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『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年8ヒューマニストの運命1日本にいたエラスムス栃木県の西南、佐野市上羽田(旧足利郡吾妻村)にある竜江院(りゅうこういん、禅宗)の山門をくぐると、左手に小さな観音堂がある。この観音堂に江戸時代の初期から大正時代の末期まで、観音さまとともに「貨狄(かてき)さま」と呼ばれる木像が安置されていたが、それは高さ一メートルばかり、大黒帽に似た頭巾をつけ、右手に開いた巻き物を持った立像である。この「かてき」については、カテキスム(カトリック教の教理を問答体で書いたもの)、またカテキスタ(信者と教理問答を行う役僧)から出たとか、あるいは中国で大むかしにはじめて舟を作ったと伝えられる人のことだとか、いろいろと解釈されている。この木像の存在が日本でも注目を集めはじめたころ、そ...7-8-1日本にいたエラスムス
人類の歴史って、ほんとは光の天使や光の菩薩、如来が活躍してきた歴史だって、ちょっと聞いたんだけど、ほんとなの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『黄金の法』(幸福の科学出版)で、たとえば、こう教えておられます。プラトンは、ギリシャに生まれた偉大な光の大指導霊であり、本来、八次元如来界の高級霊なのです。師のソクラテスがそうであったように、プラトンもまた、生きながらにして光子体離脱(幽体離脱)をし、何度も天上界に足を運んで、その様子を実際に見聞しております。(中略)ソクラテスやプラトンたちは、来るべき西欧文明が、知性に彩られた文明になることを見越して、理知的に真理を説いたのです。(中略)ソクラテスは、紀元前五世紀の人です。インドでは釈迦が、中国では孔子が、活躍していた時代とほぼ同...人類の歴史ってどうなってるの?
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年7マルティン・ルターの場合5神の前での平等ルターは「大農民戦争」のさなか、一五二五年五月、四十二歳で結婚した。妻は尼僧で二十六歳のカタリナ・フォン・ポーラといった。ルターは『貴族に与うる書』のなかで、つぎのように書いている。「聖書によれば僧侶はりっぱな人物で学問があり、一人の女の夫であるべきなのだが、キリスト教がローマ時代、権力者に圧迫され、そのため勇気が必要だったために、結婚しないという決心をする僧侶がたくさん出た。ところが教皇は、このすぐれた人びとにとって自発的な意志であったものを、一つの規則として僧侶すべてに強制した。それは教会の財産を、ローマ教会に全部結びつけることに役立った」と書いた。僧侶のなかには「めかけ」をもつ者もいたが、恋愛をし子供ができ...7-7-5神の前での平等
アラン模様をプリント?生地に思う&【読書】トーラーの名において📖
まず読書の話題から…何故? と疑問に思う歴史の謎は、追求してみたくなるもので…特に、ヨーロッパ(ユーラシア大陸➕欧米?)の歴史が、こんなにも複雑に入り組んでるとは! …とビックリした、前回の 「命のヴィザ」言説の虚構: リトアニアのユダヤ難民に何があったのか? 菅野賢治 /感想・レビュー-読書メーター 著者:菅野賢治氏 の今度は 海外の本の翻訳ですが、イスラエルと言う国家の成立の複雑さは以前から気になってい...
・ナポレオンの戦争後の国際秩序、ウィーン体制が確立・七月革命を皮切りに各地で反乱が勃発し弾圧される・二月革命、
朝の気温が、やっと熱帯夜から抜け出て今朝は長袖を着ないと寒いぐらいの夜明けでした。さぁ、これでやっと毛糸の編み物も!…と思い、あれこれ編み物本を眺めているところ… (『エストニアの手編みこもの』の表紙の笑顔が、大好きで😊) ↑その前に図書館で見かけた「リトアニア」という国名に目が止まって、読み始めた本なのですが……… どこで目にしたんだったかな? と探したら、林ことみ さん の 『おしゃべりKnit』の中に...
