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【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 35.徳川家康・二十参
1582年(天正十年)2月3日、森長可及び、団忠正の織田軍先鋒隊が、岐阜城を出陣。 若い両将の目付けとして、河尻秀隆が本隊から派遣された。 2月6日、先鋒隊…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 34.徳川家康・二十弐
1574年(天正二年)の第一次高天神城の戦いは、徳川家康が、救援を送れなかったため、徳川家康の威信を低下させ、離反者が続出した。 そして、八年後の1581年…
建勲神社は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社で、織田信長を主祭神とし、息子の織田信忠を配祀しています。正式名称は「たけいさおじんじゃ」通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれています。天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建し、1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀しました。船岡山は平安京造営の際、玄武の山として北の基点、応仁の乱の際は西方の陣地となりました。10月19日の大祭...
京都市バス、京都市営地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩2分、現在「京都国際マンガミュージアム」(旧龍池小学校)となっている建物の裏側に、「此附近 二條殿址」の石碑が立っています。二条殿は、もとは南北朝時代の公卿・歌人・連歌師であった二条良基の邸宅で、押小路殿とも呼ばれました。邸内には龍躍池があり、洛中洛外図屏風にも描かれており、その景観の美しさから皇族や織田信長が好んだそうです。信長は天正5(1577)年に移り住...
どうする家康 第28回「本能寺の変」 ~家康の堺遊覧と信長の横死~
時は天正10年(1582年)6月2日・・・・といえば、言わずと知れた「本能寺の変」ですね。天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、最も信頼していた家...
元々は清洲城下の現在地(旧北市場村)に總見寺がありました。現在の清洲の總見院は、慶長15年(1610)の清洲越しにより名古屋に移った總見寺址に再興した寺です。当寺には、織田信長の焼兜が寺宝として伝わっています。總見院の由緒によると、「織田信雄が父・信長を弔うために伊勢国桑名郡の安国寺を引き取り、忠嶽和尚を開山に迎え天正十一年(1583)に現在の地に「景陽山総見寺」を建立。しかし、慶長十五年(1610)「清須越し」によっ...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜本能寺に迫る回だねってことで第27話の感想ぉ〜!ついに家康、家臣たちに心の内を話します。「信長を殺す、天下…
大河ドラマ「どうする家康」で今夜はいよいよ「本能寺の変」が描かれます。織田信長の居城だった安土城は本能寺の変の直後に何者かに燃やされ、現在は石垣や礎石などの遺構が残るだけです。安土城跡の近くにある「信長の館」(改修工事で休館中)には天主の5・6階部分が復元されています。これが燃やされずに現存していたら国宝クラスだったでしょう。豊臣秀吉、徳川家康が病気で亡くなったのに対して、織田信長は部下の明智光秀に...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 33.徳川家康・二十壱
1580年(天正八年)8月までには、徳川家康は、「高天神六砦」と呼ばれる、小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦を完成させ、高天神城への…
室町時代に創建された本能寺は当初、京都の高辻通りにありましたが、移転を重ねた末に、天文11年(1542)四条西洞院に第4次の伽藍が建立されました。しかし本能寺の変で焼失し、天正17年(1589)現在の場所に移されました。 本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっているのは、本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。本堂信長公廟本能寺の変...
