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『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年1唐の大乱の主役1街頭の講談挿絵は黄巣、唐の滅亡に繋がる反乱を起こす「三七(さんひち)二十一、由の字の頭が出ず、脚は八方の地をふみしめる。果の頭には三つの屈折。」高座の上で、尹常売(いんじょうばい)という講談師が語りはじめると、聴衆はどよめいた。ときは宋代、ところは都の開封(かいほう)の盛り場のなかである。盛り場では、いつも民衆のよろこびそうな娯楽がもよおされ、たいへんなにぎわいを見せていた。そうした催しものの一つに講談があった。尹常売(いじょうばい)は、その講談のなかで歴史ものを語った。歴史といっても、古い時代の話ではない。宋代のすぐ前、五つの王朝が興亡した時代、つまり五代の話である。さて「三七、二十一、由の宇の頭が出ず、脚は八方の地を……」というのは...6-1-1唐の大乱の主役
中国の歴史 英雄たちが躍動した三国志 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
劉邦が築いた漢王朝は2世紀に入ると衰退し、三国時代・三国志へ突入する。 その三国志について、「後漢の衰退」、「
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年9シチリアの晩祷5地中海帝国の夢シャルル・ダンジュー領地シチリア王国を確保したシャルルは、つぎの目標をビザンティン帝国においた。当時、地中海東部における西ヨーロッパ人の勢力は退潮期にあった。一三五〇年ごろの情勢をみると、第四回十字軍のときに成立したラテン帝国に対抗して小アジア半島の内陸部に作られたビザンティン帝国の後継王朝、ニケーヤ帝国の勢力は、しだいにラテン帝国を圧し、小アジア半島北西部からバルカン半島北部にかけて進出し、ラテン帝国のコンスタンティノープルを攻囲していた。小アジア半島東部にはセルジューク・トルコのイコニウム帝国があり、アルメニアから東はモンゴル人の支配下にあった。エジプトでは、ちょうどこの年、アイユーブ朝が倒れ、トルコ人のマムルク朝がお...5-9-5地中海帝国の夢
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年12聖女ジャンヌ・ダルク1娘ジャンヌ「このころ、人の言によれば、ロワールの河縁(かわべり)にひとりの娘あり。予言者を称して、これこれのことは真実となるであろうなどといい、フランス摂政とそれを助けるものたちに敵対していた。人の言によれば、オルレアンの前に陣をかまえていた軍勢をものともせず、多数のアルマニャック勢とともに、多量の食糧をたずさえて市中に入った。また、陣のものたちは、まったく身動きできず、アルマニャック勢が、彼らのそば近く、矢のとどくところ、ないしはその倍ほどのところを通って市中にはいるのをみていたとのことであり、また、市中の人々は、食糧がたいへん欠乏していたので、じつに三フランもするパンを夕食に食べていたとのことであり、そのほか、その娘について...5-12-1聖女ジャンヌ・ダルク
大東亜戦争っていうと、なんだか右翼みたいだよね。あの戦争は、やっぱり侵略戦争だったんだよね?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『されど、大東亜戦争の真実インド・パール判事の霊言』(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。読み終えて、日本は孤独ではなかった。日本には友人がいたのだ。と、強く思わせる一書となった。戦後日本を苦しめ続けた、あの東京裁判史観に対し、当事者の判事の一人として、断固、「日本無罪論」を唱えることは、厳しくも、孤立し、勇気を必要とする態度であったろう。されど、大東亜戦争の真実を、ここまではっきりと言い切ったのはインドのパール判事ただ一人であっただろう。それだけでも十分に涙する事実である。本霊言は、帰天して五十年近い歳月が流れたあとも、パール判...大東亜戦争の真実って?
