還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
「臨済録」原文全文とその現代語訳を紹介しました。 仏教や禅に関する書籍ですが、純粋に東洋思想の書物としても読むことができます。 そこに書かれている言葉は、現代に生きる私たちにとって、自信を持ち、より心穏やかに暮らすための導きとなるものばかりです。 「臨済録」が、より多くの人たちに読まれることを
行錄(22)「誰知吾正法眼藏、向這瞎驢邊滅卻」(吾の正法眼蔵が、この目の見えない驢馬のところで滅んでしまうとは)「臨済録」より
臨済は、自らの法を伝えた慧然に、最後の問いかけをします。 それに対し、慧然は一喝で答えます。 臨済はその答えに満足したのでしょうか。 それとも大いに不満だったのでしょうか。 自分の法は、目の見えない驢馬のところで滅んでしまう。 そう言って亡くなりました。 臨済が亡くなった後、慧然らは師の
行錄(21)「勝即總勝、負即總負」(勝ったとしたらどちらも勝ち、負けたとしたらどちらも負け)「臨済録」より
金牛和尚は臨済の振る舞いを無礼であると咎めます。 しかし臨済はまったく構いません。 そして、さらになにか言おうとする金牛和尚に一棒を加えます。 溈山に、さてこの二人、どちらが勝ったのだろうかと問われた仰山は答えます。 勝ったとしたらどちらも勝ち、負けたとしたらどちらも負け。 勝ち負けは、こ
行錄(20)「官不容針、私通車馬」(公には針をも通さずとも、裏では馬や車が勝手に通り抜けています)「臨済録」より
溈山は、古人たちの教えは電光石火のようなもの、誰も追い切れないが、そもそもそんな言葉には意味などなかったのだ、と言います。 それに対し、仰山は言います、表向きには誰も通さないが、裏ではこっそりと馬も車も通り抜けています。 言葉の上での厳しさはあっても、通り抜ける術はあるものだ。 そう言っている
行錄(19)「祇圖踏破草鞋」(ただ草鞋をすり減らそうとしているだけです)「臨済録」より
明化は臨済に、どうして歩き回っているのかと尋ねます。 臨済は、ただ歩いて草鞋をすり減らそうとしているだけです。 あるいは、ただ草鞋がすり減ってしまうまで歩いているだけです、ということかもしれません。 明化はさらに問います。 それはどういうことか、と。 臨済はそれに答えるのではなく、ただつぶ
行錄(18)「老僧祇與麼」(老僧はただこんなものだ)「臨済録」より
臨済は凡でもなく聖でもないところを象田に尋ねます。 それに対し象田は、まあ自分は見たままの、このままのものだよ、と答えます。 臨済は一喝して、ここに集まっている僧たちは、象田から何を学ぼうとしているのか、と言います。 その言葉の意味は、何通りかに解釈できるかと。 ここには学ぶべきものはない。
行錄(17)「一箭過西天」(一箭(矢)は西天に飛び去った)「臨済録」より
翠峰の問いかけに対して、臨済は、黄檗には特別な言葉などありません、と答えます。 そうだとしても、何か言ってごらんと翠峰はさらに問いかけます。 それで、臨済は、矢のように、あっという間に西に向かって飛び去った。 もうここには痕跡も残っていないのだ、と言います。
行錄(16)「作家禪客、宛爾不同」(なるほど一家をなした禅客は、他とは違う)「臨済録」より
とても短いやり取りの中で、華厳和尚と臨済はお互いの力量を計りあっています。 そしてそれぞれを認めているのでしょう。 臨済録の中に出てくる人たちは、懸命に経典を読むことよりも、むしろ居眠りをするような状況を評価しているようです。 そこから私たちはどのようなことを読み取るべきでしょうか。
行錄(15)「慈云、作麼」(大慈和尚が言った、なにを言っているのだ、と)「臨済録」より
大慈和尚は臨済に答えて言います。 冬の寒さの中でも松は変わらず、千年経とうとも他のものとは同じではない。 しかし、世の中も春ともなれば、老人は花を手にもて遊ぶのだ。 それは大慈和尚のそのままの現状を言ったものかもしれません。 それに対して臨済は言います。 古くから完成された知恵といわれてい
行錄(14)「金牛昨夜遭塗炭、直至如今不見蹤」(金牛は昨夜炭で塗りつぶされてしまい、まったくその痕跡も見ることはできません)「臨済録」より
臨済は、師である黄檗の教えを、その痕跡を見ることもできない、と言います。 それは形を変え、臨済自身の中に流れ込んだものということかもしれません。 黄檗の教えが、笛に流れ込む爽やかな風であれば、きっと清々しい音を出すはず。 その笛の音を聞いている者はどこにいるのか、と平和尚は尋ねます。 その問
行錄(13)「不展鋒鋩、如何得勝」(切先を交えることなく、どのようにして勝ちを得られるでしょうか)「臨済録」より
剣先を交えることなく勝ちを得るにはどうしたらよいか、どうかその方便を示してほしい。 臨済はそう問います。 それに対して龍光は剣で相手に切り掛かるときのかけ声を発します。 咄嗟の方便ではなく、追い詰められたときに発する一声のように聞こえます。 臨済は遠慮することなく言います。 龍光は負けた、
行錄(12)「師云、佛祖俱不禮」(師は言った、仏祖ともに礼拝しない、と)「臨済録」より
住職は、仏陀のお墓に礼拝しますか、それとも祖師のお墓を先にしますか、と聞きます。 臨済は、どちらにも礼拝しない、と言って、立ち去ってしまいます。 では臨済は何をしにそこに行ったのでしょうか。 仏教や禅の修行者を縛り付けているものの張本人たちを確認しに行ったのかもしれません。 そして、それらの
行錄(11)「已後坐卻天下人舌頭去在」(将来、天下の人々の舌頭を押さえて座り込むこともあるだろう)「臨済録」より
黄檗は、自らのもとから独立しようとする臨済に、百丈和尚から受け継いだ禅板と机案を渡そうとします。 しかし臨済はそれを燃やしてしまおうとします。 臨済は、物を受け取ることを法の伝授の証にするようなことはしたくなかったのかもしれません。
行錄(10)「汝向後北去」(あなたはこの先、北へ向かうといいでしょう)「臨済録」より
臨済は黄檗のもとで修行をしていましたが、大悟するためには大愚と出会う必要がありました。 大悟の後、自らの禅風を確立するためには首座とともにする修行が役立っています。 さらには、普化との出会いもとても大切なのですが、そのきっかけは溈山と仰山のもとを訪れた時に与えられています。 臨済の修行は、この
行錄(9)「賊是小人、智過君子」(賊は小人ですが、その智は君子以上ということでしょう)「臨済録」より
