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どうする家康 第39話「太閤、くたばる」 ~慶長の役と秀吉の死~
鶴松の死後、自身の年齢から考えてもはや実子は見込めないと考えた豊臣秀吉は、養子となっていた甥の豊臣秀次を後継者と定め、関白職も譲ります。しかし、それから...
どうする家康 第38話「唐入り」 ~文禄の役と淀殿2度目の懐妊~
小田原征伐を終えて天下統一を成し遂げた翌年の天正19年(1591年)、豊臣秀吉の身の回りを立て続けに不幸が襲います。1月には最も信頼していた実弟・豊臣秀長...
どうする家康 第37話「さらば三河家臣団」 ~小田原城落城と家康の関東移封~
九州を平定した豊臣秀吉にとって、残る大敵は相模国小田原城主の北条氏のみとなりました。北条は関東一円に300石近い領地を支配する大大名で、徳川家康とも同盟...
大阪城豊國神社/豊臣秀吉公・豊臣秀頼公・豊臣秀長卿を奉祀する神社
大阪城豊國神社御朱印 参拝日:令和5年(2023年)7月20日 豊臣秀吉公像 本殿・拝殿 摂社末社 若永神社 白玉神社・七夕神社・玉春神社・玉繁神社 御朱印受付時間 アクセス 大阪城公園桜門向かいに鎮座しているが観光客は大体の方は天守閣方向に向かいます。 大阪城内桜門の正面に鎮座する神社で 「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を奉祀する神社です。 表鳥居 豊臣秀吉公像 豊臣秀吉公像 表鳥居をくぐって直ぐに参道の真ん中に「豊臣秀吉公像」が建っている。 明治36年に大阪城内に建立された旧豊臣秀吉公像は、後に当社旧境内地(北区中之島)に移され市民に愛されてきましたが、昭和18年の金属類回収令に…
大阪城御城印 登城日:令和5年(2023年)7月20日 西外堀 大手門 空 堀 桜 門 大阪城天守閣 天守からの展望 天守内展示物 天守閣から極楽橋へ 観覧時間・料金 アクセス 地下鉄谷町線天満橋下車、大手門の方向に歩く。 大阪城には何回か来ていますがいつも京橋方向から来るので大手門からは初めてです。 官庁街を抜けてお堀の横を歩いていると凄いセミの鳴き声 こんな凄いのは初めて、隣の車道の車の音も聞こえないくらいです。 西外堀 お堀の向こうには京橋のビル群が見えます。 乾櫓 大手門 大手門 案外と門自体は小さいですね。 大手口多門櫓渡櫓 大手口枡形巨石群 空 堀 全ての木にたくさんの蝉の殻がくっ…
慶長3年(1598年)3月15日、豊臣秀吉は、醍醐寺諸堂の再建を命じ、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて、秀頼や奥方たちと一日だけの醍醐の花見を楽しみました。しかし、5月より秀吉は病に伏せるようになり、次第に病状は悪化。徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、自身を八幡として神格化するこ...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜秀吉さんの暴走は止まらないねってことで第38話の感想ぉ〜豊臣秀吉の唐入りが始まりました。いったい何のために…
京都の豊国神社門前にある古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられた塚は、耳塚と呼ばれています。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻を削ぎ、腐敗を防ぐため、塩漬けにして持ち帰ったものを葬った塚で、2万人分の耳と鼻が埋められているといいます。昭和44年(1968年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として、国の史跡に指定されました。当初は「鼻塚」と呼ばれていましたが、...
慶長伏見地震は、1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)子の刻に現在の京都・伏見付近で発生した大地震で、京都では伏見城や東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺等が倒壊し、地震による死者数の合計は京都や堺で1,000人以上を数えたと伝えられています。完成したばかりの伏見城天守もこの地震により倒壊し、城内だけで600人が圧死したと言われています。伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元...
