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「マチダ」という場所へ向かっていた。途中の乗換駅は、帰省の時に利用する駅と同じで、方向音痴の私でも不安はなかった。しかし、自宅の最寄駅から電車に乗ると、すぐに緊張しはじめた。目的地が近づくにつれ、さらに緊張が増していることを自覚した。 今日の日を楽しみにしていた。家を出るまでは、間違いなくそうだった。電車に乗った途端、急に我に返った。自ら彼女に連絡した事実は間違いないが、勇気を出してよく行動に移したなと自分に感心した。だからこそ、今、彼女の居る場所へ向かっているのだが、急に現実味を帯びて、どきどきしていた。 「マチダ」駅で降りるのは初めてだった。改札を出て、早速どっちへ進めばいいか分からなくな…
今月はすでに予定がいくつかあったが、一つ済ませると、また一つ増え、新しい青いノートは、どんどん予定で埋められていった。それと反比例するように、「片付け」の時間がどんどんなくなっていく。最後まで使い切った青いノートの方には、まだ赤線が入っていない、やることリストが残っていた。多くは、家計と生活習慣に関することで、調べる、継続するといった内容だった。苦手なことを後回しにした結果だ。どうりでノートにずっと残っているわけだ。これらも忘れないよう、もう一度脳裏に焼き付ける。 「片付けられない」がずっと私にまとわりついて、なかなか離れてくれない。パートを辞めて時間を手に入れたのに、片付けの進み具合はカメの…
洗濯を何回も回していたら、もうお昼になろうとしていた。とりあえず、頼まれた用事を先に済ませるべく、家を出る。目的地に着くと、お客は私一人だった。扉が開く前に、次のお客さんが来たのに気付く。全面ガラスの扉の向こうに人が立てば、狭い店内に居る私からよく見える。次にやって来たのは業者の人だった。手慣れた様子で奥に荷物を置いたら、サッと出ていく。 受付の彼女に紙を渡してから、随分とここで待たされている。もう業者の人は、三人も入れ替わりやって来た。その度、荷物は同じ場所で重なっていく。ふと自動ドアが開いて、ドキッとする。ドア越しでも視界に入るはずの人の姿が、その気配もないままドアが開いた。もちろん誰もい…
耳に入ってくる音は知らない曲だが、すぐにクリスマスソングだと分かる。予約受付中のケーキの見本はアニメのキャラクターが飾られ、昔買ったことがあったな、と懐かしむ。買い物リストを片手にスーパーへ来たのだが、目的のものを探すのに時間が掛かってしまう。売場のレイアウトがすっかり変わっていた。ぐるりと店内を回った私の目に映る景色は、チョコの入ったアドベントカレンダー、来年の干支の置物、しめ縄など、クリスマスとお正月が混在していた。 その様子とは裏腹に、外では学ランを手に持つ学生や、半袖の男性を見かける。今日は上着が必要のないほど暖かい日だった。 もう、我が家にサンタが来なくなって久しい。それでも、毎年ク…
昼間、外出した私の携帯電話は、マナーモードのままだった。夫からのラインがしばらく未読だったのは、それが原因で、もちろんその後の電話も気付かぬままだ。ふと携帯電話を手にして、ようやく夫からのラインに気付く。これから帰るということを知らせるスタンプの他に、別の事にも触れていた。その内容に、今の今まで気にも留めていなかった。そういえば今朝のニュースで言っていたなと思い出す。 いつもウォーキングをしている土手まで行く。年配の方や、家族連れなどすでに多くの先客がいた。皆、立ち止まって空を見上げている。私も知らない人の間に並んで、隣の人と同じ方向を見る。皆既月食のときは、いつも土手が賑わう。 夫は自宅の固…
