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『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル3大西征チンギス汗が金の中都にとどまっているとき(一二一六)、はるばる西アジアからホレズム国王の使節がやってきた。これを引見したチンギス汗は、言った。「わしは東方の支配者となる。国王は西方の支配者となり、たがいに和平と友好をたもって、商人たちが自由に往来できるようにしよう。」モンゴルにとって、定着の民に求めるものは、その豊かな物資である。ほしいだけの物資がえられるならば、このんで戦争をするに及ばない。まして領土をえようとは思わない。都市や田畑はいくらあっても、馬や羊を放牧することができないからである。そこで西方の物資をえるために、通商路を確保しようとしたのであった。ホレズム王国は、中央アジアの西部(いまはソ連領)からイラン、アフガニスタンに...6-10-3大西征
アメリカって、やっぱり一番進んだ国なんだから、その歴史認識は正しいんでしょ。だから戦前の日本って、やっぱり悪い国だったんでしょ?なーんて思ってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『日本よ、国家たれ!』――元台湾総統李登輝守護霊魂のメッセージ(幸福の科学出版)で、李登輝・元台湾総統の守護霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。(アメリカは)日本に対する偏見の部分について、反省してないよね。だから、歴史認識では、韓国や中国と同じだよ。日本を、悪い国で、ヒトラー的な国にしないと、自分たちのやったことを正当化できないからね。(中略)ハワイの真珠湾奇襲攻撃だって、一週間前から知ってたからさあ。実際は知ってたのに、自分たちの身内を犠牲にして、三千人近くの人を死なせてまで戦争を始めたかったのは、...アメリカの歴史認識って?
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル1西方にむける目全モンゴルの大汗となったチンギス汗の前には、おびただしい財宝がつまれていた。それはモンゴルのものだけではなかった。はるか西方のイランやアラビアの産物までが、チンギス汗のもとへ、はこびこまれていたのである。そうした遠い国のめずらしい品物をもたらし、遠い国のふしぎな物語をきかせてくれるのは、中央アジア(西域)から来たウイグル人であった。ウイグル人の多くは、イスラム教徒である。かってイスラム教徒は、西アジアからヨーロッパとアフリカの一部にかけて(地中海をめぐって)、サラセン帝国とよばれる大帝国をきずきあげた。それが八世紀から九世紀にかけてのこと(唐代)である。その後、帝国の勢いはおとろえたけれども、イスラム教徒の意気はなおさかんで...6-10-1大モンゴル
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄6モンゴルの統一いまや高原は、テムジンのもと、ひとつになった。毛氈(もうせん)の帳裙(ちょうくん=帳幕のすそ)ある国は、ことごとく平定された。小さなモンゴルの国が、高原をおおう大国となったのである。虎の年(一二〇六)あらゆる部族、氏族の代表が、オノン川の源にあつまった。クリルタイである。クリルタイとは「集会」のことであり、カンの推戴(すいたい)や、戦争の決定など、国家の部族の重大な行事のときに開かれる習わしであった。そのクリルタイが、これまでにない大きな規模をもって、盛大にいとなまれる。白い旗じるしが、九つの脚にささえられて、高くかかげられた。そのもとで、テムジンはふたたびカンに推戴された。さきには小さなモンゴルの国(それは全モンゴルではない...6-9-6モンゴルの統一
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄3カンとなっていくばくかの月日がすぎた。一家の暮らしも、しだいに立ちなおった。テムジンは、父が死んで以来、わかれていたボルテをむかえようと、デイ・セチェンのもとにおもむいた。デイはよろこんで、ボルテをめあわせ、引き出物として、黒い貂(てん)の裘(かわごろも)をおくってくれた。いまやテムジンは、妻をめとった。なき父の縁故によって、数名の部下もできた。この上は強力な後援がほしい。そうしたとき、かつてエスゲイが、ケレイトのトオリル・カン(汗)と、アンダの盟約をむすんでいたことを思いおこした。アンダとは義兄弟のことである。ケレイトの国は、はやくから西方の文明をとりいれ、トラ川とオルホン川のほとりに、ひろい牧地をもって、強大な勢力をほこっていた。そのカ...6ー9ー3カンとなって
教会に対して政治的に介入する皇帝を排除すると、教皇の権威は絶頂に。国外に目を向けた教皇は、イスラーム帝国に支配
医歯協(東京医師歯科医師協同組合)の定例マガジンが届いたので、今朝の通勤車内でめくってみました。なぜか「梅毒」関係の記事が2つあります。考えてみると、近年梅毒感染者が日本で急増していることはよく知られています。医療界の注目事案のひとつでしょう。 ひとつは歯科の方からの報告...