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年5斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――5ローマの掠奪(りゃくだつ)軍事的であるという点で非難されたユリウス二世は、その剛毅果断な性格をもって、聖職売買のような悪習を禁じ、腐敗堕落を正した。そしてミケランジェロにシスティナ礼拝堂の天井画を描かせ、ブラマンテにイタリア・ルネサンス最大の記念物、聖ピエトロ寺院の改築を行なわせ、ラファエロにバティカン宮の壁を飾らせたのも、この気宇(きう)雄大な教皇であった。ユリウス二世のあとをついだのは「豪華王」ロレンツォの次男で、ピエロの弟にあたるメディチ家のジョバンニ(一四七五~一五二一)であり、一五二二年教皇レオ十世となった。彼は政治的野心においても、文化の保護においても、アレクサンデル六世やユリウス二世...7-5-5ローマの掠奪
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル2西夏へ、金へ「チンギス汗の名声をきいて、我らはおそれていた。いま、威霊(みいつ)ある汝が、みずからここまで来られて、威霊をおそれた。おそれて、我らタングートの民(西夏)は、汝の右の手となって力を添えよう。しかし、我らは動かぬ住地ある(定住の)、築いた城あるものである。伴(とも)となっても、すばやい出征におもむくとき、するどい戦いをたたかうとき、追いつくことはできぬ。たたかうことはできぬ。チンギス汗よ、恩賜あれば、我らタングートの民は、たくさんのラクダを出して、たてまつろう。毛の糸を織りなして、反物(たんもの)としてたてまつろう。鷹(たか)狩りの鷹をならして、あつめて、そのなかの良いものをささげることにしよう。」西夏とて、過去二百年余りも強...6-10-2西夏へ、金へ
英雄ナポレオンの栄光と挫折 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・ナポレオンのクーデターによりフランス革命が終結・ナポレオンは領土を広げ、内政でも手腕を発揮し皇帝に・ロシア遠
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年5斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――1一修道僧の怒りフィレンツェの繁栄は、思えばこのロレンツォの時代を絶頂としていた。彼の治世の晩年、奢侈(しゃし)、悦楽(えつらく)のフィレンツェのただなかにおいて、激烈な言葉で神を説き、終末の日、裁きの日が近いことを警告するひとりの修道僧があらわれたのだ。彼、ジロラモ・サボナローラは一四五二年、フェラーラの平凡な中流階級の家庭に生まれ、周囲は医学の道に進ませようとしたが、彼は孤独を愛して、世俗的生活をきらい、二十二歳のとき、ドメニコ派のある修道院にはいってしまった。「私を教団に走らせたものは、この世のみじめさ、堕落、人びとの愚劣である」と、彼は父母への別れの手紙に書いたという。それから修道僧として修...7-5-1一修道僧の怒り
第二次大戦からもう80年近いと思うんだけど、当時の戦勝国側には、もう崩壊しちゃったソ連も入ってたでしょ。その指導者だったスターリンって、いまどうしてるのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『赤い皇帝スターリンの霊言』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。世界が再びキナ臭くなってきた。覇権戦争が近づいている予感がする。今、旧ソ連の赤い皇帝スターリンの霊言を公開することに一体いかなる意味があるか。一つの答えは、一九四五年のヤルタ会談で、ルーズベルト、スターリン、チャーチルが戦後体制のあり方を決めたが、連合国の論理が完全なる正義であるという神話が崩れるということだ。そのうちの少なくとも一人が「悪魔」ということであるならば。さらに、大東亜戦争で日本が敗れる...スターリンって?