中国の歴史 中国の基礎となった漢 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
中国を統一した劉邦(高祖)が築いた漢王朝。 その漢について、「中国王朝の基礎」、「武帝による前漢の最盛期」、「
中国の歴史 項羽と劉邦 ライバルの戦い 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
秦が滅びると、中国は再び混乱の時代へ。そんなとき、楚の名門 項羽と漢の農民 劉邦が統一を目指した。 その項羽と
シャルル・ダンジュー領とアラゴン王領『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年9シチリアの晩祷6事件のあとアラゴン王ペドロは、九月二日、パレルモに入り、市政府からシチリア王の冠をうけた。シャルルはペドロとの決戦を避け、カラブリアのレッジオにひきあげた。ペドロは、十月二日、メッシナに入った。これで終わりであった。これまで、シチリア問題を起動ばねに、かみあって動いていた歯車仕掛けは解体した。ビザンティンのミカエルは、危機が去ったいま、もはや西方にはなんの関心も示さない。彼は、十二月に、生涯の事業に満足して死んでいった。ペドロにしても、さらにその目をビザンティン帝国、あるいは神聖ローマ帝国に向けていたわけではない。だいいち、シチリア征服を財政的に支えたバルセロナ、ナルボンヌの商人たちは、王がこれ以上、...5-9-6事件のあと
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年10黒い死――恐怖のペスト1死神ペスト来たる地中海の主要貿易路――ペストの流行は、カッファを包囲していたモンゴル軍から起った。そして鼠によって、カッファから船に乗ってヨーロッパ各地に拡散していった。一三四七年、死神がクリミア半島の港町カッファに姿を現わした。カッファは、十三世紀のなかば以降ジェノバ領であり、ジェノバの黒海貿易の拠点であったが、当時クリミア半島を南下したモンゴルのキプチャク汗国の軍勢に攻囲されていた。その攻囲軍の陣営に、ベストが発生したのである。キプチャクの汗ジャニペクは、ペストに倒れた将士の屍体を、投石機を使って市中に投げこませたという。ジェノバ人にも、この災禍のおすそわけをしてやろうという腹づもりだったのだろう。だが、その心づくしには、...5-10-1黒い死――恐怖のペスト
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年10黒い死――恐怖のペスト2パニック考えてもみるがいい、四人のうちひとりが死ぬのだ。きのうまで元気だった身内のものが、きょうは全身膿(う)みただれて、土間のわらの上にころがってもがき苦しみ、翌日は黒ずんだ屍(しかばね)となって葬られるのだ。黒い死の不安が、町に村にひろがった。相手の正体のはっきりしている敵ならば、まだしも身を守るすべもある。だが、このようにみえない敵が相手では、人々はただ恐怖に脅えるほかなかった。悪魔の仕業だという発想はすぐに出てくる。また、神の怒りではないかとの畏れの念も、当時の人々にはごく自然だった。だから、芳香を放つアロエという薬用植物を大量に燃やしてみたりした。悪魔が空気を汚しているのだと考えたからである。聖体を護持して練り歩く行...5-10-2パニック
中国の歴史 波乱に満ちた始皇帝の生涯 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
キングダムでも有名な中国を統一した秦王・政は始皇帝と呼ばれた。 その始皇帝について、「始皇帝の由来」、「始皇帝
おはようございますいいお天気今朝の地震怖かったですねビービーあちこちで警報音身体がまだ寝てるから反応すれど動きがのろいただアラーム音とめて周りみて一応無事確認…
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年8くずれゆくアンジュー王国――アンジュー王家の人々Ⅱ――2リチャード獅子心王一一八九年九月三日、リチャードは、ウェストミンスター修道院で戴冠した。明るい陽光のさしこむ堂内だというのに、一羽のこうもりが、王冠のまわりをとびまわったという。およそリチャードほど、イングランド人になじみのうすかった王はいない。彼がイングランドにいたのは、戴冠と十字軍の費用調達のために滞在した一一八九年八月から十二月までの四ヵ月と、十字軍の帰途、ドイツに抑留され、釈放されたのち、身代金調達のために滞在した一一九四年三月からの三ヵ月間だけだった。十年の治世のうち、わずか半年しか、イングランドにいなかったわけである。しかも、十字軍費用の調達も、身代金の工面も、いずれもたいへんな額であ...5-8-2リチャード獅子心王
