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瀬名は「静かなジャンヌダルク」 NHK大河ドラマ「どうする家康」第23回「瀬名、覚醒」という何とも来ないでほしい未来を感じさせる副題の回が6/18に放送された。はい、1週間前ですね。 いつも1週間遅れで私の個人的なダラダラとした雑感をお送りしているが、ネタバレという観点からすると1週間遅れぐらいがちょうどいいのかも、ということにしておく。大体、土曜日の再放送を見てからノンビリ書こうかなと思い立つ訳だから・・・平日は他に限られた脳みそを使うから仕方ない。 さて、公式サイトからあらすじを引用させていただく。 瀬名(有村架純)が武田の使者・千代(古川琴音)と密会していると知った五徳(久保史緒里)は信…
岡崎の築山に居を構えていたことから、築山殿と呼ばれたという瀬名。その築山というのは、どの辺りにあったのか岡崎を再度訪ねてみました。築山があったのは、総持尼寺(そうじにじ)というお寺で、そこに築山があり、「築山殿」と呼ばれるようになったという説があります。岡崎天満宮の由緒に、総持尼寺の創建について書かれています。「今から約800年前のことです。人皇第84代順徳天皇の時代、建保2年(西暦1214年)秋...
東京タワー🗼かスカイツリーどっちが好き?パリのエッフェル塔みたいな東京タワー🗼が好み最近東京に行ったので結構気になっていた場所へ⁉️安倍総理大臣の葬儀も行われ…
浜松城から歩くこと10分。五社神社・諏訪神社があります。五社神社は、徳川家康によって、2代将軍・徳川秀忠誕生の際に産土神(うぶすながみ)として、浜松城内から現在地に遷されました。家康は、その後も子供たちのお宮参りや、自身の厄除けの祈祷を五社神社で行ったといわれています。また諏訪神社は、3代将軍・徳川家光によって、現在地に遷され、昭和35年(1960)、隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社を合祀し、五社神社...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 19.徳川家康・八
1567年(永禄十年)5月、徳川家康は、清洲同盟の盟約に従い、自身の長男の竹千代と織田信長の娘の徳姫を結婚させた。 竹千代と徳姫は、共に九歳の形式の夫婦であ…
< 外人さんに聞かれて何もまともに答えられなかった件 > 梅雨の中休みに、友人と連れ立って上野駅からぶらぶらと、台東区、かっぱ橋道具街に行って来ました。風がそこそこ吹いている日でしたけれど、蒸しっと暑い曇天の日。 その友人の母親が腱鞘炎になってしまって、野菜の皮むきがうまく出来ないので、なんとかいうスーパーな切れ味のピーラーを買うっていうんで、付き合いで一緒に行ったんですね。情報はしっかり把握していたみたいで、目的のピーラーはすぐに見つかりました。 刃の部分が斜めになっているピーラーでしたね。チカラを必要としないんだそうです。 ただの付き添いですからね、ピーラーについては、ふううんっていう感想…
徳川秀忠は、徳川家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。幼名は長丸。のち竹千代。母は側室の於愛(西郷局)。於愛は、浜松城に奉公に出て、家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。天正1...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 19.徳川家康・七
当時の松平家康の直臣団は、小領主が主体であり、三河の国衆及び、松平衆と異なり、単独にて、「備」、即ち、部隊等を編成可能な者は、少なかった。 そのため、旗本先…
作品紹介国を失い、父を亡くし、母と離れ、孤独な少年・竹千代は、今川家の人質として、ひっそりと生涯を終えると思っていた。しかし…三河(みかわ)武士の熱意に動かされ、弱小国の主(あるじ)として生きる運命を受け入れ、織田信長、武田信玄という化け物
どうする家康 #6「続・瀬名奪還作戦」服部半蔵と女大鼠の逆襲!瀬名を救え!!
