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JR山手線の巣鴨~駒込間にある「染井霊園」の先に、「慈眼寺」という日蓮宗のお寺があります。どちらかというと、おばあちゃんの原宿でお馴染みの巣鴨から行った方が近いのですが、あえて駒込で下車。というのも、慈眼寺には芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)のお墓があり、田端に住んでいた芥川家の人々は、隣の駒込からお墓参りに向かっていたからです。 芥川龍之介の妻文(明治33.7.8~昭和43.9.11)は、『追想芥川龍之介』(1975.2.15 筑摩書房)で、 「慈眼寺は染井の墓地の中を通り抜けた所にあります。染井の墓地も駒込から八丁といわれて歩くとかなりの距離ですが、その街を貫く一本…
「幻の門ここすぎて叡智の丘に我等立つ」(堀口大學作詞・山田耕筰作曲『幻の門』)と歌われたのは、慶応義塾大学三田キャンパス東館奥にあるこの門。 旧島原藩中屋敷跡地に建つ慶応義塾大学三田キャンパスは、大正2年に中屋敷時代からあった木造の門を改造して、左右に花崗岩の門柱を4本据え、鉄の門扉を付けてこの門を正門としていました。 昭和34年の南校舎竣工と同時に南門ができると、正門の名を南に譲り、この門は東門として使われていくことに。 「幻の門」といわれるようになったいわれは、「門標が掲げられていなかったから」などといわれることもあるようですが、やはり冒頭にあげた応援歌の『幻の門』によるというのが一般的な…
両国にある回向院は、江戸時代に起きた明暦の大火(振袖火事)で亡くなった方々を、供養するために開かれた浄土宗のお寺です。 江戸市街の6割が焼失し、10万人もの命が失われた明暦の大火。亡くなった方々ほとんどの身元や身寄りがわからなくなってしまっていたので、当時の将軍徳川家綱(寛永18.8.3~延宝8.5.8 第4代将軍)が、隅田川の東岸に万人塚を設け、大法要を行わせたのがこのお寺のはじまり。「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」ことを理念とする当院には、明暦の大火をはじめ、安政の大地震、関東大震災、その他飢饉や水難事故等、さまざまな災害で亡くなった方々の…
両国4丁目にある墨田区立両国小学校は、もとは両国回向院の民屋を借り受けて開校された学校で、かつては江東尋常小学校と呼ばれていました。近くに養家のあった芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)の母校としても知られている学校です。 小学校の一角には卒業生芥川を記念して、芥川の年少文学の名作「杜子春」(大正9.7.1 『赤い鳥』)の文学碑が設置されています。 小学校時代の芥川は、非常に読書欲が旺盛で、「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」(大正8.1.1『新潮』)によると、 小学校に通つてゐる頃、私の近所にあつた貸本屋の高い棚に、講釈の本などが、沢山並んでゐた。それを私は何…
築地、聖路加国際病院の北側辺りに「芥川龍之介生誕の地」があります。 芥川龍之介は明治25年3月1日、新原敏三(嘉永3.9.6(陰暦)~大正8.3.16 耕牧舎経営業)ふく(万延元.9.8(陰暦)~明治35.11.28)の長男として、この地、東京市京橋区入船町8丁目1番地(現:東京都中央区明石町1-25辺り)に生まれました。 辰年辰月辰日辰刻に生まれたため「龍之介」と命名。 父新原敏三は山口県の出身で、明治8年頃に上京。渋沢栄一(天保11.2.13(陰暦)~昭和6.11.11 実業家)の経営する箱根の牧場で働いていましたが、その才覚を買われて、明治16年からここ入船町の耕牧舎の経営を任されるよう…
