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芸術の美しさとしての価値に"コントラスト"があります。コントラストというのは対照や対比という意味です。例えば写真や物語において美しさを付加しようという場合には、このコントラストを意識することが芸術へと近づく大きな一歩となるのです。 コントラストというのは、明と暗、光と影、静と動、短いと長い、乾きと潤い、生と死、戦争と平和、赤子と老人、男と女、社会主義と自由主義、貴族と庶民、正義と悪、犯罪者と官憲、貧困と富裕、早いと遅い、白と黒、生物と干物、具体と抽象、主体と客体、災害と豊穣。このように例を挙げればきりがないのですが、実は芸術における美学の要素として過去から現在に至るまで重要とされてき
ある時は普段の生活を捉え、ある時は人生の節目を彩り、ある時は今は無き形を遺のこす。そうして大切に用いられてきたカメラには、人の心に寄り添い、共にしてきた歴史が詰まっています。良いものは、いつだって親世代から子世代へ、子世代から孫世代へと受け継がれます。 赤いライトの点滅が次第に早まる。 "パシャッ" まだまだ幼子たちは、集合写真に慣れていないようで、10秒のレリーズの間によそ見をしてしまいます。3枚続けざまに撮影しても、なかなかカメラの方を見るというのは難しいようでした。 私の家では毎年のお正月には、親戚が集まって恒例の宴が開かれていました。少ない親戚であっても、集まって食事を
辰年と言えば干支の中で唯一、伝説上の生き物である龍の年。まさにその役割が大きく変化するような兆しがあるように感じられました。傍目から見ると大した役割の変化ではありませんが、私にとっては大きく役割が変化した年だと思っています。 特に将来に対する責任が、じわりじわりと押し寄せてきました。 たとえば家庭に対する責任です。結婚から指折り月日を考えると長い年月を過ごしてきました。私も含めて家族が幸せであることが、何よりの幸福であることは間違いありません。そして何より家族が元気で居てくれること、頑張っている姿を見ることが生きがいであることも間違いではありません。逆に私自身がポジティブに活動して
突然の話ですが、私の心には内村鑑三の「デンマルク国の話」が刻み込まれています。この本を読んだ当時、青年であった私の心には感激が身震いするような、心がしびれるほどのもので、やけに感心したのを覚えています。この話は、荒廃した母国の土地に気を植える人々の話なのです。 私にとっては生まれてこのかた、砂漠のような心に、人生においてどれだけの木を植えられるのかという話に感じたものです。 苦心して植えられた木々は、少しずつ成長していき次第に原始林となり、調和を伴って繁茂していきます。このように自生的な秩序が育まれるためには、当初は人間の努力によって、少しずつ少しずつ試行錯誤を繰り返しながら、来る
「今における自らの感覚に集中すること」 これこそが現代人に必要とされている大切なことだと思います。 つまり、触ったものがどんな感触であるのかについて詳細に観察することです。何か食べたことについてどのような触感で見た目で味だったのかをつぶさに観察するということです。歯磨きした時にどのような感覚があるのかを観察しながら手の動きなど全ての感覚に集中することです。 行動すべてが今ある事。時にこの今に集中する事が大事なのだと思えます。瞑想というものは、その方法論の一つです。目を閉じて静かに感覚を研ぎ澄まして感じることのようにも思えますが、実は様々な方法で瞑想することが可能になるものだと思い
これまでと変わらぬ景色、そして見慣れたはずの風景でさえも見え方が違うような気がする。私にはそんな経験をしたことがあります。色が濃くなったような、コントラストが強まったような。兎に角、世界がもっと美しく広いものになったような感覚です。 自分に何かの価値観が加わったことで生じた化学反応。写真がフィルムから現像されるようなイメージかもしれません。 私が知らない事も、あなたはきっと知っている。私が面白いと思えなかったことも、あなたはきっと面白いのだと思える。そして、”あなたは必ず、私がしたこともない経験をしている”のです。その素晴らしさに気づいたとき、私は他人をもっと受け入れるべきであるよ
真理を見通す力、真実への探求。これは人類が欲してやまない能力ではないでしょうか。一体全体どれが本当の事なのか分からなければ、常に疑心暗鬼になって不思議ではありません。 この場合に道標となるのは、球を捉える概念です。 ある方向からその物を捉えたとしても、球という形であるかどうかは判別できません。球体である事を理解するためには、あらゆる角度から物を捉えなくてはなりません。そうすると朧気ながら見えてきます。更に言えば、見るという行為だけでは形のみしか分かりません。そこで必要になるのは五感です。 我々人間には、視覚(見る)、聴覚(聴く)、味覚(味わう)、嗅覚(嗅ぐ)、触覚(感じる)が備わ
「人生は短い。」そう我々は先達から教わってきました。 短い人生において時間の短縮、効率化は人類の命題のように思えてならないところです。しかし、「人生」というと単なる「時間」という尺度では測れないものでもあります。 私たちの享受する技術は、一昔前の歴史と比べてみても見紛う水準に達しています。伝達という手段をとってみても、気軽に手のひらの中で会話が出来る時代となっているし、移動という手段をとってみても、徒歩から比べれば格段に高速化していることは明白です。 これは単に物事が効率化しているというだけでなく、以前より便利になり苦労せずして得られる豊かさの質が格段に上がっているという事の証左
きっとあなたはもう既に、多くの遺産を相続しているはずです。 その遺産とは、"知識"です。学問や読書をするという事は、世代を超えた知識を相続し、または今を生きる人からも贈与を受けるという事に他なりません。そして、その最高の財産である知識への門戸は、今や全ての人に開け放たれています。たとえ貧しくとも、この遺産は望んだ誰もが相続できるのです。 相続とは土地や金品を受け継ぐことだけが相続ではなく、叡智も相続するのです。誰もがこの集合知や経験知といった歴史を相続しています。 私たちは、ある人が一生をかけて培った経験や知識、一瞬の閃きがもたらした幸運、そうしたものを瞬時のうちに会得し、それら
皆さんごきげんよう、人間てのは自分の持ち物や財産が増えると中々手放せなくなってしまいます我欲や欲望や執着ってのは増え続けては減りはしない、全く厄介で恐ろしいものです自分は沢山持っているにも拘わらず、街で何か目に着くとまた欲望に火が付き求めてしまう器一杯に
わたしはよく自分に対して頭のなかで質問を投げかけることがあるんだけど、洗濯物をたたみながらふと『自分にとってひきこもり(の体験)とは?』という質問してみたら即答でこう返ってきた。 『財産』 (;゚Д゚)ヒョエーーー ひきこもり全盛期の自分が目の前にいたら『ふざけんな!』って殴りかかってくるかもしれない笑 でも、それぐらい自分にとっては本当に価値ある時間だったと今ならわかるし、とてつもない転機と変化をもたらしたのは間違いなくひきこもりという体験のおかげ。 あれだけ自分を拒絶して、あれだけ他人を拒絶して、毎瞬絶望しか感じられないドロッドロの暗黒体験があったからこそ、目が覚めたときのインパクトは本当…
今は花の季節ですね。うちの近所でも色々な花を見かけます。花が咲けば、蝶がやってくるものでしょうが、ここでは余り蝶を見かけません。ちょっと残念です。 ところで、記憶があいまいですが、私が小学1年まで暮らしていた家の近所には花畑のようなところがありました