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アルテンのスペイン兵が、連合軍右翼に到着する前にゴディノが、アルブエラを奪取し、連合軍の反対の側面も、フランス軍に晒されることとなった。 コールは、ベレスフ…
#718 レビュー 『第8回 帝国の解体 ティムールとルネサンスへ』-3か月でマスターする世界
14世紀の危機で解体したモンゴル帝国のその後の影響を描く『第8回 帝国の解体 ティムールとルネサンスへ - 3か月でマスターする世界史 - NHK』についてモ…
ムー大陸とか、アトランティス大陸って、マンガやSF小説なんかでよく見るんだけど、本当にあったのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学の十大原理(上巻)──エル・カンターレ「教えの原点」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。今から一万五千年あまり昔のことです。現在の日本を真南に下った所に、ジャカルタという都市のある島(インドネシアのジャワ島)がありますが、この島は、実は今から一万五千年ほど昔まであった大きな大陸の中心地でした。この大陸のことを「ムー大陸」といいます。そして、この大陸に栄えていた国のことを「ムー帝国」といいます。今から一万五千数百年前でしょうか、この大きな大陸が没していったわけです。幸福の科学以外にも、神智学の書物など、さまざまな文献を通し...ムー大陸やアトランティス大陸って?
狭い縦隊の正面及び、側面に射撃で、圧力を加えられるため、通常は、連合軍の横隊とフランス軍縦隊の戦闘では、横隊のより、大きな火力が、決定的要素となった。 しか…
『アメリカの中学生が学んでいる14歳からの世界史 』をアメリカで読む
この記事では、アメリカの中学校で習う世界史がまとまっている『アメリカの中学生が学んでいる14歳からの世界史』シリーズごと、『Everything You Need to Ace World History in One Big Fat Notebook』をご紹介しています。
イギリス軍の右翼は、フランス軍と射撃戦を続けていたが、銃剣を付けて、突撃した。 ホートンの旅団が、戦場に降る、視界を遮る、雹と雨へ向かって移動したので、両軍…
#698 レビュー 『第6回 モンゴルの拡大 東西の統一』-3か月でマスターする世界
第6回『第6回 モンゴル拡大 東西の統一 - 3か月でマスターする世界史 - NHK』について遊牧国家の歴史、中華王朝を組みわせた大帝国のモンゴルのその拡大方…
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年4イギリスの王政復古から名誉革命へ2ドーバーの密約一六六〇年、チャールズ二世はクロンウェルの航海法を更新、拡充した。当時はロンドンの実業界ばかりでなく、宮廷も貿易には熱心で、親王、大臣や上流社会のめんめんが貿易会社に出資した。たとえば王の弟で、海軍総司令官であったヨーク公ジェームズ(一六三三~一七〇一)が、王立アフリカ会社の初代総裁となり、東インド会社の株を買っている。一六六四年、イギリスはアフリカ西岸のオランダの根拠地を占領し、アメリカ大陸でもニュー・ネーデルラントをとって、ニュー・アムステルダムをニュー・ヨークと改めた。戦争とペストに痛みつけられて、さらにロンドンに大火事が起ったそして、第二次イギリス・オランダ戦争(一六六五~一六六七)がおこったので...9-4-2ドーバーの密約
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年3イギリスのピューリタン革命9デ・ウィットの苦悩さて前述のように、一六四八年ウェストファリア条約で、オランダの独立も国際的に承認され、平和も回復された。しかし、ときの総督、オランイェ家のウィレム二世(在職一六四七~五〇)は、さらにスペインとの戦いをつづけようとしたが、これは、南のスペイン領ネーデルラントを支配しなければ、オランダは安全でないと考えたためである。これに反対したのは、商業上の利益を第一とし、平和を欲するアムステルダムをはじめとする、ホラント州の諸都市であった。そこでウィレム二世は一六五〇年、ホラント州の指導者六名を逮捕し、アムステルダムを夜間に急襲しようとした。アムステルダムに至る街道には、途中、何本かの道が交差した地点があり、迷いやすかった...9-3-9デ・ウィットの苦悩
アトランティス大陸だけじゃなくって、ムー大陸って名前も、よく聞くよね。ほんとにあったのかな。あったんだったら、いつ頃、どこになの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。ムーは、太平洋上に浮かぶ大陸でした。その出現自体は、ラムディア大陸よりも古く、いまから三十七万年前ごろ、海上に姿をあらわしました。それ以後、大陸の形は、さまぎまにかわりましたが、ラムディアの末期ごろには、現在のインドネシアあたりを中心にして、オーストラリアの二倍ぐらいの面積をもつ大陸でした。(中略)ラムディアの人々は、大きな帆船の大軍団を組み、いまから二万八千年ぐらい前から、ムー大陸の諸都市を植民地化しはじめました。(中略)植民都市ではあったとはいうものの、ム...ムー大陸って?
