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ヨーロッパの封建制度は中世ヨーロッパにおける社会、経済、政治の基盤であった。この制度は土地を支配する貴族と、その土地で働く農民や小作人との間の相互依存関係に基づいている。封建制度の中心的な要素は領主と家臣の関係で、家臣は領主に忠誠を誓い、軍事的な支援や助言を提供する。一方、領主は家臣に土地や保護を提供する。 封建制度の起源は9世紀のカロリング帝国にさかのぼる。帝国の広大な領土を効果的に管理するため、地方の貴族に土地を与え、彼らに軍事的な保護と行政の責任を委ねる。これらの貴族はさらに小規模な土地を家臣に分配し、彼らから軍事的な支援を受ける。このようにして封建制度はヨーロッパ全土に広がり、地域によ…
アンシャン・レジームは、フランス革命前のフランスにおける絶対王政と身分制社会の体制を指す。この時代は、社会、経済、政治の各面で多くの特徴を持っていた。アンシャン・レジームは、三部会と呼ばれる身分制度によって特徴づけられ、社会は聖職者(第一身分)、貴族(第二身分)、そして平民(第三身分)の三つに分けられていた。 この体制の下、聖職者と貴族は多くの特権を享受しており、税の免除や司法上の特権などが与えられていた。一方で、第三身分に属する大多数の人々は重税に苦しみ、政治的な発言権もほとんど持っていなかった。この不平等は社会的不満を高め、最終的には1789年のフランス革命へと繋がる。 アンシャン・レジー…
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年5暗雲こめる大明2宦官と内閣「永楽年間の宦官は、五府(軍事機関)、六部(りくぶ=行政機関)に派遣されると、府部の役人から一丈はなれてあいさつし、路上で公侯にあえば、下馬して道をさけた。のちの王振、汪直、劉瑾のころには、府部の役人をじぶんの配下の者のように呼びつけ、公侯と路上であえば、公侯らがさけるようになった。まことに主客転倒もはなはだしいというべきか。」洪武帝は創業の功臣を一掃した。永楽帝は一族の諸王を無力化し、宦官を皇帝の耳目や手足とした。こうした皇帝独裁の体制の確立がまねいたものは、宦官の横暴というおきまりのコースである。王振、汪直、劉理らは、これを代表する明代中期の有力な宦官であった。永楽帝をついだ洪煕帝は在位わずか一年で世を去り、子の宣徳帝が五...8-5-2宦官と内閣
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年4モンゴルの復興2オイラート土木の変の当時、エセンはモンゴル最大の実力者ではあったが、カン(汗)ではなかった。モンゴルの伝統においては、チンギス汗の子孫でなければ、カンとして認められなかったのである。ましてエセンは、モンゴル人ではあったが、そのなかでも傍系と見なされたオイラート部の出身であった。オイラート部というのは、モンゴル高原の西北部を本拠としていた部族である。十三世紀の初め、チンギス汗の配下に入り、モンゴル帝国の一翼をなした。しかも当時から四つの万戸を編成したほどに、有力な部族であり、モンゴル帝室とも婚姻を通じていた。さて元朝が、中国を追われてモンゴル高原にしりぞいた後、順帝(元朝最後の朝帝)の子どもはカラコルムに拠って、なお大元の皇帝を袮していた...8-4-2オイラート
ある日、私は図書館に本を返しに行きました。本を借りたり返したりする所の近くに、「新しく届いた本」のコーナーがあります。どんな本があるか、見てみました。すると、「アフリカ史」という本がありました。私は歴史れきしが好きです。今まで、色々な国の歴史の本を読みました。でも、アフリカの歴史の本を見たのは、これが初めてです。私は、この本を借りました。高校の「世界史」の授業でも、アフリカがヨーロッパの植民地しょ...
