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どうする家康 第26話「ぶらり富士遊覧」 ~武田滅亡と信長の駿河訪問~
息子の松平信康と正室の築山殿を失った徳川家康でしたが、落ち込んでいる間もなく、武田に奪われていた高天神城攻めを本格化します。天正3年(1575年)以降、高...
武田攻めを終えた織田信長は安土城へ向かう途中、富士山などの名所を見物しながら、駿河に寄りました。徳川家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し、本栖湖の近くに宿所を建て、信長を迎えました。(これは、数年前、私が本栖湖の芝桜を見に出かけた時の画像です。 もちろん信長の見た景色とは大きく異なります(^^ゞ)富士山本宮浅間大社の境内に仮の宿泊所を建て、わずか一泊のために、家康は金銀をちりばめた豪...
家康を辿る城旅「清州城」!信長と家康の清州会見は行われていない?信長の運命を拓いた城へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「清州城」!信長と家康の清州
武田勝頼ゆかりの韮崎市と甲州市を訪ねる予定が、「武田氏滅亡」が描かれる回に間に合わなかっため、今回は「韮崎市観光協会」と「甲州市観光協会」から画像をお借りしました。●韮崎市長篠の戦いで、織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫し、高天神城が陥落したことで、武田氏の威信は急落。領国の立て直しを決断した武田勝頼は、府中移転を計画し、天正9年(1581)、現在の山梨県韮崎市の七里岩の台地に新府城を築城。新府城跡写真...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜今回は辛すぎて悲しくて泣いたよーってことで第25話の感想ぉ〜!瀬名が目指した慈愛の国…武田勝頼が裏切り、瀬…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 27.徳川家康・十五
鳥居強右衛門は、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、武田勝頼の命令とは、逆のことを大声で叫んだ。 武田勝頼は激怒すると、部下に…
JR清水駅から徒歩10分、静岡県清水区江尻の江浄寺は、東海道五十三次、江尻宿の中心に位置する古刹です。永正元年(1509)、浄土宗大本山 光明寺(鎌倉市)の第九世 長蓮社観譽祐崇(ちょうれんじゃ かんよ ゆうそう)上人が開山で、当時は旧東海道沿い(清水区秋吉町付近)に創建されました。その後、徳川幕府の東海道整備に伴い、慶安四年(1651)現在の地へ移転しました。境内には、松平信康の遺髪を納めた五輪塔があります。江...
有村架純を再登板させる手は NHK大河ドラマ「どうする家康」の第25回「はるかに遠い夢」は、7/2に放送され、ここまでドラマを引っ張ってきた家康の正室・瀬名が、いわゆる「築山殿事件」にて残念ながら最期を迎えるに至った。 公式サイトからあらすじを引用させていただこう。 武田勝頼(眞栄田郷敦)の手で暴かれた、瀬名(有村架純)と信康(細田佳央太)の計画。それはやがて信長(岡田准一)の知るところとなる。2人の始末をつけなければ織田と戦になる。それでも家康(松本潤)は信長の目を欺き、妻子を逃がそうと決意する。一方、瀬名は五徳(久保史緒里)に、姑は悪女だと訴える手紙を信長に宛てて書かせ、全ての責任を負おう…
東京都新宿区若葉二丁目の西念寺は、服部半蔵正成が開基した寺として知られています。徳川氏が江戸に入封して間もない文禄3年(1594)に、正成が江戸麹町の清水谷(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にその前身である庵(安養院)を創建したことに始まります。正成は、松平信康の慰霊のために出家入道して西念と号し、安養院に供養塔を建て、遠州以来奉持していた信康の遺髪を埋めてその菩提を弔いつつ余生を過ごしました。そ...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 26.徳川家康・十四
武田氏の西上作戦の頓挫によって、織田信長は、反織田勢力を撃滅して、徳川家康は、勢力を回復して、攻勢に出た。 それに対し、武田信玄の後継者、武田勝頼は、攻勢に…
岡崎市若宮町にある根石寺(旧根石観音堂)を訪ねました。現在、信康の首塚がある若宮八幡宮の境内にあった根石原観音は、明治維新の神仏分離によって、若宮八幡宮の北側に移転し、現在は根石寺となっています。根石原観音の由緒について、「おかまいり」のHPによると、和銅元年(708)に悪病が流行したことから、43代元明天皇が悪疫を絶やすよう行基法師に祈祷を依頼すると、行基は自ら六体の観音菩薩を彫り、そのうちの二体を根石...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 24.徳川家康・十弐
前述の通り、徳川家康は、夏目吉信等の家臣が、身代わりになったため、命を救われ、浜松城に逃げ帰った。 徳川家康は、浜松城に入ると、全ての城門を開いて、篝火を焚…
訪問日:2023年7月1日神奈川県立金沢文庫で月例講座「徳川家康像について 旧金沢東照宮像を中心に」が開催されることを知りました。
今年の大河ドラマは『どうする家康』ということで、各地にある徳川家康関連のお城は観光客で賑わっているようですね。ドラマの論評はさておき(笑)、当ブログでも乗...
