メインカテゴリーを選択しなおす
クマによる人的被害対策として、一定の条件を満たせば自治体判断で市街地での銃猟を可能にする改正鳥獣保護管理法が18日、参院本会議で賛成多数により可決、成立した。施行日は公布から6カ月以内とし、クマの出没が増える秋までを目指す。改正法は、人の日...
岩見沢市内、冷蔵庫のお引越しです!お手伝いの方は男性2名、搬出はメゾネットタイプのお宅で曲がりアリ…私とお手伝いの方で慎重におろしました搬入先も岩見沢でコチラ…
12月は3日しか休まなかったのにお正月は1週間も休んでしまったw1/6ようやく初仕事が4階階段の赤帽引越しでしたやはり1週間も休んでしまうとカラダが鈍ってキツ…
赤帽車年内最後のオイル&エレメント交換です!なかなかやる時間がなく、今回は6500キロほど走ってしまった…(反省)月のオイル交換は2月か3月頭辺りになりそうで…
砂川市内の移動です!お引越しですが料金を抑えたいということでお荷物は3点のみ格安にて対応致しました!お手伝いあり難なく完了となりましたありがとうございます!帰…
砂川から札幌への赤帽引越しです!道中は吹雪ありでしたが無事砂川に到着しました国道275号線…夜中に水でもまいたのか?と思うほどツルツル道路で行きも戻りも1台づ…
午後お客様から入電!夜走れますか?と…もちろん走ります🚚21時過ぎ新千歳空港引き取りで岩見沢まで!早めに到着し空港近くの道の駅で待機時間になったので空港へお荷…
札幌から一個口のお荷物引き取り函館迄の赤帽緊急配送でした!順調に進み無事函館到着しお届け完了ですありがとうございました!行きは高速使用、帰りは下道からいつもそ…
砂川からお客様にお手伝いして頂き苫小牧までの赤帽お仏壇引越しです!まだ購入してすぐということで傷一つない綺麗なお仏壇でした厳重梱包し赤帽車にしっかり固定し向か…
2024.6.2この日は、ついに4月に購入していた250ccのバイクでちょいロングツーリング♪どうしてもずっと乗ってる125ccのグロムと重さや操作性が違って不安があり、練習もしつつやっとのことでちゃんと走れそうって自信がついたので稼働です(*'ω'*)重さ100kgと160kgの差はやはりでかい💦教習者は200kgあったけど、もう免許取ったのも6年前だからねぇ…ということで、比較的走りやすいルートで考えました!グロムに乗り始めた時とは違っ...
▲黄金岬北海道留萌市大町2丁目▲アルメリア▲釣りしている人がいました何が釣れるのかなぁ?▲若者たちの歌碑作曲した佐藤勝さんが留萌の出身なんです🎵▲向かいにオレ…
▲ナカヤ菓子店北海道砂川市東1条南10丁目2-13▲熱々アップルパイ注文して袋に入ったあと焼き上がった音がしたので追加で熱々1個🍎少し前にも寄っていちじくパイ…
近所の大人たちが夜遅くまで、外で何かを探しているようでした。 呼びかけるような声が、寝ている僕にもずっと聞こえていました。 なにが起こっていたのかは知らされていませんでした。 いつもと違う、とても不安な夜でした。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十六)② それからは沢井さんと一緒に帰ることはなかった。 小学校に入学してから、一度も同じクラスになったことがないので、学校では遊んだこともなかった。時々は、帰り道で、僕のずっと前を歩いているのを見ることもあった。だけど沢井さんは僕には気づかず、僕も追いついて話しかけることもなかった。 その年は、秋が来ると、急に気温が下がった。時々、霜が降りるくらい…
北海道③千歳から旭川へ 岩瀬牧場ファームレストラン リヴィスタ でランチ
北海道、砂川にある岩瀬牧場のファームレストラン リヴィスタ。牧場の牛のミルクを使ったチーズやアイスが美味しい人気の店へ行ってみた。
小学生の頃に起こった、とても寂しく、悲しい出来事のこと 【沙河35】
小学生の頃の、一番悲しい出来事です。 今でも時々思い出したりします。 のんびりとした田舎でしたが、事件といってもいいようなことも起こりました。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十六)① 通学に使っていた道路は、車がほとんど走っていなかった。私は、縦笛を吹いたり、本を読んだりしながら歩いて帰った。 ある日の放課後、川田君や西森君と学校の玄関で別れた後、家への道を一人で歩いていた。稲穂が実り、風に揺れて乾いた音を立てていた。風は頬に冷たく感じられた。 灌漑溝に架けられた鉄筋コンクリート製の橋の手前で、沢井さんと会った。学年が同じで、家も近かったが、普段はあまり話さない。 僕は本を読みながら歩いて…
