勝草橋から大慶寺へ。大慶寺は藤枝宿の本陣に近く、宿場町の中央にあります。田中城の祈願寺として信仰を集めました。建長5年(1253年)春、是聖房蓮長(後の日蓮)が比叡山延暦寺への遊学に際して藤枝の地を訪れた際、茶屋を営んでいた道円・妙円夫妻が蓮長の説法に教化され、後に自宅裏に持仏堂として建立した法華堂が起源とされています。境内にそびえる「久遠の松」は蓮長がこの際に植えた松であるといいます。高さ約26メート...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
牧之原市の文化財に指定されて仙台河岸は、相良城の外堀に位置し、城内と海を結ぶ船着場だったと考えられています。相良城築城の際、仙台藩主・伊達重村が石垣用材を寄進してつくられたことから、「仙台河岸」といわれています。相良城は、相良を流れる萩間川河口の右岸にあった近世城郭で、東西500メートル、南北450メートルの広さがありました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします...
地域タグ:牧之原市
大和神社(おおわじんじゃ)の前に田沼街道の起点の碑があります。田沼街道は、東海道の藤枝宿と相良城を結ぶ約7里(約28 km)の街道のことで、別名「相良街道」と呼ばれています。相良城主となった田沼意次は、、相良城から東海道藤枝宿まで、既存の下街道や浜街道をもとに拡幅改修して整備しました。道は古い時代から存在していましたが、地域の流通を活性化させた意次を慕う街道沿いの人々が、この道は意次がつくった道だと思い込...
地域タグ:牧之原市
相良城の遺構を訪ねて行きました。現在、相良城二の丸跡には、相良小学校が建っています。相良城二の丸の松は、相良城二の丸跡の土塁に生育しているクロマツで、相良小学校の南端とグランドに10本あり、市の天然記念物に指定されています。牧之原市のHPによると、田沼意次が失脚すると、天明8(1788)年に幕府の命令で相良城が取り壊されました。マツの生えている土塁は、この頃のものと推定されています。にほんブログ村 歴史ブ...
地域タグ:牧之原市
昨年の秋、田沼意次ゆかりの静岡県牧之原市をまわってきました。牧之原資料館を目指す道中、田沼意次がデザインされたマンホールを見つけました。田沼意次のマンホール2019年の田沼意次生誕300年を記念して、旧城下町相良の本通り「新町通り」に設置されました。意次を中心に、大江八幡宮の御船神事、般若寺の陣太鼓、茶畑、あじさいがデザインされています。田沼意次候の城下町「時計台」田沼意次が遠州相良藩主を務めている時代...
地域タグ:牧之原市
86番札所 志度寺に隣接して、志度寺の塔頭である自性院常楽寺があります。平賀家が自性院の檀家であるあることから、仁王門前の自性院北正門から入ってすぐ南側に、平賀源内のお墓があります。安永8年(1779年)大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。享年52。(Wikipediaより)(画像:めりい)微雲窟...
地域タグ:さぬき市
別館には、旧邸・銅像・薬草園などがあります。平賀源内旧邸平賀源内先生は江戸へ出る前即ち宝暦四年、平賀家の家督を妹里与の婿養子権太夫(ごんだゆう)に譲り、一生を独身で過ごした。生家は権太夫の孫松三郎によって文久2年(1862)に建て替えられ、現在に到っています。当時は銅像敷地まで本座敷のある構えでしたが、昭和9年(1934)銅像建設のため切り取られ、昭和42年(1967)旧邸内部に遺品陳列館を開設、平成12年(2000)に...
地域タグ:さぬき市
香川県さぬき市志度は、江戸時代の鬼才といわれる平賀源内の生誕地です。歴女の友人が、先日讃岐を訪ねてきたと画像を送ってくれたので、その画像をお借りして記事にしてみました。平賀源内記念館は、平成21年3月、平賀源内遺品館を移転、名称を改め新装開館しました。記念館本館には、映像で紹介する「源内奇才劇場」や、ビックリ意外な交流や出来事を展示する「源内玉手箱」、「体験コーナー」などがあります。(画像:めりい)にほ...
