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常照寺(3)吉野太夫の墓
吉野太夫の墓開山廟比翼塚鬼子母神堂常富大菩薩堂にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
2025/04/27 21:00
常照寺(2)遺芳庵の吉野窓
境内を進んで行くと、桜が見頃なスポットがありました。吉野太夫ゆかりの茶席茶室「遺芳庵」2代目吉野太夫を偲んで夫の灰屋紹益が寄進したもの。壁にある大きな円窓は2代目吉野太夫が好んだことから吉野窓と呼ばれています。完全な円にはならないように作られており、円の一番下の部分は切り取られています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキ...
2025/04/26 21:00
常照寺(1)吉野太夫ゆかりの寺
鷹ヶ峰源光庵のバス停を降り、しばらく進むと、常照寺というお寺があります。寂光山 常照寺当山は、元和2年(1616)本阿弥光悦の土地寄進を受け、寛永4年(1627)その子光瑳の発願により日蓮宗総本山身延山久遠寺第21世寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちけんしょうにん)を招じて開創された山城六壇林(やましろろくだんりん)の一偉観「鷹峰壇林」の旧跡である。 吉野門と呼ばれる朱塗りの山門は、寛永三名妓天...
2025/04/25 21:00
平賀源内ゆかりのさぬき市志度(3)平賀源内の墓
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。86番札所 志度寺に隣接して、志度寺の塔頭である自性院常楽寺があります。平賀家が自性院の檀家であるあることから、仁王門前の自性院北正門から入ってすぐ南側に、平賀源内のお墓があります。安永8年(1779年)大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12...
2025/04/24 21:00
平賀源内ゆかりのさぬき市志度(2)平賀源内旧邸
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。別館には、旧邸・銅像・薬草園などがあります。平賀源内旧邸平賀源内先生は江戸へ出る前即ち宝暦四年、平賀家の家督を妹里与の婿養子権太夫(ごんだゆう)に譲り、一生を独身で過ごした。生家は権太夫の孫松三郎によって文久2年(1862)に建て替えられ、現在に到っています。当時は銅像敷地まで本座敷のある構えでしたが、昭和9年(1934)銅像建設のため切...
2025/04/23 21:00
平賀源内ゆかりのさぬき市志度(1)平賀源内記念館
前回の紀行で紹介されたので、「さらば!源内先生編」として再アップします。香川県さぬき市志度は、江戸時代の鬼才といわれる平賀源内の生誕地です。歴女の友人が、先日讃岐を訪ねてきたと画像を送ってくれたので、その画像をお借りして記事にしてみました。平賀源内記念館は、平成21年3月、平賀源内遺品館を移転、名称を改め新装開館しました。記念館本館には、映像で紹介する「源内奇才劇場」や、ビックリ意外な交流や出来事を...
2025/04/22 21:00
平賀源内の墓(2)従僕福助の墓
平賀源内の墓の後ろに、従僕福助の墓があります。従僕福助の墓源内が亡くなる8ヶ月前に逝去敷地内には、寺門靜軒の碑もあります。静軒先生之碑寺門静軒(てらかど せいけん)江戸後期の儒者,詩人。名は良,字子温,弥五左衛門と称した。水戸藩大吟味方勤寺門弥八郎勝春の次男。母は江戸における勝春の妾。文化4(1807)年,12歳で同居の母を失い,翌年水戸の実父に死なれ,母方の祖父母に育てられた。山本北山の子緑陰に儒学を学び,上野寛...
2025/04/21 20:40
平賀源内の墓(1)
台東区橋場二丁目の住宅街に平賀源内の墓があります。平賀源内は、安永8年11月激昂して人を殺傷。一ヶ月後の12月18日、伝馬町の獄で亡くなりました。平賀源内は享保十三年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延二年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかった...
2025/04/20 20:40
平賀源内が収監された伝馬町牢屋敷(3)大安楽寺
十思公園の隣に立つ大安楽寺もかつては一帯が伝馬町牢屋敷でした。牢屋敷は、1875年(明治8年)に廃止されましたが、土地の買い手がなく、跡地は荒廃。この地で処刑された人々を慰めるため、当時が建立されました。高野山金剛峯寺より賜った弘法大師像を本尊とし、処刑された人の霊を弔うため、延命地蔵がおかれました。 新高野山大安楽寺縁起 抑も此の地伝馬町は 江戸時代 徳川幕府の牢獄の所在せし所なり。当山...
2025/04/19 21:00
平賀源内が収監された伝馬町牢屋敷(2)小伝馬町牢屋敷展示館
昭和3年(1928年)に建てられた旧中央区立十思小学校が、平成2年(1990年)に廃校となり、その後は中央区の日本橋特別出張所仮庁舎として利用され、平成12年(2000年)に改修工事を行って「十思スクエア」としてオープンしました。小伝馬町の牢屋敷跡建物内には福祉施設として中央区日本橋在宅介護支援センターや十思デイルームなどがあるほか、地域の人々の交流の場として利用されています。十思スクエア(旧十思小学校)に隣接す...
2025/04/18 21:00
平賀源内が収監された伝馬町牢屋敷(1)十思公園
東京の地下鉄小伝馬町の駅を降りると、十思公園という小さな公園があります。そこは、江戸時代に伝馬町の牢屋があったところで、吉田松陰をはじめ、安政の大獄で投獄された人たちもこの地で処刑されました。今話題の平賀源内は、殺傷事件を起こし、ここに収監されました。安永8年(1779年)11月20日夜、神田の源内宅に門人の久五郎と友人の丈右衛門が止宿、明け方に彼らは「口論」となり源内は抜刀。両人に手傷を負わせ、久五郎は...
2025/04/17 21:00
徳川家の鷹狩りと縁のある諏訪神社
新宿区高田馬場にある諏訪神社は、 弘仁年間(810 - 824年)の創建と伝えられ、小野篁により大国主命・事代主命を祀ったのがはじまりとされています。当初、奥羽街道の一部松原街道に面していたので、松原神社と称されていましたが、江戸時代初期に、尾張の徳川家の祖である徳川義直により諏訪神社と改名されました。その後も源頼義父子や源頼朝、太田道灌等が再造したといいます。寛永年間(1624 - 44年)徳川家光が造営。徳川家...