ビザンツ帝国と東ヨーロッパ 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
東ローマ帝国は地中海貿易により繁栄し、貨幣経済が発達、絹織物産業も発展した。皇帝が政治と宗教両面における最高権
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄2蒼い狼の子孫エスゲイに死なれて、テムジンたちの境遇は一変した。それまでエスゲイにしたがっていたタイチウト氏の人々が、テムジン一家をすてて、去ってしまったのである。エスゲイのもとにいた部衆も、タイチウトを追って移動した。たちまちにして、一家は窮乏のどんぞこにおちいってしまった。それでも、ホエルンは男まさりに生まれたので、おさない子供を養うに、しっかりと裾(すそ)をからげて、帯しめて、オノンの川を上へ下へと走りまわり、木の実をひろって、草の根をほって、昼夜の糧(かて)とした。子供たちもまた、母を養おうと話しあって、オノンの岸べにすわっては、片目や、かたわの魚をつった。あみを結んでは、小魚をすくった。モンゴリアのように、乾燥した草原に住む人々は、...6-9-2蒼い狼の子孫
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄1モンゴルの勇者よく晴れた日であった。いつものように、エスゲイは、ひとりで鷹狩りに出かけた。オノン川のほとりまでゆくと、むこうから一団の人々が来る。メルキト国の人々であった。メルキトのチレドという若者が、嫁をもらって連れてゆくところなのであった。さぐって見ると、顔かたちのすぐれた、うつくしい女である。エスゲイは、たちまちわが家に走りかえった。エスゲイは、兄と弟とを連れてきた。そしてチレドの行列を追った。チレドはおそれた。足のはやい黄馬(きうま)にまたがり、むちうちながら丘をこえて、身をかくした。そのうしろから、三人はつづいて追った。女は車に乗っている。チレドは山のはしをひとめぐりして、車のところへもどってきたところに、三人が行きついた。チレド...6ー9ー1草原の英雄モンゴルの勇者
ね、九次元には、10体の九次元大霊がおられるんでしょ。イエスさまやお釈迦さま、孔子さまをはじめとして、たくさんの霊言集が出てると思うんだけど、マイトレーヤー如来やゾロアスターって方々の霊言集って、あったりするの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『ゾロアスターとマイトレーヤーの降臨』(幸福の科学出版)のまえがきとあとがきで、こう説いておられます。まえがきまことに不思議な書物というほかない。資料なるものは、ほとんど役に立たない。宗教家としての人類最高の神通力を使って、ゾロアスターとマイトレーヤーという、かすかに名前だけは日本人も知っている、太古の大霊の霊言を収録した。しかし、本書をていねいに読めば、神が世界宗教を世に放った理由と、地上人の無理解ゆえに、その慈悲がわからず、宗教に...ゾロアスターとマイトレーヤーって?