【どうする家康】#27 サイコパスじゃない岡田信長、蓄積疲労で限界だった模様
瀬名ロスです NHK大河ドラマ「どうする家康」第27回「安土城の決闘」が7/16に放送された。タイトルは「決闘」だけれど、物理的に乱闘があった訳でもなく(7/22「土スタ」出演の岡田准一によると、脚本上は相撲を取る設定だったらしい)・・・狸の化けの皮が剥がれた子どもっぽい家康が、疲れ切った信長に「告白」された話だった。そこからの「国譲り」みたいな。 テンション低めですみませんね・・・瀬名ロスですよ、どっぷりと。 オープニングでは、主役の家康直後のヒロイン席「瀬名 有村架純」がぽっかり空いていて、これまで瀬名推しで見ていたこちらとしては大層悲しかった😢於愛の広瀬アリスの表記はもう少し後ろの方で、…
普段大河ドラマ見ないのに「どうする家康」は見ていて、気になったので行ってきました交通アクセス大曽根駅から、徒歩15分程度です遮るものがなく、非常に暑いので個人的にはバスをお勧めします!30分に一本程度と本数は少なめですが、徳川町バス停や森下
天正10年(1582年)5月29日、織田信長は備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援するため、小姓を中心とする僅かのお供を連れて安土城を発ち、京都の本能寺に入ります。その頃、信長の嫡男・織田信忠は5月21日にすでに京都の妙覚寺に入っていました。妙覚寺の山門本堂京都に城を持たない信長は、かつては妙覚寺を寄宿先としていましたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用す...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 32.徳川家康・二十
高天神城の守将の小笠原信興は、徳川家康を見限り、武田勝頼氏に降ると、駿河国東部に一万貫の高待遇で、移封されている。 松下之綱は、解放されたが、その後、織田信…
「織田信長の凄味」偶然YouTubeに表示された。恥ずかしながら初めて知ったエピソード。織田信長の凄味が分かる。うーん、織田信長のイメージがかなり変わるかと。…
南宗寺の塔頭・天慶院の門前に、山上宗二の一会塚があります。山上 宗二は、千利休の高弟であり、茶匠としては豊臣秀吉に仕えていましたが、天正12年(1584年)に暴言を吐き、秀吉の怒りを買い、浪人に。この時に前田利家に仕えるようになりますが天正14年(1586年)にも再び秀吉を怒らせて高野山へ逃れました。その後は小田原に下って北条氏に仕えました。天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めの際には、利休の計らいで秀吉との...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 31.徳川家康・十九
武田勝頼は、上杉景勝と同盟したため、北条氏政と対立することになった。 武田勝頼は、織田信長との和睦を模索し、人質の信長の五男、勝長を返還したが、信長は、黙殺…
どうする家康 第28回「安土城の決闘」 ~家康の安土入りと光秀の饗応役~
甲州征伐の論功行賞で、織田信長は徳川家康に駿河一国が与えられました。そして、その帰路、信長は富士山見物をし、家康の居城である浜松城に立ち寄った話が前話で描...
堺は、戦国時代には環濠都市となり、自治的な都市運営が行われ、堺の有徳者(有力商人)で構成される会合衆が町を治めました。 1550年、宣教師フランシスコ=ザビエルが堺を訪れ、布教の許可を得るため、堺を拠点としました。戎公園は、ザビエルが天文19年(1550年)、堺に立ち寄った際に、手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡付近に開設されました。「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅」碑 (画像:Wikipediaより)当...
安土城南西麓の百々橋口から下街道を越え、南に数分行くと、セミナリオ史跡公園があります。この地の小字名「大臼」(だいうす)は、ラテン語で神を意味するデウス(Devs)の転訛と考えられ、セミナリオ跡は、織田信長の庇護を受けたイタリア人宣教師オルガンチノによって天正9年(1581年)に創建された目本最初のキリシタン神学校の跡とされています。現在は 安土城の外濠沿いに公園として整備されています。ここは、安土城天主から...
二の丸へと進んでいきます。二の丸址二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長本廟があります。ここからは、立ち入り禁止。ズームで撮ります。織田信雄四代供養塔次は本丸に進みます。本丸跡本丸は、礎石などから、京都御所の清涼殿と似た構造であったことが判明しており、天皇の行幸を想定した建物と考えられています。 本丸跡 天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西...