ここに立つ度、赤い文字が目に入る。キッチンと、向かい合わせに配置した食器棚との間は、一人立つのがやっとだ。腰ほどの高さの小さな食器棚の上は、ちょっとものを置くのに都合がいい。赤い文字で書かれたメモはここにある。 *** 土手の向こうから、彼女がやって来る。人混みに隠れて、私の姿をなかなか確認できなかった彼女は、「ゆめちゃん、もしかして忘れているのかと思った」と開口一番、私に言う。確かにそうで、「うん、忘れそうで心配だった」と答えた。彼女もまた、それに同意した。毎週、週の初めに彼女とウォーキングをする日を決める。ラインをしたのが月曜日で、今日は金曜日だった。ましてや祝日明けの今日は、曜日を勘違い…
どこを探しても見つからなかった。押入以外に収納する場所がないのだから、やはりここしか考えられない。いつもなら息子の部屋の押入にある。かすかな記憶だが、いつもと違う場所、和室の押入に入れたような気もする。二つの押入を行ったり来たりする。 常に出しっぱなしだった布団の収納スペースを、和室の押入に確保したのは随分前だ。それでも、布団は出しっぱなしだった。空いたスペースは一時的に「もの」が置かれ、そのうち、空きがなくなった。最初にここに案内された「ストーブ」は一番奥に居た。何度もここは確認した。それでも姿が見えないほど、「もの」を埋め尽くした自分に呆れた。季節外れにやっとの思いで片付けたストーブは、季…
さっき入れたばかりの紅茶は、飲み切らないうちに、もう冷めてしまっていた。残りを飲み干すと、体がきゅっとする。まだ午前中だというのに、夕食は体が温まる鍋にしようと決めた。キーボードを打つ指が止まってしまう。再度、温かい飲みものを手に入れるには、もう一度やかんを火にかける必要があるが、ここから動けない。こんなにも行動に制限をかけられるとは、これから先が思いやられる。「寒さ」は動きも思考も停止させる。 意識しているのは、外から「もの」を入れないこと、内から「もの」を出すこと。外出先で、ユニクロ、無印良品、百円ショップに行くコースは定番で、何かしら購入してしまう。最近は、なるべく見るだけに留めている。…
ソファーに腰かけてから、結構時間が経っている。テレビ画面に映し出される片付け動画は、もういくつ観ただろうか。そろそろ始めようかとソファーから腰を上げる。部屋を行ったり来たりして、またソファーに戻ってくるをさっきから繰り返していた。頭では分かっている。ただどうしても動けないのだ。動画の内容に共感しては、次の動画を探している。 「<やる気>」は存在しない」以前読んだ本の内容だ。やる気が起きたら行動を起こすのではく、行動を起こすからやる気が出る。そもそも「やる気」自体存在しないという。読んだ書籍の名は忘れたが、著書のツイッターに同様の記載があった。 「やり始めない限りやる気はでません。やる気は行動の…
壁には、たくさんの鏡が等間隔で並べられていた。全身が映るほどの大きさはなく、胸から上が映るぐらいだった。若者の街で歩き疲れた私は、娘に案内された場所で、ジュースを買って席についた。並んだ鏡を眺めながら、なんだろうと考えていた。鏡の前に立つ姿を隠すように、カーテンが引けるようになっている。その脇にはヘアアイロンが置いてある。なるほど、ここで髪を直したり、アレンジしたりするのだなと理解したが、どうにも違和感を覚えた。フードコートでこんな光景をみるのは初めてだった。周りをみると、娘よりもまだ若い人達ばかりだ。もちろん私のような年齢の人はいなかった。 *** 家事もそこそこに、準備を始める。余裕があっ…
居たら居たで気になるし、居なくなったらそれはそれで、気になった。洗濯を干す私と目があった。その日から、彼は三日間も滞在していた。 普段、庭にいるであろう彼は、時々、ベランダの方へやってきて、私の目に留まるところに現れる。申し訳ないけれど、苦手である。何をするわけでもないので、そっと見守る。ベランダを出入りする私は、驚かさないようにと案外気を使っている。 室外機の上に、彼はずっといた。ふと気付くと居なくなっていた。雨のなか、カマキリはどこかへ行ってしまった。 *** 長年「片付けられない主婦」をやっている。ここにいるから「片付けられない主婦」であるが、ここから抜け出せば「片付けられる私」である。…
