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百人一首の第31歌から第40歌までをまとめます。 途中で、選ばれる歌が、古今和歌集にあるものから、古今和歌集以後の勅撰和歌集のものに変わります。また、源姓、平姓の作者も現れてきます。その中から武力集団を構成するものや、文学の才能を伸ばすものなどが出てきます。 中国大陸では、唐が解体し、五代十国時代、さらに宋による再統一、朝鮮半島では高麗国建国と朝鮮半島統一など、動きのあった時代です。 その頃に詠まれた歌になります。 dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.ha…
「忍ぶれど色に出にけりわが恋は」 平兼盛 内裏歌合での名勝負の勝者となった歌
百人一首第40番目の歌の作者は平兼盛です。 三十六歌仙の一人。 平姓の人ですね。 臣籍降下で出来た平家の一人ですが、その系譜には若干不明な部分があるようです。 赤染衛門の実父でもあります。 今回は平兼盛について紹介します。 平兼盛とは 生年は不明です。没年は991年。 平安時代中期の人です。 村上天皇、冷泉天皇、円融天皇に仕えました。 最終官位は従五位上、駿河守でした。 平兼盛は和歌の才能が高く評価されています。 和歌の作品は、一句一句時間をかけて作られていたようです。 それでも技巧的な、難解なものになることはありませんでした。 そこが高く評価されている部分かもしれません。 時代背景 平安時代…
令和5年1月13日(金) 【旧 一二月二二日 先負】・小寒・水泉動(しみずあたたかをふくむ)春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山 ~持統天皇(645-703)『新古今和歌集』 巻3-0175 夏歌春が過ぎてもう夏が来てしまったようです。衣替えの白い衣を干してあるとい
こちらの記事の、その後です。 shakariki30s.hatenablog.com 冬休みの間に百人一首を息子と一緒に覚えることにして、景品付きの競争という形にすれば少しでも前向きになるかと思ったが、世の中そう簡単に上手くいくものではなかった。 結局、1日6個ということで時間を決めて横に座って一緒に覚えたのだが、「覚えたくない」「百人一首嫌い」といって駄々をこねてなかなか大変だった。 結局、30個くらいは一度は覚えただろうか。(覚えた翌日には忘れていると思ったが、復習までは無理だった) そんなことで冬休みが終わって、今日、学校の授業で百人一首をしたとのこと。 「五色百人一首」の一色分20枚を…
「浅茅生の小野の篠原忍ぶれど」 参議等 うねる言葉で表現された恋歌 臣籍降下で生まれた源氏と平氏のこと
百人一首第39番目の歌の作者は参議等ひとし、源等です。 今回は参議等について紹介します。 参議等とは 嵯峨源氏につらなる人です。 880年生まれ、951年没。平安時代中期の人です。 最終官位は正四位下、参議でした。 醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇に仕えた人でした。 勅撰和歌集の「後撰和歌集」に4首が選ばれています。 百人一首の歌はその中の1首。 時代背景 今回は源氏について。 源姓の流れは、歴史の中にたくさん出てきます。 鎌倉幕府の源頼朝は特に有名ですね。 この源姓の人たち、元々は天皇家の一族で、そこから分かれた家系につらなっています。 皇族が臣下の籍に降りることを臣籍降下といいますが、その時に…