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年8くずれゆくアンジュー王国――アンジュー王家の人々Ⅱ――1ヘンリー王の死(挿絵はリチャード1世とフィリップ2世)ジョンがアイルランドでもたもたしているあいだに、兄ジョフリーが、トーナメントで重傷を負って死んだ。彼にはすでに一女エリナーがあり、死後男子アーサーが生まれたから、ブルターニュ侯領をジョンが継承するというわけにはいかなかった。だが、末っ子のジョンは、ここに、一歩、王冠へ近づいたのである。ヘンリーとリチャードの仲は険悪であった。リチャードの許婚(いいなずけ)、フランス王女アリスは、まだヘンリーの宮廷にいて、ヘンリーとの関係をひそかにうわさされていた。アキテーヌ侯領のジョンヘの分与という問題をめぐるさきの争いの結果、ヘンリーはリチャードを下位継承者に...5-8-2くずれゆくアンジュー王国
7エニシダの枝(プランタジネット)の王たち――アンジュー伯家の人々Ⅰ――4ライオンの子供たちアリエノールは、この夫に満足していたのだろうか。ヘンリーとアリエノールのあいだには、八人の子が生まれた。ヘンリーからジョフリーまでの四人は、一一五五年から五八年まで、毎年生まれた。末子ジョンは一一六七年に生まれ、彼の誕生後すぐ、両親は別居生活にはいっている。別居したアリエノールは、リチャードをつれてボワツーに閉じこもり、ポワチェの彼女の城は、ふたたび、吟遊詩人や、小粋(こいき)で軽薄な若い騎士たちでにぎわった。(挿絵はリチャード1世)放浪の学僧(ゴリアルディ)仲間にとっても、また、アリエノールの名が強い牽引力をもったことは、彼らの作ったラテン詩を集めた詩歌集『力ルミナ・ブラーナ』に収録されている詩句からもわかる。こ...5-7-4ライオンの子供たち
7エニシダの枝(プランタジネット)の王たち――アンジュー伯家の人々Ⅰ――5兄弟、あい争う「若いヘンリー」王には、ふしぎな人気があった。それと対照的に、リチャードには人気がなかった。「優雅で高貴、愛らしく、言葉なめらか、容貌美しく、典雅なものごし、どこからみても魅力にあふれ、背丈はといえば、天使にわずか劣る――リチャードは、ちょうど、この逆をいっている」と、ある記録はいい、ウォルター・マップは、リチャードを評して、「なみはずれての不信心者、じつにごりっぱな罪の宮殿」といっている。そのじつ、『若いヘンリー』王には、父王の行政手腕も、リチャードの示した軍人としての能力も、いっさい欠けていた。いわば彼は、その弟たちにくらべれば、一見美しくりりしげな五月人形みたいなものだったのである。それだけに、人々は、彼のうちに...5-7-5兄弟、あい争う
一人だけじゃ,いくらなんでも、できることに限りがあるよね?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『項羽と劉邦の霊言項羽編──勇気とは何か』(幸福の科学出版)で、古代中国の「項羽と劉邦」の戦いで有名な英雄・項羽の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。組織が大きくなると、責任逃れをする人間のほうが増えてきて、成功しない理由を、「人材が不足している」とか、「お金が不足している」とか、「商品がよくない」とかさ、そういうようなことに求めがちであるからな。しかし、ゼロから起こして国を建てていくところの醍醐味は、やはり、「個人からも成しうるものである」ということだな。組織はあとからついてくるところもあるんだけど、今、そういうことが、君らに大事なんじゃないか。(中略)私の場合は、気性...1人の勇気って?
中国の歴史 春秋戦国時代と始皇帝 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
キングダムの時代として有名な春秋戦国時代と秦の始皇帝。群雄割拠の時代から始皇帝が中国を統一するという物語が少年
「世界史の考え方」シリーズ歴史総合を学ぶ① ―この新書は、一体だれのために何を目的として書かれたのか?近年稀にみる悪書!
高校の学習指導要領が令和4年度から改訂になりました。国語や社会などの主要科目で重要な変更があり、また「情報」が必修科目として加わりました。そういった中で僕が興味あったのは「歴史総合」の登場です。ご存じでない方に簡単に説明しますと、従来18世紀以降の近代史を扱っていた「世界史...
