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パシフィックのC55、C57。ハドソンのC60、C61。それぞれの機関車の製造から運用までの流れを考えると、鉄道輸送に対する、戦争の影を色濃く感じざるを得ません、人間社会に何よりも大切なのは、平和です。 小荷物を乗せた台車を吊り下げて、線路を跨いでプラットフォームに送るテルハ・クレーン付近に停車中のC55。 右隣には、長距離輸送中に、車内で郵便物の分別をする郵便車が止まり、大幹線の風情が漂います。 C57に比較して、性能の劣るC55が、国鉄の無煙化が始まるまで、全機健在で残っていたのは、戦前の鉄道全盛期に製造された作りの良さがあったからです。C55以降の蒸気機関車は、戦争の影響に無縁ではいられ…
機関区は廃止され、駅も無人駅になった吉松。鹿児島本線と日豊本線が吉松経由であった頃、吉松駅と機関区の職員数は600人を超えていました。 吉松駅構内の入換と山野線で活躍したC56。キャブ屋根の延長やテンダーへの風除け板の追加など、運用に合わせた様々な改造がされています。山野線もループ線のある雄大な山岳路線でしたが、国鉄民営化後、廃線になりました。 敷き詰められた線路と奥には機関区が遠望され、山に囲まれた田園風景の中の広大な駅である事が分かります。高い照明塔も立ち、かつては不夜城の鉄道基地でした。長いプラットフォームの屋根に対して留置された2両の客車が、鹿児島本線から肥薩線へ、日豊本線から吉都線へ…
鉄道の歴史に翻弄された吉松。蒸気機関車時代の光景です。 入換作業中、ホームに停車したC55。吉都線は長くC55が活躍した路線でした。 C55に引かれる無火回送のD51。メインロッドが外されています。大型の敦賀式の集煙装置、砂撒管元栓を守るように取り付けられたサンドボックスの庇、汽笛の後ろに重油タンクが乗せられ、更にランボード上の補助重油タンクが取付けられ、矢岳越えの重装備D51と呼ばれていました。 ループ線で高度を稼ぐD51。肥薩線は海沿いを走る現在の鹿児島本線が昭和2年に開通する前は、熊本と鹿児島を結ぶ唯一の路線でした。重要路線であったので、スイッチバックや、日本初のループ線など、峠越えの鉄…
霧の蔵ブルワリーで爽やかに "Hyuganatsu" を 吉都線を完乗!
2016.10.19の再掲です。開通当時の吉都線は、日豊本線として九州を縦貫する幹線だった。戦前の吉松駅は、鹿児島本線(現肥薩線)と日豊本線(現吉都線)が合流する鉄路の要衝だったそうだ。昭和7年、霧島連山の南麓を走る新線が開通すると、名称を吉都線と改めローカル線となってしまった。今では1~2両の気動車が11往復、都城と吉松を結んでいる。通学時間を過ぎた10:05発の都城行きは単行なのだ。肥薩線と分岐した単行気動車は、霧島連山の北麓、田園風景の中を宮崎自動車道と並行して往く。モータリゼーションが進んだ地方のローカル線の乗客はというと、御多分に洩れずお年寄りと中高生がほとんど。そして昼間っからボックス席で焼酎を飲む域外からの闖入者?と相場は決まっている。ほぼ行程半ばの高原(たかはる)駅で下り列車と交換すと、単...霧の蔵ブルワリーで爽やかに"Hyuganatsu"を吉都線を完乗!
南九州駅巡り20冬(31) 肥薩線 吉松駅 ~夜の肥薩線を更に南下して隼人へ~
肥薩線を南下して列車の終点、吉松駅に到着しました。2番線の到着です。 吉松駅は鹿児島県姶良郡湧水町の駅。駅所在の吉松町が栗野町と合併したそうです。乗り入れ路線は所属線の肥薩線と当駅を起点とする吉都線の2路線。ですが、肥薩線人吉方面は「いさぶろう」「しんぺい」を含めても1日3往復しかない区間で、全てこの駅を始発・終着としており、この駅を跨ぐ肥薩線の列車はありません。逆に隼人方面と吉都線の都城方面を直通す...