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ω・) ソーッ・・・ 皆さん、ご機嫌よろしゅうに。 『老子』を読み返してみた、第13章です。 何謂寵辱若驚。寵之為下也、得之若驚、失之若驚。是謂寵辱若驚。 何をか寵辱驚くが若しと謂う。寵の下たるや、これを得ては驚くが若く、これを失いては驚くが若し。これを寵辱驚くが若しと謂...
9歳のときに心を奪われた早逝の女性ベアトリーチェに捧げる作品『神曲 地獄篇 (講談社学術文庫) [ ダンテ・アリギエリ ] 』についてダンテが、1300年の復…
ω・) ソーッ・・・ 皆さん、ご機嫌よろしゅうに。 『老子』を読み返してみた、第12章です。 馳騁田猟使人心発狂。難得之貨、使人之行妨。是以聖之治也、為腹不為目。故去彼而取此。 馳騁田猟(ちていでんりょう・・・狩り)は人の心を発狂せしむ。得がたきの貨は人の行いを妨げせしむ...
#736 レビュー 『教養としてのダンテ「神曲」地獄篇』佐藤優
佐藤優さんがダンテ『神曲』を解説していると知り読んだ『教養としてのダンテ「神曲」<地獄篇> (青春新書インテリジェンス) [ 佐藤優 ] 』について佐藤優氏…
#724 2024年6月からの読書目標”とにかく読了”は、ダンテの『神曲』
2024年6月から、ダンテの『神曲』を読みたいと思います。今年は、年初の目標としてギリシア悲劇を読むとしていました。岩波書店の『ギリシア悲劇全集』の作品として…
#733 レビュー 『謎と暗号で読み解くダンテ「神曲」』村松真理子
ダンテの生涯、『神曲』の構造の秘密、使われているた言葉の理由などを読む『謎と暗号で読み解く ダンテ『神曲』【電子書籍】[ 村松 真理子 ] 』についてイタリ…
ω・) ソーッ・・・ 皆さん、ご機嫌よろしゅうに。 今日は『老子』の第9章から。けっこう有名なフレーズで、ご存じの方も多いのではないかと思います。 金玉盈室、莫之能守也。貴富而驕、自遺咎也功遂身退、天之道也。 金玉室にみつれば、これを能く守るなし。貴富にして驕れば、自ら...
ダンテの『神曲』の世界を阿刀田高先生の軽妙な語り口で味わう『やさしいダンテ<神曲> (角川文庫) [ 阿刀田 高 ] 』についてダンテの人生、影響を与えた女性…
古典というとちょっと堅苦しい感じがありますが、最近は素晴らしい先生方のお仕事によって現代風にアレンジされた作品も多々…そのなかで、今回の私のおすすめは『落窪物語』マンガ日本の古典(2) 落窪物語 (中公文庫)↑ちなみにこちらは図書館などにあるのでは…?と。私
ω・) ソーッ・・・ 皆さん、ご機嫌よろしゅうに。 『老子』を読み返してみよう・・・・・・これはもう有名すぎて知らない人は居ないのでは? なんと言ってもお酒の銘柄にも採用されているぐらいです。 上善如水。水善利万物而不争。居衆人之所悪。 上善は水の如し。水は善く万物を利...