大雲院は、織田信長・信忠親子の菩提を弔うため、1587年、烏丸二条に建立され、その後に寺町四条、1973年に現在地に移ったとされています。祇園閣があることで知られています。通常は非公開。ねねの道から円山公園に行く途中にあります。境内墓地には、織田信長・信忠父子の他、石川五右衛門の墓があります。五右衛門については、処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、大雲院を創建した貞安が引導を渡した縁...
京都市中京区木屋町三条の瑞泉寺1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺です。文禄4年(1595年)、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、聚楽第の秀次のもとへ石田三成、前田玄以、増田長盛らが訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促します。秀次は釈明の為に、秀吉のいる伏見城へ向かいますが、福島正則らに遮られ、秀吉に会うことは叶わず、同日高野山へ入ります。それから1週間後、秀次のもとへ...
青巌寺(せいがんじ)は、現在の金剛峯寺境内の東部にあった寺院で、明治2年(1869年)まで高野山上に存在した寺院です。学侶方の寺務をつとめた中心寺院でしたが、行人方の役寺であった興山寺(廃寺)と合体して金剛峯寺となっています。青巌寺は、天正20年(1592)、豊臣秀吉が大願主となり、母・大政所の追善のために木食応其(もくじきおうご)に命じて造営され、初めは「剃髪寺」と号していました。文禄3年(1594)3月、秀吉は高野山に登...
大坂の玉造稲荷神社は、垂仁天皇18年(紀元前12年)創建されたと伝えられています。戦国時代の戦火により荒廃しましたが、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿が再建されました。大坂夏の陣で、社殿は再び焼失しましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代や氏子らの寄進によって再建されました。豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称し、江戸時代には伊勢参りの出発点とされました。「玉造」という名は、鎮座...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜いよいよ日本平定の小田原攻めだねってことで第37話の感想ぉ〜!小田原攻めに家康は反対してるように描かれてま…
宮島の大聖院は、寺伝によれば、大同元年(806年)に弘法大師空海が唐からの帰途、弥山を開基して以来1200年の歴史をもつといいます。天下統一を果たした豊臣秀吉がここで盛大な歌会を催し、祈不動堂を再建して念持仏の波切不動明王を奉納したことでも知られます。本堂は、鳥羽天皇の勅願道場として創建されたことから、鳥羽天皇の第五皇子である覚性法親王が門跡を務めた京都の仁和寺や歴代皇室との結びつき深く、明治天皇の厳島行...
滋賀県大津市坂本の律院は、比叡山延暦寺の里坊です。元々は、横川の総里坊であった松禅院があった場所で、山門、石垣の高さにその格式の高さを感じます。かつて松禅院と呼ばれていた当地は、大正末期に民間の手に渡り、荒廃していたのを、昭和24年(1949)戦後初の千日回峰行者、叡南祖賢(えなみそけん)師が再興。寺号は祖賢師が当時、安楽律院の管領を務めていたことに由来するそうです。庫裏本堂本堂は、豊臣秀吉の側室・淀殿が...
秀吉が鶴松の菩提を弔うために建立した智積院の前身「祥雲禅寺」
智積院は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院で、山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)といいます。鶴松を亡くした豊臣秀吉の嘆きは大きく、鶴松の菩提を弔うために、京の東山に祥雲禅寺(臨済宗)を建立しました。しかし、その後、豊臣家を滅ぼした徳川家康は、この寺をかつて秀吉と対立した紀州・根来寺の僧に与え、五百佛山根来寺智積院(真言宗)としました。真言宗智山(ちさん)派の総本山で全国...
滋賀県犬上郡多賀町多賀に鎮座する多賀大社は、伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれ、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めました。式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあり、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされてい...
現在の日本民族は海に囲まれた「島国」に住んでいます。 日本という名称がまだなかった頃のご先祖様たち(大和民族)も、その点は同じで 長らく列島(島国)住まいを続けてきました。 さて、そうした列島民族のライフスタイルを、陸続きの大地に住む他民族と比較して みると、こういうことが...