松平信康は、堀江城からさらに遠江国豊田郡二俣(現在の浜松市天竜区二俣町二俣)二俣城に移されました。二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地で、、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げました。また、信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られています。この急な階段を上っていきます。当時、武田軍が急な坂道で手こずったというのがうなづけます。まだまだ続く階段(..;...
家康が眠る「久能山東照宮」は、駿河湾を望む風光明媚な地!【静岡・静岡市】
遺言により徳川家康公が葬られた静岡県の久能山東照宮は、全国の東照宮の創祀社。駿河湾を望む孤高の地にあり、国宝の社殿や家康公の墓所などが見どころ。久能山の歴史紹介やアクセス方法を交えながら境内を巡ります。
天正7年(1579)8月9日、小姓5人を付き添わせ、松平信康は、大浜から遠江の浜名湖半にある堀江城へと移っていきました。その翌日、徳川家康は、三河衆から信康に内通しないことを誓約する起請文を提出させたといいます。13日、家康は浜松城に帰還し、岡崎城には本多重次を派遣して城代に据えました。堀江城は、鎌倉時代、藤原氏の血を引く大沢基久が築城したと伝えられています。 戦国時代も大沢氏が城主を務めますが、今川氏の勢力...
【ラジオアプリStand.fm】#4【ポスKING珍百景】①〜恋愛成就の仏がある西楽寺〜
皆さんポスKINGです ! ! 音声配信アプリStand.fm(スタンドエフエム)の配信です! ! Stand.fm ...
前回,、東武伊勢崎線の無人駅「世良田(せらだ)」に到着したところまでを報告しました。 この世良田駅の横・線路際に「徳川家発祥の地」とある標柱が立っています。 1566年に三河の国を平定した家康は、その立場の正当性を確保するために叙位・任官を朝廷に願い出ましたが、叙位・...
岡崎市両町にある祐伝寺を訪ねました。祐伝寺の由緒根石山と号し真宗高田派。もと妙源寺末。本尊阿弥陀如来。天正7年(1579)柴田新四郎正親が投町に創建。正親の次男六郎は遊伝坊了慶と称して一寺を建てた。後家康が神明宮別当を命じたという(コトバンクより)築山殿の首は、織田信長に送られ、首実検にかけられた後、岡崎城代であった石川数正がその首を持ち帰り、祐伝寺に葬ったといいます。江戸時代になると八柱神社(やはしら...
徳川家康(6)燃える土の巻!浅井長政、覚悟の小谷城決戦…お市と茶々の運命は?
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、徳川家康(6)燃える土の巻!浅井長政、覚悟の小谷城決戦…お市と茶々の運命は?です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想
前回に続いて徳川家康の前半生の最大の悲劇といえる築山事件(松平信康自刃事件)が描かれました。通説と言われる事件の流れは、第24話の稿で解説したので、ここ...
