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一人くらい周りにいませんか~? トラウマを抱えたままでも大丈夫!あなたは幸せに生きていける!トラウマ解放セラピストmiwakoです。最新の脳科学セラピー…
プロゴルファーのタイガー・ウッズは、 ゴルフの試合中、相手のショットが入るように、ひそかに祈るそうです。 相手のボールが外れるようにとは絶対に祈らない。 「相手の成功を祈る」これがタイガーウッズの勝利の秘訣だそうです。 ゴルフの2005年”アメリカンエクスプレス選手権” 最...
プロゴルファーのタイガー・ウッズは、 ゴルフの試合中、相手のショットが入るように、ひそかに祈るそうです。相手のボールが外れるようにとは絶対に祈らない。「相手の成功を祈る」これがタイガーウッズの勝利の秘訣だそうです。 ゴルフの2005年”アメリカンエクスプレス選手権”最終日のプレーオフでの出来事でした。 相手がパットを外せば自分の優勝が決まるという場面で、 相手がパターを打った瞬間、彼は「入れ!」と祈...
おはようございます! キャリアコンサルタントの江藤セツ子です。自分らしい生き方や働き方を見つけていきましょう。 人間は自分の成功は自分に帰属させ、失敗の原因…
もやもやを言語化した夜。沖縄に寂しさを感じていた事実に気づいた
はいたい!管理人のミツです。 沖縄もほんの少し寒さが戻ってきた三月の初め。暖房をつけるほどではないけれど、座っていると太ももや足先に冷えを感じてしまいます。 ひざ掛けをしようかと思ったけど、先週の夏のような暑さで全て片付けていたことに気づき
人生には何度も思いがけないことが起きる、事故や災害、病気もそうだが人との偶然の出会いというものがある、家族もそうだが誰かとの出会いなどはそうだ。学生時代の仲間、社会人になって同じ場所で仕事をすることで上司、同僚、部下社員、そして取引先から影響を受けることがある、というのは仕事の意欲は使命感もあるが他人から認められ賞賛されることで一気に増すことがある、だから自尊心やプライドというものは他人からの贈り物かもしれない。そして人との出会いで私が素敵だなと思うのは、その人と話をしてると、なぜか自分の中の知らなかった自分を引き出してくれる人、なぜか心地よいものだ、そういう人との出会いは間違いなく生きる力になるものである、長い人生のなかでも数少ないけど、そんな思いがけない出会いを楽しみに生きていけたらと思っている。人との出会いで素敵なことは
写真は昨日の続きです。ひさしぶりに女装配信の話題を書きますね。現在はFC2ライブのみで配信をしています。土曜日、2ショットに来てくれたリスナーさん。なんか面白い人だったなぁ。酔っぱらって言葉遣いは乱暴だったけどw 私のこと褒めてくれたり叱咤激励してくれたり。私って自尊心が低いらしいわww どうだろ…謙虚なつもりなんですけどね笑 話しやすいとも言ってくれたっけ。たしかに、女装してる時はよく喋りよく聞いて...
僕のFIRE生活はブログテーマの通り「自由で平穏なるリタイア生活」を重視しています。 ですがもし僕が20代~30代前半でFIREをしていたら、この「自由で平穏」たるFIREを失敗していたと思います。 特に大事なのは「ありのままの自分を認める」という自己肯定感です。 いくらお金・健...
おはようございます! キャリアコンサルタントの江藤セツ子です。自分らしい生き方や働き方を見つけていきましょう。 ビジネス書のベストセラースティーブン・R・コ…
よく使われている割には わかるようでわからない単語の「自己肯定感」私が愛用している岩波 国語辞典 第三版には、もちろん載っていません。「窓の外が気になる黒...