東京メトロ有楽町線新富町駅からすぐ、築地橋を渡った京橋税務署の角に「新富座跡」があります。 新富座は、江戸三座(中村座・市村座・森田座)のうち、森田座を守田座と改称し、明治5年に12代目守田勘弥が、浅草猿若町から京橋新富町に移設し開場した歌舞伎劇場です。 「新富座」と改称したのは明治8年。 市川団十郎、尾上菊五郎、市川左団次などの名優を集め、積極的な興行をしましたが、明治9年、京橋区数寄屋町から始まった大火で類焼してしまいます。 けれども明治11年には、ガス灯などの設備を備えた近代的歌舞伎劇場として再建。 太政大臣や各国大使を招く、盛大な西洋風落成式が華やかに行われました。 (三代目歌川広重「…
かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな 与謝野晶子(明治11.12.7~昭和17.5.29 歌人)がこう詠んだのは、鎌倉長谷にある高徳院の大仏。 鎌倉といえば、この大仏を真っ先に思い浮かべる人も、きっと多いことでしょう。 今ではすっかり外国人観光客で溢れかえっている高徳院ですが、高徳院にはこの有名すぎる大仏の他に、ひっそりといくつかの文学碑が佇んでいます。 与謝野晶子が詠んだ先の大仏の歌の歌碑は、境内の奥、大仏の左側の廻廊の裏を進んだ先にある、売店や観月堂の奥にあります。 晶子がこの歌を詠んだのは、明治37年に鎌倉を訪れたとき。『恋衣』(山川登美子・増田雅子・与謝野晶…
慶応義塾大学三田図書館旧館八角塔脇の小道を入っていくと・・・(入っていいんだろうか?と、一瞬躊躇してしまうような裏道感のある所ですが・・・入っていいんですw) 何やら小高くなっている所があります。 ここは「文学の丘」(丘?っていうか、石が積まれ土がこんもり盛り上がっているだけのような・・・いや、でも丘なんですw)。慶應ゆかりの文人たちの、文学碑や石像の並んでいる丘です。 まず目に入ってくるのは、吉野秀雄(明治35.7.3~昭和42.7.13 歌人・書家)の歌碑。 図書館の 前に沈丁咲くころは 恋も試験も 苦しかりにき 群馬県高崎出身の吉野は、『福翁自伝』(福沢諭吉 明治31.7.1~32.2.…
慶應義塾大学三田図書館旧館。 赤レンガ造りネオ・ゴシック様式の美しい建物です。 正面入口上部には「創立五十年記念慶應義塾図書館」とあります。 この図書館は、明治40年に迎えた慶應義塾開設50年を記念して建設されたもので(竣工は明治45年)、開館当時は地上2階地下1階、20万冊の収蔵能力と200席の閲覧室を持つ施設で、同時代の大学図書館としては、他に類を見ないものでした。 明治45年5月18日に行われた開館式には、800名もの来賓が訪れ、三田通の商家の軒先には塾旗が掲げられ、街をあげてのお祝いムードになるほどだったのだそうです。 この図書館が建設されたころの慶應は、ちょうど文科の刷新時期。森鷗外…
田端文士村記念館横の江戸坂を上って、コンビニの角を右折し進んで行くと、 右手に「そば処浅野屋」というお蕎麦屋さんが見えてきます。 ここは芥川龍之介が贔屓にしていた、といわれているお蕎麦屋さんです。 創業は大正5年。芥川が田端に住み始めたのが大正3年なので、その2年後に開業したお店ですね。 店内は、どこか懐かしさのある、落ち着いた暖かみのある雰囲気。 芥川が好んで食べていたのは、天ぷらそばだったのだそうです。 こちら↑が「上天ぷらそば」。 大葉とかぼちゃと茄子の天ぷらがひとつずつ、大きな海老の天ぷらが2本入っています。結構なボリューム。出汁は濃い目の関東風。冷えた体に、熱いおそばが染みわたります…
甘縄神明神社の目の前にある「旧加賀谷邸」。 屋根に宝珠の棟飾りを付けた洋館と和館からなる、鎌倉市の景観重要建築物に指定されている建物です。 建てられたのは大正時代(14年?)。白塗りの壁にグリーンのラインが、可愛らしくも美しいこの和洋折衷の館は、戦後借家になっていた時期があり、その時、後に作家・エッセイスト・サントリーのコピーライターとしても有名になる山口瞳(大正15.1.19~平成7.8.30 小説家・随筆家)が、一家で住んでいたことがあるのだそうです。 (山口瞳) その頃山口は20代。映画・演劇界に多くの人材を輩出した、鎌倉アカデミアという私立学校に在籍していました。 この邸宅の目と鼻の先…