ね、韓国との間で、従軍慰安婦問題ってあるんでしょ。中国との間には、南京大虐殺の問題もあるんでしょ。どっちもほんとはなかったって言う人もいると思うんだけど、真相はどうなのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『従軍慰安婦問題と南京大虐殺は本当か?』――左翼の源流vs.E.ケイシ―・リーディング(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。田舎出身の人は、母親から「学問をしたバカはどうしようもない。」という言葉を、聞かされることがある。人間としての素直な「賢愚」「善悪」の判断が逆になる人がいる。都会に出て大学などで学問的理論武装してくると、いよいよ、どうしようもない「知的バカ」が出来上がってくるのである。漁師でも自衛隊が国を護ってくれなければ大変なことになること...従軍慰安婦と南京大虐殺って?
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年3鄭和の南海経略1大艦隊の発航永楽三年(一四〇五)の初冬、福州にほど近い閩江(みんこう)の江口をうずめるように、六十二隻の大艦隊が碇泊した。ひとつひとつの艦が、また巨大なものである。長さは約一四〇メートル、幅は五八メートルもあって、一隻に四百五十人もの人員をのせることができる。乗組の総員は、二万七千八百余という大勢であった。旗艦には、容姿すぐれた武将が坐乗している。司令長官の鄭和(ていわ)である。雲南の出身で、旧姓を馬といい、父祖三代にわたるイスラム教徒であった。永楽帝がまだ燕王であったころから、宦官(かんがん)として仕え、靖難(せいなん=国の危機を救う)の師をおこすのに功労があったところから、宦官の長官たる太監に任ぜられ、鄭の姓をたまわった。しかも、こ...8-3-1大艦隊の発航
世界史の勉強になれる映画を集めてみました。高校での世界史の勉強は範囲も広く覚えるのは大変ですよね。そんなときに役立つのが映画や小説などの物語です。古代から近代までの様々な時代や地...
毎号読んでいる歴史雑誌『歴史群像2023年8月号[雑誌]』の最新号(2023年8月号)についてのレビューです。 歴史群像2023年8月号[雑誌]毎号、日本史・…
混迷する世界大戦直前の情勢 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・仏・独・露と対立したイギリスは日本と同盟・日露戦争で負けたロシアはバルカン半島に進出・バルカン半島の民族紛争
~カン違いの校長が週3回の全校朝会とボーナス渡し~ 「これって変ですよね」・・・僕が勤めていたA中学校の教職員たちの会話です。 「これ」とは一体何でしょうか。 答えは12月のボーナスを校長が数十人いる職員一人一人に声をかけながら手渡して与えたという事実です。僕も深々と頭を下げながらいただきました。 この出来事は後にも先にもこの時1回だけでした。矛盾はどこにあるのか。そもそも新潟県の公立学校の給料や...
はじめまして、はるパパです。 さて本日は、コチラの本をご紹介します。 『歴史で読み解く!世界情勢のきほん』 高校時代です
出来るものなら、まだ見ぬ土地のあちこちを旅してみたい。そんなまだ見ぬ世界への憧れ、旅は好きだけどなかなか、現実には行くことが出来ない。でも!外国の言葉を聴くのも好き。子供の頃、よく聴いて意味も知らずに強烈に印象に残っている曲というものがある。そんな歌のひとつがフランス語で歌われる、いわゆるシャンソンなので耳に響く音色も美しく思えて…もう何十年も経った今でも思い出す。大人になって、歌詞の意味を調べてみると…とても複雑な成り行きと時勢の影響があったようで?でも、作った当人の素朴な感性を信じたいと思う。。。。色々な方々の解釈を下にリンクしておきますが↓この曲を聴いていた当時の子供の頃のワタシが素朴な感性で心に残った(かろうじて、聴き取れた😅)歌詞は…コクリコ(ひなげしの花)ラ・フォンテーヌ(泉)マリーマドレーヌ...『未来を言う時に必ず付け加える』ということを知った言葉-
スペイン合同は、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合され、スペインという国家が誕生した歴史的出来事である。この合同は、政治的、文化的、そして経済的な影響をヨーロッパに及ぼし、新時代の幕開けとなった。 1469年、カスティーリャの女王イサベルとアラゴンの王フェルナンドの結婚が、スペイン合同への第一歩となった。二人の結婚は、単なる王族間の婚姻以上の意味を持っていた。この結婚により、後の1479年にフェルナンドがアラゴン王に即位したことで、両王国の統合が事実上成立した。 しかし、この合同は単純な政治的統合に留まらなかった。カスティーリャとアラゴンは、それぞれの法律、制度、言語、さらには通貨を維持し…