2025/04/16 21:00
浜離宮恩賜公園
数年前の春、浜離宮恩賜公園を散策してきました。浜離宮恩賜公園は、徳川家の庭園として、鷹狩りの場を整備した庭園です。庭園には、1700年代に造られた鴨場が二か所あります。庚申堂鴨場では、小窓の付いた観察小屋から渡り鳥の姿を見ることができます。庭園の西側にある新銭座鴨場は、鷹狩や鴨猟という武家文化を伝える特別史跡で、のぞき窓から池の様子を観察できます。引き堀では、水路に鴨をおびき寄せ、鷹に狙わせていたそう...
2025/04/15 21:00
東映太秦映画村(6)
ランチは映画村のお店で済ますことに京うどん 開化亭「京都九条ネギうどん」や「侍うどん」など個性的なメニューがあります。私は頼んだのは「侍うどん」刀に見立てたちくわの天ぷらが入っていました(^0^;)食事を終え、行きに見逃したところを見学していきます。帰る時に気付いたのですが、パディオス1Fに、「相国寺の七重塔」の模型が飾られていました。この後、「べらぼう」関連の史跡めぐりに戻りました!にほんブログ村 歴史...
2025/04/14 21:00
徳川家基の鷹狩りと東海寺
徳川家基(とくがわ いえもと)は、10代将軍徳川家治と田沼意次の推薦で側室となったお知保の方(蓮光院)との間に生まれました。幼年期より聡明で文武両道だったため、将来の第11代将軍として期待されていました。しかし、安永8年(1779年)2月21日、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で、休息中に突然体の不調を訴え、江戸城に運ばれましたが、3日後の2月24日に江戸城で死去。享年18(満16歳没)。後継ぎを失った父・家治は...
2025/04/13 21:00
東映太秦映画村(5)
港町江戸の港町を再現しています。廻船問屋寺田屋坂本龍馬の京都の定宿でした。寺田屋騒動で有名ですね。港町を見学していたら、池の中から突然恐竜が現れました!効果音とともに頭を出した恐竜は迫力満点!長屋門江戸時代の武家屋敷の門の形のひとつ。現在は、「新選組の屯所」に飾られています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加...
2025/04/12 21:00
東映太秦映画村(4)
こちらは、からくり忍者屋敷忍者屋敷には
2025/04/11 21:00
東映太秦映画村(3)
村内を散策していたら、目の前に突然お侍さんが現れました(^_^;せっかくなので、記念写真を撮らせていただきました。侍姿がキマッていますね😃村内の案内を兼ねているようです。おっと!こんなところに忍者発見!こんな狭い小路にも、ちゃんとお店がありますよ。こちらはお茶の駿河屋さんこちらの民家からは江戸時代の庶民の暮らしぶりが窺えます。小道具も見事に再現されていますね!井戸のところには、「火の用心」のお札が貼られ...
2025/04/10 21:00
東映太秦映画村(2)
中村座中村座では、忍者アクションのステージ「激突!忍者ショー忍びの街道」やチャンバラの実演「ちゃんばら辻指南」が行われています。ちょうど上映時間のタイミングが合ったので、覗いて見ることに・・・客席と一体化した楽しいショーでしたよ!今回残念だったのは、一部リニューアル工事中で、このフェンスから向こうのエリアが見られなかったことです。気を取り直して、オープンセットを見学していきます。時代劇で見覚えのあ...
2025/04/09 21:00
東映太秦映画村(1)
今年1月、太秦映画村に行って来ました。京都には何度も足を運んでいますが、映画村はかなり久しぶりです。正面ゲイトをくぐると、パディオス(複合施設)があり、一階には、時代劇の扮装体験の出来る「時代劇扮装の館」があります。こちらでは、殿様、武士、町人、舞妓、芸者、お姫様、花魁などプロのメイクさんがメイクと着付けをしてくれます。私も若い頃、母と一緒にここで扮装体験をしたことがあります。母は芸者、私は舞妓に...
2025/04/08 21:00
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(11)大澤寺
大澤寺は、元々、高天神城の南東にあり本楽寺と称していました。天正2年(1574年)の高天神城の戦いにて、徳川方の陣として使用されたことにより、兵火で焼失。その後、徳川家康の支援により、相良大沢に再建、本尊阿弥陀如来、今川義元伝来の明朝の皿を寄進し、「本楽院大澤寺」と改称しました。大澤寺の本堂は、田沼意次失脚ののちに破却された相良城の木材を再利用して、寛政3年(1791)に建てられたものといわれています。床下に...
2025/04/07 21:00
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(10) 浄心寺
浄心寺は、寛永元(1624)年、京都伏見の元住人で、相良湊で廻船業を営んでいた西尾源兵衛が、先祖の菩提を弔うために出家し、浄心日清と称して開創しました。江戸後期には、田沼家の祈願所として雨乞祈祷などで厚く崇敬されました。山門に施されている見事な龍の彫刻は、地元の画家・寺田洞仙によって寛政元(1789)年に作られたもので、市の文化財に指定されています。また、平賀源内は誤って人を殺してしまい投獄され、獄中死し...
2025/04/06 21:00
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(9)平田寺
平田寺は、弘安6年(1283)年に開創した遠州地方で最も古い禅寺の一つで、今川氏、武田氏、徳川氏など数々の武将から尊崇されました。開山の龍峯宏雲禅師は、足利尊氏の叔父といわれています。宝暦8年(1758)、田沼意次が相良藩主になると、田沼家の御位牌を祀る香華寺として厚い庇護を受けました。現在の本堂は、天明6年(1786)に再建されたもので、左側に田沼家専用の玄関があります。国宝「聖武天皇勅書」や県指定文化財「平田寺宝...
2025/04/05 21:00
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(8)大江八幡宮
萩間川の左岸にある大江八幡宮は、弘安7年(1284)相良庄守護・上杉憲藤が東中の邸内に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したのが始まりとされています。嘉暦2年(1327)、東中の屋敷から小牧山に移し、小牧山八幡宮とも呼ばれました。江戸時代には相良藩主の尊崇もあり、享保3年(1718)相良藩主であった本多忠通が社殿寄進、宝暦年間(1751年〜1764年)には田沼意次が神輿と馬具を寄進しています。大江八幡宮に伝わる御船(おふね)神事は、毎年9...