東京・墨田区にある「たばこと塩の博物館」で、只今『芥川龍之介がみた江戸・東京』展開催中です。 芥川龍之介(明治24.3.1~昭和2.7.24 小説家)は、東京市京橋区入船町(現・中央区明石町)に生まれましたが、生後約半年で母方の実家芥川家に預けられ、後養子として育てられます。 当時、養家の芥川家があったのは本所両国。大川(隅田川)の流れとともに、江戸情緒を色濃く残しながらも、鉄道や工場、学校の建設など、近代化の波も続々と押し寄せてくる地域でした。そんな大川端で、18歳までの少年期を過ごした芥川。大川はじめ、この地への愛着も深く、長じて作家になってからも、「大川の水」(大正3.4.1 『心の花』…
江ノ電和田塚駅。鎌倉の隣の無人駅。江ノ電の中でも、特にこぢんまりとした駅です。 和田塚には、その名の通り「和田塚」があります。 「和田塚」は、鎌倉前期の建暦3年、鎌倉で起きた和田義盛の乱で、北条義時と戦って敗死した和田義盛とその一族を埋葬したお墓です。 和田一族を供養する、複数の石碑や小さな五輪塔が静かに並んでいます。 この和田塚の近くには、大正5年11月下旬から翌6年の9月まで、芥川龍之介(明治25.3.1~昭和2.7.24 小説家)が住んでいた場所があります。 (芥川龍之介) 芥川龍之介の家は、東京田端にありましたが、大正5年、東京帝国大学英吉利文学科を卒業後(引き続き同大学院に籍を置きま…
「咳をしても一人」尾崎放哉の終焉の地を訪ねて ~数奇な運命と生涯を辿る旅~
「咳をしても一人」 「入れものが無い 両手で受ける」 山頭火と並び称される自由律俳句の代表俳人、尾崎放哉の句です。 その人生は、類まれで壮絶なものでした。 小豆島の海。尾崎放哉はこの海をどんな気持ちで眺めたのだろうか。 エリート街道まっしぐら、人も羨む美女を嫁に迎え 公私ともに順風満帆であった放哉。 けれど、運命の歯車はいつしか狂い始め、 放哉は41歳で、小豆島で人生を終えることになります。 貧窮の中、粗末な庵で、孤独のうちに迎えた死。 いったい何があったのか・・・? 小豆島にある尾崎放哉記念館、そして放哉の生涯を 私の個人的な感想を交えながらご紹介いたします。 <参考> 最晩年にたどりついた…
江ノ電長谷駅を海側へ出て、極楽寺方向へ進んで行くと右手に、まるでタイムスリップしたかのような、古色を帯びたお店が見えてきます。 「力餅屋」。 創業は江戸元禄年間の、由緒ある和菓子屋さんです。 平安時代の武将、権五郎景政の武勇を伝え偲ぶよすがにと、代々伝えられてきた「権五郎力餅」が名物。近くには権五郎の御霊を祀った御霊神社もあります。 「権五郎力餅」。 つきたてのお餅に、控えめな程よい甘さのこし餡が載っています。 箱にきっちり詰まっていますが、ひとつひとつは小ぶりなお餅です。 餡とお餅のバランスがよく、何個でも食べられてしまいそうです。 この権五郎力餅は、鎌倉文士たちにもこよなく愛され、大正5年…
江ノ電長谷駅から大仏に向かう手前にある長谷寺。 天平8年創建の、いわずと知れた鎌倉有数の名古刹。 紫陽花寺としても有名で、修学旅行や遠足の子どもから外国人観光客まで、人足の絶えることない人気のお寺です。 そんな多くの参拝客で賑わう長谷寺の、入り口入ってすぐの所に、ほとんど誰も見向きもしない像がぽつんと立っています。 久米正雄(明治24.11.23~昭和27.3.1 小説家)の胸像です。 久米正雄は夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正5.12.9 小説家)の門弟で、同門の松岡譲(明治24.9.28~昭和44.7.22 小説家)と漱石の娘筆子をめぐって、三角関係の恋に破れてしまったことでも知られ…