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村7農村のすがたさまざまの産業にもまして、めざましい発達をとげたのは、農業であった。華北の畑作地帯では、すでに唐中期には、それまで一年一毛作の農業から、麦と粟(あわ)などをうまく組みあわせて二年三毛作にすることに成功している。ついで宋代にめざましく農業が発達しだのは、江南の水田耕作であった。もともと江南の水田耕作は、ながく中国の政治や文化の中心であった華北の畑作にくらべて、技術的におとっていた。ふるくからの耕法は、火耕水耨(かこうすいどう)といって、草を焼きはらったところに稲をうえ、やがて稲のほかに草が生えてくると、水をひき入れて草を枯らし、稲だけ成育するようにする。いわば一種の焼畑(やきばた)耕作であった。康代になって、ようやく田植えが行われ...6-7-7農村のすがた
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年8難解の文字2西夏文字の解読西夏文字は、久しい間、ナゾの文字であった。いや、こうした文字が存在したことさえ、わすれ去られていた。いったんほろび去った西夏文字が、ふたたび姿をあらわしたのは、一八七〇年(明治三年)における居庸関(きょようかん)刻文の発見であった。ここには、元(げん)朝のもとに用いられた六種の文字が、きざまれていた。その一つが、西夏文字であった。しかも当初は、それが西夏文字であることもわからなかったのである。それから十年あまりたった。居庸関のナゾの文字は、西夏の古銭にきざまれた文字と照らしあわせた結果、西夏文字であることが明らかとなる。これから研究がはじまった。西夏語の文献も、次々に発見された。なかでも、カズロフ探検隊がもたらした『蕃漢合時掌...6-8-2西夏文字の解読
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年8難解の文字4女真文字の場合「金」国を建てた女真人は、女真文字をつくった。その最初の制定は太祖(阿骨打=アロダ)のときのことで、契丹文字の制作からほぼ百年後にあたっていた。これは女真大字といわれ、おそらく契丹文字を模したものと思われるが、その遺品はまだ発見されていない。こえて第三代の煕(き)宗のとき(一二二八)、いわゆる女真小字が制定された。これは「金」国の領内にひろく使用せられ、碑文や文書として、かず多く残っている。「金」は、宋を圧して南方に追い、華北を領有した。やがて都もいまの北京にうつしたが、そうなると女真人の間には、中国の文化が急速にしみわたる。固有の風俗も、かえりみられないようになる。この傾向をうれえたのが、中興の英主といわれた世宗であった。世...6ー8ー4女真文字の場合
謎を解きたい…面白い作品だった!…けど、あれは何を言いたかったのだろう?…と、良い作品だと思うのに、作者が伝えたい内容を、自分は解ってなかったかも?そんな、わからないコトだらけだった名作を、分かりやすい例えや言葉で説明してくれていてああ、なるほど!じゃ又 今度、観る時にそこを注意して観てみよう。なんて、とても参考になった本です。 ↓ 「宮崎アニメ」秘められたメッセージ ~『風の谷のナウシカ』から『ハウル...