2025/04/04 21:00
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(7) 般若寺 その弐
般若寺の本堂には、相良城の御殿大書院にあった8枚の「相良城の襖戸」があります。「相良城の杉戸」は、相良城の本丸御殿を彩っていた襖戸の一部と考えられ、竹林に虎や牡丹に鳳凰などの画題が見事に描かれています。絵師は、10代将軍徳川家治の御用絵師・狩野典信といわれています。「牡丹と鳳凰」「竹林と虎」小さい二本の戸は、徳川家康の相良御殿のものと伝えられていますが、絵師は不明なのだそう。「背負ったか(しょったか)...
2025/04/03 21:00
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(6) 般若寺 その壱
般若寺は、田沼意次ゆかりの宝物「陣太鼓」と「相良城の杉戸」を所蔵する曹洞宗の寺院です。本堂鐘楼堂では、本堂の中に入ってみましょう。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
2025/04/02 21:00
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(5)田沼蕎麦
相良城本丸跡を見学後、近くにある壽亭(ことぶきてい)へ。こちらで、田沼意次ゆかりの「田沼蕎麦」をいただきました。やはりここに来たら、人気ナンバー1の田沼蕎麦をいただきたいですね!天ざるに高級感を出したかった壽亭の先代は、当地相良が田沼意次の城下だったことから、黒地の輪島塗で器を作り、蓋に田沼家の家紋・七燿紋を金字で入れて、田沼蕎麦としたそうです。サクサクの天ぷらに、コシのあるお蕎麦!大変美味しくい...
2025/04/01 21:00
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(4)仙台河岸
牧之原市の文化財に指定されて仙台河岸は、相良城の外堀に位置し、城内と海を結ぶ船着場だったと考えられています。相良城築城の際、仙台藩主・伊達重村が石垣用材を寄進してつくられたことから、「仙台河岸」といわれています。相良城は、相良を流れる萩間川河口の右岸にあった近世城郭で、東西500メートル、南北450メートルの広さがありました。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします...
2025/03/31 21:00
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(3)田沼街道
大和神社(おおわじんじゃ)の前に田沼街道の起点の碑があります。田沼街道は、東海道の藤枝宿と相良城を結ぶ約7里(約28 km)の街道のことで、別名「相良街道」と呼ばれています。相良城主となった田沼意次は、、相良城から東海道藤枝宿まで、既存の下街道や浜街道をもとに拡幅改修して整備しました。道は古い時代から存在していましたが、地域の流通を活性化させた意次を慕う街道沿いの人々が、この道は意次がつくった道だと思い込...
2025/03/30 20:40
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(2)相良城二の丸の松
相良城の遺構を訪ねて行きました。現在、相良城二の丸跡には、相良小学校が建っています。相良城二の丸の松は、相良城二の丸跡の土塁に生育しているクロマツで、相良小学校の南端とグランドに10本あり、市の天然記念物に指定されています。牧之原市のHPによると、田沼意次が失脚すると、天明8(1788)年に幕府の命令で相良城が取り壊されました。マツの生えている土塁は、この頃のものと推定されています。にほんブログ村 歴史ブ...
2025/03/29 21:00
田沼意次ゆかりの牧之原の城下町(1)田沼意次像
昨年の秋、田沼意次ゆかりの静岡県牧之原市をまわってきました。牧之原資料館を目指す道中、田沼意次がデザインされたマンホールを見つけました。田沼意次のマンホール2019年の田沼意次生誕300年を記念して、旧城下町相良の本通り「新町通り」に設置されました。意次を中心に、大江八幡宮の御船神事、般若寺の陣太鼓、茶畑、あじさいがデザインされています。田沼意次候の城下町「時計台」田沼意次が遠州相良藩主を務めている時代...
2025/03/28 21:00
86番札所 志度寺に隣接して、志度寺の塔頭である自性院常楽寺があります。平賀家が自性院の檀家であるあることから、仁王門前の自性院北正門から入ってすぐ南側に、平賀源内のお墓があります。安永8年(1779年)大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。享年52。(Wikipediaより)(画像:めりい)微雲窟...
2025/03/27 21:00
別館には、旧邸・銅像・薬草園などがあります。平賀源内旧邸平賀源内先生は江戸へ出る前即ち宝暦四年、平賀家の家督を妹里与の婿養子権太夫(ごんだゆう)に譲り、一生を独身で過ごした。生家は権太夫の孫松三郎によって文久2年(1862)に建て替えられ、現在に到っています。当時は銅像敷地まで本座敷のある構えでしたが、昭和9年(1934)銅像建設のため切り取られ、昭和42年(1967)旧邸内部に遺品陳列館を開設、平成12年(2000)に...
2025/03/26 21:00
香川県さぬき市志度は、江戸時代の鬼才といわれる平賀源内の生誕地です。歴女の友人が、先日讃岐を訪ねてきたと画像を送ってくれたので、その画像をお借りして記事にしてみました。平賀源内記念館は、平成21年3月、平賀源内遺品館を移転、名称を改め新装開館しました。記念館本館には、映像で紹介する「源内奇才劇場」や、ビックリ意外な交流や出来事を展示する「源内玉手箱」、「体験コーナー」などがあります。(画像:めりい)にほ...
2025/03/25 21:00
佐竹秋葉神社
佐竹商店街から佐竹秋葉神社へ。佐竹秋葉神社は、秋田佐竹藩上屋敷跡地に、明治22年に秋葉神社の分霊を勧請して創建されたと伝わっています。秋葉神社 略縁起 当神社は現在、火之迦具土大神(ほのかぐつちのおおかみ)を御祭 とすする秋葉山本宮秋葉神社 (静岡県浜松市)を御本社とする火防・火伏せお社であります。 御神徳は火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁盛...
2025/03/24 21:00
佐竹商店街
東京都台東区に位置する佐竹商店街は、春日通りから清洲橋通りに至る全長330mの全蓋式アーケードの商店街で日本で、二番目に古い商店街といわれています。元々は秋田藩の江戸屋敷があった場所でしたが、1682年の火災で屋敷が消失。その後、町民によって復興され、見せ物小屋、寄席、飲食の屋台等が立ち並ぶ商店街へと発展しました。佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡 江戸時代、この付近一帯は、出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷があった地...
2025/03/23 20:40
平賀源内電気実験の地
平賀源内は、1761(宝暦11)年から深川清住町の自宅で、長崎で手に入れたオランダ製のエレキテル(静電気発生機)を修理して復元し、度々実験を行いました。江東区清澄の読売江東ビルの敷地に「平賀源内電気実験の地」の石碑が立っています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
2025/03/22 20:50
浅草神社
浅草神社は、浅草寺の境内にある神社で、三社権現、三社様とも呼ばれ、5月17日の三社祭で有名です。土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀しています。社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかり、物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音...