おはようございます。警備員のおっさん、やぶりんです(´・ω・`) 歴史能力検定の正答が公表されたので自己採点しました(-ω-)/ 結果は・・・ 5級入門37/…
アルハンブラ物語の舞台 アルハンブラ宮殿はスペインイスラム文化の最高傑作
アルハンブラ宮殿は、スペイン・グラナダに位置するイスラム建築の傑作であり、イベリア半島におけるモーロ人の芸術と文化の絶頂を象徴している。この宮殿は、13世紀から14世紀にかけてナスル朝のスルタンたちによって建設された。アルハンブラという名前はアラビア語の「赤い城」を意味し、その赤みがかった外壁からこの名が付けられた。 アルハンブラ宮殿の建築様式は、イスラム芸術の特徴を豊富に取り入れたものである。アラベスクの装飾、幾何学的な模様、書道による装飾が随所に見られ、イスラム建築の伝統に根ざした精緻なディテールが特徴的である。また、水の使用もこの建築の重要な要素の一つであり、庭園には水路や噴水が巧みに配…
モーロ人とは、8世紀から15世紀にかけて、主にイベリア半島(現在のスペインとポルトガル)に居住していたムスリムの人々のことを指す。彼らは主に北アフリカのベルベル人とアラブ人の子孫で、イスラム教徒としてのアイデンティティを持っていた。 711年、モーロ人はイベリア半島に侵入し、その後約800年間にわたりこの地域の大部分を支配した。彼らの支配下では、イスラム文化が花開き、建築、科学、数学、哲学など多くの分野で顕著な発展を遂げた。この時代は「アンダルス時代」として知られ、ヨーロッパ中世史において重要な時期である。 モーロ人の支配は、1492年のグラナダ王国の陥落と共に終わりを迎えた。これにより、カト…
さてさて、久しぶりの話題ですが、今日は何の日でしょう?もちろん勤労感謝の日ではあるのだけれど、それだけじゃなくって、というお話です。幸福の科学の大川隆法先生は、『われ一人立つ。大川隆法第一声』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。本書は、宗教家としての私の第一声、いわゆる「初転法輪(しょてんぼうりん)」を収録したものである。一九八六年十一月二十三日、満三十歳の私の説法は、今日現在、三千百八十九回説法している満六十四歳の私から見れば、内容面、技術面ともに未熟である。しかし、この後、二千七百冊以上の書を発刊し、世界百十数カ国まで信者を増やしたことを考えると、何ものをも怖れない勇気と、情熱と、努力とその継続があったことはまちがいない。もはや歴史的記録であり、私個人のプライベートな記録とは言えないので、数々...今日は何の日?
フランス革命は、1789年から1799年にかけて、フランスにおいて起こった一連の政治的変革である。この革命は、現代民主主義の基礎を築き、ヨーロッパだけでなく世界の歴史においても大きな影響を及ぼした。革命の背景には、絶対王政の専制、社会の階級制度、経済的困窮、そして啓蒙思想の普及があった。 革命は、1789年5月5日に開かれた三部会の召集から始まる。これは、財政危機を背景に、ルイ16世が国の財政状況に対処するために行った。しかし、三部会はすぐに立憲君主制への移行を求める第三身分によって支配され、国民議会の形成につながった。6月17日には、第三身分は自らを「国民議会」と宣言し、6月20日のテニスコ…
あの大哲学者・ハイデガーって、「超訳霊言」といって、霊言集が出されてるんでしょ。どんなのなの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『超訳霊言ハイデガー「今」を語る第二のヒトラーは出現するか』(幸福の科学出版)で、そのハイデガーの霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。第一次大戦後のドイツ人の落ち込みっていうか、ショックというか……。まあ、「優秀な民族である」という自覚を持ってたのは、みんなもご存じだと思いますし、カント以降、偉大な人がたくさん出ていますからね。十九世紀は、はっきり言ってドイツの時代ですよ。二十世紀初頭もそうだったと思うけど、ドイツには、そういう偉大な国家である誇り、栄光があったのでね。それが、戦争に敗れて灰燼に帰したけれど、ドイツ人は、「それを、も...ハイデガーの思想って?
