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『黒を愉しむ万年筆インク6色セットつき万年筆のある毎日』を買ったので、キリリとした深い色のインクが似合う本をなぞりたくなり『なぞりがき百人一首』を始めました。なぞりがきを楽しみながら百人一首を学べ、字の練習もできる素敵な本です。
私もやった覚えがある百人一首私の母校では百人一首大会が3学期にあり、そこにむけて中1から少しずつ口頭テストをはさみつつ覚えていくスタイルでした。ただ、当日に私の頭に残っているのはごくごくわずか。学年があがると参加することに意義がある状態で、自分の近くに
「さびしさに 宿を立ち出でて 眺むれば」 良暹法師 秋の夕暮れを多くの人が愛した
百人一首第70番目の歌の作者は良暹法師りょうぜんほうしです。 この人も僧侶で歌人です。 今回は良暹法師について紹介します。 良暹法師とは 生没年不詳。 生年1000年頃、没年1065年頃とする説があります。 天台宗の僧で、朱雀天皇、後冷泉天皇の頃に歌人として活躍しました。 祇園別当にもなったとされています。 一時期、大原に隠棲したと伝えられています。 百人一首に選ばれた歌は、その頃に住んだ庵で経験した情景を詠んだものかもしれません。 前回紹介した歌も、秋を詠んだもの。 この時代の人たちは、秋の情景を愛していたのでしょうね。 dantandho.hatenadiary.com 時代背景 「扶桑略…
「嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は」 能因法師 秋の情景に思いを馳せて詠った
百人一首第68番目の歌の作者は能因法師のういんほうしです。 僧侶で歌人。中古三十六歌仙の一人です。 今回は能因法師について紹介します。 能因法師とは 生年988年、没年1050年(または1070年)。 俗名は橘永愷たちばなのながやす。 和歌に堪能で、諸国を旅し、その情景を詠った歌が残されています。 百人一首に選ばれた歌は後冷泉天皇の頃の内裏歌合で詠まれたもの。 この時は三室の山の情景を想像して作っていますが、山に吹き荒れる嵐、散るもみじ葉、錦のような落ち葉で覆われた竜田川など、色彩と動きが盛り込まれた作品になっています。 yamatoji.nara-kankou.or.jp 能因法師はまた数寄…
「心にも あらで憂き世に ながらへば」 三条院 おっとりとした人柄が愛された
百人一首第68番目の歌の作者は三条院さんじょういんです。 第六十七代天皇ですが、藤原道長に強く求められて退位しました。 今回は三条院について紹介します。 三条院とは 生年976年、没年1017年。 冷泉天皇の第二皇子でした。 眼病(おそらく緑内障)により、次第に視力が衰えていたようです。 権力の中心にいた藤原道長は、それを理由に三条天皇に退位を迫りました。 藤原道長は自らの娘の彰子と一条天皇との間に生まれた皇子(後一条天皇となる)を即位させたかったようです。 退位後も醜聞事件に巻き込まれます。 皇女当子内親王と藤原道雅の間で起こった出来事に心を痛めます。 その事件については、以下の記事をご参照…
「春の夜の 夢ばかりなる 手枕に」 周防内侍 ひとときの戯れを詠う
百人一首第67番目の歌の作者は周防内侍すおうのないしです。 女房三十六歌仙の一人です。 今回は周防内侍について紹介します。 周防内侍とは 生年1037年頃、没年1110年頃。 平安時代後期の人で、本名は平仲子たいらのちゅうし。 桓武平氏につらなる人でした。 後冷泉天皇、後三条天皇、白河天皇、堀河天皇の四代に仕えました。 百人一首に選ばれた歌は、後冷泉天皇の中宮、章子内親王の御所での集まりで詠われたもの。 集まった人たちが楽しく過ごしている間、周防内侍がふと「疲れたので、横になるための枕が欲しい」とつぶやきます。 それを聞いた藤原忠家が、御簾の下から自分の腕を差し出します。 そして「これを枕に」…
「もろともに あはれと思へ 山桜」 前大僧正行尊 武士の勢力が拡大する時代を修験者として過ごした