2025/03/21 21:00
浅草寺(3)ライトアップされた浅草寺
以下、ライトアップされた夜の浅草寺です。仲見世通りのお店は、閉店後もシャッターの絵を楽しめます。仁王像も迫力を増しますね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
2025/03/20 21:00
浅草寺(2)
本堂昭和33年(1958)10月、全国ご信徒のお力添えにより再建された現本堂は、鉄筋コンクリート、本瓦葺であり、昭和20年(1945)3月10日に惜しくも戦災で焼失した旧本堂(国宝、3代将軍徳川家光建立)と同形態である。 一見して感じる特徴は屋根の勾配が非常に急で、従って棟が他寺院と比較してすこぶる高く、相当遠方からでも望見できる。 お堂は南に面し、350坪の堂内は畳敷の内陣、コンクリート敷の外陣...
2025/03/19 21:00
浅草寺(1)雷門~五重塔
東京浅草の浅草寺の総門である雷門、最初の門は平公雅(たいらのきんまさ)によって42年(天慶5)に建てられました。雷門(風雷神門)表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後は仮設の門が時折建てられていたが、1960年(昭和35年)に常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・...
2025/03/18 21:00
日光社参と日光東照宮(2)
いよいよ日光東照宮の核心地といえる奥社へと進みます。坂下門から207段の階段を登らなければなりません。それくらい・・・と思っていたのですが、ここへ来るまでに既に結構歩いていたので、足がへとへと(汗)それでも小学生を追い越しながら駆け上がりました!やっと到着!ここが徳川家康の神柩である奥宮御宝塔です。江戸時代の元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去した。遺命によって遺骸は...
2025/03/17 21:00
日光社参と日光東照宮(1)
江戸幕府の将軍あるいは大御所・大納言(将軍嫡子)が、東照大権現(徳川家康)を祀る日光東照宮へ参拝する日光社参は、江戸時代を通じて合計19回実施されました。特に徳川家光は、その数10回と歴代将軍の中で最多でした。将軍の日光社参には大名や旗本をはじめ、莫大な数の人馬が供奉し、安永5年(1776年)の10代徳川家治の社参では、行列の先頭が日光にあるとき、最後尾はまだ江戸にあったとも言われているほどの規模で、莫大な...
2025/03/16 21:10
べらぼう色溢れる浅草の町
浅草の伝法院通りには、浅草らしいお店や看板がいっぱい!白波五人男や鼠男など、町のあちこちに潜んでいます。屋根の上にもこの通り!また、「べらぼう」のPRの幟も発見!マスコットキャラクターのつたいやん蔦屋と台東区と「伝える」を合わせた名前で、蔦屋重三郎をイメージさせる空飛ぶ黄表紙に乗り、桜のピンクと隅田川の水色と黄表紙の黄色で構成しているとのこと。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応...
2025/03/15 21:00
長谷川平蔵の旧邸
墨田区の五柱稲荷神社の近くに「長谷川平蔵の旧邸」の案内板があります。付け火が元の明和9年(1772)の目黒行人坂の大火は、明暦の大火に次ぐものでしたが、その下手人を捕らえたのが、長谷川平蔵宣以の実父・長谷川平蔵宣雄です。この手柄で、同年秋に京都町奉行に出世しましたが、翌年の安永2年(1773)に客死していまい、家督を継いだ平蔵宣以は天明7年(1787)、42歳の時に火付盗賊改方の長官に就任。京都へ家族で移るまで住...
2025/03/14 21:00
長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡
長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡のモニュメンが、都営新宿線菊川駅からほど近い丸山歯科医院の前に建っています。この場所が、邸の東端にあたるそうです。長谷川平蔵は明和元年(1764)父の屋敷替えによって築地からこの地に移り住みました。当時の敷地面積は1,238坪(4,085)におよんだと言われています。平蔵は、寛政7年(1795)にこの地で亡くなり、後に屋敷替えとなって代わりに入ってきたのが、遠山金四郎でした。また、菊川駅の...
2025/03/13 21:00
沖田総司の終焉の地「今戸神社」
東京の台東区今戸の今戸神社は、康平六年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれています。また1081年(永保元年)にも清原武衡・家衡討伐の際、戦勝祈願をしたといわれています。幾度か戦乱や火災に見舞われましたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものです。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八...
2025/03/12 21:00
島原を歩いて(5)大銀杏
歌舞練場跡記念碑から島原住吉神社へと向かうと、大銀杏が見えてきます。島原住吉神社の旧境内地北端に植わっていたこの大銀杏は、明治維新後の廃仏毀釈により、社格株のない住吉神社が廃社になるも、神木として遺された。その後明治36年(1903)に神社は再興されたが、境内がこの大銀杏のところまで拡大されるには至らなかった。 昭和5年(1930)にこの樹の根元に弁財天が祀られることにより、さらに神木として崇められ、今で...
2025/03/11 21:00
島原を歩いて(4)島原歌舞練場跡
輪違屋から歩いてすぐのところに、島原歌舞練場跡の碑があります。島原歌舞練場は、1873年(明治6年)の開設当初は島原女紅場といい、青柳踊や温習会が上演されていました。1927年(昭和2年)に新築移転、島原の衰退により1996年(平成8年)に解体されました。歌舞練場跡碑島原歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その...
2025/03/10 21:00
島原を歩いて(3)輪違屋
島原で、現在も唯一営業を続ける「輪違屋」は、元禄年間(1688~1704)に創業。島原太夫を抱える置屋兼お茶屋として、置屋として創業当時の名は「養花楼」でした。お茶屋兼業は明治5年(1872年)より始まり、現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたもので、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となったそうです。かつては芸妓等も抱えていましたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれてい...
2025/03/09 20:40
島原を歩いて(2)角屋
角屋(すみや)は、かつて京都・島原花街で営業していた揚屋(料亭)で、坂本龍馬、西郷隆盛、桂小五郎、久坂玄瑞、新選組も遊んだと伝わります。角屋の前には、「新撰組刀傷の角屋」や「長州藩士久坂玄瑞の密議の角屋」の石碑が建てられています。 芹沢鴨が殺害される直前にここで酒宴を開いており、文久3年(1863年)6月ここで暴挙をはたらいた際に出来た刀傷が今でも残っています。久坂玄瑞は、京での活動中、他の勤王の志士たち...