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年4フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――4「豪華王」ロレンツォ理想化されたコジモの孫のロレンツォ「豪華王」コジモの子ピエロ(一四一六~六九)は痛風を病みながらも、五年のあいだ、メディチ家の勢威を守った。彼は病気のため公の場所に出ず家にひきこもりがちで、多くの歴史家の評価はさえないが、金融家として蓄財に努力し、外には平和政策をとるとともに、熱心な文芸保護者でもあった。この点、彼が長生きしていたならば、父にまけない文芸のパトロンになったかもしれない。そしてピエロの妻、才媛ルクレティアはみずから詩作し、学芸に対する理解も深く、夫によく協力した。なおピエロの弟ジョバンニ(一四二四~六三)も魅力あふれた人物で、才能にも恵まれていたが、一四六三年父...7-4-4「豪華王」ロレンツォ
7-4-1 フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年4フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――1水難の都昭和四十一(一九六六)年十一月、イタリアの都市、人口五十万のフィレンツェは思いがけない災難によって、遠く離れた日本人の関心をひいた。それは十一月四日の暴風雨で、「千年に一度」といわれる集中豪雨がイタリア中・北部をおそい、多数の犠牲者を出したが、とくに被害がひどかったトスカナ地方のフィレンツェ市では、アルノ川の氾濫によって大洪水が起こったのだ。この水害はイタリアの三分の一におよんだが、そのなかでとくにフィレンツェが大きく取りあげられたのは、被害の中心地だったこともあるが、またこの都市がイタリア・ルネサンスの面影をこんにちに残し、「生きている美術館」であり、「かけがえのない宝石」といわれてい...7-4-1フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
おはようございます日々変わっていく世界情勢ニュースで北朝鮮のこと取り上げていてそこから子どもと今後の世界情勢みたいなこと語り合いましたといっても知識の乏しい私…
一応、映画・ドラマ、書籍、漫画コミック、アニメなどのエンタメの備忘録として始めたこのブログですが、映画しか書いてない。「たまにはこういうのも書かないとな…
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年3大航海時代5銀と香料コンキスタドレスには、自分の生命をも粗末にした者が多かった。彼らはスペイン中南米植民地初期の政治、軍事未分化の状態の産物であった。その後の中南米社会の主役は、カトリック教会の僧侶に肩がわりされる。ヨーロッパでとかく保守的反動的な役割を果たした僧侶たちも、中南米では積極的な社会建設の役割を果たすのである。このあいたにスペインの植民地経営方式は、コロンブス流の分配方式から委託方式というのに変わった。一五二一年からスペイン王が、原住民の保護を条件に、スペイン人領主に土地と住民を委託するということである。一五一七年からは黒人奴隷の輸入が、ネーデルラントの業者の請負として許可された。この権利は後に持ち主がジェノバ人に変わり、十八世紀はじめには...7-3-5銀と香料
・ルイ14世のもと絶対王政が最盛期を迎える・アンシャン=レジームへの不満が高まり、革命が勃発・共和政が成立し、
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年3大航海時代3マジェランの世界一周ポルトガル王家が新領土の保証を、絶えずローマ教皇に求めていたことは前に書いた。一四八八年バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見した。その帰路は海岸づたいではなく、北北西にアフリカ大陸後頭部に直航している。もはや大西洋はポルトガルにとって、使いやすい海となりつつあった。さらにアフリカ東岸のようすも、陸路の調査とディアスの航海でだいたい見当がついていた。あとは船の改良など準備をととのえて、アフリカ東岸とインドへの航海に出かければよいと思っているところへ、降ってわいたコロンブスの「インド発見」のショックである。コロンブスの新世界は一四九三年、教皇アレクサンデル六世によってスペイン領とみとめられた。どんな認めかたかというと、地球の...7-3-3マジェランの世界一周
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年2航海王という名の王子――ポルトガル夜話――2セウタ(イスラム海賊の本拠地)攻略エンリケの父ジュアン一世の政治家としての立場は、はじめけっして楽でなかった。彼は王族とはいえ、妾腹でポルトガルの大貴族たちからは内心軽んじられていた。王室財政は戦争のため極度に悪化しており、ごたぶんにもれず、貨幣改鋳による利益に頼らねばならなかった。リスボンの繁栄はめざましく、商人たちはたしかに新しい王家を支持していたが、封建領主としての王家は商人から上手に多くの税を吸い上げる習慣がなかった。もともと封建領主は地主であり、農業から収入をあげるのがたてまえである。しかしたとえば一三四五年王家が発見したカナリア諸島の場合、これはジェノバ商人への課税という独占的利益をもたらした。ジ...7-2-2セウタ(イスラム海賊の本拠地)攻略
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年2航海王という名の王子――ポルトガル夜話――3騎士団長エンリケ王子はこの遠征でアフリカと深く結びつけられた。セウタの占領は多くの無理をしながらつづけられ、一四一八年と三七年には、エンリケみずから遠往軍を指揮しなくてはならなかった。西アフリカがある程度までしかイスラム化されておらず、キリスト教布教の可能性があるという事実がしだいに判明した。またセウタ確保の費用をひねり出すことにも、新しい富を求めて探検を開始する理由があった。エンリケは一つには王室の一員として、一つには「キリスト騎士団長」としての立場から、その役目を果たしたのであるが、この団長の地位は、コンスタンツ公会議できまった統一教皇マルティヌス五世(在位一四一七~三一)から認可されたものである。ところ...7-2-3騎士団長
~○○会なんて新潟県教育界のガンだ、やめます~ 「何をバカ言ってんだ。校長に話をしろ」・・・勤務校の教頭から浴びせられた強烈な一言です。僕が「やめます」と言った理由は、次の事実によるものです。 まだ週休二日制が実施されていなかった頃、土曜日も半日勤務で3時間の授業がありました。午後は全校の大半の生徒が元気よく部活動をしていました。 その午後に○○会は堂々と飲み会を開くというのです。多くの生徒が活動中で...