作品紹介国を失い、父を亡くし、母と離れ、孤独な少年・竹千代は、今川家の人質として、ひっそりと生涯を終えると思っていた。しかし…三河(みかわ)武士の熱意に動かされ、弱小国の主(あるじ)として生きる運命を受け入れ、織田信長、武田信玄という化け物
高月院へと続く道沿いには、白壁が続いています。1367年、見誉寛立(俗名:足助重政)が松平郷主・在原信重の援護を受けて「寂静寺」として建立したと言われています。1377年、松平親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ、堂・塔のすべてを寄進してから「高月院」と改め、松平氏の菩提寺となっています。その後、徳川家康によって寺領100石が与えられ、明治維新まで時の将軍家から厚い保護を受けていました。 総門参道山門山門や本堂は、1641年...
松平東照宮前の歩道脇に、一本の「笠掛けかえで」の木があります。このかえでは、その昔、やがてこの地の当主となる「徳阿弥(とくあみ)」が高月院を訪ねてこの地を訪れ、このかえでの木に笠を掛けてひと休みしていました。そこへ当時の当主在原家の次女「水姫(すいひめ)」が、井戸の水を汲み、アヤメの花を一輪添えて徳阿弥に差し出したのが二人の出会いでした。やがて二人は結ばれ、徳阿弥陀はこの地の初代松平家当主「松平親...
長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍を相手に大勝利を収めた約半年後、尾張、三河にまたがって強い勢力を誇っていた水野信元が、突如、織田信長の命によ...
今年の4月、松平郷を訪ねました。愛知県豊田市松平町の松平郷は、松平氏・徳川氏の発祥地で、一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されています。松平発祥の地松平東照宮に現存する水濠や石垣は、松平太郎左衛門家九代尚栄によって関ケ原の合戦のあと築かれました。はじめは、八幡宮と称して松平家の屋敷神でしたが、元和5年(1619)家康を合祀し、昭和40年(1965)親氏公を合祀しました。 松平太郎左衛門家は、...
刈谷の本刈谷神社は大宝年間(西暦701~704年)に創建された八幡宮を起源としています。八幡社は字天神に鎮座、大宝年間(701~703)の創建で、天文2年(1533年)に水野忠政が刈谷城を築城した際、八幡社は城の北側の台地に奉遷され、明治初期の廃藩置県とともに元の地に奉遷されました。大正2年に八幡宮・八雲社・北野社の三社が合祀されました。水野 忠政(みずの ただまさ)水野家当主。通称は藤七郎、右衛門大夫、下野守。緒川城お...
家康を辿る城旅「東条城」!西三河攻略へ"藤波畷の戦い"勇将富永伴五郎と激闘の果て
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「東条城」!西三河攻略へ"藤
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜なんか今回は残酷だったね…ってことで第22話の感想ぉー!今回はなんといっても鉄砲3段撃ちでしたね。強気の武…
【どうする家康】#22 設楽原でPTSD発症の信康、そして瀬名が動く
6/13、北条義時の800年忌 見ているこちらも重苦しくなる内容のNHK大河ドラマ「どうする家康」第22回「設楽原の戦い」が、6/11に放送された。 そちらについて書く前に・・・今週6/13はナント、昨年夢中になって視聴した「鎌倉殿の13人」主人公、北条義時の800年忌だったと聞いた。義時ゆかりの覚園寺、北條寺(他でもやってたかも)では法要があったそうだ。 ツイッターを見たら、覚園寺でのお供えはキノコが多め。そして、参列者に配られたのは「きのこの山」だったようで。なんともシャレの効いた話ですな。出歩く元気があったら行きたかったなー。 #北条義時 公800年遠忌法要をいたしました。大河ドラマ制作…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 18.徳川家康・六
三河一向一揆に味方した、松平氏家臣の中には、主君の松平家康への忠誠心と信仰心の板挟みに合い、苦しんでいる者がいた。 松平家臣の中には、一度は、一揆に加わった…