地域タグ:さぬき市
平賀源内は、1761(宝暦11)年から深川清住町の自宅で、長崎で手に入れたオランダ製のエレキテル(静電気発生機)を修理して復元し、度々実験を行いました。江東区清澄の読売江東ビルの敷地に「平賀源内電気実験の地」の石碑が立っています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:江東区
以下、ライトアップされた夜の浅草寺です。仲見世通りのお店は、閉店後もシャッターの絵を楽しめます。仁王像も迫力を増しますね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
地域タグ:台東区
東京浅草の浅草寺の総門である雷門、最初の門は平公雅(たいらのきんまさ)によって42年(天慶5)に建てられました。雷門(風雷神門)表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後は仮設の門が時折建てられていたが、1960年(昭和35年)に常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・...
地域タグ:台東区
いよいよ日光東照宮の核心地といえる奥社へと進みます。坂下門から207段の階段を登らなければなりません。それくらい・・・と思っていたのですが、ここへ来るまでに既に結構歩いていたので、足がへとへと(汗)それでも小学生を追い越しながら駆け上がりました!やっと到着!ここが徳川家康の神柩である奥宮御宝塔です。江戸時代の元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去した。遺命によって遺骸は...
地域タグ:日光市
江戸幕府の将軍あるいは大御所・大納言(将軍嫡子)が、東照大権現(徳川家康)を祀る日光東照宮へ参拝する日光社参は、江戸時代を通じて合計19回実施されました。特に徳川家光は、その数10回と歴代将軍の中で最多でした。将軍の日光社参には大名や旗本をはじめ、莫大な数の人馬が供奉し、安永5年(1776年)の10代徳川家治の社参では、行列の先頭が日光にあるとき、最後尾はまだ江戸にあったとも言われているほどの規模で、莫大な...
地域タグ:日光市
浅草の伝法院通りには、浅草らしいお店や看板がいっぱい!白波五人男や鼠男など、町のあちこちに潜んでいます。屋根の上にもこの通り!また、「べらぼう」のPRの幟も発見!マスコットキャラクターのつたいやん蔦屋と台東区と「伝える」を合わせた名前で、蔦屋重三郎をイメージさせる空飛ぶ黄表紙に乗り、桜のピンクと隅田川の水色と黄表紙の黄色で構成しているとのこと。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応...
地域タグ:台東区
長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡のモニュメンが、都営新宿線菊川駅からほど近い丸山歯科医院の前に建っています。この場所が、邸の東端にあたるそうです。長谷川平蔵は明和元年(1764)父の屋敷替えによって築地からこの地に移り住みました。当時の敷地面積は1,238坪(4,085)におよんだと言われています。平蔵は、寛政7年(1795)にこの地で亡くなり、後に屋敷替えとなって代わりに入ってきたのが、遠山金四郎でした。また、菊川駅の...
地域タグ:墨田区
東京の台東区今戸の今戸神社は、康平六年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれています。また1081年(永保元年)にも清原武衡・家衡討伐の際、戦勝祈願をしたといわれています。幾度か戦乱や火災に見舞われましたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものです。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八...
地域タグ:台東区
歌舞練場跡記念碑から島原住吉神社へと向かうと、大銀杏が見えてきます。島原住吉神社の旧境内地北端に植わっていたこの大銀杏は、明治維新後の廃仏毀釈により、社格株のない住吉神社が廃社になるも、神木として遺された。その後明治36年(1903)に神社は再興されたが、境内がこの大銀杏のところまで拡大されるには至らなかった。 昭和5年(1930)にこの樹の根元に弁財天が祀られることにより、さらに神木として崇められ、今で...
地域タグ:京都市
輪違屋から歩いてすぐのところに、島原歌舞練場跡の碑があります。島原歌舞練場は、1873年(明治6年)の開設当初は島原女紅場といい、青柳踊や温習会が上演されていました。1927年(昭和2年)に新築移転、島原の衰退により1996年(平成8年)に解体されました。歌舞練場跡碑島原歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その...
地域タグ:京都市
島原で、現在も唯一営業を続ける「輪違屋」は、元禄年間(1688~1704)に創業。島原太夫を抱える置屋兼お茶屋として、置屋として創業当時の名は「養花楼」でした。お茶屋兼業は明治5年(1872年)より始まり、現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたもので、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となったそうです。かつては芸妓等も抱えていましたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれてい...
