徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
明石の『源氏物語』ゆかりの地(1)善楽寺「明石入道・浜の館」
光源氏が明石の君と出会う舞台である兵庫県の明石を訪ねました。須磨で寂しい生活を送っていた光源氏が、住吉の神の導きにより、須磨を離れることに。その予言どおり、翌朝、明石入道が迎えの船に乗って現れ、源氏一行は明石入道の邸へと移りました。そこで、明石入道の娘の明石の君と出会い、姫を授かることになります。善楽寺は、戒光院・円珠院の総称です。戒光院は『源氏物語』の第13帖「明石」で、明石入道が澄んでいた「浜の...
地域タグ:明石市
須磨区多井畑には、在原行平に寵愛された松風・村雨の墓があります。松風・村雨 まつかぜ・むらさめ在原行平(ありわらの-ゆきひら)が須磨(すま)でよんだという歌をもとに生まれた説話上の姉妹。かつて行平に愛された海女の姉妹が亡霊となって旅の僧の前にあらわれ,行平形見の狩衣(かりぎぬ)を身につけて舞う。能「松風」,御伽(おとぎ)草子「松風村雨」,人形浄瑠璃(じょうるり)「松風村雨束帯鑑(そくたいかがみ)」などは松風物とい...
地域タグ:須磨区
多井畑厄除八幡宮の近くには、義経腰掛けの松があります。源平合戦の折り、源義経一行は、多井畑厄除八幡宮で先勝祈願をした後、この地の松に腰をかけ休息を取り出陣したと言い伝えられています。義経腰掛の松 1184年(寿永3年)2月7日未明源義経一行は多井畑厄除八幡宮で戦勝祈願した後、この松の木の下で休息をとり一の谷に向かったと伝えられている。それから後、村人はこの場所に社を作り「ほんがんさん」の愛称で親しみと尊敬...
地域タグ:須磨区
京都市西郊を流れる桂川のうち、嵯峨の嵐山の麓を流れる川は大堰川(おおいがわ)と呼ばれています。上流は亀岡盆地を流れる保津川、渡月橋から下流を桂川と呼び、淀で淀川に合流。嵐山・小倉山・渡月橋などがある平安遷都直後から著名な景勝地で、藤原道長など平安貴族が遊覧したことでも知られています。大堰川での舟遊び「三舟の遊興」が開かれたのは、寛和2年10月10日(986年11月14日)に円融上皇臨席の下、開催されたもので、道...
地域タグ:京都市
多井畑厄神にある「鏡の井」の一帯は、字畑殿と呼ばれ、松風・村雨の育った館の跡だと伝わっています。須磨にわび住まいした在原行平に寵愛された松風・村雨は、多井畑の村長の娘だったといわれています。「中納言行平朝臣、須磨の浦に左遷され村雨・松風二(ふたり)の蜑(あま)に逢ひ、戯れるの図」 月岡芳年画。多井畑には、二人が水鏡として使ったといわれている泉があり、「鏡の井」と呼ばれています。鏡の井由来仁和三年(...
地域タグ:須磨区
神戸市須磨区に鎮座する多井畑厄除八幡宮(たいのはたやくよけはちまんぐう)は、多井畑の厄神さんの愛称で親しまれています。須磨に配流された在原行平や、一の谷の合戦の際には源義経が祈願したといわれており、日本最古の厄除けの霊地と伝えられています。 770年(神護景雲4年)6月に疫病が大流行し、それを鎮めるために五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)の国境10ヶ所に疫神を祀り、疫祓いが行われました。多井畑厄除八幡...
地域タグ:須磨区
須磨寺の宝物館の一角にある「須磨寺小石人形舎」では、アートデザイナーの故木島武雄氏が、須磨や各地の小石を集めて『源氏物語』や源平合戦の場面を表した小石人形が展示されています。光源氏を彩る人々光源氏、葵の上、桐壺帝、桐壺更衣、紫の上など百人一首の詠人清少納言、小野小町など在原行平と松風村雨源平合戦などの情景が、センサーで作動して動くしくみになっています。一の谷合戦平敦盛青葉の笛を吹く平敦盛平家の公達...