ローマを受け継いだフランク王国 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
ローマ皇帝がコンスタンティノープルを建設した頃、異民族ゲルマン人が大量に流入し、ローマ帝国は東西に分裂し、東ロ
ローマの国教になったキリスト教 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
イエスの広めた新しい教えがキリスト教に発展し、ローマへ伝わるが皇帝により弾圧された。だが、迫害を乗り越えて信者
Coffee is a drink made from coffee beans. There are several theories about the origin of coffee, but it is generally believed to have been discovered in Ethiopia. The stage is the 9th century, in the Kaffa region of Ethiopia. One day, a shepherd named Kaldi noticed that his sheep had become active. …
キリスト教 イエス=キリストの生涯 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
イエス=キリストを神が遣わせた救世主(メシア、ギリシア語でキリスト)として信仰する宗教。そのキリスト教の聖典『
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村3民衆の文化都市に住む民衆は、ギルドの中小商人をみてもわかるように、けっして、かならずしも自由な市民とはいえなかった。しかし唐代とくらべるならば、はるかに解放されていた、といえるであろう。こうして民衆にうけいれられ、民衆とむすびついた都市文化が生みだされ栄えてゆく。勾欄(こうらん)で演ぜられる演芸は、まさに民衆のためのものであった。詞(し)もまた、そうであった。「詞」は曲に合わせてつくられた韻文であり、歌う文学ともいえるものであった。唐の中頃からあらわれ、やがて宋代には、「唐詩」に対して「宋詞」といわれるほど、大いに流行した。豪放(ごうほう)な北派と、婉麗繊細(えんれいせんさい)な南派と、ふたつの系統があった。詞はもともと詩から変化してきたも...6-7-3民衆の文化
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村2都の明け暮れ開封の都はにぎやかであった。大通りにのぞんで、あちこちにさまざまの店ができた。それだけではない。夜が明けるころには、城門や橋のたもとなど、いろいろの場所で市(いち)がたった。豚や羊をつれて売りにくる者、果子(くだもの)や麺類を売る者、薬や書画を売る者まで、さわがしさと活気にみちた光景がみられた。なかには鬼市子(きしし)といって、泥棒市のようなものまで立った。これは午前三時ごろひらかれ、明けがたには姿を消してしまう。こうして、にぎやかな都市の一日がはじまるのであった。大通りには、酒楼とよばれた料理店がたちならんでいる。酒楼の入口には、色とりどりの紐(ひも)を、のれんのようにむすびあわせて歓門(かんもん)がつくってあり、客はこれをく...6-7-2都の明け暮れ
世界史上、皇帝が教皇に屈した事件として有名なカノッサの屈辱。その後、皇帝と教皇の関係はどうなったか。
カノッサの屈辱といえば世界史でかなり有名な事件の一つ。神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世は、教会の高位聖職者の任命権(聖職叙任権)を巡って対立していた。この問題は、教会が自己の独立性を保つためには教皇が聖職者を任命するべきだとするグレゴリウス7世と、皇帝がその権利を保持すべきだとするハインリヒ4世との間で深刻な争いを引き起こした。 1076年にハインリヒ4世がグレゴリウス7世の廃位を宣言。これに対してグレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門し、王位の剥奪を宣言した。これによりハインリヒ4世は貴族からの支持を失った。ドイツの諸侯たちは、これを好機とばかりにハインリヒ4世に…
第3章 昭和末期 3 社会的身分差別(1) クリスティーナ女王
~指導主事の見送り強制~ 「そういうもんだ」・・・? 僕が今まで勤めたことのある学校はどこへ行ってもそうですが、教職員の飲み会は本当に多かったです。何か行事があるたびに、やれ反省会だ、やれ激励会だ、などという具合です。 年に少なくとも10回以上、多ければ20回前後にもなります。どの学校も参加して当然という雰囲気があり、飲み会を休むなどということは何か特別な事情があるときだけでした。 自分の意志で...