息子の高校のママ友とローマ展に行ってきました。いつも会ってるメンバーで、本当は新宿御苑にバラを見がてらピクニックをしようと言っていました。しかしあいにく予定を…
オッサン(ダンナ)と結婚する前は、 (トルコってどこらへん?ブルガリアの近く?) と、今現在自分が暮らすこの辺りの地理すら良く把握せぬ酷いレベル…
中東の現代史は、しばしば複雑な外交政策の結果として理解されている。特に、第一次世界大戦中のイギリスの行動は、この地域の長期にわたる緊張の一因と見なされている。この時期、イギリスはフサイン・マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言という、互いに矛盾する約束を複数の当事者に対して行った。 フサイン・マクマホン協定は、1915年から1916年にかけて、イギリスの高官ヘンリー・マクマホンとメッカのシャリーフ、フサイン・ビン・アリ間で行われた一連の書簡交換によって成立した。イギリスはアラブ人に対し、オスマン帝国に対する反乱を支援する代わりに、戦後の独立とアラブ国家の設立を約束した。しかし、この…
十字軍は、11世紀末から13世紀末にかけて西ヨーロッパのキリスト教国が主導し、イスラム教徒が支配する聖地エルサレムやその他の地を奪回しようとした一連の軍事遠征である。第一次十字軍は、1095年に教皇ウルバヌス2世がクレルモン教会会議で呼びかけたことに始まる。この呼びかけは、東方のビザンツ帝国からの支援要請と、イスラム教徒によるキリスト教徒の聖地への巡礼路の脅威が背景にあった。ウルバヌス2世は、キリスト教徒に対する宗教的な使命感と、教皇権の権威を高める機会として十字軍を利用した。彼の演説は、教会の権威のもとに異なる王国と騎士たちを結集させるカリスマを発揮し、多くの者が十字架の印を身につけて聖地へ…
ユリウス・カエサルは紀元前1世紀のローマ共和国末期に活躍した政治家、軍人である。 カエサルの政治活動は、当時のローマの複雑な政治環境の中で展開された。彼はポプラレス派と結びつき、貴族派のオプティマテス派と対立した。この時期に、ガリア戦争(紀元前58年から紀元前50年)を指揮し、その軍事的成功によりローマ内外での名声を高めた。 ガリア戦争後、カエサルがローマに戻ると、彼の政治的野心は共和政ローマの伝統的な枠組みに挑戦した。紀元前49年、ルビコン川を越えてローマに進軍し、内戦の引き金となった。この内戦は、ポンペイウスをはじめとする共和政の支持者との間で繰り広げられた。 カエサルは紀元前45年に内戦…
ヨーロッパ哲学の流れ 知を愛する学問の発展と歴史 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・哲学はギリシア語「Philosophia」(フィロソフィア)を訳した言葉・「知を愛する」という意味をもつ哲学
歴史の話なんだけど、日露戦争後の講和条約締結のときに、アメリカの鉄道王ハリマンから、「満州鉄道の共同経営」という提案があって、これを日本が受け入れていたら、アメリカが満州にかかわることになって、日本とアメリカとの戦争は起きなかったという話を聞いたんだけど、ほんとなのかな?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『日本外交の鉄則』(幸福の科学出版)で、まさにこの当時の外交の責任者で、明治期の有名な外交官である小村寿太郎の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。あの時点で、アメリカに満州に入られていたら、アメリカは日本を取りに来ただろうね。挟み撃ちができるから。満州での権益まで与えてしまったら、途中にある日本を占領しに来ただろうと思う。だから、それを譲らなかったのは正しいと思う...満州鉄道の共同経営って?