地域タグ:京都市
角屋(すみや)は、かつて京都・島原花街で営業していた揚屋(料亭)で、坂本龍馬、西郷隆盛、桂小五郎、久坂玄瑞、新選組も遊んだと伝わります。角屋の前には、「新撰組刀傷の角屋」や「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」の石碑が建てられています。 芹沢鴨が殺害される直前にここで酒宴を開いており、文久3年(1863年)6月ここで暴挙をはたらいた際に出来た刀傷が今でも残っています。久坂玄瑞は、京での活動中、他の勤王の志士たち...
地域タグ:京都市
島原大門は、京都の花街である島原の東入口にあたる大門で、京都市の登録有形文化財として登録されています。島原は寛永17年(1640年)または寛永18年(1641年)六条三筋町から移転した日本初の幕府公認の遊女街。当初は東側の大門のみであったが、享保17年(1732年)に西門が設置された。大門は明和3年(1767年)に現在地に付け替えられ、慶応3年(1867年)に現在の門が建てられた。周囲を塀と堀で囲み、大門を一か所に設ける当初...
地域タグ:京都市
現在、人形町の魚久本店~日本橋小学校のあるこのあたりは、江戸時代末期、姫路の殿様、酒井氏の屋敷がありました。そして、明治の初期、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、人形町から小網町、蛎殻町辺りに、西郷がおよそ二年間、書生15人、下男7人と住んでいました。魚久本店と日本橋小学校の前に説明板があります。魚久本店日本橋小学校西郷隆盛屋敷跡 明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827~1877)の屋敷が...
地域タグ:台東区
人形町通り沿いにある玄冶店跡の碑玄冶店(げんやだな)の地名は、江戸時代、ここの医者岡本玄冶が住んだことに由来し、日本橋界隈の古くからの地名もしくは通りの名です。歌舞伎『与話情浮名横櫛』の源氏店のモデルとなりました。江戸時代の新和泉町、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目のあたりである。天保のころ、歌川国芳が玄冶店に住んでいた。岡本玄冶徳川家の御典医であった岡本玄冶の拝領屋敷跡一帯を指した。玄冶は3代...
地域タグ:台東区
法堂跡法堂は、北条高時の時代、北条貞時の13回忌に当たる1323年(元亨3年)に建立されましたが、応安の大火で焼失してしまいました。方丈方丈の前には柏槇ビャクシンが植えられ、裏には、心字池のある美しい庭園が広がっています。百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称と...
地域タグ:鎌倉市
北鎌倉の円覚寺『べらぼう』のロケ地となっています。第一回の放送で、田沼意次の屋敷からの帰る蔦重が唐丸が歩く場面は、円覚寺の山門の下から撮影していたようです。円覚寺は、北条義時以来、北条得宗家領となった山内荘に、弘安5年(1282年)に鎌倉幕府8代執権・北条時宗が、元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した禅宗寺院です。。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されました。JR北...
地域タグ:鎌倉市
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勝草橋から大慶寺へ。大慶寺は藤枝宿の本陣に近く、宿場町の中央にあります。田中城の祈願寺として信仰を集めました。建長5年(1253年)春、是聖房蓮長(後の日蓮)が比叡山延暦寺への遊学に際して藤枝の地を訪れた際、茶屋を営んでいた道円・妙円夫妻が蓮長の説法に教化され、後に自宅裏に持仏堂として建立した法華堂が起源とされています。境内にそびえる「久遠の松」は蓮長がこの際に植えた松であるといいます。高さ約26メート...
瀬戸川の地蔵を通り過ぎ、勝草橋へ向かいます。橋を渡る手前に旧東海道 志太一里塚を発見!横には火伏の秋葉社もあります。では勝草橋を渡っていきましょう。 瀬戸川の徒渡り 江戸時代に勝草橋周辺は東海道の渡河地点だったが、瀬戸川には橋が架けられず川越しが行われた。瀬戸川の川越し制度が創始されたのは江戸時代貞享二年(1685)に川原町に初めて川庄屋が任命されたときといわれる。瀬戸川の川越しは瀬戸川の徒渡りといわ...