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村1都市のすがた中国では、首部はもちろん、だいたい県庁の所在地ほどの都市になると、周囲に城壁をめぐらし、町をすっぽりつつんでいた。わが平城京や平安京の全体が、城壁にかこまれていたと考えればよいであろう。そして大きな都市ともなれば、城壁が二重、ときには三重にもなっていた。城壁の規模もまことに大きい。後周の世宗(柴栄=さいえい)が全中国の中心にしたいとの願いをこめてつくった開封(かいほう)の都は、いちばん外側の城壁の周囲は二○キロあまり、唐の長安城のほぼ三倍の規模であった。五代十国王朝のひとつ、呉越国の都の杭州では、城壁がさらにひとまわり大きく、三〇キロちかくもあった。城壁の高さは二五メートルほどで、溥(かわら)を積みあげてつくった。城壁の上には女...6-7-1都市と農村
暑いですね。 なのに、寝室のエアコンのリモコンがいよいよもってヤバめです。 基本、夏しかエアコンを利用しないから、リモコンの電池を入れ替えるところから始めますが、今年は電池を替えても液晶画面が表示されずに、電波(赤外線)も飛んでないご様子。さすがに23年前に購入したSANYO製品だし、今さら修理とかいう問題でもないだろう。買い換える時が来たのか? と、よくよく見たら寝室にあったのはエアコンではなく、暖房機能がついてないクーラーでした。 え?今時?! あ…思い出した。 当時、「エアコンの暖房は苦手だから要らない!」って私が言った気がする…。確かに、今でもリビングのエアコンも夏しか使ってないから、…
ヨーロッパの礎となったローマ帝国 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
ラテン人が築いたイタリアの都市国家ローマ。ギリシアの影響を受けて共和政となり、イタリア半島を支配、アフリカにも
文化がめばえた都市国家アテネ 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
ヨーロッパ史は古代ギリシア・ローマの拡大からスタートする。地中海沿岸は、中東オリエントに築かれたメソポタミアや
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争5党争の展開王安石は、江南の出身であった。このころになると、江南出身の文官が、華北の出身者を圧倒するほどに多くなっていた。ところが王安石の新法に反対する者のなかに、華北出身の長老がいた。司馬光や、韓琦などである。新法に反対したので、旧法党とよばれた。新法のひとつに、方田均税法というのがあった。地主層と一般農民との賦税の負担を公平にしようとするねらいで、おもに華北に実施された。こうしたところから、新法党と旧法党の争いには、出身地のちがいによる利害がからみあっていたと見られよう、それでなくとも、官戸はもちろん、大地主や大商人などの富岳層にとって、新法は自分たちの富の集中をおざえるものであった。文官たちも、もとをただせば大地主の出であり、大商人とは...6-5-5党争の展開
最近、アメリカ大統領が中国の指導者を「独裁者」って呼んだっていうんで、話題になってるよね。独裁者って、歴史上よく出て来るんだけど、あれはあれで国が強くなるからいいんじゃないの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『アダム・スミス霊言による「新・国富論」──同時収録トウ小平の霊言改革開放の真実』(幸福の科学出版)で、中国の事実上の最高指導者だったトウ小平の霊の言葉(「霊言」)を、D氏(質問者)との対話の形で、次のように伝えておられます。小平(中略)君、十数億の国民をまとめるには、すごい力が要るんだ。民主主義なんて言ってるが、みんなで議論などしてたら、国家は分裂するんだよ。だから、強力な専制君主みたいな独裁者が必要なんだ。やっぱり、強い指導者が要るんだ。十万人ぐらいのデモがあっても...独裁者って?
中国の歴史 列強のアジア進出とアヘン戦争 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
18世紀末、元末に紅巾の乱で弾圧されてからもひそかに活動を続けていた白蓮教徒が再び反乱を起こし、清はその鎮圧に