黄檗が持っていた鍬を臨済がさっと取り上げてしまいます。 この場面は、どのようなことを私たちに伝えようとしているのでしょうか。 溈山にその意味を問われた仰山が答えます。 鍬を取り上げた者はまだまだ小人だが、その知恵は十分で君子以上です、と。 ここでもやはり、その後の臨済の活躍を予言しているよう
行錄(8)「兩彩一賽」(一度の勝負で二度勝ち)「臨済録」より
臨済は僧堂で居眠りをしています。 一方の首座は僧堂で坐禅を組んでいました。 そのどちらもが、黄檗を相手にして動じる素振りを見せません。 後に、仰山が言います。 この場面では、二度の勝ち目が出ている、と。 それはどのように解釈したらいい言葉でしょうか。 黄檗は二人の良き後継者を得た。 そ
行錄(7)「首座云、知即得」(首座が言った、それを知っているならまあいいでしょう、と)「臨済録」より
臨済は、黄檗が来たのに気づいて、目を閉じました。 その様子に黄檗は恐れをなしたようにして、方丈に帰ります。 黄檗の後について方丈に行った臨済は、黄檗に礼拝します。 自分を認めてくれた黄檗に感謝を示しているようです。 黄檗はまだ若い臨済の資質を認めていました。 そのような黄檗と臨済の振る舞い
行錄(6)「正賊走卻、邏蹤人喫棒」(賊本人は走り去り、取り締まりの警邏が棒をくらったようなものです)「臨済録」より
臨済は、黄檗の棒の一打をとらえ、押し返して、黄檗を倒してしまいます。 黄檗を助け起こした維那(いな:僧堂に集まった僧たちの取りまとめ役)が、かえって黄檗の一打を受けてしまいます。 これを後に溈山と仰山が話題にしています。 賊本人はその場から逃げてしまい、残っていた警邏が棒で打たれたようなものだ
行錄(5)「師侍立德山次、山云、今日困」(師が徳山のそばに立っていると、徳山が言った、今日は疲れた、と)「臨済録」より
徳山は坐禅を終えて、疲れた、と言ったのでしょうか。 それを聞いた臨済は、徳山がなにか寝言で言ったぞ、と返します。 徳山は臨済を打ちます。 臨済は徳山が腰を下ろしていた坐禅用の椅子をひっくり返します。 徳山は、その時、一緒にひっくり返ったのかもしれません。 そのまま徳山は居眠りでも始めたので
行錄(4)「深山裡栽許多作什麼」(こんな深山の奥に松を数本植えて、それでなにをしようというのか)「臨済録」より
黄檗は、岩山に松を植え、後に続く人たちのための道標にするというのを聞き、臨済の修行の到達点を見たのかもしれません。 松は、紅葉樹が散った後も葉を残すもの。 そのような松の木を、黄檗のもとで育てたのは臨済である。 後の人たちは、臨済の業績を松の木に見立てて書き残した。 そのようにも読み取れる文
行錄(3)「非但騎虎頭、亦解把虎尾」(虎の頭に乗ったばかりか、虎の尾まで捕まえていたのです)「臨済録」より
臨済は、黄檗が大愚に一撃を喰らわせたいものだと言うのを聞いて、それならこの場で喰らえと平手打ちをします。 黄檗は臨済の変化や成長をそこに見たのでしょう。 侍者に、臨済を参堂に連れて行かせます。 そのあとに溈山と仰山とのやり取りが書かれています。 臨済は虎の頭に乗っただけではなく、尻尾も掴まえ
行錄(2)「元來黃檗佛法無多子」(もともと黃檗の仏法にややこしいことなどなかったのだ)「臨済録」より
臨済が黄檗に仏法の根本義を尋ねたところ、黄檗はただ棒で打っただけでした。 それを大愚に話したところ、大愚は、黄檗は老婆のような親切心で教えているのだ、と説明します。 その言葉を聞いたとたんに、臨済は大悟します。 このときから、臨済は自身の禅風を発展させるようになります。
行錄(1)「汝向高安灘頭大愚處去、必為汝說」(高安灘頭の大愚の所に行け、必ず汝のために説いてくれるだろう)「臨済録」より
首座は、まだ若い臨済に、将来性を見ていました。 その言葉を理解した黄檗は、自分のもとを去ろうとする臨済に、大愚の所に行け、と言います。 臨済は黄檗と大愚との間を行き来することで大悟します。
勘辨(22)「祇聞空中鈴響、隱隱而去」(ただ空中に響く鈴の音が、ありありと耳の底に聞こえ、それが遠ざかって行くのみであった)「臨済録」より
陰々と鈴の音が聞こえ、それが遠ざかっていく。 そのようにこの「勘辨」編は終わります。 「勘辨」で語られたことから、私たちはどのようなものを感じとれたでしょうか。 それを振り返るとき、耳の奥で微かに響く音が聞こえているような気がします。 そして、それは次第に遠ざかっていきます。
勘辨(21)「徑山五百衆、太半分散」(径山にいた五百人の僧たちは、その大半が立ち去ってしまった)「臨済録」より
径山のもとに着いた臨済は、挨拶もせず、旅装を解くこともなく、振り向こうとする径山に一喝を浴びせます。 径山が一言を発するひまも与えず、臨済はその場から去ってしまいます。 そこでなにが起こったのか。 それを問う僧に径山は答えます。 「あの男に直接聞いてみろ」 それで多くの僧たちは径山のもとを
勘辨(20)「肯即深肯、要且無祖師意」(認めることはとても深く認めているのだが、つまりはそこにも祖師西来意はないな)「臨済録」より
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臨済が説く四種類の喝を整理すると次のようになります。 ・金剛王の宝剣:ズバリと本質に切り込むもの ・金毛の獅子:迫力で身の危険を感じさせるもの ・見せかけの餌:チラチラ見せておびき寄せるもの ・役立たずの一喝:ただの大声 臨済はこれらの喝を、使い分けているということでしょうか。
勘辨(18)「定方禮拜、忽然大悟」(定上座は礼拝をしたその時、忽然と大悟した)「臨済録」より
定上座は臨済に祖師西来意、つまり仏法の根本義を問います。 臨済は言葉で返さずに、定上座に平手打ちを与えます。 礼拝をしないのかと側にいた僧に言われ、礼拝をしたときに大悟します。 麻谷は十二面観音の顔の中でどれが正面を向いているのかと問います。 臨済は立ち上がり、麻谷をつかまえて十二面観音
勘辨(17)「州便問、如何是祖師西來意」(そこで趙州は問うた、如何なるかこれ祖師西来意、と)「臨済録」より
趙州は、たまたまどこかへ出掛けた先から戻ったところの臨済に会います。 そこで、いわゆる「祖師西来意」を問います。 祖師西来意とは、達磨大師はどうして中国に来たのか、という質問ですが、これは同時に仏教(禅)の本義はなにか、という問いでもあります。 臨済は、今帰って来たところで、足を洗っているのだ
勘辨(16)「覺云不審」(大覚は言った、ごきげんよろしゅう、と)「臨済録」より