#694 レビュー 『第5回 多極の共存 遊牧国家と中華王朝』-3か月でマスターする世界史
『3か月でマスターする世界史 - NHK』の第5・6回は中国について中国の各王朝とその北と西に広がる遊牧民族・遊牧国家との関係を知る第5回(NHKの『第5回 …
スペイン軍のフラゲ将軍は、スペイン国王近衛隊の2個大隊を、険しい、傾斜の頂上に横隊にて、展開させると、残りの2個密集縦隊が、背後に就いた。 その全体を支援す…
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年3イギリスのピューリタン革命8オランダの繁栄一六四八年六月十日、オランダのパーク駐在ポルトガル大使は、本国に至急便を送った。それは、オランダ人がウェストファリアの条約成立のお祝いをしていることを報告するとともに、つぎのような文をしるしている。「ここでは講和は、本月五日午前十時、最高裁判所において、条約の条文を読みあげることによって公表された。この日、この時刻がえらばれたのは、八十年前、この日、この時刻に、エグモント伯とホルン伯とがブリュッセルにおいて処刑されたからである。国民は、二人が自由を擁護して倒れた同日同時刻を期して、自由の身になることを期待した。」ピューリタン革命がちようど高潮期にさしかかる一六四八年、ネーデルラントのオランダは独立戦争(一五六八...9-3-8オランダの繁栄
#683 レビュー 『第4回 イスラム拡大の秘密』-3か月でマスターする世界史
4月から始まった『3か月でマスターする世界史 - NHK』の「第4回 イスラム 拡大の秘密 - 3か月でマスターする世界史 - NHK」についてのレビュー日本…
つい先日、集英社の「学習まんが 世界の歴史」シリーズが22年ぶりにリニューアルされるというのがニュースになっていました。発売日は10月4日とのことです。 表紙の絵だけ見たらもう好きな漫画家さんだらけですっごい気になる…! kids.shueisha.co.jp 特にこれ↓とか 表紙/坂本眞一先生『イノサン』 これ↓とか 表紙/ヤマザキマリ先生『テルマエ・ロマエ』 なんかもう芸術。 あ、安定の荒木先生もいらっしゃいます。 やっぱり荒木先生と言えば馬よね! まあ中身は違う先生が描かれているのは日本の歴史シリーズで承知しておりますが。 折角のリニューアルのタイミングだし買いたいのはヤマヤマなんだけど…
~体罰・・・修学旅行で正座 スリッパはたき~ 「愛のムチ」という言葉で正当化されてしまった行為ではないでしょうか。 相手は僕が勤めていたB中学校の3年生。学級担任をしていた自分のクラスの男子生徒全員でした。20人ほどいたでしょうか。場所は修学旅行で宿泊していた京都の旅館。 時間は夜中の12時ごろです。大声で騒いでいる生徒たちを全員廊下に出して正座させました。そしてスリッパでパンパンと全員の頭をはた...
