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豊臣のオタクにとって神セトリ「徳川家康-天下人への歩み-」/名古屋・徳川美術館 2023年9月18日まで
2023年7月29日(土)、推しを見に徳川美術館に行った話。セトリが良く、朝風呂からのビールも大変よろしい。
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜本日よりブログ再開だねって第28話の感想ぉ〜!織田信長が宿泊していた本能寺が炎上!ついに家康が信長を攻めた…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 36.徳川家康・二十四
仁科信盛等の首級は、織田信忠の陣に届けられ、主従の首級は、京で晒し首となった。 首を取られ残された、仁科信盛の遺体は、信盛を崇める、地元の領民により、埋葬さ…
甲賀市信楽町多羅尾の伊賀越えの道4日目は小川城から神山に向かい、桜峠を越えて伊賀に入り、柘植の徳永寺に寄りました。当寺で一泊した家康はその時のお礼に、田畑や山林を与え、葵紋の使用も許したといわれています。徳永寺葵の御紋入った瓦伊賀越えの新説ルート甲賀伊賀越え通過点の一か所とみている天台宗明王寺(甲南町磯尾)には徳川家康より四代の位牌があり、神君甲賀伊賀越えの新たなルートの拠点として近年注目を集めて...
滋賀県在住の歴女の友人が、伊賀越えの画像を送ってくれたので、「伊賀越え」についてまとめてみました。天正10年6月2日(1582年6月21日)未明、織田信長が明智光秀軍に殺害されるという本能寺の変が勃発。信長の同盟者であった徳川家康は、その時堺に投宿していましたが、茶屋四郎次郎から変の報を聞いて、明智軍の支配下にある京都に上り、松平氏にゆかりのある知恩院に駆け込んで「追腹」を切ると言い出しました。しかし本多忠...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 35.徳川家康・二十参
1582年(天正十年)2月3日、森長可及び、団忠正の織田軍先鋒隊が、岐阜城を出陣。 若い両将の目付けとして、河尻秀隆が本隊から派遣された。 2月6日、先鋒隊…
以前、岡崎市の法蔵寺の夏目吉信(広次)の墓について書きましたが、愛知県額田郡幸田町六栗の明善寺にも吉信の墓があります。夏目氏三代の墓右から、夏目吉信、夏目吉久、夏目吉為の墓夏目氏は信濃国伊那郡夏目村の地頭職が起こりである。中先代の乱に敗れ、吉良荘に逃れ、六栗村の中屋敷台地に夏目屋敷城(六栗城)を構え、古くから松平氏(徳川氏)に仕える譜代衆であった。夏目吉信永正15年(1518年)、夏目吉久の長子として、...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 34.徳川家康・二十弐
1574年(天正二年)の第一次高天神城の戦いは、徳川家康が、救援を送れなかったため、徳川家康の威信を低下させ、離反者が続出した。 そして、八年後の1581年…
徳川家康が名香の蘭奢待に手を出さない訳を解説!ミステリーな香木
天下人である徳川家康と香りのつながりは切り離せないほど強いものです。でも不思議なのは家康が「蘭奢待(らんじゃたい)」という最上級品の沈香には手を出さなかったこと。実はこの香木、とてもミステリーな香木なのです…。ではこのミステリーを解説します。
【どうする家康】番外編・瀬名を偲ぶ、岡崎への旅(平山優先生のご案内付き✨)
瀬名ロスが高じて、ひとり大興奮の旅 NHK大河ドラマ「どうする家康」の第25回「はるかに遠い夢」で非業の自死を遂げた瀬名こと築山殿。前27回ブログの冒頭で明言した通り、瀬名ロスに現在どっぷり中だ。瀬名と言うべきか、有村架純を再登板させる方法まで勝手に妄想を重ねていた。 toyamona.hatenablog.com toyamona.hatenablog.com そんな私にぴったりの岡崎を巡るツアーが開催されると知り、ポンコツの体に鞭打って急遽参加してきた。申し込んだ時には残席僅か、危なかった。(平山優先生と行く激震の岡崎!家康公の人生の岐路めぐり|令和5年度岡崎おでかけツアーズコース紹介|特…
長篠の戦いで大活躍し、徳川・織田連合軍を圧勝に導いた英雄・鳥居強右衛門は、愛知県豊川市市田町の出身といわれています。そこで、強右衛門追っかけ第二弾として、鳥居強右衛門生誕の地を訪ねてみました。名鉄八幡駅から歩くこと25分。松永寺というお寺があります。この付近には元々細川氏の築いた市田城があり、後に牧野氏一族の居城となったそうです。松永寺境内の東側には「烈士鳥居勝商生誕地」の石碑が建っています。石碑の...