2025/03/08 21:00
島原を歩いて(1)島原大門
島原大門は、京都の花街である島原の東入口にあたる大門で、京都市の登録有形文化財として登録されています。島原は寛永17年(1640年)または寛永18年(1641年)六条三筋町から移転した日本初の幕府公認の遊女街。当初は東側の大門のみであったが、享保17年(1732年)に西門が設置された。大門は明和3年(1767年)に現在地に付け替えられ、慶応3年(1867年)に現在の門が建てられた。周囲を塀と堀で囲み、大門を一か所に設ける当初...
2025/03/07 21:00
人形町の西郷隆盛屋敷跡
現在、人形町の魚久本店~日本橋小学校のあるこのあたりは、江戸時代末期、姫路の殿様、酒井氏の屋敷がありました。そして、明治の初期、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、人形町から小網町、蛎殻町辺りに、西郷がおよそ二年間、書生15人、下男7人と住んでいました。魚久本店と日本橋小学校の前に説明板があります。魚久本店日本橋小学校西郷隆盛屋敷跡 明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827~1877)の屋敷が...
2025/03/06 21:00
人形町の玄冶店(げんやだな)跡
人形町通り沿いにある玄冶店跡の碑玄冶店(げんやだな)の地名は、江戸時代、ここの医者岡本玄冶が住んだことに由来し、日本橋界隈の古くからの地名もしくは通りの名です。歌舞伎『与話情浮名横櫛』の源氏店のモデルとなりました。江戸時代の新和泉町、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目のあたりである。天保のころ、歌川国芳が玄冶店に住んでいた。岡本玄冶徳川家の御典医であった岡本玄冶の拝領屋敷跡一帯を指した。玄冶は3代...
2025/03/05 21:00
人形町の末廣神社
人形町にある末廣神社は、吉原遊郭の跡地にあり宇賀之美多摩命や武甕槌命を祀る神社です。かつては元吉原で鎮守として信仰されていました。1657年の明暦の大火で吉原が移転した後も、難波町、高砂町、住吉町、新和泉町の4町の産土神として信仰されました。現在の社殿は、昭和22年に再建(総檜造り)されたものです。 末廣神社は、江戸時代の初期に吉原(当初葭原と称した)がこの地にあった当時(元和三年から明暦三年まで)その...
2025/03/04 21:00
人形町の由来
人形町通りの案内板を見ながら歩きました。人形町の由来現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在りました。 中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上映され、また、見世物小屋をはじめ人形芝居の小屋が5,6軒あり、そのため、かなりの人形師がこの町に住んでいたので江戸時代より俗に人形町と呼ばれ親しまれてきました。江戸からの商業地 この地は往時武家地でしたが、近くを流れる日本橋川に通じる掘り割りが多く在り...
2025/03/03 21:00
「べらぼう」のロケ地めぐり(11)円覚寺 その弐
法堂跡法堂は、北条高時の時代、北条貞時の13回忌に当たる1323年(元亨3年)に建立されましたが、応安の大火で焼失してしまいました。方丈方丈の前には柏槇ビャクシンが植えられ、裏には、心字池のある美しい庭園が広がっています。百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称と...
2025/03/02 20:50
「べらぼう」のロケ地めぐり(10)円覚寺
北鎌倉の円覚寺『べらぼう』のロケ地となっています。第一回の放送で、田沼意次の屋敷からの帰る蔦重が唐丸が歩く場面は、円覚寺の山門の下から撮影していたようです。円覚寺は、北条義時以来、北条得宗家領となった山内荘に、弘安5年(1282年)に鎌倉幕府8代執権・北条時宗が、元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した禅宗寺院です。。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されました。JR北...
2025/03/01 21:00
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(6)江戸城ゾーン
続いて江戸城ゾーンです。松平武元 まつだいら-たけちか享保(きょうほう)元年12月28日生まれ。常陸(ひたち)(茨城県)府中藩主松平頼明(よりあきら)の次男。松平武雅(たけまさ)の養子となり,享保13年上野(こうずけ)(群馬県)館林(たてばやし)藩主松平(越智(おち))家3代。家督をつぐと同時に陸奥(むつ)棚倉(福島県)に移封(いほう)。奏者番,寺社奉行をへて,延享3年西丸老中にすすみ,館林にもどる。4年老中となり,明和元年老中首座。6年6...
2025/02/28 21:00
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(5)仲ノ町ゾーン
続いて仲ノ町ゾーンを紹介します。かつては、吉原大門を潜った通りが「仲之町通り」という吉原遊郭の妓楼が立ち並ぶメインストリートでした。吉原の町を背景に、花魁の衣装が展示されています。花魁 おいらん江戸・吉原における上級遊女の別称。語源としては、遊女に従属する新造(しんぞう)や禿(かむろ)が姉女郎を「おいらがの(私の)」とよんだのがなまったとする説などがあるが、明らかではない。いずれにしても口語体から発生...
2025/02/27 21:00
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(4)蔦屋の再現セット~蔦重ゆかりの人達
また、五十間道ゾーンでは、蔦屋の再現セットで記念写真を撮影出来るようになっています。貸本もありますよ~~この日は、混み合っていたので、記念写真は撮らず、次へ移動しました(^0^;)こちらは蔦重を取り巻く人達の紹介です。蔦重は、遊女達を花に見立てることを思いつき、『一目千本』の制作に取りかかります。突然店から姿を消してしまったか唐丸ですが、いつか立派な絵師となって、蔦重のもとへ戻ってくるのでしょうね。平蔵...
2025/02/26 21:00
瀧泉寺・目黒不動尊(3)平井権八と小紫の比翼塚
瀧泉寺・目黒不動尊の仁王門の前に、平井権八と小紫の悲話伝える比翼塚があります。平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本の武士でシリアルキラーである。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる。因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(...
2025/02/25 21:00
瀧泉寺・目黒不動尊(2)徳川家光ゆかりの鷹居の松跡
では、目黒不動尊の本堂に向かいます。階段の脇には徳川家光ゆかりの「鷹居の松跡」があります。鷹居の松跡 鷹居の松跡 江戸幕府 3代将軍徳川家光 が寛永(1624~1644)の頃、目黒不動尊の近くで狩猟中に愛鷹 が行方不明になりました。家光が目黒不動別当の実栄という僧に祈らせたところ、鷹はたちまち境内の大きな松の枝に飛び戻ってきました。このことに家光は大いに喜び、この松を「鷹居の松」と命名したといわれています。 こ...