地域タグ:須磨区
※須磨寺の続きをアップし忘れていましたので、須磨寺にプレイバックします(..;)須磨寺の宝物館には、「青葉の笛」などの平敦盛と源平ゆかりの宝物や須磨寺の歴史的宝物が展示されています。宝物館の中も撮影OKですが、ガラスに反射して上手く撮れていません(..;)平敦盛像 熊谷蓮生坊作という敦盛の像青葉の笛青葉の笛(太い笛) (右)青葉の笛は、もともと弘法大師が中国(唐)へ留学していた時に、長安の青龍寺というお寺の竹(天...
地域タグ:須磨区
今宮神社の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)で、正暦5年(994)に船岡の上に創立されたといわれ、平安初期に疫病を祓うために、京中の人々が疫神お祀ったのに由来するとされています。東門長保3年(1001)の疫病流行の際、一条天皇が船岡山に安置されていた疫神を当地に移し、今宮と名付けたのが始まりとされています。楼門本殿本殿は明...
地域タグ:京都市
藤原道長の時代から行幸が始まり、一条天皇は即位直後から、たびたび行われた神社行幸を度々行っていました。一条天皇の神社行幸は、藤原氏の権威を示す側面もあったといいます。四条通の西端に鎮座する「松尾大社」もそのひとつです。大宝元年(701)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)がふもとの現在地に社殿を建てて移し、同氏の氏神にしたと伝えられています。平安京の鎮護の神とされ、東の厳神といわれた賀茂社に対し西の猛霊と称...
地域タグ:京都市
第66代天皇・一条天皇の父は円融(えんゆう)天皇、母は藤原兼家の娘・東三条院詮子(せんし)。984年(永観2)花山天皇の皇太子となり、986年(寛和2)7歳で即位。初め外祖父の兼家が摂政となり執政し、兼家死後はその子道隆、道兼が摂関となり、ついで藤原道長が内覧の肩書で大臣として政権を掌握しました。初め、道隆の女定子を皇后としましたが、のち道長の女彰子が立后、一帝二后の例を開きました。定子には第1皇子敦康、彰子には...
地域タグ:京都市
天神さん・北野さんなどと親しまれている北野天満宮昌泰4年(901年、)菅原道真が藤原時平の讒言にあい、大宰府に左遷されるという昌泰の変が起き、延喜3年(903年)に道真は大宰府で無念の死を遂げました。その後、藤原時平が延喜9年(909年)4月に亡くなったり、落雷などの災害が相次ぐと、これが道真の怨霊による祟りだとする噂が広まり、天暦元年(947)、朝廷の命により、社殿が造営されたのが起源とされています。永延元年(...
地域タグ:京都市
須磨離宮公園の日本庭園の方に進んで行きます。石灯籠傘亭(傘形四阿舎 かさがたあずまや-)傘亭は、大正3年に造営された武庫離宮内に建てられた一本柱・六角形屋根の四阿舎で、青銅製擬木の柱や竹穂葺屋根という全国的にも珍しい特徴を持った四阿舎です。昭和20年の神戸大空襲で屋根部分が焼失したといわれ、柱だけが残っていましたが、平成23年10月に復元されました。月見台と四阿舎「傘亭」在原行平月見の松跡源氏物語の主人公...
地域タグ:須磨区
須磨を巡る(11) 須磨離宮公園 噴水広場~王侯貴族のバラ園
須磨離宮公園は、かつての皇室の別荘「武庫離宮」の跡地に整備された都市公園です。正門離宮道の松並木を含めて離宮当時の面影をとどめています。丘陵に広がる面積82ヘクタールの広大な敷地に、西洋式庭園を中心とする本園と植物園からなっています。須磨離宮(正式名称・武庫離宮)約100年前、皇室の別荘である「須磨離宮」が建造されました。 総檜造り2階建ての御殿は、大正天皇や皇后、昭和天皇、満州国皇帝の溥儀もご利用されま...
