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遠く稚内を目指してひた走る宗谷本線。停車時間を利用しての給水は欠かせない。凍てつく寒さの中、重い給水スポートを操って給水し、更にはテンダーの石炭を前方に掻き寄せる作業が続きます。 石炭の掻き寄せには機関助士も加わってキツい作業を停車時間内に捗らせます。降雪の季節、降り積もる雪はそのまま列車の抵抗になり、酷寒の中を進む客車にスチーム暖房を提供する為にボイラーはフルに活用されました。いきおい石炭の消費も増えてテンダー前部に積まれた石炭は忽ち薄くなったのでした。列車を遅延させず、凍えて乗り込む乗客に暖かな車内を保つ為に、誰知らず、黙々と掻き寄せ作業は続きます。 雪掻きされた線路際に置かれた停止位置標…
函館本線の滝川駅から分岐し、富良野、新得、帯広、池田を経て釧路に達し、更に根室まで到達した根室本線。函館から釧路までを14時間以上かけて走破した北海道の蒸気鉄道時代の名物列車急行まりもは、午後2時過ぎに函館を発ち、函館本線を経由して札幌で座席車3両を切離し、オロネを含む寝台車を連結して釧路に向かいました。根室本線新得駅で日付が変わり、朝6時過ぎに釧路に到着、釧路で客車2両と荷物車、郵便荷物車を切り離し、釧路からは普通列車として根室に向かいました。 根室を出発し、疾走するC58。 牽引機は変形デフレクターにJNRの切文字を貼り付けた33号機です。また、C58に連なる客車は、急行まりもを構成する編…
石勝線への乗客のシフトで富良野から新得駅までの区間が廃止される予定の根室本線。蒸気機関車全廃の直前は、D60やD51が奮闘した釧路までは既にDD51に置換えられ、釧路↔根室間にC58だけが残っていました。 釧路↔根室間は長く8620が活躍した区間でしたが、全国で無煙化が進む中で余剰となったC58が投入され、蒸気機関車時代の幕を引く事になりました。滝川駅からの長い道程を走った根室本線も途中区間の廃線により寸断されようとしています。 魚の街、根室から釧路に向かう普通旅客列車。座席車2両に荷物車2両と郵便荷物車1両という素晴らしい編成です。スケソウダラや毛ガニで栄えた根室の水産業も、温暖化により、サ…
奥羽本線の米沢駅から、羽越本線の坂町駅まで、100キロ弱の距離に25‰の勾配を持つ米坂線には、大正時代に8620型と共に量産された貨物用機関車、9600型が活躍していました。東北本線と共に東北地方を縦貫していた奥羽本線と、日本海沿いに北陸本線と連絡して、関西と山形県、秋田を結んでいた羽越本線は、東北地方の大動脈でしたから、米沢駅から坂町駅を結び、奥羽本線と羽越本線をショートカットする米坂線は、たいへん重要な路線だったのです。 積雪日本一という、鉄道運営上はあまりありがたくない看板が、この路線の厳しさを端的に表しています。事実、大雪による運休はもとより、雪崩被害による列車の転落事故など、鉄道にと…
8620型の支線向きの性能を発展継承したC58型でしたが、意外にもC58型だけの運用線区は少なく、多くの地域で9600型やD51型と混用されていました。山が多い日本で、勾配線区の重貨物ともなれば、支線向けの万能型と言えるC58型には荷が重い路線が多かった、逆に言えば、それだけ地域間の貨物輸送が盛んだったのが、蒸気機関車時代なのです。そんな中で、C58型だけで運用していた陸羽東線はC58型を語る時に欠かせない線区です。 駅構内で加速に入るC58重連。陸羽東線は重連運用で峠越えをしたことで、分水嶺の堺田駅に機関車駐泊所があり、機関車の運用が複雑になっていました。C58型の細いボイラーがよく分かるシ…
東北本線完全電化以降、国鉄の無煙化計画は亜幹線から支線へと及び、ほとんどの旅客列車がキハに置き換わっていた陸羽東線でも、貨物列車のディーゼル化は間近に迫っていました。 余命幾ばくもないC58型は、そんな状況の中でも峠に立ち向かい、力続く限りの活躍を見せたのでした。 峠の駅、堺田駅で解放された前補機のC58が、宮城県側の麓に帰るべく待機しています。 無煙化直前になっても、陸羽東線は地味なC58だけの運用でしたから、訪れるSLファンの姿も少なく、C58は淡々と仕業をこなしていました。のどかな田園地帯、壮大な奥羽山脈、更には渓谷沿いを通っていたのです。 夕暮れが迫ってもC58の活躍は続きました。 や…
D51の爆発的ハイパワーや、C57のような暴力的なハイスピードを出すわけでもない中型万能機C58。陸羽東線の小牛田↔新庄間、約100キロの旅路には、すっかり馴染んで活躍を続けていました。 刈取りの終わった田んぼを行くC58。穏やかな景色の中を惰行運転で軽やかに進みます。 大正の名機と呼ばれた8620型、8620型を区間列車用にタンク機関車としたC11、8620の近代化強化型の決定版、C58型。軸重の重さから、早期に入換用となり、営業線区での活躍が少なかった、8620の後継機種C50を除いても、日本の中型万能機と呼ばれた機関車は、合計1400両あまり、山が多く勾配線に強い言われたD50、D51の…