#3746 誰をかもしる人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに
令和5年1月8日(日) 【旧 一二月一七日 仏滅】・小寒・芹乃栄(せりすなわちさかう)末寺とて七草までを休みをり ~神蔵器《かみくらうつわ》(1927-2017)Photo:高砂神社の五代目「相生松」(兵庫県高砂市)~ゆき逢い旅日記 七草の行事を終えた今日は「正月事納め」。12
2022年11月に購入した本の第二弾 ここ最近、和歌の歴史やレトリックに関する本を読んでいます(『伊勢物語』を読むために)。 そこで知ったのが今回の書籍購入…
「忘らるる身をば思はず誓ひてし」 右近 恋多き女の言葉にこめられた毒
百人一首第38番目の歌の作者は右近。 今回は右近について紹介します。 右近とは 生没年不詳。平安時代中期の人です。 右近衛少将藤原季縄の娘と伝えられています。 醍醐天皇の中宮穏子に仕えていました。 恋多き女性だったようで、元良親王・藤原敦忠・藤原師輔・藤原朝忠・源順らと恋愛関係にありました。 この歌の相手は藤原敦忠と考えられています。 藤原敦忠は、藤原家が菅原道真の怨霊に責められ、一族は短命に終わると恐れていました。 本人は三十八歳でなくなります。 当時の寿命から考えて、短命すぎるということはないかもしれませんが、それでも少し早目。 奇しくも、右近の歌の予言が当たったということかもしれませんね…
こちらの記事の続き。 shakariki30s.hatenablog.com 息子の冬休みの宿題、「百人一首を覚える」。 父親との競争(勝ったらご褒美付き)でモチベーションをあげて頑張れるように、と思ったがやっぱり遅々として進まない。。。。 楽しく覚えられたらいいかなと思って、新しいリズムでも付けたらと思って提案したところ、娘(妹)も参加して一緒に覚え始めました。 youtube.com ちなみに娘も楽しめそうなので、以下を購入しました。色で20枚ずつに分けられるので、短い時間でサクッと百人一首が楽しめて、繰り返しやっているうちに5歳の娘もいつの間にかいくつか覚えていました。おススメです! 【…
「白露に風の吹きしく秋の野は」 文屋朝康 散る玉に想うはかなさ
百人一首第37番目の歌の作者は文屋朝康ふんやのあさやすです。 今回は文屋朝康について紹介します。 文屋朝康とは この人も生没年がはっきりしません。平安時代前期の人のようです。 古今和歌集が成立したころに歌人として活動をしていたようですが、古今和歌集には次の歌1首のみが選ばれています。 秋の野に置く白露は玉なれやつらぬきかくる蜘蛛の糸筋(「古今和歌集」秋上) これも白露を玉(真珠)に見立てた歌になっています。 文屋朝康は、秋の朝の白露が置かれた野の風景が好きだったのでしょう。 時代背景 早朝の露は、陽が上るにつれて、やがて消えていきます。 はかないものです。 その露を玉と見る。 玉とは魂を暗示し…
冬休みはこちらも取り組んでみます 『百人一首』の歌をなぞって味わうことで、自然に美しい文字の練習ができる手習い帖だそうです。 学校で習っている百人一首…
サネカズラ(実蔓)の集合果が赤くなっています標準和名は 実が目立つからでしょうか こちら でも紹介されていましたマツブサ科 別名:ビナンカズラ(美男蔓)樹皮から粘液を抽出し 男性の整髪剤として用いたことからの命名万葉時代から 人びとに馴染みの蔓性樹木ですこの果皮の光り具合も 粘液質たっぷりに見えますお正月が近いからというわけではありませんがサネカズラといえば百人一首の 逢う さね(小寝) 人に知...