地域タグ:須磨区
この首塚(五輪塔)は、寿永3年(1184)年2月7日に起きた一の谷の戦いで、熊谷直実に討たれ戦死した平敦盛の菩堤を弔う為に建立されたものです。平敦盛卿首塚 敦盛卿の御首を埋葬する。敦盛卿は首と胴とは別々に埋葬せしも胴塚は幕討死の場所たる一の谷にあり謡曲「敦盛」と敦盛首塚謡曲「敦盛」は、戦乱の巷では敵であった者同士が、極楽浄土で共に成仏する運命になった事を主軸にして作曲された修羅物である。一の谷の戦いで少...
地域タグ:須磨区
本堂仁和二年開創当時の本堂には、松風村雨物語で有名な在原行平が参籠して、勅勘を許されたと伝えられています。その後、火災、洪水、地震などの災害によりたびたび建て直されました。現在の本堂は、慶長七年(1602)に、片桐且元を建築奉行とし、豊臣秀頼が再建したものです。(但し内陣の宮殿は応安元年(1368)の建造)三重塔弘法大師千百五十年御遠忌、当山開創千百年、平敦盛卿八百年遠忌を記念して昭和59年に再建されました。(旧...
地域タグ:須磨区
山陽電車「須磨寺」駅より徒歩7分ほどのところにある須磨寺公園は、源平ゆかりの古刹「須磨寺」に隣接した公園です。春は堂谷池を中心に桜が咲き誇り、桜の名所にもなっているそうです。ここを訪ねたのは、昨年の秋でしたので、春の光景も見てみたいです。浮御堂にはベンチがあり、休憩できます。『源氏物語』の「須磨」の一節が書かれていました。ここから須磨寺を目指して坂道を登っていきます。仁王門が見えてきました。仁王門...
地域タグ:須磨区
松風村雨堂(まつかぜむらさめどう)は、須磨区離宮前町1丁目にある平安時代の多井畑の村長の娘「もしほ」(松風)と「こふじ」(村雨)が在原行平を慕い建てた庵の跡です。在原行平は、平安時代の歌人で、同じく光源氏のモデルの一人とされる 在原業平の兄です。 松風村雨堂(神戸市地域史跡)松風村雨堂は、謡曲「松風」を初め、多くの文学に取り上げられた松風、村雨の二人の姉妹にまつわるお堂で、次のような伝説によって広く...
地域タグ:須磨区
続いては、須磨の菅原道真ゆかりの「菅の井」を訪ねました。伝説によれば、901(延喜元)年、菅原道真が九州太宰府に流される途中、風波を避けて須磨に一時上陸した際、浦人たちは漁網の大綱を巻いて円座をつくり、道真に休んでいただいたといわれています。その時に西須磨の旧家である前田家の人が井戸の水をくんで差しあげたところ、道真は大いに喜び自画像を前田家に与えたそうです。前田家ではこの井戸を「菅の井」と名付け、そ...
地域タグ:須磨区
頼政薬師寺の正式名称は「浄福寺」ですが、西須磨の旧家前田氏が建立し、源頼政が再興したことから通称「頼政薬師寺」と呼ばれています。寺号を浄福寺(俗に頼政薬師)と言う。浄福寺はこの地、西須磨の旧家前田氏の建立と伝えられ、御本尊は、薬師如来。聖徳太子の御作で像高は、一尺ばかり。脇士は十二神将。久寿の頃(1154・1155年)源三位頼政が再興したことから、俗に頼政薬師と言われている。そしてまた、本堂と十二神将は、...
地域タグ:須磨区
須磨浦地域福祉センターの前には、藤原師長ゆかりの「琵琶塚」の石碑があります。藤原師長像(『天子摂関御影』より、三の丸尚蔵館蔵)藤原師長ふじわらのもろなが(1138―1192)平安後期の政治家、音楽家。左大臣頼長(よりなが)の第2子で、1156年(保元1)父に連坐(れんざ)して土佐に流されたが、のち召還され、77年(治承1)に太政(だいじょう)大臣の位まで昇るが、79年には平清盛によって追放され、尾張(おわり)で出家した。法名...
地域タグ:須磨区
須磨区にある村上帝社(むらかみていしゃ)は、村上天皇を祀る神社です。この神社の創建について、次のような伝承がある。平安時代末期、琵琶の名人であった藤原師長は唐に渡って琵琶の奥義を極めたいと思い、都を出て、須磨まで来た。その夜、村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝えたので、師長は入唐を思いとどまり、名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。この伝承を題材として能の「絃上」(玄象)が作られた。この伝承に...