田沼意次ゆかりの史跡を追ってみました。牧之原では、田沼街道の起点を見てじました。大和神社(おおわじんじゃ)の前に田沼街道の起点の碑があります。田沼街道は、東海道の藤枝宿と相良城を結ぶ約7里(約28 km)の街道のことで、別名「相良街道」と呼ばれています。湊橋相良城主となった田沼意次は、、相良城から東海道藤枝宿まで、既存の下街道や浜街道をもとに拡幅改修して整備しました。道は古い時代から存在していましたが、地...
牧之原市史料館と浄心寺の見学を終え、お土産を求めて銀座通り商店街の一角にある扇子家さんへ。相良のフルーツや食材を使った創業100年の老舗菓子店でなのだそう。こちらに田沼意次ゆかりのお菓子があると知ったので覗いてみると・・・ありました!陣太鼓最中初代より作り続けているとのこと。陣太鼓最中の由来となった田沼意次ゆかりの陣太鼓は、牧之原の般若寺に保存されています。「背負ったか(しょったか)相良の陣太鼓」と言...
牧之原市には、平賀源内が住んでいたという場所がいくつか伝わっています。ステラnetによると、市内の茶畑に囲まれた須々木原に、源内が最初に住んでいたとされる草庵がありました。その後、3kmほど離れた相良城に近い前浜の屋敷に移ったといわれ、いまも地元の人々は屋敷があった通りを「源内通り」と呼んでいます。史料館のスタッフの方に、その「源内通り」の入口を教えていただきました。途中、蜘蛛の巣が張ってたり、一人で歩...
続いてキャストのインタビューの紹介です。平賀源内田沼意次田沼意知「田沼意次像と田沼邸セットの秘密」こちらはフォトスポット📷「田沼意次の座布団に座って写真を撮ろう!」私は座布団を撮るだけで座りませんでしたが(^0^;)狩野典信作の「田沼意次候領内遠望図」を模した1981(昭和56年)史料館の開館時に制作された緞帳なのだそう。この他、「べらぼう」ゆかりの史跡の紹介パネルはお土産コーナーがあります。にほんブログ村 歴史...
続いて、ドラマで使用された衣装及び小道具の展示です。田沼意次役の渡辺謙さんの衣装平賀源内役の安田顕さんの衣装平賀源内の煙管蔦重の煙管幕府に献上された袋入りの青楼美人合姿鏡蔦重が瀬川に渡した契情買虎之巻蔦重が執筆した原稿源内が意次に渡した砂銀番組台本にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしま...
牧之原市史料館の一階では、「田沼意次の新時代展」として、田沼家ゆかりの工芸品や古文書、田沼意次や相良藩に関する新発見の資料、田沼時代に活躍した文化人に関する資料などが展示されています。(展示品撮影不可)そして、二階では『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』展・静岡まきのはらとして、番組紹介パネル、出演者直筆サイン、キャストビジュアルバナー、ドラマ使用衣装及び小道具などが展示されています。(一部を除いて撮影可)...
相良城本丸跡に建つ牧之原市史料館は、昨年訪ねた時と比べ、べらぼう関連の展示が増え、賑やかな様子に様変わりしていました。牧之原市史料館のロビーには、相良凧が飾られています。相良凧(さがらたこ)は、田沼意次が江戸で老中を務めた江戸時代中期の頃から、初の男子誕生を祝って端午の節句にあげる風習が残されています。相良凧は、「尾がなく、糸目が上下2本だけの角凧を、ビードロを練り込んだ凧糸を使用して揚げる自由自...
牧之原市史料館に向かう道中、歩道に埋め込まれた相良凧のプレートに気がつきました。こちらは相良町のマスコット「茶々丸くん」他にもありそうでしたが、そうこうしているうちに相良城本丸跡に到着。この「べらぼう」の看板も昨年はまだなかったな~田沼意次が遠州相良藩主を務めている時代、牧之原に相良城がありました。相良城は、天正4(1576)年、武田勝頼が高天神城の支城として築いたのが始まりとされています。その後、天...
ここから新しい記事です😊先日、再び牧之原に行って来ました。昨年この浄心寺を訪ねた時は、まだ情報が少なく、平賀源内の墓があることを知りませんでした。浄心寺は、寛永元(1624)年、京都伏見の元住人で、相良湊で廻船業を営んでいた西尾源兵衛が、先祖の菩提を弔うために出家し、浄心日清と称して開創しました。江戸後期には、田沼家の祈願所として雨乞祈祷などで厚く崇敬されました。山門に施されている見事な龍の彫刻は、地...