百人一首第66番目の歌の作者は前大僧正行尊さきのだいそうじょうぎょうそんです。 天台宗の僧侶であり、歌人でもありました。 今回は前大僧正行尊について紹介します。 前大僧正行尊とは 生年1055年、没年1135年。 平安時代後期の人です。 三条天皇の皇子敦明の孫に当たります。 園城寺(三井寺)の明尊の下で出家し、園城寺長吏を経て天台座主となりました。 山伏としての修行を重ねて、修験者としても知られていたようです。 百人一首に選ばれている歌は山岳修行中に出会った風景を詠んだもの。 深い山の奥にひっそりと咲いていた桜を、我が身と引き比べて歌にしたものでしょう。 時代背景 次第に武家の二大勢力の台頭が…
「恨みわび ほさぬ袖だに あるものを」 相模 歌壇で長く活躍した歌の名手
百人一首第65番目の歌の作者は相模さがみです。 相模守大江公資おおえのきんよりと結婚したことから相模と呼ばれるようになった人です。 今回は相模について紹介します。 相模とは 生没年が不詳です。 生年998年頃、没年1061年とする説もあります。 女房三十六歌仙の一人で、歌人としての実力は高く評価されていました。 大江公資と離婚した後、一条天皇の皇女や後朱雀天皇の皇女に仕えています。 大江公資との離婚は、大江公資の浮気が原因のようです。 離婚した時期には、自身が中納言藤原定頼と恋愛関係にあったようですが。 多くの歌合にその名が見え、歌壇で活躍していたことがうかがえます。 時代背景 相模という地名…
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「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに」 権中納言定頼 小式部内侍にやりこめられた貴族
百人一首第64番目の歌の作者は権中納言定頼ごんちゅうなごんさだより(藤原定頼)です。 藤原北家小野宮流藤原公任の長男で、中古三十六歌仙の一人。 今回は権中納言定頼について紹介します。 権中納言(藤原)定頼とは 生年が995年、没年は1045年。 官位は権中納言、最終的に正二位まで昇ります。 藤原道長の息子、藤原頼通が摂政だった時代に、頼通と衝突するような出来事があったようです。 その際に、謹慎させられています。 この藤原頼通との対立は終生続いたようです。 晩年、1043年兵部卿を兼任しますが、1044年に体調が悪化。 その後出家し、1045年1月に亡くなります。 時代背景 藤原定頼は、百人一首…
「今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを」 左京大夫道雅 権勢の座から落ちた藤原一族
百人一首第63番目の歌の作者は左京大夫(藤原)道雅みちまさ。 前回の清少納言の歌を紹介した回にちょっとだけ顔を出した藤原伊周の息子です。 今回は左京大夫道雅について紹介します。 左京大夫(藤原)道雅とは 生年が992年、没年は1054年。 父親が藤原伊周で、祖父が藤原道隆です。曽祖父は藤原兼家。 藤原道隆と藤原道長とは兄弟なので、道雅にとっては藤原道長は大叔父でしょうか。 藤原伊周は、父の道隆が亡くなった後、自分が関白となるものと思い、強引な行動を起こします。 また、藤原道長呪詛、花山法王襲撃などの事件の首謀者ともなり、その結果没落します。 道雅はそのような家で育ちました。 普段の素行が悪く、…
「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも」 清少納言 学識に裏打ちされた軽妙さ 権勢の渦の中でみせる静けさ
百人一首第62番目の歌の作者は清少納言せいしょうなごん。 百人一首第42番目の歌の作者清原元輔の娘です。 「枕草子」の作者として有名ですね。 今回は清少納言について紹介します。 清少納言とは 生年が990年頃、没年は1025年頃。 一条天皇中宮定子(藤原道隆の娘)に仕えていた人でした。 一方の、一条天皇中宮彰子(藤原道長の娘)に支えていた人たちの中には紫式部がいました。 紫式部は「紫式部日記」の中で、清少納言のことを「したり顔にいみじう侍りける人」と書いています。 自らの才能を隠すことなく振る舞い、周囲の人から褒められることも多かったようです。 それを見た紫式部が、自らの謙虚な生き方との違いを…
「いにしへの 奈良の都の 八重桜」 伊勢大輔 藤原道長に命じられて詠んだ歌
