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旧瑞穂祠・虎頭山歩道(花蓮県瑞穂郷)―東台湾の温泉地に眠る神社跡
現在温泉地として知られる東台湾瑞穂(花蓮県瑞穂郷)には日本統治時代、タバコ栽培を目的とする移民村が置かれていました。その移民村の鎮守として鎮座していたのが、今回ご紹介する瑞穂祠です。瑞穂祠の跡地は戦後破壊されたのち、参道の一部は虎頭山歩道として整備され、社殿のあった場所は放置され続けてきました。ここでは現状がどうなっているか、入口から社殿跡にかけて順に調べていきます。▲旧瑞穂祠(虎頭山歩道)入口神社参...
日本統治時代、東台湾には多数の内地人移民村が置かれていました。中でも現在の鳳林鎮にあった「林田村」は、官設移民村として大正初期から開発され、おもにタバコ栽培が行われました。また、住民には福岡・熊本県出身者が多かったとも記録されています。そんな林田村の鎮守として建立されたのが、今回登場する林田神社です。大国魂命・大己貴命・少彦名命・北白川宮能久親王を祭神とし、毎年10月6日に大祭が執り行われました(花...
鹿野村社(台東県鹿野郷)―日本統治時代の風格甦った東台湾移民村の神社
2015年の春、台湾南東部にある鹿野郷で神社が再建されました。再建された「鹿野村社」は当初、日本統治時代の内地人移民村「鹿野村」の鎮守として建立され、戦後は社殿の基礎のみ残存していました。しかし近年、基礎の修復にあわせて社殿も再建されることが決まり、2014年ごろから再建工事が行われてきました。そして2015年、もとの位置に鳥居・石灯籠・社殿が再建され、「鹿野村社」はおよそ70年ぶりに鹿野の台地に蘇りました。鹿...
旧里壠社の石灯籠台座(台東県関山鎮)―台湾屈指の日本家屋密集地だが...
今回お届けする旧「里壠社」は台湾東部・関山鎮にあった日本統治時代の神社跡です。神社名の「里壠」は関山の旧名にあたる地名で、昭和12年の地名改称により「関山(かんざん)」へと改められました。関山における神社建立は比較的遅く、昭和になってからの1928年です。つまり里壠社は20年も存在しなかったことになります。同神社はやはり戦後取り壊され、境内跡地はごく一般的な農道になってしまいました。以下、跡地周辺での調査記...
旧台東神社(台東県台東市)―拝殿残存説あり...東台湾・鯉魚山の神社跡
今回お届けする台東神社は台湾南東部、台東市の中心部鯉魚山にありました。神社跡地は現在台東県忠烈祠として整備されており、境内には神社時代の構造物がいくつか現存しています。▲旧台東神社入口神社入口は旧台東駅(現在の台東バスステーション)の裏側にありました。当時の参道は忠烈祠の参道に転用されています。▲旧台東神社・鯉魚山施設配置図日治時期台東神社遺址、鯉魚山配置圖かつての神社参道には鯉魚山の由来に関する説明...
旧蘇澳金刀比羅社(宜蘭県蘇澳鎮)―台湾屈指の漁師町を見下ろす神社跡
今回お届けする旧蘇澳金刀比羅社は台湾北東部、蘇澳の小高い山の上にあります。かつて「臨海道路」と呼ばれた蘇花公路から参道が分かれ、砲台山の頂上まで続いていました。終戦から70年以上を経た現在でも、金刀比羅社の名残りが随所に残っています。今回はそんな砲台山を巡ってみようというのです。蘇澳金刀比羅社の参道は先述のように、蘇花公路から分岐していました。ところが戦後道路拡幅のために、参道の入口付近が大幅に削り...
【旅行記】2012年6~7月 1回目の台湾(2)―侯硐の猫村で復興号を撮る
2012年6月30日から7月2日かけて、私は初めて台湾を訪れました。1日目編に続きまして、今回は2日目編の旅行記をお届けします。(前回のあらすじ)初めて台湾を訪れることになった筆者は福岡空港から飛行機に乗り込み、一路桃園空港を目指した。イミグレーションに機内食、さらに換金・・・これらは筆者にとって初めての経験であった。緊張と喜びが入り混じる中、桃園空港からバスに揺られ夕暮れの台北駅に到着した。バスを降りると蒸...