5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。大澤寺は、元々、高天神城の南東にあり本楽寺と称していました。天正2年(1574年)の高天神城の戦いにて、徳川方の陣として使用されたことにより、兵火で焼失。その後、徳川家康の支援により、相良大沢に再建、本尊阿弥陀如来、今...
5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。平田寺は、弘安6年(1283)年に開創した遠州地方で最も古い禅寺の一つで、今川氏、武田氏、徳川氏など数々の武将から尊崇されました。開山の龍峯宏雲禅師は、足利尊氏の叔父といわれています。宝暦8年(1758)、田沼意次が相良藩主に...
5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。萩間川の左岸にある大江八幡宮は、弘安7年(1284)相良庄守護・上杉憲藤が東中の邸内に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりとされています。嘉暦2年(1327)、東中の屋敷から小牧山に移し、小牧山八幡宮とも呼ばれました。江戸時代に...
5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。般若寺の本堂には、相良城の御殿大書院にあった8枚の「相良城の襖戸」があります。「相良城の杉戸」は、相良城の本丸御殿を彩っていた襖戸の一部と考えられ、竹林に虎や牡丹に鳳凰などの画題が見事に描かれています。絵師は、10代...
般若寺は、田沼意次ゆかりの宝物「陣太鼓」と「相良城の杉戸」を所蔵する曹洞宗の寺院です。本堂鐘楼堂では、本堂の中に入ってみましょう。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。相良城本丸跡を見学後、近くにある壽亭(ことぶきてい)へ。こちらで、田沼意次ゆかりの「田沼蕎麦」をいただきました。やはりここに来たら、人気ナンバー1の田沼蕎麦をいただきたいですね!天ざるに高級感を出したかった壽亭の先...
5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、「相良城ゆかりの史跡」の記事を再アップします。牧之原市の文化財に指定されて仙台河岸は、相良城の外堀に位置し、城内と海を結ぶ船着場だったと考えられています。相良城築城の際、仙台藩主・伊達重村が石垣用材を寄進してつくられたことから、「仙台河岸」とい...
5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、「田沼街道」の記事を再アップします。大和神社(おおわじんじゃ)の前に田沼街道の起点の碑があります。田沼街道は、東海道の藤枝宿と相良城を結ぶ約7里(約28 km)の街道のことで、別名「相良街道」と呼ばれています。相良城主となった田沼意次は、、相良城から東...
昨日の「べらぼう」で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、相良城の記事を再アップします。相良城の遺構を訪ねて行きました。現在、相良城二の丸跡には、相良小学校が建っています。相良城二の丸の松は、相良城二の丸跡の土塁に生育しているクロマツで、相良小学校の南端とグランドに10本あり、市の天然記念物に指定されています。牧之...
船岡山は、京都市北区紫野北舟岡町にある標高111.7m、面積2万5千坪の小山で、船岡山城の遺構が建勲神社、船岡山公園として整備され、京都市街が一望できます。桓武天皇が山頂から山城盆地を見渡して、遷都を決めたという伝承から「京都始まりの地」ともいわれています。また、朱雀大路の真北に位置しているところから、造都に際して船岡山は南北軸の測量基準点となったとの説、頂上付近には露頭した岩が見られるため造都以前から磐...
糺の森を通って河合神社へ。河合神社は、糺の森に鎮座する下鴨神社の摂社です。ご祭神の玉依姫命(たまよりひめのみこと)は女性の守護神、また美麗の神様として信仰があることから、女性の参拝者が多い神社です。手鏡形の絵馬に描かれた顔を自分の顔に見立ててメイクアップし、裏面に願い事を書いて奉納する「鏡絵馬」が人気を集めています。鏡絵馬と一緒に授与される「御供米(おくま)」は、神様にお供えされたお米で、ご飯と一...