京王井の頭線駒場東大前駅からほど近い、駒場公園内にある「日本近代文学館」。 明治以降の日本文学の資料を、収集・保存・展示する資料館です。 所蔵品は、9万3千点余りの原稿や草稿、日記、遺品、48万冊を超える書籍、2万8千タイトル60万冊を超える雑誌という膨大な量を誇り、芥川龍之介文庫や太宰治文庫、志賀直哉コレクションや有島武郎・生馬コレクションなどなどの、文庫・コレクションも160を超える豊かさです。 資料のほとんどが、作家や遺族、出版社からの寄贈によるものなのだそうです。 一般向けの公開講座や、文学館職員・大学院生対象の文学館演習などの教育活動も盛んで、展示室は通年開設。季節によって展示内容が…
日本医科大学付属病院と東大弥生キャンパスの間に位置する「根津神社」。 日本武尊が創祀したという古い伝承を持つこの神社は、朱塗りの社殿に唐門、透塀など、権現造りといわれる江戸時代の遺構が良く保存された神社で、文学作品にも良く登場します。 宝永3年、五代将軍徳川綱吉が、綱豊に世継ぎしたときに造営された社殿は、7棟の建物が、重要文化財に指定されています。また、境内の斜面に植えられた、約2千本のつつじが咲き誇る5月のつつじまつりや、乙女稲荷神社の奉納鳥居のトンネルなども有名です。 楼門の脇には、近くに住んでいた森鷗外(文久2.1.19(陰暦)~大正11.7.9)や夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正…
漱石珈琲店(松山)素敵カフェで夏目漱石と正岡子規の友情に想いを馳せて
「小生宿所は眺望絶佳の別天地」 夏目漱石が、親友・正岡子規への手紙にそう記した場所。 それが、漱石が松山に移り住んで最初の下宿先となった「愛松亭」。 いまは、「漱石珈琲店」として、当時の面影を残し レトロで落ち着いたカフェとなっています。 松山への旅行前、一冊の本に出会いました。 日めくり子規・漱石―俳句でめぐる365日 作者:紗希, 神野 愛媛新聞社 Amazon 一日一句と、その解説がわかりやすく載っている本ですが、 コラムには子規と漱石の友情、二人が互いに出し合った書簡や エピソードなどが書かれていて、とても面白く、読みやすい! 松山を訪れるにあたって、読んでいてよかったと思った一冊でし…
団子坂上の鷗外記念館から、根津神社方面へ下っていく坂道が「薮下通り」。 昔は本郷台地の中腹から根津方面に抜ける間路であり、踏み分け道であったこの道は、 江戸時代の切絵図(区分地図)を片手に、日和下駄を履いて蝙蝠傘を持って、東京市中の路地や坂道を、方々歩いていた永井荷風(明治12.12.3~昭和34.4.30 小説家)の、お気に入りの道でした。 荷風はこの薮下通りを通って、敬慕する鴎外の観潮楼に通っていました。 今ではすっかり整備され、立派な住宅が立ち並び、踏み分け道の感はどこにもありませんが、かつては道幅も狭く、雪の日には積もった雪の重みでしなった笹竹で、通るのも困難になるほどの道だったそうで…
千駄木の団子坂を上りきると、左手に「森鷗外記念館」(旧・鴎外記念本郷図書館)があります。 森鷗外(文久2.1.19(陰暦)~大正11.7.9 小説家・医師)が、明治25年から大正11年に亡くなるまで、30年に渡って居住した「観潮楼」跡地です。 「観潮楼」とは、潮を観る楼(建物)。 昔はここ千駄木から、品川沖を臨むことができたそうです。 確かに団子坂を上り切った高台。団子坂にも汐見坂という別名がありますが、遮る物がなければ、ここから海が見えるのでしょう。 現在は遮る物だらけで、残念ながら海は見えません。 藪下通り側の入り口には、「観潮楼址」のプレートが。 津和野藩(現・島根県鹿足群津和野)典医の…