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年3イギリスのピューリタン革命4革命のプログラムネーズビーの決戦によって革命の第一幕がおわった。これとともに、まえから問題をはらんでいた議会派内部の対立が表面化してきた。エセックス伯やマンチェスター伯の指導する長老派とクロンウェルのひきいる独立派との対立である。この両党派の名前はエリザベス朝のピューリタンの宗派に由来するが、政治上の長老派、独立派は、宗教上のそれとぴったり一致するものではない。長老派は革命がこれ以上すすんで、社会秩序が崩壊することをおそれ、長老派の全国的な教会組織による上からの統制を維持して、革命を適当なところで停止させようとした。これに対し独立派は、長老派と分離派との中道を歩むとはいうものの、長老派とはまったく異なった性格をもち、革命をよ...9-3-4革命のプログラム
ベレスフォード将軍は、戦場にある、丘の反対斜面に部隊を配置した。 スールト元帥は、連合軍を視認できなかったため、ブラケの師団が昨夜到着したことに気付いていな…
#680 レビュー 『第3回 世界宗教 誕生の条件』-3か月でマスターする世界史
4月から始まった『3か月でマスターする世界史 - NHK』の「第3回 世界宗教 誕生の条件 - 3か月でマスターする世界史 - NHK」についてのレビュー世界…
ベレスフォード将軍は、ブラケ将軍、カスターニョス将軍に説得されると、スールトのフランス軍との決戦に挑むことを決断した。 イギリス・ポルトガル・スペインの連合…
#673 レビュー 『第2回 ローマもオリエント?』-3か月でマスターする世界史
4月から始まった『3か月でマスターする世界史 - NHK』の「第2回 ローマもオリエント? - 3か月でマスターする世界史 - NHK」についてのレビュー中国…
#670 レビュー 『第1回 古代文明のはじまりカギは”遊牧”』-3か月でマスターする世界史
4月から始まった『3か月でマスターする世界史 - NHK』の「第1回 古代文明のはじまり カギは“遊牧” - 3か月でマスターする世界史 - NHK」について…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】234.ホアキン・ブラケ将軍
ベレスフォード将軍は、ウェリントン公爵の指示に着実に従い、最終的には、5月4日、バダホスの包囲を開始した。 更に、イギリス・ポルトガル連合軍に、新たなスペイ…
昨日は、韓国で大型フェリーが沈没した事故から10年だったんだってね。あれって、やっぱりただの事故だったの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『広開土王の霊言朝鮮半島の危機と未来について』(幸福の科学出版)で、朝鮮・高句麗の王として有名な広開土王の言葉(「霊言」)を、インタビュー形式で次のように紹介しておられました。広開土王だけど、今、(韓国の)豪華客船が転覆したことで、急に「三流意識」が出てきて、反省の“あれ”が出てきつつある。「国際的に恥ずかしい」っていう感じが出てきてはいるんでしょう。強がりを言ってるのが、少し引っ込むところがあるんだろうから。(中略)まあ、本当は、(北朝鮮が)軍事演習をだいぶやってるからね。ミサイルは撃ってるし、原爆の実験みたいなのもやってるし、あとは、...韓国の客船事故って?
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年2ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー6サロンの客このフロンドの乱に関係した貴族のひとりに、ラ・ロシュフコー(一六一三~八〇)という人物があった。彼の家柄は父がフランソワ五世と袮するような、大貴族中の大貴族である。彼はこの父の死(一六五〇)まで、マルシャック公とよばれた。少年期のことはよくわからないが、公爵家の領地ベルツイユの城館でのびのびした、しかし孤独な日々をおくったらしい。まだ十四歳半くらいで、やはり名門の貴族の娘と結婚、八人の子供ができたが、この夫人についてはほとんど不明である。一方、彼は一六二八年から三六年ごろ、軍務に服するとともにルイ十三世の宮廷につかえている。この宮廷では、シュブリュース公妃らの反リシュリュー陰謀に加担して失敗し...9-2-6サロンの客
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年2ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー4フロンドの乱おこる話をフランスヘかえそう。三十年戦争の末期、大宰相リシュリューの死からおよそ半年、一六四三年五月ルイ十三世の死がつづいた。わずか四歳八ヵ月のルイ十四世(在位一六四三~一七一五)が即位し、スペイン王家の出で、王母のアンヌ・ド・トリッシュ(一六〇一~六六)が摂政となったが、リシュリューの後継者としては、枢機卿マザラン(一六〇二~六一)が登場していた。イタリア人で、フランスに帰化したマザランは、リシュリューに後継者と指名されながら、聖職者という点をべつとしては、まったく前任者とタイプがちがっていた。「鉄の爪」をもったというリシュリューに比して、マザランは顔つきも人ざわりもおだやかで、知恵才覚を...9-2-4フロンドの乱おこる