「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを」 清原深養父 短い夏の夜を愛しむ
百人一首第36番目の歌の作者は清原深養父きよはらのふかやぶです。 三十六歌仙の一人です。 今回は清原深養父について紹介します。 清原深養父とは 生没年ははっきりしません。平安時代中期の人です。 官位は従五位下。晩年は洛北に補陀落寺を建立。自らそこに隠棲したようです。 古今和歌集に17首、それ以降の勅撰和歌集に41首選ばれています。 琴の名手でもあったようで、清原深養父が弾く琴の音を聞きながら藤原兼輔と紀貫之が和歌を詠んだようです。 時代背景 古典作品や時代小説などを読んでいると、いろいろな月の呼び方がでてきますね。 上弦の月、下弦の月、などはよく目にします。 月齢とその時の月の呼び方をまとめて…
この記事はツイートに倣って、あえて文字だけで書いているのですごく読みづらいです。 イーロンマスクがTwitterの文字数を4000文字にすることを検討しているという話 Twitterの文字数を4000にするのを検討しているのかというのにYesと回答するイーロンマスク4000文字もあったら百人一首が全部入るのでは全部ひらがなでも5・7・5・7・7=31文字×100首=3100文字 https://t.co/3ruvwPYQQx— あみど@高配当投資 (@amidmidoa) 2022年12月12日 字余りや改行やスペースもあるので実際には3100文字よりも増えます では4000文字は余裕では?と…
ご訪問ありがとうございます コロナ禍で、長い間カルタ取り大会も自粛されてたんですが、中学校で次のお正月明けは再開されるそうで冬休み中に覚えといて…
#3717 おほけなくうき世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖
令和4年12月10日(土) 【旧 一一月一七日 先負】・大雪・閉寒成冬(そらさむくふゆとなる)おほけなくうき世の民におほふかなわが立つ杣に墨染の袖 ~慈円 『千載和歌集』 巻17-1137 雑歌中未だつたなき我が身ではあるが世の民の上に覆いかけよう。私が寄って立つこの比叡山
「人はいさ心も知らずふるさとは」 紀貫之 仮名文字で書かれた「土佐日記」の作者としても知られる
百人一首第35番目の歌の作者は紀貫之です。 古今和歌集の選者であり、三十六歌仙の一人です。 また土佐日記の作者とも知られています。 今回は紀貫之について紹介します。 紀貫之とは 生年866年頃、没年942年頃。平安時代前期から中期にかけての人になります。 官位は従五位上木工権頭で、明治になってから従二位を贈られています。 醍醐天皇による勅撰和歌集「古今和歌集」の選者として、紀友則、壬生忠岑、凡河内 躬恒らとともに万葉集の時代から平安中期までの和歌を選びました。また自らの和歌も101首選ばれています。 紀貫之は「古今和歌集」の仮名序も執筆していて、当時の国風文学の第一人者でした。 また「土佐日記…
日経の最終面に連載されている安部龍太郎の小説「ふりさけ見れば」を、毎日楽しく読んでいます。ここに出てくる中心人物は「阿倍仲麻呂」です。留学生に推薦され、吉備真備や玄昉とともに717年唐へ渡りました。科挙試験に合格する頭の良さで、玄宗皇帝につかえました。李白・
古文・漢文で学んだことは、社会人としてほとんど使わない。「有り」「居り」「侍り」「いまそがり」なんて覚える必要はない。だから、大学受験のために学ぶべき科目ではないと思う。他にも社会に出るために具体的に学ばなくてはいけないものが多くなっている。高校の選択教
「誰をかも知る人にせむ高砂の」 藤原興風 長寿の寂しさも詩情とする
百人一首第34番目の歌の作者は藤原興風おきかぜです。 三十六歌仙の一人です。 今回は藤原興風について紹介します。 藤原興風とは 生没年は不詳です。 この百人一首の歌の通りであれば、長寿の人だったと思われます。 最終の官位は正六位上でした。 和歌の実力は高く評価されていた人で、古今和歌集だけでも17首選ばれています。古今和歌集以降の勅撰和歌集を合わせると38首。 この時代の代表的な歌人であったといえます。 時代背景 平安時代には、建物の構造がその前の時代と比べて変化しました。 大きな変化は床が作られるようになったこと。 それまでは地面を固くかためて、その上に椅子を置いて座っていました。 それで、…
