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小田原合戦「小田原城」!小田原評定の明と暗…関東の雄・北条氏滅ぶ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、小田原合戦「小田原城」!小田原評定の明と暗
#353 北条氏政・氏直も動く from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
北条氏、43,000の大軍で旧武田領の分捕り合戦に参戦!!8月6日の大河ドラマ『どうする家康』ではあっさり終わる家康の甲斐と信濃ゲット”天正壬午の乱”を家康家…
#364 天正壬午の乱 北条家との戦い~『松平家忠日記を読む』から見る
8月6日の大河ドラマ『どうする家康』ではあっさり終わる家康の甲斐と信濃ゲットの”天正壬午の乱”の北条家との戦いを『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ (角…
どうする家康 第37話「さらば三河家臣団」 ~小田原城落城と家康の関東移封~
九州を平定した豊臣秀吉にとって、残る大敵は相模国小田原城主の北条氏のみとなりました。北条は関東一円に300石近い領地を支配する大大名で、徳川家康とも同盟...
帰りは、行きと違うルートで、銅門から退城しました。銅門(あかがねもん)銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、明治3年(1870)の小田原廃城後、明治5年(1872)に解体されるまで、江戸時代を通してそびえていました。往時は、大手筋にあたる馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。銅門の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由...
相模の小田原城を拠点とする北条氏は、北条早雲以来5代に亘り、関東に勢力を奮っていました。徳川家康は、次女の督姫を北条氏直に嫁がせており、同盟関係にあったことから、秀吉への仲介役を担当しました。天正16年(1588年)5月21付の北条氏政・氏直父子宛ての起請文では、「関白殿下への謁見を拒否する場合、娘・督姫を離別させる」という内容で秀吉への恭順を促すと、氏政の弟で、家康の旧友の北条氏規(うじのり)を上洛させました...
さてさて…大河のどうするは本能寺も終えて小牧長久手に突入するようですが… 織田秀信の幼名、三法師ってさ…珍しいよなと思ってさ…当時は○○丸とか○○千代とかって…
どうする家康 第30回「新たなる覇者」 その1 ~天正壬午の乱~
清須会議、柴田勝家とお市の方の結婚、天正壬午の乱、賤ヶ岳の戦い、越前北ノ庄城の戦いと、超足早に描かれましたね。これまでの戦国ものの大河作品であれば、3、...
医王山 瑞雲寺(→神奈川県横浜市都筑区川和町)は、南北朝時代の1338(暦応元/延元3)年に瑞鹿山 円覚寺(→神奈川県鎌倉市山ノ内、鎌倉五山第二位)の7代住職梅林霊竹が開山したという臨済宗円覚寺派寺院です。境内の地蔵菩薩は「都築橘樹(つづきたちばな)酉年(とりどし)開帳地蔵菩薩霊場」の1つに数えられ、12年に1度の酉年に開帳されることで知られます。寺宝に「鷹薬師如来」と呼ばれる像があり、徳川家康がこの辺りで鷹狩をしていた...
立正山 光妙寺(→神奈川県藤沢市藤沢4丁目)は、江戸時代中期の1756(宝暦6)年に僧の日暁が創建した日蓮宗寺院で、もとは駿河国富士郡にあった妙境山 円恵寺(えんねじ→静岡県富士宮市大久保字内久禰)の外境仏堂「光妙庵」として建立されました。円恵寺は、戦国時代の1565(永禄8)年3月18日に真言宗寺院として創建された草庵が始まりで、1581(天正9)年4月に安居山 東漸寺(→静岡県富士宮市安居山)の8代住職日教によって日蓮宗寺院に改宗...