ベレスフォード将軍の前衛部隊が、東岸に取り残されたことは、破滅的に思われたが、バダホスの守備を指揮していた、ラトゥール=モブールは、連合軍と対峙するより、要…
モルティエ元帥のフランス軍は、3月14日の夜に、サン・ジョアン要塞を占領したが、カンポ・マイオルの要塞の攻略は、更に困難であった。 ホセ・タラージャ少佐の指…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】231.マッセナのポルトガル撤退
スールト元帥は、マッセナ元帥が、病気、飢餓、そして、尋常でない、冬に悩まされて、崩壊した、軍隊を率いて、ポルトガルから、退却したことを、学習していた。 その…
「小学生でもわかる世界史」朝日新聞出版YouTubeで非常に有名な「ぴよぴーよ速報」がとうとう本になりました。世界史を異様に軽妙な語り口かつ、ナメたような調子…
スールト元帥は、フランスのナポレオンから、マッセナ元帥への援軍要請を受けたが、ナポレオンの命令は、古い情報に基づいていたため、小部隊を送るのみとの命令であっ…
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――1日陰の身一五五八年十一月二十三日、エリザベス一世(⑤)はハットフィールドの館(やかた)を発してロンドンに向かう。メアリー一世(④)崩御のあとをうけて、イギリス女王の位につくためである。お伴の貴族やジェントルマンおよび彼らの夫人たちは、一千名以上におよんだという。エリザベスはホワイトホールの王宮でクリスマスを迎え、翌年一月十五日戴冠(たいかん)式を挙行する。エリザベス一世の四十四年にわたる治世がはじまった。それまでの道は平らかではない。彼女がこの世に生をうけたのは、二十五年前、一五三三年九月七日、母はヘンリー八世の第二王妃アン・ブーリン(一五〇七~三六)。アンは、ヘンリー八世の最初の王妃キャサリン(一四八五...9-1-1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年1エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――2流血のメアリーメアリーが即位したとき、イギリスは宗教改革からすでに二十年ちかく経過しており、教皇至上権を知らない世代が成年に達していた。そのうえイギリス人には、外国の支配――教皇至上権もそれであるが――に対してきわめて敏感な国民感情があった。母親のキャサリンから、スペイン・カトリシズムの精神をうけついだメアリーは、このイギリスにふたたび教皇至上権をうちたて、カトリシズムを復活させようとした。そして、さきに祈祷書をつくったクランマーなど、有力な聖職者たちをロンドン塔におくった。このとき、イギリスから信仰の自由をもとめて、大陸にのがれたものも少なくなかった。彼らは各地で組織をつくり、「メアリー時代の亡命者」と...9-1-2流血のメアリー
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年16オスマン・トルコ1ふたりの征服者十四世紀の末、アジアの西部には、ふたりの征服者がならび立っていた。ひとりは、内陸より起こった王者チムールである。もうひとりは、オスマン・トルコのスルタン(君主)で、「稲妻王」とよばれたバヤジット一世である。オスマン・トルコはモンゴル軍に追われて、中央アジアの草原から小アジアへと移動してきた部族であった。その族長オスマンが、小アジアの西北部に建国して(一二九九)以来、しだいに西方へと発展してゆく。そしてムラト一世(一三五九~八九)のとき、東南ヨーロッパの一角に侵入して、アドリアノープルに首都をかまえた。ついで立ったスルタンが、バヤジット一世であった(一三八九~一四〇二)。おりからハンガリー王の要請にこたえて結成された対オ...8-16-1オスマン・トルコ
ダイソーにて安価で購入したワイヤレス・ヘッドセットで早速ラジオを聞きました。 BBC Radio3 「ロベルト・シューマンにつけられた数多くの病名」Sunda…
挿絵はアウラングゼーブ帝『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年15イスラムとインド6ムガルの没落ムガル史上最大の領域を実現した六代皇帝は、なかなか気むずかしいイスラム教徒だったらしい。いまでも石部金吉(いしべきんきち)流のかたぶつの男を、ときに「オーラングゼーブ」とあだ名するほどである。この皇帝の墓は、かれが崇拝していたイスラムの聖者の廟の境内の一隅を仕切って、大理石の墓石を置くにすぎない。しかも、雨ざらしのままである。一説によると、この皇帝は、生前から、自分の葬式には十ルピーしか使うな、と部下に命じていたという。この、いわば締まり屋の皇帝の治世の後半は、領域の拡大のゆえもあったにせよ、乱れにみだれるという結果をみちびいた。各地には反乱がつづいておこり、さしものムガル体制も内部からぐらついて...8-15-6ムガルの没落