先日図書館に行った際、ふと思い立って幼児向けのコーナーに立ち寄った。息子が幼い頃に好きで何度も借りた絵本のシリーズは懐かしく、また最近の新しいものも眺めたりしていた。そんな中で私の目に留まったのはコレ。子供向けの優しい百人一首、イラスト満載
「ひさかたの光のどけき春の日に」 紀友則 散る桜に心を奪われる都人
百人一首第33番目の歌の作者は紀友則。 古今和歌集の選者で、三十六歌仙の一人でもありました。 また、紀貫之の従兄弟にあたります。 今回は紀友則について紹介します。 紀友則とは 生年は845年頃、没年は907年。 最終の官位は六位で、役職は大内記でした。 和歌の才能が高く評価された人でしたが、生涯の官位は高くありませんでした。 古今和歌集の選者となっていましたが、完成を見ることなく亡くなってしまいました。 この歌に詠まれている桜は、はかなげに散るというよりも、むしろ春の明るい光の中で輝いているようにも感じ取れます。 桜の、本来の美しさは、そういった情景にあるのかもしれません。 時代背景 「竹取物…
「山川に風のかけたるしがらみは」 春道列樹 見立てで歌う秋の彩り
百人一首第32番目の歌の作者は春道列樹はるみちのつらき。 平安時代前期の歌人でした。。 今回は春道列樹について紹介します。 春道列樹とは 生年は不明、没年は920年とされています。 910年に文書生となり、その後太宰大典となり、さらに壱岐守に任じされましたが、赴任前に亡くなったようです。 最終官位は従六位下・壱岐守。 文書生とは、大学寮で史書や詩文などをテキストとして用いた研究や教育を行っていた人たちのようです。 中心となった書物は「史記」、「漢書」、「文選」など。 漢文や漢詩の知識は豊富な人だったと思われます。 そのような人も、和歌が盛んになると、その才能を発揮しました。 国風再興の勢いは大…
「朝ぼらけ有明の月と見るまでに」 坂上是則 白雪の降り積もる吉野の里
百人一首第31番目の歌の作者は坂上是則。 三十六歌仙の一人です。 今回は坂上是則について紹介します。 坂上是則とは 生年は不明、没年が930年頃。 大和大掾に任じられていますので、それで吉野への愛着が強かったのかもしれません。 最終官位は従五位下・加賀介。 地方官に始まり、地方官に終わった人でした。 吉野とは、奈良県吉野郡、吉野川流域。 桜の名所の吉野山もあります。 古来、吉野には多くの天皇の離宮がありました。 それで吉野を古里と思う人も多かったのでしょう。 そういえば、百人一首には都の周辺に降る雪のことがいくつかの歌で詠まれています。 当時は雪が降り積もることがよくあったのでしょうね。 時代…
まるで攻略本!?『百人一首 壮麗図鑑』~和歌や歴史の情報がいっぱい~
『百人一首 壮麗図鑑』は、全ページフルカラーのイラストがとても魅力的な1冊です。 単に歌の意味を解説するだけではなく 人物像や時代背景まで教えて ...
2学期中間テストの結果が返ってきました ☟ 1学期 相変わらずだな~ 学年の平均・順位表はまだ出ていないとな?本当かな~。 1学期の期末テストの成績より下がっているのは当然として、1学期の中間テストよりはよかったみたい。 1学期の期末と比べると34歳くらい老けそうなので、1学期の中間テストと比べてみました。(現実逃避) (adsbygoogle = window.adsbygoogle []).push({}); 2学期中間テスト 1学期中間テストの息子の点数と比較して 国語 + 2(漢字~~~!) 数学 + 2 理科 +15 社会 +12(誤字・漢字解らないが8点分もある!) 英語 +…
