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【清和源氏】編『新田一族』章「山名氏」節 11.山名祐豊・弐
1560年(永禄三年)、山名祐豊は、弟の山田豊定が死去すると、自身の長男、山名棟豊を因幡守護代として派遣した。 しかし、翌年の月に山名棟豊は、十八歳で、死去…
昭和20(1945)年以降、つまり「戦後」と呼ばれる時代には、その知名度がイマイチに陥っているものの、それ以前には超有名だった人物も少なからずいる。たとえば、神話がらみの人物なら、「三韓征伐」で有名な神功皇后とか、あるいは、その側近の武内宿禰がそうだろうし、確
いち早くシン・戦国大名となった今川義元とその義元の今川仮名目録追加を読み込みながらそれでは戦国大名としては足りないと感じる織田信長の桶狭間の戦いの1時間前まで…
#170『信長公記』を読むその22 巻12 前編 :天正七(1579)年
『信長公記』巻12 天正七(1579)年も前中後編の三つに分けます。前編は有名な安土宗論のエピソードと、京都での殺人事件についてなど 安土宗論・京都四条小結町…
#226 第16回「信玄を怒らせるな!」感想~大河ドラマ『どうする家康』
2023年4月30日の大河ドラマ『どうする家康』の第16話「信玄を怒らせるな!」壮年期の家康、最大の強敵信玄ついに動く第14話から引き続きの英雄たちの選択では…
金ヶ崎の戦いで京都に逃げ帰った織田信長は、その約2ヶ月後の元亀元年(15670年)6月、大軍を率いて北近江に侵攻します。その目的は、金ヶ崎の戦いの際に反...
東映創立70周年記念作品『レジェンド&バタフライ』が全国公開された。天文18年(1549年)に政略結婚で夫婦となった2人が、天正10年(1582年)の本能寺の変まで、乱世を駆け抜けた33年間を描く。織田信長(1534~82)を木村拓哉さん、正室の帰蝶きちょう(濃姫のうひめ、1535~?)を綾瀬はるかさんが演じている。 読売新聞オンラインのコラム本文 ↑読売新聞オンラインに読者登録すると全文お読みになれます 脂の乗り切った人気俳優のW主演だけでも話題十分だが、総製作費20億円をかけて巨大なオープンセットを組み、国宝を含む全国30か所以上でロケを行った。岐阜城と安土城のセットとⅭGはしっかりした考…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜金ヶ崎で浅井長政の裏切りに会うところからだねってことで第15話の感想ぉ〜!浅井長政の裏切りから、なんとか金…
#173『信長公記』を読むその22 巻12 中編 :天正七(1579)年
『信長公記』巻12 天正七(1579)年も前中後編の三つに分けます。中編は、播磨攻めの秀吉、光秀の丹波攻めの活躍と反乱を起こした村重が追い詰められていきます。…
#174『信長公記』を読むその23 巻12 後編 :天正七(1579)年
『信長公記』巻12 天正七(1579)年も前中後編の三つに分けます。後編は、信長に反旗を翻した荒木村重のその反乱の収束がメインです。 荒木村重の反乱をついに鎮…
桶狭間の戦いで激突した両雄、織田信長と今川義元のそれぞれが追求する戦国大名像と、時代がどちらを求めるのかを決める『桶狭間戦記』の最終巻 義元、信長 両雄桶狭間…
#159 『信長公記』を読むその20 巻11前半 :天正六(1578)年 播磨攻めなど
『信長公記』巻11 天正六(1578)年も前後半に分けて、前半は羽柴秀吉の播磨攻めを中心に 秀吉の播磨攻め&荒木村重の謀反 秀吉の播磨攻め別所長治の離反2.…