地域タグ:須磨区
現光寺(げんこうじ)は、室町時代の永正11年(1514)創建とされる浄土真宗本願寺派のお寺です。京都からわずかなお供を引き連れ、須磨へ移った光源氏が住まいしていた地と伝えられ、『源氏物語』ゆかりの寺として、源氏寺とも呼ばれています。本堂 鐘楼境内には、松尾芭蕉の句碑「見渡せば 跳むれば見れば 須磨の秋」が立っています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブロ...
地域タグ:須磨区
神戸市須磨区にある関守稲荷神社(せきもりいなりじんじゃ)は、須磨の関の守護神、稲倉魂神を祀る神社です。名前の由来は、源兼昌が詠んだ百人一首のうちの一首に登場する須磨の関があったとされる場所に神社を建てたことから来ているそうです。須磨の関は古代、畿内と西国とを繋ぐ交通と軍事の要衝として重視されました。清少納言の『枕草子』にも、「関は、逢坂の関・須磨の関・鈴鹿の関・岫田の関・白河の関・衣川の関」と記さ...
地域タグ:須磨区
伏見区西桝屋町の伏見大仏で知られる欣浄寺(こんじょうじ)は、曹洞宗の開祖・道元が鎌倉時代に創建したと伝わります。当地には、小野小町の恋人であった深草少将ゆかりの邸宅があったとされ、境内には「少将の通い道」や少将と小野小町の塚、「墨染井」と呼ばれる井戸があります。深草少将は、小野小町から、「私の元へ百日間通い続けたら結婚してもいい」と言われ、九十九夜通い、いよいよ百日目という日に、雪に埋まり凍死したと...
地域タグ:京都市
仁王門を潜ると、石畳の参道が続き、その先に本堂が見えてきます。本堂慶長13年(1608年)再建。入母屋造、本瓦葺き。桁行七間、梁間五間。釈迦如来像、十界曼荼羅の他、日蓮と日像の像を安置。2003年(平成15年)に解体修理が行われました。多宝塔室町時代の永享11年(1439年)以前のもので、京都で一番古い多宝塔とされています。太鼓楼仁王門から見下ろした景色にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろ...
地域タグ:京都市
京都市伏見区深草宝塔寺山町にある宝塔寺は、藤原基経が嘉祥年間に発願した真言宗の極楽寺が宝塔寺の前身とされています。極楽寺は基経の没後、嫡子の藤原時平により昌泰2年(899年)に聖宝を開山として完成。『源氏物語』第33帖「藤裏葉」では、夕霧の祖母(葵上の母)大宮の一周忌が極楽寺で行われました。室町時代、日像は妙顕寺で入寂、遺言により当寺において荼毘に付されて葬られ、その後、寺名を宝塔寺に改めました。総門 室...
地域タグ:京都市
野宮じゅうたん苔苔を用い嵐山を表した美しい庭園として有名な「野宮じゅうたん苔」神石(亀石)野宮大黒天のそばにある神石(亀石)を撫でながらお祈りすると、 一年以内に願い事が成就すると言われています。龍神手水鉢脇の井戸「野宮の竹美しや春しぐれ」の句碑大山弁財天前の庭には、村山古郷作「野宮の竹美しや春しぐれ」の句碑が建っています。絵馬謡曲「野宮」と野宮神社 晩秋のある日、旅僧が野々宮にやって来ると、1人の艶...
地域タグ:京都市
野宮神社は、伊勢神宮に奉仕する斎王が伊勢に向う前に潔斎をした「野宮」に由来する神社であると伝えられています。天皇が代替わりすると、未婚の皇女・女王の中より新たな斎王が卜定され、宮中の初斎院で1年間、そして嵯峨野の清らかな場所を選び造営された野宮に入り1年間潔斎した後に斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)に向かい伊勢神宮での神事に臨んだ。その時の行列を「斎王群行」といい、1998年(平成10年)より毎年10月の...