小さな頃、父の見ていたテレビに残虐な場面が映り、あわてて隣の部屋に逃げたことがあります。今日、私が書くことにはそんな場面も出てきます。読みたくないという方は、…
自尊心自尊心 [社会・政治・時事] 私のアメブロの詩を朗読しました。ちなみに詩はフィクションです。アメブロ「とりあえず詩集という...www.nicovid…
№1,607 心理学は摩訶不思議25 “ 防衛機制の心理 ”
とりあえずポチっと、押していくやんな❓ ⏱この記事は、約4分で読めんねん は じ め に ご 挨 拶 本 編 防衛機制の心理 お わ り に 糸屯ちゃんの掲示板 主催サークルのご案内です(2023年07月30日 15:00 現在) は じ め に ご 挨 拶 おはようございます ☕ _ _))ペコリンン 白石です本日のテーマも、怒涛の 心理学は摩訶不思議25 です おはようございます ☕ _ _))ペコリン 真行寺ですそれでは、わたくしの方からお送りさせていただきます心理学は摩訶不思議25 のご紹介をします防衛機制の心理 です! (・・*)。。oO(妄想中) それでは、皆さん 楽しんでって…
「臨済録」原文全文とその現代語訳を紹介しました。 仏教や禅に関する書籍ですが、純粋に東洋思想の書物としても読むことができます。 そこに書かれている言葉は、現代に生きる私たちにとって、自信を持ち、より心穏やかに暮らすための導きとなるものばかりです。 「臨済録」が、より多くの人たちに読まれることを
行錄(22)「誰知吾正法眼藏、向這瞎驢邊滅卻」(吾の正法眼蔵が、この目の見えない驢馬のところで滅んでしまうとは)「臨済録」より
臨済は、自らの法を伝えた慧然に、最後の問いかけをします。 それに対し、慧然は一喝で答えます。 臨済はその答えに満足したのでしょうか。 それとも大いに不満だったのでしょうか。 自分の法は、目の見えない驢馬のところで滅んでしまう。 そう言って亡くなりました。 臨済が亡くなった後、慧然らは師の
行錄(21)「勝即總勝、負即總負」(勝ったとしたらどちらも勝ち、負けたとしたらどちらも負け)「臨済録」より
金牛和尚は臨済の振る舞いを無礼であると咎めます。 しかし臨済はまったく構いません。 そして、さらになにか言おうとする金牛和尚に一棒を加えます。 溈山に、さてこの二人、どちらが勝ったのだろうかと問われた仰山は答えます。 勝ったとしたらどちらも勝ち、負けたとしたらどちらも負け。 勝ち負けは、こ
行錄(20)「官不容針、私通車馬」(公には針をも通さずとも、裏では馬や車が勝手に通り抜けています)「臨済録」より
溈山は、古人たちの教えは電光石火のようなもの、誰も追い切れないが、そもそもそんな言葉には意味などなかったのだ、と言います。 それに対し、仰山は言います、表向きには誰も通さないが、裏ではこっそりと馬も車も通り抜けています。 言葉の上での厳しさはあっても、通り抜ける術はあるものだ。 そう言っている
行錄(19)「祇圖踏破草鞋」(ただ草鞋をすり減らそうとしているだけです)「臨済録」より
明化は臨済に、どうして歩き回っているのかと尋ねます。 臨済は、ただ歩いて草鞋をすり減らそうとしているだけです。 あるいは、ただ草鞋がすり減ってしまうまで歩いているだけです、ということかもしれません。 明化はさらに問います。 それはどういうことか、と。 臨済はそれに答えるのではなく、ただつぶ
行錄(18)「老僧祇與麼」(老僧はただこんなものだ)「臨済録」より
臨済は凡でもなく聖でもないところを象田に尋ねます。 それに対し象田は、まあ自分は見たままの、このままのものだよ、と答えます。 臨済は一喝して、ここに集まっている僧たちは、象田から何を学ぼうとしているのか、と言います。 その言葉の意味は、何通りかに解釈できるかと。 ここには学ぶべきものはない。
SNSだけじゃないけどね 芸能ニュースには疎い方ですが、また芸能人の悲しい事件があったことはテレビのニュースで知っていま