臨済は大覚を呼び出し、お前は先ほど、あいさつをしなかったのか、と問います。 大覚は、即座にあいさつをして下がります。 そのあいさつは、二人の間の親しさのようなものの表現ではなく、むしろ「なんでもない」ということを意味しているように思えます。 そして、そのような振る舞いこそ、臨済が求めていたもの
勘辨(15)「師見僧來、展開兩手」(師は僧が来るのを見て、両手を広げた)「臨済録」より
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勘辨(14)「普便喝。師乃打。」(楽普はそこで一喝した。師はすぐに打った。)「臨済録」より
「ある者は棒を用い、またある者は喝したものだ。お前はいずれかを自らのものにしたか」 臨済の問いかけに、楽普はまだどちらも自らのものになっていないと答えます。 その次の瞬間、臨済と楽普は一棒と一喝を交わします。 この短い対話は、まるで剣術の立ち合いをみているようです。 一瞬の隙をうかがって
勘辨(13)「如何是露地白牛」(露地の白牛とはなんだ)「臨済録」より
露地白牛とは、仏教の故事に由来する言葉です。長者が子供たちを火から救うために、白い牛が引いた車を用意し、子供たちはその言葉に誘われるように外に出ます。露地は仏教者が集まって修行をする場所、白牛は仏であり、仏教者が求めているもの、と解釈されます。二人は、その露地白牛について、それぞれ「モー、モー
勘辨(12)「金屑雖貴、落眼成翳」(金の屑は高貴だといっても、眼に入れば翳りとなります)「臨済録」より
仏や祖師というものは高貴なもの、僧たちが目指すべきものかもしれません。しかし、それを目の前に置いて、それに達するべくここで過ごしているのであれば、それは僧たちの目にはただの翳りを生じる邪魔ものになるのではないか。それは、普段の臨済の言葉とは矛盾があるように思われます。そこを王常侍は言っているように読
勘辨(11)「道得也三十棒、道不得也三十棒」(言い得たとしても三十棒、言い得なくても三十棒)「臨済録」より
德山は、言い得たとしても三十棒、言い得なくても三十棒と言いました。しかし、楽普とのやり取りでは、棒で打つことをやめ、方丈に戻りました。臨済は、德山を「なかなかやるものだ」と評価しました。一方で楽普は、自分自身の経験から何を学んだのか、速やかに言うことはできませんでした。それで臨済から一棒を受けました
勘辨(10)「適來是汝喝老僧」(先ほど汝はこの老僧に一喝したのか)「臨済録」より
楽普の「座主、今いるところをどのような場所と思って、同じだと言い別だと言うのですか」は、どのような意味でしょうか。同じ、とか、違う、というのは、区別するときに使う言葉。そのような区別は不要である、と言っているようにも読めます。座主を送って来た臨済に、先ほどの一喝は誰に対したものか、と尋ねられます。
勘辨(9)「師以杖面前畫一畫云、還糶得這箇麼」(師は杖で面前に一線を書いて言った、さて、これも売ることができるか、と)「臨済録」より
臨済録の一節「院主は、臨済の「どこに行ってきたのだ」という問いに、「街中でもち米を売ってきました」と答えました。 それに対し、臨済はさらに、地面に杖で線を一本書き、「これは売ることができるか」と尋ねます。
将校と臨済のやり取りから、いくつかのことが読み取れます。 まず、将校が答えなかったことには、理由があるかもしれません。臨済の話をすでに聞いたことがあれば、「聖か凡か」という問いに簡単に答えるべきではないと考えたでしょう。あるいは、ただ戸惑っただけかもしれません。 次に、臨済は将校が答える前に、さ
勘辨(7)「官馬相踏」(立派な馬同士の蹴り合いだ)「臨済録」より
老和尚が臨済に尋ねます。そなたに礼拝したらよいのか、しないのがよいのか、と。これはどのような意味の質問でしょうか。臨済が礼拝に値する段階まで進んでいるのか、それともいまだ不十分な段階なのか。そういう、臨済を試すような質問だったのでしょうか。「賊」という言い方がここでも出てきます。これは普化に対しても
勘辨(6)「明頭來、明頭打、暗頭來、暗頭打」(明で来たなら、明で打ち、暗で来たなら、暗で打ち)「臨済録」より
街中で話している普化のところに、臨済は従者を行かせます。 そして普化を掴まえて、問わせます。 それに対する普化の答えは、やはり何ものにも囚われないところからの言葉でした。 これを伝え聞いた臨済は、普化の存在が、自分自身の禅に欠かせないものであることを、改めて知ったのかもしれません。
勘辨(5)「普化云、汝且道、我是凡是聖」(普化が答えた、それは汝が言え、我は凡愚か聖者か)「臨済録」より
普化は臨済の一喝をものともせず、臨済の懐に入り込み、逆に臨済を投げ飛ばしています。臨済は普化のことを「賊」と言いますが、これは臨済が修行僧たちに繰り返し説いていた「経典の言葉、教義などに囚われないありのままの自分自身」で生きている人のことではないでしょうか。
勘辨(4)「瞎漢、佛法說什麼麤細」(どこを見ている、仏法は雑だの細かいだのと説いてなどいないぞ)「臨済録」より
普化は、臨済の問いに、食事の載った膳を蹴り倒して答えました。毛や芥子粒はとても小さいものなのに、巨海や須弥山が入ってしまうのはなぜかという臨済の問いに対する、普化なりの答えでした。普化は、言葉で説明できるようなものではなく、今、ここにそのままの姿でいることだということを言いたかったのかもしれません。
勘辨(3)「和尚前日打普化作什麼」(和尚は前日、普化を打ったのはどうしてですか)「臨済録」より
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勘辨(2)「師問僧、什麼處來」(師は僧に尋ねた、どこから来たのか、と)「臨済録」より
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勘辨(1)「大似勾賊破家」(まったく勾賊破家、捕まえた賊に家財をすっかり持ち去られたようなものです)「臨済録」より
還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。日記や昔の思い出など。
示衆(47)「爾但自家看。更有什麼」(君たち、ただ自分たちの目で見よ。それ以上の何があろうか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の47回目です。 語り続けた臨済の言葉が、ここで一旦終了します。 さて、どのような言葉で終わるでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 ...