百済寺本堂。慶安3年(1650年)に再建された 近江(滋賀県)琵琶後の東に位置する「湖東三山」のひとつ、釈迦山しゃかさん百済寺ひゃくさいじ(滋賀県東近江市百済寺町)本堂の濡ぬれ縁が破損した。 NHK大阪放送局が制作する次期連続テレビ小説『ブギウギ』の撮影を進めていた4月25日午後3時過ぎ、濡れ縁で出演者10人がダンスの練習をするシーンのリハーサルを始めたところ、床板を支える部材が折れ、床板が20枚ほど外れて濡れ縁が5メートルにわたって最大20センチほど陥没したという。 寺はドラマや映画のロケ地だった 「聖徳太子が創建」由緒ある名刹 比叡山延暦寺無動寺の末寺、厳しい修行の場に フロイス絶賛「地上…
今回は、東海古城研究会の月例見学会で年次総会を兼ねて、大高城と桶狭間の戦いでの織田勢の陣城城塞群を訪ねました。見学コースはJR大高駅に集合➡鷲津砦➡長寿寺➡丸根砦➡定期総会➡大高城➡向山砦➡氷上砦でした。鷲津砦の位置は城趾碑の建つ鷲津砦A、北側の尾根の先端部Bなどが候補地としてありますが、住宅開発や耕作地化などで、今見る地形からでは判断が分かれるようです。丸根砦の周りは住宅地ですが遺構もある程度残り城趾碑も立っています。向山砦は春江院に隣接した地形とされます。氷上砦は氷上姉子神社周辺と伝わりますが明確な遺構は残っていないようです。鷲津砦A城趾碑が建つ鷲津砦Aには城趾碑が建っていますが、耕作地化などで地形の改変が著しいため、往時の遺構の確認が難しいようです。明忠院から鷲津砦Bを見上げる西下から鷲津砦Bは明忠...大高城ほか尾張東海古城研究会の見学会で訪れました
永禄12年(1569)、徳川家康は、遠江国の国府・国分寺が置かれた政治文化の中心都市であった見付(磐田市)に築城を開始しました。遠江国分寺跡しかし、東方の武田信玄に対し、背後に天竜川を控えており、川が増水したら、織田信長からの援軍が間に合わない、水の便が悪い、信玄のとの関係が悪化したなど、いくつかの理由により築城を断念し、引間(浜松)に城を移すことにしたと言われています。見付の築城には、信長からの強い反対が...
■「琵琶湖クルーズ」日本三大弁財天『竹生島』(滋賀県長浜市)
目次 1 北琵琶湖の雄「浅井長政」が大切にしてきた島 2 島までは35分の琵琶湖クルーズ 3 島全体が神仏の宿る「聖域」 4 大坂城の遺構が竹生島宝厳寺に移築された 5 「かわらけ投げ」に願をかける 1 北琵琶湖の雄「浅井長政」が大切にしてきた島 (写真
【チャットGPT】で信長・秀吉・家康の生涯を聞いてみたら驚きの答えが!!
今や政治のニュースでも話題に出てくるのがChatGPTですが、公明党の山口那津男氏が自分の事を聞いたら、そのような人物は
#220 第14回「金ヶ崎でどうする!」感想~大河ドラマ『どうする家康』
2023年4月16日の大河ドラマ『どうする家康』の第14話『金ヶ崎でどうする!』今回は架空のキャラのエピソードを絡めるのが好きなんだな〜ようやく録画の大河『ど…
さらに田んぼに囲まれた道を走り、陣田へ。陣田は、姉川の合戦の際、浅井長政の本陣があった場所と伝えられています。 浅井長政と陣田当地は姉川合戦の際、浅井軍8000人(陸軍参謀本部編纂『日本戦史』による兵数)を率いる長政本陣があった場所と伝えられます。合戦当日の元亀元年(1570)6月28日の前日まで、浅井長政は北方に見える大依山に布陣して、姉川対岸の織田・徳川29,000人(同前書による)に及ぶ軍勢の動向をうかがっ...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜今回は挟み撃ちの話だったねってことで第14話の感想ぉ〜!今回は信長の金ヶ崎での挟み撃ちの話でしたね。しかし…
女の子に悪戯するゴブリンでも豚怪物もヤバイよね今回は美少女パチスロですな突撃豚姫!!ブタエナる♪戦国乙女で朝一リセット恩恵ゴブリンスレイヤー導入ねパチスロ遊んで原作アニメ家族で観て凍った方まだいませんね女の子に悪戯する悪い鬼・・そういえば豚の怪物オークもに