東京メトロ千代田線千駄木駅を出ると、すぐ西に上がる坂が「団子坂」。 名前の由来は、昔、坂の下に団子屋があったからとか、急な坂なので雨降りのとき、転ぶと泥団子のようになるから等々、いわれのある坂道です。 他にも「潮見坂」「千駄木坂」「七面坂」という異名もあります。 団子坂はこれまで、数多くの文学作品の舞台となってきました。 有名どころでは、江戸川乱歩(明治27.10.21~昭和40.7.28 小説家)の「D坂の殺人事件」(大正14.1 『新青年』)。 (江戸川乱歩) 「D坂」とはもちろん団子坂のこと。D坂の古本屋で起きた密室殺人事件を、素人探偵明智小五郎が解き明かす推理小説です。乱歩が生み出した…
横浜、港の見える丘公園から伸びた霧笛橋を渡った先に、ひっそりと佇む円形の建物。 ここは「県立神奈川近代文学館」。 神奈川にゆかりのある近代文学の作家・作品の資料を蒐集・保存・展示している文学館です。 開港の地横浜や、古都鎌倉を擁する神奈川には、多くの文士が居住し、神奈川の地を舞台にした数々の文学作品が生まれました。 神奈川近代文学館の展示室では、常設展とさまざまな企画展で、神奈川ゆかりの文学を、魅力的に紹介しています。 常設展示室に入って、まず目に付くのは「漱石山房」という夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正5.12.9 小説家)の書斎を復元したコーナーです。 紫檀の文机やペルシャ絨毯、蒔絵…
地下鉄東京メトロ東西線早稲田2番出口を出て東側、夏目坂とは反対方向へずんずん進んでいくと、「漱石山房通り」という標識があります。 masapn2.hatenablog.jp この標識沿いに進んでいくと、左手に見えるは「漱石山房記念館」。 「漱石山房」とは、夏目漱石が明治40年9月、本郷西片町から転居し、大正5年12月に亡くなるまでの9年間を過ごし、終の棲家となった家のことです。 漱石は、ここに転居した年の3月、東京帝国大学英文科講師などの教職をいっさい辞し、朝日新聞社に入社。職業作家として文筆に専心する決意を固めました。 「三四郎」(明治41.9.1~12.29)「それから」(明治42,6,2…
銀座に現存する最古の喫茶店「カフヱーパウリスタ」。 明治44年に、南鍋町(現在の銀座6丁目)にオープンしました。 創業者は水野龍。ブラジル移民を仲介する、皇国殖民合資会社の社長でした。 水野は、ブラジルへの日本人移送の見返り、及びブラジルコーヒーの宣伝普及のため、 サンパウロ州からコーヒー豆の無償提供を受け、大隈重信の協力もあって、パウリスタを開業。(ちなみに日本初の喫茶店は、明治21年黒門町(現在の上野1~3丁目辺り)にできた「可否茶館」。また明治44年には、同じく銀座に「カフェー・プランタン」や「カフェー・ライオン」も開業しています。) 「サンパウロっ子」という意味を持つ「パウリスタ」。 …
埼玉県の別所沼公園には詩人・立原道造が設計した ヒアシンスハウスがあります。 この別所沼を訪れ、ここに5坪ほどの家を建てて暮らすことを 夢見た立原道造。 その夢は叶うことなく24歳で結核により亡くなりました。 立原道造の没後66年の時を経て 2004年、地元の有志や全国の立原道造を愛する人々の寄付により、 建設されたヒアシンスハウス。 それは、立原道造が遺した50枚を超えるスケッチをもとに 忠実に再現されました。 今回は美しい紅葉の別所沼公園と ヒアシンスハウスの写真を中心にご紹介したいと思います。 1、立原道造が歩いた道を 2022年11月12日の別所沼公園。 メタセコイアの木々が色付き、鏡…
「行きませう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食ひませうか。先生あすこの団子を食つた事がありますか。奥さん一返行つて食つて御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます。」⦅「吾輩は猫である(五)」夏目漱石『ホトトギス』第八巻第十号 明治38年7月1日⦆ 夏目漱石の通称「猫伝」こと「吾輩は猫である」に登場する、猫のご主人と多々良君の会話にでてくるお団子。それがこの「羽二重団子」です。 店名もズバリ『羽二重団子』は、江戸時代文政2年の創業。 東京は根岸、芋坂の脇にあるお団子屋さんです。 開業当初は『藤の木茶屋』と称していたそうですが、供する団子が絹の「羽二重(柔らかく光沢のある絹織物の一種)」のよう…