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徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
日本橋堀留町に鎮座する三光稲荷神社は、江戸三座の一つである中村座に出演していた歌舞伎役者・関三十郎が伏見より勧請したと言われ、娘さん、子供、芸妓の参拝で賑わったそうです。当社は落語「百川」にも登場します。百川(ももかわ)は古典落語の演目。6代目三遊亭圓生の十八番として知られる。田舎(いなか)から出てきた百兵衛は、葭町(よしちょう)の千束(ちづか)屋という桂庵(けいあん)(口入れ屋)からの紹介で日本橋浮世小...
江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
東京メトロ銀座線・半蔵門線の三越前駅より徒歩1分、中央区日本橋室町にある福徳神社(福徳稲荷)貞観年間(859年~876年)には既に鎮座していたとされています。日本橋室町二丁目付近は、昔は武蔵国豊島郡福徳村という農漁家の点在する片田舎で、その村名から「福徳稲荷」と呼ばれました。村人は神社の森を「稲荷の森」、里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいましたが、明暦3年(1657)正月8日の大地震により、...
中央区日本橋大伝馬町「べらぼう」で、片岡愛之助さんが演じる鱗形屋孫兵衛は、江戸時代、通旅籠町と呼ばれたこの地に地本問屋を構えていました。浄瑠璃本、草双紙、吉原細見、宝船などでを手掛け、安永4年(1775年)に恋川春町『金々先生栄花夢』を刊行して黄表紙をヒットさせました。日本橋堀留町に鎮座する池州稲荷神社は、かつて鱗形屋を同じ通旅籠町にあったったといわれています。創建年代などは不祥ですが、池州屋敷の池沼...
人だけでなく、軍用犬・軍馬慰霊碑や「猫塚」「唐犬八之塚」「オットセイ供養塔」「犬猫供養塔」「小鳥供養塔」、邦楽器商組合の「犬猫供養塔」(三味線の革の供養)など、さまざまな動物の慰霊碑、供養碑、ペットの墓も多数。著名人の墓として、山東京伝、竹本義太夫、鼠小僧次郎吉などの墓があります。山東京伝の墓鼠小僧次郎吉の墓猫塚1793年(寛政5年)、老中・松平定信の命によって造立された「水子塚」は、水子供養の発祥とさ...
明暦大火の供養塔明暦の大火振袖(ふりそで)火事,丸山火事とも。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火し,江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした火事。死者10万人以上といわれ,江戸城も西丸を残して焼失。幕府は復興に際し御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転,寺社の外辺部への移転などを進め,町屋も道幅を広げ,広小路や火除地を設定,家屋の規模を定めるなどの措置をとった。(コトバンクより)明暦三年(1657...
墨田区両国二丁目にある回向院は、振袖火事と呼ばれる明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の焼死者10万8千人を幕命(当時の将軍は徳川家綱)によって葬った万人塚が始まりで、のちに安政大地震をはじめ、水死者や焼死者・刑死者など横死者の無縁仏も埋葬されました。明和5年(1768)以降には、境内で勧進相撲が興行され、これが今日の大相撲の起源となり、明治42年(1909)旧両国国技館が建てられました。回向院明暦三年(1657)、江戸史...
今夜の「べらぼう」で、ついに蔦重が日本橋に進出することに🙌今まで敵対してきた鶴屋もようやく蔦重の才覚を認め、通油町が吉原ものを歓迎するというお話でした。中央区日本橋大伝馬町に、蔦屋重三郎「耕書堂」跡の案内版があります。日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)は、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門、西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心...
大伝馬本町本通りは、かつての日光・奥州街道です。江戸時代、五街道の起点・日本橋は交通の要所で、大伝馬町本通には、「越後屋」や「白木屋」などの店が軒を連ねていました。日本橋から延びる日光東照宮への参詣道「日光街道」も人や物が行き交い、日本橋の町は大変賑わいました。徳川家康公江戸開府に際し、御傳馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し以後大傳馬町と称された(碑文より)江戸名所図絵や広重の錦絵に...