百人一首の第21歌から第30歌までをまとめます。 時代背景としては、都では藤原北家の権勢の拡大、東国では荘園制度から武士勢力の台頭、西国では大陸との貿易で力をつけた民が、それぞれの動きを活発化させていたことが注目されます。 そんな流れのなかで、平将門の乱、藤原純友の乱などが発生しました。 詳しくは、各記事をご参照ください。 dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantand…
令和4年11月1日(火) 【旧 一〇月八日 大安】・霜降・霎時施(こさめときどきふる)みせばやの花紅ふかく十一月 ~山口青邨(1892-1988) 「みせばや」は10月から11月に咲くベンケイソウ科の多肉植物。俳句では晩秋の季語です。小倉百人一首の90番にこんな歌があります。Pho
「有明のつれなく見えし別れより」 壬生忠岑 定家が「名歌」という一首
百人一首第30番目の歌の作者は壬生忠岑です。 36歌仙の一人です。古今和歌集の選者でもありました。 今回は壬生忠岑について紹介します。 壬生忠岑とは 生年860年頃、没年が920年頃。 前回の凡河内躬恒とほぼ同じ時代の人です。 和歌の才能は高く評価されていましたが、高位に任官されることはなかったようです。 百人一首に選ばれた歌に関して、逸話があります。 後鳥羽院が藤原定家、家隆に古今和歌集の中の名歌はどれかと尋ねられました。 定家、家隆の二人が選んだのがこの壬生忠岑の歌だったといいます。 内容は素朴なものですが、時間の流れや人の心の動きなどが無理なく自然に表現されているところを評価したようです…
丸谷才一 「新々百人一首(上・下)」 (新潮文庫) 雪のうちに 春はきにけり うぐいすの 氷れる泪 いまやとくらむ 二条后 新年明けまし
「心あてに折らばや折らむ初霜の」 凡河内躬恒 古今和歌集の選者の一人
百人一首第29番目の歌の作者は凡河内躬恒おおしこうちのみつねです。 36歌仙の一人であり、古今和歌集の選者でもありました。 今回は凡河内躬恒について紹介します。 凡河内躬恒とは 生年859年は、没年が925年といわれています。 甲斐、丹波、和泉、淡路などの地方官を歴任しました。官位は五位。 宇多天皇から醍醐天皇の時代になります。 凡河内躬恒は紀貫之らとともに、古今和歌集の選者の一人になりました。 また自身の歌も古今和歌集に58首、それ以降の勅撰和歌集にも多くの歌が選ばれ、その和歌の才能が高く評価された人でした。 歌人としては京で実力が認められていましたが、役職は地方官。 地方官の職務を終えて帰…
令和4年10月17日(月) 【旧 九月二二日 赤口】・寒露・菊花開(きくのはなひらく)秋の田のかりほの庵の苫《とま》をあらみわが衣手は露にぬれつつ ~天智天皇 『後撰和歌集』 巻6-0302 秋歌中秋の田の近くに据えた仮小屋の、屋根を葺いた苫の編み目が粗いので、私の衣の袖は
「山里は冬ぞ寂しさまさりける」 源宗于朝臣 光孝天皇の孫 臣籍降下について
百人一首第28番目の歌の作者は源宗于朝臣みなもとのむねゆきあそんです。 光孝天皇の孫にあたります。 今回は源宗于朝臣について紹介します。 源宗于朝臣とは 生年は不詳、没年が940年です。 894年に源の姓を与えられ、臣籍降下、つまり皇族を離れて天皇に仕える臣下となります。それで光孝源氏とも呼ばれます。 後に東国の武士団の棟梁として力を伸ばす源氏は清和源氏とも呼ばれますね。 清和天皇から臣籍降下した一族という意味です。 ちなみに朝臣とは官位が五位以上の人につける敬称、親称です。 五位は姓と名との間に、四位は姓名の後に、三位以上は姓の下につけて名はつけない形になります。 源宗于朝臣は姓名の後。官位…
令和4年10月7日(金) 【旧 九月一二日 友引】・秋分・水始涸(みずはじめてかるる)ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり ~順徳院 『続後撰和歌集』 巻18-1205 雑歌下大宮の古びて荒れ果てた軒端の忍ぶ草ではないが、いくら偲んでもなお私の思いは尽くせ
「みかの原わきて流るるいづみ川」 中納言兼輔 風雅な交流の中心だった紫式部の曽祖父