中国の歴史 古典文明と国家のはじまり 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
紀元前5000年頃、中国大陸を流れる大きな川、黄河と長江の流域で「文明」が起こった。やがて集落をまとめた「国家
―古代オリエントにも貿易中継国家があったのか 今高齢化が進行する日本ではお葬式も年々増えています。私は自分が死ぬ時散骨がいいなと思っておりますが、多くの方はお墓を希望されるでしょう。「お墓も増える一方になるけど、用地は十分にあるのかな?墓仕舞いという言葉も聞いたことがあるけ...
ものすごく忙しい毎日です。テレビで見たい番組をほとんど見られず、「テレビ番人」とか称される93歳父親のようなテレビ三昧の生活は、当分先になりそうです。最近録画を使うようになりましたが、録りためてもなかなか観る暇がないです。しかし録画しておくと繰り返し観ることができるので、便...
21世紀はどういう発展があるのかと思って期待しながら2001年を迎えた身ですが、2001年アメリカの9.11同時多発テロに始まって、ひどい世紀になりそうだというのが偽らざる感想です。急速に発達した移動や物資輸送でグローバル化が促進し、開放的な気分が盛り上がるのかと思ったら...
著者の出口治明さんは週刊文春にずっと連載を持っていましたが、一昨年急に休載になりました。それほど熱心に連載を読んでいたわけでなかったのであまり気にしてなかったのですが、脳内出血で倒れていたのですね。最近復活されてきて文春にも顔出し記事が出たので、ようやく知った次第です。さて...
一度、紹介されかけたと思うんだけど、要するに、ピラミッドパワーの秘密って、何なのよ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『トス神降臨・インタビューアトランティス文明・ピラミッドパワーの秘密を探る』(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように説いておられます。自分で語り下ろした本書の内容を読み直してみて、人間の書いた作品とはとても思えない。「アデプト」の智慧が本書には眠っている。遠い昔、アレキサンドリアの図書館が焼失するとともに失われた古代の叡智が、今ここに甦る。大西洋には、アトランティス大陸もアトランティス文明も、やはりあったのだ。その秘密の一端がここに明らかにされたのだ。未来文明のあり方が、古代文明の神秘のベールをはがすと同時に明らかになってくるのだ。果たして人類は、我々の祖先...ピラミッドパワーの秘密って?(その2)
半年くらい前に週刊新潮で保守派の論客高山正之氏が「大陸から日本への侵攻は元寇が初めてではない。その前の平安時代にも刀伊(とい)が大陸から来て九州に侵攻し、平安貴族制を大いに揺るがした。」と書いていました。私、日本史が好きでなかった、というか高校時代に日本史を教えられた社会科...
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年5ドイツ国王のカノッサの屈辱1カノッサにて一〇七六年十月、ドイツ諸侯は、マインツの南トリプールに集まった。国王ハインリヒ四世が、この年の二月、教皇グレゴリウス七世によって破門されたので、これにどう対処したらよいかを相談するためである。この国王破門は、その前月、ハインリヒ四世がウォルムスに諸候を集めて国会(封建諸候会議)を開き、教皇の廃位を決議させたことに対する教皇の反撃であった。教皇は、国王ハインリヒを破門することによって、ハインリヒに臣従するものたちの、つまりドイツ諸侯の、国王ハインリヒに対する誠実の義務を解除したのである。したがってハインリヒに忠誠を誓うものは、教皇に対し弓をひくことになる。ウォルムスの国会では国王を支持した諸侯も、こういうことになっ...5-5-1カノッサの屈辱
元代に伝わった宗教と各ハン国のその後【各国史/13世紀~16世紀】
モンゴル帝国の出現した13~14世紀のユーラシア大陸はタタールの平和(=パクス・タタリカ)とも呼ばれる政治的秩序がもたら