この歌は、都で行われた歌合に小式部内侍が歌人として選ばれたときの出来事にまつわるもののようです。 百人一首に歌が選ばれている藤原定頼が小式部内侍のところに来て、「お母さん(和泉式部)からの手紙は届きましたか、歌合で披露する歌は書かれていましたか」と聞いたそうです。 つまり、まだ若い小式部内侍は、母である和泉式部の書いた作品を自らのものとして披露しているのだろう、と邪推した訳ですね。 それに対して、すかさずこの歌を返して、自分の才能を認めさせた訳です。
百人一首の第51歌から第60歌までをまとめます。 時代は平安時代の貴族政治の最盛期。 藤原北家の藤原道長が権勢の頂点に立とうとしている頃。 地方では力を蓄えた有力者も現れていて、次の時代の予兆も見え始めています。 この部分の歌には、女流歌人の作品が多いのが特徴といえます。 dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantand…
「大江山 いく野の道の 遠ければ」 小式部内侍 和泉式部の娘で、早世した才女
この歌は、都で行われた歌合に小式部内侍が歌人として選ばれたときの出来事にまつわるもののようです。 百人一首に歌が選ばれている藤原定頼が小式部内侍のところに来て、「お母さん(和泉式部)からの手紙は届きましたか、歌合で披露する歌は書かれていましたか」と聞いたそうです。 つまり、まだ若い小式部内侍は、母である和泉式部の書いた作品を自らのものとして披露しているのだろう、と邪推した訳ですね。 それに対して、すかさずこの歌を返して、自分の才能を認めさせた訳です。
「やすらはで 寝なましものを さ夜更けて」 赤染衛門 文章博士の夫を支えた才女
百人一首第58番目の歌の作者は赤染衛門あかぞめえもん。 後の人たちに、和泉式部と並ぶ才女と評価された人です。 今回は赤染衛門について紹介します。 赤染衛門とは 生年が956年頃、没年は1041年頃。 父は大隅守・赤染時用。 一説では母親の前夫平兼盛の子どもであるとも言われています。 夫は文章博士の大江匡衡。 この人も一条天皇中宮彰子に仕えていました。 中宮彰子の周りには才女が集まっていたようです。 その人たちが、平安時代の女流文学の中心になったのですね。 この百人一首に選ばれている歌は、姉妹に代わって書かれたもののようです。 相手の男性は藤原道隆。 藤原北家の一人で、一条天皇の叔父になります。…
「有馬山 猪名の笹原 風吹けば」 大弐三位 紫式部の娘で、後冷泉天皇の乳母
百人一首第58番目の歌の作者は大弐三位だいにのさんみ。 「源氏物語」の作者、紫式部の娘です。 今回は大弐三位について紹介します。 大弐三位とは 生年が999年頃、没年は1082年頃とされています。 父は藤原宣孝。母は紫式部。 本名は藤原賢子ふじわらのかたいこ。 母の後を継ぎ、一条天皇中宮彰子に仕え、後冷泉天皇の乳母となりました。 後冷泉天皇の即位の際に従三位に叙せられました。 2024年の大河ドラマは「光る君へ」ですね。 藤原賢子も登場予定。 黒島結菜さんが演じられるとか。 今からとても楽しみです。 時代背景 藤原賢子を主人公とした時代小説があります。 www.jidai-show.net 小…
<珍事>「竜田川が緑色に染まっている」 ~まるで入浴剤を入れた様な鮮やかな緑色に~
5日朝、奈良県生駒市を流れる竜田川などで、川の水が緑色に変色しているのが見つかって話題になった。生駒市は原因を査中で、現場に赤い粉末が残っていて水に溶けると緑になるという。入浴剤とも思える。 ところで「竜田川」と言えば、小倉百人一首の在原業平の有名な歌が思
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に」 紫式部 幼馴染との短い再会を歌った一首
百人一首第57番目の歌の作者は紫式部むらさきしきぶ。 「源氏物語」の作者として有名ですね。 以前、著作権関連で書いた記事があります。 ご参照ください。 dantandho.hatenadiary.com 今回は紫式部について紹介します。 紫式部とは 生年が973年頃、没年は1031年頃とされています。 生没年には諸説あるようです。 父は藤原為時。 夫は藤原宣孝。 百人一首第58番目の歌の作者大弐三位が生まれています。 大弐三位については次回紹介します。 夫の藤原宣孝が亡くなった後、自宅で書いていたのが「源氏物語」。 この作品が一条天皇中宮彰子らに認められて多くの読者を得ました。 この百人一首に…