下鴨神社のお参りを終えて、糺の森へ。糺の森は、古くは『源氏物語』や『枕草子』に謳われた下鴨神社の境内に広がる原生林で、ケヤキやエノキなどニレ科の落葉樹を中心に、約40種・4,700本の樹木が生育しています。『源氏物語』では、第12帖「須磨」に登場し、光源氏が都を離れて須磨に退去する際、「憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ 名をば糺すの神にまかせて」と詠んでいます。平安京が置かれた時代には約495万平方メートルの...
次に、境内の御手洗池の方に向かいます。御手洗池御手洗池は井上社ともいわれる御手洗社(みたらししゃ)の下にある井戸や御手洗池の下から湧き出る水などを水源とし、御手洗池などから湧き出した水は御手洗川になります。御手洗川は、土用になると池の周辺や川の底から清水が湧きでるところから鴨の七不思議にかぞえられ、湧きあがる水泡の姿を団子にかたどり、みたらし団子の発祥としました。また、土用の丑の日にこの池の清水に...
京都市左京区下鴨泉川町に鎮座する賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社で、奈良時代以前から朝廷の崇敬を受けました。上賀茂社(賀茂別雷神社)に対して、通称下鴨神社といい、玉依姫(たまよりひめ)命とその父賀茂建角身(かもたけつのみ)命を祀っています。大同2年(807年)には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされ、弘仁元年(810年)以降約400年にわたり...
葵祭は、京都三大祭の一つで、正式名称は賀茂祭(かもさい)といいます。賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭で、毎年5月15日に行われます。下鴨神社上賀茂神社6世紀の中頃、欽明天皇の頃に凶作が続いたので、鴨の神の祟りを鎮めるため、4月吉日に鈴をつけた馬を走らせて、五穀豊穣を祈ったのが始まりと伝えられています。平安中期の貴族の間では、祭りといえば葵祭のことをさすほど有名で、その盛況ぶりは「源...
上京区葭屋町に、平安宮 検非違使庁址の碑があります。検非違使は、京都の治安維持を担当した役職で、犯罪者の取締りから疫病などによる遺体処理まで、さまざまな仕事を任せられていました。当時、検非違使庁の別当であった藤原実資は、花山院に矢を射かけた事件(長徳の変)で、藤原伊周の屋敷を捜索したことを自身の日記『小右記』に記しています。平安京 検非違使庁址 東を堀川小路(堀川通)、北を鷹司小路(下長者町通)、...
長谷寺から玉鬘神社へ。玉鬘神社(たまかずらじんじゃ)は、紫式部の『源氏物語』に登場する姫君・玉鬘をお祀りしています。玉鬘は源氏物語第22帖に登場する玉鬘は、頭中将と夕顔の間に生まれた娘。夕顔の亡き後、筑紫国に下向。美しく成長した後、筑紫から上京し、長谷寺に詣でた際、母・夕顔の侍女だった右近に再会したのをきっかけに光源氏の養女となります。源氏は夕顔を六条院の夏の町に住まわせて大切にし、やがて想いを寄せ...
続いて奥の院へ陀羅尼堂長谷寺の塔頭寺院。正堂、礼堂を併せ菩提院と称します。歴代能化墓所真言宗豊山派の派祖と崇拝される専誉僧正をはじめとする長谷寺歴代の能化(住職)の墓所の中に、豊臣秀長の供養塔があります。豊臣秀長の供養塔大手鞠が綺麗に咲いていました。奥の院から本坊へ。和傘と牡丹が出迎えてくれます。閼伽井本坊本坊の境内には、皇族の名前を記したお手植えの松があります。天皇・皇后お手植えの松大講堂や書院な...
長谷寺の諸堂を巡ります。愛染堂曽我地蔵大黒堂開山堂長谷寺開山・徳道上人と西国三十三所各霊場のご本尊をお祀りしています。御影堂本長谷寺長谷寺創建の地に建っています。天武天皇の勅願により、道明上人がここに精舎を造営したことから、今の本堂(今長谷寺)に対し本長谷寺と呼ばれています。朱鳥元年(686)、道明上人は天武天皇の御病気平癒のため『銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)』を鋳造し、本尊としてお祀りされました。...
仁王門から本堂までの399段の長い登廊を上りきり、やっと長谷寺の本堂に到着。小初瀬山の斜面に建つ国宝の本堂は、慶安3年(1650)、徳川家光により造営された大殿堂。10mを越す本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、本尊を参拝する礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造になっています。ご本尊は、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大磐石という台座に立つ長谷寺式十一面観世音菩薩...