小田原駅から数分のところに北条氏政・氏照の墓所があります。北条氏政後北条氏の4代目。父は北条氏康。1554年相甲駿三国同盟の成立とともに,武田晴信(武田信玄)の娘を正室として迎えた。1559年に氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に努めたが,豊臣秀吉による小田原征伐で数ヵ月の籠城の末に降伏して切腹,北条氏による関東支配を終結させる最期になった。北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜今回は於愛さんがメインだったねってことで第36話の感想ぉ〜!於愛の語りで始まりましたが、おおらかな笑みは……
帰りは、行きと違うルートで、銅門から退城しました。銅門(あかがねもん)銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治3年(1870)の小田原廃城後、明治5年(1872)に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。往時は、大手筋にあたる馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由...
さて、どのように言ったらよいものか、そうした方面の話題にとんと疎い筆者には 判断が付きかねますが、児童虐待、性加害犯罪、人権蹂躙などの表現をもって 昨今盛んに取りざたされているいわゆる「ジャニーズ問題」です。 現在では、お話はどうやら事務所の名称を変える、変えないというとこ...
相模の小田原城を拠点とする北条氏は、北条早雲以来5代に亘り、関東に勢力を奮っていました。徳川家康は、次女の督姫を北条氏直に嫁がせており、同盟関係にあったことから、秀吉への仲介役を担当しました。天正16年(1588年)5月21付の北条氏政・氏直父子宛ての起請文では、「関白殿下への謁見を拒否する場合、娘・督姫を離別させる」という内容で秀吉への恭順を促すと、氏政の弟で、家康の旧友の北条氏規(うじのり)を上洛させました...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 62.徳川家康・五十
豊臣秀吉の死の年、後継者の豊臣秀頼は、わずか、六歳であった。 そのため、五大老、五奉行の合議制となっていた。 豊臣秀吉の遺言によって、徳川家康は、三年間は、…
「信長の野望」シリーズ初の“歩いて天下を目指す”戦国ウォークゲームです。信長の野望小学生の頃の「信長の野望全国版」から始まり、戦国群雄伝、武将風雲録…と続き、人生において、やったりやらなかったりの「信長の野望」ですが、久方ぶりに秀吉公と戦国
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 61.徳川家康・四十九
豊臣政権を揺るがす、「秀次事件」を受けて、豊臣秀吉は、諸大名に対し、上洛を命じ、事態の鎮静化を図った。 徳川家康は、豊臣秀吉の命令で上洛した。 以降、開発途…
1.犬山城の沿革犬山城は織田信長の叔父である織田信康が天文6年(1537)に木下城を移して築城したと伝えられています。こののち江戸時代初期にかけて城主はめまぐるしく入れ替わりました。天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いの際には、緒戦で
~この日本に元の大軍が二度(文永の役1274年/弘安の役1281年)まで侵略を 仕掛けてきたが、いずれとも失敗に終わった~ 「元寇」あるいは「蒙古襲来」ともいうこの出来事に対して、日本人が持つ平均的な イメージはこのくらいのものかもしれません。 しかし、これを間違いとする...