朝から落ち着かない。指定された時刻より早く来ることは拒まれている。それでも、気持ち早めの電車の時間を調べる。結果それには乗り遅れ、案の定余裕がなく、指定された時刻ぴったりに到着した。 初めての場所で要領が分からずにいたが、親切に次から次へと誘導される。スムーズだった動きが、途中で止まってしまう。このタイミングでか、と急に帰りたくなった。ここには時計がなかった。外出時はいつも携帯電話で時間を確認する。しかし、今日はロッカーの中だ。一番不安だった検査の前に、今、何時かも分からず、手持無沙汰の時間は、より私を不安にさせた。昨日娘が、「ご褒美を買って帰れば?」と言っていたのを思い出した。そのことだけを…
隣のマンションから出てきた男の子は、知らない子だ。けれど、彼を二度見した。子供達が通っていた中学の鞄を持っている。胸元の校章の形も間違いなかった。しかし彼が着用しているポロシャツは、見たことがない。制服が変わったようだ。 秋の心地よさが一転、急激に寒くなる。目につくものを着込んで寒さをしのぐ。先日見かけた半袖のポロシャツの男の子も、もう衣替えしただろう。冬の制服も変わったのだろうか。 学生時代、制服で冬を過ごすのは、とにかく寒かったことだけは覚えている。極暖ヒートテックとかあれば、無敵だったかもしれない。ある基準を満たせば、係が職員室の壁に掛けられた、短いホースを取りに行く。それがなければ寒さ…
時々訪れるこの場所は、最近どこかしら工事をしている。先日訪れたときは正面の入口が塞がれていたため、脇から敷地へ入った。サンダルの中に入ってくる砂利が、素足に刺さる。砂利道を進んだ先で、手を合わせ「お願い」をした。 今日もまたサンダルで来た。鳥居をくぐる前に一礼をし、奥へ進む。正面の入口の工事は終わったようだ。砂利を踏むことなく、石畳の参道を進む。みんなに無事会えたこと、何事もなく帰省先から自宅に戻ってきたことの「お礼」を伝えた。 先月ここで、お祭りがあった。行きたいと言う娘と二人で出向く。ちょうど山車が出るタイミングだった。長い綱の横に並ぶ、小さな子供達の姿を見ることができた。思わず微笑んでし…
随分前に予約をしておいたが、日程を変えざるを得なかった。読みが外れてしまったからだ。変更できる日が限られていたが、希望の週に予約を取り直すことができた。 帰省後は疲れをとることを優先し、いや口実にゆっくりしていた。実際、昼間に何度も睡魔が襲ったから、やはり日常のリズムを取り戻すのに時間を要した。数日後、さぁ片付けを始めようかという矢先、今度はお腹が痛くなる。この腹痛は毎月のことだ。どうりで、昨日少しイライラしていたわけだ。薬を服用し、時間経過とともによくなるのを待つ。相変わらず、錠剤を飲むのが嫌で仕方がない。 カレンダーを確認する。何度見ても同じだった。来月の腹痛がやってくる日と被ってしまう。…
自分がとてもちっぽけに感じる。小さな窓から見下ろす景色は、人も車も形を捉えられない。広がる土地に街があることだけが確認できる。しばらくすると、辺り一面真っ白になった。下から見上げる雲とはまるで違う。ハイジのように本当に雲の上に乗れるような気がした。 目を閉じると、すぐに眠りについた。気が付くと空港に到着していた。 *** 玄関を開けると、見慣れた光景が出迎える。ごちゃついている部屋だが、やはり自宅に着いたという安堵感で気持ちが落ち着く。小さなカレンダーの日付の上に、赤のマジックペンで斜め線を入れる。不在は四日間だが七本の線を引く。日付を消すのを忘れるほど、帰省前にバタバタしていたのが伺える。 …
若干パニックだった。今乗った電車を慌てて降りる。すぐに駅のホームから電話を掛けるが一向にでない。隣には娘がいる。 「ママ、ここにかけたら?」 電話番号を変え、相手が出るのを待つ。 「○○店の××でございます」 繋がった。ひととおりの会話をし、今すぐ向かうことを伝えて電話を切った。 都心の駅は複数の路線が混在している。目的の路線の改札口まで随分と遠い。娘と買い物を終えると、通勤ラッシュに被ってしまったが、運よく二人並んで座ることができた。疲れた足を休ませる。電車に乗ると意味もなく携帯電話を触ってしまう。そんな習慣に今日ほど感謝したことはない。 *** いいアイディアが思い浮かんだ。ペーパーレス化…