示衆(46)「龍象蹴踏、非驢所堪」(龍象の一蹴りは、驢馬の耐え得るところではない)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の46回目です。 臨済の言葉の真意をいまだ理解できない様子の修行僧たちに、それでも臨済は語り続けます。 自分も修行を始めた頃はなにもわかっていなかった、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声...
示衆(45)「飢來喫飯、睡來合眼」(腹がへったら飯を食い、眠気がきたら目をつぶる、それでいい)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の45回目です。 自分たちがこれまで一所懸命に学んできたことや、自分の身分などにすがり続ける僧たちに、臨済はさらに語り続けます。 そんなものは、私は認めない、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!...
示衆(44)「若人求道、是人失道」(もし人が道を求めれば、人は道を失う)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の44回目です。 臨済の下に集まった修行僧たちへの言葉が続きます。 いつまでも自分自身を認めることができない人たちに向かって語ります。 無駄なことはするな、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」...
示衆(43)「殺父害母、出佛身血、破和合僧、焚燒經像等、此是五無間業」(父を殺し母を害し、仏身から血を出させ、和合僧を破り、経象を焼き捨てる、これが五無間業である)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の43回目です。 ここでは臨済は修行僧の問いに答える形で「五無間業」を説明しています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 問、如何是...
示衆(42)「一心不生、萬法無咎」(一心が生じなければ、何があっても問題なしだ。)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の42回目です。 祖師達の言葉や経典の文字を学ぶことで、その先に何かが得られるという修行僧達の思い込みはなかなか解けません。 臨済は言葉を続けます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の...
示衆(41)「佛常在世間、而不染世間法」(仏は常に世の中にありながら、世の中の物事に染まることはない)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の41回目です。 修行僧たちは、相変わらず修行の先に自分たちの思い描く何かが得られると思っています。 そしてそれをなんとかして確かめようと問い続けます。 しかし、臨済は繰り返し、そんなものは無いのだと説きます。 臨済録の原文全文は...
示衆(40)「為爾向一切處馳求心不能歇」(君たちがなにかを求めてそこら中を駆け回るということをやめないからわからないのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の40回目です。 修行僧たちと臨済との対話は続きます。 僧たちは繰り返し、修行で得られるものは何かを確かめようとします。 それに対して臨済はどのように答えるでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「...
示衆(39)「如何是真佛真法真道」(真の仏、真の法、真の道とはどのようなものでしょうか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の39回目です。 ここでは、改めて「真の仏、真の法、真の道とはどのようなものでしょうか」と修行僧が問います。 それに、臨済はどのように説くでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱...
示衆(38)「真佛無形、真道無體、真法無相」(真の仏は無形であり、真の道は無体であり、真の法は無相である)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の38回目です。 「心心不異處(心と心が異ならないところ)」とはどのようなものか。 その問いに答える臨済の説明の、終わりの部分になります。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に...
示衆(37)「大德、爾莫認衣」(諸君、衣に気を取られたりするな)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の37回目です。 師や先達のもとを訪れる修行僧たちは、誰もが彼らの様子であったり、言葉であったりするようなものに捕らわれてしまいます。 そんなものはどれも無意味だと臨済は言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください...
示衆(36)「幻化空花、不勞把捉」(幻想の現れや空に浮く花を、つかみ取ろうと苦労などするな)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の36回目です。 臨済はここで、自らの修行で学んだ教えがどのように形作られてきたものかについて述べています。 それは臨済自身の修行の道筋でもありました。 どのように臨済の修行は遍歴していたでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリン...
示衆(35)「幻化空花、不勞把捉」(幻想の現れや空に浮く花を、つかみ取ろうと苦労などするな)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の35回目です。 臨済はこの部分で、生き生きとしている私たちの本体について説いています。 そして、無駄な苦労ばかりするな、と繰り返し話しかけています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱...
示衆(34)「擬心即差、動念即乖」(心を働かせるとずれ、動こうとするとそれてしまう)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の34回目です。 ここでは根器(根は感覚器官。眼、耳、鼻、下、身、意の六根)の使い方について説かれています。 臨済は、これらをうまく使いこなすことができるとはどういうことだと説明しているでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンク...
示衆(33)「譬如潛泉魚、鼓波而自躍」(たとえるなら泉に潜む魚が、水面を波立たせて躍り上がるようなものだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の33回目です。 ここでは臨済は「動くもの、動かないもの」について説いています。 これらのどちらにも実体はないと言います。 そのことを用いて、臨済はどのようなことを教えようとするのでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご...
示衆(32)「道流、如禪宗見解、死活循然」(諸君、禅宗の見方とは、死活は循然、その場その場で決まるというものだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の32回目です。 ここでまた、臨済は師と呼ばれる者と修行僧との対話の場面を四通り語ります。 コミカルな場面のようにも読むことができますが、私たちが何かを学ぼうとしている時の姿にも見えてきます。 四通りのものとはどのようなものでしょう...
示衆(31)「爾一念心歇得處、喚作菩提樹」(君たちの一念心が静まり得たところ、それを涅槃と呼ぶ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の31回目です。 臨済は、三界にありながら、何ものにも囚われない在り方について説いています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 大德...