30年以上前の大学受験浪人のときに読んだマンガ『あさきゆめみし』を、今年の大河『光る君へ』に合わせて再読長大な『源氏物語』をマンガでその世界観を味わえる。光源…
遠出をしなかったGWということでしたが、ずいぶん前に購入して少しづつ読み進めていた投資本、チャールズ・エリスの「敗者のゲーム」を一気に読み進めて今日読了しまし…
「管子」の言葉より 国会や選挙があると、一定数のアクセスがあります
こんにちは、暖淡堂です。 ブログを複数運営しています。 アメブロでは2サイト作っていて、思い出したようにポツリポツリと記事を更新しています。 アメブロははてなと同じように、ユーザーが特に何をしなくてもSEO的に強いと感じられます。 放置状態でも、一定数のアクセスがあります。 で、そんなアメブロに3年ほど前にアップした記事が以下になります。 この記事ですが、コンスタントに一定数のアクセスがあります。 それも、なんとなく国会期間中であったり、国政選挙の時期だったりすると、アクセス数が増えます。 関心を持ってもらえるのでしょうね。 ameblo.jp 一部引用します。 指導者が指導者としての振る舞い…
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに」 後京極摂政前太政大臣 妻を亡くした寂しさを和歌に昇華させた
百人一首第91番目の歌の作者は後京極摂政前太政大臣ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじんです。 関白九条兼実の子で、藤原忠通の孫にあたります。 今回は後京極摂政前太政大臣について紹介します。 後京極摂政前太政大臣とは 後京極摂政前太政大臣とは藤原良経のこと。 生年が1169年、没年が1206年。 祖父の藤原忠通は百人一首第76番目の歌の作者ですね。 保元の乱の中心人物でした。 dantandho.hatenadiary.com 藤原良経は政界で活躍しながらも、和歌や漢詩などの文学に通じていました。 自らも優れた和歌を残しています。 そして、当時の文学界の有力なパトロンで、百人一首の選者…
今は休職中なので、もっぱら図書館で時間を潰している。今は図書館を通勤先と見立てて、日中はそこで過ごすようにしている。 なので、本を読む時間はそれなりにある。久々に本を読んでいる。読むスピードは遅いけど、それなりに充実している。 今読んで
百人一首の第81歌から第90歌までをまとめます。 保元の乱、平治の乱、それに続く源平の合戦期。 その時代の歌人たちの作品が中心になります。 選者の藤原定家と、実際に交流のあった歌人の作品もいくつかありますね。 この後は第91歌から第100歌まで。 源平の合戦後までの歌人の作品になります。 dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com dantandho.hatenadiary.com…
「弟の牛若は、四歳までは母とともに暮らしていたが」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(五)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの五回目。 常盤は清盛を受け入れます。 そして三人の子らの命を助けます。 ここで、今若、乙若、牛若(義経)三人の生涯が語られます。 今若は、八歳になった春の頃からかんじょう寺(観音寺、醍醐寺か)で学問をさせ、十八の年に受戒し禅師の君と呼ばれるようになった。後に駿河の国、富士の裾野の阿野という山寺で仏法を盛んにしておられたが、そこでは悪禅師殿と称せられるようになっていた。 乙若は八条に住んでいたが、僧ではあっても企みのある恐ろしい人で、加茂、春日、稲荷、祇園の御祭があるごとに平家を狙い、最後は紀伊国(きのくに)にいた叔父新宮十郎行家が反乱を起こした…
「見せばやな 雄島の海人の 袖だにも」 殷富門院大輔 和歌の上手として多くの歌が勅撰和歌集に選ばれた
百人一首第90番目の歌の作者は殷富門院大輔いんぷもんいんのたいふです。 歌人仲間からは「千首大輔」とあだ名されるほどの多作の人だったようです。 今回は殷富門院大輔について紹介します。 殷富門院大輔とは 生年が1130年頃、没年が1200年頃。 藤原氏北家の一人、藤原信成の娘です。 後白河院皇女の殷富門院に出仕しました。 鴨長明からは和歌の上手の一人に挙げられ、またとても多作だったことから、和歌仲間からは「千首大輔」とあだ名されるほどでした。 藤原定家、西行らとも交流があり、当時の歌壇の中心にいた人だったようです。 作った歌は多くの勅撰和歌集に選ばれています。 新古今和歌集に10首、新勅撰和歌集…