行錄(17)「一箭過西天」(一箭(矢)は西天に飛び去った)「臨済録」より
翠峰の問いかけに対して、臨済は、黄檗には特別な言葉などありません、と答えます。 そうだとしても、何か言ってごらんと翠峰はさらに問いかけます。 それで、臨済は、矢のように、あっという間に西に向かって飛び去った。 もうここには痕跡も残っていないのだ、と言います。
行錄(16)「作家禪客、宛爾不同」(なるほど一家をなした禅客は、他とは違う)「臨済録」より
とても短いやり取りの中で、華厳和尚と臨済はお互いの力量を計りあっています。 そしてそれぞれを認めているのでしょう。 臨済録の中に出てくる人たちは、懸命に経典を読むことよりも、むしろ居眠りをするような状況を評価しているようです。 そこから私たちはどのようなことを読み取るべきでしょうか。
行錄(15)「慈云、作麼」(大慈和尚が言った、なにを言っているのだ、と)「臨済録」より
大慈和尚は臨済に答えて言います。 冬の寒さの中でも松は変わらず、千年経とうとも他のものとは同じではない。 しかし、世の中も春ともなれば、老人は花を手にもて遊ぶのだ。 それは大慈和尚のそのままの現状を言ったものかもしれません。 それに対して臨済は言います。 古くから完成された知恵といわれてい
行錄(14)「金牛昨夜遭塗炭、直至如今不見蹤」(金牛は昨夜炭で塗りつぶされてしまい、まったくその痕跡も見ることはできません)「臨済録」より
臨済は、師である黄檗の教えを、その痕跡を見ることもできない、と言います。 それは形を変え、臨済自身の中に流れ込んだものということかもしれません。 黄檗の教えが、笛に流れ込む爽やかな風であれば、きっと清々しい音を出すはず。 その笛の音を聞いている者はどこにいるのか、と平和尚は尋ねます。 その問
行錄(13)「不展鋒鋩、如何得勝」(切先を交えることなく、どのようにして勝ちを得られるでしょうか)「臨済録」より
剣先を交えることなく勝ちを得るにはどうしたらよいか、どうかその方便を示してほしい。 臨済はそう問います。 それに対して龍光は剣で相手に切り掛かるときのかけ声を発します。 咄嗟の方便ではなく、追い詰められたときに発する一声のように聞こえます。 臨済は遠慮することなく言います。 龍光は負けた、
行錄(12)「師云、佛祖俱不禮」(師は言った、仏祖ともに礼拝しない、と)「臨済録」より
住職は、仏陀のお墓に礼拝しますか、それとも祖師のお墓を先にしますか、と聞きます。 臨済は、どちらにも礼拝しない、と言って、立ち去ってしまいます。 では臨済は何をしにそこに行ったのでしょうか。 仏教や禅の修行者を縛り付けているものの張本人たちを確認しに行ったのかもしれません。 そして、それらの
行錄(11)「已後坐卻天下人舌頭去在」(将来、天下の人々の舌頭を押さえて座り込むこともあるだろう)「臨済録」より
黄檗は、自らのもとから独立しようとする臨済に、百丈和尚から受け継いだ禅板と机案を渡そうとします。 しかし臨済はそれを燃やしてしまおうとします。 臨済は、物を受け取ることを法の伝授の証にするようなことはしたくなかったのかもしれません。
行錄(10)「汝向後北去」(あなたはこの先、北へ向かうといいでしょう)「臨済録」より
臨済は黄檗のもとで修行をしていましたが、大悟するためには大愚と出会う必要がありました。 大悟の後、自らの禅風を確立するためには首座とともにする修行が役立っています。 さらには、普化との出会いもとても大切なのですが、そのきっかけは溈山と仰山のもとを訪れた時に与えられています。 臨済の修行は、この
行錄(9)「賊是小人、智過君子」(賊は小人ですが、その智は君子以上ということでしょう)「臨済録」より