応永10年(1403)、浜松普済寺の利山義總(りざんぎそう)禅師が現在の刈谷市元町に海会寺(かいえいじ)を開きました。海会寺には、禅師の徳を慕って修行者や信徒が多く集まるようになり、境内が手狭になったので、応永20年(1413)に現在の刈谷市天王町に楞厳寺(りょうごんじ)を建てました。水野家はこの寺に帰信し、水野家の菩提寺となっています。徳川家康の生母於大の方は、岡崎の松平氏に嫁いで竹千代(後の徳川家康)を生...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 17.徳川家康・五
三河国宝飯郡上ノ郷城主の鵜殿長照は、三河国内にて、今川氏真に臣従を続けていた。 同年、松平元康は、軍勢を率いて、上ノ郷城を攻撃した。 鵜殿長照は、戦死して、…
6月16日は「嘉祥の日」と呼ばれ、厄除け・健康招福を願って和菓子を食べる日だ。この日に和菓子を食べる習慣は、平安時代に始まり江戸時代まで続いたが、明治になって廃れてしまった。それを全国和菓子協会が1979年に「和菓子の日」として蘇らせたそうだ。 平安時代の中期、仁明天皇の時代には疫病が蔓延していた。そこで天皇は元号を「嘉祥」(「めでたいしるし」という意味)に改め、嘉祥元年(848年)6月16日に「嘉祥の儀式」を行った。日付にちなんで16個の菓子や餅を神前に供え、厄除け・健康招福を願ったという。 初めてこの話を知った時は、厄除けにお菓子ってなんて素敵なんだろうと思ったけど、考えてみたら小豆は昔か…
戦国乱世の最終勝者となった徳川家康(1543-1616年)は、何度か信仰がらみの事件に遭遇している。たとえば、領国・三河国で起きた「三河一向一揆」(1563-1564年)もその一つで、一揆衆側に味方する家臣も少なくなかったことで、この時は、当の家康自身が「命の危機」に晒さ
乾坤院から於大公園へ。徳川家康の生母である於大の方が、東浦町の緒川城主・水野忠正の娘として生まれ、その水野家の菩提寺である乾坤院に隣接することから於大公園と名付けられたそうです。ここに、於大の方の一生を解説する案内板がありました。於大公園東の林の中に、緒川城主の墓があります。緒川城主三代の墓緒川城主初代・水野貞守(中央)、二代賢正(向かって左)、三代清忠(向かって右)文明7年(1475)頃、水野貞守が...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 16.徳川家康・四
今川義元の死後、嫡子の今川真が、今川家の家督を継承した。 今川氏真は、織田信長の三河国への侵攻を防ぐため、松平元康が、岡崎城に入ったことを追認したと考えられ…
乾坤院 (けんこんいん)は、室町時代、文明7年(1475)、緒川城初代城主・水野貞守によって水野家の菩提寺として建立されました。徳川家康の生母・於大の方(伝通院)が四代・水野忠政の娘であり、乾坤院でも供養されている事から、江戸時代には尾張徳川家の庇護を受けました。乾坤とは、八卦で言う所の西北と南西の方位を表し、緒川城から見て西方(乾と坤の間)に造られた事からその名が付けられたと伝えられています。また、乾坤が「...
5月下旬、於大の方の生誕地・東浦町をまわっててきました。JR武豊線「緒川駅」から徒歩約15分、うのはな館(東浦町郷土資料館)からスタートです。於大の企画展が開催されていました。於大の方は、徳川家康の母として、水野家と松平家を支え戦国時代を生きた女性です。於大の方の像於大は、享禄元年(1528)、東浦の緒川城四代目城主・水野忠政と華陽院於富の方の娘として生まれました。水野忠政像徳川家康像忠政は、今川方の岡崎...
では、小山城へと進んで行きましょう。能満寺から左手に進むと、「男坂」と呼ばれる急階段と、「女坂」と呼ばれる緩やかな階段に分かれます。男坂男坂があまりにも急なため、後に女坂の階段がつくられたそうです。女坂男坂の方が近道に見えましたが、手すりがなく危険そうなので、女坂を選びました(^^ゞ小山城は、今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となったとされています。信玄の病死後には、子の武田勝頼が跡を継ぎ、東海道...