【どうする家康】#26 狸と狼の化かし合い、絶品海老すくいで切り抜ける
アイドル松潤家康、面目躍如の舞 NHK大河ドラマ「どうする家康」第26回「ぶらり富士遊覧」が先週7/9に放送され、アイドル松本潤はやっぱり伊達じゃなかったと感嘆するしかないキラキラの「海老すくい」を見せて頂いた。今回はこれが白眉。 上半身を真っ直ぐに、舞台上にスススと滑るように進み出るブレない姿は、古いけど「徳川慶喜」本木雅弘が禁中で走る姿を思い出した。それでいて腰を曲げて跳ねる時の軽やかさ。よろけそうもないバランスの良さ。上品だな~これは絶品って言うべきでしょう。 松潤の「嵐」としてのダンスはいつが最後だったのだろう。彼が踊るのはそれ以来じゃないのか。お宝ダンスだったかな。 それに、後編突入…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜いよいよあの事件が起きる…その前の第26話の感想ぉ〜!瀬名と信康、大切な2人を失った家康。武田との高天神城…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 30.徳川家康・十八
以上が、『どうする家康』の展開であるが、明らかに、史実を逸脱しており、諸説として、完全に認められない。 通説では、築山殿は、徳川家康と不仲であり、悪女とされ…
天正10年(1582年)5月21日、徳川家康は、駿河拝領の礼のため、織田信長の招きに応じて降伏した穴山梅雪とともに居城・安土城を訪れ、大接待を受けました。安土駅から自転車で10分ほどで安土城に到着。登城ルートは、大手口から天守台を目指し、大手口に戻るルートです。大手口には、かつて大手門と東西2つの虎口が構えられていました。大手口駐車場近くに無料休憩所があり、その中に安土城の模型が飾られています。レンタサイクル...
数年前安土を訪ねました。安土のシンボルといえば、駅前の織田信長の銅像です!銅像の横には、「織田桜」があります。地下道を通って、駅の裏側に行くと、安土駅の南広場に「相撲やぐら」があります。元亀元(1750)年に織田信長が常楽寺で催した相撲興業が近代相撲の発祥と言われており、それを記念して昭和63年に建てられました。信長の相撲好きは有名で、安土城下で1500人もの力士を集めた大相撲大会を開催し、勝者へ優遇したこと...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 29.徳川家康・十七
織田信長が、長篠の戦いにおいて、武田勝頼に勝利を治めた頃から、信長と徳川家康は、対等な同盟関係ではなくなってゆく。 徳川家康は、「一門に準ずる、織田政権下の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 28.徳川家康・十六
鳶ヶ巣山攻防戦によって、武田軍は、武田勝頼の叔父の河窪信実を筆頭に、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友等の家臣が討死している。 武田の敗残兵達…
近鉄長島駅より徒歩約10分、長島城跡に向かいました。長島城は、寛元3年、藤原道家が館を築いた後、長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て、現在は長島中部小学校・中学校となっています。また、校内の「長島の大松」は、クロマツの大樹で、樹齢300年以上と推定され、天然記念物、市の指定文化財になっています。長島城があった当時は本丸の西南にありました。現在は長島中部小学校のシンボルとなっています。長島城の起源は、寛...
長島一向一揆は、1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(三重県桑名市長島町)を中心とした地域で、本願寺門徒らが蜂起した一向一揆で、織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こりました。歌川芳員『太平記長嶋合戦』濃尾三川(のうびさんせん)と呼ばれた木曾川・長良川・揖斐(いび)川の下流域は輪中地帯として知られ、15世紀中頃から一向宗の勢力が増し、長島の願証寺がその拠点となっていまし...
どうする家康 第26話「ぶらり富士遊覧」 ~武田滅亡と信長の駿河訪問~
息子の松平信康と正室の築山殿を失った徳川家康でしたが、落ち込んでいる間もなく、武田に奪われていた高天神城攻めを本格化します。天正3年(1575年)以降、高...
武田攻めを終えた織田信長は安土城へ向かう途中、富士山などの名所を見物しながら、駿河に寄りました。徳川家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し、本栖湖の近くに宿所を建て、信長を迎えました。(これは、数年前、私が本栖湖の芝桜を見に出かけた時の画像です。 もちろん信長の見た景色とは大きく異なります(^^ゞ)富士山本宮浅間大社の境内に仮の宿泊所を建て、わずか一泊のために、家康は金銀をちりばめた豪...