静岡県静岡市の静岡浅間神社です。 静岡市に鎮座する、荘厳な神社です。隣で「どうする家康」静岡大河ドラマ館が開催されていました。
京都市バス、京都市営地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩2分、現在「京都国際マンガミュージアム」(旧龍池小学校)となっている建物の裏側に、「此附近 二條殿址」の石碑が立っています。二条殿は、もとは南北朝時代の公卿・歌人・連歌師であった二条良基の邸宅で、押小路殿とも呼ばれました。邸内には龍躍池があり、洛中洛外図屏風にも描かれており、その景観の美しさから皇族や織田信長が好んだそうです。信長は天正5(1577)年に移り住...
どうする家康 第28回「本能寺の変」 ~家康の堺遊覧と信長の横死~
時は天正10年(1582年)6月2日・・・・といえば、言わずと知れた「本能寺の変」ですね。天下統一を目前にした戦国の覇王、織田信長が、最も信頼していた家...
光照山 龍香院 宗忠寺(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)は、徳川家康の江戸入封後の1594(文禄3)年に松平忠吉(→徳川家康四男)の家臣小笠原宗忠が開基、僧の雲興(→寂年不詳)が開基した浄土宗寺院です。寺号は開基の宗忠から、院号は宗忠の法号龍香院欣情法心から採られたことが分かります。天正年間(→1573年~1592年)までは宗忠の父親である小笠原伊代守吉次の法号から「長隆寺」と号していたと記されますが、創建年が1594(文禄3)年なの...
家康を辿る城旅「吉田城」!東三河の堅城を落とせ…家康、悲願の三河平定へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「吉田城」!東三河の堅城を落
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜本能寺に迫る回だねってことで第27話の感想ぉ〜!ついに家康、家臣たちに心の内を話します。「信長を殺す、天下…
【無料!姓名判断】天下統一!39画「戦地獄サバイバー運」を極めよう!有名人多数掲載&随時更新中!【吉数カタログ】
総格「39画」を特集!総格に39画を持つ有名人や実業家多数。命名や改名をお考えの方必見!永野芽郁、安住紳一郎、黒柳徹子、宮根誠司、若槻千夏、稲盛和夫、野村沙知代、工藤公康、藤臣柊子、杉浦太陽、神木隆之介、湯川秀樹…など多数の実名を発表!
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 33.徳川家康・二十壱
1580年(天正八年)8月までには、徳川家康は、「高天神六砦」と呼ばれる、小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦を完成させ、高天神城への…
室町時代に創建された本能寺は当初、京都の高辻通りにありましたが、移転を重ねた末に、天文11年(1542)四条西洞院に第4次の伽藍が建立されました。しかし本能寺の変で焼失し、天正17年(1589)現在の場所に移されました。 本能寺の「能」の字は「䏻」という俗字になっているのは、本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれています。本堂信長公廟本能寺の変...
久能山東照宮(くのうさんとうしょうぐう) @静岡県静岡市 徳川家康が埋葬されてた金運・勝負運のパワースポット ペット同伴可能です
静岡県静岡市の久能山東照宮です。 1159段の石段を登った先に絶景と、パワースポットがひらけていました( ゚Д゚) 日光東照宮同様、犬連れ可能です。
【どうする家康】#27 サイコパスじゃない岡田信長、蓄積疲労で限界だった模様
瀬名ロスです NHK大河ドラマ「どうする家康」第27回「安土城の決闘」が7/16に放送された。タイトルは「決闘」だけれど、物理的に乱闘があった訳でもなく(7/22「土スタ」出演の岡田准一によると、脚本上は相撲を取る設定だったらしい)・・・狸の化けの皮が剥がれた子どもっぽい家康が、疲れ切った信長に「告白」された話だった。そこからの「国譲り」みたいな。 テンション低めですみませんね・・・瀬名ロスですよ、どっぷりと。 オープニングでは、主役の家康直後のヒロイン席「瀬名 有村架純」がぽっかり空いていて、これまで瀬名推しで見ていたこちらとしては大層悲しかった😢於愛の広瀬アリスの表記はもう少し後ろの方で、…
普段大河ドラマ見ないのに「どうする家康」は見ていて、気になったので行ってきました交通アクセス大曽根駅から、徒歩15分程度です遮るものがなく、非常に暑いので個人的にはバスをお勧めします!30分に一本程度と本数は少なめですが、徳川町バス停や森下
東京 伊達政宗・徳川家康が使用した鉛筆・初代国産計算機も! 日本文具資料館