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争4新法の実施ある宴に、ふたりの客が招かれた。司馬光(しばこう)と王安石である。ふたりとも酒をたしなまなかった。宴がはじまると、主人はしきりに酒をすすめる。やむをえず司馬光は一杯だけ、さかずぎをとった。しかし王安石は、ついに一滴も口にしなかった。王安石は、そういう男であった。おのれを堅持し妥協をゆるさない性格であった。そこを皇帝(神宗)から認められた。十一世紀の後半になると、宋朝の財政はしだいに苦しいものとなっていた。仁宗のときに、西夏とあらそったときも、財政に大きくひびいた。つぎの英宗のときになると、歳出が歳入を大きく上まわった。おまけに遼や西夏に対しては、銀や絹など多額の物資を、毎年おくらねばならない。財政の赤字は、いよいよ大きくなるばかり...6-5-4新法の実施
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争2澶淵(せんえん)の盟約十一世紀のはじめ、宋では三代目の真宗が立っていた。契丹は、すでに国号を「遼(りょう)」とあらため、いよいよ勢いはさかんであったが、おりから六代目の聖宗が立っていた。北漢がほろんだのち、宋と遼とは、全面的に国境を接し、その関係はいちだんと緊迫の度をくわえていた。遼の聖宗が、大挙して南下し、宋の領内に攻めこんできたのは、一〇〇四年(景徳元年)のことであった。それまでは、軽騎兵をはなって、偵察をつづけていたのである。ときに聖宗は三十七歳であり、宋の真宗は三十四歳であった。遼の大軍いたる。この報が都の汴(べん)京(開封)につたわると、真宗はあわてふためいた。群臣も同様であった。なかには、都を長江南岸の金陵(きんりょう=今の南京...6-5-2澶淵の盟約
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年4宋朝の創業4科挙と官戸科挙は、三年に一度行われる。ただし、その合格者の数は、きわめてすくなかった。もっとも合格者の多い進士科にしても、太祖のときは、年に平均して九人にすぎない。太宗の代になって、ようやく五十人にふえ、つぎの真宗のとき七十八人となった。科挙の黄金時代といわれる四代目の仁宗のときでさえ百十三人にすぎない。太宗の即位した年(九七六)、解試に合格して都にあつまってきた受験者は、五千三百余人あった。べつの年には一万七干三百人もいたこともあった。このなかから、ひとにぎりの合格者をえらぶのである。競争は激烈であった。なかにはいくども受験して失敗し、七十歳をこしてようやく合格した者さえいた。試験の内容は、詩賦(しふ)をつくる能力や、儒学(じゅがく)の高...6-4-4科挙と官戸
中国の歴史 異民族国家の清が中国を支配できた理由 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
明は内憂外患に加えて干ばつもあり、衰退し、後金(アイシン)を建国される。のちに国号を清に変えた。 その清につい
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年4宋朝の創業3皇帝の官僚宋の太祖と太宗は、文官をおもく用いて、武人の権力をちぢめ、集権の体制をつくりあげていった。節度使にして、病死したり、老齢になったりして、欠員ができた場合には、できるかぎり文官を後任にあてた。また知州(ちしゅう=州の長官)にしても、同じであった。こうして藩鎮が解体するころ(九七七)には、じつは節度使などの座に文官が大幅に進出していたのである。いまや文官は、まさしく国家権力の担い手になった。しかも太祖は晩年におよんで、科挙(かきょ)の制度に改革をくわえている。科挙こそは、隋代にはじめられて以来、文官となる資格をうるためには、まず突破すべきものであった。これまで科挙といえば、ふたつの関門があった。地方の州で行われる解試と、首都で行われる...6-4-3皇帝の官僚
ものすごくたくさん、霊言集が出てるでしょ。じゃ、司馬遼太郎って、どういう世界に還ってるのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『司馬遼太郎なら、この国の未来をどう見るか』(幸福の科学出版)のまえがきとあとがきで、こう説いておられます。まえがき司馬遼太郎は、私の好きなタイプの作家の一人である。一九六〇年、七〇年の日米安保闘争の時代、学生たちは何かに取り憑かれたかのように、無意識のうちに、日本を中国の植民地とするための運動を繰りひろげていたかのようだった。しかし、全学連のリーダーたちが、明治維新の英雄のようになることはなかった。中国の四人組の「文化大革命」の悲劇や、「天安門事件」で、日本人も少しは中国の実態を知ったし、ソ連邦は崩壊し、北朝鮮にあこがれる人はいなくなった。あの朝...司馬遼太郎って?