百人一首第27番目の歌の作者、中納言兼輔こと、藤原兼輔です。 紫式部の曽祖父にあたる人物です。 今回は中納言兼輔、藤原兼輔について紹介します。 中納言兼輔こと藤原兼輔とは 877年に生まれ933年に亡くなっています。 享年57。 醍醐天皇に仕え、最終官位は権中納言従三位。 和歌や管弦に秀で、当時の歌壇の中心にいました。 紀貫之や凡河内躬恒などがその邸宅に集まって、風雅な交流が行われたようです。 邸宅は鴨川の堤にあったので、堤中納言とも呼ばれます。 なお、百人一首に選ばれている歌は、藤原兼輔の作ではないとも考えられています。 作者不詳なのですが、藤原兼輔の作として新古今和歌集に選ばれ、百人一首に…
「小倉山峰の紅葉ば心あらば」 貞信公 権勢の中心にいるものの歌
百人一首第26番目の歌の作者は貞信公、藤原忠平です。 藤原北家が権勢を極める第一歩を踏み出した人です。 今回は貞信公、藤原忠平について紹介します。 貞信公、藤原忠平とは 藤原忠平は、菅原道真と対立した藤原時平の弟。菅原道真を太宰府に左遷しましたが、その怨霊に呪われるようにして時平の一族は衰退してしまいます。その藤原時平に変わって藤原北家の氏の長者になったのが藤原忠平です。 藤原忠平は、宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇の代に仕えました。その政治手腕は優れたものであって、兄の藤原時平と藤原忠平の二人が進めた治世は「延喜の治」とも呼ばれました。 官位は醍醐天皇の時に従一位、太政大臣。朱雀天皇の…
飛鳥川 こんにちは、暖淡堂です。 週に1回のペースで百人一首の歌人たちを紹介しています。 普通に一首ずつ、その和歌としての読みを説明するのではなく、それぞれの歌人たちが生きた時代を俯瞰できるような記事にしようと考えています。 その理由は、百人一首の歌人たちが生きた時代が、まさに動乱と変革に彩られたものだったからです。 百人一首の一番目の歌人は天智天皇。626年〜671年に生きた人でした。 よく知られているように、大化の改新の中心人物。 645年の乙巳の変に始まる大変革の主導者でした。 その後、白村江の戦い、壬申の乱などがありました。 都は藤原京、平城京、長岡京を経て平安京へ。 中国の政治体制を…
「名にし負はば逢坂山のさねかづら」 三条右大臣 風雅を愛する高官の一首
百人一首第25番目の歌の作者は三条右大臣、藤原定方です。 醍醐天皇、宇多天皇、朱雀天皇に仕えました。 今回は三条右大臣、藤原定方について紹介します。 三条右大臣、藤原定方とは 873年生まれ、932年没との記録が残っています。藤原北家勧修寺流の人です。 藤原北家は権勢があったのでしょう、藤原定方は正三位に昇格した時に右大臣となりました。その時の左大臣は藤原北家嫡流の藤原忠平。権勢の中心にいた人です。 最終官位は従二位。没後に従一位が追贈されています。 その能力が評価された高官でした。 また風雅を愛する文人であり、人気者でもありました。 和歌を愛し、紀貫之らとの親交がありました。 百人一首に選ば…
百人一首第24番目の歌の作者は菅家。菅原道真です。 藤原氏と対立し、左遷されるまでは天皇や上皇の近くにいて、その才能を愛されていました。 今回は菅家、菅原道真について紹介します。 菅原道真とは 845年生まれ、903年没です。学者で参議にまで上った菅原是善の三男。 生前の最高官位は宇多天皇の時の従二位、右大臣。このときの左大臣は藤原時平でした。 右大臣となる前の菅原道真は遣唐大使に任ぜられていましたが、当時の唐国内の混乱を見て、度々遣唐使の廃止を提議、やがてそれが受け入れられて遣唐使の歴史は閉じられました。 晩年は左遷された太宰府で過ごしました。そこでは衣食住も不便な状態だったようです。貧困の…
某月某日早朝、近所を歩くと、早や秋の気配を感じます。今年は夏が短かった。ロシアのウクライナ侵攻で、ガスや電力が心配される欧州です。南欧のポルトガルは、ドイツやフランスと比べ多少暖かいとは言え、今年は厳しい冬になりそうです。今はいったんそれを置いて。秋になるとつい思い出される歌の話を。Wikiipediaより君がため 惜しからざりし命さへ 長くもがなと 思ひけるかな(君のためなら命さえ惜しくないと思ったが、...