だいたい、いつもそうだった。刻々と日が迫っているというのに、何一つ終わっていなかった。 なぜ予約時にそうしておかなかったのだろう。当初から遅い時間に到着する予定だったのに、すでに伝えてあるホテルのチェックインの時間は早すぎた。変更の連絡をしておかないといけない。 ホテルに泊まる翌日は、数年ぶりに会う彼と一緒に昼食をとる。座敷よりイスの席を希望している。足腰が弱くなったんだろうなと想像する。駐車場が完備されているところを探す。事前に予約をしておいた方がいいだろう。 今回は子供達が粉もんを食べたいという。こちらは予約せずとも、お店は何軒か調べておこう。滞在期間中、どこに組み込むかも考える。 実家か…
青い空をみたら、顔が緩んだ。「気持ちのいい天気だな」ゴミを出すために表にでた。ほんの少し、外の空気に触れただけで、昨日までの自分をリセットできた気がした。 *** 週の初め、一通のラインが来た。「手伝い、これない?」彼女からラインが来ることなんて珍しい。 元の職場に来たのは、辞めた日以来だった。懐かしい顔ぶれに挨拶もそこそこにすぐに仕事に取り掛かる。右も左も誰も使っていないデスクの上には、「もの」が置かれ、前も後ろも視界は「もの」だらけだった。この場所にいると、片付けたくなる心理はなんなのだろう。しかしそんな時間の余裕はない。人の手が足りないと彼女に呼ばれたのだ。彼女の指示がなくても、やるべき…
パソコン画面のカーソルは行ったり来たりしている。感情を書き記そうとするも、上手く表現できない。自分の行動に「意味があった」のか、「意味を持たせようとしている」のかを考えていた。 *** 何かの拍子に、携帯電話のカメラアプリが起動する。カメラ越しにみる部屋の様子は、肉眼でみるより、何倍も散らかっていた。棚に収まった本の背表紙は、ほとんどがこちらを向いているのに、そうでないものが雑然さを演出する。衣装ケースは部屋の角に収まっているのに、引き出しの正面は透明で、中身のごちゃつきが丸見えになっていた。胸の高さぐらいの食器棚の上には、郵便物が溜まっていた。「とりあえず」置かれた「もの」は、そのままそこに…
湿度を示す数値は最適とはいえなかったが、外から入ってくる冷たい風が、不快さをかき消してくれた。雑音のない夜の静けさに包まれていると、急に雨音が耳に入ってきた。みるみるうちに湿度は上がっていく。それでも夜風に当たっていたくて、しばらく窓を開けておいた。 季節の変わり目は、いつでも着る服がなかった。私が「ちょうどいい」と思える、羽織りものがない。去年は何を着て過ごしたのだろう。少し季節を先取りした衣を身にまとい、街を行き交う人々は、私の存在に気にも留めない。なのに、サンサンと降り注ぐ太陽の光に惑わされて、真夏の恰好で歩く私に「季節外れ」を実感させる。そろそろ、衣類がパンパンに詰まったケースの中身を…
猛暑が続いた季節は乗り越えたのだと、実感する。それは彼らが知らせに来たからだった。姿はみたことがない。幼いころも、大人になった今でも。開け放した窓から、心地よい風に乗って、ただリーンリーンと鳴く声が聞こえるだけだった。 洋室の端に山積みされた書類は、すっかり風景の一部と化していた。ゴミ袋一袋以上は処分したのだが、見た目は全く変わっていなかった。書類の大半は家計に関わるもので、レシート、クレジットカードの明細書、家計簿などだ。カードの明細書には明細と合致するレシートがビラビラと何枚も重ねられ、ホッチキスで止められていた。病院の領収書や薬を購入したレシートは、年ごとにジップロックにまとめられていた…