中国の歴史 皇帝独裁の明と秀吉の朝鮮出兵 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
世界帝国を築いたモンゴル(元)だったが、やがて不安定になり、明が建国される。また、そのころ日本では豊臣秀吉の朝
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年3乱世の皇帝5統一への夢中国の仏教史の上で「三武一宗の法難」とよばれる弾圧がある。武の字のつく三人の皇帝と、それから後周の世宗がおこなった弾圧を、さしたものである。世宗の改革は、仏教界にものびていった。世宗のねらいの一つは、憎尼たちを還俗(げんぞく)させて、一般の俗人なみにすることであった。そもそも僧尼は国家で公認された証(あかし)として、「度牒(どちょう)」というものを持っていなければならない。僧尼になると、納税や労役などの負担をまぬがれることができるからである。ところが特権のあることに目をつけて国の公認もうけずに出家する、もぐりの僧尼もたくさんいた。なかには犯罪人などもいて、寺院は一種の治外法権の場でさえもあった。もう一つのねらいは、銅をもとめようと...6-3-5統一への夢
ヘルメスっていう救世主が生まれたはずなのに、なんで古代ギリシャにはヘルメス教団の痕跡が残ってないの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『エロスが語るアフロディーテの真実』(幸福の科学出版)で、ヘルメス教団の二代目だったエロスの霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。うーん。実は、ヘルメスの流れが二つに分かれているのです。一つは、ギリシャ本土というか、クレタ島を中心とした、ギリシャでのヘルメス教団です。もう一つ、エジプトに広がったヘルメス教団がございます。ギリシャのほうが優位にあって、エジプトを植民地にしていたので、実は、エジプトのほうにも教えが広がっており、そちらのほうが長く遺(のこ)ったのです。エジプトのほうのヘルメス教団は、「ヘルメス・トリスメギストス(三倍偉...ヘルメス教団が残っていないのは?(その1)
中国の歴史 世界帝国となったモンゴル帝国 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
中国・江南地区で南宋文化が栄えた頃、モンゴルではチンギス=ハンがモンゴル族を統一した。 そのモンゴルについて、
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年3乱世の皇帝1契丹の華北支配契丹(きったん)の太宗は、中国の北辺一帯の地、いわゆる燕雲(えんうん)十六州を手にいれたとき、大いによろこんで、その母后にかたったという。「わたしは近ごろ、石郎(せきろう)がかならず使いをよこすことを夢みました。いま、まさにそのとおりになりました。」石郎というのは、後晋(こうしん)の高祖たる石敬塘(せきけいとう)のことである。石敬塘は、みずから皇帝になろうとして、契丹のたすけをもとめ、燕雲十六州をさざげたのであった。おまけに石敬将は、まことに卑屈な態度をとって、契丹の皇帝には「臣」と袮し、父の礼をもって仕えるにいたった。契丹は石敬塘のことを「児皇帝(じこうてい)」とよんでいるが、「石郎」という表現にも、おなじような意味がこめら...6-3-1乱世の皇帝
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年2武人の天下1分裂の時代朱合忠が唐の天下をうばって「後梁」を建国したころ、各地にいた節度使のうちで強大なものは、それぞれ自立の道をあゆんでいた。節度使の数はたくさんあったが、強いものは弱いものをほろぼしたり、あるいは服従させたりして、その支配する領域をひろげていたのである。だから節度使のなかには、主君となったものもいれば、その家臣となったものもいた。朱全忠にしてもそうしたものの一つにすぎなかった。さて朱全忠が皇帝を称すると、各地の強大な節度使は、これに臣従しようとはしない。各々独立の政権をつくりあげた。汴(べん)州(開封)に都をおいた朱全忠の支配も、せいぜい黄河の中流から下流域までにしか及ばない。領域をひろげようとして、隣接する独立の政権とたたかっては敗...6-2-1五代十国