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年2航海王という名の王子――ポルトガル夜話――1イギリスの血(写真:エンリケ航海王子。ロカ岬のこの像には「ここに地終わり、海始まる」と刻まれている)ポルトガルの「ヘンリー航海王」というひとが、コロンブスやバスコ・ダ・ガマの先輩として航海事業に手をつけた。ヘンリー航海王は英語のヘンリー・ザ・ナビゲーターの邦訳。直訳なら「航海者」であって、けっして「王さま」ではない。英語からの邦訳者は「第一人者」の意味で、こうしたのであろう。ヘンリー(ここでは以下、ポルトガル名エンリケを使用する)は王子として、一三九四年から一四六〇年まで生きた。日本では足利義満の時代から、太田道灌が江戸城をつくったころまでにあたり、日明(にちみん)貿易と倭寇(わこう)の時代にもあたっている。...航海王という名の王子――ポルトガル夜話――
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年1「カンタベリー物語」の世界5女性論一方、『カンタベリー物語』における色欲のとりあつかい、それにともなう女性への不信、結婚生活への皮肉は有名である。この点では、ダンテの『神曲』に対して『人曲』といわれ、人間の赤裸々な描写でイタリア・ルネサンス文学を代表するボッカチオの『デカメロン』(『十日物語』、十四世紀中ごろの作)と、『カンタベリー物語』はよく似ている。(ただし、この両者の関係の有無については議論が多い)女の忠言は多くの男の身をあやまらせるとか、女性は秘密をかくしえないから、自分の妻にもそれをうちあけるべきではないとか、女は魔性でその性は悪であるとか、いろいろ示されているが、とくに妻の不貞にあざむかれている夫へあびせる笑いは、『カンタベリー物語』にもよ...7-1-5女性論
空腹にさせれば、狂ったように血を吸う…! 〜ペストの恐ろしさ
「ペスト」という病名を知っているひとは多いと思います。特に14世紀から15世紀にかけてヨーロッパで大流行し、「黒死病」と呼ばれました。地域によっては人口の1/3くらいが命を落としたと言われます。後世まで恐れられたペストですが、文化にも影響しました。死と生がごく身近となり、生...