冬には季節風が吹き荒れる山形県側と、分水嶺の堺田駅から中山平、温泉地鳴子まではスキー場が点在する豪雪地帯でした。C58型は、8620の後継機で万能型でしたが、勾配区間向きではありません。100キロ近い陸羽東線の長さと、勾配が20‰以下だという線区の特性から、陸羽東線はC58型だけで蒸気機関車時代の最後まで運用されたのでしょう。 本務機と前補機が力を合わせ、互いをいたわり合いながら峠を登ります。墨絵の風景となった山々が、C58の力闘を見守った陸羽東線。 昭和初期、亜幹線の主力は8620型でしたが、戦争へと急速に向かって行った大日本帝国の戦時輸送には非力と考えられ、8620の強化型として計画された…
宮城県県北部の東北本線の要衝小牛田から、山形県北部の奥羽本線の一大拠点新庄駅までをつなぐ陸羽東線は、太平洋の石巻港女川港と、日本海の酒田港を結ぶ、奥羽山脈を横断する重要路線でした。その開業は仙台と山形を直接結ぶ仙山線よりも20年も古く、明治後半から計画され、大正中期に完成という難工事でした。 中山平を重連で進むC58。C58型は軸重14トン以下の丙線用機関車の決定版となった、牽引力と速度のバランスの取れた傑作蒸気機関車でした。美しい山間を走り抜けていますが、奥羽山脈の分水嶺は、日本有数の温泉湧出地帯で、特にトンネル工事は、湯水の湧出に苦しめられた難工事の連続でした。 陸羽東線の蒸気機関車時代を…
昭和46年、全国一の良質炭を掘り続けた大嶺炭鉱が閉山して、輸送量が無くなっても、C58は南大嶺と大嶺の間の大嶺支線を往復していました。 C58が大嶺支線のたった1両の客車を引いて走ります。 大嶺支線は開通当初は厚狭駅から大嶺駅までの大嶺線という線区で、大嶺炭鉱で産出される良質の石炭を日露戦争で軍艦に使用するために、大日本帝国海軍が肝入で開通させた炭鉱鉄道でした。やがて長門市駅から厚狭駅までの南大嶺を通る路線が全通して後は、南大嶺から大嶺までが大嶺支線となったものです。日露戦争の日本海海戦では、黒煙が少ない大嶺炭鉱の石炭を焚いた日本の艦艇は、ロシア艦隊から見つかり難く、更に砲戦ともなれば、煙に邪…
洪水被害で廃線が取り沙汰されている美祢線。かつては瀬戸内沿いの工業地帯へと石灰石を運ぶ、山口県を縦走する幹線でした。 石灰石専用ホッパー貨車を連ねて登り勾配に挑むD51。空車とは言え、20両を超える鉱石専用貨車は重く、D51の排気音が山間に木霊します。鉱山から直接工場へと輸送する重い鉱石専用列車は鉄道が最も得意とする輸送分野でした。 シリンダーから第3動輪のクランクを結ぶメインロッドには満身の力が込められ、メインロッド外側のリターンクランクに取り付けられたエキスパンションリンクは、シリンダーに送るスチームの量をコントロールする加減リンクを大きく動かし、大量のスチームをシリンダーに送ります。D5…
山陽新幹線開業から、米子方面への旅客輸送強化で電化までされた伯備線ですが、中国山地を縫って走る芸備線や、陰陽連絡でも新幹線との接続の悪い木次線、更には出雲市から西の山陰本線までが廃線を取り沙汰されています。 石炭を焚べるために焚口扉を開けた瞬間、D51のキャブの中は炎が放つ赤い光に満たされます。陰陽連絡は中国山地の坂との戦いでした。 一口に石炭を焚べると言ってもD51型は石炭の積載量は10トン以上あります。一回に3キロずつ掬って投げ込んでも、回数は3000回を超えます。しかも投込みは3平方メートルの広い範囲を均等に、石炭の薄い所を狙って投げ込みましたから、まさに職人技です。揺れるキャブとテンダ…
山中のローカル線が生き残り、北海道のかつての大動脈が廃線の危機にあります。 深い谷をトラス橋で渡り山あいを更に奥へと進むC11。 新潟県小出まで延伸し、県境の分水嶺をトンネルで抜ける事で、豪雪地帯である地域の冬の足として存続の価値を見出した只見線。 秋口には日本有数の紅葉の名所として、全国どころか、世界から観光客を集め、廃線の危機を乗り越えられそうなのは嬉しく思います。 D51が飼料用のホッパー車を連ねて力走する室蘭本線。千歳線との合流点である沼ノ端駅も近い。 ローカル線ながら、存続の為の要件を集める只見線に対して、室蘭本線は岩見沢から沼ノ端までの通しの貨物列車は1日に1本だけになり、沼ノ端駅…
岩見沢から沼ノ端を経て室蘭港までは、北海道産の石炭の大動脈で、室蘭港は道内産石炭の6割を積み出す重要港でした。 疾走するD51。平坦な線路が続く区間では長大な貨物列車をD51が単機で牽引していました。 明治維新以降、開発された石狩炭田から産出される石炭は、函館本線で小樽へ、室蘭本線で室蘭へと運ばれました。 製鉄用に使用するコークスの原料として適していたので、室蘭製鉄所でも昭和30年代までは使用されていました。 車掌車の後ろに木材チップ積みのトラがつながれています。室蘭は製鉄所と共に製紙工場街でもありました。室蘭本線で蒸気機関車が最後の活躍をしていた頃は、道内の炭鉱は多くが閉山し、エネルギーは石…