【祭り 福岡】超高い!博多祇園山笠の飾りに驚く in 博多駅|徳川家康、TNCテレビ西日本
↑楽天市場「お買い物マラソン」開催中!2,000円OFFなど限定クーポンをゲットしよう!※エントリー必須! おごめ~ん、大分のtakatch親方です(`・ω・…
浜松市南区高塚にある護法山地蔵院は明徳元年(1390)に元道円密和尚により創建されました。元道円密和尚は、後醍醐天皇の子 宗良親王と共に遠州に入った公家出身の武士であり、親王が元中二年(1385)に亡くなると出家して当地高塚に庵を結んだとされています。本堂約250年前に建立されました当時は茅葺きでしたが大正時代に瓦に葺き替えられたそうです。ご本尊は延命地蔵菩薩位牌堂には築山御前ゆかりの腹籠り地蔵も祀られてい...
家康を辿る城旅「上ノ郷城」!要害堅固の城に挑む家康、甲賀忍者を用いた攻城戦
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「上ノ郷城」!要害堅固の城に
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 24.徳川家康・十弐
前述の通り、徳川家康は、夏目吉信等の家臣が、身代わりになったため、命を救われ、浜松城に逃げ帰った。 徳川家康は、浜松城に入ると、全ての城門を開いて、篝火を焚…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜築山信康事件って、未だ謎なんだよねってことで第24話の感想ぉ〜!!いよいよ瀬名が動き出しました。瀬名のいる…
岡崎で息子の松平信康夫婦と暮らしていた築山殿は、信康の妻・徳姫が二人の姫を産んでもいまだ男児を産まないことを気にかけ、元武田家の家臣で後に徳川家の家臣となっていた浅原昌時の娘および日向時昌の娘など部屋子をしていた女性を、信康の側室に迎えさせました。天正7年(1579年)、徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言を信康にしたこと、築山御前と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12か...
酒井忠次以下、家臣団は優秀なのに殿は NHK大河ドラマ「どうする家康」第24回「築山へ集え!」が6/25に放送された。まずは公式サイトからあらすじを引用させていただく。 瀬名(有村架純)と信康(細田佳央太)が各地に密書を送り、武田方をはじめ多くの者が築山を訪ねていることを知った家康(松本潤)。これが信長(岡田准一)に伝われば、命より大事な妻子を失うことになる。苦悶の末、家康は数正(松重豊)らと共に築山へと踏み込む。だが瀬名は、家康が来るのを待ち構えていた。瀬名は、内々に進めていた途方もない計画を明かし・・・。(これまでのあらすじ 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK) 家康、「苦悶の末」…
松平信康が大浜へ追放された後、天正7年(1579)、8月5日、徳川家康は、松平信忠らの軍勢を率いて、吉良西尾城に赴きました。西尾城周辺には大きな河川があり、下流の湿地帯には野鳥が多く生息し、この地で織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が、吉良荘(きらのしょう)で鷹狩りを楽しんだという記録が残っています。(西尾歴史散策MAPより)特に家康は、その生涯で1000回以上も鷹狩りを楽しんだそうで、この年表を見ても、信康事件の...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 23.徳川家康・十壱
徳川家康は、中根正照の二股城の降伏、開城を知らず、二股城に援軍に向かっていた。 そのため、徳川家康は、武田軍と戦闘になると、敗北して、浜松城へ逃走した。 二…
どうする家康 第24話「築山へ集え!」 ~築山事件(松平信康自刃事件)前編~
いよいよ物語は、徳川家康の前半生の最大の悲劇といえる築山事件に入ります。松平信康自刃事件とも言いますね。諸説あって謎が多いこの事件ですが、通説とされてい...