議会政治を確立したイギリス革命 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・エリザベス1世が即位し絶対王政の絶頂期に・ピューリタン革命で台頭したクロムウェルが独裁開始・名誉革命により議
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者1星の王様一方が相手を「混血児(あいのこ)」とけなせば、もう一方は相手を「匪賊(ひぞく)」とさげすむ。そのどちらもチンギス汗の子孫なのであった。チャガタイ汗国の王者たちなのであった。チャガタイ汗国は、チンギス汗の次子チャガタイを始祖として、中央アジアの大部分を支配してきた。それが十四世紀になると、パミール高原をはさんで、東西に分裂する(一三二一)。東チャガタイでは、自分たちこそモンゴルの後裔(こうえい)、モグール人だと主張し、イスラム文化の洗礼をうけた西の人たちを「混血児」とよんだ。西チャガタイでは、我らこそチャガタイの正統だと袮して、遊牧民の伝統をたもつ東の人々を「匪賊」とよんだのであった。こうした東西の対立と抗争によって、やがて西チャガ...6-13-1内陸の王者
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者3宮廷のヨーロッパ人ティムールが中国への遠征に旅立つすこし前、その宮廷には一人のドイツ人と、一つの使節団の姿があった。ドイツ人とは、ババリア(バイエルン)の兵士ヨハン・ソルトペルゲルであり、使節団とはエスパニア王(正しくは、カスティリァ・レオン王)エンリケ三世からつかねされた騎士ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホを団長とするものであった。シルトペルゲルは、ハンガリー王のひきいる十字軍に加わり、オスマン帝国の「稲妻王」バヤジット一世の軍隊と戦って捕虜になった(一三九六)。ところがアンカラの戦(一四〇二)で、今度はティムール軍に捕えられ、サマルカンドに連行される。そしてティムールの死後、キプチャク汗国につれ去られたが、一四二七年に釈放され、ようやく...6-13-3宮廷のヨーロッパ人
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者4世界の首都クラビホの報告のうち、ティムールの手によるサマルカンドの町造りを述べたところは、とくに注目をひくものがある。「サマルカンド地方では商業が非常にさかんだったので、毎年この町には、シナやインドやタタール、そのほか各地から、あらゆる種類の商品が、たくさん移入されていた。しかしいままでこれらの品物を置き、陳列するのに適当た場所というのが、この町にはなかったのである。そこでティムールがこのたび命じたのは、両側にあらゆる種類の品を売る商店をならべた通りを一本、サマルカンドを貫通するように建設することだった。……職人は、監督が必要とするだけ集められ、こと欠くことはなかった。ひるま働いたものは夜になると帰り、かわって同じだけの人数のものが夜どお...6-13-4世界の首都
海外交易を制した覇権国家の移り変わり 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・ポルトガル・スペインが大航海時代をけん引・中継貿易で栄えたオランダが経済の中心に・いち早く産業革命を迎えたイ
今日のタイトルは「勉強したい!」 ・・・どうです?偉くないですか?? とか自分で言ってるんじゃない。まったく。 さて、茶番は早々に切り上げて、本題に入りたいと思います。 時々思う
「なぜ〜か?」という形式で、世界史上の転換点となった事件の理由を探る書です。人類誕生からウクライナ・ロシア対立のような最新の事項まで、55項を取り上げています。 すべての項目で歴史上の国の位置など地理的は配置も添えてあり、世界史地図として理解を助けます。内容としては基礎的...
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配5ラマ僧の権威元朝はモンゴル人の天下である。いかに色目人が重用せられたからといって、それはモンゴル人の補佐たる役割のものであった。サンガのように、色目人であって宰相につぐ地位にのぼった者もあるが、それは特例にすぎなかった。中央と地方とを問わず、長官たる地位を占めたのは、やはりモンゴル人であった。社会生活においても、モンゴル人は特権をもっていた。たとえば「モンゴル人と漢人とが争って、(モンゴル人が)漢人をなぐっても、漢人は報復することはできない。役人に訴えることをゆるす。」――これは法令として、正式に布告されたものなのである。中国人がモンゴル人(色目人を含む)を殺せば、もちろん死刑である。その上に、犯人の遺族は埋葬金をおさめねばならなかった。...6-12-5ラマ僧の権威
【世界の地政学】19世紀初頭のナポレオンの台頭と大英帝国の拡大
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絶対王政とハプスブルク家 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・国王が全権を握る「絶対王政」のはじまり・フランス王家とハプスブルク家が対立・両家の対立が近世ヨーロッパの国際