「あらざらむ この世の外の 思ひ出に」 和泉式部 表現力で他の歌人たちと一線を画する
百人一首第56番目の歌の作者は和泉式部いづみしきぶ。 恋歌を多く書き残した女流歌人です。 今回は和泉式部について紹介します。 和泉式部とは 生年が978年頃、没年は不詳です。 恋愛を多く経験した女性で、初め橘道貞と結婚し小式部内侍を産みます。 小式部内侍は百人一首60番目の歌の作者ですね。 その後、冷泉天皇の皇子、為尊親王と、さらには敦道親王とも恋愛関係になったようです。 恋多き女性でした。 ちなみに「和泉式部日記」は敦道親王との恋愛を綴ったもの。 二人の親王とはいずれも死別しています。 二人の親王との死別後、藤原保昌と再婚。 この再婚までは、正式には橘道貞とは婚姻関係にあったともみられていま…
「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど」 大納言公任 漢詩、和歌、管弦に優れていた才人
百人一首第55番目の歌の作者は大納言公任だいなごんきんとう。 漢詩、和歌、管弦のいずれにも才能を示し、その上有職故実にも通じていたようです。 今回は大納言公任について紹介します。 大納言公任とは 生年が966年、没年は1041年です。 長寿の人だったようですね。 この人も藤原北家につらなる一人。 最終官位は正二位・権大納言。 権勢の中心にいた藤原道長に近づくことで得た高位だったのかもしれません。 この百人一首に選ばれている歌は、藤原道長とともに999年9月に大覚寺滝殿を散策した時に作られたもの。 紅葉狩りでしょうか。 大覚寺は嵯峨天皇の離宮のあった場所。 嵯峨天皇の名声は今も変わらずに流れ、聞…
どこでもありそうなシニアの日常を物語のつもりでブログ書いてます。お小遣いのたしにとアフィリエイトもやってます。よかったらおつきあいください。ランキングに参加してます。応援いただけるとうれしいです(^-^)/にほんブログ村『神作家 紫式部のありえない日々』D・キッサンひじょ~~~にひさしぶりにコミックを買いました。4年ほど前から俳句を始めて、今更ですが、自分の学力のなさに愕然とする日々が続いてます。俳句は、...
「忘れじの 行く末までは 難ければ」 儀同三司母 藤原道長台頭の影に没落する家族
百人一首第54番目の歌の作者は儀同三司母ぎどうさんしのはは。 女房三十六歌仙の一人に数えられています。 今回は儀同三司母について紹介します。 儀同三司母とは 生年が940年、没年は996年頃です。 やはり疫病が流行った頃に亡くなっています。 従二位式部卿高階成忠の娘で、名前は貴子きし。 高内侍とも呼ばれます。 儀同三司は藤原伊周のこと。 藤原伊周の他に、藤原隆家、一条天皇中宮の定子らを産んでいます。 夫は藤原道隆。 百人一首に選ばれている歌は、道隆が通い始めた頃に書かれたもの。 道隆は、心変わりはしないと誓いますが、いつまでもそれが続くとは思えない。 そう言ってくれている今日、このまま命が終わ…
「嘆きつつ ひとり寝る夜の あくる間は」 右大将道綱母 夫、藤原兼家に宛てた歌
百人一首第53番目の歌の作者は右大将道綱母みちつなのはは。 「蜻蛉日記」の作者としても知られていますね。 また、清少納言らと共に女房三十六歌仙の一人ともされています。 今回は右大将道綱母について紹介します。 右大将道綱母とは 生年936年、没年は995年。 藤原兼家の妻の一人。兼家との間に道綱が生まれています。 「蜻蛉日記」は藤原兼家との結婚生活について綴ったもの。 百人一首に選ばれている歌は、藤原兼家に宛てて書かれたものでした。 藤原兼家が他の妻のもとを訪れたあと、道綱母の家を訪れますが、道綱母は門を閉ざしたまま兼家を家に入れませんでした。 その翌朝、道綱母は、褪せて色変わりした菊の花ととも…
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「明けぬれば 暮るるものとは 知りながら」 藤原道信朝臣 後朝の想いを素直に告げる歌