神田駅から歩いて4~5分のところにある旧今川中学校のグラウンド前に「平賀源内居住跡」の案内板があります。平賀源内は、讃岐から上京してから転居を繰り返し、神田白壁町(現・鍛冶町)や神田大和町、神田橋本町などに住んでいたといいます。(千代田区観光協会リーフレットより)今年に入り、「べらぼう」が始まってから設置されたようです。平賀源内(享保13年(1728)~安永8年(1779))は、エレキテル(摩擦静電気発生装置) の...
合祀殿籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀。籠祖講関係石造物群千代田区指定有形文化財2005年(平成17年)4月1日指定籠祖(かごそ)神社は、塩土翁神と猿田彦大神祭神が祭神で、社伝によれば1798年(寛政10年)に神田神社...
神田明神は何度か参拝してますが、今まで見逃していたのが、浮世絵師 水野年方顕彰碑です。水野年方(みずのとしかた)日本画家。通称は粂次郎。初め月岡芳年に歌川派の錦絵,山田柳塘に陶画,柴田芳州に南画を学び,のち三島蕉窓,渡辺省亭に師事して人物画,草木画,風景画を得意とした。1887年頃から『やまと新聞』に挿絵を描き,また日本美術協会,日本美術院,日本画会に作品を発表するかたわら,評議員や審査員を務め,浮世絵...
鳳輦神輿奉安殿神田祭において、一の宮・大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦、二の宮・少彦名命がお乗りになる二の宮神輿、神田明神大神輿を奉安する。神田祭の時にこの場所で「鳳輦神輿遷座祭」を執り行う。(神田明神HPより)三の宮奉安庫 (鳳輦庫)三の宮・平将門命(たいらのまさかどのみこと)、平将門様のお乗りになる神輿が奉安されています。三宿稲荷神社・金刀比羅神社三宿稲荷神社 江戸時代より神田三河町の氏神として奉斎...
続いて神田明神の摂末社の紹介です。魚河岸水神社 日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間に神田明神境内に遷座しました。魚河岸水神社 御祭神 弥都波能売命祭礼日 五月五日 日本橋魚河岸水神社は、徳川家の武運長久と併せて大漁安全を祈願する為、魚河岸の先人により武蔵国豊嶋郡柴崎村神田神社境内(今の千代田区大手町)に鎮座された。 元和年間(1615~)神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水...
神田明神の境内を紹介します。御社殿昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿。本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られて昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。現の社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造・総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵...
神田明神(かんだみょうじん)は、千代田区外神田二丁目にある神社で正式名称は神田神社大鳥居をくぐるとすぐに随神門があります。随神門昭和天皇御即位50年の記念事業として昭和50年に新たに再建されました。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻が、二層目には、平将門に由来する金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が...
滝沢馬琴住居跡から神田明神に向かう際、急な階段が立ちはだかりました。この石段は「明神男坂」と呼ばれ、『江戸名所図会』にも登場します。『江戸名所図会』にも登場するこの坂は、江戸時代には「明神石坂」、「石坂」、「明神東阪」などと呼ばれていました。高台で見晴らしが良かったため、風光明媚な場所として錦絵にも描かれています。幕府が1825年から1828年(文政8年~11年)の間に町名主に提出させた、町の情報をまとめた...
外神田三丁目の芳林公園の前に滝沢馬琴住居跡の案内板があります。滝沢馬琴は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などを著わした江戸時代の戯作者(げさくしゃ)です。旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(現在の九段北一丁目)の下駄屋会田家の養子となりますが、家業を人に任せ、戯作者としての道を歩み始めます。1824年(文政7年)には、外...
土日祝日は、湯島聖堂の大成殿の内部が公開されています。ちょうどこの日は土曜日でしたので、内部を見学してきました。大成殿(たいせいでん)湯島聖堂の中心的な建造物で、孔子を祀るための殿堂。間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。大成とは、孔子廟の正殿の名称。宋(北宋)の仁宗のとき命名。「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。殿内、中央...
もとは、蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅地で、手水舎の飛鳥井(あすかい)は、清少納言の『枕草子』の中で、9つの代表的な井戸のひとつに挙げられています。飛鳥井白峯神宮の飛鳥井は平安の昔から有名です。平安時代の歌謡曲の催馬楽「飛鳥井」には「飛鳥井に宿りはすべし、や、おけ、蔭もよし、御水(ミモヒ)も寒し、御秣(ミマクサ)もよし」と謡われていて、オアシスのように人々が憩っていたと想像されます。(や、おけ...