通っていた小学校の校舎は、古かったせいか、工事が途中で放置されたままになっているようなところがありました。 天井がポッカリと開いたままになっているところもあったりして。 小学生の男子がそんなところを見つけたら、放っておくはずがありません。 僕は、友人に誘われるようにして、そんなところから、学校の裏側に入ってみたりしていました。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十五)④ ある日、私たちの教室の掃除用具入れの天井の板がずれていることに気がついた。 身体の小さかった川田君が、板の隙間から天井裏に上がってしまった。そして私を呼んだ。私も身体は小さいので、そこを上がるのは難しくなかった。川田君と同じよ…
こんにちは、暖淡堂です。 小学生の頃、腕や足の部分の横に一本線が入っているジャージが着たかったです。 その理由は「仮面ライダー2号」のカッコ良さに憧れたから。 仮面ライダーと線の数 線の数と仮面ライダーとの関係を整理すると以下の通りです。 仮面ライダー1号 本郷猛(初期):線なし 仮面ライダー2号 一文字隼人:線1本 仮面ライダー1号 本郷猛(復帰後):線2本 暖淡堂の小学校の頃のジャージの線事情 僕が小学生の頃、学校指定のジャージは青地に白い線が2本。 母親は面倒なことを考えない人なので、素直に学校指定のジャージを買っていました。 2本でなければ線なしで、なんとも締まらないものになってしまい…
2010年8月中旬 帰省で初めての一時帰国(続き) 久しぶりのDomDomハンバーガー【微笑みの国の記憶:タイ駐在備忘録】
ハンバーガーショップDOMDOMの紙袋(2010年夏) 2010年8月中旬の一時帰国の続き。 北海道への帰省中は、レンタカーを借りて移動していた。 黒いスバルのインプレッサだった。 車高が低めで、シートも低く、足を前に伸ばす体勢で運転するので、運動不足で筋力が落ちていた自分は、時々腰に痛みを感じた。 車自体は、パワーを感じられて、走りには安心感があった。 坂道の登りでは、とても楽に運転ができた。 我が家は、家族で出かけると飲食店で食事をするよりも、テイクアウトをして車の中や公園で食べることが多い。 帰省中もほぼそのスタイルで食事をしていた。 2010年当時、滝川にあったダイエー(現在はイオン)…
遊んでいた時の事故と、大人たちのおおらかな対応 【沙河33】
子供たちだけで遊んでいると、いろいろなことが起こります。 それぞれに自分たちだけでまず対応をしなければいけなかった。 そんな経験が、僕たちを成長させていたのだと思います。 驚いたり、恐怖を感じたりするようなこともありました。 そんな出来事に対して、誰がどのように対処するのかを知り、その後の対人関係も変わっていったのでしょう。 僕自身は大概のことにオロオロとしているだけだったような気もします。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十五)② ある日、小さな事故が起こった。 いつものように西森君や川田君、その他の数人の友だちと野球をして遊んでいた。 転がったボールを拾おうとホームベース近くに駆け寄った…
みなさん、こんにちはブログに訪問して頂きありがとうございます 北海道砂川市にある素敵なお菓子屋さんナカヤ菓子店に行ってきました素敵な店構え美味しいスイーツで知…
駅前のロータリーで遊んだこと 三角ベースボールの思い出 【沙河32】
祖父の葬儀の後、数日して夏休みが終わりました。宿題はほぼやっつけで片付けて、学校に提出しました。 宿題をちゃんとやらなかったのは、この年の夏休みだけではないのですが。 夏休み中はほとんど会わなかった同級生たちと再会して、また放課後など一緒に遊ぶようになりました。 函館本線に豊沼駅があります。現在の三井化学砂川の最寄り駅になります。 その駅前のロータリーを占領するような形で三角ベースボールをよくやっていました。 ファールチップが駅舎の窓に当たったりしましたが、怒られたことはなかったですね。 当時は無人駅ではなかったのですが。おおらかな時代だったということでしょう。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年…