2025/02/24 20:40
瀧泉寺・目黒不動尊(1)
※「べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館」の記事の途中ですが、今晩の紀行に合わせて、「瀧泉寺・目黒不動尊」の記事を挟みます。東京都目黒区下目黒の瀧泉寺は、目黒不動尊として知られる天台宗のお寺です。黄表紙の作品のひとつ恋川春町の作・画の「金々先生栄花夢」の中に、目黒不動が登場します。金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)黄表紙。2巻2冊。恋川春町(こいかわはるまち)作・画。1775年(安永4)刊。「金々先生...
2025/02/23 20:40
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(3)五十間道ゾーン その壱
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館「五十間ゾーン」では、蔦重ゆかりの小道具やパネルが展示されています。平賀源内の衣装※展示されている小道具には、撮影使用品と同等品があります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
2025/02/22 21:00
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(2)エントランス~べらぼう入門編
9Fでエレベーターを降りると、そこには江戸の街が広がっています。ドラマ館のエントランスには、『べらぼう』の大判メインビジュアルと横浜流星のメッセージ映像がお出迎え!『べらぼう』入門編では、蔦屋重三郎の衣装が展示されています。蔦屋重三郎の衣装出演者の紹介パネル語り/九郎助稲荷 綾瀬はるか蔦屋重三郎/横浜流星花の井/瀬川 小芝風花田沼意次/渡辺謙にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よ...
2025/02/21 21:00
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(1)べらぼうの世界観
今月2月1日に蔦屋重三郎ゆかりの地・台東区にオープンした「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」のべらぼう江戸たいとう大河ドラマ館に出かけて来ました。場所は、東京メトロ銀座線浅草駅7番出口から徒歩5分の台東区民会館9階ホールにあります。エレベーターホールから、江戸情緒&べらぼうの世界観に浸れます。エレベーターもこの通り!会場の9Fへと上がって行きます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろし...
2025/02/20 21:00
「べらぼう」のロケ地めぐり(9) 東本願寺 能舞台~白書院
『べらぼう』のロケでは、能舞台と白書院にて撮影が行われ、第2回(1月12日)の放送で、一橋治済の嫡男の誕生を祝う宴が開かれた場面に登場しました。能舞台能舞台(重要文化財)1880年(明治13年)に建てられたもので、1937年(昭和12年)に現在地に移築した。鏡板に描かれている松は幸野楳嶺によるもの。(Wikipediaより)白書院白書院(重要文化財)1911年(明治44年)に親鸞聖人六百五十回御遠忌に際して再建。来賓の接待などに使...
2025/02/19 21:00
「べらぼう」のロケ地めぐり(8) 東本願寺 阿弥陀堂~御影堂
『べらぼう』のロケ地として、東本願寺も使われており、一橋家や大奥のシーンに登場しています。東本願寺は、下京区烏丸七条にある浄土真宗「真宗大谷派」の本山で、正式名称は「真宗本廟」。愛称は「お東」「お東さん」。親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって、聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられたのが始まりです。文禄1(1592)年、11世・顕如が没し,いったんは長男・教如が跡を継ぎましたが,顕如の夫...
2025/02/18 21:00
「べらぼう」のロケ地めぐり(7)随心院
それでは、随心院の中を見学していきます。中にも小野小町ゆかりの物が随所に飾られています。小野小町像小野小町うた屏風これは、はねず踊りの人形ですね。随心院では、3月にはねず踊りが行われています。はねず(薄紅色の古名)の梅が咲き誇る中、はねず色の衣装と菅笠の小町と深草少将に扮した少女達の童唄と踊りが披露されるそうです。これも一度見てみたい京の行事です。茶釜能の間には、華やかな障壁画とカラフルな和傘が飾...
2025/02/17 21:00
猪牙舟(ちょきぶね)が展示されている山谷堀公園
今日の紀行で紹介されたので、再掲します😊台東区東浅草1丁目の山谷堀公園に「猪牙舟」が展示してあります。猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷舟とも呼ばれていた。当時の江戸の人にとって舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源...
2025/02/16 20:40
「べらぼう」のロケ地めぐり(6)随心院
京都市山科区の随心院も「べらぼう」のロケ地として使われています。随心院(ずいしんいん)は、京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山の寺院。こちらの薬医門が田沼家の邸門として第一話に登場しました。薬医門寛永年間(1624年 - 1631年)の建立。開山は小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)僧正。随心院は、そもそもは仁海僧正が創建した牛皮山曼荼羅寺(ごひざんまんだらじ)の塔頭でした。仁海は神泉苑...
2025/02/15 21:00
「べらぼう」のロケ地めぐり(4)智積院 講堂の襖絵
講堂の襖絵使者の間の襖絵「布袋唐子嬉戯の図」月樵(げっしょう)道人の大正元年(1912)の作布袋さんと戯れるこども達が描かれています。思わずほっこりしてしまう作品です😊にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
2025/02/14 21:00
「べらぼう」のロケ地めぐり(4)智積院 大書院の襖絵
拝観受付の出入り口のところに、「べらぼう」のポスターが貼ってありましたよ!大書院は、名勝庭園をじっくり鑑賞できる建物となっています。また、宝物館に実物が収められている国宝「楓図」「桜図」「松に立葵図」のレプリカが飾られています。(撮影可)長谷川等伯・久蔵父子の作大書院にある複製障壁画 「桜楓図」のうちの「桜図」が等伯の子で26歳で没した久蔵の遺作とされています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参...
2025/02/13 21:00
「べらぼう」のロケ地めぐり(3)智積院 講堂~名勝庭園
智積院の講堂と名勝庭園を見学してきました。講堂玄宥僧正が現在の京都東山の地に智積院を再興した際、徳川家康より寄贈された祥雲寺の客殿(方丈)が基になっています。この祥雲寺ゆかりの建物自体は、天和2年(1682)7月に焼失。その後幕府から与えられた東福門院の旧殿・対屋を基に、貞亨元年(1684)に再建されましたが、その建物も昭和22年に焼失。現在の講堂は、平成7年(1995)10月に完成したもので、灌頂道場や各種研修の道場と...
2025/02/12 21:00
「べらぼう」のロケ地めぐり(2)智積院 明王殿~玄宥僧正の像
明王殿(不動堂)昭和22年(1947)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、明治15年に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物。その後、平成4年(1992)に、講堂再建にともなって現在の場所に移築されました。ご本尊は不動明王様で、「麦つき不動」と呼ばれています。(Wikipedia、智積院HPより)開山の玄宥僧正の像玄宥(げんゆう)享禄2年...