台風一過。 今朝はとても涼しい朝でした。 お天気予報によると、 お昼間はそこそこ暑いようですが。 お母さんは四季の中で一番秋が好きです。 過ごしやすくてお母さんの苦手な花粉も少なくて、ちょっと物悲しい感じが とても好きです 。 秋風にたなびく雲のたえ間より もれいづる月のかげのさやけさ 小倉百人一首に収録された左京大夫顕輔 (さきょうのたいふあきすけ)の歌です。 結構有名ですよね。 意味は、 秋風に吹かれてたなびいている雲の切れ間から、漏れさしいでている月の光の何と明るくも清らかであろうか らしいです。 まあそんなもんですよね。特に解釈が難しいわけではないですね💦 数百年の時を超えても、同じ月…
【百人一首の歌人】「月見れば千々にものこそ悲しけれ」 大江千里 故事によせた哀詩
百人一首第23番目の歌の作者は大江千里です。 中古三十六歌仙の一人で、漢学者でもありました。 今回は大江千里について紹介します。 大江千里とは 在原行平、在原業平の甥ともいわれています。 生没年は不明ですが、清和天皇から醍醐天皇まで続けて仕えていました。 最終の官位は正五位下で、文官の人事や大学寮の管理などを行う式部省に勤めていました。 白楽天の詩集「白氏文集」を下敷きにした和歌が残されています。 百人一首に選ばれたこの歌もその一つです。 時代背景 平安時代の初期、藤原北家が権勢の基盤を強化していた頃です。 大江千里は大学寮で官僚になるための教育を受けていました。 権勢を増していた藤原氏は、自…
令和4年9月6日(火) 【旧 八月一一日 赤口】・処暑・禾乃登(こくものすなわちみのる)旅人は袂すずしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風 ~在原行平 『続古今和歌集』 巻10-0868 羇旅歌旅人は袂が涼しく感じるようになった。関所を自由に吹き超えてゆく須磨の浦の風よ。Pho
【百人一首の歌人】「吹くからに秋の草木のしほるれば」 文屋康秀 小野小町に向けた優しさ
百人一首第22番目の歌の作者は文屋康秀ふんやのやすひでです。 六歌仙の一人で、小野小町とも親交があったとされています。 今回は文屋康秀について紹介します。 文屋康秀とは 生没年などは不明ですが、877年、880年頃に任官していますので、9世紀末頃の人ではあるようです。 天武天皇の子孫とも言われていますが、定かではありません。 小野小町とは親密な付き合いがあったようで、三河掾として赴任する際に誘ったところ、次の歌を返したとか。 わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ これは誘いに応じたということでしょうか。 十訓抄によれば、これは小野小町の容色が衰えた後のこと。 であ…
【百人一首の歌人】「今来むと言ひしばかりに長月の」 素性法師 父に導かれ僧侶となった
百人一首第21番目の歌の作者は素性法師です。 僧正遍昭の子で、父の勧めで出家ししました。 今回は素性法師について紹介します。 素性法師とは 生没年は不明ですが、9世紀末から10世紀にかけて生きた人です。 清和天皇の時代に左近将監まで昇進したようですが、父の僧正遍昭の勧めで出家しています。 左近将監は禁中の護衛役の現場監督のような立場です。 官位は従六位上でした。 父の僧正遍昭が、その職位を捨てて出家することを勧めたのは、本人の性格を考えてのものだったのでしょうか。 あるいはなんらかの事件が背景にあったのでしょうか。 「大和物語」では素性法師の恋愛のエピソードが書かれていて、情熱的な人のようでも…