アメリカはまあ、いろいろあっても、いい国ではあると思うんだけど、中国とか北朝鮮って、やってることも言ってることもぐちゃぐちゃだし、仏さまも神さまもその国民を許さんのじゃないの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学学園の創立者でもある大川隆法先生は、『教育の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。この国や、この地球上の他の国も、そして、この世界も、未来の構想を明確にし、それに向けて努力する人々が力を合わせていけば、必ずや、その方向に向かっていくのです。(中略)私たちは、あくまでも、光でありたい。あくまでも、明るい光でありたい。あくまでも、希望の光でありたい。あくまでも、この国の人々の未来をかたちづくれる強い力でありたい。勇気でありたい。この国の良心でありたい。公平な尺度でもって世界を引っ張...中国や北朝鮮って?
世界史は私たちの文化や社会の形成において重要な役割を果たしてきました。 しかし、多くの中学生にとって、その幅広さと情報量の多さから学習が少々困難な分野とも言えます。 今回は、世界史を効果的に勉強し、楽しく理解するための方法を共有します。
台頭するビスマルクのドイツ 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・ドイツの主導権がオーストリアからプロイセンへ移行・首相ビスマルクが鉄血政策を推進し、ドイツ帝国成立・フランス
~体罰に対して 「先生いいよ、オレが悪い」~ 中学3年生の男子生徒でした。名前は忘れてしまいましたが、ある冬の日の放課後、事件が発生しました。 彼は体育館で長靴、つまり土足を履いたまま、バスケットボールを乱暴に蹴って遊んでいたのです。その姿に僕はカッとなり、平手で強烈なビンタを食らわせてしまったのです。 「しまった」・・・思わず 「おい、大丈夫か?」と声を掛けました。体罰です。これは明らかにやりす...
サダム・フセインって、イスラムの世界では英雄だったんだと思うけど、どういう世界に帰ってるのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『イラク戦争は正しかったか』──サダム・フセインの死後を霊査する(幸福の科学出版)で、そのサダム・フセインの霊言を収録する直前に、その霊界での行方を霊能力を駆使して探索された模様を、次のように語っておられます。ああ、いた!見つけた。とうとう見つけました。最終的に、フセインがいる所を見つけました。今まで、水や通路や川のようなものがずいぶんたくさん視えましたが、ここは、水が流れ込んでいる所です。深いサイロのようなものが地下にあり、周りはレンガに視えますね。私の目には、周りがレンガづくりの、深いサイロのようなものに視えます。サイロ型の洞穴の底のほうには...サダム・フセインって?
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年10悲劇の女王メアリー・スチュアート3カーク・オ・フィールドの謎しかしメアリーの恋情を一身に受けているとしても、ダーンリーが存在するかぎり、ボズウェルは彼のような男にとってもっとも必要なもの、すなわち権力を手中にすることはできない。そしてこの短気で向こう見ずな男は、それをにぎるために殺害という方法を選んだ。この計画にメアリーは参加していたのか?暗黙のうちに承認していたのか?それとも無関係であったのか?従来から議論のわかれるところである。一五六七年一月、ダーンリーは天然痘のためグラスゴーで病床にあった。ダーンリーは子供への伝染を恐れて、宮殿があるエジンバラから数週間離れていたのであるが、二十二日、メアリーは夫を見舞うため、このグラスゴーにおもむいた。それか...7-10-3カーク・オ・フィールドの謎
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年10悲劇の女王メアリー・スチュアート1宿命のライバルルネサンス的教養を十分に身につけ、フランスの王妃、それからスコットランド女王として最高の地位にもついた一世の美女が、よりによって断頭台上で、なぜ命を落とさねばならなかったか?これはその悲劇のささやかな物語である。メアリー・ステュアートはスコットランドの王、ステュアート家のジェームズ五世(在位一五一三~四二)と、フランスの貴族マリー・ド・ギーズとのあいたに生まれた。それは一五四二年十二月、父王の死のまえ数日のことであり、彼女は揺籃(ゆりかご)のなかからすでに女王であった。彼女だけが無事に成長した子供であっだから。そしてメアリーの祖母はイギリス王家のチューター家の出であり、したがって彼女はイギリス王位の継承...7-10-1悲劇の女王メアリー・スチュアート