京都市上京区今出川通にある白峯神社のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳天皇は、鳥羽天皇の皇子としてご生誕、保安4年に第75代の天皇に即位されましたが、保元の乱により、讃岐に配流され、長寛2年に45歳で崩御、白峰山陵に奉葬されました。讃岐に配流されてからは、髪も剃らず、爪も切らずに日本国の大魔縁になって朝廷を呪い続けたと伝えられています。崩御されてから大火事や不穏な事件が頻繁に起きたため、崇徳天皇の祟...
法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院で、開基は待賢門院とされています。ここは平安時代初期の右大臣・清原夏野の山荘を平安末期に待賢門院(鳥羽上皇の中宮、後白河天皇の母)が再興した律宗のお寺です。清原夏野(きよはら の なつの)は、平安時代初期の皇族・公卿。舎人親王の孫である内膳正・小倉王の五男。官位は従二位・右大臣、贈正二位。清原夏野『前賢故実』延暦23年(804年)同じ内舎人の官職にあった親族の...
下京区夕顔町に夕顔之墳があります。ここは、『源氏物語』第4帖「夕顔」に登場する夕顔の屋敷があった場所とされ、住宅地の一角に立つ石碑には「源語傳説 五條邊 夕顔之墳」と刻まれています。昭和4年に京都史蹟会によって建てられたそうです。夕顔は物語の中の架空の人物ではありますが、当地の地名も夕顔町となっています。「源氏夕顔巻」(月岡芳年『月百姿』)光源氏が夕顔の屋敷に泊まると、深夜に夢に嫉妬したもののけ(六条...
北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方違え(方除け厄除けの神)として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの...
元三大師堂本尊は元三大師(良源)。他に毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置。毘沙門天は京都七福神の一つ。鐘楼手水社廬山寺(ろざんじ)(廬山天台講寺[ろざんてんだいこうじ])沿革天慶年中、元三大師良源によって草創される。良源は康保3年(966)55歳で第18世天台座主となり、内供奉に補せられて以降、比叡山から宮中に参内するにあたり、現船岡山の麓、現蘆山寺通北に輿願金剛院を建立し、寛和元年(985)正月3...
京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。山門南門(薬医門)遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、藤原為時に譲り、紫式部はこの邸で生まれ育ち、『源氏物語』を執筆したとされています。廬山寺(ろざんじ)現在の廬山寺は豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、ただしくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(じけいだいし りょうげん)...
藤原宣孝 は、正暦元年(990)、御嶽詣を行い、その年筑前守となりました。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か長保元年(999)のはじめといわれいます。紫式部の父の為時と為輔はいとこであり、宣孝と式部はまたいとこの関係にありました。998年には、石清水臨時祭、賀茂臨時祭の舞人を奉仕、同年山城守を兼任。11月末には豊前国宇佐神宮の奉幣使に任ぜられ、翌年帰京。この年4月平野臨時祭の勅使となり、7月相撲召合にも武官として...
合格門をくぐり、階段を上がっていくと、安倍晴明をお祀りする晴明堂に行き着きます。 晴明堂は、平安時代の陰陽師・安倍晴明をお祀りしています。 当山は安倍一族の寺として古来より安倍晴明信仰の聖地の一つとして数えられています。平成十六年(2004)、安倍晴明千回忌を迎えるにあたり二百年振りに晴明堂が再建されました。 正面にある「如意宝珠」は、いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある...
石仏石仏群は、江戸時代、境内地に四国八十八所・西国三十三所の本尊仏として祀られていた石仏を一同に安置したものです。その前には弘法大師像と御砂踏み石がお祀りされており、「御砂踏み石」の中には四国八十八所の御砂が奉納されています。(案内板より)白山堂 白山堂は、室町時代に建立されました。流造屋根柿葺(こけらぶき)で美しい曲線の唐破風をもった社殿です。 国の重要文化財にも指定されています。 御祭神は全国の白...