東京都大東区にある日本文具資料館。 ここは文房具好きにはたまらない資料館らしいという噂を聞き、特に文房具好きじゃない自分だけどもやってきました。こちらでは「文具を育てる文具」として、人類の歴史と文具の歴史との相互関係を解明して、後世への研究
天正10年(1582年)5月29日、織田信長は備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援するため、小姓を中心とする僅かのお供を連れて安土城を発ち、京都の本能寺に入ります。その頃、信長の嫡男・織田信忠は5月21日にすでに京都の妙覚寺に入っていました。妙覚寺の山門本堂京都に城を持たない信長は、かつては妙覚寺を寄宿先としていましたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用す...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 32.徳川家康・二十
高天神城の守将の小笠原信興は、徳川家康を見限り、武田勝頼氏に降ると、駿河国東部に一万貫の高待遇で、移封されている。 松下之綱は、解放されたが、その後、織田信…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 31.徳川家康・十九
武田勝頼は、上杉景勝と同盟したため、北条氏政と対立することになった。 武田勝頼は、織田信長との和睦を模索し、人質の信長の五男、勝長を返還したが、信長は、黙殺…
今回訪れたのはこちら圓光寺です。【所在】京都府京都市左京区一乗寺小谷町13【山号】瑞巌山【宗派】臨済宗南禅寺派【開山】閑室元桔【本尊】千手観音【圓光寺】瑞巌山と号し、臨済宗南禅寺派に属する。慶長6年(1601年)に徳川家康は国内教学の発展を図るため、足利学校第9代学頭三要元佶禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許可した。また、孔子家語・貞観政要など多くの漢...
南宗寺は、大阪府堺市堺区にある臨済宗大徳寺派の寺院で、弘治3年(1557年)三好長慶が父元長の菩提を弔うために、大林宗套(だいりんそうとう)を迎え開山しました。本尊は釈迦三尊。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした寺院です。(画像提供:めりい)三好長慶の像(画像提供:めりい)天正2年(1574年)の松永久秀の兵火で焼け、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣による焼失後、当時の住職であった沢庵宗彭よって現在の場所に移転して再興さ...
どうする家康 第28回「安土城の決闘」 ~家康の安土入りと光秀の饗応役~
甲州征伐の論功行賞で、織田信長は徳川家康に駿河一国が与えられました。そして、その帰路、信長は富士山見物をし、家康の居城である浜松城に立ち寄った話が前話で描...
堺は、戦国時代には環濠都市となり、自治的な都市運営が行われ、堺の有徳者(有力商人)で構成される会合衆が町を治めました。 1550年、宣教師フランシスコ=ザビエルが堺を訪れ、布教の許可を得るため、堺を拠点としました。戎公園は、ザビエルが天文19年(1550年)、堺に立ち寄った際に、手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡付近に開設されました。「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅」碑 (画像:Wikipediaより)当...
安土城南西麓の百々橋口から下街道を越え、南に数分行くと、セミナリオ史跡公園があります。この地の小字名「大臼」(だいうす)は、ラテン語で神を意味するデウス(Devs)の転訛と考えられ、セミナリオ跡は、織田信長の庇護を受けたイタリア人宣教師オルガンチノによって天正9年(1581年)に創建された目本最初のキリシタン神学校の跡とされています。現在は 安土城の外濠沿いに公園として整備されています。ここは、安土城天主から...
江戸の起源は?町人の生活は?お仕事は?歴史人「江戸の暮らし大全」
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、江戸の起源は?町人の生活は?お仕事は?歴史人「江戸の暮らし大全」です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころ
二の丸へと進んでいきます。二の丸址二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長本廟があります。ここからは、立ち入り禁止。ズームで撮ります。織田信雄四代供養塔次は本丸に進みます。本丸跡本丸は、礎石などから、京都御所の清涼殿と似た構造であったことが判明しており、天皇の行幸を想定した建物と考えられています。 本丸跡 天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西...