2025/02/11 21:00
「べらぼう」のロケ地めぐり(1)智積院 金堂
京都市東山七条にある智積院(ちしゃくいん)が、「べらぼう」のロケ地となっています。田沼意次の邸の庭園として、智積院の名勝庭園が使用され、1月5日の初回放送にて放映されました。蔦重が和泉屋の荷物持ちとして、強引に田沼邸に入り込んだあの場面です。智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院。山号は五百佛山(いおぶさん)。寺号は根来寺(ねごろじ)。本尊は金剛界大日如来。開山は玄...
2025/02/10 22:00
赤坂の日枝神社
地下鉄・南北線の溜池山王駅から歩いて5分ほどのところにある赤坂の日枝神社山王鳥居と呼ばれる鳥居は、鳥居の上部が合掌した手のような三角の形になっています。さすが都会のど真ん中にある神社だけに、参道の脇にエスカレーターが完備されています。上から、見下ろすと・・・見渡すと、周りはビル群。社殿にたどり着くまでに、一段も階段を使わずに行けるのですよ。日枝神社は、太田道灌によって川越の星野山無量寿寺から勧請さ...
2025/02/09 20:45
高尾太夫の墓のある春慶院
春慶院(しゅんけいいん)は、台東区にある浄土宗の寺院で、江戸時代前期、伊勢屋太兵衛が娘を供養するために創建したと伝わります。境内には、二代目高尾太夫の墓があります。高尾太夫とは吉原遊廓の太夫の名跡ともいえる源氏名で、過去に11人いるとされています。二代目高尾太夫は、仙台藩藩主の伊達綱宗とのロマンスで知られ、綱宗に身請けされたとも、また綱宗に斬殺されたとも。墓石に記された没年は「万治2年(1659年)」で...
2025/02/08 21:00
山谷堀公園の猪牙舟(ちょきぶね)
台東区東浅草1丁目の山谷堀公園に「猪牙舟」が展示してあります。猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷舟とも呼ばれていた。当時の江戸の人にとって舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源は、舟の形が猪の牙に似ているからという...
2025/02/07 21:00
比叡山坂本の慈眼堂
比叡山の麓にある坂本の恵日院の境内にある慈眼堂は、慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力した天海の廟所です。正保3年(1646年)に建立された江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂で、国の重要文化財に指定されています。堂内には木造慈眼大師坐像(重要文化財)を祀っています。境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如...
2025/02/06 21:00
菅原道真公の生誕の地・菅原院天満宮神社
ちょうど今受験シーズンということで、学問の神様として知られる菅原道真公ゆかりの神社を紹介します。京都御苑の西側の道真公の生誕の地(諸説あり)のひとつとされている菅原院の地に、菅原院天満宮神社が建っています。菅原氏の邸宅があったところで、道真公の父・是善卿ら祖父以来三代が居住していたそうです。道真公没後、その菩提を弔うために菅原院の地に歓喜光寺が建立され、境内には道真と父祖の小祠が祀られました。歓喜...
2025/02/05 21:00
浜松神明宮
浜松秋葉神社の近くには神明宮があります。社伝によれば、もと肴町と神明町の境に鎮座していたが、北浦袋町(松城町)、蜆塚宮山を経て、天正十五年(1587)に三組町の現在地に遷座したという、境内には「真名井水」と刻まれた安政六年(1859)に寄付された手水鉢がある。寄付者には清水町、大工町、下垂町、紺屋町の人々が名を連ねる。その西南のフェンス際には「施主 若森長大夫 安政二卯年九月建立と刻まれた常夜灯が立つ。長...
2025/02/04 21:00
浜松の秋葉神社
浜松秋葉神社は、徳川家康が永禄十三(1570)年正月浜松城入場の際、秋葉寺第二十五代別当、叶坊光幡を浜松城下へ引具し、叶坊の願いを聞きいれ、天竜区春野町の秋葉権現堂を勧請したことがはじまりです。御前崎市から湖西市に至る地域一帯の秋葉信仰の中心としての役割を担い、家康が勧請した神社として、以後歴代の浜松城主の崇敬も厚く、多くの灯篭が寄進されています。三州西尾城主松平和泉守源乗寛年号 文化七年(1811)の灯籠こ...
2025/02/03 20:30
浜松の五社神社&諏訪神社
心造寺に隣接しているのが、五社神社・諏訪神社です。家康は、子供たちのお宮参りや、自身の厄除けの祈祷を五社神社で行ったといわれています。また諏訪神社は、3代将軍・徳川家光によって、現在地に遷され、昭和35年(1960)、隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社を合祀し、五社神社・諏訪神社となりました。両社ともに、秀忠のとして徳川家の崇敬を受け、子守り、子育ての神としての信仰されています。五社神社五社神社は、...
2025/02/02 20:10
浜松の心造寺
浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称は於愛の方。徳川家康の側室であ...
2025/02/01 21:00
浜松の金山神社
金山神社は、天正年間(1573年〜1593年)、徳川家康が浜松に城を構えるにあたり、釘鎹(くぎかすがい)・蝶番(ちょうつがい)・飾り金具を金銀銅鉄で鋳造するため、場内三の丸に鍛冶衆を常駐させ、同時に美濃国の南宮大社よりご分霊を勧請して祀ったことに始まるとされています。元和元年には、浜松城拡張工事のため、徳川秀忠の産土神たる五社神社を城外に、現在地の常寒山に遷座させ、それに伴い、当社も清水谷入り口へ鍛冶衆と...
2025/01/31 21:00
浜松の鴨江観音(2)
鴨江寺の中門から観音堂へと進んでいきます。中門鐘撞堂12月31日の大晦日には除夜の鐘を撞く人々で賑わいます。拝殿聖徳太子が祀られる観音堂鴨江寺の観音堂は豊臣秀吉の時代に火災で焼失しましたが、そのときのお堂の規模は七間四方であったと記録に残っています。江戸時代に入り、元和二年、徳川家康によって観音堂が再建されました。その堂内に安置されていた宮殿が弁天堂の宮殿として現在も残っています。その後、空襲で焼失し...