空に近い屋上テラスで絶品サンドイッチを!小説「菓子屋横丁 月光荘」の舞台を訪ねて(川越)
川越を舞台にした、ほしおさなえさんの小説「菓子屋横丁 月光荘」。 最近、このシリーズの一巻目を読み、その魅力にハマってしまいました。 私は、「もし家の声が聞こえたら?」というブログ記事を書いたことがありますが、(家の記憶 - Miyukeyの気まぐれブログ ) 偶然にも、この小説の主人公は「家の声が聞こえる」大学院生です。 なんだか親近感を感じてしまい、私自身、川越が大好きということもあって 読み始めました。 菓子屋横丁月光荘 歌う家 (ハルキ文庫 ほ 5-1) 作者:ほしおさなえ 角川春樹事務所 Amazon <あらすじ・内容紹介> 家の声が聞こえる――幼い頃から不思議な力を持つ大学院生・遠…
台東区根岸二丁目。山手線の鶯谷駅を北口から出て、五分ほど歩いたところに、正岡子規(慶応3.9.17(陰暦)~明治35.9.19 俳人・歌人)の居住跡である「子規庵」があります。 四国は愛媛県松山の出身である正岡子規は、明治16年に上京したあと、都内で数回転居していますが、この根岸の子規庵が終の棲家となりました。 子規といえばわずか21歳で、当時まだ不治の病であった結核にかかり喀血。病は高じて結核菌は背骨まで侵し脊椎カリエスとなり、明治32年32歳以降は、この小さな庵で寝たきりの暮らしになります。 「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。」(『病床六尺』19…
東京・三鷹の山本有三記念館へ行って来ました☆ 実は、私、山本有三の作品は一冊も読んでいないのです。。 が、この記念館のことを知って以来、 その美しい建築様式に憧れ、 私の「一度、訪れてみたい!リスト」に名を連ねていました。 予定していた日は、まさかの台風! 関東は、それほどの影響がないようですので、 大雨にも負けず、決行することに。 三鷹駅から玉川上水沿いを歩くこと10分強、 三鷹市山本有三記念館に到着しました。 メルヘンチックにも見える白い門の前には 大きな石が。 山本有三の作品にちなんで「路傍の石」と名付けられています。 道端で見つけた石を家まで運ぶなんて、 よっぽどの石好き? いえ、名作…
東京都北区、山手線の田端駅北口を出てすぐのところに、「田端文士村記念館」があります。 かつて田端に住んでいた芸術家や文学者たちの、作品や原稿、書簡などを展示し、その業績や、田端での暮らしぶりを紹介する区立の施設です。 田端は明治中頃までは閑静な農村でしたが、明治33年に画家で歌人の小杉放菴(明治14.12.29~昭和39.4.16)が移り住んだのを皮切りに、数々の芸術家・文学者が住むようになりました。 放菴のあとには、明治36年に陶芸家の板谷波山(明治5.3.3~昭和38.10.10)が、40年に彫刻家の吉田三郎(明治22.5.25~昭和37.3.16)が、42年に鋳金家で歌人の香取秀真(明治…
上野広小路にある「うさぎや」。 大正2年創業の和菓子屋さんです。 「どらやき」が有名な、現在でも行列の絶えない人気店です。 創業者は谷口喜作(明治35.6.16~昭和23.5.25)。 俳人でもあり、河東碧梧桐(明治6.2.26~昭和12.2.1)主宰の俳句雑誌『海紅』(創刊大正4.3)や、『三昧』(創刊大正14.3)などに、句やエッセイを掲載したこともある、文人趣味のある店主でした。 文化人との交流も多く、滝井考作(明治27.4.4~昭和59.11.21)の随筆集『風物誌』(砂子屋書房 昭和13.8.25)や、短編集『積雪』(改造社 昭和13.12.18)などの装丁にも関わっている人物です。…