星の形に似た葉が、こぼれ落ちるように小さな鉢からあふれ出ている様子が、愛くるしい。それとは打って変わって、対角線上には大胆で大きな葉をつけた植木鉢が、直置きされている。ナチュラルな色の家具で統一されたこの部屋は、まさに癒しの空間だ。ここでハーブティーを飲みたい。⦅統一感は当たり前やねん。ここで飲食したらあかん⦆隣の部屋は在宅ワークが快適にできるよう、いくつかの机とオフィスチェアがセンス良く配置されている。たまには気分を変えて、立ったままキーボードを打つのもいい。ボタン一つで簡単に調整ができる机は、立つとちょうど良い高さにもなる。⦅こんなたくさん机とイスいらんねん⦆奥の部屋はドレッサールームと呼…
ダンボールの箱で塞がれた玄関を出ようとして、ドキッとする。鍵が開いていた。 *** 後ろから足音がした。かなり足早でどんどん近づいてくる。 マンションに入って、集合ポストを通り過ぎたら、四つ目のドアが我が家だった。一番奥とはいえ、世帯数が少ないので、入口からは大した距離ではない。 マンションの前には誰もいなかった。なのに、家の玄関に向かう私に、誰かがもう追い付こうとしていた。後ろから来る人物は、足音の様子から、隣の部屋の紳士ではないことは明らかだ。振り向くと、両手にビールと炭酸水のケースを抱えた配送員がいた。 アマゾンのセールで購入した、我が家宛の荷物だった。 配送の方と会話をしながら、玄関を…
生年月日の欄はすでに記入済みだというのに、年齢を書くのを躊躇した。身長と体重を書く欄もある。恐らく「子供」だった場合に必要な情報であって、「大人」の私は、生年月日と体重以外は不要かと思われた。しかし空欄があるのもかえっておかしい。すべての欄を埋めた紙を受付に出した。 最近も他人に体重を聞かれた。過去一重い体重を、か細い声で答える。処方する薬の量に関係するのだろう。そう、あの日病院のベッドで弱っていたときだ。 会計時に処方箋に書かれた名前と生年月日を確認するよう言われる。鞄に入った老眼鏡を出さずに、しかめっ面で焦点を合わせて確かめたが、最初に受付で出した問診票のとおり間違いはなかった。外に出ても…
太陽が眩しいほど、いい天気だった。「好きな色を選んでね」と先生が言った。手にした色が、とても好きだったかというと、記憶になかったが、きっとその時好きな色だったのだろう。何色が好きだったか、何色が好きなのか、昔も今も、すぐにはっきり答えられない。クラスには四十人もの生徒がいた。ハイカラな色が揃った折り紙なんて、目にしたことのない時代だ。十二色の中から選ぶ折り紙は、必ず誰かと色が被ってしまう。校庭に出て実験が始まると、早々に歓声が上がった。周りをみると、虫眼鏡を通して集められた太陽の光が、折り紙を焦がし煙を出していた。私が選んだ折り紙からは、一向に煙が出てこなかった。はしゃぐ声しか聞こえないなか、…
お茶を飲み干したガラスコップに、水を注いでから随分時間が経っていた。食卓に置かれたガラスコップのそばに、「小さな石」の倍の大きさはある固形物が二つ。食事はとうに終えているのに、最後に口に運ばなければならないそれだけは、ずっとそのままだった。 たかが4㎜、されど4㎜、たった一つの「小さな石」は私を苦しめた。ベッドで横たわる私は、先生の話に頷くのもしんどいほど非常に弱々しかった。それでも、病院にいるというだけで、大きな安心感がある。食前に服用する漢方薬を処方するかどうか、私の判断に委ねられた。食後の薬もあるのに、食前に漢方薬まで飲むのは大変だろうとのことだった。とにかくなんでもすがれるものなら、す…
勘違いのせいで、小さな白いノートは二冊あった。白紙を埋めるのに頭を悩ませる。朝の、そして夜のルーティンにも、ノートを書く習慣がないのは、ついついまとめて書いているからだった。あの日は何をしていたっけ?何を思ったのだっけ?財布に残ったレシートを頼りにしてみても、あまり役に立たなかった。 「日記を書く」そんな習慣はなかった。嫌なことがあればきっと書く、それを記録しておくのも躊躇する。自分の字も好きじゃない。そもそも続かない。 三年前の春の日、あるきっかけから、これからの人生を考えるようになった。日記を書き始めたのはその日から約一年後のことだが、紐を解けばこの日があったからだ。いろいろ考えているうち…