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年3シャルルマーニュ(シャルル大帝)1ロランの歌「熱心に、ほとんどたえまなく、境界のしかるべき場所に軍を配置して、サクソン族と戦いをつづけるいっぼう、徴しうるかぎりの兵力を集めて、スペインを攻めた。ピレネー山脈を越え、行く手にある砦や城を残らず制圧し、自軍になんらの損傷をこうむることもなく帰途についた。だが、しかし、その途上、行きと同じピレネー越えにおいて、バスク人の背信にいささか悩まされる仕儀(しぎ)とあいなったのである。山あいをぬける道のせまさに、やむなく長い列をつくって軍を進めていたとき、山の高みにかくれひそんでいたバスク人たちが――実際、そのところには樹木が密生し、かくれひそむには絶好だったのだ――逆落(さかお)としをかけ、荷駄隊の最後尾に、また、...5-3-1ロランの歌
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年4ノルマン侵入でのバリの戦い3ノルマン侵入でのパリの戦い喜びをもって語れ、おお、汝、全能の神に救われしもの、ルテチアよ。アボンのラテン語韻文『バリ(古名ルテチア)の町の戦い』はこう歌い出している。アボンはパリの東、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院の一修道士で、ネウストリア、別のいいかたでは「セーヌとロワールのあいだの土地」の生まれだった。その生涯のことは、ほとんど知られていない。九一四年ないし一九年の日付をもつ勅令の記載に、同修道院の「訪問客宿舎係」としてアボンという修道士の名がみられ、おそらくこれと同一人物と考えられている。その後、おそらく九二〇年代まで生きていたらしい。とすると、この詩に歌われた八八五年から六年にかけての事件のあったときには、彼は、ま...5-4-3ノルマン侵入でのパリの戦い
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年4ノルマン侵入でのバリの戦い2ノルマンは北辺の海賊一九〇三年、ノルウェーのオスロ湾口の西岸オセペルクに、高さ六メートル、径三六メートルにおよぶ巨大な「舟塚」が発見された。翌年、発掘が行なわれた結果、みごとな彫刻をほどこしたした舟が現れた。青粘土と泥炭土とが木材の腐敗を防いだのである。舟は船首を南に、つまり沖のほうに向け、大きな石に繋留された格好になっていた。船尾にしつらえられた小室には、女性の骨が二体分横たわっていた。ある学者は、この二体のうちの年若のほうの遺骸は、ノルウェー王ハラルド美髪王の祖母にあたる王妃アサではないかという魅力ある説を立てている。遺物による年代測定の結果は、この舟塚の作られたのが九世紀の後半であることと示し、この説を裏づけているのだ...5-4-2ノルマンは北辺の海賊
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年4ノルマン侵入でのバリの戦い1ノルマン人きたる九世紀、フランク王国は、ユトランド半島に根拠地をおくノルマン人の侵冦をうけた。ユトレヒトの南東、ラインの一支流が、幾条かにわかれた本流のひとつに流れこむ分流点の近くに、オランダ語名でズールステーデと呼ばれる港町があった。正確にいうと、この町はいまはない。ただ、バイク・バイ・ズールステーデ(ズールステーデ近くの地区)という町があり、ズールステーデが、かつてその地に存在していたことを示している。そして、これは、ズ-ルステーデを防衛するための砦の跡に建設された町であったと考えられる。その砦は、おそらくシャルルマーニュによって建造されたのだ。ズールステーデはラテン語でエンポリウム、つまり「市の町」と史料に出ることもあ...5ー4ー1ノルマン人きたる