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配1ベニスの商人ちょうどフビライが即位したころのことである(一二六〇頃)。キプチャク汗のベルケ(バツの子)はめずらしい客人を引見していた。ベニスの商人で、ニコロ・ポーロとマッフェオ・ポーロの兄弟であった。二人は一二五三年にベニスを発し、商売のためにコンスタンティノープルにおもむいた。そこに六年ほど滞在し、それからモンゴル人と取引しようと思いたって、キプチャク汗国まで出むいてきたのであった。ボーロ兄弟は、ペルケに宝石を贈り、その二倍の値段にあたる品物を受けとった。取引は大もうけであった。勇(いさ)んでベニスに帰ろうとしたところ、イル汗国のプラグとベルケとのあいだに戦争がはじまった。南西への道は危険となる。帰りたくとも帰れない。そこで東方へむかっ...6-12-1元朝の支配
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配2カトリック伝道ポーロ一家がまだ中国にいた一二八九年、イタリアを出発して東方へむかった宣教師があった。これこそローマ教皇(ニコラウス四世)の命令をうけたジュアン・ド・モンテ・コルビノの一行であった。インドおよび中国(モンゴルを含む)にカトリックを伝道することが、その使命であった。ヨーロッパからモンゴルに宣教師がおもむくことは、これが初めてではない。すでに一二四六年、プラノ・カルピニはローマ教皇の使節として、モンゴルにおもむいた。そして時の大汗グユクに謁見し、教皇からの書簡をわたした。一二五四年には、フランク王(ルイ九世)の使節として、ギョーム・ド・ルブルクがつかわされ、大汗モンゲに謁見している。これらの使節は、キリスト教を伝道するという目的...6-12-2カトリック伝道
一気読み世界史 出口浩明|感想・レビュー 世界史嫌いが読んだ
世界史に苦手科目であった私が「一気読み世界史」を読みました。タイトル通りに人類誕生から現在までを一気に西洋史・中国史・日本・アフリカ・アメリカの歴史が書かれています。学校では、地域を分けて学習しますが、時間の流れは世界共通。人の流れは地域の区切りなど関係ありません。ただ時系列に歴史を書いた本となっています。
【twitter読書日記】「もし世界が一つのクラスだったら 神野正史 文響社」
【Twitter読書日記】 今回は「もしも世界が1つのクラスだったら (上) 日本開国編 世界史と日本史の教養が知識ゼロから身につく 神野正史 文響社 」 です。
ルターによる宗教改革と宗教戦争 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・ルターが教皇の贖宥状(免罪符)乱売を批判し、宗教改革を開始・影響を受けたカルヴァンがスイスで宗教改革を実行・
あの「項羽と劉邦」の劉邦って、まだわかんないんだけど、どういう人だったの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『項羽と劉邦の霊言劉邦編――天下統一の秘術』(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように説いておられます。劉邦は、政治家でいえば、リチャード・ニクソンや田中角栄的な人間通でありながら、最後まで失脚しない「完成の学」を知っている。愛され、嫌われ、怖れられながらも、スケールの大きな仕事をやってのける人である。創業の学と帝王学の双方を体現した、役者のようなリーダーだと言ってもよかろう。そう簡単にまねることはできないが、学ぶことの多い人である。人材登用、活用のうまさは、舌を巻くほどだ。経営者や、いずれ大きな組織のリーダーになることを目指している人は、『項羽編』『劉邦編』二書は神の...劉邦って?(その2)
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島5反逆と抵抗井上靖の『風涛(ふうとう)』は、モンゴルの圧力の前に、高麗の人々がいかに苦しんだか、その間の動きを克明につづったものである。小説のかたちをとっているけれども、正確な記録にもとづき、史実に即して、えがかれている。ともあれ高麗は、フビライが日本に目をむけたことによって、ふたたび受難の時代をむかえたのであった。フビライの詔書をみると、当然のことながら、みずから「大蒙古国皇帝」と袮し、日本の君主は一段ひくく「日本国王」とよんでいる。それだけでも日本が、モンゴルの申しいれを拒絶することは、明らかであった。かねてから日本の天皇は、中国の皇帝にむかって対等の礼をとろうとしてきたし、高麗の国王にむかっては朝貢の礼をもとめてきた。その日本が、...6-11-5反逆と抵抗
ルネサンス キリスト教会からの解放 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・地中海貿易で利益を得てイタリア諸都市が起こる・自由を求める文化運動ルネサンスがイタリアで開花・教皇や国王に保
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島3侵略の災禍モンゴルの侵略は、オゴタイからグユクヘ、さらにモンゲの代にいたるまで、やむことなくつづけられた。モンゴル兵のゆくところ、民家は焼かれ、家財はうばわれた。逃げおくれた者は殺され、捕えられた。「鶏犬一空」――ニワトリもイヌも、まったくいなくなる――――という村も少なくなかった。一二三四年における侵攻にあたっては「とらえられた男女は、無慮(むりょ)二十万六千八百余人、殺された者は数えるこどもできない、(モンゴル兵が)過ぎたところの州郡は、みな灰塵(はいじん)となった」と伝えられている。それからのちも、モンゴル軍には秋にたると押しよせてきた。田畑のみのりを刈りつくし、てむかう者はことごとく殺した。人民にとっては、何の手だてもない。モ...6-11-3侵略の災禍