百人一首第52番目の歌の作者は藤原道信みちのぶ朝臣あそんです。 この人も三十六歌仙の一人でした。 今回は藤原道信みちのぶ朝臣あそんについて紹介します。 藤原道信朝臣とは 生年972年、没年は994年。 享年23。とても短命でした。 この人も藤原北家に連なり、最終の官位は従四位上、左近衛中将。 一条天皇に仕えていました。 百人一首に選ばれているこの歌は、女性と過ごした夜が明け、帰った後に詠んだもの。 夜が明ければまた日が暮れて夜になり、会うこともできることがわかっているのに、それでも夜が明けて朝が来るのがとても辛い。 そんな想いを素直に謳っています。 和歌の才能だけでなく、その容貌も素晴らしい人…
#3885 来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の 身もこがれつつ
令和5年5月27日(土) 【旧 四月八日 大安】・小満・紅花栄(べにばなさかう)来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の 身もこがれつつ ~藤原定家(1162-1241)『新勅撰和歌集』 巻13-0849 恋三松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、私の身は来てはくれない人を想
百人一首やったことある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう 遊んだ事はあります 百人一首持ってたからね その後、持っていた百人一首はどう…
「かくとだに えやはいぶきの さしも草」 藤原実方朝臣 赴任先の陸奥で事故死
百人一首第51番目の歌の作者は藤原実方さねかた朝臣あそんです。 この人も三十六歌仙の一人でした。 今回は藤原実方さねかた朝臣あそんについて紹介します。 藤原実方朝臣とは 生年不詳、没年は999年。 この歌は、女性に初めて贈った歌だったようです。 それが、とても技巧を凝らした歌になっています。 反語や掛詞が続いて使われています。 ちなみに「さしも草」とはもぐさのこと。 お灸につかうもぐさですね。 これが燃えているくらいに熱い思いを抱いている、ということ。 最期は陸奥の地で迎えます。 陸奥への赴任は左遷であったようです。 左遷のきっかけは、和歌に関する諍い。 一条天皇の見ているところで藤原行成と口…
百人一首の第41歌から第50歌までをまとめます。 京から離れた関東での大乱「平将門の乱」や瀬戸内海から九州にかけて発生した「藤原純友の乱」などの後の時代が中心になります。藤原北家の権勢は次第に絶頂に向かいます。 中国大陸では契丹の遼への改称、五代十国時代から宋による再統一など、大きな動きのあった時代です。またヨーロッパでは神聖ローマ帝国が成立しています(960年)。 以下にまとめた十首は、その頃に詠まれた歌になります。 dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.…
「君がため惜しからざりし命さえ」 藤原義孝 病に倒れた薄命の貴公子
百人一首第50番目の歌の作者は藤原義孝です。 この人は三十六歌仙の一人でしたが、流行病のため二〇歳(二一歳)でなくなりました。 今回は藤原義孝よしたかについて紹介します。 藤原義孝とは 生年954年、没年は974年。 藤原北家につらなる摂政太政大臣藤原伊尹これまさの息子でした。 仏教の信仰心が厚かったと伝えられています。 また美貌の人でもありました。 若くして亡くなりましたが、その理由が疱瘡。 平安の頃は疱瘡が流行ると多くの人が亡くなりました。 時代背景 藤原義孝の亡くなった994年前後から数年の間、京都では疫病が流行りました。 994年に流行ったのが疱瘡(天然痘)。 この時、五位以上の人たち…
#3842 逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物も思はざりけり
令和5年4月14日(金) 【旧 閏二月二四日 先勝】・清明・鴻雁北(こうがんかえる)御匣殿に初めてつかはしける今日そゑに暮れざらめやはと思へどもたへぬは人の心なりけり ~藤原敦忠(906-943)『後撰和歌集』 巻12-0882 恋歌四あなたと結ばれた今日だからと言って、日が暮れ
「御垣守衛士のたく火の夜は燃え」 大中臣能宣朝臣 京の都の官能的な世界を歌う