「清盛は、常盤がもし自分に従いさえするのであれば」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(四)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの四回目。 常盤は清盛らに囚われてしまいます。 そして清盛は常盤に文を届ける。 常盤は子らのためと心を決め文を開きます。 清盛は、常盤がもし自分に従いさえするのであれば、将来たとえ平家の敵になったとしても構わぬ、その三人の子らを助けてやろうと思った。それで、頼方、景清に命じて、七条朱雀(しゅじゃく)というところに常盤らを置いた。見張りの当番の采配は頼方にまかせて守護させた。 常盤のもとに、清盛は手紙を書いて届けさせたが、常盤はそれを手に取りもしなかった。それでもついには、子を助けたいがために、清盛の意に従うことにした。常盤のこの決心のおかげで、三…
「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば」 式子内親王 斎院による「忍ぶ恋」の歌
百人一首第89番目の歌の作者は式子内親王しょくしないしんのうです。 賀茂斎院かものさいいんとして11歳から21歳まで過ごした人でした。 今回は式子内親王について紹介します。 式子内親王とは 生年が1149年、没年が1201年。 後白河天皇の皇女です。 守覚法親王や以仁王の姉にあたります。 21歳で斎院を退きますが、その後は社会とは交わらず、藤原俊成や藤原定家らの指導を受けて和歌を勉強するような、静かな暮らしをしていたようです。 その式子内親王は、のちに呪詛事件の犯人とされてしまいます。 この事件があってから、式子内親王は出家しますが、亡くなるまでの生涯は、本人が希望したような穏やかなものではな…
「常盤らが都に出てきたことが六波羅に伝えられた」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(三)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの三回目。 常盤が清盛と対面します。 清盛は常盤を見て、急に怒りがさめてしまいます。 一転して、常盤にご執心となります。 常盤らが都に出てきたことが六波羅に伝えられた。悪七兵衛景清(あくしちひょうえかげきよ)、監物太郎(けんもつたろう)に命じて、子ともども六波羅に引き立てた。清盛は常盤を捕らえたら、火でも水でももって責めてやろうと思っていたが、常盤の姿を目の当たりにすると、そのように怒る心は静まってしまった。常盤という女は、日本一の美人であったのだ。九条院、すなわち近衛天皇の中宮藤原呈子(ていし)は、派手な催し事が好きであった。それで都中から容顔…
「そこへ、常盤の母、関屋という者が」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(二)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の常盤都落ちの二回目。 都では、常盤の母、関屋が平家の手に落ちます。 それを心配する常盤は、三人の子らをつれて都に出て行きます。 そこへ、常盤の母、関屋という者が、楊梅(やまもも)町に住んでいるということを六波羅の平家の者たちが見つけ出し、捕らえて厳しく取り調べしているという噂が聞こえてきた。常盤はこの噂に悲しんだ。母の命を助けようとすれば三人の子の命を失う。子らを助けようとすると老いた母の命を失う。親の不幸についての嘆き、子らに降りかかる災難への苦しみ、いずれも疎かにできるものではないが、子のために親を見捨てることなどできるだろうか。親に孝行を尽くせば、堅…
「難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ」 皇嘉門院別当 難波江の一夜の恋に身を尽くし