いつまで続くのか、分からないのが厄介だった。その間、気を紛らわす手段もない。ソファーで横になって、ただじっと過ごす。気が付けば、朝になっていた。汗ばんだ体を起こして、水分補給する。「大人になってから」は間違いないが、それがいつなのか、ある時期から頭痛持ちになった。 *** 「年を取ってから」という言葉に変換されて頭の隅に残っていた。「子供が巣立ってから」か「定年を迎えてから」か、もしくは違う表現だったかも知れない。年齢的には50~60代を指す。‘’そこから「片付け」を始めても、気力も体力もなくなっている‘’ということが、どこかの待合室で手に取った雑誌に掲載されていた。まだその年齢層には届かない…
“かわいい子には旅をさせよ”今頃、トラックに揺られているのだろう。片道切符しか持たせていないあの子達と、今後二度と再会することはない。 *** 連日、近くのコンビニに通っていた。もう三日目には慣れたものだった。初日は若い店員さんに丁寧に教えてもらう。小包に伝票を貼る前に、まずレシートと同じ感熱紙に印字された伝票を、シールのついた透明フィルムに入れる。老眼鏡は持参しなかったが、恐らくあっても同じだっただろう。フィルムに切れ目があるのだが、それを探すのが困難だった。手間取っていると、「黒い線のところです」と店員さんは声を掛けてくれる。基本郵便局への持ち込みをする。郵便局とのやり方の違いに戸惑ったが…
ベランダから見る細長い空は、一面雲に覆われていた。湿度を示す数字は高かったが、嫌な感じはしない。開け放した窓から入る風が、連日の暑さを忘れさせてくれた。 「夏の風物詩」は一匹だけではなかったようで、気付けば合唱をしていた。一旦静かになるも、また鳴きだす。昨日とは打って変わって気温がぐっと下がったこの日、彼らの声は似つかわしくなかった。 蝉の声にどうにも集中できずにいた。パソコンに向かった視線は、時折外に目をやるが、だからといって蝉の居所を確かめるわけではない。午後になっても、なお鳴き続けている。命短し彼らは懸命に生きているのだと理解する。 集中できないのは、蝉の声だからというわけではない。音が…
どの窓からも青い景色は見えなかった。ベランダに出て視線を上げると、ようやく隣接する家屋とマンションの間に細長い空が見えた。 ある日、マンションの前で空を見上げて、視線を動かしている男性がいた。 「どうされたんですか?」と私は声を掛ける。 「月を探していて。前はベランダから見えたんだけどね」 隣の住人である。一階にある住まいは、ベランダを出ると庭がある。庭の先のフェンスの向こう側は、十年近く前まで駐車場だった。その敷地内の集合住宅が取り壊された後、フェンスに迫るように一軒家が建ち並んでしまった。 「一日一回、月を見ていて」と恥ずかしそうに言った彼に 「ロマンチックですね」と私は答えた。 *** …
<「彼女にはアリバイがあります」そう言わせる自信があった。証拠は財布の中に山ほどあった。> *** これで四回目だった。店員さんが毎回違うことが、せめてもの救いだ。しかし親切心を無下にするにもほどがある。「ポイントカードが未登録のようです。ポイントをお貯めすることはできますが、ご使用にはなれませんので、、、」会計時にコンビニの店員さんが言う。印象に残る客に違いない。今まで何回も未登録のポイントカードを提示していた。親切にそう教えてくれた四人の店員さんに、申し訳ない気持ちだ。気付いていないが、実はその後も同じ店員さんに接客されているのだろう。同じ人が二度言わないのもまた、親切心なのかもしれない。…