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年2動乱の地中海1東ローマ帝国ユスティニアヌス皇帝の再征服ローマ帝国は、五世紀末に滅亡したのではなかった。帝国の東半分は、なお存続していたのである。だが、なお存続していたとはいえ、このいわゆる東ローマ帝国(首都コンスタンチノーブルの古名ビザンティウムから、通称「ビザンティン帝国」)も、けっして、ゆるぎなく安泰であったわけではなかった。皇帝アナスタシウス(四九一~五一八)が、黒海からマルモラ海にかけて、「アナスタジウスの壁」と呼ばれる長城を建設したことにうかがえるように、ドナウ川は、もはや防衛線ではなくなっていた。ドナウ川の南にはゲルマン諸族が、北にはスラブ諸族、ブルガリア人、フン族がひかえていた。シリアのペルシァとの国境は、つねに危機をはらんでいた。しかも...5-2-1東ローマ帝国ユスティニアヌス皇帝の再征服
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年2動乱の地中海2衰運の老帝国ユスティニアヌス皇帝は栄光に輝いた。イタリア半島、サルデーニャ、シチリア諸島、北アフリカ沿岸から西ゴート領のイベリア半島(スペイン)、地中海岸など、西部地中海の要所が東ローマ帝国領として確定し、地中海は、ふたたび「ローマの湖」となった。だがその栄光は、つかのまの輝きであった。ユスティニアヌス没後三年、五六八年に、パンノニアにいたランゴバルド族(最初の地図参照)が北イタリアに侵入した。うちつづいた戦乱と、戦後ユスティニアヌスが戦費回収のために課した巨額の税金とが、イタリアのローマ人をすっかり疲弊させていたときだけに、侵入するゲルマン人に対するローマ人の抵抗はもろかった。ランゴバルド族は、族長アルボインにひきいられて、まずアペニン...5-2-2衰運の老帝国
世界史でよく出る論述問題:論述問題の勉強法とおすすめの論述問題集を紹介
大学入試の世界史でよく出る論述問題をまとめました。「スマン帝国とヨーロッパ=キリスト教世界との関り」「ニューディール政策が行われた背景と、それまでの自由な資本主義との相違点」など、古代~現代まで地域別に全部で41問あります。最後に論述対策の方法と対策問題集も紹介しています。
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年1ブルグンド王国の興亡2瀕死のローマ帝国五世紀初頭の四〇六年冬十二月、バンダル、スエビ、アラン諸族の混成集団は、マインツで氷におおわれたライン川を渡り、トリエル、アミアン、パリその他の都市を攻略しつつ南に向かった。このとき、ガリアのローマ人たちは、ガリアにおけるローマ帝国が崩壊したことを身にしみて知ったにちがいない。ゲルマン人の侵入を防ぐ防衛線であったはずのライン川沿いの長城など、もはや存在してはいなかった。ガリアの東の辺境には、ローマ駐屯軍の残党のたてこもる城塞や、城壁をめぐらし、その土地土地の有力者の家系が指導者として差配する都市が点在していた。それらの、いわば「点」のあいたには、広大な「面」がひろがり、これは政治的空白地帯だったのである。ガリアのロ...5-1-2瀕死のローマ帝国
~偉いと思っていた生徒会役員バッジ~ 「生徒会だとよ、バカかあいつ」 名古屋の地下鉄に乗って、下校しているときに僕の耳に小さな声で飛び込んできた言葉です。高校1年のときでした。 右斜め向かいの反対側の席に座っていた顔も名前も知らない他校の生徒2人のひそひそ話でした。 自分が座っていた座席との間は3メートルほどありましたが、僕のことを噂して放った言葉であることは一目瞭然です。 制服の左えりのところに...
『ベルサイユのばら』の外伝を読んだ日から続いて池田理代子さんの歴史マンガが面白くて、ナポレオン 〜 聖徳太子 〜 そして今度はあの有名な エルミタージュ美術館 を作った『女帝エカテリーナ』の生涯を描いた作品を読みました 📚 『女帝エカテリーナ』池田理代子 /感想・レビュー-読書メーター …とにかく、池田理代子さんのマンガは…建物や服装などの絵が綺麗!それだけではなく、歴史の中の人物が、何故? そういう行...