続いて、十一面観音をお参りしました。十一面観音 十一面観音は、苦しんでいる人をすぐに見つけるため、頭上に十一のお顔があり常に全方向を見守っています。 奈良時代から多く信仰され、延命、病気治癒などを願って各地でお祀りされるようになりました。 古来より当山に伝えられる十一面観音は昭和五十七年(1982)に、この場所に勧請し建立されました。また十一面観音の周りの側壁には四千五百体の奉納仏がお祀りされています...
安倍文殊院の稲荷社は、安倍晴明出生の地として、晴明の母とされる白狐・信太森葛葉稲荷が祀られています。江戸時代までは、境内の西古墳の頂上に稲荷社があったそうですが、現在は晴明が祀られている金閣浮御堂が見える場所に移されています。五穀豊穣・金運財運・商売繁盛・家運隆昌等の御利益が厚いことで信仰されています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴...
続いて金閣浮御堂へ。金閣浮御堂金閣浮御堂・霊宝館は開運弁財天(大和七福神)、安倍仲麻呂、安倍晴明の御尊像、安倍晴明の御尊軸、方位災難除けの九曜星など、陰陽道に関する宝物をお祀りしている御堂で内陣参拝できます。堂内の壁面には、秘仏の十二天御尊軸(四方(東・西・南・北)と、四隅(東北・東南・西北・西南)の八方、天と地、日と月、すべての方角を司る守護神)がお祀りされています。この御堂は「七まいり」という魔...
奈良県桜井市阿部にある安倍文殊院は西暦645年に創建された寺院で、京都・天橋立の切戸文殊、山形の亀岡文殊と共に日本三文殊のひとつです。表山門大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂が大化元年(645年)に孝徳天皇の勅願もあって安倍氏の氏寺として安倍山崇敬寺(安倍寺)を建立したのが始まりである。創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところにあったが、平安時代末期に多武峰の妙楽寺(現、...
大津市歴史博物館では、令和6年(2024年)1月から、特集展示「源氏物語と大津」を約1年間にわたって開催されています。私は3月末に見て来ました。エントランスロビーの無料エリアでは、石山寺本堂の「源氏之間」が再現されており、中に入って写真撮影ができるフォトスポットになっています。「源氏之間」再現コーナーこの横には、紫式部になりきれるフォトスポットもあります。デジタル絵巻54帖各巻のあらすじや関係図が楽しめます。...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。平成橋『紫式部日記絵巻』「御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部」「御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧」蛭子橋『源氏物語絵巻』「柏木(一)女三宮を見舞う朱雀院」「柏木(二)病に伏す柏...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。千代鶴橋『紫式部日記絵巻』「新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長」この 国安橋の向こうには、千代鶴神社があります。昭和7年(1932年)に建てられた神社で、越前打ち刃物の祖「千代鶴国安」をお祀りしています。千代鶴国安は良...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる7つの橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。鈴虫橋『紫式部日記絵巻』道長から賀の歌を求められる紫式部御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長岩永橋『紫式部日記絵巻』「御五十日祝いに若宮を抱く中宮と祝膳を供する女房」「渡殿にある紫式部の局に立ち寄る斉信と...
越前市を流れる河濯川(かわそがわ)にかかる紫きぶ七橋(河濯橋/城ヶ堀橋/鈴虫橋/岩永橋/千代鶴橋/平成橋/蛭子橋)に、「紫式部日記絵巻」「源氏物語絵巻」の一場面が描かれたレリーフが飾られています。河濯橋『紫式部日記絵巻』「渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長」「中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部」城ヶ堀橋『紫式部日記絵巻』「女房たちと語りながら歳末の夜を過ごす紫式部」「風の涼しい夕暮れ、琴を弾いて憂...
武生中央公園内にあるしきぶきぶんミュージアムには、「光る君へ 越前 大河ドラマ館」や、紫式部が暮らした越前の文化や歴史を紹介する歴史展示、お土産やグッズを販売する「光る越前SHOP」があります。エントランスでは、まひろ(紫式部)役の吉高由里子さんのウェルカムメッセージのVTRが流れています。等身大パネルと一緒に記念撮影ができるスポット「衣装や小道具の展示コーナー」藤原為時紫式部(まひろ)為時が太郎に読み聞かせ...