黄檗が持っていた鍬を臨済がさっと取り上げてしまいます。 この場面は、どのようなことを私たちに伝えようとしているのでしょうか。 溈山にその意味を問われた仰山が答えます。 鍬を取り上げた者はまだまだ小人だが、その知恵は十分で君子以上です、と。 ここでもやはり、その後の臨済の活躍を予言しているよう
行錄(8)「兩彩一賽」(一度の勝負で二度勝ち)「臨済録」より
臨済は僧堂で居眠りをしています。 一方の首座は僧堂で坐禅を組んでいました。 そのどちらもが、黄檗を相手にして動じる素振りを見せません。 後に、仰山が言います。 この場面では、二度の勝ち目が出ている、と。 それはどのように解釈したらいい言葉でしょうか。 黄檗は二人の良き後継者を得た。 そ
行錄(7)「首座云、知即得」(首座が言った、それを知っているならまあいいでしょう、と)「臨済録」より
臨済は、黄檗が来たのに気づいて、目を閉じました。 その様子に黄檗は恐れをなしたようにして、方丈に帰ります。 黄檗の後について方丈に行った臨済は、黄檗に礼拝します。 自分を認めてくれた黄檗に感謝を示しているようです。 黄檗はまだ若い臨済の資質を認めていました。 そのような黄檗と臨済の振る舞い
行錄(6)「正賊走卻、邏蹤人喫棒」(賊本人は走り去り、取り締まりの警邏が棒をくらったようなものです)「臨済録」より
臨済は、黄檗の棒の一打をとらえ、押し返して、黄檗を倒してしまいます。 黄檗を助け起こした維那(いな:僧堂に集まった僧たちの取りまとめ役)が、かえって黄檗の一打を受けてしまいます。 これを後に溈山と仰山が話題にしています。 賊本人はその場から逃げてしまい、残っていた警邏が棒で打たれたようなものだ
行錄(5)「師侍立德山次、山云、今日困」(師が徳山のそばに立っていると、徳山が言った、今日は疲れた、と)「臨済録」より
徳山は坐禅を終えて、疲れた、と言ったのでしょうか。 それを聞いた臨済は、徳山がなにか寝言で言ったぞ、と返します。 徳山は臨済を打ちます。 臨済は徳山が腰を下ろしていた坐禅用の椅子をひっくり返します。 徳山は、その時、一緒にひっくり返ったのかもしれません。 そのまま徳山は居眠りでも始めたので
行錄(4)「深山裡栽許多作什麼」(こんな深山の奥に松を数本植えて、それでなにをしようというのか)「臨済録」より
黄檗は、岩山に松を植え、後に続く人たちのための道標にするというのを聞き、臨済の修行の到達点を見たのかもしれません。 松は、紅葉樹が散った後も葉を残すもの。 そのような松の木を、黄檗のもとで育てたのは臨済である。 後の人たちは、臨済の業績を松の木に見立てて書き残した。 そのようにも読み取れる文
トラウマセラピストの花丘ちぐさです!昨日から回避性愛着障害のことについて書いています。もちろん、状態が深刻な方から、ちょっとはいってるな~、という方まで幅があ…
行錄(3)「非但騎虎頭、亦解把虎尾」(虎の頭に乗ったばかりか、虎の尾まで捕まえていたのです)「臨済録」より
臨済は、黄檗が大愚に一撃を喰らわせたいものだと言うのを聞いて、それならこの場で喰らえと平手打ちをします。 黄檗は臨済の変化や成長をそこに見たのでしょう。 侍者に、臨済を参堂に連れて行かせます。 そのあとに溈山と仰山とのやり取りが書かれています。 臨済は虎の頭に乗っただけではなく、尻尾も掴まえ
行錄(2)「元來黃檗佛法無多子」(もともと黃檗の仏法にややこしいことなどなかったのだ)「臨済録」より
臨済が黄檗に仏法の根本義を尋ねたところ、黄檗はただ棒で打っただけでした。 それを大愚に話したところ、大愚は、黄檗は老婆のような親切心で教えているのだ、と説明します。 その言葉を聞いたとたんに、臨済は大悟します。 このときから、臨済は自身の禅風を発展させるようになります。
行錄(1)「汝向高安灘頭大愚處去、必為汝說」(高安灘頭の大愚の所に行け、必ず汝のために説いてくれるだろう)「臨済録」より
首座は、まだ若い臨済に、将来性を見ていました。 その言葉を理解した黄檗は、自分のもとを去ろうとする臨済に、大愚の所に行け、と言います。 臨済は黄檗と大愚との間を行き来することで大悟します。