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年15イスラムとインド7運命のダイヤオーラングゼーブの時代、帝国の領域こそ、かつてないほどに拡大されたが、インド各地には反乱がつづいておこっていた。それもイスラム教徒の諸王国よりも、ヒンズー教徒たるデカン地方のマラータ人や、西北インドのシク教徒の王国などに、多くみられたのである。なかでも、マラータ人の反抗を指導したシバージーは、「マラータの英雄」とうたわれ、いまなおデカン地方の民族的英雄として、その名をたたえられている。かれらは、ガーツ山派の岩山や森林地帯を利用しつつ、神出鬼没のゲリラ戦法で、衰勢にむかいつつあるムガル勢力を苦しめた。十八世紀のはじめ、九十歳の老齢でその生涯を終えたオーラングゼーブの死後には、さしものムガル帝国も、急速に分裂への道をたどって...8-15-7運命のダイヤ
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年15イスラムとインド5ムガルの栄光一五二六年、カーブルの小国の王であったバーブルは、パーニーパットの戦いで、デリーのローディー朝の軍を破り、ムガル帝国の基礎をきずいた。この帝国の三百数十年にわたる支配の期間に、十七人の皇帝が王座にすわった。最後の皇帝バハーズル・シャーは、十九世紀なかばの「セポイの反乱」の結果、ビルマのラングーンに流され、異国に獄死した。この悲劇の大物のほか、一般の人たちにもよく知られている人物といえば、はじめの六人の皇帝だけにすぎない。ムガルの初期から中期にかけての六人の皇帝は、それぞれインド史上では、名のとおった人物となっている。この六人の帝王の、およそ百八十年にわたる治世の間に、ムガルの勢力は、帝国の体制を完成し、その支配も北インド...8ー15ー5ムガルの栄光
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年15イスラムとインド2デリーの王たちヒンズー教という宗教には寛容であったとはいえ、北インドに権力をうち立てたスルタンや貴族たちは、中世のどの国の支配者とも同じように、主権者としては、あくまで絶対的な強権をもって相手にのぞんだ。また権力をめぐって、貴族同士がその派閥をつくって争ったが、そうした面では、力の政治や策略がものをいったのである。十四世紀の前半にアジアを旅行したモロッコ生まれのアラブ人、イブン・バツータの有名な旅行記から、その頃かれが仕えたツグルク朝のムハンマッドについての記述を、すこし引用してみよう(引用には、前島信次訳『三大陸周遊記』を参考)。ムハンマッド・ビン・ツグルクは、なんびとにもまして、人に物をあたえることを好むとともに、他人の血を流す...8-15-2デリーの王たち
第3位【ナポレオン・ボナパルト】227.ファビアン・ヴレーデ
メルネル中尉は、7月12日に、スウェーデンに帰国したが、独断専行で、スウェーデン王位継承候補者を探したため、地方に左遷させられた。 しかし、メルネル中尉の計…
社会主義の国って、中国もそうだし、まだ生き残ってるでしょ。どうなのかね?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『危機に立つ日本』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。理性でもって、世の中をすべて動かせる」と思っているのが社会主義なのです。(中略)日本のエリートたちは、この思想にずいぶん惹かれたのです。「エリートである自分たちが、理性でもって世の中を動かせば、社会をより良くできる」と考えたわけです。頭の良いエリートたちからすると、アダム・スミス型の自由放任経済など、まったく原始的に見えるでしょう。(中略)彼らは、「『放っておいたほうがうまくいく』などということはありえない。やはり、一部の賢いエリートたちが、きちんとデザインを描いて、そのとおりにやらせれば、世の中はうまくいくの...社会主義って?
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年13清朝の権力と富の行方5王宮の襲撃白蓮の動乱は、十年にしてようやく鎮定をみた。しかし嘉慶帝の親政による弊政の克服は、もはや至難の業(わざ)であった。克服とはいえ、官僚国家の体制が持続されるかぎり、抜本的ではありえたかった。「和珅が弾劾されて、嘉慶は満腹する」との巷間の言は、これを裏書きする。中間地帯から西辺にかけての教乱とはいえ、治政の間隙におこった白蓮の動乱は、中国本土における動乱である。その鎮定に十手を要したことは、社会に不安と動揺をたかめた。くわえて弊政の克服も、短い年月では不可能に近い。動乱の気運は各地におこり、また爆発した。五省にわたった白蓮教軍の動乱は、平定された。しかし、それはあくまでも起乱に参加した者の武力反抗が、ひとまず終結しただけの...8-13-5王宮の襲撃
第3位【ナポレオン・ボナパルト】226.カール・オットー・メルネル
スウェーデン王カール13世の使者の一人、カール・オットー・メルネル中尉は、パリに到着後、フィンランド奪回のため、フランスとの関係を強固にする、人物を、王位継…
#587 政治・哲学を生み出した古代ギリシア~『歴史探偵 古代ギリシア』その2
ギリシア悲劇を読み始めたときに、NHKの歴史探偵でタイムリーな特集『世界史スペシャル 古代ギリシャ - 歴史探偵 - NHK』が放送されました。そのレビューで…