『猛将親父』の目次はこちらだよ⬇️目次吉川広家(きっかわひろいえ)です。関ヶ原の戦いの後、毛利輝元(もうりてるもと)は領地没収の上、改易。毛利家の領地の内、周…
1579年8月4日、松平信康は、岡崎城から三河大浜城に移されました。そんな信康の軌跡を追って、愛知県碧南市大浜を訪ねました。碧南市には、三英傑のゆかりの地があり、各所にこの幟がはためいています。この地区は、古くから海運の町として栄え、多くの寺社が建てられました。特に大浜てらまち地区は、南北1.2kmほどの狭い地区に、宗派を異にする10軒のお寺があります。「竹千代」命名の寺「称名寺」は、暦応2年(1339)に新田氏一...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 19.徳川家康・九
先行していた、本多忠勝及び内藤信成の率いる、偵察隊は、武田軍の先発隊と遭遇する。 偵察隊は、即座に退却したが、武田軍は、素早い動きで、徳川軍を追撃し始め、太…
松平信康は、永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の嫡男として駿府で誕生。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしましたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移りました。元亀1年(1570)、家康が遠江に進出し、引馬(浜松)を居城とする際、三河岡崎城が与えられ、岡崎次郎三郎信康と称しました。信康は性剛直で武勇に優れ、よく家康を助けたといいます。天正3年(1...
先週、いつも自転車で走ってる道で、夜、真新しい石標を見つけた。自転車走行中のチラ見。私の動体視力で読み取れたのは『徳川○康』の三文字。いや、これ、家康でしょう…
西の丸に向かって進んで行きます。的場曲輪跡弓矢などの練習をしていた場所と言われています。鐘曲輪兵が攻めてきたことを知らせるために、ここで鐘や太鼓で知らせたといいます。かな井戸 井戸曲輪跡西峰と東峰を分ける曲輪で、籠城には欠かせない井戸がありました。尾白稲荷高天神城合戦将士英魂之碑高天神社西の丸跡この西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時期があり、丹波曲輪とも呼ばれているそうです。神社の奥に向かって...
『猛将親父』の目次はこちらだよ⬇️目次吉川広家(きっかわひろいえ)です。関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍の勝利とな…
高天神城の三の丸から本丸へ元天神社現在、西の丸にある高天神社は、元々はこの場所にあり、「高天神城」という由来となったそうです。御前曲輪跡城主・小笠原長忠と奥方の顔出しパネルここに、昭和に入ってから建てられた2層の模擬天守がありましたが、落雷で焼失したそうです。本丸跡高天神城の東峰の最高所に位置するのが本丸です。西側には土塁が作られているものの、東側は絶壁と評するにふさわしい急斜面となっており、人の...
掛川市の高天神城は、「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝で、徳川・武田の両雄が攻防戦を繰り広げた東海一の堅塁を誇った標高132メートルの山城です。眼下には、下小笠川など中小の河川が流れ、天然の堀を成し、尾根は三方が断崖絶壁、一方が尾根続きという天然の要害で、「難攻不落の名城」と呼ばれていました。高天神城の築城は、治承・寿永の乱(源平合戦)の際に築城されたとの伝承がありますが、室町時代、...
家康を辿る城旅「西尾城」!今川の属将から三河の主へ…家康独立の攻城戦
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「西尾城」!今川の属将から三
織田信長が今川義元を倒した桶狭間の戦い(1560年6月12日)。この戦に参加した主な武将達の年齢を調べてみました。今川軍今川義元(総大将) 41歳井伊直盛 34歳岡部元信 不明松井宗信 45歳鵜殿長照 不明朝比奈康朝 22歳松平元康(徳川家
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜だんだんと悲劇に近づいてきてる気がする…ってことで第23話の感想ぉ〜!長篠・設楽原の戦いに勝ったはいいが、…
原典ではメッチャ難しい言葉が並んでいるようですが、それを口語に直すと、 ~豊かで瑞々しいあの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。 わが孫よ、行って治めなさい。 さあ、出発しなさい。 皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、窮まることがありません~ これくらいの...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 19.徳川家康・九
徳川家康、今川氏真、北条氏康による、武田信玄からの駿河国の奪還は、成就せずに、掛川城の開城と同時に、戦国大名としての今川氏は、滅亡した。 1570年(元亀…