんしゅうそうげき)とは、永禄5年(1562年)から同9年(1566年)にかけての主に天竜川流域における国衆による今川氏への大規模な叛乱のことをいいます。桶狭間の戦いで、敗北した今川家の勢力が弱体化すると、今まで今川家に臣従してきた松平元康(徳川家康)が独立。織田家と同盟を結び、今川家との対決姿勢を見せ、今川家に反旗を翻す在地領主も出てきました。浜松市中区成子町の東漸寺東漸寺は、引間城主・飯尾連龍(...
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徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
日本橋堀留町に鎮座する三光稲荷神社は、江戸三座の一つである中村座に出演していた歌舞伎役者・関三十郎が伏見より勧請したと言われ、娘さん、子供、芸妓の参拝で賑わったそうです。当社は落語「百川」にも登場します。百川(ももかわ)は古典落語の演目。6代目三遊亭圓生の十八番として知られる。田舎(いなか)から出てきた百兵衛は、葭町(よしちょう)の千束(ちづか)屋という桂庵(けいあん)(口入れ屋)からの紹介で日本橋浮世小...
江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
墨田区両国二丁目にある回向院は、振袖火事と呼ばれる明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されました。明和5年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が建てられました。回向院明暦三年(1657)、江戸史...
今夜の「べらぼう」で、ついに蔦重が日本橋に進出することに🙌今まで敵対してきた鶴屋もようやく蔦重の才覚を認め、通油町が吉原ものを歓迎するというお話でした。中央区日本橋大伝馬町に、蔦屋重三郎「耕書堂」跡の案内版があります。日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)は、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門、西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心...
大伝馬本町本通りは、かつての日光・奥州街道です。江戸時代、五街道の起点・日本橋は交通の要所で、大伝馬町本通には、「越後屋」や「白木屋」などの店が軒を連ねていました。日本橋から延びる日光東照宮への参詣道「日光街道」も人や物が行き交い、日本橋の町は大変賑わいました。徳川家康公江戸開府に際し、御傳馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された(碑文より)江戸名所図絵や広重の錦絵に...
神田駅から歩いて4~5分のところにある旧今川中学校のグラウンド前に「平賀源内居住跡」の案内板があります。平賀源内は、讃岐から上京してから転居を繰り返し、神田白壁町(現・鍛冶町)や神田大和町、神田橋本町などに住んでいたといいます。(千代田区観光協会リーフレットより)今年に入り、「べらぼう」が始まってから設置されたようです。平賀源内(享保13年(1728)~安永8年(1779))は、エレキテル(摩擦静電気発生装置) の...
合祀殿籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀。籠祖講関係石造物群千代田区指定有形文化財2005年(平成17年)4月1日指定籠祖(かごそ)神社は、塩土翁神と猿田彦大神祭神が祭神で、社伝によれば1798年(寛政10年)に神田神社...
神田明神は何度か参拝してますが、今まで見逃していたのが、浮世絵師 水野年方顕彰碑です。水野年方(みずのとしかた)日本画家。通称は粂次郎。初め月岡芳年に歌川派の錦絵,山田柳塘に陶画,柴田芳州に南画を学び,のち三島蕉窓,渡辺省亭に師事して人物画,草木画,風景画を得意とした。1887年頃から『やまと新聞』に挿絵を描き,また日本美術協会,日本美術院,日本画会に作品を発表するかたわら,評議員や審査員を務め,浮世絵...
鳳輦神輿奉安殿神田祭において、一の宮・大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦、二の宮・少彦名命がお乗りになる二の宮神輿、神田明神大神輿を奉安する。神田祭の時にこの場所で「鳳輦神輿遷座祭」を執り行う。(神田明神HPより)三の宮奉安庫 (鳳輦庫)三の宮・平将門命(たいらのまさかどのみこと)、平将門様のお乗りになる神輿が奉安されています。三宿稲荷神社・金刀比羅神社三宿稲荷神社 江戸時代より神田三河町の氏神として奉斎...
続いて神田明神の摂末社の紹介です。魚河岸水神社 日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間に神田明神境内に遷座しました。魚河岸水神社 御祭神 弥都波能売命祭礼日 五月五日 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。 元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水...
神田明神の境内を紹介します。御社殿昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られて昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。現の社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造・総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵...
神田明神(かんだみょうじん)は、千代田区外神田二丁目にある神社で正式名称は神田神社大鳥居をくぐるとすぐに随神門があります。随神門昭和天皇御即位50年の記念事業として昭和50年に新たに再建されました。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻が、二層目には、平将門に由来する金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が...
滝沢馬琴住居跡から神田明神に向かう際、急な階段が立ちはだかりました。この石段は「明神男坂」と呼ばれ、『江戸名所図会』にも登場します。『江戸名所図会』にも登場するこの坂は、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。幕府が1825年から1828年(文政8年~11年)の間に町名主に提出させた、町の情報をまとめた...
外神田三丁目の芳林公園の前に滝沢馬琴住居跡の案内板があります。滝沢馬琴は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などを著わした江戸時代の戯作者(げさくしゃ)です。旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(現在の九段北一丁目)の下駄屋会田家の養子となりますが、家業を人に任せ、戯作者としての道を歩み始めます。1824年(文政7年)には、外...