2022年3月に北海道に帰省した時の写真を見ていました。 その中の一枚が、自分が北海道で暮らしていた頃を思い出す時の最初の風景とほぼ同じであることに気づきました。 雪原の中に疎林があって、その先にピンネシリに連なる山並みが見えます。山は全体が雪に真っ白に覆われています。 この風景の中で育ち、多くの人と出会い、大切な人たちと別れ、一人きりでこの場所を離れてきたんだなあ。そんなことを思ったりします。 自分の北海道の思い出で、まず出てくるのが、雪、そしてピンネシリ。 今、暮らしているところには、いずれもありません。 *☺☺☺☺☺* 晩冬に北海道に行った時のこと 疎林の先のピンネシリ dantandh…
葬儀が終わると、遠くから来ていた親戚は、一度我が家に移動しました。 簡単な食事をして、お酒を飲む人たちは改めて飲み直しました。 それから帰る人と、そのまま家に泊まる人に別れて、家に泊まることになった人たちはさらに飲み続けました。 雨は止んでいましたが、空は暗かったように覚えています。 テレビでは、空知管内の何箇所かで川の増水、道路の冠水などの様子が映されていました。 祖父の葬儀の間に、被害が出るほどの大雨が降っていたことを、そのとき知りました。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十四)④ 雨は止まず、夜にかけてさらに激しくなった。 ごく近しい人たちと、遠くから来た親戚だけが家に残り、一緒に夕食…
北海道砂川市立豊沼小学校旧校舎正面玄関 児童たちは「大人の玄関」と呼んでいた
北海道砂川市立豊沼小学校正面玄関(1977年卒業アルバムより) こんにちは、暖淡堂です。 昨年12月(2023年12月)に帰省した際、小学校の卒業アルバムを持って帰りました。 その中に、探していたものが見つかりました。 僕が通った小学校の校舎の写真です。 校舎は、全体がほぼ木造だったのですが、玄関の部分はコンクリートと石材が多用されていました。 写真で見ても、立派な玄関ですね。 当時、子どもたちはこの玄関を「大人の玄関」と呼んでいたように記憶しています。 この玄関は、三和土の部分が石でできていて、靴脱ぎのあたりから校長室までは赤いカーペットが敷かれていました。 床にはいつも綺麗にニスが塗られて…
告別式から火葬場への移動まで 雨の降り続いた一日 【沙河30】
通夜の翌日は本堂に祭壇を移動させて告別式。 生まれて初めてお経をフルバージョンで聞きました。 曹洞宗なので、おそらく般若心経も唱えられていたのでしょうね。 「ギャーテイギャーテイ」と言っていたような気もします。 当時は、お経の意味はもちろん解らず、すぐに飽きてしまい、本堂のあちこちを見たりして過ごしていました。 雨が降っていて本堂の中は暗く、ロウソクの灯りが揺れると、ご本尊の表情が変わるように見えたりして、何だか怖くなったことを覚えています。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十四)③ 本堂から溢れ出すほどに人が集まった。僧侶による読経は通夜の時よりもずっと長かった。私は、焼香のために立ち上が…
大学のある街への引越し当日は曇っていて、時折雪が降っていた。父の車に一人暮らし用に必要なものを詰め込んで、大学のある街に向かった。父母と妹、それに僕の四人が車に乗って出かけた。祖母は家に残った。玄関で僕たちの出発を静かに見送っていた。車が走り出したとき、祖母は泣いていた。僕はその日、家族と別れ、生まれ育った街、豊沼-砂川を離れた。 * この日の朝、実家を出てからずっと、砂川を離れたままです。 帰省はしていますが。 思えば、砂川で過ごしたのは18年間で、それ以後の方がずっと長くなってしまいました。 泣いていた祖母 豊沼-砂川(四十二) 沙河の方も、高校卒業の部分で止まっています。 そのうち、断片…
お通夜での食事と、そこで話されたこと 鳴家のこと 【沙河29】