百人一首の選者、藤原定家は1162年の生まれ。 時代は保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)を経て、平清盛が強大な権力を持ちつつあった頃でした。 その後、藤原定家は平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱による後鳥羽院の配流などを見ながら、自らは和歌の才能を磨き続けます。 百人一首の成立は1235年。 鎌倉幕府から削除するように指示されていましたが、結局は後鳥羽院の歌も含めた百首が選ばれました。 【百人一首の歌人】では、これまで天智天皇から元良親王まで、それぞれの人物の時代背景に焦点を当てて紹介してきました。 全体の1/5まで来ましたので、一旦まとめたいと思います。 ざっと時代を振り返りま…
六十四卦のうち巽そん卦を上に置くものを紹介します。 今回は「風火家人」です。 卦の形は上卦が巽(風)、下卦が離(火)。 この卦は、家庭での男女のあり方を示しているとされています。 それが正しいかどうかは、時代で変わっていくものですね。 易経や易学小筌での説明を紹介しますが、解釈は現在の我々の状況に合わせて行われるべきかもしれません。 巽(風) 離(火) 先に紹介した六十四卦表をご参照ください。 dantandho.hatenadiary.com 易経にある風火家人の卦辞は以下のように書かれています。 巽/離 風火家人 家人。利女貞。 家人は、女の貞しきに利あり。 易経が書かれた時代は、男は外、…
【百人一首の歌人】「わびぬれば今はた同じ難波なる」 元良親王 悲劇の皇族の恋歌
百人一首第20番目の歌の作者は元良親王です。 陽成院の第一子でしたが、父の退位後に生まれています。 天皇に即位する可能性はほとんどありませんでした。 陽成院は藤原基経との対立で退位させられた人でしたね。 今回は元良親王について紹介します。 元良親王とは 生年890年、没年943年。 平安時代中期ごろの人です。 元良親王のエピソードとしては、左大臣時平(藤原時平)の娘褒子との恋愛が知られています。 褒子は醍醐天皇に入内することになっていましたが、それを宇多上皇が横取りしてしまいます。 その褒子との密通は、政権への反逆とも取られかねない危険なものだったかもしれません。 また、元良親王はよく通る美し…
【百人一首の歌人】「難波潟短き蘆の節の間も」 伊勢 恋多き才女
百人一首第19番目の歌の作者は伊勢。 藤原北家の一人、伊勢守藤原継蔭の娘といわれています。 それで伊勢。 今回は伊勢について紹介します。 伊勢とは 宇多天皇の女御で藤原基経の娘温子に仕えます。 その間、温子の兄弟と相次いで恋愛関係になります。 また宇多天皇の寵愛も受け、皇子を出産するなど、摂関家や天皇などに愛された女性でした。 和歌の才もあり、藤原定家はこの歌を高く評価し、百人一首に選んでいます。 時代背景 この頃は権勢の中心にいた藤原北家と皇室との間で権力闘争が繰り広げられた時代。 権勢の基盤を固めようとする藤原氏と、その権力を奪い返そうとする天皇たちとの力比べが続いていました。 ちなみに宇…
【百人一首の歌人】「住の江の岸に寄る波よるさへや」 藤原敏行朝臣 繰り返し押し寄せる恋心
百人一首第18番目の歌の作者は能書家としても有名な藤原敏行朝臣。 多くの人から頼まれて二百部あまりの法華経を書写したといわれています。 今回は藤原敏行朝臣について紹介します。 藤原敏行朝臣とは 藤原姓ですが、藤原南家の人。この頃の権勢の中心にいたのは藤原北家の人たちでした。 歌人としてだけではなく、書も上手で、法華経を多く書写したのですが、本人は魚を食べ、また女色も自らに禁じることがなかったので、死後は地獄に堕ちたといわれています。 時代背景 権勢の中心には藤原北家の人たちがいましたが、藤原南家の人たちも高位にいました。ちなみに藤原は藤原不比等の四人の子の系統が四家に分かれていて、北家、南家、…