示衆(30)「癡人、爾要出三界、什麼處去」(痴れものめ、君たちが三界を逃れ出たところで、いったいどこに行けるというのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の30回目です。 ここでは三界について語られます。 三界 とは欲界、色界、無色界のこと。 人はその三界で迷い、苦しみ、そこから逃れようとしています。 その三界はなぜあると言われるのか。 臨済はどのように説くでしょうか。 臨済録の原...
示衆(29)「已起者莫續、未起者不要放起、便勝爾十年行腳」(すでに起こった思いは続けない、まだ起こらぬ思いは捨てる必要もない、そうすることが君たちの十年の行脚よりもましなことなのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の29回目です。 臨済は修行僧たちに、何ものにも依存せずにここに出てこい、と言います。 そして、長い年月をかけた行脚よりも勝るものを示します。 それはなんでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝...
示衆(28)「向裡向外、逢著便殺」(内に向かい外に向かい、そこで出会うものがあればすぐに殺せ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の28回目です。 臨済録の中の言葉で、よく引用されるものがあります。 「仏に会ったら仏を殺せ」などです。 これはどのような文脈で出てくるものでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦...
示衆(27)「學人云、上智哉、是大善知識」(学人は言う、素晴らしいお知恵、これこそ大善知識、と)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の27回目です。 臨済は世にいる善知識と呼ばれる人たちについて語ります。 「よく見るがいい、彼らに眉毛が何本残っているか」と。 その意味はなんでしょうか。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が...
人間はいつまで自分で運転するのか 自動運転、空飛ぶ自動車、ドローンなどの活用を望む
こんにちは、暖淡堂です。 自分は18歳の夏に運転免許を取得しました。 免許取得後すぐに車の運転を始めましたので、もう運転歴は40年です。 車を運転できると楽しいですね。 好きなところに行けるし、重たい荷物も運べるし。 ただ、いつも思っているのですが、人間が自動車のような大きくて...
示衆(26)「煩惱由心故有、無心煩惱何拘」(煩悩は心によって生じるもの、無心であれば煩悩になんのこだわりがあろうか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の26回目です。 引き続き、修行の先に何かを追い求める修行僧たちに、臨済は語りかけ続けます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 道流...
臨済は1000年以上前のジェリー・ミンチントン 自尊心に不安が生じたら「臨済録」も読んでみるといい
こんにちは、暖淡堂です。 「臨済録」は唐の時代の僧侶臨済の言行録です。禅仏教に関する書物なので、読まれたことのない方は次のように思われるかもしれません。 「偉いお坊さんのありがたい仏教法話を、仏教の専門的な言葉で書き連ねたものだろうな。これを読むと、仏教を信仰するよう...
示衆(25)「所以達六種色聲香味觸法皆是空相、不能繫縛此無依道人」(このように、六種、つまり色声香味触法がみな空相との見地に達した無依の道人は、束縛することなどできないのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の25回目です。 仏には神通力があるというが、修行の先にはそのような力が得られるのでしょうか。 そんなことを質問した修行僧がいたのかもしれません。 それに対して、真の神通とは何かを、臨在は説きます。 臨済録の原文全文は以下のリンク...
示衆(24)「有身非覺體、無相乃真形」(この世に現れた身体は仏そのものではない、姿形などないものこそ真のあり方なのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の24回目です。 世の中にいる高僧の中には、長い長い時間をかけた修行の結果が仏だと教えているものがいます。 臨在はそんな言葉には騙されるな、と説きます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦...
示衆(23)「爾若求佛、即被佛魔攝」(君たちが仏を求めたら、すぐに仏という魔に捉えられるぞ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の23回目です。 臨済のもとに集まった修行僧たちは、どこかで教えられた「言葉」や「名前」に引きずられ、疑問を抱えたままです。 そんなものに本性はないのだ、と言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝...
示衆(22)「所以古人云、平常心是道」(だから古の人が言っているのだ、平常心こそが道なのだと)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の22回目です。 世の中で師と呼ばれている人たちの中には、修行僧を自分の言葉で縛るような人もいたりします。 修行僧の中にも、むしろ自分からそれを望むような人もいます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝...
示衆(21)「所以師子一吼、野干腦裂」(獅子が吠えれば、野干の脳は炸裂するというではないか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の21回目です。 修行僧たちは、いつまでも世にいる老師たちの言葉や経典に書かれているものを、何よりも大切にしようとしています。 自分たちは、それらの言葉は真実を語っているのだ、それをそのまま受け入れるべきだ。 そう信じています。 凡...
示衆(20)「渠且不是修底物、不是莊嚴得底物」(君たち自身は修行で現れたものではなく、仏の姿が現れたものでもない)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の20回目です。 修行する僧たちは、経典や、過去に言われたとされる祖師たちの言葉に囚われ続けます。 そして、それらを理解したならば、修行が成る、と信じています。 しかし臨済は、それらはむしろ業づくりのことなのだと言います。 臨済録...
示衆(19)「蒺藜夌刺、枯骨上覓什麼汁」(棘だらけのハマビシの実や、カラカラの骨をしゃぶっていったいなにを吸おうというのか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の19回目です。 僧の一人が「三眼国土」について質問します。 「三眼国土」とは「浄妙国土」、「無差別国土」、「解脱国土」の三つ。 臨済は説明し、それらもまた、まやかしなのだ、と言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認く...
示衆(18)「如菩薩疑時、生死魔得便」(菩薩にでさえ疑いが生じた時には、生死の魔がつけ込む)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の18回目です。 臨済は修行僧たちに、自分自身をもっと信じろと言い続けます。 もし自分に対して疑いが生じたならば、菩薩でさえ生死の魔がつけ込むのだ、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦...
示衆(17)「境即萬般差別、人即不別」(境はさまざまな現れ方をしても、私はいつも同じなのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の17回目です。 ここでは、そこになにか真実がちらちらと見え隠れしていそうな言葉に引き摺り回される修行僧たちに説いています。 それは、方便だ、そんなものではなにも得られない、そんな無駄なことをして日を過ごすな、と。 臨済録の原文全...
示衆(16)「五臺山無文殊」(五台山に文殊なし)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の16回目です。 修行僧たちが探し求めている文殊について、臨済が説明しているところです。 ここでも、やはり、自分自身をしっかりと理解しろ、と言っています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が...