#157 『信長公記』を読むその19 巻10後半 :天正五(1577)年 お茶に鷹狩に
『信長公記』巻10 天正五(1577)年も前後半に分けて、後半は信長の趣味のお茶に鷹狩り、そして対京政策とその昇進について 各地討伐の合間を縫って趣味のお茶に…
#156 『信長公記』を読むその18 巻10前半 :天正五(1577)年 各地討伐
『信長公記』巻10 天正五(1577)年も前後半に分けて、前半は織田軍団の各地討伐です。雑賀討伐・梟雄、松永久秀の最期・羽柴秀吉の播磨攻めなど 梟雄、松永久秀…
続いて、三田村氏館跡へ。高い土塁が確認できます。京極・浅井氏の家臣の三田村左衛門の館跡である三田村氏館跡は、現在の伝正寺周辺が館跡で、寺の周囲三方に土塁が残っており、下坂氏館跡(長浜市下坂中町)とともに国史跡の北近江城館跡群に指定されています。国指定史跡 三田村氏館跡(三田町)京極・浅井氏の家臣で、姉川北岸で大きな勢力をほこった三田村氏の屋敷跡です。ほぼ60メートル四方の土塁に囲まれた平地城館で、土塁の高...
続いて、姉川の合戦の戦死者を葬った七十士の墓へ。姉川合戦での戦死者を葬った場所に建てられたと伝える石塔群です。もとは、この西北の「西三昧(にしざんまい)」と呼ばれる場所にあった地蔵堂付近の墓石を、昭和55年に完成した三田町の圃場整備に際して当地にまとめたものです。「西三昧」は三田村氏館跡に移転した伝正寺の旧地とされ、その移転の時期は、正徳5年(1715)頃と考えられています。石塔は五輪塔と宝篋印塔からな...
#181『信長公記』を読むその25 巻13 前編 :天正八(1580)年前編
『信長公記』巻13 天正八(1580)年も前中後編の三つに分けます。前編は、播磨で反旗を翻し中国攻めの秀吉を苦しめた三木城の別所氏の滅亡と大坂本願寺の退城同意…
兵士の血で真っ赤に染まった血川も姉川沿いに流れていましたが、平成以降の造成改修工事で無くなりました。最も激戦地であったという姉川にかかる旧「野村橋」が老朽化し、車両の通行が禁止されています。(歩行者や自転車、バイクは通行可)年月が過ぎるにつれ、合戦場の様子も徐々に様変わりしていますが、合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせています。この場所は、元亀元年(1570)6月28日に起き...
読売カルチャーセンター錦糸町で「徳川家康はなぜ最後に天下人になれたのか」という題で公開講座を開き、「戦国の三英傑」について話した。織田信長(1534~82)、豊臣秀吉(1537~98)、徳川家康(1542~1616)の性格の違いを話した際に、有名な「ホトトギスの歌」を取り上げたのだが、時間の関係で十分話せなかった。補足をかねて再録することにしたい。 有名なのは『甲子夜話』だが 作者は聡明な名君、松浦静山か 『甲子夜話』より古い『耳嚢』 ほかにもある出典候補 有名なのは『甲子夜話』だが 「ホトトギスの歌」は三英傑の性格の違いを端的に示した狂歌として有名だ。実際に3人が詠んだ歌ではなく、江戸時代後…
さらに自転車を走らせると、「姉川の合戦場」の碑が見えてきました。姉川の野村橋付近一帯は、壮絶な戦い浅井・織田軍の激戦が繰り広げられた所です。 姉川古戦場 元亀元年(1570)6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が、長浜市を流れる姉川の両岸に布陣し合戦を展開しました。 旧陸軍参謀本部編纂(へんさん)の「日本戦史」によれば、浅井軍八千人・朝倉軍一万人で、対する織田軍二万三千...