百人一首第49番目の歌の作者は大中臣能宣朝臣おおなかとみのよしのぶあそんです。 この人は三十六歌仙の一人であり、後撰和歌集の選者でもありました。 今回は大中臣能宣朝臣について紹介します。 大中臣能宣朝臣とは 生年921年、没年は991年。 伊勢神宮の祭主の家柄の人でした。大中臣家は代々歌人を輩出してきた家系。百人一首第61番目の歌の作者伊勢大輔の祖父にあたります。 ちなみに、この歌の作者は大中臣能宣朝臣ではないのではないかと言われています。誤って紛れ込んだものだと考えられています。 その真偽については、今後の研究の結果を待ちましょう。 この歌は、宮中の門番が燃やす篝火のように、夜ともなれば燃え…
花の色は褪せてしまったわ。私が物思いにふけりながら長雨を眺めている間に!そして私の容色も衰えてしまった・・・。『百人一首』に収められた小野小町の 有名な歌です。散りゆく桜の花にわが身の衰えを重ねて嘆く小町(かつては絶世の美女と謳われていました。)美人も、そうでない私も、それなりに老いていくんですね!??(桜の写真とオートシェイプを組みあわせて作っています。)ブログ村に登録しています。 ポチッと応援クリックお絵描きの励みになりますのでお願いします。小野小町(おののこまち)
「風をいたみ岩打つ波のおのれのみ」 源重之 自然の描写で心の様子を表現する
百人一首第48番目の歌の作者は源重之みなもとのしげゆきです。 この人も三十六歌仙の一人でした。 今回は源重之について紹介します。 源重之とは 生年940年頃、没年は1000年頃。 平安中期の人です。 清和天皇の曾孫。いわゆる清和源氏につらなる人ですね。 相模権守さがみのごんのかみ、肥後守、筑前守などの地方官を歴任しました。 また旅をすることの多い人だったようです。 藤原実方に随行して陸奥に行き、そこで亡くなりました。 百人一首に選ばれている歌は、自然の風景を用いて自分の心情を表す試みをしているもの。 旅人として、どこかの海岸で目にした風景を思いながら歌ったものでしょうか。 風の強い海岸に立つ歌…
「八重葎茂れる宿のさびしきに」 恵慶法師 失われた王朝をいとおしむ
百人一首第47番目の歌の作者は恵慶えぎょう法師です。 この人も三十六歌仙の一人です。 今回は恵慶法師について紹介します。 恵慶法師とは 生没年不詳。平安中期の人です。 清和天皇のひ孫にあたり、清和源氏につらなる一人でもあります。 地方官を歴任しましたが、最後は陸奥で亡くなったようです。 陸奥に行ったのは、宮中で事件を起こした藤原実方に同情したから。 奇人として知られた曽禰好忠(第46番目の歌の作者)とも親交があり、その意味では、反骨の気概を持つ人だったのかもしれません。 dantandho.hatenadiary.com 時代背景 この歌は源融(第14番目の歌の作者)が建造した河原院で歌われた…
「由良の門を渡る船人梶を絶え」 曽禰好忠 心情に具体的な風景を与える
百人一首第46番目の歌の作者は曽禰好忠そねのよしただです。 三十六歌仙の一人です。 今回は曽禰好忠について紹介します。 曽禰好忠とは 生没年は詳しくはわかりませんが、平安中期の人でした。 官位は六位、丹後掾を勤めました。 和歌の才能はありながらも、身分が高くなかったせいか、当時の社交界ではあまり評価されませんでした。 それに反発したのか、奮起したのか、人々に認められようとした行動をいくつかしたようですが、それらはむしろ、曽禰好忠を「奇行の人、偏屈な人」という評価にもつなげてしまいました。 百人一首に採用されている歌は、恋の道に惑うという、具体的な形のない心情に、由良の門で梶を無くして戸惑う船人…
北海道在住39歳♂1048です2022年5月から別居生活初めての一人暮らし初心者が少しずつ節約を学んでいく、、、そんな感じのブログですおまかせ広告い…
「あはれとも言ふべき人は思ほえで」 謙徳公 同情を求めた「切なさ」の表現
百人一首第45番目の歌の作者は謙徳公(藤原伊尹これまさ)です。 藤原忠平の孫になります。 今回は謙徳公について紹介します。 中納言朝忠とは 生年が924年、没年が972年。平安中期の人。 この人も当時の権勢の中心にいた藤原北家につらなる一人で、藤原忠平の孫、藤原師輔の長男にあたります。 官位は正二位、摂政、太政大臣。高位にまで上りました。 病気で49歳で亡くなりました。死後に贈正一位。 性格は豪奢なものを好んだといわれています。 父藤原師輔の葬儀に際し、父からは倹約することを日頃から言われいたにも関わらず、普段通りのものを執り行いました。 貴族の葬儀なので、派手なものだったようです。 人々から…