土日祝日は、湯島聖堂の大成殿の内部が公開されています。ちょうどこの日は土曜日でしたので、内部を見学してきました。大成殿(たいせいでん)湯島聖堂の中心的な建造物で、孔子を祀るための殿堂。間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。大成とは、孔子廟の正殿の名称。宋(北宋)の仁宗のとき命名。「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。殿内、中央...
もとは、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅地で、手水舎の飛鳥井(あすかい)は、清少納言の『枕草子』の中で、9つの代表的な井戸のひとつに挙げられています。飛鳥井白峯神宮の飛鳥井は平安の昔から有名です。平安時代の歌謡曲の催馬楽「飛鳥井」には「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(ミモヒ)も寒し、御秣(ミマクサ)もよし」と謡われていて、オアシスのように人々が憩っていたと想像されます。(や、おけ...
京都市上京区今出川通にある白峯神社のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院で、開基は待賢門院とされています。ここは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を平安末期に待賢門院(鳥羽上皇の中宮、後白河天皇の母)が再興した律宗のお寺です。清原夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の皇族・公卿。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。官位は従二位・右大臣、贈正二位。清原夏野『前賢故実』延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...
合格門をくぐり、階段を上がっていくと、安倍晴明をお祀りする晴明堂に行き着きます。 晴明堂は、平安時代の陰陽師・安倍晴明をお祀りしています。 当山は安倍一族の寺として古来より安倍晴明信仰の聖地の一つとして数えられています。平成十六年(2004)、安倍晴明千回忌を迎えるにあたり二百年振りに晴明堂が再建されました。 正面にある「如意宝珠」は、いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある...
石仏石仏群は、江戸時代、境内地に四国八十八所・西国三十三所の本尊仏として祀られていた石仏を一同に安置したものです。その前には弘法大師像と御砂踏み石がお祀りされており、「御砂踏み石」の中には四国八十八所の御砂が奉納されています。(案内板より)白山堂 白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿です。 国の重要文化財にも指定されています。 御祭神は全国の白...
続いて、十一面観音をお参りしました。十一面観音 十一面観音は、苦しんでいる人をすぐに見つけるため、頭上に十一のお顔があり常に全方向を見守っています。 奈良時代から多く信仰され、延命、病気治癒などを願って各地でお祀りされるようになりました。 古来より当山に伝えられる十一面観音は昭和五十七年(1982)に、この場所に勧請し建立されました。また十一面観音の周りの側壁には四千五百体の奉納仏がお祀りされています...
安倍文殊院の稲荷社は、安倍晴明出生の地として、晴明の母とされる白狐・信太森葛葉稲荷が祀られています。江戸時代までは、境内の西古墳の頂上に稲荷社があったそうですが、現在は晴明が祀られている金閣浮御堂が見える場所に移されています。五穀豊穣・金運財運・商売繁盛・家運隆昌等の御利益が厚いことで信仰されています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...
続いて金閣浮御堂へ。金閣浮御堂金閣浮御堂・霊宝館は開運弁財天(大和七福神)、安倍仲麻呂、安倍晴明の御尊像、安倍晴明の御尊軸、方位災難除けの九曜星など、陰陽道に関する宝物をお祀りしている御堂で内陣参拝できます。堂内の壁面には、秘仏の十二天御尊軸(四方(東・西・南・北)と、四隅(東北・東南・西北・西南)の八方、天と地、日と月、すべての方角を司る守護神)がお祀りされています。この御堂は「七まいり」という魔...
奈良県桜井市阿部にある安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院で、京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。表山門大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が大化元年(645年)に孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まりである。創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、...
大津市歴史博物館では、令和6年(2024年)1月から、特集展示「源氏物語と大津」を約1年間にわたって開催されています。私は3月末に見て来ました。エントランスロビーの無料エリアでは、石山寺本堂の「源氏之間」が再現されており、中に入って写真撮影ができるフォトスポットになっています。「源氏之間」再現コーナーこの横には、紫式部になりきれるフォトスポットもあります。デジタル絵巻54帖各巻のあらすじや関係図が楽しめます。...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。平成橋『紫式部日記絵巻』「御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部」「御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧」蛭子橋『源氏物語絵巻』「柏木(一)女三宮を見舞う朱雀院」「柏木(二)病に伏す柏...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。千代鶴橋『紫式部日記絵巻』「新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長」この 国安橋の向こうには、千代鶴神社があります。昭和7年(1932年)に建てられた神社で、越前打ち刃物の祖「千代鶴国安」をお祀りしています。千代鶴国安は良...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。鈴虫橋『紫式部日記絵巻』道長から賀の歌を求められる紫式部御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長岩永橋『紫式部日記絵巻』「御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房」「渡殿にある紫式部の局に立ち寄る斉信と...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる紫きぶ七橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。河濯橋『紫式部日記絵巻』「渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長」「中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部」城ヶ堀橋『紫式部日記絵巻』「女房たちと語りながら歳末の夜を過ごす紫式部」「風の涼しい夕暮れ、琴を弾いて憂...
武生中央公園内にあるしきぶきぶんミュージアムには、「光る君へ 越前 大河ドラマ館」や、紫式部が暮らした越前の文化や歴史を紹介する歴史展示、お土産やグッズを販売する「光る越前SHOP」があります。エントランスでは、まひろ(紫式部)役の吉高由里子さんのウェルカムメッセージのVTRが流れています。等身大パネルと一緒に記念撮影ができるスポット「衣装や小道具の展示コーナー」藤原為時紫式部(まひろ)為時が太郎に読み聞かせ...