どうする家康 第22話「設楽原の戦い」 ~鳶ノ巣山砦奇襲と鉄砲三千挺の三段撃~
徳川方の武将・奥平信昌の守る長篠城が武田軍によって包囲され、奥平の家臣・鳥居強右衛門より援軍要請を受けた徳川家康は、援軍として駆け付けた織田信長と共に長...
小山城(こやまじょう)は遠江国、現在の静岡県榛原郡吉田町にかつてあった城です。現在、能満寺山公園となっている場所は、かつて武田氏の平山城が築かれていました。永禄11年(1568)、武田信玄は遠江をおさえる第一歩として、この地に砦を築き、その後、元亀2年(1571)、城郭を備えて新たな名前を付けたのが小山城です。 城をめぐって、徳川家康との戦いが、何度もこの地で繰りかえされました。能満寺山公園の駐車場から能満寺の...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜今回、感動したね〜ってことで第21話の感想ぉ〜!今回はこの男につきますね。それは…鳥居強右衛門(とりいすね…
家康を辿る城旅「牛久保城」 家康、独立を決意!今川方の"牛久保城"を攻撃
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「牛久保城」 家康、独立を決
ChatGPTさんの答えはこちら 徳川家康が日本の戦国時代の混乱から抜け出し、天下を統一することができた理由は多く、彼の政治的な技量、軍事的な戦略、そして適切な時期の判断が特に重要でした。 政治的な技量: 家康は優れた政治家でもあり、同盟を形成したり、敵対する勢力との間で巧妙にバランスをとったりする能力がありました。これにより彼は多くの敵対勢力を切り抜け、自身の力を増大させることができました。 軍事的な戦略: 家康はまた、優れた軍事指導者でもありました。彼は戦場の状況を正確に評価し、適切な戦略と戦術を選択する能力がありました。その結果、多くの重要な戦闘を勝利に導きました。 時期の判断: 家康は…
【どうする家康】#21 近づく瀬名Xデー、その前に戦国走れメロス再び
スネ夫&ドラえもん、じゃない鳥居強右衛門 NHK大河ドラマ「どうする家康」第21回「長篠を救え!」が6/4に放送され、長篠合戦での有名人、戦国時代の「走れメロス」鳥居強右衛門のエピソードが描かれた。強右衛門のことは分かっていたのに、日曜夜に泣かされて、さらに6/10の再放送を見てまた泣いた。この年になると涙腺が弱くて困る。 金ヶ崎まで激走した阿月ちゃんも、自分をちゃんと受け止めてくれたお市様のために走って「走れメロス」的感動をもたらしたが、今回の強右衛門も、自分を信頼してくれた殿のために走った。 この走る姿というのが日本人はかなり好きなんじゃないのかな、あれだけマラソンや駅伝観戦が好きな国民性…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 15.徳川家康・参
1559年(永禄二年)、駿府の松平元康は、七か条の定書を岡崎の家臣団との間で交わした。 松平氏の家臣団は、岡崎城に城代を派遣し、駿府の松平元康を介し、間接支…
徳川家康の物見塚徳川家康は、戦況を見極めるために武田軍が一望出来る八剣山の物見塚で指揮を取りました。物見塚から約250mほどのところには、家康の本陣跡があります。徳川家康本陣跡(八剱神社)天正3年(1575)5月、武田軍に包囲された長篠城を救援するため、徳川家康が本陣をおいて武田軍を迎え撃った場所です。天正3年5月1日、武田勝頼軍は長篠城に攻撃を開始しました。5月15日に、長篠城の落城寸前の知らせを受けた徳川家康...