旧阿緱神社=屏東公園(屏東県屏東市)―太鼓橋が残る台湾南部の神社跡
古くは阿緱(あこう)と呼ばれていた、台湾南部の屏東市。ここには日本統治時代に阿緱神社という立派なお社がありました。現在、神社跡は屏東公園と県立陸上競技場になっています。かつての遺構がどのくらい残っているのか、現地に出向き調べてみました。まずは阿緱神社の正面入口だった場所に来ました。かつては真正面に鳥居があったはず。今では真正面にパーゴラ(つる植物を育てる棚)が広がっています(写真上)。参道跡はその...
旧高雄神社=市忠烈祠(高雄市鼓山区)―変化する台湾の神社跡...復元参道を見に行った
日本統治時代の台湾には、多くの神社が鎮座していました。今回ご紹介する旧高雄神社もその一つで、現在は高雄市忠烈祠になっています。同神社はかつて、寿山の中腹部に鎮座していました。その境内は高雄港を眼下に見下ろせる絶景を持ち、高雄を代表する景勝地に数えられました。1929(昭和4)年の造営にあたり、大物主尊、崇徳天皇、北白川宮能久親王の3柱を祀り、32(昭和7)年には旧県社に昇格しています。県社への昇格は、デジ...
旧橋仔頭社(高雄市橋頭区)―南台湾・橋頭糖廠に復原された神社参道
高雄市橋頭区にかつてあった砂糖工場で、現在は歴史公園として開放されている「橋頭糖廠」にやってきました。こちらには、日本統治時代に構内神社「橋仔頭社」が建立されていました。社殿跡には中山堂という施設がたち、その周辺には石灯篭・社号標・石盤が置かれています。これらの構造物は、2005年に日本人を含む有志によって復原されたもので、境内跡に散らばっていた遺物を集め、当時とほぼ同じ場所に置き直したものです。一連...
台糖南靖糖廠の歴史遺産をたどる(嘉義県水上郷)―観光地化される台湾の砂糖工場
サトウキビ栽培が盛んな台湾では、古くから各地に砂糖工場(糖廠)が置かれました。その多くが操業を終えたのちテーマパークとして活用されており、運搬用の軽便鉄道や戦前の木造宿舎といった、歴史的価値のある付属施設をウリにしています。どの工場も魅力的な存在ですが、中でも私の心をつかんだのが、嘉義県水上郷にある「南靖糖廠」です。主要道沿いにあるとは思えないほど、整然として落ち着きのある街並みがあって、その雰囲...
旧能高社=台湾地理中心碑(南投県埔里鎮)―台湾のおへそにある神社跡
南投県埔里鎮は台湾中央部にあることから、「台湾のおへそ」と呼ばれることがあります。そんな埔里には日本統治時代、能高郡の役所が置かれていました。現在でも南投県東部の要所ですが、昔から一帯の中心地として栄えてきたのです。今回めぐる能高社は、能高郡の鎮守にあたる存在でした。埔里市街地東部の虎頭山に建立され、昭和10年代まで社殿が鎮座していました。やがて、新しい社殿が造成されたことで、山麓に遷座。名称も能高...
旧霧ヶ丘社=徳龍宮(南投県仁愛郷)―霧社事件の舞台に残る神社跡
1930年秋、台湾中央部の能高郡蕃地を中心に、原住民セデック族による暴動が発生しました。これが日本統治時代最大にして最後の原住民蜂起といわれる「霧社事件」です。内地人による長年の蔑視・抑圧の結果、このような惨劇が生じたといえますが、同時に内地人にも多数の犠牲者が発生しており、事件終結のため原住民・内地人ともに多くの犠牲を払いました。今回はそんな霧社にある神社跡「霧ヶ丘社」について見ていきます。同神社は...
旧建功神社(台北市中正区)―台湾統治のシンボルは今...学校に呑み込まれた洋風神社
学校に転用された神社跡地を求め、台北市南海路にやってきました。場所は台北市植物園に近い場所で、かつて建功神社のあった南海学園です。メトロ小南門駅から徒歩で訪れることができます。目次1 建功神社とは2 神社参道・鳥居跡3 玉垣4 方形池・社殿建功神社とは同神社は日本統治の開始以降、台湾開発・発展のために殉じた人々を祀るため、市制30周年記念事業の一環として、公費約9万円を投じて、台北市南門町の植物園内約4千...