百人一首第88番目の歌の作者は皇嘉門院別当こうかもんいんのべっとうです。 皇嘉門院聖子せいしに仕えた人でした。 今回は皇嘉門院別当について紹介します。 皇嘉門院別当とは 生没年は不詳。 藤原忠通の娘で崇徳天皇の皇后であった皇嘉門院聖子に支えていました。 保元の乱では崇徳天皇と藤原忠通が対立。 皇嘉門院聖子はその板挟みとなり苦悩したことでしょう。 乱の後に出家します。 皇嘉門院別当も、共に出家したと考えられています。 百人一首に選ばれている歌は、掛詞、縁語が多用されています。 「難波江の芦」は「かりね」の序詞。 「かりね」は「刈り根」ですが、「仮寝(仮初の共寝)」。 「ひとよ」は「一節」と「一夜…
『平家物語』を読むに当たり、アニメ『平家物語』 TVアニメ「平家物語」公式サイト琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平家物語…
アニメ『平家物語』 第四話「無文の沙汰」についてTVアニメ「平家物語」公式サイト琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平家物語…
アニメ『平家物語』 第五話「橋合戦」についてTVアニメ「平家物語」公式サイト琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平家物語』。…
アニメ『平家物語』 第六話「都遷り」についてTVアニメ「平家物語」公式サイト琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平家物語』。…
アニメ『平家物語』 第七話「清盛、死す」についてTVアニメ「平家物語」公式サイト琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平家物語…
アニメ『平家物語』 第八話「都落ち」についてTVアニメ「平家物語」公式サイト琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平家物語』。…
アニメ『平家物語』 第九話「平家流るる」についてTVアニメ「平家物語」公式サイト琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平家物語…
アニメ『平家物語』 第十話「壇ノ浦」についてTVアニメ「平家物語」公式サイト琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平家物語』。…
アニメ『平家物語』 最終の第十一話「諸行無常」についてTVアニメ「平家物語」公式サイト琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平…
#242 読了:『大人が読みたい 平家物語 』 ~日本の古典『平家物語』を読むために
アニメ平家物語を楽しんだので、私の世代にとってはやはり人形劇『平家物語』かなと思い読了 私の平家物語像は、吉川英治先生の作品だったんだな〜 大人が読みたい平家…
「平清盛が、これらの子を捕らえて斬るべしと言った」 義経記 巻第一 常盤都落(みやこおち)の事(一)
こんにちは、暖淡堂です。 今回から「義経記」の常盤都落ち。 常盤は三人の子らと逃げるのですが、平氏に追われていると知られているので、誰も助けてくれません。 頼りに出来る人がいない状況です。 平清盛が、これらの子を捕らえて斬るべしと言ったとさかんに聞こえてきたので、平治二年二月十日のまだ明け方、常盤は三人の子らを引き連れて、大和の国宇陀の郡岸の岡というところにあった外戚の家をたずねていったが、このように世間が乱れている中では頼りにならず、匿ってくれなかった。それで、大和の国の大東寺という所に、常盤は三人の子とともに隠れていた。 現代語訳:暖淡堂 *☺☺☺☺☺* 常盤の苦労が続く部分になります。 …
今は学校化社会と言われています。すべてが学校のように運営されている社会ということです。それによる弊害や問題も数多く指摘されています。その多くが画一化による成長への悪影響です。いじめ問題も学校という舞台
#250 本レビュー『新版 平家物語(一)』訳 杉本圭三郎 ~とにかく読了 日本の古典~
2023年の読書活動テーマ ”とにかく読了 日本の古典『平家物語』”をようやく読み始めました。選んだのは講談社学術文庫の4冊ものの『平家物語』 絶頂を極める平…
「村雨の 露もまだ干ぬ 槇の葉に」 寂蓮法師 日本的な風景を目で追うような叙景詩
