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神聖ローマ帝国の起源は、カール大帝の時代に遡ることができる。カール大帝は、800年にローマ教皇レオ3世から皇帝として戴冠され、西ヨーロッパにおけるキリスト教世界の統一を象徴する存在となった。しかし、カール大帝の帝国は彼の死後に分裂し、その後数世紀にわたって再統一の試みが続けられた。 名称の変遷 初期の段階では、この帝国は単に「帝国」または「ローマ帝国」と称されていた。しかし、1157年にフリードリヒ1世バルバロッサが皇帝として即位すると、彼は「神聖帝国」の国号を使用し始めた。これは、皇帝の地位が教皇よりも上位にあり、神から直接与えられた聖なる地位であるという主張を反映している。そして、1256…
神聖ローマ帝国は800年のカールの戴冠により成立したか?それとも962年のオットー1世の戴冠により成立したのか。
神聖ローマ帝国の成立については、その時期を特定することが歴史学上で長らく議論の的となっている。一般的に、神聖ローマ帝国は800年のカール大帝の戴冠によって成立したと見なされることが多いが、日本を含む一部の地域や学派では、962年のオットー1世の戴冠を神聖ローマ帝国成立の年として扱うことがある。この二つの異なる見解は、それぞれ神聖ローマ帝国の性質とその歴史的意義をどのように解釈するかに基づいている。 カール大帝の戴冠とその意義 オットー1世の戴冠と神聖ローマ帝国の成立 結論 カール大帝の戴冠とその意義 800年12月25日、カール大帝がローマ教皇レオ3世によって皇帝に戴冠されたことは、西欧キリス…
「人間は、やり通す力が有るか無いかによってのみ、称賛、或いは非難に値する」 レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉ですが、実は、完成作品が少なく、『モナ・リザ』さえも未完成作品であるとか。 軍事にも秀でた人ですが、戦争との関りも妙に中途半端。実に謎です。
世界史上、皇帝が教皇に屈した事件として有名なカノッサの屈辱。その後、皇帝と教皇の関係はどうなったか。
カノッサの屈辱といえば世界史でかなり有名な事件の一つ。神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世は、教会の高位聖職者の任命権(聖職叙任権)を巡って対立していた。この問題は、教会が自己の独立性を保つためには教皇が聖職者を任命するべきだとするグレゴリウス7世と、皇帝がその権利を保持すべきだとするハインリヒ4世との間で深刻な争いを引き起こした。 1076年にハインリヒ4世がグレゴリウス7世の廃位を宣言。これに対してグレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門し、王位の剥奪を宣言した。これによりハインリヒ4世は貴族からの支持を失った。ドイツの諸侯たちは、これを好機とばかりにハインリヒ4世に…
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年5ドイツ国王のカノッサの屈辱1カノッサにて一〇七六年十月、ドイツ諸侯は、マインツの南トリプールに集まった。国王ハインリヒ四世が、この年の二月、教皇グレゴリウス七世によって破門されたので、これにどう対処したらよいかを相談するためである。この国王破門は、その前月、ハインリヒ四世がウォルムスに諸候を集めて国会(封建諸候会議)を開き、教皇の廃位を決議させたことに対する教皇の反撃であった。教皇は、国王ハインリヒを破門することによって、ハインリヒに臣従するものたちの、つまりドイツ諸侯の、国王ハインリヒに対する誠実の義務を解除したのである。したがってハインリヒに忠誠を誓うものは、教皇に対し弓をひくことになる。ウォルムスの国会では国王を支持した諸侯も、こういうことになっ...5-5-1カノッサの屈辱
2022年の冬。今年もクリスマスがやって来ました。みなさんのところへ、サンタさんは訪れたでしょうか。コロナ禍の下、運休が続いていた広島電鉄のクリスマス電車。今…