示衆(15)「為達四大如夢如幻故」(四大、すなわち地水火風はみな夢のごとく幻のごとしとの境地に達しているからだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の15回目です。 ここでは四大(世界を構成する地水火風の四つ)との向き合い方について語っています。 人間を含めた世界は地水火風が混じり合ってできたもの。 しかし、臨済は、地水火風は夢だ、幻だ、といいます。 臨済録の原文全文は以下の...
示衆(14)「無形無相、無根無本、無住處、活撥撥地」(形も姿も無く、根も本も無く、定まった在処もないのに、生きた魚のようにピチピチとしているではないか)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の14回目です。 真正の見解を求める修行僧に対し、臨済の説明が続きます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 學人不了、為執名句、被他...
示衆(13)「唯有聽法無依道人、是諸佛之母」(ただ、今そこでこの話を聞いている無依の道人、君たちこそが諸仏の母だ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の13回目です。 修行僧が「真正の見解とはなにか」と問います。 それに対して臨済は答えます。 「この世のものはことごとく仮の姿だ、実体などないのだ」と。 そして、さらに言葉を続けます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認くだ...
示衆(12)「直是現今、更無時節」(今のそのままで良いのだ、まさにたった今のその状態だ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の12回目です。 修行僧たちがあちらこちらの「偉い」和尚のいるお寺を巡って、お墨付きを得ようとします。 いつまでもうろうろとし続ける修行僧たちに、そんなことは無意味なのだと臨済は説きます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認...
示衆(11)「然佛與魔、是染淨二境」(つまりは仏と魔とは、清浄なものと疑いの汚れに染まったものなのだ)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の11回目です。 臨済のもとで学ぶ僧たちは、さまざまな疑問をいだきます。 今回紹介する箇所では「魔とは、仏とは」について改めて一人の僧が問い、それに答える形で臨在が説明しています。 この「魔」と「仏」は、前回のところから引き続き説か...
示衆(10)「如明眼道流、魔佛俱打」(しっかりとした眼を持つ修行者であれば、魔も仏も一度にやっつけてしまう)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の10回目です。 臨済の頃の唐では、修行僧が集まる人気の寺があったようです。 そこに仲間入りして、自分は出家したと考える僧がいたのでしょう。 臨済はそのような僧に向かって、それは真の出家ではないと言います。 臨済録の原文全文は以下...
示衆(9)「屙屎送尿、著衣喫飯、困來即臥」(大小便を排泄し、服を着て飯を食い、疲れたら座ればいい)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の9回目です。 ここでも臨済は繰り返します。ことさらなことなどしなくていいのだ、と。 普段通りに生きて、ヒトとしてすることは当たり前にやって、無理なことはやらない。 その日々がそのままで解脱なのだ、と。 臨済録の原文全文は以下のリ...
示衆(8)「外不取凡聖、內不住根本」(外では凡や聖の区別をせず、內は根本の教えのようなものに落ち着いたりせず)「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の8回目です。 臨済が自らの説いているところをさらに踏み込んで語ります。 世間の人のしている物事の格付けと、「かの人」の行う格付けとはそもそも違うのだ、と言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!...
示衆(7)「無事是貴人」(無事であること、これすなわち貴人なのだ): 臨済の四照用 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の7回目です。 ここでも繰り返し、余計なことをしなくていい、と臨済は言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 師示衆云、道流、切...
示衆(6)「猶較些子」(それでも、まだまだだな): 臨済の四照用 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の6回目です。 今回は、これまで多くの人が関心をもってその意味を理解しようとしている文章の紹介になります。 臨済の四照用と呼ばれている部分です。 照とは、光を当てて相手の内実を照らし出すように見抜くこと。 照察という言葉が近いかもし...
示衆(5)「大德、且要平常、莫作模樣」(諸君、まずは平常どおりにやっていくことだ。特別な格好などつけなくていい) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の5回目です。 ここでもやはり、ことさらなことなどしなくてよいと臨済は言います。 その理由は、修行している者たちは、大切ななにかを見失っているだけから。 それに気づくだけで十分なのです。 大切ななにか、とはどのようなものでしょうか。...
示衆(4)「道流、心法無形、通貫十方」(諸君、心の在り方には決まった形はなく、この世のあらゆるものを貫いている) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の4回目です。 ここでは、臨済は心とはなにかを説いています。 心は様々な働き方をしますが、もともとは一つであると。 それから、修行僧たちが求めている修行で得られるもの。 それらはまったくの無駄なもの。 そんなものを求めるよりも、もっ...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の3回目。 臨済は繰り返し、なにかを自分の外に求めるということをするな、と言っています。 修行者、修行僧たちが悩みながら生きているその姿は、現在の私たちと重なって見えます。 臨済が修行僧たちに語りかける言葉は、私たちに語りかけている...
示衆(2)「今日多般用處、欠少什麼。」(今日さまざまな現象として目に見えることには、なにも欠けたものなどいないのだ) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の2回目です。 晚參(夜に行われた説法)で始められた講話が、次第に熱を持ったものになっていきます。 ここでは祖師とは、祖仏とは、どんなものであるかを説いています。 修行の目標の姿、修行の到達点ですね。 そして、それを理解できずにあち...
示衆(1)「師晚參示衆云」(師は晚參の時、衆に対して言った) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 今回から「示衆」の部分をゆっくりと紹介します。 ここでは、晚參(夜に行われた説法)での言葉が記録されています。 臨済は、相手の本質やそのときの環境によって、その人との向き合い方を変えています。 よりふさわしい修行の進め方を示すためでしょう。...
上堂(9)「汝等諸人、作麼生會」(さて、諸君はそれをどのように会得するのか) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」の最後の部分になります。 ここでは臨済禅の要点が述べられます。 どれも簡潔な言い方になっていますが、理解しやすいものではなりません。 どれも真剣に取り組み、考え抜かないといけないものでしょう。 しかし、ここまで臨済が言っているように...
