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山名氏の祖、義範が、御門葉に連なるほどの身分であったが、山名義範以降の山名氏の鎌倉時代の事績は、全く、不明である。 義範の家督を継承した、山名重国が、義範の…
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)春…四国は土佐国の岡豊城(おこ…
天文密奏とは、天文・気象に異常が見られた際に天文博士が状況と吉凶を占った結果を天皇に奏上することである。 一条天皇時代 大雨 長徳四年(998)9月1日、大雨によって鴨川が決壊し、京中が海のように水浸
【読書】この世をば(上)永井路子さん繋がりで読み始めた『この世をば』。この世をば、我が世とぞ思ふ望月の…学生の頃に暗記したな。。kindle Unlimi…
【読書】この世をば(下)永井路子さん繋がりで読み始めた『この世をば』。今日は下巻です。kindle Unlimitedで無料で読めます。この世をば(上)A…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜武田の駿河侵攻は凄まじいけど、家康さんは…ってことで第12話の感想ぉ〜武田信玄は容易く今川の駿河を落としま…
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝…
里見義頼の死後、安房里見氏の家督を継承したのは、里見義頼の長男、里見義康である。 1588年(天正十六年)、里見義康は、父の義頼に引き続き、増田長盛の取次の…
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)1月、毛利輝元(もうりてるもと…
里見義頼は、里見義弘の弟、または、庶長子の二説があり、生まれが、不明確である。 前述の通り、里見義弘は、正室の足利義明の娘との間に子供が、生まれなかったため…
うん。姫路城はどういう真っ白かと言う歴史があるか言うのを買いましたっていうか姫路城に行ったんですけど、姫路っていうのはその地理的にアイリス西日本ますおそらく昔の人からしたら九州とか四国っていうのはまぁ割と未知の世界になっていて中国地方もそうかもしれないんですけど、そこに対しての端っこの拠点って言うような感じの位置づけなのかなって思いました。昔の人というか。京都が日本の中心なので京都とか大阪名古屋の辺の辺の人達から見るとやっぱりその辺が姫路が西の間自分たちのわかる範囲での端なのかなぁって言う感じです。姫路と言えば黒田官兵衛が生まれたところであります。黒田官兵衛は姫路の城主の子供だったかなとして黒…
関東軍記(太田牛一) 太田牛一(ウイキペディア) 太田牛一の著書では、信長公記があまりにも有名ですね(^^) しかし、長命で(1527~1613年)もあったため、織田信長の死後は、豊臣秀吉や秀頼にも仕えています。 そのため、「 大かうさまくんきのうち (1975年) (斯道...
【体験談ブログ】京都御所の見学ツアーに予約申込み、実際に参加してみた感想
意外と穴場?京都らしさを満喫できる京都御所混雑した場所をさけてゆっくり観光したいコロナも落ち着き、京都にも観光客が戻ってきました。となると、避けて通れないのが混雑。ゆっくり京都らしい場所を散策したい向きには、人気有名スポットはちょっと避けた
本日、ブログ開設いたしました(^^)/ 歴史(日本史)の中でも戦国時代を中心にUPしていきたいと思います。 どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m にほんブログ村
日付の記載がない項目は同日条。 円融天皇時代 天元五年(982) 天元五年(982)2月4日、円融天皇は前年の晦日に足を痛めたが、痛みが治まらないため陰陽師を召して占わせることにした。また、医者も呼ぶ
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正12年(1584年)1月、大阪城…現在の大阪城「ま…
北条氏康は、更に、別働隊として、三男の北条氏照及び、原胤貞を里見義堯が詰める、久留里城の攻撃へと向かわせた。 里見義堯は、守りを堅固にし、義弘は、正木憲時と…
日付の記載がない項目は同日条。 いろいろな穢れ 人の死穢 寛和四年(987)2月2日乙未、或る人曰く、藤原道兼の邸宅にて頓死した女がいたが、知らせなかったという。(『小右記』同年2月3日条)この事が起
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜いよいよ今川が攻められる時…ってことで第11話の感想ぉ!今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで討死してから急落…
【清和源氏】編『新田一族』章「里見氏」節 05.続・里見義堯
翌年の1538年(天文七年)、里見義堯は、第一次国府台合戦では、足利義明を大将とし、北条氏綱と戦った。 しかし、足利義明は、里見義堯の戦略を聞かなかったため…
里見義豊が、安房里見氏の当主になったのは、未だ、五歳であったため、里見義通の弟、叔父の実堯が、義豊が、十五歳になるまで、後見人として、家督を預かることになっ…
(57) 平等院「雲中供養菩薩 北10号」京都(平安時代)京都 宇治 平等院 宝翔館 「宝翔館」博物館内の26躯どれも繊細で生き生きとした仕草と穏やかな顔立ちの像ばかり。この北10号供養菩薩の舞う後ろ姿は かわいらしくて、ちょっぴり艶っぽいです平安時代中期 1052年、関白藤原頼道によって父道長の別荘を寺院に改め創建された「平等院」。翌年、鳳凰堂ができ須弥壇に阿弥陀如来像を安置(仏師定朝作)。その鳳凰堂の白...