祖父が亡くなったときに起こった不思議なことが、今でも実家の家族の話題になります。 特に鳴家やなり に関しては「実例」のようなものが家族内で共有されています。 「誰々が亡くなったときには」、「どこそこのおばさんが危篤になったときには」など、いくつかのエピソードがあって。 法事で集まった際には一通り話の内容が再確認されます。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十四)② 夕食が出た。お酒を飲みながら、大人たちが話をしていた。 「背中に、何か重たいものが乗ってきたような感じがしたのさ」 父が親戚の人たちに話していた。母の実家の祖父母を車で送っていた時のことのようだ。 不動坂という長い坂を車で上っていた…
みなさん、こんにちはブログに訪問して頂きありがとうございます 先日、旭川に行く途中で高速道路のパーキングエリア砂川ハイウェイオアシス館に立ち寄り腹ごしらえ砂川…
高校三年間を通じて、僕はずっと母親に髪を切ってもらっていた。当時はとても見た目を気にしていた。それなのに、床屋にいって、好みの髪型を説明するのがとても面倒くさかった。また、それが恥ずかしくもあった。自分が周囲からどう見られたいのかを、他人に知られてしまうというのが恥ずかしかった。床屋にいくと、髪型が整えられる。それも嫌だった。見た目が急に変わるのが嫌だったのかもしれない。見た目の変化を友人に指摘されることを避けたかったのだろう。高校を卒業する春、それでも僕は一度だけ、砂川の駅前にある床屋にいって散髪してもらった。正直、とてもさっぱりとした。高校三年間で溜まったものを、髪の毛と一緒に捨てられた。…
お寺でのお通夜 台風が接近して天候が悪化したこと 【沙河28】
最近の葬儀は葬儀会場を使うことが多いですね。 昭和の頃の北海道の実家の辺りでは、自宅を使うか、お寺で行っていました。 普段行くことのないお寺の中を見ることができる貴重な機会でした。 本堂の仏像などを見ることができ、子供ながら、宗教というものがあるのだと、なんとなく感じることができていたと思います。 葬儀会場での葬儀は、誰もが参加できるセレモニーになっていますね。 お寺の中がどのようになっているのか、知らない人も増えているかもしれません。 それもまた時代の流れかもしれませんが。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十四)① 通夜はお寺で行われた。町に古くからある曹洞宗のお寺だった。 境内に背の高い…
どうも。 昨日まで道南遠征をしていたのに 砂川でわかさぎ釣りをしている君です。 これぞ変態釣り師の生きざまだぁー(*'▽') というわけで、 道南遠征も冷めやらぬ中、 珍しくレアな釣りガールを連れて オープンしたての砂川で わかさぎ釣りをしてきました。 オープン2日目の砂川遊水地でわかさぎ釣り オープン2日目の砂川遊水地でわかさぎ釣り 2024年1月29日 南の風 2024年は1月28日の朝10時からオープンしたとのこと。 釣りガールを連れてのレア釣行なので 綺麗なトイレ必須ということで砂川を選択。 これがのちに大惨事を招くことに・・・ 午前5時に迎えに行くと約束し、 安定の5時15分に到着(…
石狩川に関して、とてもさみしい思い出がある。小学校の同学年だった女の子が、彼女の母親と一緒に入水自殺したのだ。 小学校五年か六年の頃だったと思う。僕は通夜にいった。明るい部屋に、たくさんの人がいたが、誰もが黙り込んでいた。地元の子供会が同じだったので、夏休み、冬休みなどには一緒に遊んだりした。たまに遠回りして一緒に下校したりもした。 そんな彼女が不意に死んでしまったのだ。どのようなことがあって自殺してしまったのかはわからない。苦しんでいた母親に同情したのかもしれない。そんなことをいっていた大人がいた。 その母親がなぜ苦しんでいたのかはわからない。 が、そのとき、同級生の、その女の子がなにを考え…
夜中のうちに祖父の遺体は家に運ばれていました。 座敷に敷かれた布団の中に横たえられていましたが、なんだか知っている祖父よりもずっと小さく見えました。 なにかが抜け出て、しぼんでしまっているようでした。 朝からよい天気だったことを覚えています。 祖母は祖父の枕元に静かに座っていました。 祖母もまた、いつもよりもずいぶんと小さくなっているように見えました。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十三)② 目を覚ますと、聞き慣れた声が聞こえた。向かいの家のおじさんが電話で何か話しているようだった。母が起こしに来て、祖父の葬式の段取りを簡単に説明してくれた。 着替えて、階下に下りると、近所のおじさんやおば…