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年18藩鎮と宦官2両税法の施行安史の乱は唐朝に大きな打撃をあたえ、律令制を施行することも困難になった。戸籍や計帳がみだれて、均田制を実行することができなくなったのである。それにともなって荘園(私有地)が発達していった。荘園では、佃戸(でんこ)とか佃客(でんかく)とかよばれる小作人が農耕にしたがう。生活の苦しくなった農民は、つぎつぎに荘園へながれこんだ。このような形勢では、もはや租庸調のような税役も課すことはできない。租庸調の制度は、土地の所有の額をとわず、一率に丁男(成年男子)から同額を徴収するものであった。しかし逃戸がふえて、政府がはっきり丁男をつかむことができなくなると、租庸調もおこなわれなくなる。いまや抜本的な改革が必要となった。かねてから唐朝では、...4-18-2両税法の施行
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年18藩鎮と宦官3牛李(ぎゅうり)の党争こうしたときに政府のなかでは、深刻な争いがつづいていた。牛李の党争とよばれ、憲宗の世(九世紀のはじめ)から、およそ四十年にわたって争われたのである。牛とは牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)をさし、李とは李徳裕(りとくゆう)のことをさす、といわれてきた。牛僧孺は隋の高官であった牛弘の子孫で、そののちは、祖父も父も大官になっていない。僧孺は進士に及第したうえ、賢良方正科という特別の科挙にも合格し、穆(ぼく)宗の長慶三年(八二三)、宰相に列せられた。李徳裕の父は憲宗のときの宰相であった。徳裕は小さいときから学問にはげみ、古典に精通したが、科挙をうけず、仕官しようともしなかった。それでも父が宰相であったために、穆宗(ぼくそう)が即位す...4-18-3牛李の党争
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年18藩鎮(はんちん)と宦官(かんがん)1はびこる藩鎮安史の乱ののち、節度使は内地にも多く列置され、軍政だけでなく、民政や財政もつかさどった。いまや強力な節度使が管轄する地方では、中央政府の威令もおこなわれなくなった。こうした節度使を、ふつう藩鎮とよんでいるが、その数は四十から五十にものぼった。これらの藩鎖のうち、もっとも横暴をきわめたのは、いまの河北省にあった盧竜(ろりょう)・魏博(ぎはく)・成徳(せいとく)の三節度使である。「河北三鎮」とよばれた。安史の乱の末期にあたって、この反乱を唐朝はなかなか討滅できない。ようやく河北三鎮の力によって、どうにか乱を鎮定したのであった。これより三鎮の力は、いよいよ強大となっていった。藩鎮は、強大なる武力を背景にした軍...4-18-1藩鎮と宦官
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年17トルコ帝国3西域をめぐって突厥にかわってモンゴル高原の主となったのは、おなじトルコ人のウイグル族であった。中国人はウイグルのことを「回訖(かいきつ)」あるいは「回鶻(かいこく)」と記した。たまたま唐では、玄宗の天宝年間にあたっている。かの楊貴妃が、玄宗の寵愛をえた時期であった。このころ唐の帝国は、西方において大きな遠征を、いくたびもおこなっている。その主役をつとめたのが、高句麗人の将軍たる高仙芝(こうせんし)であった。チベットにあった吐蕃(とばん)国が、西域の地をねらっていた。吐蕃はパミール高原に進出し、北インドの国(小勃律王国)とむすんで、唐とパミール以西との交通を遮断した。玄宗は、たびたび遠征の軍をつかねしたが、成功しない。そこで起用されたのが、...4-17-3西域をめぐって
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年17トルコ帝国4トルキスタンの成立ウイグル帝国は八世紀の後半から、九世紀のはじめにかけて、大いに栄えた。とくに八世紀の後半においては、たまたま唐は大乱にみまわれている。いわゆる安史の乱である。唐の朝廷はウイグルに援兵をもとめた。ウイグルの兵は、たびたび唐の国内に出動する。長安にも、洛陽にもおもむいた。モンゴルの草原にそだった遊牧の民も、こうして中国の文化を、ぞんぶんに味わったのであった。つづいてウイグルは、西方にむかっても、その勢力をひろげた。それは軍事上の発展だけではない。注目すべきものは、東西をむすぶ貿易の発展であった。ソグドの商人が大いに活躍する。ウイグル帝国のなかにあって、ソグド人たちは貿易に従事し、また西方の文化や技術を、この国につたえた。こう...4-17-4トルキスタンの成立
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年17トルコ帝国2突厥(トルコ)帝国の興亡トルコ人が、いまのモンゴル高原に統一帝国を建てたのは、六世紀のなかばであった。この帝国が中国人から「突厥」とよばれたのである。おりから中国は、南北朝時代の末期にあたっている。トルコの族長たる土門(トメン)は、北朝の諸国と通交し、みずからイリ・ハガン(伊利・可汗)と号した。国をたもつ王、という意味である。一代において立った木扞可汗(もくかん・ハガン)は、その勢力を四方にひろげる。いまや突厥は中央アジア(西域)の諸国を制圧し、ソグド人の商人を保護して、その市場を独占した。さらに東ヨーロッパのビザンチン帝国にもよしみを通じて、東西をむすぶ貿易に巨利をえたのであった。しかし大きな発展は、かえって分裂をまねいた。六世紀の末に...4-17-2突厥(トルコ)帝国の興亡
世界を舞台にした歴史小説を集めてみました。世界史の授業でも習うところですが、教科書ではほんの数行のところにドラマがある歴史小説。日本とは違う歴史・文化・風習のある世界の歴史小説は...