平坦な道を10分ほど歩いたところで、まだ目的地までの半分の距離だった。ここからはずっと上り坂になる。あと少しで坂の終わりだというところで、私と同じ服を着た子達が続々と坂を下ってくる。「今日休みだって」という声が聞こえた。台風や雨の影響で学校が休みになることがあったが、当時どういう条件が揃えば休みだったのかは、今では知る由もない。なぜか家を出たあとに引き返すことが度々あった。一歩外に出たらテレビからの情報が絶たれ、誰かが知る最新情報を手に入れるまで情報が更新されない、携帯電話のない時代だった。せっかく上った坂に体力を無駄に奪われたが、学校が休みになる喜びに勝るものはなかった。 *** 週に一度、…
外に出ると思いのほか、風が強かった。自転車のペダルを踏む足に力が入る。長い髪が後ろになびく。まだ家を出たばかりだったが、橋に差し掛かったところで、橋の向こう側は異世界と言わんばかりに「もう引き戻すことはできない」と脳内で指令される。私は果敢に挑むヒロインのごとく、前へ進む。そういう設定にでもしないと、ただただ目的地までの距離を長く感じるしかなかった。目的を果たすと、すぐに同じ道を戻る。風向きが変わった。 *** 少々うんざりしていた。やることが山ほどあった。「片付けの終わり」が遥か彼方にある。常に「片付けたい」気持ちが頭の中を支配している。そして常に「片付け」をする。いつになったら解放されるの…
一方通行で幅の狭いこの道は、裏手にメインの道があるため、通る車も限られていた。視線の先に止まっている車も、この通りにある店のロゴが入ったトラックだった。ちょうど搬出入作業が終えたようで、私がその店の入口に着く前に、トラックは次の目的地へと走り出した。灯りのついた店内に人の姿は見えなかったが、大概そうだった。客の来店を知らせる音は自動ドアが開くと同時に鳴る。今しがた搬入を終えた店内では、受付の裏側で忙しくしているに違いない。受付に人が出ていないのも尚更だろう。自動ドアの「少し触れて下さい」にそっと触れた。反応が悪かったようで、強めに触れる。三回繰り返しても開かないドアの前で一度動きを止めた。視線…
白く塗られた木製の引き戸は、厚さが3㎝あった。少し重く感じるのは、毎回すんなり開かないせいでもあった。引き戸を開ければ、上段と下段を仕切る板がある。機能は押し入れと全く同じで、ここも「押し入れ」と呼んでいた。引き戸を開閉するたび、蓋付きの収納ケースが少しつっかえる。開閉頻度は少ないとはいえ、毎回不便さを感じていた。押し入れ用の収納ケースが「押し入れ」にうまく収まっていなかった。 和室の押し入れに万年床の布団を収納するため、あれこれ考える。こちらもあちらも「押し入れ」のなかはぎゅうぎゅうだったが、良い案を思いつく。和室の押し入れから、洋室の押し入れへ、収納ケースを移動して空間を作るというものだっ…
昨晩は、なかなか寝付けなかった。いつもより二時間近くも早く床に就いたのだから無理もない。リスクを伴うことを考えると、もうこの時間もギリギリだった。 朝4時半起床。と同時に夫を起こす。すでに昨日のうちに準備は万端で、夫を送り出すまでの朝のルーティンは牛乳を注ぐことだけだった。5時前に夫は玄関を後にする。このまま起きて活動すれば、有意義な一日が過ごせるだろう。しかし、必ず昼間に睡魔が襲ってくることは明白だった。再び布団に入り、携帯電話のアラームをいつもの時刻にセットする。 一つ、自分に言い聞かせていたことがある。「期待しすぎないこと」 今まで幾度もこういう機会はあったが、毎回「やりきれなかったこと…
名もないまま、鞄の内ポケットに収められていた。そういうところがあるのも私らしい。 *** 「片付けられない」ことの後ろめたさが、いつも赤信号を灯らせていた。そこに留まっているよう強制をされているわけではない。きっと、いつでも信号を渡って良かったのにと言われるのだ。信号待ちをしているのさえ、気付いていないのかも知れない。押しボタン式の信号は、自分でボタンを押さなければ渡ることはできない。「片付けの終わり」を迎えていない私は、まだボタンを押すことができずにいた。優先すべきは車なのだから。 「私」について考えるといろんな想いが駆け巡る。矛盾が生じたり、落ち込んだり、前向きになったり。 信号もなく、車…