家康を辿る城旅「清州城」!信長と家康の清州会見は行われていない?信長の運命を拓いた城へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「清州城」!信長と家康の清州
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜今回は辛すぎて悲しくて泣いたよーってことで第25話の感想ぉ〜!瀬名が目指した慈愛の国…武田勝頼が裏切り、瀬…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 27.徳川家康・十五
鳥居強右衛門は、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、武田勝頼の命令とは、逆のことを大声で叫んだ。 武田勝頼は激怒すると、部下に…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 26.徳川家康・十四
武田氏の西上作戦の頓挫によって、織田信長は、反織田勢力を撃滅して、徳川家康は、勢力を回復して、攻勢に出た。 それに対し、武田信玄の後継者、武田勝頼は、攻勢に…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 24.徳川家康・十弐
前述の通り、徳川家康は、夏目吉信等の家臣が、身代わりになったため、命を救われ、浜松城に逃げ帰った。 徳川家康は、浜松城に入ると、全ての城門を開いて、篝火を焚…
前回に続いて徳川家康の前半生の最大の悲劇といえる築山事件(松平信康自刃事件)が描かれました。通説と言われる事件の流れは、第24話の稿で解説したので、ここ...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 24.徳川家康・十弐
前述の通り、徳川家康は、夏目吉信等の家臣が、身代わりになったため、命を救われ、浜松城に逃げ帰った。 徳川家康は、浜松城に入ると、全ての城門を開いて、篝火を焚…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜築山信康事件って、未だ謎なんだよねってことで第24話の感想ぉ〜!!いよいよ瀬名が動き出しました。瀬名のいる…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 23.徳川家康・十壱
徳川家康は、中根正照の二股城の降伏、開城を知らず、二股城に援軍に向かっていた。 そのため、徳川家康は、武田軍と戦闘になると、敗北して、浜松城へ逃走した。 二…
どうする家康 第24話「築山へ集え!」 ~築山事件(松平信康自刃事件)前編~
いよいよ物語は、徳川家康の前半生の最大の悲劇といえる築山事件に入ります。松平信康自刃事件とも言いますね。諸説あって謎が多いこの事件ですが、通説とされてい...
去年頃に、ネット検索をして気づいたことがあった。それは、私の年齢の結婚(初婚)率について。50~55歳だとしたら。男性は0.66% 女性は0.29%ぎょっとした。1%すらないのか?と。こんなに、宝くじを当てるような確率なの?と何回か見返してしまった。違うサイトも探してみたけど、同じパーセンテージだった。気を取り直して、初婚率を調べてみた。50歳時の未婚率。男性28.25% 女性17.81%こんなに...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 19.徳川家康・九
先行していた、本多忠勝及び内藤信成の率いる、偵察隊は、武田軍の先発隊と遭遇する。 偵察隊は、即座に退却したが、武田軍は、素早い動きで、徳川軍を追撃し始め、太…
#3918 きつねなく声もうれしくきこゆなり松風清き茶臼山がね
令和5年6月29日(木) 【旧 五月一二日 仏滅】・夏至・菖蒲華(あやめはなさく)ゆくりなく来て長篠の武者幟 ~能村登四郎(1911-2001) 「ゆくりなく」は、思いがけず・偶然にという意味です。 「長篠の戦い」は天正3年5月21日、西暦にして1575年6月29日に行われました。当
前回、岐阜城でご飯食べた続きです(↓前回ブログ) 『【岐阜城 Part1】』犬山城に行った続きですm( _ _ )m(↓前回ブログ)犬山城を後に名鉄新鵜沼→J…
京都の建勲神社です。正式には「たけいさお」と読みますが、「けんくん」と読む人も多いです。私もそうです。この神社が祀っているのは戦国武将の織田信長です。信長が好んで舞った「敦盛」の一節が刻まれた碑がありました。明治2年に明治天皇の命により、織田信長の功績を称えこの神社が創建されました。ですから神社の歴史は比較的新しいですが、本殿、拝殿は国の登録有形文化財に指定されています。神社は前回紹介した船岡山の...