百人一首第87番目の歌の作者は寂蓮法師じゃくれんほうしです。 定家の従兄弟にあたる人です。 今回は寂蓮法師について紹介します。 寂蓮法師とは 生年は1139年頃、没年は1202年。 俗名は藤原定長で、父は阿闍梨俊海。 後、阿闍梨俊海の兄の藤原俊成(藤原定長の伯父)の猶子(養子)となります。 30歳過ぎに出家しました。 出家後も御子左家の歌人として活躍し、新古今和歌集の選者の一人となっていましたが、完成する前に没してしまいました。 この歌の「村雨」とは通り雨、にわか雨。 その雨が梅雨を真木(まき:杉や檜で常緑樹)の葉に露を残します。 その露の滴に視点を集中してから、目を上げ、立ち上る霧を見ます。…
中国太古は木徳の王から始まる 十八史略原文データ化極私的プロジェクト
こんにちは、暖淡堂です。 十八史略原文の電子データ化を進めています。 十八史略の冒頭部分、「太古」の内容について簡単に説明します。 「太古」は「天皇てんこう氏」から始まります。木徳ぼくとくによって王となったとされています。 この木徳とは五行(木・火・土・金・水)の一番初め。 「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ずる」とされていて、その最初に置かれています。 それで、「天皇氏」の次の「地皇氏」は火徳をもって王になるとされます。 「天皇氏」の時代は、純朴な人々だったので、ことさらなことをしなくても、世の中が穏やかに治っていました。 「天皇氏」も「地皇氏」にもそれぞれ…
「そのほかに腹違いの子供は多くあった」 義経記 巻第一 義朝都落(みやこおち)の事(四)
こんにちは、暖淡堂です。 「義経記」の四回目。 源義朝と常盤(常盤御前)との間に子供が三人いました。 そのうちの一人、牛若が後の源義経です。 そのほかに腹違いの子供は多くあった。尾張の国熱田の大宮司の娘との間にも子があった。遠江蒲(とうとうみかば)というところで成人したので、蒲の御曹司(おんぞうし)と呼ばれている。のちの三河守(みかわのかみ)がこの人である。 九条院の雜仕(ぞうし)常盤(ときわ)とも三人の子があった。今若七歳、乙若(おとわか)五歳、一番下の牛若は生まれたばかりであった。 現代語訳:暖淡堂 *☺☺☺☺☺* タイトルの付け方のルールを考えてみました。 これでインデックスされるかなあ…
「嘆けとて 月やは物を 思はする」 西行法師 平清盛とともに北面武士であった歌人
百人一首第86番目の歌の作者は西行法師さいぎょうほうしです。 定家らの時代にもその歌と生涯は愛されていましたが、現代でも西行法師の歌は多くの人に読み継がれていますね。 今回は西行法師について紹介します。 西行法師とは 生年は1118年、没年は1190年。 平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きた人でした。 1140年に出家する前は俗名佐藤義清(さとうのりきよ)といい、武士でした。 鳥羽院の頃、北面武士として奉仕していましたが、この頃にはすでに歌人としての評価を得ていたようです。 なお、同じ頃の北面武士に、平清盛がいます。 出家後は崇徳院に会いに四国に出かけたり、東大寺再建のための勧進に出かけた東…
チャールズ・エリスの「敗者のゲーム」 kindle版が実質半額
ふと目に着いたネット記事を読んでいたんですが…… 株高に「乗り遅れた」と思った時、思い出す心得 - 日本経済新聞バブル崩壊後の低迷を経て、最高値更新を指呼の間…
十八史略とは 徳川家康をはじめとする戦国武将たちも愛読した「十八史略」。 これは中国の歴史書です。 内容は太古の伝説的な出来事から始まって、歴代の国のことを書いて、最後は元が南宋の支配圏を飲み込むまで。 特に宋(北宋)から南宋の滅亡までが詳しく書かれています。 長い期間の出来事をまとめて書いていますので、それぞれの時代の記述は簡単なものになっています。 中国の歴史を一通り頭に入れたいという時にはとてもよい本です。 十八史略の作者、書かれた時期 この「十八史略」を書いたのは曾先之そうせんしという人です。 書かれたのは元の初期。 南宋の役人だった曾先之が引退した後に執筆したもののようです。 出身は…