「逢ふことのたえてしなくはなかなかに」 中納言朝忠 心の曲折を表現した歌
百人一首第44番目の歌の作者は中納言(藤原)朝忠。 この人も三十六歌仙の一人です。 今回は中納言朝忠について紹介します。 中納言朝忠とは 生年が910年、没年が967年。平安中期の人でした。 当時の権勢の中心にいた藤原北家につらなる一人。 官位は従三位・中納言。高位にまで上っています。 和歌の才能の他に、笛や笙にも秀でていたようです。 百人一首に選ばれた歌は『天徳内裏歌合』で披露した一首でした。 肥満傾向の人だったようです。 医者から養生を勧められましたが、それでもさらに太ってしまったとか。 そのためか、晩年は中風のため役職を辞すことにもなったようです。 その後、数年で亡くなりました。 時代背…
Lさんが突然「父ちゃん、百人一首やろう」って言ってきたんです。学校で百人一首の勉強をしてきたみたいなんですね。近々大会があるとかで。広瀬すずちゃんが出ていた「ちはやぶる」っていう映画をテレビで見た影響もあるみたいなんですけど。で、読み手をや
今思い返しても、お世辞にも物覚えの良い子ではありませんでした。 百人一首大会でも、ほぼほぼ取れず…。 覚えてないから、無理もないのですが。 今さらながら、興味がわいた百人一首。 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはんとぞ思ふ ...
「逢ひ見てののちの心にくらぶれば」 権中納言敦忠 後朝(きぬぎぬ)に詠まれた歌
百人一首第43番目の歌の作者は権中納言(藤原)敦忠あつただ。 左大臣藤原時平の息子です。 曽祖父が在原業平で、多芸の貴公子だったようです。 三十六歌仙の一人でもあります。 今回は権中納言敦忠について紹介します。 権中納言敦忠とは 生年が906年、没年が943年。 38歳で亡くなっています。 官位は従三位で権中納言。 父親は左大臣藤原時平。 権勢の中心にいた家系の一人になりますね。 芸事に秀で、美男子でもあったので、数多くの女性と恋愛関係にあったようです。 百人一首に選ばれている歌も、そういった恋愛関係にあった女性と一夜を過ごした後に送った歌。 この女性には諸説あります。 百人一首38番目の作者…
本棚を整理していたら思わず夢中になって読んでいた「ちはやふる」
どうも、部屋の掃除中に本棚を漁っていたら、手に取った漫画を読んで手が止まってしまい、夢中になって読み続けていた二児パパの達也です。 かるたをテーマにした…
冷たい空気の中にも、春らしさは感じはじめ、きっと地面の下では、色々な生き物が蠢めきはじめているのでしょうね。私はまだまだ暖かいお布団に包まれてしばらくじっ...
「契りきなかたみに袖をしぼりつつ」 清原元輔 多作な歌人、清少納言の父 末の松山とは
百人一首第42番目の歌の作者は清原元輔です。 百人一首第36番目の歌の作者清原深養父の孫で、第62番目の歌の作者清少納言の父です。また、三十六歌仙の一人であり、後撰和歌集の選者でもありました。 今回は清原元輔について紹介します。 清原元輔とは 生年が908年、没年が990年。平安時代中期の人です。 最終官位は従五位上・肥後守。 生没年からわかるように、当時としてはとても長寿の人でした。 肥後守に任じられたのが79歳の時。 そのまま任地で亡くなりました。 享年83。 和歌の才能は高く評価されていました。 そして多作でもありました。 他の人に頼まれて詠むことも多かったようです。 百人一首に選ばれて…
「恋すてふわが名はまだき立ちにけり」 壬生忠見 内裏歌合での名勝負
百人一首第41番目の歌の作者は壬生忠見です。 この歌は40番目の平兼盛の歌と、村上天皇の内裏歌合で優劣を競ったもの。 村上天皇は平兼盛の歌を勝ちとしましたが、いずれの歌も優れていたため、後世に名勝負として伝えられました。 今回は壬生忠見について紹介します。 壬生忠見とは 生没年不明。 役職は摂津大目との記録があります。 目さかんとは国司の役職。 国司の役職は上から使、守、介、掾、目となっていて、目は従八位下の位階のものでした。 壬生忠見は高位の人ではなかったようです。 それでも勅撰和歌集には36首入っています。 歌の才能は広く認められていました。 時代背景 村上天皇の内裏歌合が行われたのが96…