登廊平安時代の長歴三年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれています。下、中廊は明治二十七年(1894)再建で、長谷型の灯籠が吊るされています。また、1~2月には冬牡丹、4月下旬~5月下旬に牡丹の花を鑑賞することができます。下登廊の途中には、長谷六坊の一つであった「清浄院」の跡地に、宗宝蔵(しゅうほうぞう)が建っています。宗宝蔵春と秋に長谷...
仁王門から右の小道に向かうと、『源氏物語』二十二帖「玉鬘」ゆかりの二本の杉があります。幹の根元がくっついた杉の大木です。 謡曲「玉鬘」と二本の杉 謡曲「玉鬘」は源氏物語玉鬘ノ巻に拠ったもので、初瀬詣の旅僧の前に現れた玉鬘の霊が、僧を長谷寺の”二本の杉”の下に案内し、この杉の下で亡母の侍女右近とめぐりあった話を述べるという物語になっている。 玉鬘は、光源氏と契り生霊にとりつかれて死んだ夕顔の娘で、故あ...
奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山の寺院・長谷寺初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されています。朱鳥元(686)年、僧道明上人が天武天皇のために銅板法華説相図(国宝)を西の岡に安置したことが始まりとされています。平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集め、平安貴族の間で「初瀬詣」が人気となり、...
長徳の変(ちょうとくのへん)とは、長徳元年(995年)4月10日の藤原道隆の死後、弟の藤原道長が内覧の宣旨を得た後に起きた政変で、花山院闘乱事件(かざんいんとうらんじけん)ともいわれています。長徳2年(996年)正月16日、太政大臣藤原為光の四女に通う花山法皇を、自分の思い人の為光三女が目当てと誤解した藤原伊周が、隆家と謀って道すがら待ち伏せ、彼らの従者が放った矢が法皇の袖を突き通した一件に発端するといわれてい...
錦天満宮は、京都市中京区錦小路通新京極にある神社で、菅原道真をお祀りしています。京の台所として知られる錦市場の東の端にあり、『錦の天神さん』として親しまれています。長保5年(1003年)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸菅原院跡地にあった歓喜寺を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築し、その鎮守社として天満天神を祀った天満宮として創建されたのに始まる(菅原院の地には菅原院天満宮神社が建てられる)。正安元...
最後は、石清水八幡宮の摂社の高良神社に参拝しました。吉田兼好の「徒然草」には、仁和寺の法師が八幡宮参詣に来た折り、間違って高良神社に参詣したエピソードが記されています。徒然草第52段仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石淸水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。極樂寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比...
石清水八幡宮の山上からケーブルで降りて、山麓の下院を散策しました。表参道には、八幡宮の門前名物・走井餅(はしりいもち)のお店があります。元々は、大津で江戸時代に創業した店で、大津の走井という名水を使い、餅や餡を作ったそうです。それが、大津名物となり、歌川広重の錦絵「東海道五十三次」にも茶店として登場しました。明治の終わりには、京都の八幡にも支店を出し、八幡名物となったそうです。こし餡をお餅で包んだ...
『源氏物語』第二十二帖では、筑紫から都に戻った玉鬘が、参拝する神社として描かれ、『枕草子』には、祭りの様子や一条天皇が行幸から帰る様子が書かれています。八幡神は、源氏の氏神として知られ、源氏は全国各地に八幡大神を勧請しました。源氏の源義家は、石清水八幡宮で元服し、自らを八幡太郎義家と名乗りました。義家の父である源頼義が石清水八幡宮を河内源氏の本拠地・河内国石川郡壷井(大阪府羽曳野市壺井)に勧請したの...
京都府八幡市の石清水八幡宮は、男山の丘陵上に鎮座することから男山八幡宮ともいわれています。清和天皇の859年宇佐神宮から分祀したのが始まりとされ、平安京においては北東側の鬼門を守護する延暦寺に対し、南西側の裏鬼門を守護する神社として位置づけられました。国家鎮護の神として朝廷の篤い保護を受け、度々天皇の行幸が行われました。藤原道兼は、一条天皇の即位行事や石清水八幡宮の行幸を取りしきり、昇進を重ねていき...