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年9カルバンとフランス・ルネサンス7テレームの僧院ここでラブレーは自分が書いている物語の筋さえも忘れはてて、ひたすら明けそめた時代にかけた希望と理想とあこがれとの夢、すなわちルネサンスの夢にふけるかのようである。まずこの僧院の建築の描写が、ルネサンス期王侯貴族のはなやかな城館を総合して考えられており、しかもそれらのどれよりも見事だと、作者自身が信じている。ほとんど貪欲ともいうべき好奇心と新鮮なよろこびをもって、ラブレーはテレームの僧院を構想する。それは世のいっさいの僧院とは、まったく正反対のものである。ふつうでは僧院と尼僧院とはまったく別の土地にあるが、テレームでは、男がいないときは女もいてはならず、女がいないときは男もいてはならないことになっている。また...7-9-7テレームの僧院
ロシアの南下政策と東方進出 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・不凍港獲得のため南下政策を進めるも失敗し東方へ進出・クリミア戦争敗北で近代化の必要性を痛感し、改革を実行・改
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年9カルバンとフランス・ルネサンス4カルバン派の都ジュネーブジュネーブにおけるカルバンの仕事は、まず改革派としての教会を再組織することであったが、その礼典、儀式や讃美歌、祈祷(きとう)文などはすでにストラスブールの時代にできていた。また彼は、市当局から教会をきりはなし、長老会議が聖書の主旨にしたがって市民生活を監視し、指導することとした。長老とは信仰も日常の行ないもすぐれた市民のことである。カルバンは公式の地位にはつかなかったが、うしろから長老会議を動かしたことはいうまでもない。そしてはでな服装や身のまわり品は禁止され、娯楽や料理も制限され、書物の印刷には許可がいり、外国あての手紙は許されず、客は宿屋の主人に素姓をさぐられ、子供の名前にはイサク、アダムなど...7-9-4カルバン派の都ジュネーブ
NEKONOTE - 脱出ゲームアプリの制作をしています。ブログでは4コマ絵日記、webや日常に役立つ情報をまとめています。ゲーム制作/web制作/放送大学/英語学習
イランって、じつは核武装しようとしてるでしょ。イスラム教の開祖のムハンマド(マホメット)は、どう考えてるのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『中東で何が起こっているのか』──公開霊言ムハンマド・アリー・サラディン(幸福の科学出版)で、そのムハンマド(マホメット)の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。立場を変えれば意見が違うのは分かるけれども、戦後、それまで、ありもしなかった国を建てたわけだよ。「第二次大戦で、ユダヤ民族がドイツでひどい目に遭ったから、アラブの世界のなかに、千九百年ぶりに国を建ててやる」というシオニズム運動は、チャーチルとか、そんな人たちが考えてやったことだけれども、自分の庭のなかに他人が家を建てたら、普通は怒るからね。だから、われわれが怒っ...イランの核武装って?
BBCで面白い記事を見つけました。 何千年もの前の人骨の歯垢や歯石から、ウイルスや菌のDNAを採取、何に感染していたか、何の病気で亡くなったか新たな事実がわか…
大英帝国の繁栄とフランスの変遷 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・イギリスは経済繁栄とともに自由主義的改革を推進・政権がめまぐるしく変わるフランスで資本家が成長・植民地をめぐ
先日、レンタルのDVD(ブルーレイも)を選んでいて『すずめの戸締り』が新作の棚に並ぶのを見つけて… あれ? これ、まだ映画館で公開されたばかりの?実は最近の私、もう映画館で観るのは体質的に辛くなってきた昨今なので…DVDを借りて自宅で観れるのなら、観てみたい作品だった。映画『すずめの戸締り』公式サイト (これから観るのを楽しみな方には、以下の文はネタバレ?注意を🙇)ああ、ファンタジーなのかな?ちょっと、日本...