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役5唐朝の落日朱温は幼くして父に死にわかれ、母や二人の兄といっしょに、ある地主の家に住みこみで働いていた。やがて二十歳をこしたころ、すぐ上の兄とその家をとびだし、黄巣の軍に加わる。兄は広州攻撃のとき戦死したが、朱温はしだいに頭角をあらわし、いつのまにか指導者の一人にのしあがった。朱温は貧民の意識というより、うだつのあがらない生活からぬけだすため、反乱に加わったのである。いわば出世を反乱にかけていたといってよい。この朱温が、中和二年(八八二)、唐朝にくだった。僖宗は大いによろこんで、これに全忠という名をたまわった。よって、これから朱全忠ととなえる。いまや朱全忠は、反乱を打倒するための一方の大将とされ、翌年には汴(べん)州(開封)の節度使に任ぜ...6-1-5唐朝の落日
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役4黄巣の栄光反乱はおこったが、彼らは一ヵ所にとどまって拠点をつくることはしなかった。ゆくてに立ちはだかる節度使(せつどし)の軍をうちやぶり、あるいはその間隙(かんげき)をぬって、おどろくほど広い範囲をかけめぐった。北は黄河から、南は広州にまでおよぶ地域で、四川(しせん)を除いて、ほとんど中国の全域にわたっていた。とくに黄河と長江(揚子江)にはさまれた地域では、はげしく流動し、主な地域を一度通過したばかりではない。おなじ都市をいくどか通ったこともあって、その足跡を地図にたどると、まるで蜘蛛(くも)の巣のようになる。この地域は、そのころ経済的にもっとも発達して、農民の階層分化がいちじるしかった。しかも飢饉がつづいたので、それだけ群盗がたくさん...6-1-4黄巣の栄光
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役3大乱おこる黄河は英語の「r」の筆記体の形「」で、三度ほどするどくまがり、西から東へと流れている。その最後にまがるところの南には、潼関(どうかん)や函谷関(かんこくせき)があった。これは唐の都の長安のまもりとされていたところである。そこから東の地方は「関東」とよばれた。黄巣や王仙芝の生まれ故郷も、闇塩を売りさばいたところも、この関東の地であった。これまで山谷を流れてきた黄河は、この地点をすぎて、しばらくすると華北の大平野にはいって、急に流れがゆるやかになる。そのため二年に一度といわれるほど、昔から決壊(けっかい)と氾濫(はんらん)をくりかえしてきた。唐朝十八代目の皇帝たる僖宗(きそう)が、わずか十二歳で即位した(八七三)ころも、そうであっ...6-1-3大乱おこる
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『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役2塩の闇商人黄巣(こうそう)はわかいころから、塩を各地に売りあるいて財産をつくりあげた。その人となりは、任侠(にんきょう=弱きをたすけ強きをくじく)をよろこび、武術にもはげみ、また学問も身につけていて、当時としては知識人に属していた。財産があり、知識を身につけた庶民が、世に出るため第一に目ざしたのは、やはり役人になることであった。それには、登竜門として設けられた科挙(かきょ)の試験に合格しなければならない。高級役人は、旧中国ではエリート中のエリートと考えられ、またそれにふさわしい待遇をうけて、権力をもつ存在であった。しかし唐朝では、科挙、とくにそのなかで出世街道をあゆむ進士科(しんしか)の合格者として採用するのは、年にせいぜい二~三十人に...6-1-2塩の闇商人
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年12聖女ジャンヌ・ダルク3ジャンヌの謎ジャンヌ聖女観とならんで古来かたく信じられてきた伝説に、シャルル七世阿呆(あほう)説というのがある。この両者は、たがいに補いあうものだといってもよい。阿呆であった若き日の王太子シャルルが、神の御使ジャンヌによって正気にたちかえったという話である。この話の舞台に登場する王太子は、ブールジュないしシノンの城で、廷臣どもにばかにされながら、日がな一日、拳玉にうち興じている。かとおもうと、自分は父王シャルル六世の嫡子(ちゃくし)ではないのではないかと、くよくよ思いなやんでいる。なにしろ、彼の父は狂人であり、母イザボー・ド・バビエールは、さかんな浮き名を流した女性であったから、そのおそれはおおいにあるというわけだ。シノン城で、...5-12-3ジャンヌの謎