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年17トルコ帝国1オルホン碑文モンゴルの北方(イエニセイ川の上流)に、ふしぎな文字でしるされた碑文があることは、すでに十八世紀の前半、ヨーロッパ人に知られていた。碑文の写生図も、発表されていた。しかし、この碑文がいつごろ建てられたものか、どういうことが書かれているのか、ということについては、なにしろ字が読めないのであるから、いっこうにわがらなかった。そうして十九世紀の末をむかえた。ロシアの考古学者(ヤドリンツェフ)は、オルホン川の流域において、また別の碑文を発見した(一八八九)。そのうちの二つには、ふしぎな文字のほか、漢文もきざまれている。モンゴルの碑文は、にわかに学界の関心をよんだ。あくる年にはフィンランドの探検隊が、そのまた翌年にはロシアの探検隊が、オ...4-17-1トルコ帝国
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年16新羅と渤海4渤海の建国わが聖武天皇の神亀四年(七二七)、渤海(ぼっかい)郡王の使者なるものが入朝した。その申すところによれば渤海とは、高麗(こうらい=高句麗のこと)の後身であるという。かの高句麗がほろぼされてから、すでに六十年をへている。それが突如として、あたらしい国名のもとに、わが国へあらわれた。しかも朝貢(ちょうこう)の使者としてあらわれた。そもそも渤海とは、どのようにして建国したものなのか。高句麗の遺民たちが、東北地方の一角によって反乱をおこしたのは、唐では則天武后(そくてんぶこう)の時代である。その首領たる大祚栄(だいそえい)は、武后がつかねした遠征軍を破り、国を建てて「震(しん)国」と号し、みずから震国公と称した(六九八)。震とは、易(えき...4-16-4渤海の建国
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年16新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)3新羅の統一唐に対しては、新羅や百済(くだら)はもちろん、高句麗(こうくり)も朝貢の礼をとった。しかし半島の三国は、むかしから仲がわるい。そこで唐に和好を通ずるいっぼう、他の国が侵略してきて困る、と訴えるのである。このあたりの立ちまわりでは、新羅がもっとも巧妙であった。ついに唐も、高句麗の遠征にふみきった。しかし太宗と高宗の二代にかけて、五回にわたる遠征も、ことごとく失敗におわる。ここで、またも新羅の外交が功を奏した。唐の高宗は、新羅とむすんで、百済をうつことに、方針をかえた。唐の大軍は百済にわたり、新羅軍の協力をえて、その国都をおとしいれた。国王や王子は、いったんのがれたが、とらえられて長安におくられた。こうして百済...4-16-3新羅の統一
『六朝と隋唐帝国世界の歴史4』社会思想社、1974年16新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)1朝賀の序列天宝十二載(七五三)正月元日、長安の宮殿においては、おごそかな朝賀の儀式がおこなわれようとしていた。これには唐朝の百官はもとより、おりから長安の都にきている諸外国の使臣たちも参列する。日本からも、第十次の遣唐使がおもむいており、大使の藤原清河(きよかわ)、副使の大伴古麻呂らが、式につらなった。ところが式のはじまるにさきだって、ひと騒ぎがおこった。日本の大伴古麻呂がすすみ出て、序列がけしからぬ、と抗議したのであった。外国の使臣たちは、皇帝をまえにして、東西の二列にならぶ。このとき、東の列の第一席は、新羅であった。第二席は大食(サラセン)である。西の列の第一席は吐蕃(とばん=チベット)であり、そうして日本は、そ...4-16-1朝賀の序列