勘辨(22)「祇聞空中鈴響、隱隱而去」(ただ空中に響く鈴の音が、ありありと耳の底に聞こえ、それが遠ざかって行くのみであった)「臨済録」より
陰々と鈴の音が聞こえ、それが遠ざかっていく。 そのようにこの「勘辨」編は終わります。 「勘辨」で語られたことから、私たちはどのようなものを感じとれたでしょうか。 それを振り返るとき、耳の奥で微かに響く音が聞こえているような気がします。 そして、それは次第に遠ざかっていきます。
勘辨(21)「徑山五百衆、太半分散」(径山にいた五百人の僧たちは、その大半が立ち去ってしまった)「臨済録」より
径山のもとに着いた臨済は、挨拶もせず、旅装を解くこともなく、振り向こうとする径山に一喝を浴びせます。 径山が一言を発するひまも与えず、臨済はその場から去ってしまいます。 そこでなにが起こったのか。 それを問う僧に径山は答えます。 「あの男に直接聞いてみろ」 それで多くの僧たちは径山のもとを
勘辨(20)「肯即深肯、要且無祖師意」(認めることはとても深く認めているのだが、つまりはそこにも祖師西来意はないな)「臨済録」より
還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
臨済が説く四種類の喝を整理すると次のようになります。 ・金剛王の宝剣:ズバリと本質に切り込むもの ・金毛の獅子:迫力で身の危険を感じさせるもの ・見せかけの餌:チラチラ見せておびき寄せるもの ・役立たずの一喝:ただの大声 臨済はこれらの喝を、使い分けているということでしょうか。
勘辨(18)「定方禮拜、忽然大悟」(定上座は礼拝をしたその時、忽然と大悟した)「臨済録」より
定上座は臨済に祖師西来意、つまり仏法の根本義を問います。 臨済は言葉で返さずに、定上座に平手打ちを与えます。 礼拝をしないのかと側にいた僧に言われ、礼拝をしたときに大悟します。 麻谷は十二面観音の顔の中でどれが正面を向いているのかと問います。 臨済は立ち上がり、麻谷をつかまえて十二面観音
勘辨(17)「州便問、如何是祖師西來意」(そこで趙州は問うた、如何なるかこれ祖師西来意、と)「臨済録」より
趙州は、たまたまどこかへ出掛けた先から戻ったところの臨済に会います。 そこで、いわゆる「祖師西来意」を問います。 祖師西来意とは、達磨大師はどうして中国に来たのか、という質問ですが、これは同時に仏教(禅)の本義はなにか、という問いでもあります。 臨済は、今帰って来たところで、足を洗っているのだ
勘辨(16)「覺云不審」(大覚は言った、ごきげんよろしゅう、と)「臨済録」より
臨済は大覚を呼び出し、お前は先ほど、あいさつをしなかったのか、と問います。 大覚は、即座にあいさつをして下がります。 そのあいさつは、二人の間の親しさのようなものの表現ではなく、むしろ「なんでもない」ということを意味しているように思えます。 そして、そのような振る舞いこそ、臨済が求めていたもの
勘辨(14)「普便喝。師乃打。」(楽普はそこで一喝した。師はすぐに打った。)「臨済録」より
「ある者は棒を用い、またある者は喝したものだ。お前はいずれかを自らのものにしたか」 臨済の問いかけに、楽普はまだどちらも自らのものになっていないと答えます。 その次の瞬間、臨済と楽普は一棒と一喝を交わします。 この短い対話は、まるで剣術の立ち合いをみているようです。 一瞬の隙をうかがって
勘辨(13)「如何是露地白牛」(露地の白牛とはなんだ)「臨済録」より
露地白牛とは、仏教の故事に由来する言葉です。長者が子供たちを火から救うために、白い牛が引いた車を用意し、子供たちはその言葉に誘われるように外に出ます。露地は仏教者が集まって修行をする場所、白牛は仏であり、仏教者が求めているもの、と解釈されます。二人は、その露地白牛について、それぞれ「モー、モー