学生時代、よく文学散歩をしていました。 友達と先生と、ときにはひとりで。 5、6人の少人数でまわることもあれば、学部と大学院のゼミ合同で、大人数でまわることも。 途中で裏道に入って変なものを見つけたり、男子は、ちょっと休憩といいながら、昼間からもう飲みだしたり・・・。 真面目に文学の話をしながらも、珍道中のおかしさもあって、楽しい思い出いっぱいの文学散歩でした。 そんな文学散歩ですが、結婚して子どもが生まれ、家庭のことにかまけているうち、すっかりご無沙汰に・・・。 今やっと、ようやく子どもの手もずいぶん離れるようになり、自分の時間が取れるようになってきました。 そこで、楽しかったあの文学散歩。…
ちょこっと文学散歩☆石井桃子や水上勉も歩いた浦和散歩♪「あっおやまっぷ」を手に。
先日行った須原屋本店で、こんなマップを手に入れました。 これが、なかなか面白い! 「あっおやまっぷ」作成者の、あおやままさひろさんは、 ネットは一切使わず、聞き込みや書物、耳にはさんだことなどをもとに 地図を作ったそうです。 味のあるイラストや、びっしり書き込まれた手書きの文字。 不思議な魅力です! 普段よく行く浦和ですが、知らないことが山ほどあるのだなあと実感しました。 翻訳者・石井桃子や作家・水上勉、詩人・立原道造など 文学にまつわる情報も散りばめられている この「あっおやまっぷ」は、6年ぶりにリニューアルされ、 いま、静かなブームなのだとか。 このマップを手に、ぶらりと浦和散歩・・・ 遠…
万平ホテルのカフェ(軽井沢) 絶品グリルサンドとアップルパイ。小説の舞台になったホテルを訪ねて☆
軽井沢の老舗、万平ホテル。 室生犀星、堀辰夫、三島由紀夫といった文豪たちに愛され 文学作品の舞台になりました。 また、ジョン・レノンがオノ・ヨーコと共に定宿として 毎夏をこのホテルで過ごしたことでも有名です。 そんな万平ホテルでの素敵なティータイムから 私の軽井沢旅行は始まりました☆ 写真と感想で振り返りたいと思います♪ (写真は全て2021年9月27日に撮影したものです) 1、万平ホテルに到着!歴史を、ちょっとおさらい 2、さっそく、カフェへ☆ 3、絶品グリルサンドが美味しすぎました 4、ジョン・レノン直伝のロイヤル・ミルクティーと 名物の絶品アップルパイ 5、万平ホテルとスズランの素敵な関…
下北沢を散策☆ 吉本ばなな「下北沢について」を片手に (文学散歩)
私が下北沢に惹かれたきっかけは 一冊の本との出会いから始まります。 1、吉本ばなな「下北沢について」 裏表紙の内容紹介文を読んで、 下北沢のガイドブック的なエッセイを期待して買ったのですが 実際は、ずいぶん違った内容でした。 このエッセイに名前が出て来るお店の数々は、 現在、もう閉店してしまっているものがほとんど。 意図的に名前を伏せてある店もあります。 それでも、読了してみると、「読んでよかった」と思えました。 下北沢に住んでいた吉本ばななさんが その時に見た光景、思い出、空気感を閉じこめたような一冊。 在りし日の街の姿、いまはもういない近所の住人たちや 幼かった頃の我が子の姿、住んでいた家…
夢見る山荘「睡鳩荘(軽井沢)」を訪れて☆ フランス文学者、朝吹登水子の夏の夢。
軽井沢で訪れた睡鳩荘(すいきゅうそう)。 白樺の木々と湖の向こうに佇むヴォーリーズ建築の洋館。 それを見ただけでも、絵の中に飛び込んだような錯覚を起こしますが そこで過ごした家族のストーリーは、 その外観にも増して美しい物語のよう。 今回は、2021年9月28日に訪れた睡鳩荘をご紹介します。 睡鳩荘は軽井沢のリゾート・レジャー施設「タリアセン」内にあります。 タリアセンには他にも ペイネ美術館、高原文庫、堀辰夫山荘など見どころいっぱい! 白樺の木々の間から見える睡鳩荘の姿は、軽井沢を代表する景観です。 塩沢湖に寄り添うようにして静かに佇む邸宅、睡鳩荘。 お気に入りの相棒、てのりごちさんもここで…