上堂(8)「論劫在途中、不離家舍」(仏法を論じて進みながらも本来いるべきところを離れていない) 「臨済録」より
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」での講話の続きです。 前回は修行の目指すべき方向、究極の姿についての臨在の考え方が示されていました。 今回の部分では、どのように修行をしていくべきか、どのようにすることで、最終的な悟りの境地に至れるのか、それを短い言葉で語っています...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」での講話が続きます。 今回は禅の修行の到達点に触れています。 修行の先にどのような境地に至ればよいのか、到達点はどのようなところか、という議論が修行僧の間で行われていたのでしょう。 あるいは、過去にそのような境地に達した人は誰だった...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」が続きます。 今回の部分は、禅における問答のあり方に焦点をおいています。 師と向き合った修行僧は、どのような状況に置かれるのでしょうか。 もし修行している僧が、その口頭で、まるで真剣の刃を向けるような質問をしたら、臨済はどのように答...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「上堂」の5回目。 前回は喝、今回は棒です。 棒もいろいろな場面で使われます。 いずれも、身体を速やかに動かすことが求めらているように読めます。 心とともに身体も即妙の対応をするべし、と言われているのかもしれません。 臨済録の原文全文...
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還暦前後から老後の暮らしを豊かにするための東洋、西洋、仏典などの古典の紹介。
「臨済録」原文全文とその現代語訳を紹介しました。 仏教や禅に関する書籍ですが、純粋に東洋思想の書物としても読むことができます。 そこに書かれている言葉は、現代に生きる私たちにとって、自信を持ち、より心穏やかに暮らすための導きとなるものばかりです。 「臨済録」が、より多くの人たちに読まれることを
臨済は、自らの法を伝えた慧然に、最後の問いかけをします。 それに対し、慧然は一喝で答えます。 臨済はその答えに満足したのでしょうか。 それとも大いに不満だったのでしょうか。 自分の法は、目の見えない驢馬のところで滅んでしまう。 そう言って亡くなりました。 臨済が亡くなった後、慧然らは師の
金牛和尚は臨済の振る舞いを無礼であると咎めます。 しかし臨済はまったく構いません。 そして、さらになにか言おうとする金牛和尚に一棒を加えます。 溈山に、さてこの二人、どちらが勝ったのだろうかと問われた仰山は答えます。 勝ったとしたらどちらも勝ち、負けたとしたらどちらも負け。 勝ち負けは、こ
溈山は、古人たちの教えは電光石火のようなもの、誰も追い切れないが、そもそもそんな言葉には意味などなかったのだ、と言います。 それに対し、仰山は言います、表向きには誰も通さないが、裏ではこっそりと馬も車も通り抜けています。 言葉の上での厳しさはあっても、通り抜ける術はあるものだ。 そう言っている
明化は臨済に、どうして歩き回っているのかと尋ねます。 臨済は、ただ歩いて草鞋をすり減らそうとしているだけです。 あるいは、ただ草鞋がすり減ってしまうまで歩いているだけです、ということかもしれません。 明化はさらに問います。 それはどういうことか、と。 臨済はそれに答えるのではなく、ただつぶ
臨済は凡でもなく聖でもないところを象田に尋ねます。 それに対し象田は、まあ自分は見たままの、このままのものだよ、と答えます。 臨済は一喝して、ここに集まっている僧たちは、象田から何を学ぼうとしているのか、と言います。 その言葉の意味は、何通りかに解釈できるかと。 ここには学ぶべきものはない。
翠峰の問いかけに対して、臨済は、黄檗には特別な言葉などありません、と答えます。 そうだとしても、何か言ってごらんと翠峰はさらに問いかけます。 それで、臨済は、矢のように、あっという間に西に向かって飛び去った。 もうここには痕跡も残っていないのだ、と言います。
とても短いやり取りの中で、華厳和尚と臨済はお互いの力量を計りあっています。 そしてそれぞれを認めているのでしょう。 臨済録の中に出てくる人たちは、懸命に経典を読むことよりも、むしろ居眠りをするような状況を評価しているようです。 そこから私たちはどのようなことを読み取るべきでしょうか。
大慈和尚は臨済に答えて言います。 冬の寒さの中でも松は変わらず、千年経とうとも他のものとは同じではない。 しかし、世の中も春ともなれば、老人は花を手にもて遊ぶのだ。 それは大慈和尚のそのままの現状を言ったものかもしれません。 それに対して臨済は言います。 古くから完成された知恵といわれてい
臨済は、師である黄檗の教えを、その痕跡を見ることもできない、と言います。 それは形を変え、臨済自身の中に流れ込んだものということかもしれません。 黄檗の教えが、笛に流れ込む爽やかな風であれば、きっと清々しい音を出すはず。 その笛の音を聞いている者はどこにいるのか、と平和尚は尋ねます。 その問
剣先を交えることなく勝ちを得るにはどうしたらよいか、どうかその方便を示してほしい。 臨済はそう問います。 それに対して龍光は剣で相手に切り掛かるときのかけ声を発します。 咄嗟の方便ではなく、追い詰められたときに発する一声のように聞こえます。 臨済は遠慮することなく言います。 龍光は負けた、
住職は、仏陀のお墓に礼拝しますか、それとも祖師のお墓を先にしますか、と聞きます。 臨済は、どちらにも礼拝しない、と言って、立ち去ってしまいます。 では臨済は何をしにそこに行ったのでしょうか。 仏教や禅の修行者を縛り付けているものの張本人たちを確認しに行ったのかもしれません。 そして、それらの
黄檗は、自らのもとから独立しようとする臨済に、百丈和尚から受け継いだ禅板と机案を渡そうとします。 しかし臨済はそれを燃やしてしまおうとします。 臨済は、物を受け取ることを法の伝授の証にするようなことはしたくなかったのかもしれません。
臨済は黄檗のもとで修行をしていましたが、大悟するためには大愚と出会う必要がありました。 大悟の後、自らの禅風を確立するためには首座とともにする修行が役立っています。 さらには、普化との出会いもとても大切なのですが、そのきっかけは溈山と仰山のもとを訪れた時に与えられています。 臨済の修行は、この
黄檗が持っていた鍬を臨済がさっと取り上げてしまいます。 この場面は、どのようなことを私たちに伝えようとしているのでしょうか。 溈山にその意味を問われた仰山が答えます。 鍬を取り上げた者はまだまだ小人だが、その知恵は十分で君子以上です、と。 ここでもやはり、その後の臨済の活躍を予言しているよう
臨済は僧堂で居眠りをしています。 一方の首座は僧堂で坐禅を組んでいました。 そのどちらもが、黄檗を相手にして動じる素振りを見せません。 後に、仰山が言います。 この場面では、二度の勝ち目が出ている、と。 それはどのように解釈したらいい言葉でしょうか。 黄檗は二人の良き後継者を得た。 そ
臨済は、黄檗が来たのに気づいて、目を閉じました。 その様子に黄檗は恐れをなしたようにして、方丈に帰ります。 黄檗の後について方丈に行った臨済は、黄檗に礼拝します。 自分を認めてくれた黄檗に感謝を示しているようです。 黄檗はまだ若い臨済の資質を認めていました。 そのような黄檗と臨済の振る舞い
臨済は、黄檗の棒の一打をとらえ、押し返して、黄檗を倒してしまいます。 黄檗を助け起こした維那(いな:僧堂に集まった僧たちの取りまとめ役)が、かえって黄檗の一打を受けてしまいます。 これを後に溈山と仰山が話題にしています。 賊本人はその場から逃げてしまい、残っていた警邏が棒で打たれたようなものだ