家康が書物を救済した!?「足利学校」日本最古の学校を巡る【栃木・足利市】
栃木県の史跡・足利学校は、現存の日本最古の学校遺跡です。孔子廟遺構を中心に江戸期の姿を再現。ザビエルが西洋に紹介し、徳川家康と強い結びつきがあった。そんな由緒をたどりながら、史跡を巡って紹介してゆきます。
小6息子と歴史小説:「どうする家康」からの、「服部半蔵」からの、「新撰組戦記」
我が家の小学6年の息子。 去年からほぼ不登校で、最近は頼みの綱だったZ会 小学生向け講座 もやめてしまいました。 勉強しろしろ言うほどに反発が強くなって、反発が強くなるほどに息子の落ち込みがひどくなって、ますます社会復帰?学校復帰?から遠のきそうな感じがしたので、私も強く言えず。 現在、個別指導塾で算数だけはやっていますが、その他の勉強はほぼ何もせず、ちょっと心配です。 そんな息子が最近ハマっているのが、歴史小説。 始まりは、NHKの大河ドラマ「どうする家康」でした。 www.nhk.or.jp 息子はもともとドラマ好きで、以前からNHK大河もちょこちょこ見ていたのですが、この「どうする家康」…
設楽原の戦いで、決戦の地となったところを巡ります。丸山砦丸山は、はじめ織田軍の佐久間信盛が陣を敷きましたが、後に武田軍の馬場美濃守がこれを攻め占拠しました。(奥三河観光ナビより)設楽原古戦場いろはかるた「さ」「佐久間と馬場 丸山とりでの 攻防戦」 矢立て硯矢立硯は青みがかった小さな硯で、上州(群馬県)の沼田地方特有のものです。主に武士たちが陣中において使い、時には歌や句の詠草や手紙をしたためたりしまし...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 13.徳川家康・弐
竹千代は、父の松平広忠の死の際、駿府にいたと思われる。 本来、竹千代の継承すべき、岡崎城は、今川義元の派遣した、城代によって、支配された。 竹千代が、父の松…
作品紹介国を失い、父を亡くし、母と離れ、孤独な少年・竹千代は、今川家の人質として、ひっそりと生涯を終えると思っていた。しかし…三河(みかわ)武士の熱意に動かされ、弱小国の主(あるじ)として生きる運命を受け入れ、織田信長、武田信玄という化け物
遥かヨーロッパからこの日本に「鉄砲」が伝わった、いわゆる「鉄砲伝来」は、戦国の世真っ最中の1542年か1543年のことだとされている。そのハイテク武器「鉄砲」が最初に上陸したのは大隅国の種子島。今なら中学生ほどの年齢だった若き領主・種子島時堯(1528-1579年)はこれ
土屋昌次の墓土屋昌次は、甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。武田二十四将の一人に数えられる。長篠の戦いで、信長自らの出陣を知って、信玄時代からの重鎮たち、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らと共に撤退を進言したと言われているが、武田勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けた。戦が始まると、真田信綱、真田昌幸と共に右翼の天神山に陣を敷いた。織田勢の三重柵の二...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 13.徳川家康・壱
徳川家康は、1542年(天文十一年)、松平広忠の嫡男として、岡崎城において、生まれた。 母は、水野忠政の娘、於大の方、家康の幼名は、竹千代である。 無論、家…
徳川家康の側室 お万の方が養珠院として法華経を信仰し、身延町の大野山 本遠寺を開基。日蓮宗の外護に尽くされます。法華経の守護神である七麺大明神を祀る女人禁制の七面山に女性で初めて登詣を許され、女性も登れるようになったという功績もあります。
次は、設楽原の戦いの舞台となった地へ向かいました。長篠城を巡る激しい攻防がきっかけとなり、やがて、設楽原を舞台とした決戦に至ります。設楽原歴史資料館資料館の前にある像は、彼は新城の東郷一帯を治めていた旗本設楽家の出身で、幕末の日米修好通商条約調印の立役者である岩瀬忠震の像です。岩瀬忠震(いわせただなり)江戸時代末期の外国奉行。肥後守。幕臣設楽 (しだら) 貞丈の3男。岩瀬家の養子となる。ペリー来航の頃,...
どうする家康 第21話「長篠を救え!」 ~長篠の戦いと鳥居強右衛門~
前回描かれた大岡弥四郎事件と連携するかたちで、武田勝頼は足助城、野田城などの小城を落とし、その勢いで岡崎城へ向かおうとしますが、そのタイミングで大岡弥四...