どうする家康いよいよ佳境に近づいて来ました。今までにないストーリーではありますが、毎回楽しみに見ています。国宝松本城は立地といいとても綺麗なお城です。アルプスを背景とした景色は絶景です。お堀に白鳥が泳いでいる様はヨーロッパ的な印象もあります。どうして裏切った⁉️交渉役として板挟みになったのでしょう。プラス秀吉の人たらしの上手さでしょうか?とは言え、実際に松本城の城主になったのですから秀吉はちゃんと厚遇しました。宜しければポチお願いします。にほんブログ村過去の投稿記事です。水彩画シャンティー城🏰-リタイアじーじの徒然絵日記パリ近郊にあるシャンティー城です。パリからすぐにいける立派なお城です。いつも観光客で一杯でした。この構図、日本のどこかの会社のCMで使われている構図と良くにていま...gooblog富山城...どうする家康石川数正国宝松本城
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜1週、番組がお休みだったねってことで第35話の感想ぉ〜!家康がついに秀吉と対面。対面の前日に会いにきた秀吉…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 60.徳川家康・四十八
豊臣秀吉の直轄領は、太閤蔵入地と呼ばれたが、畿内及び、九州に二百二十万石である。 即ち、徳川家康は、天下人であり、主君の豊臣秀吉を超える、大大名になったと言…
【どうする家康】#35 母も弟も恐れる「欲望の怪物」秀吉、家康は太刀打ちできるのか
欲望底無しの秀吉 NHK大河ドラマ「どうする家康」第35回「欲望の怪物」が9/17に放送された。前回までに家康は、秀吉を認めて自らの天下取りを諦めた。他の人が戦の無い世を実現してくれるのならそれでいい、それを支えようと方向転換した。 しかし、秀吉の欲望は底無し。天下統一後も海外へ食指を伸ばそうとし、戦を止める考えはない。このドラマでは「海外進出が信長の夢だったから夢を継ぐ」ではなく、「まだあんなにあるじゃん」的な、食べ物は食い尽くさなければ満足しない、自分の欲にどこまでも正直な人物として秀吉を描くようだ。 ムロツヨシの秀吉は表向きひょうきんでもあり裏には底知れぬ怖さもあり、それを声音でコントロ…
高台寺御朱印 参拝日:令和5年(2023年)3月15日 拝観時間・拝観料 アクセス 清水寺から産寧坂(三年坂)・二寧坂(二年坂)を通って高台寺の登る坂に来ました。 八坂の塔と京都タワーが見えます。 庫裡 庫裡の左手に拝観受付が有りその横に御朱印受付も有りましたのでこちらで御朱印を頂きます。 朱印料は300円でした。(2023年3月現在) 遺芳庵 観月台と開山堂 小方丈は工事中でした。 方丈に上がり波心庭を拝見します。 残念ながら枝垂れ桜は時期的につぼみが固そうです。 勅使門 奥には霊山観音が見えます。 開山堂に向かいます。 開山堂 霊屋(おたまや)に向かいます。 霊屋(おたまや) 内陣右側の厨…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 59.徳川家康・四十七
蟄居中の北条氏直は、富田一白と津田盛月を通し、徳川家康に対して、赦免の執り成し依頼を行っている。 翌年の1591年(天正十九年)2月、早々に徳川家康を通して…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 58.徳川家康・四十六
しかし、北条氏政が、講和条件を拒否したために、豊臣秀吉が、黒田官兵衛孝高に命じ、交渉に当たらせた。 6月16日、北条氏政の重臣であった、松田憲秀の長子の笠原…
評価:85点/公開:2017年/米国/ジャンル:アメコミ/監督:タイカ・ワイティティ 2011年の『マイティ・ソー』、2013年の『マイティ・ソー~ダーク…
天正14年(1586年)10月14日、浜松を発って上洛の途についた徳川家康は、同月20日に岡崎で大政所の到着を見届け、同月27日に大坂城にて豊臣秀吉と対...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 57.徳川家康・四十五
浅野長政は、5月20日時点で、豊臣秀吉の命に従って、急ぎ軍を返すと、武蔵国方面に侵攻しており、寿能城及び、岩付城を攻めた。 5月21日時点にて、浅野長政は、…
まだ寺の小僧だった石田三成と、豊臣秀吉が出会った場所とされている観音寺まで足を延ばしてみました。三成の出生地・石田よりバスで米原方面に向かい、観音寺下車。観音寺は、もとは伊吹山中にあり、僧三修が開いた伊吹四大寺として隆盛を極めていましたが、13世紀に山を降り、現在地に移ったとされています。堂宇は正徳5年(1715)に再建の本堂(国の重要文化財)、薬師堂、鐘楼、山門などからなります。当寺は、鷹狩で立ち寄っ...