おはようございます。警備員のおっさん、やぶりんです(´・ω・`) 歴史能力検定5級・4級に出願しました( ゚Д゚)入門・基本ということなので、特に勉強しないで…
世界史で、宗教改革って勉強したけど、それをなし遂げたルターって、どんな人だったのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『公開霊言ルターの語る「新しき宗教改革のビジョン」』(幸福の科学出版)のまえがきで、こう説いておられます。一般にルターと言えば、激しくも情熱的で、ドイツを代表する宗教改革者といったイメージであろう。そしてローマ・カトリックの総本山バチカンからは、頑固で偏屈で、悪魔の如き男だと思われていたことだろう。だが実際のルターは、繊細で、神経質で、学者的な気質を持っていたと思われる。現実には、歴史的にみると、ルターの働きが、地中海圏のキリスト教文明に対抗する、北方ヨーロッパの強国化につながっていったように思う。宗教戦争ではたくさんの血も流れた。巨富を集めて建てたサン・...ルターって?
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年8ヒューマニストの運命1日本にいたエラスムス栃木県の西南、佐野市上羽田(旧足利郡吾妻村)にある竜江院(りゅうこういん、禅宗)の山門をくぐると、左手に小さな観音堂がある。この観音堂に江戸時代の初期から大正時代の末期まで、観音さまとともに「貨狄(かてき)さま」と呼ばれる木像が安置されていたが、それは高さ一メートルばかり、大黒帽に似た頭巾をつけ、右手に開いた巻き物を持った立像である。この「かてき」については、カテキスム(カトリック教の教理を問答体で書いたもの)、またカテキスタ(信者と教理問答を行う役僧)から出たとか、あるいは中国で大むかしにはじめて舟を作ったと伝えられる人のことだとか、いろいろと解釈されている。この木像の存在が日本でも注目を集めはじめたころ、そ...7-8-1日本にいたエラスムス
人類の歴史って、ほんとは光の天使や光の菩薩、如来が活躍してきた歴史だって、ちょっと聞いたんだけど、ほんとなの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、たとえば、こう教えておられます。プラトンは、ギリシャに生まれた偉大な光の大指導霊であり、本来、八次元如来界の高級霊なのです。師のソクラテスがそうであったように、プラトンもまた、生きながらにして光子体離脱(幽体離脱)をし、何度も天上界に足を運んで、その様子を実際に見聞しております。(中略)ソクラテスやプラトンたちは、来るべき西欧文明が、知性に彩られた文明になることを見越して、理知的に真理を説いたのです。(中略)ソクラテスは、紀元前五世紀の人です。インドでは釈迦が、中国では孔子が、活躍していた時代とほぼ同...人類の歴史ってどうなってるの?
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年7マルティン・ルターの場合5神の前での平等ルターは「大農民戦争」のさなか、一五二五年五月、四十二歳で結婚した。妻は尼僧で二十六歳のカタリナ・フォン・ポーラといった。ルターは『貴族に与うる書』のなかで、つぎのように書いている。「聖書によれば僧侶はりっぱな人物で学問があり、一人の女の夫であるべきなのだが、キリスト教がローマ時代、権力者に圧迫され、そのため勇気が必要だったために、結婚しないという決心をする僧侶がたくさん出た。ところが教皇は、このすぐれた人びとにとって自発的な意志であったものを、一つの規則として僧侶すべてに強制した。それは教会の財産を、ローマ教会に全部結びつけることに役立った」と書いた。僧侶のなかには「めかけ」をもつ者もいたが、恋愛をし子供ができ...7-7-5神の前での平等
アラン模様をプリント?生地に思う&【読書】トーラーの名において📖
まず読書の話題から…何故? と疑問に思う歴史の謎は、追求してみたくなるもので…特に、ヨーロッパ(ユーラシア大陸➕欧米?)の歴史が、こんなにも複雑に入り組んでるとは! …とビックリした、前回の 「命のヴィザ」言説の虚構: リトアニアのユダヤ難民に何があったのか? 菅野賢治 /感想・レビュー-読書メーター 著者:菅野賢治氏 の今度は 海外の本の翻訳ですが、イスラエルと言う国家の成立の複雑さは以前から気になってい...