石狩川は、台風が近づくと、氾濫が心配された。大きな堤防が造られていたが、それでも何度も川の水が溢れた。 祖父のなくなった日、夏の終わりの台風が来た。通夜の夜、激しく雨が降った。葬儀の日には石狩川が溢れた。そこここで道路が冠水した。その台風では国道一二号線も水に浸かった。 祖父の葬儀のことは、この台風の思い出と一緒になって、記憶されている。 普段はおとなしい、静かな川である。 大地を潤す川である。 * 砂川で暮らしていていると、石狩川のことを忘れることはありません。 それと、ピンネシリ。 どちらも、実家から見ると、西側にありました。 日が沈む頃は、この二つの存在を毎日意識していました。 そして、…
入退院を繰り返していた祖父の容態が急に悪くなりました。 母や祖母が付き切りで看病する日が続いたので、僕や妹の世話をするために、母方の祖父母が家に来てくれていました。 母方の祖父母は本当に優しくて、僕や妹は安心して過ごしていたのですが、夜などは寂しくなりました。 ある夜、突然大きな鳴家が聞こえて、家にいたものは皆目を覚ましました。 ちょうど祖父が亡くなった頃のことだったようです。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十三)① 祖父が亡くなったとき、父と母は病院に行っていた。 祖母は病室で付き切りの看病を続けていた。私は妹と家にいた。 母の実家から祖父母が家に来て留守番をしていた。私も妹も小学生で、…
砂川の街を象徴する川が二本ある。街中を流れるパンケ歌志内川と街の西側を流れる石狩川である。 砂川の街にまだ石炭産業の名残のあった頃、パンケ歌志内川を流れる水は時折真っ黒になった。上流にある炭鉱の近くで、掘り出した石炭を洗っていたらしい。その廃水をそのまま川に流していたのだ。 ある年の冬のことだった。僕はその黒い川面をただ見つめていた。川岸には雪が積もっていた。雪の白さと、川の水の黒さとの対比を眺めていた。 そのとき、なにを思っていたのかは覚えていない。 * 砂川の街は、炭鉱に囲まれています。 北海道鉱山地図 炭鉱は山の方にあり、その方角から流れてくる川は、炭鉱で使われた水が混じって、時々真っ黒…
小学校高学年の頃の思い出を綴ります。 家族や自分自身の生活が変化し始めた時期です。 色々と自分なりの考え方をするようになっていきました。 それでもまだまだ子供でしたが。 今思えば、僕は、子供の頃一緒にいた祖父の年齢とほぼ同じになっています。 そして、普段やっていることがとても似てきました。 夕方、テレビを観ながら晩酌というのは、祖父の習慣でもありました。 僕も晩酌をするようになっています。 テレビに向かって時々話しかけたりもします。 そのあたりもとても似てきました。 【沙河】昭和五一年~昭和五二年 (十二) 祖父が亡くなった。私が小学校に入学した頃から体調を崩しがちになり、入退院を繰り返してい…
思いがけず懐かしいとはあまり感じなかった旭川 2023年12月9日 午前11時40分頃
こんにちは、暖淡堂です。 2023年12月9日(土)のお昼少し前。 旭川駅に戻りました。 駅前の様子は随分と変わりましたね。 僕が暮らしていた頃は、西武や丸井のデパートがあったのですが。 大きなビルはイオンとツルハのようです。 それぞれ、外から眺めるだけで、中には入りませんでした。 僕が覚えている旭川は、もうどこにもないように感じてしまいました。 探してみると、ちょうど僕が暮らしていた頃の旭川の様子を記録した動画がありました。 買い物公園、よく覚えています。 西武デパートの中にあった三省堂にはよく行きました。 専門書も置いてあって、結構な数の本を買いましたね。 マルカツの中にあったお蕎麦屋さん…
砂川は、僕が生まれてからは、人口が減り続けた。祭りの規模が次第に小さくなった。工場に勤める人たちが家族とともに住んでいた社宅団地も、空き家が増えていった。 商店街も寂しくなっていった。中央市場と呼んでいた長屋のような商店街も閉まっている店舗が増えていった。炭鉱と、石炭を利用する産業の衰退の波は、多くの人々を連れ去った。僕は、それはそれほど悪いものでもないと思っている。いっそ騒がしいものを一切持ち込まず、育てず、静かに、大人の街になっていけばいいのではないか。高齢化が進んでいるのは確かだろう。であれば心配りのされた医療システムがあるべきだろう。人の静かな生き方を実践する人たちの住むような、そんな…