石田会館に向かう道を左に曲がると、八幡神社があります。石田神社とも呼ばれ、本殿の裏に石田三成一族と家臣の供養塔があります。 本殿 三成の辞世の歌「筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆくわが身なりけり」三成の自筆による歌「残紅葉 散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりとぞ」 墓石出土跡昭和16年まで、石田家に関係があると思われる墓石(関ヶ原の後、この地の人が、徳川方の追及を逃れる...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 55.徳川家康・四十四
松井田城主で、北条氏累代の重臣、大道寺政繁は、北方軍を碓氷峠で、迎え撃ったが、与良が、真田勢の先方の真田信幸隊に打ち取られた。 主力は、真田軍と激戦になった…
お延暦寺を訪問するのは2回目ですが、一回目は若い時でほとんど印象がありませんでした。あまり仏教とか歴史に興味がなかったからだと思います。今回の訪問の印象はとても違ったものでした。一番印象に残ったのは、あちらこちらにある巨木とそのなかに点在する歴史的建築物、現在工事中の根本中堂、不滅の法灯とご祈祷を見るにつけ感動いたしました。森の中の道でお堂を回っていると何か心が洗われるような気がしました。西塔の釈迦堂です。比叡山焼き討ちの後、秀吉の命により三井寺より移築したものだそうです。巨木に囲まれており、清々しい気持ちになりました‼️宜しければポチお願いします。にほんブログ村過去の投稿記事です。三井寺金堂国宝-リタイアじーじの徒然絵日記三井寺に行って詣りました。学生のころ、古文で三井寺詣りという表現があったことを思い...世界文化遺産延暦寺釈迦堂重要文化財
バス停石田から石田会館とは反対の方向、北へ進み、民家の間に挟まれた道を行くと、石田三成産湯の井戸があります。石田三成の死後、400年の記念事業で、平成12年に復元されました。 三成は、1560年、近江国坂田郡石田村で生まれました。父・正継は、「村の武士」といわれる土着の豪族で、京極家や、浅井家に仕えた後、帰農したとされています。三成は、三男として誕生、幼名は佐吉。長兄は早世し、次兄・正澄は、三成と前後して、...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 55.徳川家康・四十参
北条軍は、伊豆の南端の下田城を防衛線として、水軍を集結させていたため、西伊豆の諸城砦には、少数の陸戦部隊しか、配置していなかった。 同年の3月1日、豊臣秀吉…
石田三成生誕の地(1)秀吉と三成出逢いの像~石田三成の屋敷跡
次回9月17日の「どうする家康」予告を見ると、いよいよ石田三成が登場するようです。そこで、過去の記事より、「石田三成生誕の地」を紹介します。長浜駅を降りると、駅前に「秀吉と三成出逢いの像」があります。長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年...
三井寺の境内はとても広大かつ多数の歴史的建築物が建っております。そのなかで特に目を引くのが三重塔です。重要文化財ですが、秀吉が奈良吉野から伏見城に移築していたものを家康が更に三井寺に移築したものだそうです。手前が一切経蔵でこちらは毛利輝元が山口から移築したものだそうです。中は書庫になっていました。広大な境内、残暑の中大変でしたが、途中に冷房の利いた現代建築の文化財修蔵庫で仏像等の展示があり助かりました。宜しければポチお願いします。にほんブログ村過去の投稿記事です。色鉛筆初詣-リタイアじーじの徒然絵日記日本では、正月の初詣は大事な習慣です。パリでは、初礼拝は大事かな?そんな話聞いたこと無いので、その様な習慣はないのかな⁉️初詣行かれましたか?初詣行かれた方ポチお...gooblog色鉛筆世界遺産天龍寺庭園-...三井寺三重塔と一切経蔵
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜数正さん、出奔してちゃって大変だぁ…ってことで第34話の感想ぉ!家康の元を出奔し、秀吉に仕えることになった…