2025/01/30 21:00
浜松の鴨江観音(1)
今年の初詣は、地元浜松のお寺を選びました。浜松駅から西へ約1.2kmほどのところに、遠州高野山 鴨江寺があります。地元では、鴨江観音という愛称で親しまれ、お彼岸には多くの参拝客で賑わいます。鴨江寺は、奈良時代に遠州地方の民話で知られる芋堀長者が観音堂を建てたいと行基菩薩に依頼し創建されたといわれ、今でも鴨江町一帯は、地元の人たちから長者平(ちょうじゃびら)と呼ばれています。そして、鴨江寺の大伽藍を利用し...
2025/01/29 21:00
平川門~北の丸公園
江戸城の平川門は、大奥女中達の出入りする通用門でもあり、門限に遅れた春日局が、警備をしていた先手弓頭・小栗又一に閉め出された逸話が残っています。また、城中の死者や罪人をこの門から出したので、「不浄門」とも呼ばれました。 北の丸公園は、江戸城の北の丸があったところで、徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれた場所です。3代・徳川家光の頃は、家光の3男長松(...
2025/01/28 21:00
一ツ橋~一橋徳川家屋敷跡
江戸城の平川門から一ツ橋まで散策した時のこと。平川門にかかる平川橋の近くに、太田道灌の追慕の碑があります。太田道灌の没後450年にあたる1936年(昭和11年)に建立されました。この石碑には江戸城の石が使われているそうです。江戸城築城 550年に当たって 左にある「追慕の碑」は、太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(1457年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度550...
2025/01/27 21:00
京都の風俗博物館(7)
⑤平安の遊び ~偏つぎ~平安時代の遊び「偏つぎ」をしている様子が再現されています。偏つぎとは、主として女性や幼い子が漢字の知識を競い合った文字遊戯の一つ。漢字の旁(つくり)を示して、これに種々の偏をつけた文字を次々と考えさせ、行き詰まると負けになるもの。『源氏物語』では、「葵」の巻で、源氏が紫の君と偏つぎに興じる場面が出てきます。⑥四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識かさね色目平安時代には、四季の彩...
2025/01/26 20:40
京都の風俗博物館(6)
日本最古の物語『竹取物語』『竹取物語』は通称で、晴れの場では、『竹取と翁の物語』と呼ばれ、『かぐや姫の物語』とも呼ばれることがあったそうです。『竹取物語』(たけとりものがたり、英語: The Tale of the Bamboo Cutter)は、平安時代前期に成立した日本の物語。「現存する日本最古の物語」とされて、現在では
2025/01/25 21:00
京都の風俗博物館(5)
④女房の日常・局 ~王朝女性の身嗜み・黒髪~平安時代の美人として重視されていたのは、美しい長い髪でした。『源氏物語』に登場する末摘花も、容姿こそ優れていなかったものの、髪だけは長く豊かでした。女房の身嗜み豊かな髪に見せるため、髢(かもじ)をつけた。髢(かもじ)とは、髪を結ったり垂らしたりする場合に地毛の足りない部分を補うための添え髪・義髪のこと。平安時代では女性が髪を垂らすためにかもじを補ったとされる...
2025/01/24 21:00
京都の風俗博物館(4)
③仏名会・師走(十二月)の年中行事(『源氏物語』「幻」より)「幻」(まぼろし)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第41帖。出家を前にした光源氏の心情を四季のうつろいを通して描く。十二月、六条院で行われた御仏名の席で、源氏は久しぶりに公に姿を現した。その姿は「光る君」と愛でられた頃よりも一層美しく光り輝いており、昔を知る僧並びに出席した貴族たちは涙を流した。晦日、追儺にはしゃぎまわる三の宮を見る...
2025/01/23 21:00
京都の風俗博物館(3)
続いて、平安時代の衣装の展示です。十二単平安時代後期になって成立した晴の女房装束。構成は唐衣,裳,表衣 (うわぎ) ,打衣 (うちぎぬ) ,袿 (うちき) ,単衣 (ひとえぎぬ) ,袴などから成っている。唐衣はその最上衣で,もと中国の唐に発した奈良時代の背子 (はいし) の変化したもの。上半身丈で広袖がつき,地質,色目,文様などによって階級を異にした。裳は表衣の上から腰のうしろ半身だけをおおうもの。奈良時代は裙 (くん...
2025/01/22 21:00
京都の風俗博物館(2)
②王朝文化の粋を競う婚礼仕度・冊子作り~『源氏物語』に記された明石の姫君の婚礼仕度~(『源氏物語』「梅枝」より)源氏物語第32巻「梅枝」光源氏39歳。明石の姫君の裳着と入内の準備などを描いています。入内が決まると、持参品の草子などが集められます。草子「さくし(冊子)」の変化した語。「ぞうし」とも )(紙をとじ合わせて本の体裁にしたもの。書や歌や文章を書いてあってもなくても、冊子の形態をなしたものをいう。①...
2025/01/21 21:00
京都の風俗博物館(1)
市バス「西本願寺前」下車、西本願寺の斜め向かいのビルにある風俗博物館に出かけて来ました。エレベーターが5階に到着しドアが開くと、いきなり平安時代の世界が広がっています。風俗博物館では、『源氏物語』の六条院の館「春の御殿」を4分の1のサイズの模型で作り、人形・調度品・寝殿などで、源氏物語の世界を表現しています。①六條院移徙(『源氏物語』「少女」より)②王朝文化の粋を競う婚礼仕度・冊子作り~『源氏物語』に...
2025/01/20 21:00
元吉原
吉原遊廓は、江戸幕府によって公認された江戸の遊廓で、当初は現在の日本橋人形町)にありました。明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤(現在の台東区千束)に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼ぶようになりました。元々は、徳川家康終焉の地である駿府城下町(現在の静岡市葵区)にあった二丁町遊廓から一部が移されたのが始まりであるといいます。元吉原のあったエリアを散策してみました。 元吉原 江戸時代の初め、元和3年(16...
2025/01/19 20:30
鳥羽離宮跡公園
城南宮から徒歩数分のところに鳥羽離宮跡公園があります。伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯は、平安時代後期に白河・鳥羽上皇が造営の離宮があり院政を行ったところです。院政のシンボルである鳥羽離宮は、白河天皇の御所として建てられました。白河上皇は、『源氏物語』を好み、光源氏が造営した六条院に触発されて鳥羽離宮を築いたといわれています。すべてが完成したのは、鳥羽上皇の時代になってからのことで、鳥羽殿とも呼ばれま...
2025/01/18 21:00
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