学校には図書室という部屋があって、たくさんの本が並べられているということを知りました。 それ以来、図書室は学校の中での一番のお気に入りの場所になりました。 小学校は木造の校舎で、炭鉱での採掘が盛んだった頃に建てられていたもので、とても大きな建物でした。 職員室のある棟の2階に保健室と図書室がありました。 教室とは離れたところにあるので、いつもとても静かでした。 防腐剤と防水剤を兼ねたタールが床に塗られていて、そのにおいのこもる部屋でした。 午後、図書室で過ごすのが好きでした。 他の人があまり読んでいないような本を見つけるのが大きな楽しみでした。 外国の人が書いた本がたくさんあるということを知っ…
高校二年と三年のときの、僕らのクラスの担任の教師を、ずっと嫌いだった。言葉使いで、その教師の考え方が見える気がした。それが、嫌だった。その教師の受け持ちの教科が数学だったことが、その嫌いだという思いをさらに強くさせたのかもしれない。僕から話しかけることはなかったし、話しかけられても、時々は無視したこともある。問題行動だったかもしれない。が、特に大きな問題にはなっていなかったと思う。それも、僕が知らなかっただけかもしれないが。中学高校の六年間で、ほとんどの教師が嫌いだった。化学と、演劇部の顧問と、あまり得意ではなかったが国語と、社会科の倫理の教師は、例外的なものだった。その誰もが、静かに考え、丁…
いわゆる早生まれだったので、同級生の中で小さい方でした。 ずっと家の周りで遊んでいただけなので、体力もありません。 それで、通学で歩いて学校まで行けるかどうか、心配されました。 そのくらい、頼りない小学1年生でした。 【沙河】昭和四〇年~昭和五〇年 (十)④ 私の通学に不安を感じた父が、時々私を車で学校の近くまで送ってくれた。 父はその頃も化学工場内で務めていた。出勤時に私を伴い、途中で車から下ろしてくれたのだ。帰りは自分で歩いて帰った。片道、やはり三十分くらいはかかってしまった。道端の草をむしったり、用事もないのに途中で少し引き返したりした。言葉通りに、道草を食っていたのだ。 教室では休み時…
郷里の砂川からまた旅立った朝 2023年12月9日 午前10時頃
こんにちは、暖淡堂です。 2023年12月9日(土)の午前中に、久しぶりに帰省していた砂川を離れました。 今回の帰省では旭川空港を利用したので、札幌方面から来る旭川行きの特急に乗りました。 砂川駅では、旭川方面行きは改札口を出てすぐのホームから乗降します。 これまでは千歳空港を利用することが多かったので、札幌方面行きの特急を使っていました。 札幌方面行きの特急は、跨線橋を渡った向かい側のホームで乗降することになります。 荷物が多い時は、この跨線橋を渡るのが一苦労です。 砂川駅は、エスカレーターもエレベーターもありません。 老人など、体力のない人は、駅員さんがサポートするのでしょうね。 それでも…
高校に入っても、数学と科学、科学の中でも特に化学が好きだった。数学は急に難しくなったが、中学のときの経験が活きて、うまく乗り切れた。化学は、教師ともうまく馴染めたのがよかった。授業時間以外にも教師と話をした。化学クラブがあったが、正式には入らなかった。それでもときおり顔を出した僕をメンバー同様に扱ってくれた。ほぼこのとき、僕は今の生活に向かって、進み始めたと思う。相変わらず英語は不得意だった。単語や文法など、なぜたくさん覚えなくてはいけないのか。それが苦痛だった。当時は英語が不得意科目があることがまったく苦にならなかった。家では好きな科目の勉強を時々するという感じだった。それで高校の勉強は十分…
母と二人で行った小学校の入学式 タイツについた泥はね汚れ 【沙河22】
ついに小学校の入学式の日が来てしまいました。 朝から小雪の舞う、寒い日でした。 小学校には母親と二人で出かけました。 雪解けの水で、道はぬかるんでいました。 半ズボンの下にはいた白いタイツに泥水が跳ねたのを、母親は気にしていました。 入学式が終わって、家に帰ってもまだ、春の雪は降り続いていました。 【沙河】昭和四〇年~昭和五〇年 (十)③ 入学式へは母と二人で出かけた。 小学校の校舎は木造だったが、とても大きかった。 先生方に案内されるままに、自分の教室を見て、それから体育館で行われた入学式に出た。児童が集まっていた体育館の中は、薄暗く、寒かった。窓は多かった。外は雪が降っていた。 式の後、新…