こんにちは、暖淡堂です。 今回は「義経記」の三回目。 源義朝が都落ちするときに一緒に逃げた子らの最後になります。 頼朝は逃げる途中ではぐれてしまっています。 義朝は、悪源太に北国の勢力を駆り集めよと命じ、越前の浦に送った。しかし、それはうまくいかなかった。近江の国、石山寺にこもっていたところを平家のものども聞きつけて、妹尾、難波次郎らを差し遣わし、生捕りにさせた。悪源太義平は都へ引き立てられていき、すぐに六条河原で斬られてしまった。 弟の朝長も千束が崖というところで、山法師大矢の注記が射た矢で弓手(ゆんで)の膝を射抜かれ、美濃の国の青墓というところまで逃げてそこで死んだ。 現代語訳:暖淡堂 *…
「夜もすがら 物思ふ頃は 明けやらで」 俊恵法師 鴨長明の師でもあった
百人一首第85番目の歌の作者は俊恵法師しゅんえほうしです。 東大寺の僧にして、歌人でもありました。 今回は俊恵法師について紹介します。 俊恵法師とは 生年は1113年、没年は1191年。 父は源俊頼(百人一首74番の歌人)です。 dantandho.hatenadiary.com 出家後、白河にあった自房を歌林苑と名付け、そこで盛んに歌会や歌合を行いました。 また俊恵法師は鴨長明の師としても知られています。 sirdaizine.com 俊恵法師が自らの歌林苑で歌合を行っていた頃は、次第に平家の権勢が頂点を極めていった時期。 時代の大きな変わり目を生きながら、歌道を極めていったということでしょ…
こんにちは、暖淡堂です。 時々、こんなことを思ったりします。 「人類が滅んだ後には、何が残るのだろうな」 建物や機械なんかは、残骸が残りますね。 人類の後の何者かがそれを見ることがあったら、まあ、ガラクタがあるなあくらいに思うかもしれません。 そのガラクタも、時間が経てば、さらにボロボロに崩れてしまうかな。 現代の人たちがたくさん蓄積している電子データは、ほとんどがダメになるでしょうね。 電気が無くなると、電子データは消えてしまいます。 で、こちらも時間が経てば、本体ごとボロボロになるかも。 そんな風に考えていて、ふと、木簡、竹簡、あるいは金属製の鼎、石碑などに刻まれた文字は、少なくとも電子デ…
「ながらへば またこの頃や 忍ばれむ」 藤原清輔朝臣 平安末期の歌壇で藤原俊成と並ぶ大御所
百人一首第84番目の歌の作者は藤原清輔朝臣ふじわらのきよすけのあそんです。 平安末期、藤原俊成とともに歌壇を牽引した大御所です。 今回は藤原清輔朝臣について紹介します。 藤原清輔朝臣とは 生年は1104年、没年は1177年。 この人も藤原北家の一人。 平安時代末期の歌壇の中心人物ともいえます。 勅撰和歌集には89首選ばれています。 また歌学書には、「袋草紙」、「奥義抄」、「和歌一字抄」などがあり、当時の歌学の確立、発展に貢献しました。 百人一首に選ばれているこの歌。 今の辛い状況は、時間が経てば懐かしい思い出になるのだろうか、過去の辛い体験でさえ、今思い出せば懐かしいくらいなのだから。 そんな…
こんにちは、暖淡堂です。 前回の続きです。 源義経の父、源義朝が平治の乱に敗れて京の都から逃げる場面です。 源義朝に従った子供達の中には、まだ年若い源頼朝がいました。 一方の義経ら、常盤御前の子供達は含まれていません。 この辺りが、後々の頼朝と義経の運命を分けていったように思います。 父の源義朝は、平治元年十二月二十七日に、後白河上皇の寵臣、衛門督(えもんのかみ)藤原信頼(のぶより)に味方し、京で繰り広げられた戦に敗れ、代々源家に仕えてきた郎等らも皆討たれてしまい、残ったわずか三十騎余りとともに東国の方に落ちられた。義朝の子のうち、元服を済ませた子らを引き連れ、まだ幼い子らは都に捨て置かれた。…
「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る」 皇太后宮大夫俊成 百人一首の選者藤原定家の父にして歌道の大家
百人一首第83番目の歌の作者は皇太后宮大夫俊成こうたいごうぐうのだいぶしゅんぜいです。 藤原俊成で、百人一首の選者藤原定家の父にあたります。 歌道の大家ですね。 今回は皇太后宮大夫俊成について紹介します。 皇太后宮大夫俊成とは 生年は1114年、没年は1204年。 この人も藤原北家に連なる人。 藤原道長の孫にあたるようです。 平安時代から鎌倉時代にかけて、歌壇で存在感を示します。 後白河院の院宣を受け「千載和歌集」の選者となります。 また後鳥羽院の頃に和歌所寄人となるなど、歌道の大家として活躍します。 勅撰集に選ばれた歌は紀貫之、藤原定家に次ぐ歴代3位(414首)。 数ある歌の中から藤原定家に…