世界を変えた 大航海時代 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・オスマン帝国の東地中海進出で東方貿易の不安が拡大・航海術の発達でスペインとポルトガルが新航路を発見・新大陸ア
Chapter 2: The Time When the United States Moved - The Ambition of Prince Henry the Navigator
Prince Henry the Navigator ascended to the position of Duke of Viseu due to his achievements in the conquest of Ceuta. It is said that he heard the legend of Prester John in Ceuta. Prester John is believed to be the king of a legendary Christian nation that exists in the East or Africa. There were p…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島2内憂と外冦そもそも半島に「高麗」が建国したのは、十世紀のはじめ(九一八)のことであった。それまで二百年ちかくにわたって統一国家を維持してきた新羅も、九世紀には国勢がおとろえる。国内のあちこちに一揆がおこり、反乱があいつぎ、これに乗じて各地の有力者が立ちあがった。半島は騒乱のちまたとなり、北部に、また西部に、新しい国が建てられた。九世紀の末、すでに新羅は、半島の南部のみをたもつ小国にすぎなかった。動乱のなかから、ひとりの英傑があらわれた。王建(おうけん)である。国を建てて高麗と号し、しだいに勢力をひろげた。ついに新羅王も、これに降伏する(九三五)。半島の統一が完成したのは、その翌年であった(九三六)。高麗は、その内政をととのえるとともに...6-11-2内憂と外冦
The moment the United States moved 1: In 1415, Prince Henry the Navigator conquered Ceuta.
In 1415, Henry, the son of King John I of Portugal, conquered the city of Ceuta at the northwest tip of Africa. Ceuta is a city located on the opposite shore of the Strait of Gibraltar from the European side. Ceuta is a city built by the Phoenicians in the 7th century BC, and after that, it was unde…
IKEA、H&M、ボルボ、Nokia、LEGO…これらは全部北欧で生まれた企業です。近年の北欧ブームで、北欧の歴史を知りたいという方も多いはず。大学で北欧を専攻する私が、北欧の歴史を簡単に解説します!
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル8グユクとモンゲつぎの大汗としてオゴタイが期待していたのは、孫にあたるシラムンと、そしてモンゲであった。しかしオゴタイの死後は、その皇后(ドレゲネ)が監国(かんこく)となって、政務をみる。彼女にとってみれば、みずからの子であるグユクを位につけたがった。(グユク中華ドラマ「フビライ・ハン」より)もちろん、それにはクリルタイをひらいて、承認してもらわねばならない。ところがグユクはかねてからバツと仲たがいしていた。したがってバツは、グユクを大汗に推すことには、まっこうから反対している。クリルタイをひらこうとしても、ロシアにとどまっていて、出席しようとはしない。むなしく二年、三年とすぎていった。バツは、ヨーロッパへの遠征を中止したものの、そのままロ...6-10-8グユクとモンゲ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル5巨星は落ちたチンギス汗は、大西征のつ彼をいやすひまもなく、早くも同じ年(一二二五)の秋には、つぎの遠征に出陣した。さきに命令にそむいた西夏の国を討伐するためのものであった。そして西夏の征服は、金の帝国を完全に屈服させるためにも、必要と考えられたからである。しかし不世出の英雄も、すでに六十歳をこえていた(年齢には数説あり)。その年の冬には、狩猟のさなかに落馬して傷を負った。左右の人たちはカンの身を案じて、ひとまず撤退することにきめたが、チンギス汗は承知しなかった。あくまでも軍を進めることを命じたのである。攻撃はつづけられた。一二三六年から翌年にかけて、モンゴル軍は、西夏のはげしい抵抗をやぶりながら、やがて国都の興慶をかこんだ。軍の進むところ...6-10-5巨星は落ちた