徳山は坐禅を終えて、疲れた、と言ったのでしょうか。 それを聞いた臨済は、徳山がなにか寝言で言ったぞ、と返します。 徳山は臨済を打ちます。 臨済は徳山が腰を下ろしていた坐禅用の椅子をひっくり返します。 徳山は、その時、一緒にひっくり返ったのかもしれません。 そのまま徳山は居眠りでも始めたので
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の22回目です。 世の中で師と呼ばれている人たちの中には、修行僧を自分の言葉で縛るような人もいたりします。 修行僧の中にも、むしろ自分からそれを望むような人もいます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の21回目です。 修行僧たちは、いつまでも世にいる老師たちの言葉や経典に書かれているものを、何よりも大切にしようとしています。 自分たちは、それらの言葉は真実を語っているのだ、それをそのまま受け入れるべきだ。 そう信じています。 凡...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の20回目です。 修行する僧たちは、経典や、過去に言われたとされる祖師たちの言葉に囚われ続けます。 そして、それらを理解したならば、修行が成る、と信じています。 しかし臨済は、それらはむしろ業づくりのことなのだと言います。 臨済録...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の19回目です。 僧の一人が「三眼国土」について質問します。 「三眼国土」とは「浄妙国土」、「無差別国土」、「解脱国土」の三つ。 臨済は説明し、それらもまた、まやかしなのだ、と言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認く...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の18回目です。 臨済は修行僧たちに、自分自身をもっと信じろと言い続けます。 もし自分に対して疑いが生じたならば、菩薩でさえ生死の魔がつけ込むのだ、と。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の17回目です。 ここでは、そこになにか真実がちらちらと見え隠れしていそうな言葉に引き摺り回される修行僧たちに説いています。 それは、方便だ、そんなものではなにも得られない、そんな無駄なことをして日を過ごすな、と。 臨済録の原文全...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の16回目です。 修行僧たちが探し求めている文殊について、臨済が説明しているところです。 ここでも、やはり、自分自身をしっかりと理解しろ、と言っています。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の15回目です。 ここでは四大(世界を構成する地水火風の四つ)との向き合い方について語っています。 人間を含めた世界は地水火風が混じり合ってできたもの。 しかし、臨済は、地水火風は夢だ、幻だ、といいます。 臨済録の原文全文は以下の...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の14回目です。 真正の見解を求める修行僧に対し、臨済の説明が続きます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 學人不了、為執名句、被他...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の13回目です。 修行僧が「真正の見解とはなにか」と問います。 それに対して臨済は答えます。 「この世のものはことごとく仮の姿だ、実体などないのだ」と。 そして、さらに言葉を続けます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認くだ...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の12回目です。 修行僧たちがあちらこちらの「偉い」和尚のいるお寺を巡って、お墨付きを得ようとします。 いつまでもうろうろとし続ける修行僧たちに、そんなことは無意味なのだと臨済は説きます。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の11回目です。 臨済のもとで学ぶ僧たちは、さまざまな疑問をいだきます。 今回紹介する箇所では「魔とは、仏とは」について改めて一人の僧が問い、それに答える形で臨在が説明しています。 この「魔」と「仏」は、前回のところから引き続き説か...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の10回目です。 臨済の頃の唐では、修行僧が集まる人気の寺があったようです。 そこに仲間入りして、自分は出家したと考える僧がいたのでしょう。 臨済はそのような僧に向かって、それは真の出家ではないと言います。 臨済録の原文全文は以下...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の9回目です。 ここでも臨済は繰り返します。ことさらなことなどしなくていいのだ、と。 普段通りに生きて、ヒトとしてすることは当たり前にやって、無理なことはやらない。 その日々がそのままで解脱なのだ、と。 臨済録の原文全文は以下のリ...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の8回目です。 臨済が自らの説いているところをさらに踏み込んで語ります。 世間の人のしている物事の格付けと、「かの人」の行う格付けとはそもそも違うのだ、と言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の7回目です。 ここでも繰り返し、余計なことをしなくていい、と臨済は言います。 臨済録の原文全文は以下のリンクからご確認ください。 「喝!!」の声が戦乱と混沌の世に響いた 臨済の生きた時代 師示衆云、道流、切...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の6回目です。 今回は、これまで多くの人が関心をもってその意味を理解しようとしている文章の紹介になります。 臨済の四照用と呼ばれている部分です。 照とは、光を当てて相手の内実を照らし出すように見抜くこと。 照察という言葉が近いかもし...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の5回目です。 ここでもやはり、ことさらなことなどしなくてよいと臨済は言います。 その理由は、修行している者たちは、大切ななにかを見失っているだけから。 それに気づくだけで十分なのです。 大切ななにか、とはどのようなものでしょうか。...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の4回目です。 ここでは、臨済は心とはなにかを説いています。 心は様々な働き方をしますが、もともとは一つであると。 それから、修行僧たちが求めている修行で得られるもの。 それらはまったくの無駄なもの。 そんなものを求めるよりも、もっ...
こんにちは、 暖淡堂 です。 「示衆」の3回目。 臨済は繰り返し、なにかを自分の外に求めるということをするな、と言っています。 修行者、修行僧たちが悩みながら生きているその姿は、現在の私たちと重なって見えます。 臨済が修行僧たちに語りかける言葉は、私たちに語りかけている...