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正11年(1583年)11月、経言(つねのぶ、後の広…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜今回はゆる〜い話だったねってことで相変わらず1週遅れてるけど第10話の感想ぉ〜三河一向一揆を鎮めた後、三河…
里見義実の安房国への入国の経緯については、諸説が存在し、その真偽は、不明である。 里見家兼は、鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、永享…
【清和源氏】編『新田一族』章「里見氏」節 02.里見氏の系譜
新田義重は、治承・寿永の乱の勃発前、平賀盛義の息子の義澄、その義澄の息子の義重、源義光の孫の義隆等を猶子に迎えると、広域的に勢力範囲を広げていた。 平賀盛義…
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「待たせたの〜!わしが秀吉(ひでよし)じゃ!」大阪城(…
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝…
本日紹介する本はこちら川上肇著『読み書きは人の生き方をどう変えた?』は、歴史総合パートナーズというシリーズのひとつで、高校の授業に向けた内容となっています。つまり、すごく読みやすく、平易です。しかし生徒向けとは侮れない。30代オーバーの方はおそらく学校教育
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。経言(つねのぶ、後の広家)は兄、元長(もとなが)から、…
大河ドラマ「どうする家康」で気になる人物が出ていました。ん?誰だい?それは、千代三河一向一揆で寺にいた巫女だねこの千代と言う女、実は、なんと、タコ入道…じゃな…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜三河一向一揆の続きだねってことで第9話の感想ぉ〜!なんと一向一揆を主導している軍師が、平清盛…じゃなく本多…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 08.新田本宗家の滅亡
新田義貞の入城後、金ケ崎城は、足利軍の攻撃を受けた。 新田義貞は、一度は、足利軍を迎撃したが、1337年(延元2年)1月18日、足利軍は、再度、金ヶ崎を兵糧…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 07.新田義貞・五
新田義貞の軍勢は、足利尊氏の軍勢に敗北し、楠木正成と共に尊氏を挟撃しようとする。 1336年(/建武三年)5月24日、新田義貞は、楠木正成と合流して、酒を酌…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 06.新田義貞・四
足利尊氏は、後醍醐天皇の勅状を得ないまま、討伐に向かい、中先代の乱の鎮圧後は、鎌倉に本拠を置いた。 足利尊氏は、新田一族とその与党の所領を、北条時行の撃退に…
日本に初めてペンギンを紹介したのは新井白石だった~ペンギンの歴史~
日本で人気の鳥、ペンギンは津々浦々の水族館や動物園で見ることができます。 世界に棲むペンギン18種のうち、なんと日本では11種類が飼育されているんです。 ペンギンはもともとは日本には生息していない鳥です。 日本人は一体い ...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜相変わらず1週遅れで見てるけどね…ってことで第8話の感想ぉ〜!一向宗の寺から無理矢理、年貢を取ったことが原…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・参
新田義貞は、鎌倉を陥落させると戦後処理に奔走した。 各々の武将が、義貞へ軍忠状、着到状を提出し、義貞は、それに対して、証判を書いた。 しかし、7月に入ると、…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・弐
新田義貞は、碓氷川を渡って、八幡荘に到着すると、越後の後陣、甲斐源氏・信濃源氏の一派等の各地から参集した、五千騎と合流して、新田義貞軍は、九千に膨れ上がった…
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「毛利(もうり)はわしに従え!」天正11年(1583年…
皆さん、こんにちは!最近、歴史について読むことが好きで、面白い事実を見つけました。それは日本のお茶の歴史についてです。1902年以前の日本のお茶の文化について写真が残っています。写真は「Japan and Japanese」という本の中にあります。この本は1910年頃の日本...
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・壱
新田政義の死後、息子の新田政氏が、新田本宗家の五代当主となったが、前述の通り、新田氏の「惣領」の座は、世良田義季と岩松時兼に分割相続されていた。 政氏の死後…
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。「わしは隠居いたす!」元春は妻、優(ゆう)、元長(もと…
(56) 平等院 「雲中供養菩薩北25号」京都(平安時代)京都 宇治 平等院 宝翔館平安時代中期 1052年、関白藤原頼道によって父道長の別荘を寺院に改め創建された「平等院」。翌年、鳳凰堂ができ須弥壇に阿弥陀如来像を安置(仏師定朝作)。その鳳凰堂の白壁に、五十二体の雲に乗った仏像が懸架されていました。 その姿は多種多様、琴、琵琶、鼓、鉦鼓、横笛、鞨鼓、大太鼓、笙などの楽器を奏するもの、蓮台、宝珠、番、天...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜相変わらず見るの遅れてます…ってことで第7話の感想ぉ〜!!ようやく正室・瀬名を今川から取り戻した元康。瀬名…
新田義重は、源頼朝より、三年、長生きし、1202年(建仁二年)、八十九歳で、死去した。 新田本宗家は、新田義重の三男、新田義兼が、継承する。 従兄弟の足利義…
新田氏は、清和源氏の源義家の三男、源義国を真の祖とする。 源義国は、嫡男の義重に、上野国の新田荘を開拓させると、長男の義重に新田荘、次男の義康に足利荘を相伝…