砂川市の小さな本屋さん「いわた書店」 小説を読み始めた頃のこと 2023年12月8日 午前11時40分頃
こんにちは、暖淡堂です。 2023年12月8日(木)の午前11時40分頃、砂川の本屋さん「いわた書店」に立ち寄りました。 いわた書店は「一万円選書」で有名になっていますね。 NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」で取り上げられてから、注目を集めているようですが、お店の規模は昔と変わっていませんでした。 www.nhk.or.jp 僕が中学生の頃(昭和50年代中頃)、初めて自分のお金で小説の文庫本を買ったのが、このいわた書店でした。 買ったのが、若桜木虔 さんがノベライズした「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」。 EBA若桜木虔/西崎義展監修 さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち 集英社文庫 …
高校では、クラスメートとうちとけるということがほとんどなかった。ごく少数の友人と、高校三年間を通じて付き合っただけだった。部活動もまじめにはやらなかった。演劇部のお手伝いのようなことはやった。学校祭での発表や高文連への参加の準備は楽しかった。が、それが終わると、ただなにもしない生活に戻った。高校入学当時は、やはり成績はよくなかった。勉強の仕方に馴染めなかったのだと思う。それでも少しずつ慣れるにしたがって、試験の点数はよくなっていった。家では、毎日ギターを弾いて唄っていた。唄うことを仕事にしたいなとも思ったりしていた。そのための努力はまったくしていなかったが。あるいは、どうやったら唄うことが仕事…
いよいよ小学校入学時期が迫って来ました。 家の中でヌクヌクと過ごす最後の冬です。 雪の多い冬だったように記憶しています。 いつも一人きりで雪の中で遊んでいました。 その冬も終わり、春じわりと近づいて。 暖かな風が吹く頃になりました。 【沙河】昭和四〇年~昭和五〇年 (十)② 秋が来て、家の中で遊ぶことが多くなった。私は雑誌や絵本を読み続けた。そんな時、よく家族からどこにいるのかわからなくなるといわれた。とても静かにしていて、時折は気配も消えていたらしい。 本を読んでいなければ、テレビを観ていた。NHK教育テレビの番組や、他の局の子供向けのアニメーションを観たりしていた。 そして冬が来た。雪は降…
こんにちは、暖淡堂です。 我が故郷、北海道砂川すながわ市はスイーツに力を入れています。 もともとお菓子屋さんが国道12号線に面していくつかあって、商品が全国的に有名になったものもありました。 それで、市としてもアピールすることになったようです。 www.city.sunagawa.hokkaido.jp で、いくつかあるお菓子屋さんのうち、ふるさと納税の返礼品で入手できるお店をご紹介します。 ふるさと納税の返礼品で入手できる砂川のスイーツ 岩瀬牧場 この店は、まだ自分で行ったことはありません。すみません。新しいお店のようです。 [rakuten:f012262-sunagawa:1000067…
北海道砂川市にある中央市場の思い出 僕の「一杯のかけそば」 2023年12月8日 午前11時35分頃
こんにちは、暖淡堂です。 2023年12月8日(木)の午前11時35分頃、街中をあるいていて、とても懐かしい建物を発見しました。 複数の商店や食堂が集まっている「中央市場」です。 この写真に写っている建物も、もうだいぶん古いと思いますが、僕が覚えているのは、これのさらに前の建物です。 昔の建物は、全体が木造だったと思います。 両親や祖父母に連れられて、何度もこの「中央市場」に行きました。 子供の頃、祖母と一緒に行くと、中の食堂でおそばを食べさせてもらいました。 当時の僕のお気に入りは「かけそば」。 和風の出汁で、温かくて。 刻んだネギが入っていて。 唐辛子(北海道では南蛮と言います)を少しだけ…