若き家康を苦しめた「三河一向一揆」!"三河三ヶ寺"本證寺・上宮寺・勝鬘寺をめぐる
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、若き家康を苦しめた「三河一向一揆」!"三河
【どうする家康】#26 狸と狼の化かし合い、絶品海老すくいで切り抜ける
アイドル松潤家康、面目躍如の舞 NHK大河ドラマ「どうする家康」第26回「ぶらり富士遊覧」が先週7/9に放送され、アイドル松本潤はやっぱり伊達じゃなかったと感嘆するしかないキラキラの「海老すくい」を見せて頂いた。今回はこれが白眉。 上半身を真っ直ぐに、舞台上にスススと滑るように進み出るブレない姿は、古いけど「徳川慶喜」本木雅弘が禁中で走る姿を思い出した。それでいて腰を曲げて跳ねる時の軽やかさ。よろけそうもないバランスの良さ。上品だな~これは絶品って言うべきでしょう。 松潤の「嵐」としてのダンスはいつが最後だったのだろう。彼が踊るのはそれ以来じゃないのか。お宝ダンスだったかな。 それに、後編突入…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜いよいよあの事件が起きる…その前の第26話の感想ぉ〜!瀬名と信康、大切な2人を失った家康。武田との高天神城…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 30.徳川家康・十八
以上が、『どうする家康』の展開であるが、明らかに、史実を逸脱しており、諸説として、完全に認められない。 通説では、築山殿は、徳川家康と不仲であり、悪女とされ…
天正10年(1582年)5月21日、徳川家康は、駿河拝領の礼のため、織田信長の招きに応じて降伏した穴山梅雪とともに居城・安土城を訪れ、大接待を受けました。安土駅から自転車で10分ほどで安土城に到着。登城ルートは、大手口から天守台を目指し、大手口に戻るルートです。大手口には、かつて大手門と東西2つの虎口が構えられていました。大手口駐車場近くに無料休憩所があり、その中に安土城の模型が飾られています。レンタサイクル...
数年前安土を訪ねました。安土のシンボルといえば、駅前の織田信長の銅像です!銅像の横には、「織田桜」があります。地下道を通って、駅の裏側に行くと、安土駅の南広場に「相撲やぐら」があります。元亀元(1750)年に織田信長が常楽寺で催した相撲興業が近代相撲の発祥と言われており、それを記念して昭和63年に建てられました。信長の相撲好きは有名で、安土城下で1500人もの力士を集めた大相撲大会を開催し、勝者へ優遇したこと...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 29.徳川家康・十七
織田信長が、長篠の戦いにおいて、武田勝頼に勝利を治めた頃から、信長と徳川家康は、対等な同盟関係ではなくなってゆく。 徳川家康は、「一門に準ずる、織田政権下の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 28.徳川家康・十六
鳶ヶ巣山攻防戦によって、武田軍は、武田勝頼の叔父の河窪信実を筆頭に、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友等の家臣が討死している。 武田の敗残兵達…
長島一向一揆は、1570年ごろから1574年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(三重県桑名市長島町)を中心とした地域で、本願寺門徒らが蜂起した一向一揆で、織田信長との間で大きく分けて三度に渡る激しい合戦が起こりました。歌川芳員『太平記長嶋合戦』濃尾三川(のうびさんせん)と呼ばれた木曾川・長良川・揖斐(いび)川の下流域は輪中地帯として知られ、15世紀中頃から一向宗の勢力が増し、長島の願証寺がその拠点となっていまし...
万年青万年青は良くないですね…良い意味で…人を狂わす魔力があるなんか、ものすごい速度で買いあさってます滝汗玉川竜なんか、良い親?になるだとか、、ならんのか知らんけども昔からある万年青みたいですね鶴の舞「これは巻が良いから雄木で使うと良さそうですね」…意味
「本能寺の変」に黒幕や共謀者(扇動者)はいたのか?日本史の最大の謎の一つに迫る!
「日本史」(「国史」と呼ぶのが本来正しい)には、多くの謎があります。その中でも、最大の謎の一つが「本能寺の変」(1582年)です。原因については、明智光秀(生年不詳~1582年)が織田信長(1534年~1582年)への恨みや天下人への野望か
現在の報土寺がある静岡市葵区宮ヶ崎辺りに、新婚時代の徳川家康(松平元信)と瀬名(築山殿)が住んだ屋敷があったと伝わっています。駿府城の西側、浅間神社の南側にあたるエリアです。報土寺HPによると「開創当初は今川家の時代であり、京都から駿府に来ていた公家で歌人の冷泉為和が、度々報土寺で歌会を催していた記録が残っています。江戸時代になると、徳川家康公が政治の実権を秀忠公に譲り駿府に隠居したため、しばしば家康公...
天下人徳川家康の香り千年菊方!磐田市香りの博物館での出会いと歴史の旅
こんにちは!香りの魅力をお伝えするゆゆ子です。私は今回磐田市の「香りの博物館」へいきました。そこで徳川家康が自ら調合したという香りに出会いました。それが香之覚に遺した「千年菊方」です。家康の歴史と家康が愛した香りを詳しくご紹介していきます。