どうする家康 第14話「金ヶ崎でどうする!」 ~金ヶ崎の退き口~
永禄13年4月20日(1570年5月24日)、織田信長は北国に攻め入るため京都を出陣しました。『言継卿記』によると、その軍勢は3万にも及んだといいます。そ...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜ようやく見るのが追い付いたねってことで第13話の感想ぉ〜!今回は新たな人物がいっぱい登場しましたね。なんや…
次に向かったのは、龍ヶ鼻砦から移した織田信長の本陣跡の陣杭の柳(じんごのやなぎ)です。 織田信長と陣杭の柳(東上坂町) 姉川合戦における織田信長の本陣跡と言われる場所です。合戦当日の朝、信長はこの東方の龍ヶ鼻砦にいましたが、姉川北岸への浅井・朝倉軍の展開を知って、この場所に本陣を構えたとされます。ここに立つ柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、「陣杭」本来「陣鼓」と書かれたとも言...
今日は三重県にある 田丸城【伊勢国】の紹介です。 場所は現在の三重県の玉城町にあって、今でも天守台など本丸の石垣が良好に残っております。 この城は南北朝時代の北畠氏が起源で、時代が戦国期に移
ネットを徘徊中にヒョイと目に留まったのが「ブラック企業」という言葉の説明でした。 その言葉自体を知らないわけではありませんが、正直あまり関心を持ったことは ありません。 そこで、「折角の機会」ということもあって、ちょいと立ち寄ることにしてみました。 すると、のっけからこんな...
龍ヶ鼻陣所からほど近い田んぼの真ん中に、遠藤直経の墓があります。ここは、姉川の合戦の際、浅井長政の重臣である遠藤直経が討ち死にした場所と伝えられています。自軍の敗色が濃くなると、直経は味方の武将三田村左衛門の首級を携え敵軍に偽装、織田信長の陣中に忍び込み、暗殺を謀りましたが、本陣の信長まで手前数十メートルのところで竹中半兵衛(重治)の弟・竹中久作(重矩)に見破られ、捕らえられて斬首されたといいます。永...
雑談FC2ブログにも少しずつ慣れてきました。でも、いまだに長いことやっていたティーカップブログの閉鎖が哀しすぎて、思い出すと耐えられない・・・。思えばタンブラーや500pxなど、写真系SNSはトラブルがほんと多いなぁ。タンブラーの場合はアダルト系コンテンツが主力だったのに、それを削除したことで事実上終了してしまった。アメリカではタンブラーを退会したユーザーはツイッターに流れたと言われているけども日本ではどう...
先月、滋賀県在住の友人の案内で、姉川の合戦の史跡を自転車でまわってきました。長浜駅前でレンタサイクルを借り、県道37号線を7.6kmをひたすら走り、東上坂町にある茶臼山古墳(龍ヶ鼻砦)を目指しました。姉川合戦前の横山城攻めの際、織田信長・徳川家康が陣としてこの古墳を利用し、龍ヶ鼻砦とも呼ばれます。合戦が始まると陣を取り払い、それぞれ別のところへ陣を構えました。この古墳のある丘には柵があって中には入れません...
越前の朝倉義景討伐の軍を率いた織田信長が、敦賀に入って朝倉氏一族が守る金ケ崎城を落とし、越前に攻め入ろうとした時、近江の浅井長政が離反して、織田軍の背後を襲い、一転、挟撃を受ける危機に見舞われました。そこで信長は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、朽木(くつき)を経由して京に退却(金ヶ崎の退き口)6月、信長は浅井氏を討つべく、近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙京都に帰還し...
永禄11年(1568年)9月、織田信長は、足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立しましたが、信長は自らの天下統一を目指し、義昭は上杉謙信や毛利元就らにも上洛を促して幕府の再興を目指すという、両者の目指す方向にはずれがあり、次第に両者の関係は冷めていきました。永禄12年(1569年)1月14日、信長は義昭の将軍権力を制限するため、殿中御掟9か条、のちに追加7ヶ条をを義昭に突きつけ、承認させました。一...
徳川家康(3)朝露の巻!狙うは義元の首ただ一つ…決戦!田楽桶狭間
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。今日の夢中は、徳川家康(3)朝露の巻!狙うは義元の首ただ一つ…決戦!田楽桶狭間です。「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたもお気に入りの一冊を見つけてみませんか?
岐阜城の絶景です。織田信長が見た絶景です。この景色を見ていたら天下統一を考えること頷けます。方向も京都方向です。この城に登って、信長に思いを馳せるのも一興です。宜しければポチお願いします。にほんブログ村過去の投稿記事です。岐阜城(日本100名城)-リタイアじーじの徒然絵日記岐阜城は本当に急峻な山の山頂にそびえています。難攻不落の城に見えます。竹中半兵衛が造反して城を占拠した話は有名です。その後、信長が城主になり天下布武をとなえ天下...gooblog掛川城(100名城)と桜-リタイアじーじの徒然絵日記日本100名城の掛川城に行って来ました。1週間ぐらい前ですが、桜が咲いてました。ソメイヨシノではありません。いつも新幹線から見えていたお城でした。小さな城と思ってい...gooblog掛川城(日本100名城)...岐阜城の絶景(日本100名城)
戦国の時代に、遥かヨーロッパから九州の南に位置する種子島に初めて鉄砲という道具が伝わったのが、いわゆる「鉄砲伝来」(1542?1543年?)だ。ときの若き領主・種子島時堯(1528-1579年)は、その鉄砲が備えた威力を間近に見て、さっそく実物二丁を買い求め、そして、すぐ
里見義頼は、里見義弘の弟、または、庶長子の二説があり、生まれが、不明確である。 前述の通り、里見義弘は、正室の足利義明の娘との間に子供が、生まれなかったため…
うん。姫路城はどういう真っ白かと言う歴史があるか言うのを買いましたっていうか姫路城に行ったんですけど、姫路っていうのはその地理的にアイリス西日本ますおそらく昔の人からしたら九州とか四国っていうのはまぁ割と未知の世界になっていて中国地方もそうかもしれないんですけど、そこに対しての端っこの拠点って言うような感じの位置づけなのかなって思いました。昔の人というか。京都が日本の中心なので京都とか大阪名古屋の辺の辺の人達から見るとやっぱりその辺が姫路が西の間自分たちのわかる範囲での端なのかなぁって言う感じです。姫路と言えば黒田官兵衛が生まれたところであります。黒田官兵衛は姫路の城主の子供だったかなとして黒…
山岡荘八さんの「織田信長全5巻」の!織田信長に惚れていた中学生は(笑)、もちろん!大河ドラマ「徳川家康」にもはまったわけだが。 私の脳内では、タイムスリップして信長と恋をする。みたいなのが、普通に展開しておりましてよ(笑)ああ、も
どうする家康 第13話「家康、都へゆく」 ~家康はじめての上洛~
永禄12年(1569年)5月、今川氏真が籠る懸川城を開城させた徳川家康は、氏真夫婦を相模の北条方に引き渡しました。しかし、これは、甲斐の武田信玄と敵対す...
#190 まとめ 織田信長と今川義元の激突を描いた歴史マンガ『桶狭間戦記』
ここのところの大河ドラマであっけなく退場してしまう今川義元、その義元について改めて見直してみたい気持ちで読みました。 織田信秀・信長と今川義元のそれぞれの…
岐阜城は本当に急峻な山の山頂にそびえています。難攻不落の城に見えます。竹中半兵衛が造反して城を占拠した話は有名です。その後、信長が城主になり天下布武をとなえ天下を目指しました。本当に景色の良いところで、ここから天下取りを目指したことわかります。宜しければポチお願いします。にほんブログ村過去の投稿記事です。掛川城(日本100名城)今川氏真の奮戦-リタイアじーじの徒然絵日記昨日の家康どうするで掛川城🏯が舞台になりました。行ったばっかりだったので嬉しくなりました。今川氏真と奥方良かったです。悲劇の今川家と思っていましたが、違っていま...gooblog名古屋城(日本100名城)-リタイアじーじの徒然絵日記尾張名古屋は城で持つ。伊勢音頭からだそうです。伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ尾張名古屋は城で持つ音頭の通り、想...岐阜城(日本100名城)